映画の誘惑

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映画本ベスト・オブ・ベスト

これだけ読めば映画の奥義にふれられる(はずの)最強の映画本を、一冊ずつ紹介してゆく。 「映画の本(哲学篇・小説篇)」では、映画とは直接関係のない小説や思想書をできるだけ取りあげるようにしたのだが、ここで紹介するのは正真正銘の映画本である。順々にすべて読んでいけば、映画のなんたるかが自然とわかってくるはず。 本屋では手に入らない絶版本も少なからず混じっているが、大事な本なので、古本屋やAmazon のマーケットプレイスなどでぜひ手に入れてほしい。    

入門編〜映画語を身につけるための本

映画を語るのは難しい。その証拠に、映画を語っているつもりが、実は全然別のことを語っているという本がどれだけ多いことか。映画を語るためには、山田宏一氏のいう「映画語」を身につける必要があるのだ。そして、「映画語」で書かれた本を読むためにも、もちろんこの特殊な言葉を習得する必要がある。しかし、「映画語」の教科書なんて本屋に行っても売っていない。ではどうすればいいのか。あきらめることはない。次にあげる本を順々に読んでいけば、知らないうちに「映画語」が身に付いてしまうのだ(たぶん)。

 

『映画千夜一夜』
(淀川長治・蓮實重彦・山田宏一 著 中央公論社)

正直いうと、わたしは淀川長治氏の書いた本をほとんど読んだことがない。映画の趣味が違うような気がするし、いささか大衆的すぎるような気がするのだ。それは対談本の場合も同じである。ところが不思議なことに、そこに蓮實重彦と山田宏一が加わっての鼎談となると、いかなる化学反応が生じるのか、淀川長治の語りはいつにもまして艶やかでユーモラスなものとなる。 蓮實と山田は、彼らにしかできないような巧みさで淀川をおだててしゃべらせるのだが、その誘いに応えて、彼だけが見ている映画を事細かに物語る淀川の記憶装置ぶりがなによりもすごい。なにしろ彼は見た映画をファースト・シーンからラスト・シーンまで口で「上映」できるのだ。 蓮實の貴族的趣味の良さを愛情を持って皮肉る、淀川のねちっとした口調がついつい笑いを誘う。読んでいて幸福な気持ちになる本だ。「題名索引──1000本紹介、これぞ映画の大殿堂」という単行本の帯の言葉は嘘ではない。この本を読んで、不幸にして映画に目覚めてしまった人間を、わたしはひとり知っている。彼はその後松竹にもぐり込んだが、あれからどうしているだろうか。

映画千夜一夜

『新編 美女と犯罪』(山田宏一著、ワイズ出版)

山田宏一は自著が再版されるたびに改訂版を出すので有名だ。この本も1984年に単行本として出され、その後89年に文庫化された『映画的な、あまりにも映画的な 美女と犯罪』に新たに17編を書き加えた新装版である。 「映画とは女と拳銃だ」といったのはたしかグリフィスだったと思うが、この言葉は山田宏一のものであってもおかしくない。この本は彼が愛した映画の犯罪的美女たちに捧げられたオマージュである。類い希なる女優論にして女性論。そして同時に犯罪映画論でもある。山田宏一はフィルム・ノワールという実は定義の曖昧なジャンルを、論じるというよりはそのなかにどっぷりと浸るかたちで、その魅力を味わい尽くす。 美女たちとはなにもグレース・ケリーやバーバラ・スタンウィック、ジーン・ティアニーやローレン・バコールといった女優たちのことだけではない。映画こそが美女であり犯罪なのだ。その意味でこの本は山田宏一の著書の中心にある。またこの本が凡百の女優論やフィルム・ノワール論と一線を画しているは、著者のこの確信ゆえである。

『たかが映画じゃないか』 (山田宏一・和田誠 著、文春文庫)

「映画を映画的に、映画の言葉(映画語)で語る」──『美女と犯罪』の冒頭で表明されたこの姿勢は、山田宏一のすべての著書に当てはまる。世の中に映画について書かれた本はありあまるほどあるが、残念ながら、「映画語」で書かれている本はそのうちのほんの一握りしかない。山田宏一の本はどれを取っても「映画語」だけで書かれている。その「映画語」は、蓮實重彦の語る「映画語」のように、ある種の秘境性をまとって読者を幻惑する魅力には欠けるが、その代わりだれにでもわかりやすい。だから、彼のような存在は貴重なのだ。 映画の初心者はとりあえず彼の著書なら何でも読めばいいと思うのだが、個人的にわたしがもっとも愉快に読むことができた本を一冊上げておく。和田誠は山田宏一の数々の本の表紙や挿絵を描いてきた親友であり、自らメガホンを撮るほどの映画好き。この二人が対談するのだから面白くならないわけがない。この本を読んでどうしても見てみたくなった『絶壁の彼方に』は、レンタル・ビデオをあちこち探し回ってやっと見つけることができたが、フレッド・ジンネマンの『暴力行為』はいまだに見ることができていない。実をいうと、わたしはジンネマンという監督にはあまり興味がないのだが、この対談を読んでいるとそれでも見たいと思ってしまう。映画の本というのはこうでないといけない。

『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』(ロジャー・コーマン著 早川書房)

『白昼の幻想』や『ワイルド・エンジェル』など、数々の革新的B級低予算映画を監督し、またプロデューサーとしてジャック・ニコルソンやピーター・フォンダ、コッポラやスコセッシなど多くの才人を見いだしてきたロジャー・コーマンによる自伝である。「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか」とは、まったくふざけたタイトルであるが、この本を読めばそれが嘘ではないとわかるだろう。監督・製作者として、そのほとんどすべての作品を低予算早撮りで作り上げてきた彼のノウハウのすべてが、目から鱗が落ちるような爆笑エピソードとともに惜しみなく披露される愉快な本だ。だれが読んでも面白いが、特にこれから映画を撮りたいと思っている人に読んで欲しい

『監督ハワード・ホークス映画を語る』
(ハワード・ホークス、ジム・マクブライド著 青土社)

この本を薦めるのはどうもためらわれる。前にもどこかで書いたが、この本の翻訳の評判はすこぶる悪いのだ。ただし、日本語を読んでいる限りではとくに問題がないように思える(というか、それが最悪なのだが)。 原書と読み比べた人は、みんな口をそろえてひどい翻訳だという。しかし、翻訳版しか読んでいないわたしは、当時出版されたばかりのこの本を、とても楽しく読み終えた。悪訳で読んでも面白いのだから、いったいどうすればいいのか。 いまは品切れの模様(Amazon で古本入手可)。英語版を読むに越したことはないが、こちらも絶版である。この機会に山田宏一氏に新訳をお願いしたい。

『シネクラブ時代』(淀川長治・蓮実重彦編、フィルムアート社)

松浦寿輝がニコラス・レイを、黒沢清がリチャード・フライシャーを、金井美恵子がダニエル・シュミットを、四方田犬彦がオーソン・ウェルズを、佐藤重臣がロジャー・コーマンを、清水徹がジーバーベルクを、蓮實重彦が山中貞雄を、というぐあいに、15人の気鋭の論者がさまざまな映画作家たちを語った講演集。すべてアテネ・フランスでおこなわれたトークを収録したもので、講演ゆえのくだけた語り口は、初心者には取っつきやいはず。

シネクラブ時代

『映画からの解放─小津安二郎『麦秋』を見る』(蓮實重彦 著 河合文化教育研究所)

蓮實重彦の文体はともすれば難解だといわれる。もしそうであるとするなら、その難解さは、映画を見ること自体の難しさを表しているといってもいいかもしれない。 あの文体がどうしても苦手だというひとは、まず講演や対談からはいるといい。この本は河合塾予備校で蓮實がおこなった小津の『麦秋』についての講演を本にしたもので、かんで含めるような語り口がわかりやすいし、会場との質疑応答をまじえながら進んでいくライブ感にあふれていて、読んでいて楽しい。蓮實重彦の入門書としては最適だろう。 この本自体は品切れだが、『帰ってきた映画狂人』に再収録されている。

帰ってきた映画狂人

『シネマの快楽』(蓮實重彦・武満徹 著、河出文庫)

"CINE VIVANT" のパンフレットに収録された蓮實と武満の対談を一冊の本にまとめたもの。話題になっている映画のラインナップは、「名画ミニ・シアター的」で、素人には取っつきやすいだろう。蓮實は微妙に趣味の違うはずの武満相手にしゃべっているので、山田宏一相手なら説明をすっ飛ばしていたかもしれないような部分を、ある程度丁寧に説明している。そのぶん他の対談よりは入り込みやすいかもしれない。なによりも文庫で読めるのがいい。

シネマの快楽

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映画史を極めるための本

「映画史」と名のつく本を何冊読んでも「映画史」は見えてこない。第一、その手の本はおしなべて退屈で、とても最初から最後まで読み通すのは困難だ。そこで愉しみながら映画史を学べる本をリストアップしてみる。とはいえ、なかにはもっとアカデミックなものがいいという人もいるかもしれない。そういうひとは、映画史のダイジェストでも読んでアカデミックな映画史をあらかじめ頭に入れておくとよい。日本映画に関しては、四方田犬彦の『日本映画史 100 年』(集英社新書)が、著者ならではの細かい部分に目の行き届いた視点から簡潔に日本映画史をまとめていて、通史としては最適である。外国映画に関しては、残念ながらこういう本は思い浮かばない。しいてあげるなら、ジェイムズ・モナコの『映画の教科書』のなかの「映画史のかたち」という章が器用にまとまっているので、全体を俯瞰するのに役立つだろう。

 

『リリアン・ギッシュ自伝』(リリアン・ギッシュ著、筑摩書房)

「映画とグリフィスとわたし」という副題からもわかるように、この本は無声映画時代の大女優リリアン・ギッシュの自伝であると同時に、映画の文法をはじめて完成させたともいわれる大監督グリフィスの生涯を描いた本でもある。この本に限らず、『バスター・キートン自伝』など、サイレント時代を描いた本を読むと、そもそも映画をつくるということが、ときに野蛮で無謀な冒険であったことを改めて実感させられる。 リリアン・ギッシュは時代がトーキーになってからも、『狩人の夜』や『許されざる者』、『ウェディング』といった作品のなかで忘れがたい演技を見せている。しかし、彼女がもっとも輝いていたのは数々のグリフィス作品に出演していたサイレント時代であるということには、だれも異論はないだろう。この自伝も、その大部分が 1920 年代末までのサイレント時代に費やされている。

バスター・キートン自伝

『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(大岡昇平著、中央公論社)

ドイツ表現主義の時代については、映画というよりは社会学の本である『カリガリからヒトラーへ』ではなく、はるかに「映画的」な Lotte Eisner の Ecran demoniaque (英訳はここ)を推薦する。ロッテ・アイスナーはドイツの映画批評家だが、カイエの同人でもあった。ジャン・ジョルジュ・オリオール、アンドレ・バザン、アンリ・ラングロワに捧げられたこの本も、もともとフランス語で書かれたはずであるが、手元にあるポケット版には、その点については明記していない。 いずれにせよ翻訳がないので、かわりに大岡昇平のこの本をあげておく。大岡昇平が、ロッテ・アイスナーの名前も口にしたりしながら、該博な知識でもって論じる「ルル」論と、ブルックスの自伝の抜粋よりなる。一面黒の表紙のなかに、あの耳元でばっさり断たれたボブヘアの黒髪が、溶けるように広がり、そこにブルックスの横顔が浮かび上がる。この美しい装丁の本は、残念なことに、留守中に部屋に入れたままにしておいた猫に、爪で破られてしまった。

Haunted screen

『ハリウッド帝国の興亡──夢工場の1940 年代』
(オットー・フリードリック 著 文芸春秋社)

『ハリウッド帝国の興亡』で描かれるのは、 1939 年から 1950 年までのハリウッドである。『風と共に去りぬ』『ニノチカ』『嵐が丘』『オズの魔法使』がつくられた 39 年。そのわずか 10 年後には、チャップリンもバーグマンもウェルズもハリウッドをあとにしていた。この 10 年のあいだにいったい何が起こったのか。 「リタ・ヘイワースについてすでに多くを知っている読者も、アルノルト・シェーンベルクについてはあまり知らないだろう。逆もまたいえる。ふたりとも熟知していたにしても、バグジー・シーゲルや航空機産業や、ハーバート・K・ソレルについてはよく知らないだろう。レーガン大統領については十分知識があっても、彼がいかにして今日の彼となったかについては多くを知らないであろう。あるいは、いろいろな意味で、われわれ自身、いかにして今日のわれわれとなったかについても」 この本のなかでは、ケイリー・グラントよりもブレヒトが大きな役を演じる。ユニークな視点から捉えられた映画都市の真実。この手の本としては抜群に面白かった。翻訳もすばらしい。

『ハリウッド映画史講義』(蓮實重彦 著、筑摩書房)

ハリウッドの 50 年代作家たちについては、「入門編」で挙げた『シネクラブ時代』のなかに「ハリウッド・フィフティーズは無念さの領域に位置づけられる」という蓮實の文章があるので、だいたいの話はわかっているはず。この本では、その 50 年代のハリウッドを中心に、さらにパースペクティヴを広げて、現代に至るまでのハリウッドの「翳りの歴史」がたどられる。第三章における、ハリウッド撮影所システムの崩壊にともなう「物語」から「イメージ」への優位を説いた部分も、現在のハリウッド映画を考える上で必読。

ハリウッド映画史講義

『映画は戦場だ!』(サミュエル・フラー著、筑摩書房)

どこかしら無惨なイメージのつきまとう 50 年代作家たちのなかで、ひとりたくましく「生き残って」、ゴダール、トリュフォー、ヴェンダースらに多大な影響を与えた、サミュエル・フラーによる自伝的インタビュー。

映画は戦場だ!

『メカスの映画日記 ニュー・アメリカンシネマの起源 1959-1971 』
(ジョナス・メカス著、フィルムアート社)

これだけ書いただけで疲れてしまったので、この本については、当時の蓮實重彦の言葉を使わせてもらう。 「この書物を『ゴダール全エッセイ集』の隣に並べることのできた人の本箱からは即座にサドゥールの『世界映画史』やそれに類する書物が姿を消すことができる。古本屋が渡してくれる幾枚かの紙幣をポケットに入れ、諸君はその足で『メカスの映画日記』を買いに行けばよい。そうすれば、ボグダノヴィッチの『ペーパー・ムーン』に千円近い金を払ったりする愚挙を避けつつ、同時に「アメリカ映画」の何たるか、その歴史と現在とを理解することができる。」 「いたるところで境界線が曖昧になる。いわゆる「商業映画」と「アンダーグラウンド」との境界線が、その前衛的実験映画の熱烈な擁護にもかかわらず曖昧になる。[……]そうして曖昧にされた境界線が、映画と呼ばれる途方もない空間で、ウォルシュと、ホークスと、ルノワールと、小津と、ドライヤーと、フォードとが、ジャック・スミスと、ウォーホルと、クーベルカと、ヨーコ・オノと、ブラッケイジとの美しい結婚を可能にするのだ」

『ジャン・ルノワール自伝』(ジャン・ルノワール著、みすず書房)

デュヴィヴィエなどのフランス映画界の巨匠たちをさんざんこき下ろしてフランス映画の墓堀人といわれたトリュフォーが、ひとり尊敬してやまなかったジャン・ルノワール。 19 世紀末のフランスにはじまり、サイレントからトーキーへの時代の移り変わり、そして 40 年代のハリウッドへといたるルノワールの二都物語。ジャン・ギャバン、シュトロハイム、チャップリン、ベッケル、クリフォード・オデッツら、様々な人たちとの出会いがあざやかに描かれる、幸福感につつまれた書物。

『映画、わが自由の幻想』(ルイス・ブニュエル著、早川書房)

ブニュエルの自伝はかれの映画と同様にとんでもないしろものだ。シュルレアリスムのパリ、内戦のスペイン、ハリウッド、 50 年代のメキシコ時代を経て、そして再びスペイン、パリへ。ときにほら話を疑わせるような途方もないエピソードの数々が、ピカレスク・ロマンよろしく語られてゆく破天荒な自伝。 翻訳は絶版になって久しいが、英語版なら簡単に手にはいる。

『映画渡世』(マキノ雅弘 著、平凡社)

「日本映画の父」といわれたマキノ省三を父に、長門裕之と津川雅彦を甥に持つ、映画ファミリーの風雲児による回想録。「正博」「雅裕」「雅広」「雅弘」と次々と名前を変えながら、恐ろしいスピードで作品を量産していったマキノがその生涯を振り返ったこの本は、どこまでもポジティヴで祝祭的なエネルギーに充ち満ちている。

『官能のプログラム・ピクチュア ロマン・ポルノ1971-1982 全映画』
(山根貞男 編 フィルムアート社)

70 年代の日本映画のもっとも先鋭的な部分であった日活ロマン・ポルノ全作品を、年代順・監督順に網羅した、ロマン・ポルノ大辞典とでもいうべき本である。この本が書かれたときにはまだロマン・ポルノは終わっていなかった。しかし、この本にはその終わりの予感のようなものが濃厚に漂っている。 たとえば、似たような作りの『ドイツ・ニューシネマを読む』などといった本がだめなのは、なによりも編著者たちが素朴に映画を信じきっているからである。

『私の紅衛兵時代』(チェン・カイコー 著、講談社新書)

『黄色い大地』の監督が生き抜いた文革時代の光と影。

私の紅衛兵時代

『電影風雲』(四方田犬彦 著、白水社)

韓国・中国・香港・台湾の映画史の概略と、代表的映画作家を論じた部分よりなる 800 ページ近い大作。読んでいてわくわくするような本ではないが、この方面に関しては古典と言っていい。アジア映画については、佐藤忠雄のように映画をだしにしてアジアの社会と文化を論じるというたぐいの本が多いなか、ちゃんと作品を分析している本書のような存在は貴重だ。そのほかのアジア諸国の映画については、同じ著者の『アジア映画』がガイドとして役に立つ。

『ゴダール映画史』(ジャン=リュック・ゴダール著、筑摩書房)

やっぱり最後はこれしかない。映画史と自分史を重ねあわせて語るという、ゴダールのある意味で非常に傲慢ともとれる企てである。原題は「真の映画史への序説」。 20 年後にようやく完成する『映画史』のこれがはじまりである。「映画史」といっても、ゴダールには映画史の知識や情報を与えようとする意図はまったくない。また、自分が撮ってきた映画を、映画史の特定の場所に位置づけようとする、懐古趣味的な意図もない。いまわたしは講演をしているのではなく映画を撮っているのだと、ゴダールはしばしば繰り返す。結局かれがここでやっていることは、『勝手にしやがれ』以来かれがやっていたことと同じである。つまり引用すること。映画史上の諸作品と、ゴダール自身が撮ってきた作品とが重ねあわせてみられることで、あらゆる映画が匿名化された断片として立ち現れる。

ゴダール映画史

『シネマ2』(ジル・ドゥルーズ著 法政大学出版)

当然ながらこれだけでは、ロシア・モンタージュ派やネオレアリズモといった重要な映画史のムーヴメントが抜け落ちている。残念ながら、その辺については退屈な映画史の本か堅い理論書しか思い浮かばない。 『シネマ』正確に言うと映画史の本ではないのだが、映画史家たちをたえず刺激しつづけている不思議な本だ。なによりめちゃくちゃ面白い。 この本のなかでは、ネオレアリズモは、登場人物がもはや状況に反応することなく、ただ見、ただ聞く者となる、「純粋に光学的・音響的状況」の現れであり、小津安二郎は日本的文脈において、そのような「純粋に光学的・音響的状況」を、映画史上初めて発展させた作家として論じられる。 映画のことしか知らない人には読み通すのが難しいだろうし、この本のポテンシャルは十分に引き出せないだろうが、個々の作家論を拾い読みしてもかなり面白いはず。今のところ2巻目しか翻訳は出ていない。

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技術としての映画を理解するための本

芸術作品は内容が大事なのであって、技術はどうでもいいと考える人がいる。そういう人は、鉛筆でさえ最初は革命的なテクノロジーだったのだということを忘れている。映画なんて、キャメラを回せば写るのだから、さらに簡単だというわけだ。黒い服を撮れば、そのまま画面にも黒く映って見えると素朴に考えている人がなんと多いことか。カール・ドライヤーはモノクロームの画面のなかで白さを際だたせるために壁をピンク色に塗ったという。すぐれた映画を支えてきたのはそうした技術なのだ。

 

『定本 ヒッチコック・映画術・トリュフォー』
(アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー著 晶文社)

当然のことながらインタビューが面白くなるかどうかは、インタビュアーの腕次第だ。この本はトリュフォーが、すぐれた監督であるだけでなく、すぐれたインタビュアーでもあることを証明している。 周知のごとく、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちはまず批評家となることからそのキャリアをはじめた。彼らの批評が新しかったのは、〈演出=技術〉を映画の本質としてとらえたことである。〈主題〉を伝えるための単なる〈手段〉ではなく、それなくしては映画の美があり得ないものとして、技術をとらえること。ヒッチコック=トリュフォーの語る驚くべき〈映画術〉に、そうした技術論の最良の姿を見ることができる。 ヒッチコックのファンだけでなく、だれが読んでも間違いなく面白いが、この本もこれから映画を撮りたいと思っている人に是非読んでほしい。

ヒッチコック映画術トリュフォー

『成瀬巳喜男の設計』(中古智・蓮實重彦 著 筑摩書房)

成瀬巳喜男のほとんどの作品の美術監督であった中古智(ちゅうこ・さとし)が、自分がたずさわった成瀬作品を中心とする東宝映画の美術の歴史を振り返って語る貴重なインタビュー。成瀬巳喜男の映画は、どこまでがセットでどこからがロケなのか、玄人が見ても区別がつかないとよくいわれる。ディテールにどこまでもこだわる成瀬巳喜男の映像世界は、美術監督中古智の存在なしには考えられない。そして、彼らの仕事を可能にしたのが「撮影所」の存在だ。この時代にはまだ存在していたシステムとしての「撮影所」はもはや失われてしまった。いま、「**撮影所」などと呼ばれているのはその形骸にすぎない。

『キャメラを持った男』(ネストール・アルメンドロス著 筑摩書房)

下に紹介する『マスターズ・オブ・ライト』にも登場する撮影監督、ネストール・アルメンドロスによるこの自伝を読めば、『恋のエチュード』『O公爵夫人』『天国の日々』などで、奇蹟のような光をスクリーンに定着させてきたこの男の、魔術の一端を知ることができる。映画が技術であることを知るためにも、こういう本は貴重である。

『マスターズ・オブ・ライト』
(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート著 フィルムアート社)

「アメリカン・シネマの撮影者たち」という副題を持つこのインタビュー集には、トリュフォー作品で知られるスペイン生まれキューバ育ちのネストール・アルメンドロスや、ベルトルッチ作品の撮影の多くを手がけているヴィットリオ・ストラーロのインタビューもはいっている(ハリウッドは俳優や監督だけでなく、多くの著名な撮影監督たちをヨーロッパから招き寄せてきた。『アタラント号』のボリス・カウフマン、『最後の人』のカール・フロイント、ベルイマン作品の撮影監督スヴェン・ニクヴィストなどなど)。この本はちょっと変わった視点から、70-80年代のアメリカ映画の歴史をたどったものとしても読める。巻末についている撮影用語集も便利。

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