日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
キング・ヴィダー『Beyond the Forest』(49)
もう数十年前からずっと見たいと思っていながら、なかなか見る機会がなく、自分の中では幻の映画となっていたヴィダーの『Beyond the Forest』(『森の彼方に』)をやっと見ることができた。
キング・ヴィダーのフィルモグラフィーには、社会の規範をものともせずに、狂気にも似た愛、あるいはそれと表裏一体の激しい憎悪に突き動かされ、己の理念と欲望のみに従って激しい生を生きるものたちを描いた作品群がある。この、「ブラック・ヴィダー」あるいは「裏ヴィダー」とでもいうべき作品群は第二次大戦後に始まり、『白昼の決闘』や『ルビイ』など、『嵐が丘』にも似た激しい恋愛を描いた作品はもちろん、「規範を作るのは自分だ」と主張して社会と敵対してゆく建築家を描く『摩天楼』、土地を囲う柵を狂ったように嫌う「星のない男」(定めなき男)を描く『星のない男』などもこの系譜に含まれる。
『Beyond the Forest』は、ヴィダーが晩年に撮ったこれら残酷で激しい一連の作品のひとつであるだけでなく、その中でも最も陰鬱な作品であると言ってもいいかもしれない。
田舎町の善良で野心のない医者の妻(ベティ・デイヴィス)が、息が詰まるほど退屈な日常に嫌気がさし、贅沢と都会へのあこがれから金持ちの実業家と不倫を重ね、その果てに殺人にまで手を染め、さらには、夫の子供を流産させようとしたあげく、自滅してゆく。
まるで『ボヴァリー夫人』をフィルム・ノワールとして映画化したかのような物語である。しかし、この映画のデイヴィスには、エンマ・ボヴァリーにあるような人の共感を呼ぶ魅力はかけらもない。エンマがロマンス小説を読みふけって夢をふくらませていったように、この映画のデイヴィスは、最新流行の雑誌で目にした家具やファッションをそろえて日常生活を彩ろうと虚しく試みるが、そんな彼女の欲望は周囲の人間には理解できないし、そもそもそんな金もない。そこで彼女は、善良な医者の夫が貧しい患者たちからもらわないでいた治療費を無理やり取り立てて、ただただ自分のために服やアクセサリーを購入するのである。
これがきっかけで夫にも愛想を尽かされ、デイヴィスはあこがれのシカゴ(ボヴァリー夫人にとってのパリのような存在)に嬉々として愛人に会いにゆくのだが、別の恋人を見つけていた彼にすげなく拒否され、すごすごと故郷に舞い戻り、夫に許しを請う。しかし、しばらくしてその愛人が、やっぱりおまえしかいないといって彼女の元に返ってくると、まるで犬が尻尾を振るようにして、一瞬で夫を捨てて愛人の元に走るのである。 本人も後に述懐しているように、ヒロインを演じるにはいささか歳を取りすぎていたこの映画のデイヴィスの演技は、ほとんど自己パロディといってもいいほどのグロテスクさに達しており、この十数年後に撮られる『何がジェーンに起こったか?』の演技をすでに予告している。『白昼の決闘』や『ルビイ』の恋人たちや、『摩天楼』の建築家には、そのエゴティスムにもかかわらず、あるいはそれ故に強烈な魅力を放っていたものだが、ここでのデイヴィスはエゴティスムの負の側面だけを浮き彫りにしているように思える。もしも『Beyond the Forest』のデイヴィスに魅力があるとするならば、それは醜さというネガティヴな魅力であり、この映画の彼女はひたすらその醜さによって強烈な印象を残す。
この映画でひとつ興味深いのは、デイヴィスの身の回りの世話をするメイドの存在である。彼女は浅黒い顔をしたインディアンで、おそらくろくに教育を受けておらず、受け答えもがさつで品がなく、そのことでデイヴィスに絶えずいびられているのだが、そのたびに反抗的な目つきで彼女をにらみ返す。しかし、その一方で、このメイドの外見はデイヴィス演じるヒロインと驚くほど似ているのである。このメイドが原作の中でどのように描かれているのか知らないが、ヴィダーがこのメイドとデイヴィスのあいだに鏡像関係を持たせようとしていたことは間違いない。それは、階段の手すりの柵を使った構図の反復などにもはっきりと見て取れる。いくら着飾ろうと、彼女はこの醜いメイドと瓜二つなのだ……。
今でこそこの作品は、彼女の負の代表作としてカルト的な評価を得ているが、デイヴィスは撮影中に監督のヴィダーとたびたび衝突し、映画の出来にもまったく満足していなかったようである。ちなみに、この映画をきっかけに、ベティ・デイヴィスは、かねてより関係の悪化していた古巣ワーナーから離れることになる。これは彼女のワーナー最後の出演作である(そのはず)。
数あるヴィダー作品の中で、わたしはこの裏ヴィダーとも呼ぶべき一連の作品群にとりわけ惹かれるのだが、この『Beyond the Forest』には、正直言って、『摩天楼』や『ルビイ』ほどにはのめり込めなかった。それには、このベット・デイヴィスという女優がやはりどうしても好きになれないということが大きくかかわっているらしい。ただ、この映画のヒロインを彼女以外の女優が演じていたなら、それはまったく別の映画になっていたことも間違いない。良くも悪くもこれは彼女の映画なのである。
しかし、この映画に乗り切れなかった理由はそれだけではないかもしれない。見ていてどうもうまくいってないなと思えるところがいろいろあるのである。たとえば、ラスト近く、愛人とやり直すことになった矢先に、夫の子供を身ごもっていることを知った彼女が、医者である夫にそれとなく堕胎を迫る場面。その直後に、彼女がこっそり弁護士の事務所に入っていくところを夫に見つかり連れ戻される場面が続くのだが(ここでもメイドとヒロインの外見の相似が利用される)、ここのつながりがどうにもわかりにくいなと思っていたら、本当はそこで彼女が怪しげな堕胎医のところに行くシーンが入るはずだったのに検閲で削られてしまっていたらしいことが、あとで分かった。
実際、この映画は脚本段階から検閲と相当もめたらしく、完成した作品にもその痕跡はあちこちに見て取れる。見ていてどうもスッキリしないところがあったのだが、その中には検閲のせいで作品を変更せざるを得なかった部分が多数含まれていたのかもしれない。それにしても、デイヴィスが狩猟中の事故に見せかけて人を殺すシーンはあっさり許可しておきながら、堕胎をにおわすシーンには敏感に反応するとか、ブリーン・オフィスのやることはよく分からない。
とにもかくにも強烈な印象を残す作品であることは間違いない。
最後に、だれもが知っている話だと思うが一応書いておこう。劇作家エドワード・オールビーは、戯曲『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(62) の中で、この映画のベティ・デイヴィスが発する "What's a dump" というセリフを引用している。これがこの映画の知名度を高めるのにどれほど貢献したかは知らないが、この映画の話になると必ず引き合いに出されるエピソードではある。
TCM 版の DVD(下)の画質は、最高とまでは言えないものの十分鑑賞に堪えうるものとなっており、DVDBeaver などの評判から察するに、未見のスペイン版よりはよほどクオリティの高いものになっていると思われる。
■Pioneer ブルーレイプレーヤー アップスケーリング機能搭載 ブラック BDP-3130-K
わけあってブルーレイプレーヤーを新しく購入した。
パイオニアのプレーヤーは長持ちせず、数年で壊れてしまうことがこれまで何度かあったのだが、求めている機能とコストを考えて選んでいくと、結局パイオニアのものになってしまう。今回も、Amazon や楽天のコメントを読みまくっていろいろ検討した結果、やはりパイオニアのプレーヤーを買うことになってしまった。
ほしかったのは、PAL が再生可能で、HDMI 接続ができて、価格が1万円台までのブルーレイプレーヤー。候補はいくつかあったが、ユーザーの評判と価格の安さでこれに決めた。値段は常に変動しているのだが、わたしが買ったときには9千円を切っていた。ただの再生専用プレーヤーなので必要十分な機能しか付いていないが、ブルーレイと DVD だけでなく、PAL や動画も再生できて、8千円台というのはなかなかのコストパフォーマンスだ。
これは並行輸入品ではなく、日本国内向けに発売された商品なのだが、こういうもので PAL も再生できるというのは割と珍しい。あとは東芝のものくらいだろうか。不思議なのは、このプレーヤーも、東芝のものも、PAL のディスクが再生できることを商品説明ページでは全然宣伝していないことだ。PAL が再生できることが、法的にグレーということでもないと思うのだが……。PAL も見られるというのはあまり商品価値にならないということなのだろうか。(この商品の取扱説明書には、PAL も再生可能であると、あっさりとだがはっきりと書いてある。)
念のために一言。このプレーヤーはたしかに PAL の DVD を見ることができるが、いわゆるリージョンフリー機ではないので、海外のどんなディスクでも再生できるわけではない。取説にも、リージョン2および ALL のみ再生可能と明記してある。だから再生できる PAL のディスクは日本で発売されている DVD などと同じリージョン2のものか、いわゆるリージョン ALL のものに限られるので注意が必要だ。
以前に使っていたふたつのパイオニアのプレーヤーは、使っているうちに再生中のノイズがだんだんと気になってきて、結局そのノイズに比例してプレーヤー自体もダメになっていったのだが、今のところこれはとても静かに動いていてくれる。できることなら、このまま静かに動いていてほしい。
値段相応に、ごくごく基本的な機能しか付いていないプレーヤーなのだが、ひとつびっくりしたのは、〈字幕移動モード〉なる機能が付いていたことだ。これは、DVD などを再生中に、字幕の位置を上下左右に自由に移動できる機能なのだが、字幕の位置というのは DVD のオーサリング時に決まってしまって動かせないものだと思っていたので、そんなことができると知ってちょっとびっくりした。 いわゆるレターボックスでワイド画面の映画が収録されている DVD を見ているとき、画面をズームしてモニターいっぱいに広げてみたいときがあるのだが、そうすると、もともと字幕が低い位置に入っていたときに、字幕が下の方に隠れて見えなくなることがあって、こんな機能があればいいのにと実は思っていたのだった。まさか本当にそんなことができるとは思わなかった。これは実にありがたい機能だ。しかし、そのわりにはまったくフォーカスされていないし、取説でもごくあっさりと説明してあるだけなのが不思議だ。ひょっとしたら、今時のプレーヤーにはみんな付いている珍しくも何ともない機能なのかもしれないが、わたしには初体験だったので、ちょっと感動した。
このブルーレイプレーヤーで唯一不満があるとしたら、リモコンが異常に使いづらいということだ。これは Amazon のコメントなどを読んで買う前から覚悟はしていたのだが、このリモコンの使いづらさは正直予想を遙かに超えていた。手のひらに収まるぐらいの小さなリモコンに、同じような大きさのボタンがごちゃごちゃと並んでいて、いつまでたっても慣れない。ほかのリモコンなら、暗い部屋の中でも直感的に操作できるのだが、これは明かりをつけていてもどれがどのボタンだのかさっぱり分からない。しかも、ボタンが堅くてよほど強く押さないと反応しない。はっきり言って最低のリモコンだ。 もっとも、テレビとプレーヤーが連動しているなら、テレビ側のリモコンでもある程度操作できるので、再生と一時停止、早送りなどは使い慣れたリモコンを使えばなんとかしのげる。 このリモコンはたしかに噴飯ものだが、値段を考えると、全体としてこの買い物には満足している。あとはどれだけ長い間持ってくれるか。それだけが心配だ。
ロバート・モンゴメリー『Ride the Pink Horse』
『湖中の女』で監督デビューした俳優ロバート・モンゴメリーが、同じ年に続けて撮ったフィルム・ノワールの傑作。日本では残念ながら未公開であるが、フィルム・ノワールのファンのあいだではかなり有名な作品である。全編一人称キャメラで撮られた『湖中の女』とくらべるといささかインパクトに欠けるかもしれないけれど、作品の出来はこちらのほうが断然いい。
映画は、主人公(監督ロバート・モンゴメリーが自ら演じている)がメキシコの田舎町にバスで到着するところから始まる。 バスを降りたモンゴメリーは、いかにもよそ者の雰囲気を漂わせながら、バスターミナルの建物の中に入ってゆき、奥のベンチに座ると、鞄から銃を取り出してこっそり懐に入れる。立ち上がって近くのコインロッカーの中になにかの紙切れを置いて鍵を閉め、傍らの自動販売機でチューインガムを買う。噛んだガムを口から取り出して、ロッカーの鍵をその中に包むと、壁に掛かっている大きな案内地図の前に立ち、人目を気にしながら、地図と壁の隙間にガムを貼り付ける。そして、建物から外に出ると、近くにいただれかにホテルの場所を尋ねる……。
バスを降りる瞬間から、キャメラはモンゴメリーを背中越しに追いはじめ、彼が一連の動作を終えて建物から出てくるまでを、ワン・ショットの長回しで一息で捉えてみせる(撮影はラッセル・メティ)。たしか『市民ケーン』に触れてだったと思うが、一人称キャメラを使うよりも、人物を背中越しで追っていくほうが、登場人物の生きている世界に観客を引き込むことができると、トリュフォーがどこかに書いていた気がする。これはまるで、『湖中の女』と『Ride the Pink Horse』の冒頭のショットを比べて語った言葉のようではないか。
しかし、この男はいったい何者なのだろう。映画が進むにつれ、どうやら彼は親友を殺されたのであり、この町に来たのも、その犯人に会うためらしいということが分かってくる。目的は復讐なのか。最初はそう思えたのだが、実は、男がこの町に来たのはそんな正義感に突き動かされてのことではなく、この町の有力者であるその犯人を強請って金を取るためだった……。
ちんけな悪党が儚い夢を見て、自分の手には負えないことに手を出してしまい、結果、自滅していく様を、この映画は、メキシコのエキゾチックな風景の中に実に見事に描き出してゆく(フィルム・ノワールにおけるエキゾティシズムという点で、『国境事件』『黒い罠』『クリムゾン・キモノ』『東京暗黒街・竹の家』等々の作品との比較も可能だろう)。
死者の日の祭りで町が盛り上がる中、瀕死の重傷を負った主人公は、回るメリー・ゴー・ラウンドの馬の陰に身を潜める。メリー・ゴー・ラウンドは無論、フィルム・ノワール的な宿命の象徴といっていいだろう。ぐるぐると回っているだけで、決して目的にたどり着けない主人公の姿を、それは陳腐なまでに見事に表している(ちなみに、「ピンクの馬に乗れ」といういささか風変わりなタイトルの「馬」とは、作中に出てくるこのメリー・ゴー・ラウンドの馬のこと)。しかし、意識が朦朧となった主人公が記憶をなくし、追われていることも忘れて、自分を殺しかけた相手のところにまたのこのこと出かけていく場面には本当に驚いた。彼は文字通り、まったく同じことを反復してしまうのである。
主人公の顔を一目見て、まるで夢の中で知っているだれかに出会ったかのように驚き、以後、ずっと彼につきまとうちょっと頭の足りないジプシー娘(ワンダ・ヘンドリックス)の存在も重要で、彼女はなぜか、彼がもうすぐ死ぬ運命にあると思っているのだが、それは見知らぬ男に一目惚れした思春期の娘のただの気まぐれだったのかもしれない。『夜は千の眼を持つ』ほどファンタジーのほうに振り切れてはいないが、彼女の存在はこの映画にほんの少しだけファンタジーの要素を付け加えている。いずれにせよ、彼女の存在が結果的に彼を救うことになるのである。
戦後まもなくに撮られたこの作品で、ロバート・モンゴメリー演じる主人公もやはり戦場から帰ってきたばかりの復員兵である。この映画は、ドミトリクの『影を追う男』、ジョージ・マーシャルの『青い戦慄』、ジョン・クロムウェルの『大いなる別れ』(いずれも復員兵を主人公にした作品)などと並んで、戦後の幻滅がアメリカ社会への敵意に転化してゆくというテーマを描いたフィルム・ノワールの代表的な作品の1つとして、しばしば言及される。
原作のドロシー・B・ヒューズは、ニコラス・レイの『孤独な場所で』の原案者でもある。読んではいないが、原作の結末はこの映画よりもずっと救いのないものになっているらしい。
ドン・シーゲルの『犯罪組織(シンジケート)』は実はこの映画のリメイク、というか、同じ原作を映画化した作品である。大昔に一度見たきりだが、まるで違う映画になっていたと思う。
最近「カイエ・デュ・シネマ」の古い記事をわりと真剣に読み込んでいる。しかし、漫然と読んでいてもあまり頭に入ってこないので、適当に訳したりしているうちに、勢いで一つの記事をぜんぶ訳してしまった。 以下に掲載するのは、「カイエ・デュ・シネマ」第32号(1954年2月)にジャック・リヴェットが書いたオットー・プレミンジャー『天使の顔』論、"L'essentiel" のわたしによる試訳である。
「カイエ」によって提唱された「作家主義」という言葉は、理解されているかどうかはともかくとして、今では広く知られている。作家主義が何かということを説明しはじめると簡単にすみそうにないので、その問題はひとまず横に置いておこう。ところで、「カイエ」の映画批評の中心にあったこの「作家主義」あるいは「作家政策」を土台で支えていた重要な概念の一つに、「演出」(mise en scène)という概念がある。この名詞句の元になっている "mettre en scène" という言葉が、直訳すると「舞台にのせる」という意味であることから明らかなように、これはもともと演劇から来た言葉であると考えられる。しかし、この時期の「カイエ」では、この言葉に特殊な意味合いが持たされていたと言っていい(ちなみに、「監督」を意味するフランス語は "réalisateur", "cinéaste" などいろいろあるが、"mettre en scène" を人称化した "metteur en scène" も広く使われる言葉の一つ)。
リヴェットはこれ以外にも、「演出家の時代」(L'age des metteurs en scène)と名付けられた文章を書いたりもしている。これも併せて読めば、彼の考える「演出」とは何なのかがさらにはっきりとするだろう。リヴェット以外では、アレクサンドル・アストリュックが「演出とは何か」(Qu'est-ce que la mise en scène)というそのものずばりのタイトルがつけられた文章を書いている。
リヴェットはこれ以外にも、まさに「演出の時代」と名付けられた文章を書いたりもしている。これも併せて読めば、彼の考える「演出」とは何なのかがさらにはっきりとするだろう。機会があれば、それも訳してみてもいい。 一応入念に訳したつもりだが、短期間に仕上げたので、誤訳や訳し忘れた部分が多々あるかもしれない。あまり厳しい目で見ないでいただけるとありがたい。
[原文のイタリック部分は〈 〉を使ってある。]
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「映画のエッセンス」
by
ジャック・リヴェット
次作『月蒼くして』と同じく、この映画[『天使の顔』]の第一の長所は、この作家について抱いていた先入観のいくつかからわれわれを解放してくれるところだ。プレミンジャー作品における主題の巧妙な曖昧さ、水のようにしなやかで繊細なキャメラの動きをたっぷり味わってしまうと、やがてはそれしか見えなくなって、オットー・プレミンジャーの偉大な才能を、これらの、ちっぽけと言ってしまってもいい、側面だけに限ってしまう恐れがあったのだ。まずはこの2本の映画に感謝しよう。その慎ましさ、貧相な舞台装置、早撮りの撮影によって、この2本は、プレミンジャーが、必要とあれば、良くできたシナリオや、素晴らしい役者、大撮影所のありあまる機材などから最良のものを引き出すだけではなく、それ以上のことができることを証明してくれているからだ。
だから、貧しさを讃えよう 。貧しさの効用がもっぱら、それを隠すための創意工夫を強い、独創を刺激することであるとしてもだ。評価が確立している映画作家たちすべてに、一度は貧しさの試練を与えるべきではないだろうか。豊かさが人を麻痺させるものであることは知られている。この試練にかけられたとき、自信たっぷりの才能からどれだけのものが残っているだろうか。二〇世紀フォックスの設備に比べればアマチュア映画にも等しい予算を与えられて、プレミンジャーは自分の芸術を、本質的なもの、骨格にまでそぎ落とす。これまでは、画面の魅力や、シナリオと演出(la mise en scène)の秘められた構造に隠れて、その本質的なもの、骨格は目立たなかったのだった。映画の原理(élements)は、ここではほとんど剥き出しの状態で働いている。セルズニックやMGMの製作作品の仰々しい作り方とは対照的に、『天使の顔』と『月蒼くして』は、プレミンジャーにとって、ドライエルの『ふたり』、ラングの『復讐は俺に任せろ』、ルノワールの『浜辺の女』にあたる作品だ。才能の、すなわち天才の、演出家であることのこの上なく決定的な証拠。もっとも、わたしはこの2本がプレミンジャーの最高傑作だと言っているのではない。この2本のおかげで、彼の他作品とその才能の秘密によりいっそう近づくことができるのであり、すでにうすうす感じていたこと、すなわち、その才能というのは、映画についてのある明確な〈理念〉(idée)と相関関係にあるのだということを確信できる、と言っているのだ。
しかし、この理念(idée)とはいったい何なのか。隠しても仕方がないだろう。わたしはまだ、自分がプレミンジャーのことをどう思っているのかよく分からないのだ。一言で言うなら、彼の映画はわたしを興奮させるというよりも、わたしを当惑させるということだ。しかし、わたしはこれを最小の賛辞ではなく、最初の賛辞にしたい。実際、人を当惑させることのできる映画作家の数など、それほど多くはないのだ。
ここで、作品の主題や人物たちについて、目新しくもないことを語るのが適当なのだろう。たとえばジーン・シモンズ演じる人物について、プレミンジャーの他のヒロインたちとの類似や相違を述べたりするのがふさわしいのだろう。それは分かっているのだが、悪魔がこうささやくのだ。「そんなことをする必要があるのか? 偽りの、犯罪的な純粋さなどといったものはまさしく、お約束の、ただの技巧の産物ではないのか?」
この平凡なヒロイン──そう、平凡なのだ──は、同時に、新鮮で驚異的でもある。これが、シナリオとは関係ない何かの秘密(mystère)によってもたらされるのでないとしたら、いったいどうしてそんなことが可能だろうか。
ただし、この秘密のしばしばいかがわしくもある見かけの魔力を、あまり大げさに考えないようにしよう。もっとも、この実に秘密めいた映画は、自分が秘密めいていることを隠そうともしていない。急いで指摘しておかなければならないが、実際、非常にわかりやすいこの第一の謎は、近寄りがたいもう一つの謎によって裏打ちされているのだ。アクションの半分が説明されないままなのは、物語の論理によるアクションの説明が、アクションによって生まれるエモーションと相容れないからだといったほうがいい。筋以外の興味が、われわれを絶えず人物たちの仕草へと引きつけるのだが、人物たちについて考えると、彼らに真の深さがまったく欠けていることも分かる。しかしながら、彼らが求めているのはこの深さなのだ。ただしそれは人為的な深さだ。というのも、その深さは、人間の、疑わしく、また議論の余地のある繊細さによってではなく、まさに芸術によって、映画が映画作家に与える資材のすべてを活用することによって、もたらされるものであるからだ。
映画監督が、次の作品を撮り、俳優を演技指導し、新たに何かを作り出すための口実としてシナリオを選んだとしても、わたしは決して腹を立てたりはしないだろう。今わたしは、シナリオを口実に、と言っただろうか。プレミンジャーがまさにそのような見本だとは思わないが、彼はシナリオに、何人かの人物たちを目の前に立たせて、じっくりと研究し、互いを前にした反応を窺い、彼らからある仕草、ある態度、ある反射的動作を引き出すための機会を見ているのであり、これこそが彼の映画の〈存在理由〉であり、その真の主題なのだ。
プレミンジャーがテーマ(motif)に関心がないということではない。むしろ、そのことで彼を大いに賞賛したいくらいだ。プレミンジャーは何でも撮れるタイプの監督ではない。彼の映画の成功した部分と、落ち着き払って不器用に撮られた部分を並べてみれば、彼が何に関心を持っているかを容易に見て取ることができる。各挿話の差異を比較研究するよりも、むしろ不変の特徴を研究する方が、プレミンジャー作品を解釈する手立てになりそうだ。そうした不変の要素は、物語の構成要素というよりも、どんなテーマが自分に合っているかを知っている作家のオブセッションであると言った方がいいだろう(1)。
プレミンジャーはこの物語をどれほど信じているのかと問うこともできる。彼はこの物語を信じているのか。われわれにこの物語を信じさせようとさえしているのか。たしかに、物語の信じがたさに彼はうんざりしたりしない。それどころか、物語の信じがたさがあらわになる瞬間──ローラが蘇り、コルヴォ博士が鏡を見て自己催眠にかかる瞬間──こそ、しばしば、物語をもっとも信じうる瞬間であるのだ。だが、『ローラ殺人事件』や『疑惑の渦巻』のようなフォルムの魔力を禁じられているこの作品[『天使の顔』]において、真の問題は、信じがたい物語を信じさせることではなく、ドラマ上あるいは物語上の本当らしさを超えて、純粋に映画的な真実を見いだすことにある。プレミンジャーとは別の映画理念のほうがわたしの好みには合っているのだが、プレミンジャーがやろうとしていることも理解してほしいと思う。その試みはとても巧妙で、注目に値するものだ。つまりわたしは、ホークス、ヒッチコック、ラングといった古い流派の、たぶんもっと素朴な考え方の方が好きなのだ。彼らは、まず最初に主題を信じ、その信念を自分たちの芸術の基盤にしている。一方、プレミンジャーがまず最初に信じるのは演出──つまりは、人物と装置の的確な複合体を、関係の網の目を、空間のなかを揺れ動き、宙づりになっている、諸関係よりなる建築を作り出すことなのだ。彼が試みているのが、水晶を、曖昧に反射し、鋭利な稜線を持つ透明体にカットすること、あるいは、それまで耳にしたことのない珍しい和音を聞かせることでないとしたら、いったい何だろう。転調の説明しがたい美が、突然、楽節全体を正当化するのだ。今言ったことはおそらく、ある種のプレシオジテ(気取った文体)に当てはまる定義だが、同時に、それがもっとも高度で密やかな形となって現れたものでもある。というのも、それは、技巧を駆使することからではなく、その時まで耳にしたことのなかった調べ(note)を、飽くことなく、危険を冒しながら探し求めることから生まれるものだからだ。われわれは、その調べに飽きることはないし、その音を掘り下げながら、その謎を組み尽くしたなどと嘯いたりすることもない。その謎は知性の彼方へと開き、未知なるものへと通じているのだ。
これが演出の持つ可能性であり、プレミンジャーがわれわれに提示してくれているように思える、自己の芸術を実践することのみを信じることの見本なのだ。その信念によって、彼は、自分の芸術のもっとも深い部分を、別の形で見いだすことができるのだ。こんなことを言うのは、審美家の抽象的な実験のようなものを思い描いてほしくないからだ。「何よりも仕事が好きだ」とプレミンジャーはわたしに語った。そう、プレミンジャーにとって、1本の映画は、それに取り組み、あれこれと自問し、様々な困難にぶつかってそれを解決するための機会なのだ。作品は目的であるというよりも、どこかに向かうための一つの手段(chemin)だ。作品の不測の部分がプレミンジャーを引きつける。偶然の事態による思いつきが、幸運な瞬間に生まれ、人物と場所のつかの間のエッセンスへと向かうその場の即興が、彼を引きつける。プレミンジャーを一言で定義しなければならないとすれば、演出家(metteur en scène)という言葉こそまさにそれだ。もっとも、舞台での経験は、彼の映画にほとんど影響を与えてはいない。人と人が対峙することから生まれる劇的空間のただ中で、プレミンジャーはむしろ、まなざしの近さと鋭さによって、偶然(といっても、それは意図された偶然だ)を捉え、偶発的事態(といても、それは作り出された偶発的事態だ)をフィルムに刻み込むという、映画のもつ能力を極限まで活用する。[演劇的な]人物たちの関係によって生み出される閉ざされた交換の回路の中には、観客を引きつけるものは何もないのだ。
演出とはいったい何なのか。準備も前置きもなく、このように厄介な問題をふいに問いかけることを許してほしい。しかも、わたしはその問いに答えるつもりなどないのだ。ただ、映画を語るとき、いつもこの問いを頭の中で問いかけるべきではないだろうか。それよりも一つ例を挙げよう。『天使の顔』のヒロインが夜、過去の名残の中を歩き回る場面だ。この場面は、『ローラ殺人事件』でダナ・アンドリュースがローラの遺品のあいだを歩き回る場面とも似ていて、脚本の上では、陳腐なものに惹かれてできあがった見本のようなものでしかない。しかし、プレミンジャーはこのようなアイデアを思いつくだけでなく、ジーン・シモンズにジグザグの歩き方をさせ、肘掛け椅子の上で縮こまらせる。間抜けで安っぽいものになりかねないアイデアが、全くの愛想のなさ、時間の流れの過酷さ、まなざしの明晰さによって救われている。というよりもむしろ、テーマも、台本も、達者な手腕も、思いがけない思いつきももはやなく、そこにあるのは、悲痛なほど明々白々な映画の剥き出しの存在なのであり、それが心に触れるのだ。
かくして『月蒼くして』は、役者の巧みな演技指導による、エスプリに富んだ見事なコメディの実践というよりも、仕草と言葉の抑揚を即興で絶えず生み出し、人物たちの完全な自由を鮮明に際だたせることによる、どんな寓話よりも感動的な、ある力の明白な肯定なのだ。映画作品が、自己の実現だけをめざす演出の表れであったことがあるとすれば、これはまさしくそのような作品だ。男優と女優の、主人公と舞台装置の、言葉と顔の、手と事物の〈戯れ〉(jeu)でないとすれば、映画とはいったい何だろうか。
この2本の映画の飾りのなさ(nudité)は、本質的なものを損なうどころか、挑発的なまでにそれをあらわにする。外見と〈自然さ〉(naturel)に対する好み、偶然を巧みに捉まえること、偶然の仕草を探求すること、こうした、もしかしたら本質的なものを危険にさらしかねないことすべてが、実は、映画の、あるいは人間の秘密の部分をそこに見いだすのであり、それが、これらが空虚なものに陥ることから救ってくれるのだ。これ以上のことはもう望みようがない。
[原注:たとえば、幻惑(『ローラ殺人事件』『疑惑の渦巻』『天使の顔』)、尋問(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『疑惑の渦巻』『歩道の終わるとき』『天使の顔』)、恋のライヴァル(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『悲しみの恋』『天使の顔』『月蒼くして』)。]
稲生平太郎、高橋洋『映画の生体解剖~恐怖と恍惚のシネマガイド~』
『アクアリウムの夜』『定本 何かが空を飛んでいる』などで知られる小説家、稲生平太郎と、『リング』の脚本家で、『恐怖』などのホラー映画を自分でも監督している高橋洋の2人による怒濤の映画談義。最近読んだ(数少ない)映画本の中ではダントツに面白かった。
まず、読み始めたところですぐに、このブログでも取り上げた大好きなSF映画『決死圏SOS宇宙船』 の話が出てきていきなりテンションが上がる。実際、この本に出てくる映画は、このブログの「B級映画ファイル」で取り上げたようなB級ホラー映画やSF映画、場合によってはC級、Z級の映画が大半を占めていて、ミニシアターにばかり通っている人や名作ばかりを見ている人は、2人の趣味にちょっとついて行けないと思うかもしれない。しかし、そんな一見悪趣味な映画たちの中にラングやヒッチコック、アルドリッチやジャック・ターナー、ロバート・ロッセン、ジョルジュ・フランジュといった名前が現れ、2人の映画的教養の深さが窺える。
とはいえ、この2人の熱を帯びたトークはアカデミックな内容からはほど遠いのも事実だ。「手術台」や「放電」などといった、風変わりなテーマが次々と取り上げられてゆき、「手術台が出てくる映画では必ずなにかが起きる」などというほとんど根拠のないように思える断言が繰り返される。しかし、そんな一見でたらめに思える断言の中に、まじめくさった映画研究者なら決して出来ないような鋭い分析が数々含まれているのが実にこの本の面白いところだ(まさに映画の生体解剖!)。『蝿男の恐怖』とその続編『蝿男の逆襲』と、この2作とは実際には関係のない第3作『蝿男の恐怖』とのあいだの重大な差異は、転送装置が縦型から横型になり、手術台に近づいたことにあるなどという指摘など、荒唐無稽でありながら実に説得力がある。
稲生が「恍惚」と呼び、高橋が「恐怖」と名付ける何か。それは映画が映画を超え出るような瞬間であり、言葉には出来ない説明不可能の魔術的瞬間と言っていいだろう。それこそは少年時代のわたしを映画が魅了した何かでもある(この2人とわたしでは、世代も微妙に違うし、育った環境も異なっている。残念ながら、片田舎で育ったわたしには、小さい頃に映画館で映画をあびるように見るという体験は出来なかった。しかし、たとえテレビを通してであっても、小さい頃に見たあの映画たちには、魔法のような力があった)。
ここで取り上げられている映画の半分ぐらいは見ていると思うのだが、この本を読んでいると、その見ていない残り半分の映画が見たくてたまらなくなる。たぶん、その中には、実際に見てみたら全然つまらなかったというものがいっぱい混じっているのだろう。しかし、この2人の話すのを聞いていると、だまされてもいいから見てみたくなってくる。そこに書かれている映画が見たくなるというのがすぐれた映画本であるとするなら、これは間違いなくそういう本だ。
アンドレ・バザン『映画とは何か』 (岩波文庫)
野崎歓新訳によるアンドレ・バザン『映画とは何か』がいよいよ出るらしい。何年も前から話は聞いていたが、全然出ないので話がたち切れになったのかとも思っていた。全訳ではなく抄訳のかたちだが、文庫上下2巻だから、主要論文はかなりカバーしているのではないだろうか。ちなみに、フランス本国でも、バザンのこの本は現在は抄訳でしか手に入らない。
ウィラード・ハイク&グロリア・カッツ『メサイア・オブ・デッド』 Messiah of Evil: the Second Coming
ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の流れに乗って撮られたB級、あるいはC級ホラー映画の代表的な作品。 監督のウィラード・ハイクとグロリア・カッツは『アメリカン・グラフィティ』や『インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説』などの脚本で知られる夫婦コンビで、監督作としては『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀 』が有名だが、結局、この『メサイア・オブ・デッド』を超える作品を残すことはなかったと言っていいだろう。
特に出来がいいわけではなく、むしろチープで、お粗末な作品といってもいいくらいなのだが、わたしはこの映画が好きだ。ジャン・ローランの最良の作品やマリオ・バーヴァの映画にも似た、シュールで不気味で謎めいた雰囲気が漂っていて、いくつもあるツッコミどころも見ているうちに忘れてしまう不思議な魅力がこの映画にはある。
映画は、精神病院に収容されているヒロインが、自分の体験した奇妙な出来事を回想していくかたちで始まる(このオープニングはドン・シーゲル版『ボディ・スナッチャー』を思い出させるもので、最後にまたこの精神病院に帰ってくるかたちで映画は終わるのだろうという予想も、むろん的中する)。 彼女は、父親から謎めいた手紙をもらって心配になり、彼の住む田舎町を訪ねたのだったが、父親は不在だった。彼が残した日記には、意味不明で信じがたいことが綴られている。どうやら、この町の住人たちは人を襲って食べているらしい。彼女が町で知り合った何人かも、次々と彼らに襲われて殺されてゆく……。
こういうシチュエーションのホラーは、今となっては珍しくもない。直接的にはロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の影響が明らかだし、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』(64) あたりも参照されているのかもしれない。『恐怖の足跡』からパクったような部分もある。当時ならともかく、今見ると、あまりオリジナリティが感じられない作品に見えるかもしれない。強いてあげるならば、原題になっている "messiah of evil" あるいは "dark stranger" などと呼ばれる人物が100年ぶりに帰ってきて(彼は海から現れると信じられている)、ゾンビ化した町の住人たちを導いてくれるはずという、作中で何度も語られる〈伝説〉に、ラブクラフトの影響が見られるところが興味深いということぐらいか(ちなみに、映画の最後でヒロインと行動を共にする男とこの〈悪のメサイア〉のあいだに関係があったことを示す、あるいは同一人物であることを示す場面が撮られていたが、カットされてしまったらしい)。
物語の展開もさほどスリリングなわけではなく、そもそもこの映画では何もかもがまったく説明されずに終わるので、見終わってもフラストレーションがたまったままという観客も少なくないだろう。たしかにそうなのだが、何もかもが曖昧なままというのが、この映画の魅力であることもまたたしかである。
先が読めないストーリー展開を期待してこの映画を見れば、ちょっとがっかりするかもしれない。しかし、この映画の魅力は物語にではなく、全編に漂う怪しい雰囲気にある。特筆すべきなのは、ヒロインの父親が住んでいて、今は彼女がひとりで寝泊まりしている海辺の別荘の舞台装置だ。壁一面に描かれたウォーホルのポップアート風の人物画(背広を着た男たちの立ち姿をスーパーリアリズムで描いたもの)が、独特の雰囲気を作り上げていて、これがこの映画にリアリティと同時に非現実感をもたらすのに絶大な効果を発揮している(この絵を描いたのは、グロリア・カッツの同僚らしい)。高い天井すれすれにある半透明の窓にゾンビの影がちらちらと映るところもいい。
シチュエーションにオリジナリティはないといったが、実は、この映画が初めてやったこともある。スーパーマーケットでゾンビに人が襲われる場面は、ロメロの『ゾンビ』を先取りしている貴重な場面と言えるだろう。映画館で、西部劇(マカロニ・ウェスタンの英語吹き替え版?)を見ていた人物がふと後ろを振り返ると、客席が全部ゾンビで埋まっているというシーンも忘れがたい。
さて、問題は、この映画をゾンビ映画と考えていいのかどうかといことだ。便宜上〈ゾンビ〉という言葉を何度か使ったが、この映画で人間を喰う町の住民たちは、はたして本当にゾンビと言えるのか。彼らは吸血鬼のようでもあり、ゾンビのようでもあり、またグール(悪鬼)のようでもある。そもそも彼らは生きているのか、死んでいるのか。それさえも映画のなかでは何も説明されていない。ゾンビ化した人間が言葉を話す場面もあるし、ゾンビ原理主義者(?)が見たら首をかしげる部分も少なくないだろう。しかし、この作品がゾンビ映画として作られたかどうかもそもそも定かではないし、たとえそうだとしても、それでこの映画の魅力がいささかも減じるわけではない。これはゾンビ映画ではないからダメだとしたり顔でいう奴がいるかもしれないが、そんな奴のことは放っておいて素直に楽しめばいいのだ。わたしは楽しんだ。
幸い、この作品は日本でも DVD 化されているが、あまり画質は良くないようだ。ひょっとしたらサイズも正しくないかもしれない(オリジナルはシネスコ)。
一昨年ぐらいに、映画ファンのあいだで話題になったサスペンス小説。 ちょうどテレビで、古書店を舞台にした剛力彩芽主演のミステリー・ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」が放映されていた頃、「フィルムセンターを舞台にしたこういうドラマが撮られるべきだな」と半ば冗談のようにツイッターでつぶやいたところ、それなら今こういう小説が連載されてますよと教えてもらって、この小説の存在を知ったのだった。
被害者がフィルムセンターに勤務し、加害者が元映写技師という設定は、なかなかに興味深いが、正直、ちょっと期待はずれだったかな。犯人の顔が山中貞雄のデスマスクと重なるとか(この小説の中では、失われたはずの山中のフィルム『磯の源太 抱寝の長脇差 』が偶然発見され、修復されて上映されることになるというエピソードが、プロットの重要な一部を占めている)、作中に出てくる様々な映画ネタも、まずそれ自体がピンとこないし、たとえば『フリッカー、あるいは映画の魔』のように、映画という存在に独自の光を与えてくれることもない。映画ファンを唸らせる卓抜な指摘や、思いもかけない固有名詞が登場することもない。コアな映画ファンが、そういう興味でこの小説を読んだら、少しがっかりするのではないだろうか。
この小説の中では、映画はたまたま登場人物の身近な存在だったというぐらいの描き方しかされていない。その割には、本筋とは関係のないディテールに脱線する部分が多いので、映画にさほど興味がない人には、そういう部分はただ無駄な饒舌にしか思えないだろう。一方で、それらのディテールは映画ファンを心から納得させるだけの強度も持ってはいない。要するに、ちょっと中途半端な印象を与える。
しかし、ミステリーとしては決して面白くないわけではない。ネタバレになるのであまりストーリーには詳しく触れないが、尾行するもののあとを、別の人物が尾行し、その人物も自分がつけられているとは気づかないという、関係が複雑化していくクライマックスのサスペンスの盛り上がりはなかなかのものだ(フーコーが『監獄の誕生』で描いたパノプティコンについての言及もある)。ふつうに読めばなかなかに楽しめる小説だとは言えるだろう。
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