日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
カミーロ・カステロ・ブランコ『破滅の恋: ある家族の記憶』 (ポルトガル文学叢書) [単行本]
最近になって気づいたんだけど、これ翻訳出てたのね。カミーロ・カステロ・ブランコは、『破滅の恋』『フランシスカ』『絶望の日』の三部作でオリヴェイラが取り上げたポルトガルの作家であり、ラウール・ルイスの『ミステリーズ 運命のリスボン』の原作者としても知られる人物。
視力を失うとともに自ら命を絶ったブランコの生涯最後の日々を描いた『絶望の日』を最近ひさしぶりに見直したんだけど、いいですね。オリヴェイラとしてはマイナーな作品というべきかもしれないけれど、ドキュメンタリーとフィクションを自在に行き来するスタイルが、往々にして挿話を並べただけになりがちな題材に深い陰影を与えていて、「伝記映画」という言葉を簡単に当てはめることができないようなユニークな作品に仕上がっている。初めて見たときにも思ったが、馬車の車輪のイメージに重ねて、ブランコの手紙が読み上げられていくシーンが忘れがたい印象を残す。
ジョン・ボールティング『The Magic Box』(51)。
エジソンやリュミエール兄妹の陰に隠れて忘れ去られてしまった、イギリスにおける映画のパイオニアの一人、ウィリアム・フリーズ=グリーンの生涯を描いた作品。
映画の発明にかまけて家庭を顧みない主人公をロバート・ドーナッツ、彼をけなげに支える妻をマリア・シェルが演じていて、ともに見事。 「エティエンヌ=ジュール・マレー 1830-1908 映画の創始者」「ルイ・ル・プランス 1842-1890 シネマトグラフの発明者」という墓碑銘のようなものがタイトルバックに次々と現れて、最後に「ルイ・リュミエール 1864-1948 現代映画の創始者」という碑銘が現れたあとに「ウィリアム・フリーズ・グリーン 1855-1921」という字幕が現れ、その「1855」が消えて「1921」という数字だけが残るという、映画のはじまり方が素晴らしい。
そんなふうに、映画は彼が亡くなる年、1921年から始まる。そして、最初は妻の回想で、彩色フィルムの発明に熱中するかれの姿を、次はフリーズ=グリーンの回想のなかで、さっきの回想よりもさらに遡って、かれが初めて「動く写真」を発明するところを描いてゆく。しかし、回想が順番通りにではなく、前後して描かれているのはあまり意味がないし、正直言って、この回想形式が成功しているように思えない。映画の発明に関する部分も、細かく見ていくと不正確なところが多い気がする。 伝記映画としては成功していない部分も多い。しかし、フリーズ=グリーンがスクリーンに映画を映写することに初めて成功する場面は、映像が動くというただそれだけの事がとてつもなく魔術的な体験だったことを思い出させてくれて実に感動的だ。その最初の上映を、通りすがりの警官、かれをなにか怪しい人物ではないかと疑って、スキがあったら捕まえてやろうと付いてきた警官だというのが、またいい。
この映画のことを知ったのはごく最近なのだが、見たあとでネットで調べてたら、スコセッシが『ヒューゴの不思議な発明』の際にこの映画のことをインタビューで語ってるのを発見した。しかし、スコセッシのフィルターを通した途端に、さっきの「動く写真」の発明シーンが『血を吸うカメラ』の世界と二重写しになってくるから不思議だ。
最近の DVD には、ワイド版(16:9)とスタンダード版の両方が収録されているものが多い。これが70年代や80年代の映画なら迷わずワイド版のほうを見ておけばいいのだが、50年代に撮られた映画となると、事態は意外とややこしいことになる。例えば、キューブリックの『現金に体を張れ』。これなんか、日本ではスタンダード・サイズの作品として通っているがはたしてそれでいいのか。最近出たクライテリオンのブルーレイでは、この映画は唯一ヴィスタサイズで収録されている。ではこちらが正解なのかというと、そうとも言い切れない。たしかに、『現金に体を張れ』はスタンダードで撮られてはいるが、ヴィスタサイズでの上映を意図されていたと言われる。しかし、それが監督本人の意図したところだったのかどうかがイマイチわからないのだ。
同じことは、このノーマン・パナマの『拳銃の罠』についても言える。幸い、DVD にはワイド版とスタンダード版の両方が収録されているのだが、それで問題が解決したことにはならない。どっちを見るほうが正解なのか。
『拳銃の罠』は、マーヴィン・ダグラスと共同監督でコメディを撮ってきたノーマン・パナマが、はじめて単独で監督した映画である。パナマはこのあともほとんどコメディしか撮っていないので、このギャング映画は、彼のフィルモグラフィーの中では例外的な1本といっていい。しかしこれがなかなか悪くはないのだ。
ギャングのお抱え弁護士になっているリチャード・ウィドマークが、長年離れていた故郷に帰ってくる。その田舎町にある空港から、ギャングのボスを国外逃亡させるためだ。彼の弟は、自分のかつての恋人と結婚している。父親との関係も最悪だ。そういう家族の事情が微妙にプロットを左右する。強引にボスを脱出させようとしていたウィドマークだが、父親がギャングたちによって殺されたのをきっかけに、正義に目覚め、ギャングのボスを司法の手にゆだねるために、たったひとりでも彼を護送しようと決意する。
荒野で囲まれた小さな町。ギャングのボスがとりあえず拘留される保安官事務所。ボスを車で護送中に、周囲の丘から射撃してくる見えない敵(ギャングの部下であることはわかってるのだが、姿が全然見えない)。ウィドマークがギャングのボスたちと一時籠城する、荒野にぽつんと取り残されたレストラン……。道具立ては全て西部劇のものだといっていい。ストーリーも、いい意味で、西部劇のように非常にシンプルで力強い。 こういう役はウィドマークのお得意だし、ギャングのボスを演じているのがリー・J・コッブというのも申し分がない。ただ、ウィドマークの弟と、彼のかつての恋人役の俳優がいかにも地味すぎるのが残念だ。しかし、西部劇好きなら見て損はないギャング映画の佳作ではある。
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