日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
来年の2月8日に、神戸映画資料館でアレクセイ・ゲルマンについて講座を行うことになりました。前回ここで講座をやったときは、ジョン・カーペンターについてお話しさせてもらったのですが、今回はゲルマンということで、全然首尾一貫しませんが、自分で言い出したわけではなく、たまたまそういう依頼があったのを引き受けただけです。まあ、わたしは映画ならなんでもいい雑食人間ですので、おもしろければそれでいいんです。
「崩壊する国家と崩壊する映画──アレクセイ・ゲルマン」と、なかば適当にお題を決めましたが、正直、何を話すかはまだ全然決まっていません。期日までまだ時間がありますので、退屈しないお話ができるように頑張って準備します。『道中の点検』『戦争のない20日間』『わが友イワン・ラプシン』の上映もありますので、興味のある方はぜひお越しください。
神戸資料館のサイトの紹介ページ: http://kobe-eiga.net/event/2014/02/#a002102
ヒューゴー・フレゴネーズがハリウッドで撮った3本の西部劇の最後を飾る作品。かれがこの次にウエスタンを撮るのは、この約10年後で、それはドイツ人作家カール・マイの西部小説をユーゴスラヴィアで映画化したものになるだろう。だから、ある意味、この『七人の脱走兵』はフレゴネーズが最後に撮った〈本物の〉西部劇であると言ってもいいかもしれない。
南北戦争の時代。戦況が南部側にはしだいに不利になりつつあるなか、数名の南部脱走兵が、カナダ国境近くの北部の町にカナダ人のビジネスマンを装って潜入する。軍資金にするために町の銀行を襲い、そのあとで町を焼き払うのが目的だ。この潜入作戦のリーダーである南軍の少佐(ヴァン・ヘフリン)は、かつて北軍によって故郷の町を焼かれた経験を持ち、北軍にたいして強い恨みを持っている。しかし、かれは、潜入した北部の町で下宿先の家庭の未亡人とその息子にしだいに心を惹かれるようになり、軍人としての義務と感情のあいだで板挟みになって思い悩む。こうやって住んでみれば、この北部の町にも、同じように善良で、同じように戦争によって愛する人を失った人たちがいる。それでも、計画は着々と準備され、いよいよ実行される日が近づいてくる……。
『Apache Drums』に比べると、この映画には独創性と大胆さが欠けているかもしれない。しかし、それでもこれは見事な西部劇だ。クライマックスの銀行襲撃の場面までは派手な撃ち合いもなく、西部劇と言うよりは、クライム・サスペンスに近い雰囲気で、映画は淡々と進んでいく。フレゴネーズは最初に町の全体地図を見せ、次に、南軍兵士たちに町をを実際に歩かせてみる。観客は映画を見ているあいだに、この小さな町の地形を知り尽くしたような気分になる。その一方で、フィルムに刻まれていく日付が、作戦決行のXデーがじわじわと迫ってくるのをいやが上にも意識させる。その静かな緊張感とでもいうべきものをずっと最後まで保ち続けるフレゴネーズの演出はたしかなものだ。
『Apache Drums』同様、ここでも人物の造形は非常にニュアンスに富んでいて、単純な善悪の構図には収まりきらない豊かな筆致で描かれている。南軍の兵士にたいして非常に偏見に満ちた態度を見せ、最初は全然いい印象がなかった北軍大尉(リチャード・ブーン)は、最後のところで、自分は実は戦場から逃げ出した臆病者だったと勇敢に告白し、そして、銀行襲撃の日に、ただ一人南軍兵士たちに立ち向かう。それまでカナダ人ビジネスマンの振りをしていたヴァン・ヘフリンは、銀行襲撃の決行日、南軍の軍服を身にまとい、心を寄せている(そして、向こうも彼のことを思っている)北軍未亡人(アン・バンクロフト)の前に現れる。そのとき、アン・バンクロフトの眼差しは、一瞬のうちに愛情から憎悪へ、そしてまた愛情へと揺れ動く。
南軍兵士の一人リー・マーヴィンが、予想通りと言うべきか、一人だけ暴走して計画を危うくしたりもするが、作戦は見事に成功する。しかし、そこには何の勝利の高揚感もない。『マディソン郡の橋』に出てくるような屋根付きの橋を渡り終えたあとに爆破し、追っ手をふさいでから最後に町の方を振り向くヴァン・ヘフリンが見せるなんとも言えない表情が忘れがたい。
わたしが見た20世紀フォックス社から出ている DVD では、この映画はスタンダード・サイズで収録されているのだが、映画の冒頭に "cinemascope" とハッキリ出るから、このサイズはたぶん間違ってると思う。しかし、IMDb には、この映画の画面サイズは "1 : 2.35" ではなく "1 : 1.66" と書かれてある。いったいどれが正しいのか。 あとで気づいたのだが、この映画はフランスでも DVD になっていて(下写真。たぶん『Apache Drums』と同じ会社だと思う)、その DVD では "1 : 1.66" で収録されているようだ。たぶん、こっちのほうがオリジナルの画面サイズなのだろう。今さらわかっても遅いが、これから買う人はこちらを選んだ方が得策のようだ。
最近出た注目すべき映画本を幾つか。いずれも読んでいないのだが、気になるものばかりなので、そのうち読んでみたい。
■鈴木則文『東映ゲリラ戦記』 (単行本)
これは、連載時から単行本になるのを待ち望んでいた本。
■ジョン・マーサー、マーティン・シングラー 『メロドラマ映画を学ぶ ジャンル・スタイル・感性』
■ 千葉雅也『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
國分功一郎など注目すべき若手のドゥルーズ研究書の出版が相次いでるが、これはその本命と言うべき俊英による待ちに待ったドゥルーズ本。すでに、浅田彰・蓮實重彦・松浦寿輝などから絶賛する声が寄せられている。
エルマンノ・オルミ『時は止まった』(59)
エルマノ・オルミが1959年に撮った長編デビュー作。 第二次大戦で父親を亡くしたオルミは、家計を支えるために、10代の頃から電力会社エディソン・ヴォルダ社で働き始める。皮肉なことに、というか、われわれにとっては幸運なことに、これが、彼が映画の道に進むきっかけとなったのだった。 オルミは最初、会社がスポンサーになっている演劇活動に参加し、ミュージカルの演出を担当したりしていたが、1953年にエディソン・ヴォルダ社が映画部を創設すると、やがてそこの映画部長となり、つづく7年間のあいだに30本に及ぶ短篇PR映画を制作することになる。 『時は止まった』も、最初はそんな短篇ドキュメンタリー映画の一つとして撮られはじめたのだが、オルミはこれを長編劇映画にしようと考える。そのようにして完成したのがこの映画だった。
まず驚くのは、この映画がシネマスコープ・サイズで撮られていることだ。別に調べていたわけではないのだが、『就職』や『木靴の樹』見ていた印象から、オルミは少なくとも初期のあいだはずっとスタンダード・サイズで映画を撮っていたものと信じていたので、シネスコの画面が現れたときには、最初これはなにかの間違いじゃないかと思ったくらいだ。
映画の舞台となるのは、アルプスの雪山に囲まれた電力発電のためのダム工事現場。思ったよりも冬が早く来たために工事が中断され、今は、山小屋に監視役の作業員が2人いるだけである。そのうちの1人が山を下りるところから映画ははじまるのだが、交代に来るはずだった別の作業員が、女房が急に産気づいたために来られなくなる。代わりにやってきたのが、まだ年端のいかない若者だった。 こうして、いかにも昔風の職人気質の中年男と、見るからに軽佻浮薄そうな若者の、2人だけの共同生活が始まる。雪以外に辺り一面何もない世界、たった2人の登場人物、何の事件も起きない物語。オルミは、この何もなさを強調するためにあえてシネマスコープ・サイズを選んだのに違いない。
普通なら話をすることも、出会うことさえなかったかもしれない2人が、この閉鎖的状況の中で、数日のあいだ顔をつきあわせることになる。まるでかみ合わない2人が、互いへの好奇心を隠しながら、徐々に心を開いてゆくまでが、タチやピエール・エテックスを思わせるユーモア感覚で描かれてゆく。いかにもオルミらしい暖かさにあふれた作品だが、見終わったあとに思わずにやけてしまうようなこの感じは、これ以後のオルミ作品にはちょっとないものかもしれない。
吹雪の夜、若者のほうが病気になり、教会で中年男がかれを看病する場面。不意に明かりが消え、男が燭台の蝋燭にあたりを灯すと、暗闇の中に聖母子像が浮かび上がる瞬間が美しい。
カルロッタから出ている DVD(下写真)には、オルミのインタビューの他に、初期の短篇劇映画『Dialogo tra un venditore di almanacchi e un passeggiere』が収められている。
ハリー・ケラー『狙われた女』(56) ち
ょっとした評判を聞いて見てみたものの、ハリー・ケラーなんて監督は名前も聞いたことがなかったので、さして期待はしていなかったのだが、まさかこんなに面白いとは。これはほんとに拾いものだった。
『狙われた女』は、今でいうサイコ・サスペンスの遠い先駆けであるような作品であると言っていいだろう。ハイスクールの若い女教師が、だれだかわからない男子生徒の一人からラブレターを受け取る。手紙の内容はしだいに冗談では済まされないものになってゆき、ついには暗闇で襲われ、家にまで侵入される。どの生徒が犯人なのかを知った女教師は校長に訴えるが、日和見主義者で弱腰の校長は、父親が大物で、学校ではラグビー選手として英雄扱いされている男子生徒がそんなことをするとは思えないといって、彼女のいうことをまともに取り上げない。逆に、男子生徒が噂を広めたせいで、女教師は嘘つき呼ばわりされて、しだいに四面楚歌になってゆく。
一方、学校の周辺では、若い女ばかりを狙った連続殺人事件が起きていて、犯人はいまだ捕まっていない。男子生徒に襲われたことがきっかけで、この連続殺人事件を担当している刑事と知り合った女教師は、彼の助けを借りて男子生徒の裏の顔を明らかにしようとするのだが、刑事と恋愛関係にあることが公になると、彼女の立場はますますまずくなってゆく。男子生徒のことを調べるうちに、刑事は、連続殺人事件の犯人が彼ではないかと疑いはじめるのだが……。
今なら別に珍しくもない話かもしれないが、50年代半ばに撮られた学園ものとしては、この映画は異様に不気味だ。女教師をつけねらう男子生徒には連続殺人鬼の影がつきまとう。しかし、この男子生徒にもまして病的なのは、彼の父親の存在だ。妻に逃げられ、男性としての自分に自信が持てないかれは、息子に男らしさを過剰に要求する。それが息子を怪物に育て上げてしまったのだが、実は、この父親こそが最大の怪物だったのだ。
この映画に描かれる人物のファッションや髪型、流れている音楽は、非常に50年代的である(当たり前だ、これは50年代の半ばに撮られた映画なのだから)。しかしここに描かれる世界は、当時のメディアが広めようとしていたバラ色の50年代のイメージとはほど遠い。テクニカラーが、ほとんどパロディかと思うぐらい陳腐に、華やかな50年代のイメージを捉える一方で、コントラストの強い画面がそこかしこに濃い陰を作り上げている。キャメラはしばしば漆黒の闇のなかに置かれ、ヒロインはまるで罠にかかるようにその闇の中に閉じ込められてしまう。
これは、カラーで撮影されたフィルム・ノワールといってもいいだろう。ただ、DVD の画質はお世辞にもいいとは言えず、おまけに、ワイド画面ではなく、レターボックス・サイズになっている。全体的に平板な画調で、だから、暗い画面も、ひょっとしたら単に暗部が再現できてないだけなのかもしれない。凡庸に思える色遣いも、ちゃんとした状態で見ればまた印象が変わるのだろうか。
女教師を演じているのは、かつてMGMで水着の女王として名をはせたエスター・ウィリアムズ。MGMとの契約がちょうど切れたときに、ユニヴァーサルから持ちかけられた企画がこの映画だった。MGMでのマンネリな役柄にうんざりしていた彼女はこの企画に飛びつく。映画は興行的には失敗するが、ウィリアムズは水着の女王以外にもちゃんと演技ができることを、このドラマティックな役を見事にやりきることで証明したと思う。しかし、この作品は、結局、彼女の俳優としてのキャリアのほとんど最後の作品になってしまった。 一方で、女教師を付け狙う男子生徒役を演じているジョン・サクソンにとっては、この映画が長い映画俳優としてのキャリアのほとんど最初の作品となる。
もう一つ付け加えるべきなのは、この映画の原案を書いたのが、あの『ヒズ・ガール・フライデー』の女優、ロザリンド・ラッセルだということだ。別の映画の仕事があって、結局、彼女はこの映画には参加できなかった。『狙われた女』のダークで病的な雰囲気は、彼女のイメージとはまるで合わないのだが、彼女が書いた原案は、映画以上にもっとダークなものだったらしい。しかし、それをあまり詳しくいうとネタバレになってしまうのでやめておこう。
イギリスの映画作家ビル・ダグラスは、自伝的な三部作(三部作と言っても、いちばん短いもので48分、全部合わせても3時間にも満たないのだが)と、19世紀イギリスの農場労働者たちを描いた『Comrades』の、わずか4本の長編だけを残して、1991年に亡くなった。生前、決して注目されていなかったわけではないが、商業的な作品からほど遠い作風から、なかなか理解者をえられず、製作資金を得るのにも苦しみ、才能を十全に発揮することなくその生涯を終えることとなる。 最近になって、この孤高の映画作家がにわかに注目されはじめたのには、BFI による三部作(Trilogie)のデジタル修復版が公開されたことが大きく与っているだろう。同時に、BFI からは DVD、Blu-ray も発売され、わたしが彼の作品を見ることができたのも、そのおかげである。
ビル・ダグラスの三部作『My Childhood』『My Ain Folk』『My Way Home』にはすべて「My」という言葉が入っている。彼の分身とでも言うべき主人公ジェイミーの少年時代から青年時代までを描いたこの一連の作品は、ダグラスが生きてきた人生をほぼ忠実に再現したものと見ていいだろう。ここに描かれる彼の少年時代は、これ以上ないと言っていいぐらい悲惨なものである。自分の過去に取り憑かれていたと自ら語るダグラスにとって、この三部作を撮ることは悪魔払いにも似たものだったのかもしれない。
三部作の第一部、『My Childhood』の舞台となるのは、第二次大戦末期のスコットランド、エディンバラ近郊の小さく貧しい炭鉱町である。はるか遠くで聞こえる爆撃音らしき音と、ときおり鳴り響く空襲警報のサイレン音をのぞくと、あとは、強制労働をさせられているドイツ人捕虜の存在ぐらいしか、戦争を感じさせるものはほとんどない。その捕虜たちも、冒頭の字幕の説明がなければ、ただの季節労働者たちにしか見えないだろう。
『My Childhood』に描かれるのは、一言でいって、家族の残骸のようなものである。主人公の少年ジェイミー(=ダグラス)は、兄と祖母の三人だけで、食べるものにも事欠くような生活を送っている。ジェイミーは、今になってようやく、自分と兄が父親の違う異母兄弟であり、彼の実父が、通りをはさんだすぐ近所の家に、まるで他人のような顔をして今まで住んでいた男であったことを知る。しかし、それでなにかがすぐに変わるわけではない。父親は、父親らしい振る舞いを見せることもなく、あいかわらずほとんど他人のように振る舞い続けるだろう。 一方、死んだと思っていた母親は、実は、何が原因かわからないが気が狂ってしまい、精神病院に入れられてることも、ジェイミーは知ることになる。この母親が登場するのは、ジェイミーの祖母が彼を病院に連れて行く短いシーンのただ一度だけで、三部作を通して、母親は以後一切登場しないのだが、その唯一の対面の場面でさえ、彼女はジェイミーのことを認識できない。
いささか説明的にジェイミー=ダグラスの少年時代の人間関係を書き連ねたが、この映画には、この手の作品にありがちな説明的ナレーションは一切なく、セリフも実に少ない。シーンとシーンのあいだにはときおり大きな断絶があり、ぶつぶつと進んでいく省略的スタイルで描かれているので、今書いたような関係を把握するのにもちょっと骨が折れるぐらいである。
父親も母親も事実上存在せず、友達もいないジェイミーは、ドイツ人捕虜の男と唯一心を通わせていて、お互いに言葉を教えあったりしていたのだが、そのドイツ人も、たぶん戦争が終わったから国に送還されるのだろう、そそくさと別れを告げてどこかに去ってゆく。さらには、兄弟をひとりで育ててきた祖母もやがて亡くなってしまう。家を飛び出したジェイミーは、線路の上の陸橋から飛び降りる。一瞬自殺かと思わせるが、実は、ジェイミーは、下を走る貨物列車の貨車に積まれた土の上に落ちただけで、そのまま列車で彼がどこかに運ばれていくところで、第一部は唐突に終わる。
第二部『My Ain Folk』では、祖母が亡くなり、ジェイミーは兄と引き離されて、実父が彼の母親(ジェイミーの父方の祖母に当たる)と一緒に住んでいる家に引き取られることになるのだが、この祖母はジェイミーにこれでもかというぐらい冷たくあたり、食事もまともに与えられない。実父も、ただ彼がそこに住むことを仕方なく許しているだけである。この父親は、いわば弱気な女たらしとでも言うべき男で、人生の敗残者として惨めに生き続けながら、一方で、隣家の女と関係を結び続けている(おそらく、ジェイミーの母親との関係もそうだったように)。 ジェイミーは隙を見て牛乳を盗み飲んだりしながらなんとか食いつなぐ。そして、安らぎを求めて、『My Childhood』で兄と祖母と一緒に暮らしていた実家にときおり帰るのだが、兄はもうそこにはいず、家具も運び出されてしまっている。しかし、やがて実家の扉には鍵がかけられてしまい、そこにも戻れなくなってしまう。
『My Childhood』は、すでに家族とも言えないような家族の姿を描いていたのだが、少なくとも、ジェイミー少年には帰って行く「家=ホーム」だけはあった。それが、この第二部『My Ain Folk』では、その居場所さえもがことごとく奪われてしまう。
ジェイミーが実父の母親にいびり回されるのを見ながら、まるでディケンズの小説みたいだなと思っていると、それまで散々冷たい仕打ちをしていた彼女が、ジェイミーにプレゼントだと言ってディケンズの『デイヴィッド・コッパーフィールド』を手渡すシーンが出てくるのでビックリする。情が移ったのか、それとも単に年老いて惚けてしまっただけなのか。ともかく、ジェイミーはその本に夢中になるのだが、せっかく本に書いた献辞を消してしまったと彼女に難癖をつけられて、ジェイミーはそのディケンズの本を結局ビリビリにひき裂いてしまう。
このシーンに特別な意味があるのかどうかわからないが、ともかく、この映画のタッチがディケンズとはほど遠いものだということは言っておかなければならない。『My Childhood』と『My Ain Folk』に描かれる少年時代はこの上なく悲惨なものである。しかし、映画はそれをことさら強調してみせる悲惨主義とは対極のスタイルで描かれている。ジェイミーは、三部作を通じてほとんど一度も涙を見せない。ただときおり、感情の爆発にまかせて壁に頭を打ち付けたりする身体表現を通して、沈黙の叫び声を上げるだけだ。 キャメラはいつも距離を置いた位置から、事態を遠巻きに見ているだけである。そしてその眼差しは、観察の眼差しというよりは、記憶の眼差しに近い。シーン同士のつながりはときに論理を欠いていて、詩的で、シュールでさえある。DVD についている特典映像で、三部作のためにダグラスが書いたシナリオを見たのだが、それはとても奇妙なものだった。わずか数枚の紙に、シーンを説明する2行ほどのテクストが、空白の行をはさんでただずらずらと並んでいるだけで、セリフも全く書かれていないのである。それはシナリオというよりは、頭の中にある記憶の断片を箇条書きにしていったもののように思えた。
三部作の最後を飾る第三部には、『My Way Home』というタイトルがつけられている。孤児院のようなところに入れられることになったジェイミーは、そこでも友達もいない孤独な生活を送るのだが、ただひとり、そこの院長だけとはかすかに心を通わせる。やがて、父親が今になってかれを引き取りに来るのだが、今や隣家の女と堂々と暮らしている実父との生活は、ジェイミーにとって何の安らぎも与えてくれない。かれは隣に住む祖母のところに逃げるようにして転がり込む。かつてあれほど彼に冷たかった祖母は、ほとんど生きる屍のようになっており、ときおりジェイミーを思いやるような言葉をかけさえする。 この頃から、芸術家を漠然とめざしはじめたジェイミーは、この家での生活を見限って、孤児院に戻る。しかし、すぐにそこを出て、広い部屋に無数のベッドが並べられているだけの宿泊所を渡り歩いたりして、やがて故郷に帰ってくるのだが、実父の家にも、かれが女のところに入り浸っていた隣の家にも、いまや知らない人間が住んでいる。もはや、あの居心地の悪かった実父の家さえも、帰る場所ではなくなってしまったのである。
すると突然、何の前触れもなく、映画は砂漠の風景を延々と映し出し始める。すでに何年もの年月が流れ、ジェイミーは、今、エジプトの砂漠地帯で兵役に就いているのである。しかし、かれは特に訓練をするでもなく、なにかの任務を遂行するわけでもない。ただ無為の時間だけが過ぎてゆく。第一部、第二部の『大人は判ってくれない』(あるいは、モーリス・ピアラの『裸の幼年時代』)の世界から、いきなり『タタール人の砂漠』の世界に連れて行かれたかのような、そんな変貌ぶりに戸惑わされると同時に、ジェイミー(というよりも、三部作を通じてかれを演じている素人俳優スティーヴン・アーチバルド)の変わりようにも驚かされる。
先の二作では決して笑顔を見せることのなかったジェイミーは、このエジプトの砂漠で、初めて真の友と言える存在にめぐり会い、時に屈託のない笑顔さえ見せるようになる。何もない砂漠の風景は、スコットランドの荒涼とした田園地帯の風景と通じ合っている一方で、ジェイミーにとってなにかが始まるゼロ地点でもあったといっていい。漠然と芸術家をめざしていた少年は、ついに、「映画監督」という言葉を初めて口にするようになる。ジェイミー=ダグラスにとって映画がつねに重要な存在であったことは、それ以前にさりげなく、しかし印象深いかたちで描かれていたのだった。
全編モノクロで撮られたこの三部作の中で、第二部の冒頭、ジェイミーが兄と一緒に映画館で子供向け動物映画『Lassie Come Home』(この映画はいみじくも『家路』という邦題を持つ)を見るシーンだけが、実に鮮やかなカラー映像で撮られているのを見れば、ジェイミー=ダグラスにとって、映画がどれほど大きな存在だったのかは明らかだろう。 やがて、エジプトでの任務も終わりが近づき、先に国に帰ることになったジェイミーの友人、おそらく生涯にわたって親友となるであろう友人が、かれに、もし国に帰って住むところがなかったら僕の家に来いよと声をかける。「My Way Home」のホームとは、直接的には、このことを指しているのだろう。しかし、この「ホーム」は、同時に、映画のことを指しているのにも違いない。帰るべき家を失ってしまったダグラスが、ついに見付けた家、それが映画だったのである。
『My Way Home』のラスト、キャメラは、ジェイミーが最初に祖母と兄と一緒に住んでいた家、今や家具も何もないもぬけの殻となった家の中の、漆喰の剥がれ掛かった壁をなめるように映し出してゆく。それはもう「ホーム」とはとうてい呼ぶことのできない家の残骸だ。しかし、映画はそこで終わらない。荒涼たる風景ばかりを撮りつづけてきた三部作は、一面に花を咲かせた一本の木を映し出して終わるのである。
ひょっとしたら、ビル・ダグラスは、自分の過去を自伝的三部作として撮り上げることで力尽きてしまったのだろうか。そのあと、長いブランクを置いて、最後の長編『Comrades』を撮ったあとで、ダグラスは癌のために57歳でその短い生涯を終えることになる。『Comrades』を見ていないので、そのあたりのことについてわたしには語る資格はない。しかし、たとえ、彼が自分の過去を描くことしかできなかったのだとしても、それでこの三部作の価値が減じることはいささかもないだろう。
まだこんな西部劇の傑作が残ってたとは、アメリカ映画の奥の深さにあらためて驚かされる。この映画は日本では未公開であり、本国アメリカでもほとんど忘れ去られていたといっていい。一度見たらとうてい忘れることのできないこのような作品でさえ、嘘のように視界から消え去ってしまうのだ。
『Apache Drums』は、アルゼンチン生まれの映画監督ヒューゴー・フレゴネーズが、ハリウッドに渡って撮った三本目の映画だ。フレゴネーズは西部劇を数多く撮っているが、この作品をかれの西部劇の最高傑作と見なす人も少なくない。 なによりも注目すべきなのは、これがあのヴァル・リュートンの最後のプロデュース作品であり、しかもかれが製作した唯一のカラー映画であるということだ。フレゴネーズとリュートンのタッグは見事に成功したといっていい。リュートンはフレゴネーズの仕事に非常に満足していたと伝え聞く。
リュートンがRKOでプロデュースした『キャット・ピープル』や『私はゾンビと歩いた』といった恐怖映画は、すべてを見せないで暗示するにとどめる演出手法によって知られる。この『Apache Drums』は、リュートンを有名にしたその手法が、広い空間とアクションを得意とする西部劇というジャンルと結びつくことで生まれた非常にユニークな作品なのである。
主演は、いかにも悪人面をしたスティーヴン・マクナリー。実際、リチャード・フライシャー『恐怖の土曜日』の銀行強盗役など、悪人役がとても似合う俳優だ。映画は、町のはみ出しものだったマクナリー演じる主人公が殺人事件を起こし、正当防衛が認められずに、町長から町を追い出されるところから始まる。根は悪い人間ではないのだが、仕事にも就かずならず者のような生活をしているかれに恋人でさえ愛想を尽かす。町から追い出そうとする町長が、マクナリーの恋人に思いを寄せていることが事態を複雑にする。 町長は正義のためにマクナリーを追い出そうとしているのか、それともたんに邪魔者を追い払いたいだけなのか。この映画では、アンソニー・マンの西部劇にも似て、人物のキャラクターは善人・悪人にかんたんに割り切れず、その行動の動機も曖昧に描かれるだけだ。マクナリーの行動は自己中心的な動機によるものなのか。それとも、町をインディアンから守りたいという純粋な気持ちからなのか。本人さえそれがよく分からないまま行動するあいだに、かれはまぎれもないヒーローになってゆく。
視覚的にもっとも驚くべきは、教会の閉鎖的な空間のなかで数十分にわたり続くインディアンとの攻防を描いたクライマックス・シーンだ。インディアンに町を攻め込まれた人々は教会の中に立てこもって一夜を過ごすことになる。遠くからインディアンがたたく太鼓の音が聞こえてくる。そのリズムが変わったときこそ、彼らが攻め込んでくる合図だ。そのとき、教会の高い窓(といっても、壁に四角い穴が開いてるだけなのだが)から、まるでゾンビのようにインディアンがひとり、またひとりと教会の中に飛び込んでくる。その度に、教会の中が真っ暗になり、スクリーン全体が闇に沈む。やがてインディアンが町に火を放つと、真っ暗な教会のなかで、今度は窓だけが真っ赤に染まる。ヴァル・リュートンの映画美学が西部劇と結びついた見事なシーンだ。
インディアンたちはついには教会の扉に火を放つ。マクナリーたちは教会の椅子を燃やして正面扉に立てかけて火の扉を作り、インディアンたちの正面突破を阻む。しかしそれも長くは続かない。もはや絶体絶命と思われたときに、町に援軍が到着するのだが、そのラスト・ミニュト・レスキューの場面でさえ、リュートン=フレゴネーズは、燃えつきた教会の扉の枠越しに、援軍の兵士たちがインディアンを追いかけていく姿をちらりと見せるだけである。
リュートンはこの作品に満足し、フレゴネーズと次の作品を撮ることさえすでに考えていたというが、結局、公開を待たずして亡くなってしまった。この作品の完成度を思うと、それは残念でならない。
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