映画の誘惑

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映画の本(哲学篇・小説篇)

少し変わった視点から映画に関する本を集めてみた。映画の本はなにも、書店の映画コーナーだけにあるとは限らない。タイトルに映画と書かれてなくても、映画がとても重要な役割を演じている本がある。ここでは、小説のなかの映画、哲学・思想書のなかの映画などなど、見逃しがちな映画の本を中心に紹介してゆく。

注目の映画本

■『映画監督に著作権はない
(フリッツ・ラング著、筑摩書房 リュエール叢書 22)

わたしが最初に訳した映画の本です。書店では手に入りにくくなっていますが、いまならネットで手に入ります。

ナチスドイツを脱出した亡命映画作家がそのアメリカ時代を語ったインタビュー。ドイツを抜け出しアメリカへと渡ったラングは、晩年ふたたび故郷ドイツへと帰って映画を撮ることになる。フリッツ・ラングの二都物語。そこには20世紀前半の映画史が集約されている。

ニコラス・レイ―ある反逆者の肖像
(ベルナール・エイゼンシッツ 著、キネマ旬報社)

映画監督の生涯と作品を描くモノグラフィーとしては最高水準の一冊だろう。アメリカではこの手のモノグラフィーが腐るほど出てるが、その書き手の多くは批評家というよりも、単なる映画研究者あるいはジャーナリストに過ぎない。彼らの書くものには批評性がまるで欠如しているのだ。そうしたものとは一線を画するエイゼンシッツのこの本は、時代とすれ違うことの不幸をあまりにも生々しく伝えている。

映画の神話学
(蓮實重彦 著、泰流社)

この著者の本は、映画関係以外のものもすべて読んで損はない。ここでは、私が最初に読んだ彼の本を挙げておく。一言でいうなら、私は彼から映画を唯物論的に見ることを学んだ。そして今は、彼の批評の背後に隠されている政治性に興味がある。というより、唯物論的であることは、必然的に政治的でもあるのだ。

なにが粋かよ
(斎藤龍鳳 著、ワイズ出版)

斎藤龍鳳の批評はある意味、蓮實重彦の批評の対極に位置する。対岸の火事を眺めるような冷めた批評が多い中、龍鳳が書くひたすら熱い批評を読むと、文章も、スタイルも、論じている映画も私の好みとはずれているのだが、ついつい感動してしまう。タイトルはもちろん、加藤泰の『沓掛時次郎・遊侠一匹』の主題歌中の、「なにが粋かよ 気がつくころは/みんな手おくれ 吹きさらし」というフレーズから取られたもの。

黒沢清の恐怖の映画史
(黒沢清・篠崎誠著、青土社)

『カリスマ』の黒沢清が、『おかえり』の篠崎誠を相手に、恐怖映画のすべてを語り尽くす。ふたりの丁々発止のやりとりは、読んでいて非常に楽しいが、それ以上にすごいのは、ここではかつてなかったほど精妙に恐怖映画の原理が語られていることだ。これ以後は、ホラーを語るものはすべてこの本を出発点としなければなるまい。黒沢清が、かれの敬愛して止まないトビー・フーパーとはじめて言葉を交わしたとき、フーパーの口からこれもまた黒沢の愛する映画作家リチャード・フライシャーの名前が真っ先に飛び出してくるというのもすごすぎる話だ。ただ、残念なのは、ここで語られる映画の多くが日本では見ることが難しいということ。『生血を吸う女』が見たい!

本

本
黒沢清が選ぶ『ホラー映画ベスト・オブ・ベスト DVD-BOX』

恐怖の詩学ジョン・カーペンター
(ビル・ブーランジェ編著、フィルムアート社)

自己宣伝ですが、私が訳したジョン・カーペンターのインタビュー本、『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』が11月に発売されました。『遊星からの物体X』の監督が、その生い立ちや創作の秘密、制作にまつわるエピソードなどを余すところなく語った本です。カーペンター・ファンはもちろん、映画に興味のある人ならだれが読んでも、おもしろい本だと思います。ぜひ、買って読んでみてください。『アサルト13』のオリジナル『要塞警察』の話も読めます。

本

シネマと銃口と怪人
(内藤誠 著、平凡社ライブラリー)

『番格ロック』、『俗物図鑑』などの監督としても知られる内藤誠が書いた、なかなか読み応えのあるエッセー集。タイトルは、今や前世紀となってしまった20世紀 が、映画とファシズムと精神分析の時代といわれていたことにちなんでいる(映画のサブタイトルは、「映画が駆けぬけた20世紀」)。著者は、自分はアカデミズムには縁がないと謙遜しながらも、なかなかの博覧強記ぶりで、斬新な視点からフリッツ・ラングや早川雪舟やヴィスコンティらがたどった数奇な運命を鮮やかに甦らせている。

本

そのほかの映画の本

緑の眼 』マルグリット・デュラス

映画術』ヒッチコック/トリュフォー

ソドムの映画市』中原昌也

『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったのか』 ロジャー・コーマン

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映画が出てくる哲学・思想の本

Cinema: L'image-mouvement, L'image-temps
(ジル・ドゥルーズ著)

この本の翻訳が、20世紀最後の映画的事件になるはずだったのだが、それは21世紀に持ち越されてしまった。

本

movement-image英語版

物質と記憶
(アンリ・ベルクソン 著、白水社)

ドゥルーズのシネマを読むためには、ベルクソンのこの本をどうしても読んでおく必要がある。あまりにもオリジナルな思想に最初はとまどう人も多いだろう。だが、この常識はずれの書物は、哲学をごくごく普通の常識に引き戻すために書かれたのだった。この本は映画の本ではないが、映画という新たな現象の登場が、「運動」の哲学者ベルクソンに与えた大きなインパクトがこの本にも見て取れる。ベルクソンの映画に対する姿勢はつねにアンヴィヴァレントなもので、ときには映画を「偽の運動」として糾弾することもあった。しかし、この本で語られるイマージュの理論こそは、映画の可能性の中心であると考えたドゥルーズは、そこから独創的な映画論を書き上げた。それが、上に紹介した『Cinema: L'image-mouvement, L'image-temps 』だったのである。

本

そのほかの映画が出てくる哲学・思想の本

大衆プロパガンダ映画の誕生』グレゴリー・ベイトソン

啓蒙の弁証法』アドルノ/ホルクハイマー

複製技術時代の芸術』ウォルター・ベンヤミン

戦争と映画』ポール・ヴィリリオ

『ヒッチコックによるラカン』スラヴォイ・ジジェク

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映画が出てくる小説・小説家が書いた映画の本

変身の恐怖
(パトリシア・ハイスミス著、ちくま文庫)

映画とはほとんどなんの関係もない本だが、『見知らぬ乗客』と『アメリカの友人』の作家に、そして吉田健一の翻訳に敬意を表して挙げておく。独立を終えたばかりのチュニジアに主人公の作家が映画の台詞を書くためにやってくるのだが、いっこうに仕事ははかどらず、本国との連絡も付かない。無為な時間を過ごすうちに、ふとしたことで彼は人を殺してしまう。ところが翌日になると死体は消えており、まるで何事もなかったかのようにすべてがもとのままである。実際、殺人などなかったのかもしれない。たとえ、あったとしてもそんなことはもうどうでもよく思えてくる。ここでは何もかもがアメリカとは違うのだ。そんな奇怪な状況のなかで緩やかになにかが崩壊していく様を、ハイスミスは見事に描ききっている。この作品をポール・ボウルズと比較するのもそう見当違いではないだろう。

本  

恋愛太平記
( 金井美恵子 著、集英社文庫)

この小説には、物語の経済上浪費といってもよいぐらい、微に入り細を穿った映画の描写が繰り返し出てくる。例えば、4姉妹のひとり朝子が不倫相手の男とビデオで『摩天楼』を見る場面。「ゲーリー・クーパーと言われても顔を思い浮かべることも出来なかったし、キング・ヴィダアなどという大昔の監督の名前も知らなかったし、金髪をきれいにセットして、白い絹のシャツ・ブラウスにグレーかオフ・ホワイトの乗馬ズボンにブーツという姿で、理想主義者で自分の理念を押し通そうとして仕事を得られない主人公の建築家の働いている石切場に現れる建築評論家で金持ちの娘のパトリシア・ニールという女優を見るのも初めてで、映画はメロドラマだとタカをくくっていたのにとても面白く、途中からすっかり引き込まれてしまい、自分の設計プランに一切の変更を加えないという条件で引き受けた摩天楼が完成すると、それはスチールと石の平面でシャープな美しさを組み合わせたアメリカ的な、垂直性と軽快さと巨大さを同時に持つ、優美ではないけれど力強い、古典的秩序を示す『石』と現代的エネルギーの『スチール』の理想的な結びつきから誕生した、まったく新しい二十世紀の大伽藍であるはずのものが、構造だけはそのままに、三十年も前のスチール構造にイタリア・ルネッサンス様式の石の装飾被膜をファサードに張り付けた醜悪なシロモノに一言のことわりもなく変更されてしまっていたのだ。」ワン・センテンス写すだけでも大変だ。金井美恵子の小説は、その評論同様、「細部に淫する」という言葉がふさわしい。

本

フリッカー、あるいは映画の魔
(セオドア・ローザック著、文春文庫)

ポーリン・ケイルやカール・フロイントをモデルにしたような人物が登場するかと思えば、ヒューストンやウェルズまでが現れて、まことしやかに未完の自作について語る。映画の世界を舞台に、虚実ない交ぜに描くゴシック・ミステリー。というよりも、壮大なほら話といった方がいいか。何せ、映画はすでに中世に存在したというんだから。幻の映画監督マックス・キャッスルの謎を追いかけるうちに、いつしか、中世から着々と準備されていた、ある壮大な陰謀が明らかになってゆく。そして、その陰謀は映画の「闇」に巣くっていまや完遂されようとしている・・・。わたしはそれほど乗れなかったが、98年度のミステリー・ベスト1に選ばれ、映画ファン、ミステリーファンをともに満足させたベストセラーである。

本

倒錯の舞踏
(ローレンス・ブルック著、ワイズ出版)

レンタル・ビデオ店から借り出された一本のテープに、少年が惨殺される生々しい映像が映し出されていた。すべてはそこから始まるのだが、そのビデオがなにを隠そう、アルドリッチの『特攻大作戦』なのだ。陰惨な事件の内容と、あの戦場での常軌を逸したテリー・サバラスのイメージがオーヴァーラップする。この作品には、他にも映画ネタが数々登場するが、何よりも、凄絶なラストがサム・ペキンパーの映画を思わせる。

潤一郎ラビリンス〈11〉銀幕の彼方
(谷崎潤一郎 著、中公文庫)

かつてアメリカで名を挙げたことのある、ある映画女優が、アメリカで撮られた自分の主演映画が、東京の場末の映画館にかかっていることを知る。ところが、彼女はそんな映画に出た覚えがまるでない。しかも、その映画の内容というのが、花魁に袖にされて自殺したある乞食男の怨念が、人間の顔をした吹き出物に形を変えて彼女の膝頭に取り憑くという話だから、それだけでもおどろおどろしい。しかも、その映画には不吉な噂があって、夜中にひとりでその映画を見たものは、かならず恐ろしい体験をし、中には発狂したものもいるという・・・ 谷崎の短編「人面疽」はざっとこんな内容だ。『リング』の中田秀夫など谷崎に比べれば半世紀以上は遅れている。この本に収められている他の短編もすべて映画を主題にしたものだが、谷崎はひたすら映画の夢魔的な部分に魅せられているかのようだ。

鳥のように獣のように
(中上健次 著、講談社文芸文庫)

今は映画監督として知られもする北野武と中上がかつて同じ飛行場でバイトしていたというのは有名な話だ。 その北野が映画監督になったあとでも、中上は一度かれと対談している。意外と映画好きだったらしいのだ。映画批評家としての素質はともかく、あの中上健次がアルドリッチの『北国の帝王』を真剣に論じているのを読むというのはなかなか楽しい体験だ。もちろん、神代辰巳の傑作ロマン・ポルノ『赤い髪の女』の原作者としても中上の名前は忘れてはならない。

そのほかの映画が出てくる小説・小説家が書いた映画の本

『リタ・ヘイワースの背信』マヌエル・プイグ

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ

『天使の恥部』マヌエル・プイグ

『グレタ・ガルボの眼』マヌエル・プイグ

『夜はやさし』スコット・フィッツジェラルド

『鹿の園』ノーマン・メイラー

『貝殻と牧師 映画・演劇論集』アントナン・アルトー

『モレルの発明』ビオイ=カサーレス

『インディヴィジュアル・プロジェクション』 阿部和重

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