映画の誘惑

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365日間映画日誌

日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。

2005年1月〜3月

■2005年3月31日

iPod shuffle をとうとう手に入れた。最初ヨドバシカメラにいったら在庫はひとつもなかったので、ソフマップに行くと、「今日 iPod shuffle の在庫あります。いまなら買えます」という張り紙があったので、思わず買ってしまった。

京都芸術造形大学に『Self and Others』の 佐藤真のセレクトによる「ドキュメンタリー映画の世界2005」を見にいったとき、付属品の白いインナーイヤー型ヘッドフォンをはめて音楽を聴いていたら、知り合いに「なにそれ? 補聴器?」といわれ、ショック!

それにしても軽い。ほとんどもっていることを感じないぐらいだ。わたしが買ったの 512MB 型だが、それでもアルバム7、8枚は軽く収まる。ニール・ヤング、ザ・バンド、ラヴィン・スプーンフル、ローリング・ストーンズなどなど(みんな古いね)、好きな音楽を手当たり次第にいれて、家を出るときから帰るときまで、音楽漬けだ。今のところはこれで十分だが、海外旅行に行くときは容量も大きくて、選曲も簡単な iPod mini を買ったほうがいいかも。

ソフマップで購入したDVD ドライブも届く。説明書を読む必要もないほど設置は簡単だったし、DVD のコピーも楽勝だった。DVD-R ディスクは、容量4.7GB と書いてあっても実際には、4.5GB ほどしかはいらない。だから、4.6GB の DVD をコピーしようとするとエラーメッセージがでるのだが、これを圧縮して一枚の DVD-R に丸ごとコピーすることにも成功。次は DVD-RAM の使い勝手を試し、片面二層DVD+R を使ったコピーにも挑戦しようと思う。

 

■2005年3月28日

塩田明彦の新作『カナリア』を見る。『黄泉がえり』は大ヒットしたものの、塩田作品をアマチュア時代から見てきたものとしては、相当違和感があった。塩田監督も『Shall We ダンス?』の周防正行みたいになってしまうのだろうか? そんな不安もあったが、『カナリア』では『月光の囁き』の路線に戻っていることを確認してひとまず安心した。

物語はオウム真理教を思わせる新興宗教団体がテロ事件を起こしたあと解体し、教団の教徒の大部分が社会復帰を遂げるなか、社会にとけ込めずにいる元教徒の少年が、祖父に引き取られた妹を奪い返す旅の途中で出会った少女を通じて、自分自身を引き受けまた他者との関係を築くことができるようになるまでを描く。

「オウムもの」としては正直食い足りない部分もあるが、少年と少女の冒険物語としてみればかなり面白い。ドニ・ラヴァンの若いころといった感じの風貌をした石田法嗣も、映画初主演とは思えないほど自然な谷村美月も、ふたりともすばらしい。すでにして「子供映画」の巨匠といえば塩田監督は怒るだろうか。どこかニコラス・レイの『夜の人々』を思わせもするふたりが横切ってゆく風景を見ていると、この監督は都会よりもむしろ、田んぼのあぜ道や草の生い茂る野原といった風景にことのほか想像力を刺激されるひとではないかとふと思う。冒頭と中程に出てくる二人の援助交際男の運転する車にしても、教団に初めて少年が向かうときの車にしても、あるいは主人公たちが知り合うレスビアンの運転する車にしても、元教徒の西島俊之が逃走中の教団幹部と夜のドライブをする車にしても、ここでは車のなかの空間は徹底して悪意に満ちた、あるいは非日常的な緊張をはらんだ場所として存在していることも注目すべき点だ。そういえば、少女が金を借りようとして女友達を呼び出す場所が、無数の廃車が捨てられた車の墓場であることも、そう考えるとなにか意味があるのかもしれない。

■2005年3月27日

ここしばらく家には寝に帰るだけの生活が続いたので、更新する暇が全然なかった。今日は無理だけれど、明日から日記を再開。

■2005年3月19日

先日、ニュースのコーナーでベーラ・タルの新作 "L'Homme de Londre" についてふれたが、そのプロデューサーであるアンベール・バルサンが実は2月に自殺していたらしい。あのエリア・スレイマンの『D.I.』をプロデュースした人であるといえば、相当な人物であることは想像がつく。彼はそのほかにも『炎のアンダルシア』などのユーセフ・シャヒーンの数作品、クレール・ドニの新作 "L'Intrus" など数多くの意欲作をプロデュースしており、ラース・フォン・トリアーの新作(幸いほぼ完成しているらしい)も彼の手による。バルサンが手掛けていた現在製作中の作品の大部分は、なんらかの形でそのまま撮影がつづけられるということだが、ベーラ・タルの新作だけはだれも引き受け手がなく、3月10月以来頓挫したままだそうである(バルサンの製作会社はこの企画を手放し、ほかの引き受け手を捜しているが、マラン・カルミッツにも断られたらしい。コルシカに建てたロケ・セットもほぼ解体されてしまったそうだ)。これだけでも、バルサンが勇気のあるプロデューサーであったことがわかる。

■2005年3月18日

プラネットの富岡氏の自宅のパソコンの修理を徹夜でやらされ、おかげで胃の調子が悪くなってしまった。胃薬を飲みまくってようやく快復する。まあ、その代わりに、富岡氏のDVDコレクションからほかでは見れない珍しいものを借りまくってきたので良しとしよう。ファスビンダーとか、オリヴェイラとか、R・ルイスとか、シャンタル・アケルマンのものとか、いろいろあるのだが、なかには『温柔郷』Bachelars Beware とか『小児女』Father Takes a Bride とか、よくわからない香港映画もはいっていて、いまから見るのが楽しみだ。

ところで「ストッパ胃腸薬」というのを今回初めて買ってみたのだが、これは効くのだろうか。少し環境が変わるとすぐ胃の調子がおかしくなる体質だから、水なしでどこでも飲めるというのはなかなかナイスなのだが・・・

疲れているので、今日はこのへんで。

■2005年3月15日
▽『宇宙戦争』 とオーソン・ウェルズ

この夏公開予定のスピルバーグ作品『宇宙戦争』が話題を集めている。この作品はH・G・ウェルズの原作SFの2度目の映画化だ。最初の映画化作品は、バイロン・ハスキン監督によって1953年に撮られた。小さいころあの映画をテレビではじめて見たときのことはいまだに忘れられない。あの不思議なかたちをしたUFOや、その奇妙奇天烈な動き、コミュニケーション不能の異星人、全体に漲る終末的な世界観。ほとんどトラウマというほど強烈な印象を残した映画だ。その後、ずいぶん昔にもう一度見直したことがあるぐらいで、そのあとはたしか一度も見ていないと思う。なんだかあらためて見直すのが怖い一本である。ローランド・エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』が公開されたときは『宇宙戦争』の再来を期待したのだが、あれは「失敗作」と呼ぶのもほめすぎになるぐらいのひどい出来だった。そのときのうっぷんは『マーズ・アタック』のティム・バートンがすぐにも晴らしてくれたとはいえ、スピルバーグの『宇宙戦争』には、『マーズ・アタック』のシリアス版を期待したい。

ところで、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』には、ハスキンやスピルバーグなど比較にならないほど偉大な映画監督の名前が結びついている。オーソン・ウェルズである。H・G・ウェルズの原作をベースに、オーソン・ウェルズが音声を吹き込んだラジオ・ドラマ『宇宙戦争』は1938年に放送された。このドラマは、ラジオのディスク・ジョッキー役のオーソンが軽音楽の番組を流しているところに、火星人が地球を侵略しはじめたという臨時ニュースが入るというかたちで、進んでゆく。ウェルズの実況中継のあまりのリアルさに、大勢のリスナーが本当のことだと信じてしまい、全米がパニックにおちいったという話は余りにも有名だ。

実は、このラジオ・ドラマは語学用の教材として発売されていて、わたしも買ってもっている。ところが、この日記を書くときの参考にしようと本棚を探してみたところ、わたしがもっているのは パート1 のほうだけで、後半のほうを買い忘れていたことに気づいた。しかも、そのパート1のほうの箱を開けてみたら、中のカセットが紛失してしまっている。どこかに埋もれているとは思うのだが、探すのには時間がかかりそうだ。テープに収録されているドラマは38年に放送されたオリジナルと同じものであるはずだが、パート1についているブックレットにはスクリプトが載っているだけで、詳しい解説がないので、はっきりとは断定できない。このカセットブックはどうもいまは売っていないようで、その後同じ版元からこれのCD版がでていたようなのだが、こちらもいまは品切れらしい(アマゾンの在庫が品切れなだけで、本屋で探せばふつうにおいている可能性大。それにしてもCD版の方がずっとやすいというのは納得できない)。伝説のドラマなので、CD版が手にはいるのならば、わたしもいまのうちに買っておきたいと思っている。ちなみに、同じシリーズにはいっている『ヒッチハイカー』もオーソンが吹き込んだラジオ・ドラマ(タイトルは同じでもアイダ・ルピノの『ヒッチハイカー』とは関係ない話みたいだ)。こっちはまだ聞いていないが、評判はかなりいいようなので、これも手に入れておきたい。わたしにとってオーソンはなによりも声の人なのだ。

■2005年3月13日 
▽ イーストウッド自らを語る

BSで「クリント・イーストウッド自らを語る」を見る(『ミリオンダラー・ベイビー』のアカデミー賞受賞を見計らっての放映か? 『アビエイター』が受賞していたら、「スコセッシ自らを語る」の再放送が流されていたかもしれない)。インタビューは、イーストウッドの生い立ちから、マカロニ時代、「ダーティ・ハリー」シリーズ、『許されざる者』などを経て、この時点では全米公開直前だったとおもわれる『ミスティック・リバー』にいたるまで、彼の一生を振り返るかたちで進められる。若いころは演劇の世界にはまったく興味を持っていなかったこととか、撮影を始めるときに「アクション」といわない理由はなぜかとか、監督と主演をかねる難しさを物語るエピソードとして、『マジソン郡の橋』でメリル・ストリープとのラブ・シーンを撮影中に、キャメラには写っていない彼女の背中ごしに手でスタッフに指示を送っていたことなど、興味深い話が聞けて面白かったが、それ以上に、ほとんど5分おきに会場を笑わせるイーストウッドの抜群のユーモアセンスに魅了される。アクターズ・スタジオの俳優がもてはやされた時代に、だれもかれもがマーロン・ブランドの真似をしたことを皮肉って、手術をする神経外科医をマーロン・ブランドの声音をまねて演じて見せたときなど大爆笑だった。インタビューは『ヨーク軍曹』の話で始まり、『ヒズ・ガール・フライデー』の話で終わる。この偶然の一致は、イーストウッドがアメリカ映画史を新に受け継ぐものであることをはからずも示していた。

図書館で、"Eleven" (Patricia Highsmith), "The best of Roald Dahl", "I sing the body electric!" (Ray Bradbury) の短編集三冊を借りてくる。気軽に速読できそうなものばかり選んだ。ブラッドベリの短編集は、だいぶ前に文庫を買ってポケットに入れて持ち歩いていたら、大阪のシネ・リーブルのトイレの便器に落としてしまい、まだほとんど読まないうちに再起不能になってしまった因縁の本だ(と思ったのは勘違いで、あれは『よろこびの機械』だったことを思い出した。こっちの邦題は、『歌おう、感電するほどの喜びを!』である。「喜び」つながりだがまったく別の本だった)。

とりあえず、パトリシア・ハイスミスから読みはじめる。冒頭の短編 "The Snail-Watcher":ナメクジの生態に魅せられた男が、繁殖に繁殖を重ねて書斎を埋めつくしたナメクジによってついには圧死してしまう物語。あいかわらずである。これなんか "Animal Lover's Book of Beastly Murder" にはいっていてもおかしくない(ナメクジはいちおう動物、ですね?)。

■2005年3月11日
▽ジム・トンプスン『内なる殺人者』

shuffle にするか mini にするか。それが問題だ。

軽量安価な ipod shuffle か、容量充実の mini か。どっちにするかでうだうだと悩む毎日。

それはさておき、ジム・トンプスンの"The Killer inside Me" を読み終えた。面白い。最近読んだミステリーのなかではダントツに面白い。これはエルロイ以上にはまるかもしれない。少なくとも、わたしの好みには見事にはまった。

この小説は、ある異常性格の保安官補が殺人に殺人を重ねて破滅していく様を、彼の一人称の語りで描いている。なによりも、この主人公のなんとも複雑な性格描写が見事だ。この男は、町の鼻つまみ者の少年に対して父親のような優しさを見せたかと思うと、その少年を自分の身を守るためにあっさり殺してしまう。ナイーヴといっていいほどの善良なうわべと、うちに秘めた恐ろしいほどの暴力性。行動パターンは狂っているといってもいいのに、思考回路は論理的に首尾一貫している。いったいこの男はなんなのだ。読み終えたあとで、この主人公がいわば心地よい謎として頭の中にこびりつく。こういう謎なら歓迎だ。

読みながら自然とドストエフスキーの名を思い浮かべたのだが、実はそれはわたしだけではないらしい。トンプスンについては「安物雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキー」という呼び名がすでに定着しているらしいのだ。このニックネームがいけてるかいけてないかはともかく(あんまりかっこよくないような気もするが)、トンプスンがドストエフスキー的だというのは間違っていない。わたしが思い浮かべるのは、とりわけ『地下生活者の手記』のドストエフスキーだ。ここでの〈地下室〉は "inside" 、つまり、殺人者の頭の中にまで還元されている。

You've got forever, but that's no time at all.
You've got forever; and somehow you can't do much with it. You've got forever; and it's a mile wide and an inch deep and full of alligators.

これは終わり間際の一節。証拠になりそうな奴らは全部殺してしまった。これですべてうまくいくはずなのに、家の周りは警官に囲まれている。時間は永遠にあるのに、ほとんどないのと同じ。時計はいつ見ても止まっている。そして最後の最後に、まさかの結末が待っている・・・

最高傑作といわれる『ポップ1280』と、埋もれた傑作といわれる『サヴェッジ・ナイト』も早速買って読まなければ。ただ、問題は英語で読むか翻訳で読むかだ。英語で読んでいると若干スピードが落ちてしまう。英語の微妙なニュアンスを味わいながら読むほうをとるか、翻訳で辞書に煩わされることなくサスペンスを味わい尽くすほうをとるか。それが問題だ。

まったく、いろいろ悩ましい問題が多くて困る。

■2005年3月9日
▽ロバート・シオドマク『裏切りの街角』

ロバート・シオドマクの "Criss Cross"(『裏切りの街角』)を見る。Amazon.com で買った北米版。字幕ははいってないものと思っていたが、英語・フランス語・スペイン語の字幕がはいっていたのはラッキーだった。ただ、この英語字幕が前代未聞のものだった。

海外版のDVDにつけられた字幕にはかなり手抜きしたものがたまにあるが、このDVDの英語字幕は逆に丁寧すぎて困ってしまう。ナレーションの字幕とか、人物の会話をカットを割って見せるところはふつうに画面中央下部に字幕が出るのだが、たとえば部屋の中で数人の人物がしゃべっているところを部屋全体をとらえたショットなどで、右の人物が話すときには画面右下に字幕が出、左の人物が話し始めると今度は画面右下に字幕が移動し、真ん中の人物が話すときにはなんと画面の真ん中に字幕が現れるのだ(幅を抑えるために字幕は3行になることもある)。語り手が次々と変わる場面では、字幕が画面のあちこちに現れてうっとうしいことこの上ない。これには閉口した。フランス語字幕のほうはふつうの付け方になっているのだが、いくらフランス語はできるといっても、セリフが英語で字幕がフランス語というのは思いの外ついていくのがしんどい。結局我慢して英語字幕で見てしまった。

"Criss Cross" は『殺人者』で知られる巨匠ロバート・シオドマクが49年に撮ったフィルム・ノワールで、日本では『裏切りの街角』というタイトルで公開されている。あまり有名ではないが、海外での評価と知名度と日本でのそれがかなり開きがある作品の一本である(この映画はゴダールの『映画史』にも引用されている)。主演は『殺人者』と同じバート・ランカスター。ランカスターが、femme fatale(
イヴォンヌ・デ・カーロ)の魅力に魅入られて犯罪に巻き込まれ、滅んでいく様が描かれる。もっとも、イヴォンヌ・デ・カーロにはフィルム・ノワール的な悪女のオーラは乏しく、たんに利己的で打算的な女という感じだ。『殺人者』と同様に映画の大半がフラッシュバックで構成され、運命論的な雰囲気を醸し出している。フィルム・ノワールの見本のような映画だ。

現金強奪の場面でダン・デュリエに裏切られ傷ついたランカスターが病院のベッドから部屋の鏡越しに廊下をのぞき見る非常にサスペンスフルな場面など、すばらしい場面が多々あるのだが、個人的には『殺人者』同様いまひとつのれなかった。あまりにも古典的によくできすぎているせいかもしれない。シオドマク作品ならわたしは『らせん階段』や『暗い鏡』などのニューロチックなサスペンスのほうがずっと好きだ。

ところで、シオドマクはビリー・ワイルダー、エドガー・ウルマーなどとともにドイツでキャリアを始めているのでいままでずっとドイツ生まれだと思っていたが、生まれたのはアメリカであることを最近になって知った。どういう経緯でドイツに渡ったのか調べてみる必要がある。

■2005年3月4日
▽The Killer inside Me

Jim Thompson の "The Killer Inside Me" を読みはじめる。偶然だが、"The Chill" と同じ VINTAGE CRIME 叢書の一冊である。"The Chill" にくらべると少し読みにくいが、それほど難易度の高い英語ではない。まだ百ページも読み進めていないが、非常におもしろい。表紙には "Probably the most chilling and believable first-person story of a criminally warped mind I have ever encountered." というスタンリー・キューブリックの言葉が印刷されている(ジム・トンプソンはキューブリックの『現金に体を張れ』と『突撃』の脚本に関わっていたので、ここにキューブリックの言葉が引用されているのは別に不思議ではない)。この小説は、ある保安官補を主人公にした一人称で書かれているのだが、この保安官補というのが相当なくせ者なのだ。小説の最初のほうで、この男がふつうでないことはすぐにわかるのだが、彼が少年時代に起こした事件の全貌もまだ明らかでないし、まだまだ先が読めない。これからの展開が楽しみだ。ちなみに、トンプソンの原作を映画化したものには、『ゲッタウェイ』『グリフターズ』などの名作も多い(スティーブン・フリアーズでわたしが好きなのはこの『グリフターズ』だけだ)。

暴力と血にまみれた犯罪小説を読むかたわら、Charles-Louis Philippe の短編と Zola の初期短編を読む。Philippe でわたしがとくに好きなのは、"Alice" や "L'Enfant Tetue" などの作品だ。"Alice" では、それまで末っ子でかわいがられていたアリスが、新しい赤ちゃんが生まれたことで母親の自分に対する愛情が薄れてしまったと思い、親と一切口をきかず食事も食べなくなってしまう。そして本当にそれが原因で死んでしまうところがすごい。"Elle mourut de jalousie, a l'age de sept ans."

"L'Enfant Tetue" にも非常に頑なな少女がでてくるのだが、こちらの描き方は少し違っている。いったん頑なな態度を取ってしまったために、もうどうしても引くことができなくなってしまうという事態が描かれる。頭ではそろそろ折れようと思っても、なにか鉛のようなものが頭のなかにできてしまってどうしてもそれができないという経験は自分にもあり、とても興味深かった。むかし福武文庫で『フィリップ傑作短編集』というのがでていたがいまは絶版になっている。いま手に入るものとしては、『小さな町で』などがある。

Zola に関してはわたしはあまり熱心な読者とはいえない。しかし、初期の短編を読んでみて、自分の思っていたイメージとはだいぶ違う作品が並んでいるので、正直少し意外だった。"Les Repoussoirs" は、ほどほどの美人を引き立てるためのブス女を派遣する会社を設立する話、"Une Victime de la reclame" は広告が原因で死んでしまう男の話。いずれも、19世紀末の大衆社会の成立を背景にした、ちょっと風刺の効いた作品である。上流家庭に飼われている猫の家出と挫折を描く "Le Paradis des chats" というのもある。Philippe にも "Le Chat dans le beurre"「バターの中の猫」という名作がある。中沢新一が短編小説のベスト3のひとつにあげていた作品だ(これらも含めていずれそのうち猫を描いた小説をホームページでリストアップしてみようかと思っている。まったく映画とは関係のない話で申し訳ないが)。ゾラの初期短編は『ゾラ・セレクション (1) 』で読める。

■2005年3月2日
▽ジェイムズ・エルロイと暗黒のアメリカ

イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』がアカデミー賞で作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞の4冠を受賞したのは、まずはめでたい。スコセッシとディカプリオには残念だったが、ほかのところでもらいすぎるほどもらったからもういいだろう。

ところで、その話題の『アビエイター』のなかでディカプリオが演じているのが、ハリウッドのプロデューサーとして名高いハワード・ヒューズの若かりしころであることは、もうすでにTVなどのメディアを通じて皆さんご存じのことと思う。ハワード・ヒューズはハリウッドというか、アメリカの歴史上まれに見る変人として知られる人物であるが、彼がその変人ぶりを遺憾なく発揮するのは、映画に描かれた青年時代よりはもう少し後になってからといえるかもしれない。いや、ふつうの人から見たら若いころから十分変わり者だったかもしれないが、晩年になると政財界の大物やマフィアとも広いつながりをもつようになり、ますますスケールが大きくなってくるのだ。まあ、いろんな意味でやっかいな男だったことは間違いない。

話は変わるが、ジェイムズ・エルロイの『アメリカン・タブロイド』という小説がある。この日記でもすでに何度かふれた。ジャンルとしては一応ミステリーということになるのだろうか。J・F・ケネディが大統領に就任する直前から、彼が暗殺されるまでの数年間をヴィヴィッドに描いた政治的犯罪小説、というよりも陰謀史観からとらえられたアメリカ現代史とでもいうべき本だ。『アビエイター』では、プロデューサーであったヒューズがハワード・ホークスを解雇して自らメガホンをとった映画『ならず者』のエピソードも出てくるみたいだから、『アビエイター』は『アメリカン・タブロイド』の約20年ぐらい前に時代設定されていると思われる。そんなことをなぜいうかというと、実は、この『アメリカン・タブロイド』という小説は、冒頭いきなりハワード・ヒューズが自分にヤクの注射を打っている場面から始まるのだ。もっとも、別にヒューズが主役というわけではない。というか、これは主役がひとりもいない小説だと言った方がいいだろう。エルロイは、ケネディやFBI長官のフーバーといった実在の悪人たち、そして彼らのまわりを右から左へ、左から右へと(政治的にも右から左、左から右という感じで)動きまわる小悪人たちを、まるで見てきたかのように至近距離から描き出していくのだが、その悪人たちのひとりとしてハワード・ヒューズは登場するにすぎない。それでもこれを読めばハワード・ヒューズがどんな男だったか充分伝わってくるはずだ。

『アメリカン・タブロイド』は〈アンダーワールドUSA三部作〉と呼ばれるシリーズの一作目に当たる。すでに二作目の『アメリカン・デス・トリップ』までは邦訳がでている。この三部作のまえに、ハリウッド・スターにあこがれて都会にやってきた女性の惨殺事件を描く『ブラック・ダリア』にはじまる〈ロス暗黒史四部作〉というのがあって、映画化されて話題になった『L.A. コンフィデンシャル』もこの四部作のひとつだ。あの映画は結構評判が高かったが、原作を読めば映画のほうはオリジナルをただ器用にまとめただけにすぎないことがわかるはず。この辺のエルロイ作品は、特にアメリカ映画に興味がある人に是非読んでもらいたい。ここには闇のアメリカ現代史と同時に、裏ハリウッド史とでもいったものが描かれているからだ。本など読まないという映画ファンも、読んで損はないと思う。(聞くところによると、青山真治もエルロイのファンらしい)

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■2005年2月27日
▽ロス・マクドナルド『さむけ』

寝るまえに読むだけだったので1週間近くかかってしまったが、やっと "The Chill" を読み終えた。家族、というか崩壊した家族にまつわる因縁話で、人間関係はかなりややこしいのだが、英語自体は非常に easy なものだ。エルロイの "American Tabloid" を読んで以来失いかけていた自分の英語力についての自信を、やっとこれで取り戻すことができた。その意味で、いいリハビリにはなったのだが、個人的にはエルロイのほうがいまの私の趣味には合っている。わたしはつくづく「謎」にはあまり興味がない人間なのだということがこれを読んでよくわかった。"The Chill" はいわゆる「ハードボイルド」作品なので、本格的な謎解きものではないのだが、それでも、ある連続殺人の真犯人はだれかという謎が、小説の最後の最後まで読者を引っぱってゆく形になっているという点で、「謎」に支えられた小説であることには変わりない。「謎」が小説の中心として機能すればするほど、簡単にいえばミステリーが本格推理ものに近づけば近づくほど、わたしには作品全体が最後の謎解きにいたるまでの非常にムダな回り道に思えてきてしまうのだ。

ともあれ、"The Chill" の結末には驚かされた。この本は非常に有名なものなので、読むまえからいろいろ雑音が耳に入っていたため、ある程度予想はしていたのだが、それでもあっと驚く結末が終わり間際の数ページに待っているのだ・・・。

村上春樹がロス・マクドナルドの大ファンなのは有名な話。「リュー・アーチャーものはみんな尻尾の先まで好き」だそうだ。ちなみに、リュー・アーチャーは映画『動く標的』でポール・ニューマンが演じた探偵の名前で、"The Chill" でも活躍する。

■2005年2月24日
▽片面2層DVD

パソコン関係のつまらない問題でしばらく頭を悩ませていたので、ずいぶん時間を無駄にしてしまった。中身がどうでもいいことがわかっているファイルでも、開かないとなるとどうしても開けてしまわないと気がすまない。どうも自分には完全主義者的なところがあるので困ってしまう。タイトルは忘れてしまったが、香山リカの本を読んでいたら、迷っても人に道を聞けないのは完全主義者タイプの人に特徴的な行動だと書いてあった。わたしはまさにこのタイプの人間だ。はじめていく映画館にいく途中で道に迷ったときでも、人に尋ねるよりは上映時間をひとつずらしてまで自分で目的地を探そうとする。自分には完全主義者的なところがあるとは思っていたが、迷っても道を聞けないのがこの性格から来ているとは気づかなかった。

それはともかく、120ギガバイトあるハードディスクももう残り少なくなってしまい、毎日が空きスペースを作るための戦いになっている。いよいよDVDドライブを買うべきときが来たようだ。最近では片面2層レイヤーというのが主流になりつつあるらしい。これがどのくらい使い物になるのかは不明だが、片面で(つまり裏返したり、分割したりと面倒なことをすることなしに)9ギガバイトのデータを収録できるというのは魅力だ。これなら(ここでは書けないような)いろんな事に使えそうだ。もっとも、片面2層メディアというのをデパートで売っているのを見たことないのだが、この先普及するのだろうか。メディア一枚が千円を超えるとなると、あまりメリットはないし・・・。DVD録画における2時間を超える壁。早くなんとかならないものか。

■2005年2月19日
ジョルジォ・フェローニ『生血を吸う女』

Amazon.com で北米版のDVD を大量に購入。さっそく、ジョルジオ・フェローニの "Mill of the Stone Women"(『生血を吸う女』)を見る。黒沢清が『恐怖の映画史』などで再三言及しているイタリアン・ホラーで、前から見たかったものだが、正直それほど期待してはいなかった。黒沢清のパーソナルな思い入れがたっぷりはいっていそうだし、まあ黒沢清を理解する助けになればいいかと思って、好奇心から買ったのだが、これは意外とよくできた佳作だった。

ただし「生血を吸う女」という邦題にはちょっと首を傾げてしまう。たしかにこの映画には、血がしだいに汚れていってやがて死んでしまうという不思議な病気にかかっている女が登場し、彼女のマッドサイエンティストめいた父親が村の女をさらってきてその生き血を娘に輸血する場面がでてくる。「フランケンシュタイン」を思わせるその手術=実験の場面で、父親と彼に取り入って娘を妻にしようと思っている共犯者の医者が、すでに死んでいる娘の汚れた血を機械で吸い出し、さらってきた村の娘の生き血を同じ機械で娘に注入するのだ(でも、べつに自分で吸ってるわけじゃないですから、残念!)。すると死んでいたはずの娘は生き返るわけである。どうやらこの女はこうした形で生と死のあいだを何度も行き来してきたらしい。はたしてこの女は生きているのか死んでいるのか。

女が住んでいる風車小屋には、大学で美術を教えている彼女の父親が作った巨大なからくり舞台が設置されている。スイッチを入れるとその舞台の上を、魔女のような老婆とか、首をくくられた女とか、不気味な姿をした人形たちが練り歩いていくのだ。生命のない人形たちが、まるで生きているかのような妖気を漂わせながら、舞台をめぐって消えてゆく。スイッチを切らなければ、彼らは舞台の上を永遠に回転しつづけるのだろう。これは、生と死のあいだを行き来しつづける女というこの作品のテーマとも見事に呼応する。考えて作っているとしたら、なかなかのものだ。

タイトルを見てきわもの映画を期待しているとがっかりするかもしれない。むしろ上品で格調高い作品である。オランダが舞台になっていて、随所にカール・ドライヤーの『吸血鬼』を思わせる場面が登場するのも興味深い。監督は意外とインテリなのかもしれない。

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Amazon.com で Ross Macdonald の"The Chill" と Jim Thompson の "The Killer inside Me" を買う。どちらもミステリーファンには今更というほど有名なものだが、しばらくミステリーは読んでなかったので、英語の勉強をかねてこの辺で一挙にそのブランクを埋めてしまおうという魂胆だ。まずはロス・マクドナルドの『さむけ 』を読みはじめる。James Ellroy の "American Tabloid" を読んだあとでは、嘘のようにすらすらと読み進められる。事実を淡々と描写していくまさにハードボイルドの文体。ペーパーバックの入門としては最適化もしれないが、こういうのを読んでいるとついつい自分が英語の天才ではないかと思えてしまうのが問題だ。

"Looking for someone?" she said.
"Just waiting"
"For Lefty or for Godot? It makes a difference"
"For Lefty Godot. The pitcher"
"The pitcher in the rye?"
"He prefers burbon"

洒落た会話ですね。でもこの女の人すぐに殺されちゃうんです。

■2005年2月15日
▽『キシュ島の物語』

キシュ島の物語 』:ジャリリの短編は悪くない。冒頭、男が電話をかけているところ、面接の場面でのやりとり。ここだけが説明的な部分で、あとは注意深く見ながら推測するしかない。どうやら男はキシュ島でガソリンスタンドの仕事を始めたらしい(といっても、事務所をかねた粗末な小屋でひとり寝起きする、孤独な仕事だ)。貝殻に溶かした鉛を流し込んでいるショットがなんの説明もなく映し出され、ついでつり下げられた鉛のクロースアップが挿入される。どうやら釣りのおもりを作っていたらしい。ガソリンスタンドの仕事をするかたわら、すぐそこに見えている海で釣った魚を売りさばいているのだ。一見ロビンソン・クルーソーのような世界が展開する。しかし、男が横切っていく風景のなかには、文明の廃墟を思わせるさびた鉄くずの山が広がっており、なにやら巨大な工場がうなり声をあげている。タイトルにもなっている「指輪」を男が買いに行くのは巨大なスーパーマーケットだ。キャメラは終始引きの位置からすべてを冷ややかに見つめるだけだが、その一方で、決してグローバルな視点から全体が提示されることはない。全体を組み立てるのは観客の仕事だ。

わたしはジャリリの映画はどうもいまいちピンと来ないのだが、この短編は悪くないと思った。一言でいうと、短いのがよかった、ということになる。実際、映画の作り方自体は『少年と砂漠のカフェ』となんら変わりないものだ。しかし、30分の短編をそのまま2時間にのばしたら長編映画になるというものでもないだろう。ジャリリはひょっとしたら短編のほうがむいているのかもしれない。ちなみに、この作品は3人の監督のオムニバスなのだが、マフマルバフともうひとりの短編は、大したことはない。両方とも口数は少ないが、しゃべりすぎなのだ。

■2005年2月10日

ロシア語を勉強しはじめた。いきなり文法書とか会話の本とかではくじけてしまいそうなので、とりあえず文字からだ! ということで、『ロシア語のかたち 』という本を買ってきた。100ページほどの薄い本(しかも、右半分はほとんど写真)なので、あっという間に読み終わる。文法とかの説明は一切なく、キリル文字を読めるようにすることだけを目標にすえた本で、遊び感覚で読み進めながら文字の読み方が身につくというなかなかナイスな本だ。ふつうのロシア語入門書だと少し敷居が高いが、文字を読むだけということならあまりプレッシャーもない。ロシア語の入門書としては最適ではないかと思う。

キリル文字は、半分は見たこともない文字だが、あとの半分は英語のアルファベットに似ている。実はその似ているやつがくせ者なのだ。たとえば、P のつづりは「パ」とか「ぺ」じゃなくて巻き舌で「ラ」とか「レ」といわなくてはならない。HA は 「ハ」ではなく「ナ」と読む。ロシア語には i の文字は使われなくて、ロシア語っぽく見えても i がはいってたらそれはベラルーシ語だったりするわけ。興味ないですか、こんな話? エイゼンシュタインやミハイル・ロムの映画が原題で読めるようになりますよ。

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ディケンズの『荒涼館』は2巻目あたりからやたらおもしろくなりはじめ、読み出したらやめられなくなってしまった。2巻目は人体自然発火の場面で終わる。そう、トビー・フーパーの『スポンティニアス・コンバッション 』で描かれたあれだ。まさかディケンズに、スポンティニアス・コンバッションが出てくるとは思わなかったのでたまげてしまったが、ディケンズの時代には、酒浸りの人間が身体にたまったアルコールのために自然発火を起こすことがあると信じられていたらしい。ディケンズもそれを本気で信じていたようだ。そういえば、トビー・フーパーの新作が去年ひっそりとビデオになっていたことを、いまごろ発見した。『ツールボックス・マーダー 』。どうやら、トビー・フーパーファンの反応もイマイチの作品らしい。とはいえ、わたしの結構好きな『スポンディニアス・コンバッション』だって、相当評判は悪かったわけだから、油断はできないぞ。しかし、近くのレンタル・ビデオ屋には絶対おいてないだろうな。

■2005年2月7日

BOOK-OFFでまた古本あさりをしてしまった。創元推理文庫の「ラブクラフト全集」が揃ってでていたので、3冊購入。すでに2冊持っていたが、昔でていた表紙が全部黒いカバーのやつでそろえたかったのだ。しめて850円也。安い。マルケスの『エレンディラ』(サンリオ文庫)が200円で売っていたのでこれも購入。もちろん絶版。こんなのいくとこいけば千円はしますよ。これもすでに持っていた(はずの)ものだったが、高い値を付けてどこかに転売しようと思って買った──のだったが、実は持っていなかったことが判明(残念)。

ミッシェル・シオンの『映画にとって音とはなにか』が半額近い値段で売っていたので、これも買ってしまった。『映画の音楽 』の翻訳版はバカ高いので、フランス語の原書を買ってあるのだが、まだ全然読んでない。よけいなものを読んでいる暇はないのだが、まあこの分野に関しては権威者だし、ドゥルーズの『シネマ』にも結構な影響を与えている本だ。やはり押さえておこう

■2005年2月3日

京都国立近代美術館に「草間彌生展 永遠の現在」を鑑賞してから、七藝に森崎東の新作『ニワトリはハダシだ』を見にいく(忙しい)。

60年代から現在にいたるまで世界の最前線で活躍しつづけている女性アーチスト草間の作品を回顧する大規模な展覧会では、迷路のような鏡張りの部屋や、なかにはいると自分の服が輝いて見える部屋など、画集を見ているだけでは決してわからない不思議な体験ができる。水玉や網の目といった草間作品にくり返し現れるモチーフは、一言でいって「小さな粒子の増殖」と呼ぶことができるかもしれない。それは彼女がこだわる「自己消滅」というテーマとも密接に絡みあっている(会場では彼女が60年代に自ら監督した映画「自己消滅」を鑑賞可能)。

今回の展覧会は、初期作品と近作が同列に並べられて展示されるなど、クロノロジーにはあまりこだわらないかたちになっているのだが、それでもあまり違和感がないほど、彼女の作品はある意味一貫している。とはいえ、「小さな粒子」はゆるやかに進化をつづけていき、最初は作品を構成する一要素にすぎなかったものがやがて自立性を帯びるにいたる。

ウルトラ前衛といっていい草間作品だが、別に小難しく考えなくても遊び感覚で充分楽しめるのも草間ワールドの魅力だ。事実、売店の草間グッズには若い女の子たちが群がっていた。ただ残念なのは、国立近代美術館は見た目の割にはなかはけっこう古風な作りなので、草間のインスタレーション作品にはそれほど適しているとは思われないこと。欲をいえば、もっと自由な空間で作品を見たかった。

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森崎東の『ニワトリはハダシだ』は、『生きているうちが花なのよ宣言』から6年ぶりの新作ということで、少々長いブランクが開いているのでどうかなと思って見にいったのだが、そんな心配は杞憂だった。冒頭からいきなり屁だの糞だのと糞尿まみれではじまり、あいかわらずだなと思うのだが、それでも下品にならないところが森崎東のいいところだ。糞尿は彼の映画のパワーなのだ(?) 船が行き交い、車が疾走し、人が動く。一瞬も休むことなくすべてが動いている。映画は活劇だ、ということをひさしぶりに思い出させてくれた作品だ。必見!

七藝では2月12日から森崎東の回顧上映が予定されています。

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■2005年1月31日

ヒッチコック『三十九夜』The Thirty-Nine Steps。「三十九夜」というのはどういう意味なのか。 そもそもこれは一夜を挟んだ二日間の話なのだし、よくわからない邦題だ(リメイク版のほうは素直に『三十九階段』と訳されている)。ヒッチコック作品では他に、Sabotage が『サボタージュ』、Saboteur が『逃走迷路』という邦題になっていて、原題を知っているとかえって紛らわしい。

さて、『三十九夜』は、無実の男性が逃避行をつづけるなかで知り合った女性とともに真犯人を追いつめてゆくという、いかにもヒッチコック的な物語である。警察に追われたロバート・ドーナッツが人混みに紛れて入り込んだ公会堂で人間違いされて講演することになってしまうエピソードは、『第三の男』でパクられていたが、サブの『アンラッキー・モンキー』でもこのエピソードは使われている。

ヒッチコック『間諜最後の日』(わたしはこの作品と『海外特派員』がときどきごっちゃになる)。スイスにはなにがある。チョコレートだ──。というわけで、スパイのアジトはチョコレート工場に設定される。オランダなら風車だし(『海外特派員』)、アメリカなら自由の女神(『逃走迷路』)であり、ラシュモア山だ(『北北西に進路を取れ』)。単純な発想である。しかしそれでいてヒッチコックの映画がなぜ「火曜サスペンス劇場」のような観光映画には決してならないのか、もう少し真剣に考えられていいだろう。

(まだ読んでいない人はいないと思うけれど、ヒッチコックを知るには、というか映画を知るには、『ヒッチコック映画術』は必読です。これはフランソワ・トリュフォーが敬愛するヒッチコックに対しておこなった長編インタビューを、山田宏一がかぎりない愛を込めて訳した真の名著です。あらゆる映画本のなかのベスト3に入る本といっていいマストのひとつなので、まだ読んでいない人は迷わず買いに行きましょう。)

■2005年1月27日

DVDレコーダーを買ってからというもの録画の観念がすっかり変わってしまった。とりあえず気になるものはすべてEGPで予約して録画し、見ては消し見ては消しというぐあいにやっていくので、生で見ているよりも録画再生で見ている時間のほうが多くなる。ソニーのスゴ録は標準モードでもオリジナルとほとんど遜色がない画質なので、たまに生番組を見ているときに録画と間違えて早送りをしそうになることがあるくらいだ。

さて、いまNHKは非常に評判が悪いのだが、わたしがDVDレコーダーを使って録画する番組の7割はNHKである。映画をのぞいたら9割方はNHKの番組かも知れない。語学番組はすべて録画し、EGPで「科学」とか「美術」とか「歴史」とかがつく番組を検索してすべて録画予約していくと、結果的にそうなってしまう。なんだかんだいってもNHKはためになる番組をやっているわけだ。エビジョンイルの辞任騒動につづいて、安部なにがしが圧力をかけたかけないの茶番劇(話をよく聞けば、どっちもどっちの、程度が低いケンカです)が降ってわいたように起こり、国営放送にするとか、民営化するとかいろんな話が出ているが、わたしとしては、基本的にいまの国民放送的なスタンスのまま、なんとか改革していってほしいと思っている。とはいえ、自浄作用はあまり期待できそうにもないし、どうしたものか。

それにしても、シネフィルというのはまあいってみれば「見ること」の達人であるべきはずで、こういう問題についてはそのへんの人以上に敏感に反応して、ちゃんとした意見を持ってる、というふうに思いたいが、実際には、彼らは映画以外のことにはほとんど興味を持っていない。本も読まなければ、新聞も読まないし、テレビさえ見ていないのではないか──とわたしには思えるのだが・・・。

そうそう、草間彌生の展覧会もそろそろ終わりかけているので、込んでくる前にいっておかなければ。

■2005年1月26日

ディケンズの『荒涼館』を読みはじめる。人物や場所の描写がすごすぎて、150ページほど読み進めてもいまだにストーリーが見えてこない。舞台となる建物の描写はまるで迷路というか、不可能な建築としか思えず、イメージするのが困難だ。ディケンズ作品は度々映画化されているが、これはまだ映画化されていなかったと記憶している。CGを使えばごまかせるだろうが、あの舞台をセットで作り上げるのは大変だろう。

昨日古本屋で『映画の神話学』の非常にいい状態の単行本を見つけたので思わず買ってしまった。もちろんすでにもっている本だったが、ほとんど新品といっていいほど完璧な状態だったので、つい手がでてしまった。この本はわたしが高校時代に読んで、人生が変わってしまったといっていいぐらいの本なので、ひときわ思い出深い。当時買ったのも古本だったので、カバーが傷んでいたりして少し古ぼけてしまっている。残念だが、アマゾンで古本として売ることにした。蓮實の本はこれも含めて文庫化しているものも多いが、単行本版は見開きがスクリーンのサイズになっていたりと、装幀に凝っているので、ぜひ単行本版で手に入れておきたいものだ。

先々週見つけて、買うのを留保していたゴーゴリの『死せる魂』はさっそくだれかに買われてしまっていた。もったいないことをしたが、これだけの作品なのでそのうちどこかからまた文庫がでるだろう。『集英社ギャラリー「世界の文学」ロシア1』はなかなかのラインアップだが、5000円近い値段がネックだ。わたしとしては『死せる魂』とチェーホフの短編が2000円以内で手に入れば満足なのだが。それと、今回調べているうちにナボコフのゴーゴリ論が品切れになっていることが発覚した。ううむ・・・、あらゆる本を買うわけには行かないが、こう次からへ次と絶版になってもらっては非常に困るのだ。悪書が良書を駆逐するというのが世の常だから、これも仕方がないと諦めるしかないか。いい本は気長に待っていれば必ず帰って来るものだし、悪い本はそのうち必ず消えていく(と思いたい)。『チーズはどこに消えた』もそろそろどこかに消えたんじゃないか。

■2005年1月24日

内田百けん『百鬼園随筆』。ひたすら金をめぐる貧乏談義。

「借金取りに払う金をこしらえるために、借金して廻るのは、二重の手間である。むしろ借金を払わない方が、借金をするよりも目的にかなっている。じっとしていてできる金融手段である」ものすごい論理。

「百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。ものの本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或いは、さらに考えていくと、金はたんなる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。」

猫好きにとっての影のバイブル『ノラや』も、感動と笑いの傑作エッセイです。

■2005年1月21日

ブッシュが勝とうがケリーが勝とうが、あんまり変わりはなさそうだと思っていたが、こうしてブッシュが大統領に就任し、ラムズフェルドが留任し、ライスが国務長官になりというぐあいに、ずらりと並んだいやな顔をいざ目にすると、じわじわと憂鬱な気分に押しつぶされそうになる。

ところでわたしがいつも不思議に思うのは、ブッシュがというか、アメリカの大統領が演説したりするときに、いつもその後ろに大臣や軍服を着た人間やときには子供たちなどが、彼らと同じ方向に視線をむけて立っていることだ。あたかも自分ひとりでは力不足であるから、大勢の視線の力を借りる必要があるとでもいったぐあいである。これは日本の総理大臣が演説するときとの視線の関係とはずいぶん違う。わたしはこういう場面を見るといつもヒトラーの演説するところを写した記録映像を思い出してしまう(この視線の等方向性については、もっと突き詰めて考える必要がある。スラヴォイ・ジジェクがヒトラーとスターリンの演説の違いについて書いたくだりがどこかにあったはずだが、あれはどこだったか?)。

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ホークスの『バーバリー・コースト 』。終わり間際の船の場面で、銃に倒れてもうろうとしているジョエル・マクリーに、彼のためにE・G・ロビンソンと行くことを決意した恋するミリアム・ホプキンスがつかの間の希望の言葉をかけてやっている。それを横目で見ているロビンソンが一瞬見せる表情。その一瞬の表情を見ただけで、彼がホプキンスを恋人と一緒に行かせてやることを決意したことがわかってしまう。凡百の監督なら10分以上かけて無様な結果しか出せないところを、ロビンソンの演技は、ホークスの演出は、ほんの数秒で見せてしまう。これが優れた映画の「速度」というものだ。レニー・ハーリンの『ドリブン』にはこんなスピーディな瞬間は最初から最後まで皆無である。

シドニー・ギリアット『絶壁の彼方に』。前々から見たいと思っていた映画なのだが、何のことはない普段よくいくビデオショップに堂々と置いてあるのに先日気づいた。英国アクション映画史上の傑作といわれる作品だ。たしかにその名に恥じない作品である。監督は、ヒッチコックの『巌窟の野獣』(39) 、『バルカン超特急』(38)などの脚本家として知られるシドニー・ギリアット。だから、たしかにお話はおもしろいのだが、ヒッチコックの映画からオーラを取り去ったあとに残ったような作品という印象も否めない。主演はフェアバンクス・ジュニア。相手女優が弱すぎる。

■2005年1月18日

ヴァージニア・メイヨが亡くなった。個人的にはあまり好きな顔ではないのだが、まあそんなことはどうでもいい。往年のハリウッドの美人女優のひとりだ。1920年生まれ。初期は『虹を掴む男』(47)などの ダニー・ケイのコメディものなどに多数出演。わたしのなかでは彼女は、『白熱』(49)、 『死の谷』(49) 、『死の砂塵』(51)、『艦長ホレーショ』(51) などのウォルシュのアクション映画の傑作のヒロインとしての印象が強い。その他には、ホークスの『ヒット・パレード』(48)、ワイラーの『我等の生涯の最良の年 』(46) 、ジャック・ターナーの『快傑ダルド 』など多数。『L.A.コンフィデンシャル 』に本人の役で登場しているというのだが、全然記憶にない。だれかこの機会に、彼女の晩年の出演作『決闘ウエストバウンド』(58) をDVD化してくれないものだろうか。まあ、そんな夢みたいな話はありえないか。

■2005年1月11日

昨日、動物園間シネフェスタにオリヴィエ・アサイヤスの3作品『感傷的な運命』『Demonlover』『Clean』を見に行ってきた。今日は時間がないので、とりあえず3作品とも素晴らしかったとだけ書いておく。詳細は明日にでもまた。

アサイヤスが来日する予定になっていたが、結局ドタキャンのかたちになった。わたしはあまり信じていなかったので、とくに失望はしなかった。とはいえ、ゴダールなら来日するときいても99%信じないし、ストローブなら85パーセントは信じないが、アサイヤスなら50パーセントの確率で来るかもしれないとなんの根拠もなく考えていただけに、少しがっかりしたのはたしかだ。新作撮影で忙しいからとのこと。でも、数日後の東京での上映の際には来るらしい……。ま、そういうことだ。

■2005年1月8日

あるとは聞いていたが、今日はじめてDVDレコーダーのフリーズなるものを経験する。録画していた番組を再生しようとした直後に、白画面になって動かなくなった。再起動直後も多少動作がおかしかった(スキップしていたチャンネルがスキップされないとか、タイトルリストの順番が日付順になってないとか)。しばらくして元に戻った。データが消えるといった現象は起きていないが、あまりいい気がしないのはたしかだ。

このところやたら眠たい。カルヴィーノの『柔らかい月』を読みはじめるが、なかなか前に進まない。

■2005年1月7日

長年のあいだにたまった映画のチラシを整理していたら、むかし学生時代に上映会をやったときのチラシがでてきた。グリフィスの『ベッスリアの女王』とモンテ・ヘルマンの『断絶』を上映したときのものだ。ほとんど宣伝しなかったが、客は意外と集まった。チラシには「ジャック・タチ友の会」と書かれてある。この名称はだれが決めたものだったか、全然記憶にない。というか、この名称自体すっかり忘れていた。わたしは結構なんでも覚えているほうなのだが、それだけにこういう記憶の欠落はいつだって心地いいものだ。

『菊次郎の夏』:遊戯の旅。バス停での盲人の真似。武の盲人への執着(『ドールズ』、『座頭市』)

『DRIVE<ドライブ>』『アンラッキー・モンキー』:SABU。よくわからない。いつもながらのでたらめで強引な展開は、笑って見ればいいのか、それとも本気で感動させようとしているのか。「走る映画」などといって彼の映画を賛美する「批評家」がいたりするのだが、わたしにはただ人が走っているだけで映画自体には全然「ドライブ」感がないように思う。タランティーノと比較するものもいるようだが、それではいくら何でもタランティーノに失礼だろう。

『グリマーマン』、『ノック・オフ』(ツイ・ハーク):スティーブン・セガールとジャン・クロード・ヴァン・ダム主演の映画で何かおもしろかったのがあったかと思い出そうとしているが、思い出せない。

『波』(中村登):最初の一時間ほどを寝てしまった。大した映画ではないと思うが、今度放映されたときは念のために見直した方がいい。

『そして船はゆく』:『アマルコルド』の豪華客船に連なる船のイメージ。

『ジンジャーとフレッド』(フェリーニ)、『忠臣蔵』(渡辺邦男)、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』、『機動警察パトレイバー』『機動警察パトレイバー2』(押井守)、『母の眠り』(カール・フランクリン)、『俺は待ってるぜ』、『阿修羅のごとく』、『踊る大捜査線 THE MOVIE2』、『WXIII 機動警察パトレイバー』(遠藤卓司)、

■2005年1月4日

イーストウッド『ルーキー』:ナイフで顔を切られ、騎乗位で犯されるイーストウッド。しかもその様子はビデオ録画されて背後の壁一面に並べられたモニターに映し出される。イーストウッドは確実にマゾだ。

『アウトロー』:イーストウッドほどアウトローという言葉が似合う人はいない。ここでのイーストウッドは、インディアン(しかも老人と女)、カンザス出身の老婆と少しピントのずれたその娘、それに野良犬という、人間社会の周縁に位置するものたちよりなる混成部隊を引き連れて、ミズーリからメキシコ国境まで旅をする。復讐の物語という点で『荒野のストレンジャー』に連なる作品。北軍と妥協することができず、インディアンと合流するという物語は、フラーの『赤い矢』を彷彿とさせる。一介の農夫が無類の戦士になるというストーリーはクライストの『ミヒャエル・コールハース』に通じる部分もある。

■2005年1月2日

今年も獅子舞の笛が聞こえてきたとたんにうちで飼っている2匹の猫が狂ったように怯えだした。去年は、白猫のほうが小便を洩らしてしまったほどだったが、今年はそこまでのことは起こらなかった。それにしても、獅子舞の笛のなにがそんなに彼らを怯えさせるのか、謎だ。

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故障したビデオデッキの処分を考えないといけない。BSチューナー内蔵タイプだったのでそのまま置いていたのだが、新しくBSチューナー内蔵のHDDレコーダーを買ったので、ほとんど必要なくなってしまった。修理に出すぐらいなら、新品のものを買ったほうがよさそうだし、もう5年以上前に買ったものなので、リサイクルショップでも引き取ってもらえそうにない。捨てるしかないらしい。こんなふうにして世の中からビデオは消えていくのだろうか。

「旧時代のものとなったメディアは芸術性を帯びる」といった趣旨のことをマクルーハンがどこかで書いていたように思う。CDが登場してアナログ・レコードがなにやらオーラを帯び始めたように。しかし、ビデオにはそんなことはたぶん起きないだろう。ビデオは本質的に「まがい物」だという感覚がわたしには最初からあった。ビデオ的なものをどこかで憎んでいたといってもいい。しかし、ビデオはビデオなりに必死に映画を模倣しようとしていたのだ。

フィルムの撮影と映写には二つのリールが要る。一方のリールに巻かれたフィルムがもう一方のリールに巻き取られるという運動がなければ、撮影も映写も行われない。ゴダールならこの二つのリールを《過去》と《未来》と呼ぶだろう。ビデオテープも小さいが二つのリールによって構成されている。二つのリールが存在しなければ、録画も再生も行われない。少なくともこの二つのリールの運動だけは、ビデオと映画に違いはないわけだ。

DVD的なものからは、この運動感がまったく消え去ってしまっている。そこには時間性が欠けているといってしまっていいかもしれない。それはもちろん、任意の瞬間に容易に移動できるという利便性と裏腹なのだが、わたしにはこの非時間的な部分がDVD的なものでもっとも違和感を感じるところだ。

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Valery Larbaud "Le Couperet"
《Enfantines》に収められている短編はどれも素晴らしいが、そのなかでももっとも長い作品であるこの短編は、子供のもつ純粋さと残酷さを見事に描き出していて、最高だ。

James Ellroy《American Tabloid》
ジョン・F・ケネディが立候補した大統領選を直前にしたアメリカの50年代末、マフィアやFBIが善悪見分けがたいかたちで跳梁跋扈する世界を見事に描きだした傑作。とはいえ、この英語は相当しんどい。

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