日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■6月27日 (木)
『レッズ』(80年、ウォーレン・ビーティ)。「レッズ」とはなんのことかと思ったら、reds (「アカ」)のことだった。「世界を揺るがした10日間」を書いたジョン・リードの半生を描いた映画。どう見ても頭の悪そうなウォーレン・ビーティがジョン・リードを演じているというだけでもうなかば興味をなくしてしまう。ジャック・ニコルソンがユージン・オニール役。日本ではほとんど知られていない作家のコシンスキーがジノヴィエフ役で出演。まあ、この男が書いた本がエイゼンシュタインの『十月』の原作となったということを考えながらみると面白かったりもするのだが、3時間というのはちょっと長すぎるぜ。
■6月24日 (月)
『千曲川絶唱』(67年、豊田四郎)。白血病もののメロドラマ。「難病もの」のクリシェの数々。ぜんぜん面白くない。難病ものといえば、このあいだ初めてテレビで見た『八月のクリスマス』は、場末の写真館を営む男とそこを訪れる交通取締員の女性が互いに惹かれ合うようになるが、男は実は不治の病に冒されていて・・・という物語を「難病もの」のクリシェをいっさい使わず、省略を多用した編集、抑制の利いた描写で、静かに描いた映画で、それなりに面白い。ただ、なにか「アジア的諦念」とでもいったものが全体に漂っていて、いまいち好きになれなかった。やっぱり死ぬ前はもっと欲望むき出しになるんじゃないの?
■6月23日 (日)
『傷だらけの山河』(64年、山本薩夫)。『白い巨塔』同様、人物が型にはまりすぎている。
清原ついにスタメン復帰。
■6月22日 (土)
『アンドレイ・ルブリョフ』(67年、タルコフスキー)。タルコフスキーはモノクロとカラーの使い分けが結構うまい。この映画は大部分がモノクロで撮られており、中世のイコン画家ルブリョフの半生を描くのだが、彼が絵を描いている場面はひとつもなく、同時代の周辺的な出来事がエピソードを積み重ねるように描かれてゆく。冒頭気球が地上に着地する場面は、ソクーロフの『日々は静かに発酵し』を思い出させる。今で言うヌーディスとのキャンプにルブリョフが迷い込む場面。タタール人による襲撃、虐殺。人を殺してしまった罪に苦しむルブリョフは10年間沈黙の刑を自らに課す。少年による銅の鐘づくりのエピソード(素晴らしい)。完成した鐘が鳴るのを聞いて、ルブリョフはついに言葉を発する。ここまでがモノクロ。そして唐突に、カラーでルブリョフのイコン画が提示される。アルバート・ルーウィンの『ドリアングレイの肖像』で一瞬だけカラーで挿入される絵もものすごかったが、『ルブリョフ』のカラーもなかなかのものだ。タルコフスキーは『鏡』でもモノクロとカラーをうまく使って時制を混乱させていた。
『この女たちのすべてを語らないために』(64年、ベルイマン)。蓮實重彦がカラー映画ベスト10の一本に選んでいるだけあって、スヴェン・ニクヴィストの色彩はなかなかすごく、野心的な作品であるとは思うがあまり面白くない。ベルイマンだと知らなかったら、ほとんどピンクパンサー・シリーズの一本かと見まがうぐらいだ。
■6月19日
気がつけば一週間以上日記をつけていなかった。とりあえずさっき見た映画のメモを書いておく。『華氏451』(66年、フランソワ・トリュフォー)。オスカー・ヴェルナーが初めて書物を読む場面。それはディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』なのだが、彼はそのタイトルから冒頭の一段落の終わりまでを読み慣れないせいかたどたどしい口調で声に出して読み進む。本のクロースアップが入り、そこに書かれた文章を彼の指先がたどるイメージに合わせて、文章を読み上げる彼の声がオフで聞こえる。トリュフォー的声とテクストの戯れ。この映画は冒頭クレジットが出ず、屋根のアンテナをカラフルに映し出すショットにあわせてナレーションでスタッフ、キャストが読み上げられる(書物が禁じられていることにあわせて、文字を使わなかったのか?)。秘密図書館の女が本と一緒に焼け死ぬ場面では、ジュネやハドリー・チェイスなどの本の山にまじって「カイエ・デュ・シネマ」も見られる。「スクリーンを燃やすな。書物を燃やせ!」。
『スタフ王の野蛮な狩り』(79年、ワレーリー・ルビンチク)。マリオ・バーバを思わせるロシア製B級ホラー映画。『スリーピー・ホロウ』の元ネタとなった映画とも言われるが、たしかに話は似ている。
『殺陣師段平』(62年、瑞穂春海)。シネスコ・カラーという点と、配役がちがう以外は、マキノ版をほとんどそのまま再現しているように思える。中村雁治郎の段平は悪くないが、ちょっと性格が悪そうに見えるところが良くない。
■6月11日 (火)
『接続』(97、チャン・ユンヒョン)。おしゃれ系韓国映画。スタイリッシュなラヴ・ストーリーという宣伝文句が使われそうな映画。人物の情報を小出しにしてゆくところなど結構うまくて飽きずに見れるが、見ていて特に感動はない。パソコン通信で知り合ったふたりが待ち合わせをする映画館でやっている映画がウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー』だというのはどんなものか。キャメラがパンすると向かいの映画館ではイーストウッドの『目撃』をやっているのが見えるので、おれならこっちに行くなとつい思ってしまった。
■6月9日 (日)
『マリアのお雪』(35年、溝口健二)。駅馬車と同じ原作、モーパッサンの『脂肪の塊』を溝口健二が映画化した作品。プロイセン・フランス戦争は西南戦争に置き換えられている。やはり馬車が出てくるのだが、ほとんど馬車のなかから捉えたショットになっていて、しかも馬車が動く場面はすべて夜なので、外の景色はいっさい見えない。薄暗い風景を移動ショットで捉えたカットがたった一度挿入されるだけ。客車の四方に幕が垂れてあってそれが風で揺れるのがいい。林の中の銃撃戦も切り返しなしに撮られていて、当然ながらフォードの映画とはまるで別物である。ラストで、ふたりの娼婦たちが官軍の将校を逃がしてやったあとでマスネの「タイス」(だと思うのだが)が流れるのだが、次の日たまたまテレビで見た舛田利雄の『青年の環』で芸者がけいこをしている場面で同じ曲が流れた。この曲はなにかこういう芸の世界と関係があるのだろうか。
■6月5日 (水)
『ペイルライダー』『ボディ・ターゲット』。『シェーン』の物語は何度も繰り返されてきた。この物語のさらに原型はどこにあるのだろう?
■6月4日 (火)
そろそろメルマガを発行しないとまずいので、日記を書いてる暇もない。とりあえずテレビで印象に残った映画のタイトルだけでもめもしておく。『捜索者』『ブロンコ・ビリー』『藍月』『ペイルライダー』『愛の地獄』『悲しき口笛』。
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■5月28日 (火)
『相続人』(97年、ロバート・アルトマン)。『ロング・グッドバイ』の系列につながる作品といちおうは言えるか。最近あまりぱっとしないアルトマンだが、アルトマンらしさがこれほどまでに欠けている作品は見たことがなかった。
■5月27日 (月)
『しのび逢い』(54年、ルネ・クレマン)。ジェラール・フィリップ主演に、ドン・ジュアニスムを描く映画。つまり、誘惑するだけで愛することができない男の話だ。フランスではこの映画の評価がやたら高いらしいのが解せない。50年代のロンドンが描かれているのが魅力といえば魅力か。ジェラール・フィリップの男としての魅力はわからないでもないが、俳優としての魅力がどこにあるのか、正直言ってよくわからない。レイモン・クノーが台詞を担当している。まあ、アルバイトだろう。
『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(98年、ケン・ローチ)。アルコール中毒からなんとか立ち直って、しがないサッカーチームの監督をしている男が、選手の一員の妻が薬に溺れて作った借金の肩代わりに、薬の密輸の仕事を自ら買って出る羽目になるという皮肉な物語。グラスゴーの貧困階級を描く。どこが悪いというわけでもないが、ドラマが切実なものとして響いてこない。ケン・ローチの政治的姿勢はいつもながらりっぱなものであるが、いまひとつ乗りきれない作品が多いのはなぜだろう。
■5月23日 (木)
『愛の破片』(98年、ヴェルナー・シュレーター)。愛を歌ったオペラのアリア、デュエットの断片と、歌手たちのインタビューより構成されたドキュメンタリーふうの映画。愛、そしてそれと同じぐらい死が語られる。撮影はどこかの修道院で行われているらしく(よくわからないが)、シュレーター自身が画面に登場して演出をつけている。同じ風景を捉えた短いカットが何度も繰り返し挿入され、映画がしだいに呪術的な色合いを帯び始めてくるのが、いかにもシュレーターらしい(あの風景はいったいどこなのだろう?)。オペラの持つエモーショナルな魅力は十分に伝わってくるが、タイトルの意図するものはいまいちわからなかった。
■5月21日 (火)
『新忍びの者』(63年、森一生)。『続忍びの者』の最後で釜ゆでの刑に処せられるところだった石川五右衛門が逃げ延びて、徳川家康に利用されるかたちで逆に彼を利用しつつ仇の秀吉を討つまでを描く。秀吉の朝鮮出兵の顛末が描かれているのが興味深い。
『白い巨塔』(66年、山本薩夫)。医学部の教授のポストをめぐる学内のどろどろとした駆け引きを描く。まあ、それなりに面白いのだが、まず長すぎる。半分ぐらいに縮めればもっと面白くなっただろう。教授のポストを狙う田宮二郎にせよ、それを阻もうとする東野英治郎にせよ、日和見主義者の小沢栄太郎にせよ、人物の行動原理がすべて名声と金であるというのはあまり図式的すぎて、途中で飽きてしまう。たとえば増村の『暖流』に描かれる左幸子のコントロール不可能な情念とくらべると、表面的な感は否めない。
『逢びき』(45年、デビッド・リーン)。雰囲気はいいんだけどねぇ。ナレーションでのべつ幕なしに「心理」を説明するのは止めてほしい。
『翼のない天使』(98年、ナイト・シャマラン)。『シックス・センス』のナイト・シャマランの監督作品。別に普通の映画だった。祖父の死をきっかけに神を探す少年の話。意外とその後の彼の作品を解く鍵となるテーマかもしれない。
『サラーム・ボンベイ』(88年、ミーラー・ナーイル)。ボンベイのストリート・チルドレンを描く風俗映画。それ以上でも以下でもない。
■5月16日 (木)
『忍びの者』(62年、山本薩夫)。伊賀忍者・石川五右衛門VS織田信長。秘密の出入り口を使ってふたつの隠れ家を往復しつつふたりの頭領を演じる伊藤雄之助が、なにを考えているのかがわからないのが不気味だ。
『続忍びの者』(63年、山本薩夫)『忍びの者』のラストシーンから始まる完全な続編。ここでは石川五右衛門の活躍はむしろ背景に退き、信長、家康、秀吉、そして光秀のあいだの権力をめぐる腹のさぐり合いが前景に描かれる。子供を焚火に放り込むなど描写も残酷。五右衛門は、子供を殺した信長の敵を討つが、今度は秀吉に妻を殺され、その仇を討ちにいって生け捕りにされ、生茹での刑に引っ立てられてゆくところで終わる。雷蔵の妙につり上がった眉毛のメイクは少しコミカルすぎないか?
■5月15日 (水)
『眠狂四郎 円月斬り』(64年、安田公義)。シリーズ3作目。前の2作に較べて明らかに完成度は低い。『眠狂四郎 女妖剣』(64年、池広一夫)。この4作目から狂四郎は急に好色になり、映画も猟奇性を深める。女だけは斬らなかった狂四郎が初めて女を斬るのも、この作品から。このシリーズでは毎回同じ俳優がぜんぜん別の役で登場する。2作目で乱心の若姫を演じた久保菜穂子が今作では狂四郎と血のつながりを持つという尼ぴるぜん志摩を演じている。1作目で対決した城健三朗(若山富三郎)がふたたび同じ役で登場するが、ここでも船の上の対決は結局、城が海に飛び込んで逃げて終わり。
■5月14日 (火)
『アナザヘヴン』(00、飯田譲治)。立ち上がりはまあまあだったので少しだけ期待したが、終わってみると最低の映画。『パラサイト・イブ』といいこの映画といい、想像力が貧しすぎる。
『桃太郎侍』(57年、三隅研次)。またしても一人二役。雷蔵が若殿とその双子の弟を演ずる。権力争いの陰謀のため毒殺されかかった兄に変わって、弟がその替え玉を買って出る。そこに憎めない小悪人の木暮実千代や堺駿二などが加わって楽しい。
『眠狂四郎 殺法帖』(63年、田中徳三)。「眠狂四郎シリーズ」の記念すべき第一作。ニヒルの代名詞のような狂四郎だが、この作品では中村玉緒に本気で惚れて、一瞬甘い夢を見たりしている。
『眠狂四郎 勝負』(64年、三隅研次)。第4作で明かされることになっている狂四郎の出生の秘密の伏線がすでにこの2作目に張られてあったりして、このシリーズは全体として周到に作られている。「インディー・ジョーンズ」シリーズもこれを見習ってほしいものだ。加藤嘉の頑固な勘定奉行ぶりとか、占い師役の藤村志保の謎めいた登場のさせ方がなかなかいい(彼女の囚われの夫が外国人のキリシタンという設定)。屋台のうどん屋の娘の高田美和がかわいいぞ。悪役がどれもいまひとつ迫力がないので、全体にもうひとつしまりがないのが残念だ。
■5月13日 (月)
『ロビンソナーダ』(86年、ナナ・ジョルジャーゼ)ロンドンとデリーをつなぐ電線の整備のためにグルジアにやってきたイギリス人の電信技師を描く映画。時は前世紀初頭。電信技師は土地の娘と恋に落ちるのだが、やがて革命の波がグルジアにも押し寄せ、イギリスへの愛国心から革命に反対する彼はグルジアを追放されそうになる。ところが、奇妙な話だが、この当時のイギリスとグルジアとの協定で、電柱の3メートル以内はすべてイギリス領であり、その範囲の石も草も電柱にとまるカラスさえもイギリスのもとするという取り決めがあった。そこで彼は電柱の下にベッドや荷物を運んでそこで生活をはじめる。街に足を踏み入れてはならないという革命軍の命令には、ロバに乗って街に行くことで対処するのだが、そのロバを彼はフライデーと名づける。「ロビンソナーダ」というタイトルはたぶんこのへんから来ているのだろう。こういった協定が本当にあったのかどうか定かでないが、映画はなかばドキュメンタリーふうに撮られている。この技師の息子が父親の物語を音楽にし、かつそれを映画にして自分が父親の役を演じるという趣向だ。全体としてそれほど完成度が高い映画でもなかったが、電柱のエピソードはなかなか面白い。
■5月11日 (土)
昨日、ジュンク堂でテーブルに座って、坂口安吾をちくま文庫版を買うか講談社文芸文庫版を買うか悩んでいたら、そのときあまりに疲労しすぎていて少し眠ってしまった。今日もまだ眠い。
『うずまき』(44年、マイケル・パウエル)。スコットランドの荒々しい風景を背景にパウエル=プレスバーガーのコンビが撮り上げた素晴らしい恋愛映画。都会に住むヒロインのウィンディ・ヒラーがフィアンセの大富豪のいる島にやってくるところから映画は始まるのだが、濃霧のために島に渡る船が出ず何日も立ち往生してしまう。土地の人々はときおりゲール語を話し、厳しいながらも牧歌的な生を謳歌している。彼女はそこで知り合った土地の男(ロジャー・リヴシー)の素朴さにしだいに引かれてゆくのだが、自分の気持ちを振り切るようにして、まだ強風の吹き荒れる海に船を出してフィアンセの待つ島に渡ろうとする。その途中で船が大きなうずまきに飲み込まれそうになる場面があるのだが、これがなかなかの迫力で本気で恐いと思ってしまった。このうずまきには伝説があって、うずに飲み込まれようとしている人を最初は絹で編んだ網で、次に麻で編んだ網で助けようとするのだがどちらも破れてしまう。最後に、女たちの髪の毛で編んだ網を投げるとその網は破れないのだが、その女たちのなかに一人だけ不実な女がいて、その髪の毛で編んだ部分がほころび・・・。要するに真の愛だけが救うことができるという伝説だ。そして、実際、ヒロインは大富豪のフィアンセをけってロジャー・リヴシーと一緒になるというハッピー・エンド。
■5月8日 (水)
『潜水艦轟沈す』(41年、マイケル・パウエル)。潜水艦物だと思ってみたが全然違った。潜水艦は冒頭の10分ぐらいで沈没してしまう。この映画はその潜水艦から生き残った6人のナチス党員がカナダに上陸してからのサバイバルを描く異色の反ナチ映画。人目を避けながら彼らが横断してゆくカナダの風景が新鮮だ。小高い岩山から海際の民家を捉えた俯瞰ショットとか、風に揺れる麦畑とかが素晴らしい。彼らは水上偵察機を奪ってアメリカを目指すが、うち一人はエスキモー(イヌイット)の銃弾に倒れ、飛行機も墜落する。次に彼らは、カナダに移住していたドイツ人の開拓部落にもぐり込む(こういう人たちはなかなか映画には登場しないので、貴重だ)。同じドイツ人ということで自分たちの同志たちだと勘違いしたナチのリーダーが、そこでヒトラーを賛美する演説をしてひんしゅくを買うところが面白い。そこにも居づらくなった彼らは、また逃亡の旅を続け、やがてしだいに追いつめられてゆく。最後はリーダーだけが生き残り、アメリカ行きの列車になんとかもぐり込む。その列車のなかで出会ったレイモンド・マッセイと彼とのやりとりが面白い。マッセイは自分が入隊したアメリカ軍に対する不満を彼にぶつける。『老兵は死なず』でも聞かれた、ドイツ人の民主主義に対する侮蔑がナチのリーダーの口から表明される(「民主主義は腐敗している」)。それに対するマッセイの答えが面白い。「おまえは分かっていないな、民主主義の悪口を自由に言えるところが、民主主義たるゆえんなんだ。」
■5月3日 (金)
『悲しみは星影とともに』(66年、ネロ・リージ)。ナチス占領下のユーゴスラビアを舞台に、ユダヤ人一家の悲劇を描く。時代の雰囲気としては『悪童日記』のころと重なるかもしれない(あれはいちおうブダペストが舞台らしいのだが)。この時代にこういうテーマを描いたイタリア映画があったとは知らなかった。そんなに出来のいい映画でもないが、なかなか野心的な企画ではある。主演をまだ若いジェラルディン・チャップリンが演じている。邦題はこういう重いテーマをごまかすためのものか、意味不明だ。
■5月1日 (水)
テレビでヴィスコンティの『ベリッシマ』を見る。ヴィスコンティはやはり初期の作品の方が断然いいのだが、特にこの映画が好きだ。とにかく口うるさい映画である。だれも彼もが自己主張してがなり立てるし、子供はワーワー泣いているし。まったくうるさくてしょうがないのだが、それがまた楽しいのだ。娘を映画スターにしようと、なけなしの金を使って日々奔走するアンナ・マニャーニが圧倒的に素晴らしい。納得のできないことにはどうあっても黙っていられないといういかにもイタリア女らしいパワフルさと同時に、非常に繊細でもろいものを感じさせる、もう演技を越えた演技。試写室の映写室から自分の娘が出ているラッシュフィルムをそっと盗み見る彼女の顔はどうだ。ほとんどラファエロを思い出させるといったら大げさか。
彼女が住む集合住宅が初めて出てくる場面で、洗濯物が干された中庭をキャメラがパノラミックでとらえる瞬間。チネチッタから打ちひしがれて帰ってきた彼女が、娘と一緒に夜のベンチに座る後ろ姿をとらえるショット。まさに映画だ。
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■4月30日 (火)
どうも最近精神状態がよくない。急に内田百間(けんの字が見つからない)が読みたくなり、『冥土/旅順入城式』をベッドのなかで読み返していると、よけいに気持ちがおぼつかなくなってくる。こういうときはなにを読んだらいいのか。『ハリー・ポッター』でも買って読んでみるか・・・。とっさに思いつかないので、すぐに元気が出る特効薬となる本のリストをあらかじめ用意しておいた方がいい。で、考えてみた。
『ガラスの仮面』(美内すずえ) 恥ずかしながらこれがやはり一番元気が出る。
『バタアシ金魚』 (望月峯太郎) こういうときってやっぱり漫画しかないのかなあ。
『ドゥルーズの思想』(ドゥルーズ/パルネ) 読み返しすぎたので、いまいち新しさに欠けるが。
『監督ハワード・ホークス 映画を語る』 彼の映画と同じ一点の曇りもない明晰さ。
『堕落論』(坂口安吾)
まだまだ完成にはほど遠いな。もう少しじっくり考えてリストを練り直してみよう。
■4月28日 (日)
『リディアと四人の恋人たち』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)。マール・オベロンは相変わらず最悪だ。『ディナーの後に』(イム・サンス監督)。女3人のセックス談義。「週間宝石」みたいでなかなか退屈だ。韓国にまだ姦通罪があったことは初めて知った。『陽気な幽霊』(デヴィッド・リーン監督)。幽霊が全身を緑色に塗って現れるのが笑わせる。面白いのはそこだけだった。大した映画はないな。
■4月27日 (土)
そろそろメルマガを出さないといけないので、サイトを更新している暇が全然ない。今回は、まぐまぐのおすすめメルマガに推薦されて読者が急にふえてしまったので、あまり手抜きはできないのだ。
■4月19日 (金)
オリヴェイラの『家路』とマルズィエ・メシュキニの監督デビュー作『私が女になった日』を見る。『私が女になった日』ははっきり言ってめちゃくちゃ面白い。早速レビューを書かないと。
■4月17日 (水)
最近、高橋源一郎の『もっとも危険な読書』を読んだせいで、急にいろんな本が読みたくなった。もっとも、彼が書いている本が読みたくなったと言うより、たんにいろんな本が読みたくなったのだ。仕事とは言え、高橋さんの読書はなかなか幅広いネェーとしきりに感心する。おれも頑張ろう。
『ホワイトハンター、ブラックハート』(クリント・イーストウッド監督)をひさしぶりにテレビで見直す。ずいぶん昔に見た映画で、かなり忘れていたのだが、なかなかいい映画だ。象を撃つことに憑かれた映画監督の物語。映画を撮る(shoot)。象を撃つ(shoot)。つまりは、シューティングをめぐる映画だ。イーストウッド演ずる映画監督は撮影そっちのけで像を探しに行くが、しとめる機会を何度も逃す。そしてついにそのときがやってくるが、彼は至近距離から象にライフルでねらいを定めたまま結局引き金を引くことができない。何故?「象を殺すことは犯罪だ。」「いやこれは罪だ。」彼にとって、象を殺すことはたんなる犯罪ではなく、罪である。イーストウッドはこれまでさまざまなものと戦ってきた。相手は女ストーカーであったり、ガンマンであったり、戦闘機であったり、偏執的な犯罪者であったり、様々だが、いずれも目に見える相手が問題だった。だが、ここで彼が戦っているのは目に見えるもの(象)を超えた何ものかである。だからこそ彼には引き金が引けないのだ。彼を助けようとした黒人の案内役が殺され、茫然自失の状態で彼は撮影現場にもどってくる。しばらくのあいだディレクターズ・チェアに黙って座ったままでいた彼が、撮影クルーにうながされ、深い諦念を感じさせる表情と声で「アクション!」と言うところで映画は終わる。
■4月16日 (火)
どうしても見たい幻の映画ベスト5。
ルビィ(キング・ビダー監督)
The Naked Dawn(エドガー・G・ウルマー監督)
リリス(ロバート・ロッセン監督)
七人の無頼漢(バッド・ベティカー監督)
逮捕命令(アラン・ドワン監督)
■4月14日 (日)
昨日メルマガを出し終わったので、やっとしばらくゆっくりできる。最近まともに本を読んでいない。読書でもするか。
メルマガにも書いたが、 塩田明彦の『害虫』を見た。仮借なき現実をなんの幻想もまじえずに描く映画だ。おかげで見たあとですっかりへこんでしまった。こういうときはホークスを見るのに限る。帰って録画しておいた『三つ数えろ』を見る。何度見ても話がよくわからない。話が分からないのにこんなに面白いというのはいったいどういうことか。謎である。
■4月11日 (木)
『サンデイ・ドライブ』(斉藤久志 監督)。『フレンチ・ドレッシング』で注目していた斉藤久志だが、この作品でも独特の間合いを生かした長回しと、異常なシチュエーションをどこまでも日常的に描くスタイルは健在だ。レンタル・ビデオ店の中年の店長を演じる塚本晋也の力の抜け具合がなかなかいい感じ。『大いなる幻影』の唯野未歩子が『フレンチ・ドレッシング』に続いて主演している。不思議な存在感があって最近お気に入りの女優だ。この監督もっと注目されてもいいと思うのだが・・・。
■4月6日 (土)
阪神開幕7連勝。たしかにこれは異常な事態だ。けど、阪神って連勝した後は必ず思いっきり連敗するからな。もしそれがなければ、これはひょっとするとひょっとする可能性もあり、か?
ゴダール『映画史』のDVDを買ってしまった。Apple DVD Player で見ようと思ったのだが、なんとしたことかソフトが立ち上がらない。インストールし直せというメッセージがでるのだが、インストールさえできない。後でネットで調べてみてわかったが、MacOS 9.2.1 にはApple DVD Plyer をインストールできないという問題があるそうだ。しっかりしろ、アップル! もっとも、わたしの場合は、先にインストールしてから、システムを9.2.1にアップグレードしたので、インストールし直す必要はなかったのだ。ソフトが立ち上がらなかったのは、ATI Resource Manager というファイルをはずしていたせいだった。それをもとに戻したら、問題は即解決した。これでやっと『映画史』が見れるぜ。
『ロスト・ワールド』。恐竜版『ハタリ』。
■4月5日 (金)
先日、京都で『ビューティフル・マインド』と『アメリ』を見た。『ビューティフル・マインド』はさすがロン・ハワードと思わせるよくできた映画だった。ただ、結構トリッキーな作り方をしてあるので、あんまりしゃべるとネタをばらしてしまうことになりそうだ(最近、こういう映画が多いんだよな)。ただし、ラッセル・クロウの演技は『レイン・マン』のダスティン・ホフマンの猿真似に見えたし、そもそも彼は天才には見えないというのがちょっと減点対象だろうか。
『アメリ』はチケットをもらったので見に行ったのだが、まあ、予想通りの映画だった。ハイテクを駆使したレトロな画面によって描かれるボーイ・ミーツ・ガール物語で、ファースト・カットからラスト・カットまで一瞬たりともリアリティが感じられない。登場人物もまるで3Dのアニメのなかのキャラクターのようで、生身の肉体を持った人間に思えない。まあ、自閉症気味の少女を描いた映画なのだから、内容には合ってるということかもしれないが、それはちょっと違うだろう。いずれにしても、こういうものを見るために今まで映画を見てきたのじゃないぞというのが正直な感想だ。
阪神が開幕5連勝。これはいったいなんの前兆なのか・・・
それにしても、今年からまた野球中継に変なものが現れた。「ヴァーチャル君」というCGをつかったパソコンの野球ゲームの画面のようなものを使って、次にピッチャーがこのコースに投げればこのバッターが打った打球はここに飛ぶといったことをシミュレーションしてみせるというものだ。たしかによくできているし、こういうものを作るためには膨大なデータも集めてあるんだろうけど、今生中継で野球を見ているときにどうしてこんな作り物の画面を見なきゃならないのか、意味不明だ。
■4月1日 (月)
ビリー・ワイルダーが95歳でなくなった。もっとも、81年の『Buddy Buddy』以来映画は撮っていなかった。ほとんど年の違わないオリヴェイラがいまだに現役なのとは大違いだ。正直言って、映画監督としてのワイルダーにはさして思い入れはなく、ルビッチの『青ひげ八人目の妻』や『ニノチカ』、ホークスの『教授と美女』の脚本家としての印象の方が強い。ぜんぶ見たわけではないが、ワイルダー作品で本気で好きなのは『深夜の告白』一本だけだ。それも、脚本にチャンドラーが参加していたことが大きいのかもしれない。あとは『情婦』がちょっと面白かったぐらいか。このへんの作品のことが、ワイルダーの死を伝える報道のなかではほとんど無視されているのは、いかにもという気がする。まあ、世間でいわれる「面白い映画」と自分にとっての面白い映画にずれがあることに今さら驚きはしないが。そういう意味でいうと、日本ではほとんど忘れられている70年の英国作品『シャーロック・ホームズの冒険』は結構変な映画らしいので、逆に見てみたい気がする。
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