日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■2005年12月31日
年末なので、深夜の映画番組が多くて困る。DVDレコーダーのせいでどうでもいい映画までつい見てしまう。
▽ヤン・クーネン『ドーベルマン』
悪党のひとりが野糞をして道に落ちていた「カイエ・デュ・シネマ」で尻をふこうとする場面がある。インテリ映画雑誌へのルサンチマン?
▽スティーヴ・マイナー『フォーエバー・ヤング』
『夏への扉』系列の冷凍保存によるタイムスリップもの。意外と悪くない。
▽稲垣浩『ふんどし医者』
幕末から明治へと移り変わってゆく時代。高度の医学的知識と技術を持ちながらふんどし一枚で医療に従事した医者の物語。稲垣浩の映画はあまり好きになれないものが多いが、この映画は森繁久弥のプレザンスで退屈せずに最後まで見られる。博打好きの原節子というのはどう見てもミス・キャスト。『赤ひげ』や『華岡清州の妻』以前に撮られた作品。
■2005年12月27日
▽篠田正浩『写楽』
大した映画ではないが、その反骨精神で知られる江戸の出版業者、蔦谷重三郎のまわりに現れては消える山東京伝、十返舎一九、歌麿、写楽などの戯作作家や絵師たちの人間模様には知的興味をそそられる。レンタル・ビデオのTSUTAYAが製作に絡んでいるのだが、蔦谷重三郎と関係があるのだろうか。単なる偶然にしても、興味深い偶然だ。江戸のメディア王と現代のメディアの中心をになう存在との名前の一致。こういう企業の歴史を掘り下げてゆくと思わぬ水脈にぶつかることがあるので面白い。そういえば『グランド・フィナーレ』に収められている「新宿ヨドバシカメラ」という短編がなかなか面白かったことを思い出す。
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「上映のあと、歩道マイク micro-trottoir になってみました」→正確には、「上映のあと、街頭アンケートをおこないました」。(『ゴダール全評論・全発言III』p662)。
micro-trottoir は「街頭アンケート」のこと。
■2005年12月22日
▽アッバス・キアロスタミ『5 five 〜小津安二郎に捧げる〜』
車のなかで人物が会話する10のシークエンスのみで構成されていた前作『10』の数字を半分にしたタイトルを持つ『5 five』は、『10』よりもさらに贅肉をそぎ落とした究極のミニマル映画だ。ここでは10のシークエンスどころか、5つのショットしかない。登場人物と呼べるべきものも存在しない。というよりも、人間が出てくるのは、2ショット目で名もない通行人何人かがロングから撮られる場面だけなのである。あとは波打ち際の木片や、砂浜を左から右、右から左に横切るアヒルの群、さざ波に揺れる水面に映る月の明かり以外は真っ暗闇の池などが延々映し出されるだけだ。
冒頭のショットでは、波に押し寄せられてはまた押し返されながら右の方へ次第に流れてゆく木片を追って、キャメラが少しずつ右に移動してゆくのだが、押し寄せる波によって砂が濡れては乾き、波打ち際の境界線が絶えず塗り替えられるのに目が奪われ、注意深く見ていないとキャメラの移動には気づかないかもしれない。五つのショットのなかでキャメラが動くのはたぶんここだけだったと思う。あとはすべてキャメラはフィックスのままだったはずだ。
5つのショットはそれぞれ20分近くただ対象をじっと捉えつづけるだけで、そこにはなんの物語も存在しない。そのはずであるのだが、じっと見続けるうちにショット内のまったくなんでもない動きがすごく重大なできごとであるかのように思えてくるから不思議だ。1ショット目の終わりのところで、波に流されていた木片の先端がくだけ、残りの木片はそのまま沖のほうに流されていって画面の上端に消える。キャメラはそのまま波打ち際をとらえつづけるのだが、しばらくしていったん消えてしまっていた木片が画面の上の方に一瞬再び現れ、そしてまた上の方に流されて消えてしまうところでこのショットは終わっている。たったこれだけのことが非常にドラマティックに見えてくるのだ。
真夜中の池をとらえた5つ目のショットでは、カエルと鳥の鳴き声をバックに、漆黒の水面に映った月がさざ波に揺れて絶えず姿を変える姿が延々映し出され、突然あたりが真っ暗になったかと思うと、激しい雷雨がおそってくる。稲光がするたびに、闇に向けてフラッシュをたいたかのように一瞬だけ画面が明るくなって、雨が水面に打ち付ける様子が浮かび上がるが、たちまちそれも残像を残して闇に包まれる。これがしばらく続いたあと再びあたりが静かになって、やがて朝になり、そこで映画も終わるのだ。
同じく小津に捧げられたホウ・シャオシェンの『珈琲時光』には小津を彷彿とさせるようなショットが多数使われていたが、この作品はスタイル的にはまったく小津とは関係がないといってもいい。しかし、同じもののくり返しのなかに現れる微妙な変化=差異をとらえようとする意志や、見つめているうちに日常そのものが非日常に反転するような不思議な感覚など、表面的なスタイルを越えたところで小津に通じるものを感じさせる作品だ。
■2005年12月19日
▽マルク'O『アイドルたち』(68)
フレンチ・カルト・ムーヴィーといわれているが、本当にカルトなのか。映画のことはそこそこ知っているほうだと思うのだが、この映画のことは今回初めて知った。フランスで発行されている映画ガイドにも載っていない。単にまともに取り上げられなかっただけではないのか。
それはともかく、映画は期待はずれだった。これってヌーヴェル・ヴァーグ以後の作品だよなあ、と思わず製作年度を確かめてしまったぐらい、古めかしい印象を受けた。描かれている風俗は60-70年代的なものなのだろうが、映画の作り自体はヌーヴェル・ヴァーグ以前のフランス映画のものだ。デュヴィヴィエが撮った作品といわれたらそう信じていたかもしれない。ユスターシュが編集、アンドレ・テシネが助監督というスタッフはたしかにおもしろいが、成瀬巳喜男の映画のクレジットに石井輝男の名前を見たときと同じで、ただ「ああ、そう」と思うだけだ。ビュル・オジェが妙に投げやりにイェイェを歌い踊っている姿ぐらいしか興味を引くところはなかった。
フランスといえば、今日のニュースで職業学校の女教師が躁鬱症の生徒にナイフで刺され重傷という事件と、酔っぱらった若者が消防車を盗んで途中で少女をひとりひき殺したという事件を伝えていた。
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BS放映の木下恵介。どこかロシア映画を思わせる田園風景を舞台にした『わが恋せし乙女』『カルメン故郷に帰る』、都会的喜劇『お嬢様乾杯』『カルメン純情す』、戦後の軍閥批判『大曽根家の朝』、年代記もの『喜びも悲しみも幾歳月』『永遠の人』。それなりにどれも面白くはあるが、言葉を費やす気になれない。
秋のドラマのなかではいちばんまともだった『野ぶた。をプロデュース』が終わる。『。』の意味がわからない。見逃した最初の数回を見てたらわかるのか。
■2005年12月18日
▽阿部和重『グランド・フィナーレ』、大場 つぐみ, 小畑 健『DEATH NOTE』、山野車輪『マンガ嫌韓流』、山本英夫『殺し屋イチ』
阿部和重の芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』を読む。『ニッポニア ニッポン』、『シンセミア』などとも緩やかに交差する虚構の世界のなかに、例によって幼児性愛だのドメスティック・ヴァイオレンスだのといった現代を象徴する社会風俗がもっともらしく描かれる一方で、2002年10月29日、2001年9月11日、1999年11月1日といった日付が意味ありげに次々と登場する。主人公は一言でいうならロリコン。『シンセミア』を読んでいれば別に驚くようなことではない。その変態趣味がばれて妻と口論になり突き飛ばしたことがドメスティック・ヴァイオレンスだと見なされ、裁判所の判決によって主人公はなによりも愛する自分の娘に近づくことをで禁じられることになる。彼は誕生日に娘をなんとか連れ出して会おうと画策する・・・。といったお話なのだが、もちろんこの話自体にはさして意味はない。「グランド・フィナーレ」というタイトルとは裏腹に派手な展開などなにもないこの平凡な物語が、エクリチュールによって不意をつくような表情を見せる。そこが作者の腕の見せ所なのだが、正直いって初読後の印象は、これまでの阿部作品のなかでいちばん薄いものだった。
なぜこれまでの阿部の作品ではなくこれが受賞したのかは納得できないが、もう実力は分かり切っているので彼が受賞したのは当然だと思う。芥川賞がもう十年以上前からほとんど死んだも同然だということはだれもが知っている。とくに最近は、出版界を盛り上げようというさもしい意図から、平野啓一郎だの綿矢りさだの、若いというだけで取り立てて才能に恵まれているわけでもない作家たちに賞をやっているのではないかという気さえしないでもない。阿部の受賞で芥川賞が復活するということも考えにくい。これまで当然受賞すべき作家に賞を与え損なってきた芥川賞自体が、これでいよいよグランド・フィナーレを迎えたという感さえ受ける。
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話変わって、マンガの話。たまたま読んだ『DEATH NOTE』というマンガが意外に面白く、久しぶりにはまった。死神が人間界に落としたノートに名前を書くとその人が死ぬという設定自体はばかばかしいものだが、ノートを拾って生死をコントロールする高校生キラと、彼を追う天才少年Lとの知的駆け引きは読み応えがある。感じとしては、映画『交渉人』なんかの雰囲気が近いものだろうか。ノートの使用法に恐ろしく細かいルールが設定してあるのだが、Lには最初そのルールがわからないから、起こった出来事からルールを帰納していくしかない。というか、ノートの存在そのものを発見するまでが大変なわけ。ま、読んでみて。
『マンガ嫌韓流』はだいたいイメージ通りの本。稚拙な絵と稚拙なストーリーで反・韓国をあおるためだけに書かれたマンガ。正しいことも書いてはあるが、これじゃあねェ。そもそもマンガで韓国について勉強しようというやつの知的レベルはしれている。これがきっかけになってもっと韓国を勉強しようという気になればそれでもいいが、そんなことを目指した本でないのは明らか。
『殺し屋イチ』:10巻あるのだけれど、映画を見たときの印象とほとんど変わらない。違いは、浅野忠信のキャラクターが原作ではかなり年齢設定が上になっているところぐらいかな。10巻が2時間に。マンガって効率が悪いメディアだ、まったく。
■2005年12月12日
▽ブライアン・デ・パルマ『ファム・ファタール』
フィルム・ノワール的主題を口実に、デ・パルマが 技巧の限りを尽くしたマニエリスティックな作品。悪女の裏切り、瓜二つの女の出現、未来の夢。ストーリー展開は意図的に真実らしさを放棄したものとなっている。監視カメラ、パパラッチ、双眼鏡、広告写真(デジャ・ヴュ)。デ・パルマ作品としてもたいしたことはないが、アントニオ・バンデラスに完全にアクションをさせず、唯一のアクション場面も影で処理しているところは、好感が持てる。冒頭に、『深夜の告白』が引用されている場面があるとのことだが、テレビ放映ではばっさりカットされていたようだ。前々から気になっていたのだが、テレビ放映されるときに映画をカットしているのはいったいだれなんだろうか。その辺の仕組みが知りたいものだ。
■2005年12月8日
▽ジョン・ヒューストン『マルタの鷹』
「フィルム・ノワール ベスト50」を書くために、何本か久しぶりに見直した作品のなかで、『マルタの鷹』が意外にも良かったので驚いた。この名作を「意外にも良かった」と書くのもどうかと思うが、もうずいぶん以前にはじめて見たときは、正直いってそれほどいいと思わなかったのだ。シネフィルのあいだには、ヒューストン派とホークス派のあいだの対立(?)とでもいったものがあり、わたしは完全にホークス派だったので、ヒューストンのことはどちらかというと冷遇しがちだった。晩年の作品はのびのびと撮られていて嫌いじゃなかったのだけれど、初期の作品はいまいち乗りきれない。「巨匠」然としたところがどうもだめなのだ。それでも、『アスファルト・ジャングル』や『キー・ラーゴ』はさすがに面白いと思ったものの、この『マルタの鷹』だけは最初から印象が薄く、その後また見直してみようとも思わなかった。だから、この作品を見るのは数十年ぶりになる。
最初に見たときはたぶん中学生ぐらいだったと思うので、知っている俳優はボギーとせいぜいピーター・ローレぐらいしかいなかったのに違いない。いまではシドニー・グリーンストリートやエリシャ・クックといった俳優の顔も見分けがつく。何よりもこの俳優たちのアンサンブルがすばらしい。黄金の鷹を黒く塗ってカモフラージュしてあるため「ブラック・バード」と呼ばれる幻の鷹が訛りの固まりにすぎないとわかったとき、シドニー・グリーンストリートのあの巨体がプシューと音を立ててしぼんでいくような哀れっぽい感じがなんともいえない。
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株式会社アバ・コーポレーションというところがDVDシリーズを出している。『ローラ殺人事件』がそのシリーズにはいっているのだが、定価3800円のそのDVDが BOOK OFFで700円で売っていたのでつい買ってしまった。はっきり言ってひどい画質のもので、がっかりした。パッケージの裏には、「この作品は製作されて50年以上経過しているため、原版となるフィルムの状態によっては、見づらい部分、聞きづらい部分のあることを、あらかじめご了承ください」ともっともらしく書いてあるが、単に手抜きのいいわけにしか思えない。DVDソフトを扱う会社がどさくさに紛れていろいろ出てきているようだが、金儲けしか考えていないようなこういう会社は早く駆逐してほしいものだ。700円で買っても高いと思ったぐらいだから、3800円払って買った人はどう思っているのだろう。シリーズで出ているので大量にまとめ買いした人もいるかもしれない。かわいそうにとしかいいようがない。
『ローラ殺人事件』 のDVDはほかにも出ているようだが、1月に20世紀フォックスから豪華な二枚組のDVDが出る予定なので、それを買うのが安全だろう。とりあえず、Amazonにもリンクしていないような会社のものは避けた方がいい。
いま建築物の耐震構造の偽造で世の中が揺れているが、こういうひどい画質のDVDを売っている会社にもメスを入れてほしいものだ。調べれば何が出てくるかわからない気がする。
■2005年12月5日
久しぶりに日記を書く。といってもとくに書くことがあるわけではない。
いま、「フィルム・ノワール・ベスト50」というのを書いているところだ。そのせいで、あまり日記を書いている暇がない。そろそろ第一弾を(小出しにしてゆくつもりなので)アップできるはず。
第七芸術劇場の上映がいよいよ再開する。先日、7芸から電話があって、パソコンを新しく買うので調整に来てほしいとのこと。オープンするまでに行かないといけないらしい。こないだは、プラネットの富岡氏から、メールが読めなくなったと電話で呼び出された。わざわざ自宅に行ってみると5秒で直せるような簡単なトラブルだった。そのかわり、ドヴジェンコの『武器庫』など珍しいものを含むDVDをたくさん借りて帰ったのでよしとしよう。
NHK BS で木下恵介の特集。 『花咲く港』『喜びも悲しみも幾年月』など。大島渚・吉田喜重らの反面教師としての木下恵介の役割は大きいとは思うが、正直言って、つづけて見るのはなかなかの苦痛だ。
■2005年12月1日
▽『ガザ回廊』
いつの間にか今年もあと一ヶ月になってしまった。年末になってもいろんなことがあるね。
ドイツはメルケル首相の就任のごたごたで揺れてるし、イランでは急進派の新大統領が「イスラエルは地上から消えるべきだ」などといったりして国際社会で物議を醸している。フランスの暴動騒ぎはようやく収まったみたいだが、移民問題はいまだに確固たる解決策を見出していない。韓国では厳戒態勢で入学試験が行われたのにもかかわらず、禁止されていた携帯電話を会場に持ち込んで次の年の受験資格までも取り消されたものが多数いたという。みんな何やってんだか。
イスラエルでは右派のシャロンがリクードを離党して新党を結成し、そこに左派の一部が流れるという思ってもいなかった事態になってる。シャロンというのはどうしようもない右翼というイメージだったのだけれど、最近どうもやることがわからない。国民の支持を受けているようだが、本当に和平のほうに動き始めてるんだろうか。ガザからの撤退はうまくいったが、その一方でヨルダン側ではでっかい壁を作っているわけだし。この壁が壊されるまでにまた何十年もかかってしまうんだろうか。ガザといえば、『ガザ回廊』というドキュメンタリー映画があるんだけれど、正式公開されていないので見ている人はまああまりいないだろう。これを見るまでにも、もちろんガザという地名は知っていたし、そこが政治学的にどういった役割を演じている場所なのかもだいたいわかってはいた。しかし、ガザという場所がどういう場所なのか、この映画を見てはじめてわかったように思う。
長さ45キロ・幅8キロメートルの「ガザ回廊」と呼ばれる区域のなかから出ることを許されず、そこだけを通ることを許された長い海岸線を、重い荷物を抱えたパレスチナの人々が黙々と歩く姿をとらえたその映像を見たとき、テレビの報道などで何度伝え聞いても理解できなかったことが一瞬でわかった気がした。ここは監獄に他ならないのだ。これが映画の力というものだろうか。
イスラエルの入植者がそこから撤退したことはとりあえず喜ばしいことだ。しかし、それは監獄がただ広くなっただけのことだったのかもしれない。
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■2005年11月30日
ジャ・ジャンクーの『世界』を見る。かなり良いです。久しぶりにレビューを書こうかと思っているので、詳しい話はまたそのときにでも(といっておいて書かないことがよくあるのだけれど)。
見ているあいだずっと、これはデジタルで撮ってるんだろうか、それともフィルムで撮ってるんだろうかと考えながら見ていたのだが、結局わからなかった。『アカルイミライ』や『青の稲妻』、『ヴァンダの部屋』なら、知らずに見てもこれは DV で撮ってるんだろうなという見当がついた。質感自体がそうだし、速い動きになると少しカクカクとした感じになるところがあったから、見分けるのは簡単だった。『世界』はデジタルで撮ったものを35に焼いたものらしいのだが、見ていても全然わからない。デジタルはさらに進化を遂げているようだ。
■2005年11月25日
Amazon で注文しておいた『ジャン=リュック・ゴダールDVD-BOX』が届く。まだ封も切っていない。買っただけで見てないDVDや本がどんどんたまってゆく。しかし、これは結構高い買い物だったので、不良品だったらあとで困るから早めに一通り動作確認だけはしておいたほうがいいだろう。
ついでに注文しておいた『樋口一葉小説集』『カタロニア讃歌』『シチリアでの会話』『ジョゼフ・フーシェ』『寺山修司詩集』も届く。ステファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』あたりから読みはじめたいところだが、リチャード・スタークの "Comeback" をペーパーバックで読みはじめたので、とりあえず後回しだ。新興宗教の教祖が信者たちからだまし取った資金を強奪する話。まずまずの滑り出し。割と読みやすい英語。
■2005年11月24日
▽鈴木英夫『非情都市』
わたしが見た鈴木英夫作品の中ではこれが一番面白かった。スクープを取るためには恋人さえも犠牲にする事件記者(三橋達也)が、結局自分も社会の歯車の一つとして押しつぶされてゆく様を描く。自分の書いた記事で人が死のうがどうしようが意に介さない憎々しげな新聞記者が、それよりも非情な社会の仕組みによって、最後は犠牲者となる。この憎悪をかき立てると同時に、哀れをも催す野心家の記者を三橋達也が見事に演じている。この作品で鈴木英夫を少しは見直したが、やはり作家主義によって「作家」にされてしまったひとりという印象は変わらない。取り立てていうほどの個性も文体もない職人監督という気がする。しいていうなら、この映画の三橋達也のような、欲望にとりつかれた人間を描く際のクールなタッチに特徴があるといったところか。司葉子がストッキングをはくシーンにはどきどきさせられた。
■2005年11月23日
最近フランスでストのニュースが多いと思っていたら、今日、リベラションのホームページを見に行って驚いた。リストラに抗議するためにストをおこなうという掲示があって、サイトが一時閉鎖になっていたのだ。ネット上のストというのははじめての経験だ。さすがはフランス。
■2005年11月22日
ジェイムズ・エルロイばかり読んでいるといいかげん気が滅入ってくるので、リチャード・スタークでも読もうかと思う。いまはスカッとしたものが読みたい気分だ。それにしても高橋尚子のラスト・スパートは気持ちがよかった。結構スポーツ好きなのだが、ゴルフとマラソンだけはまじめに見たことがない。そのわたしが、ラストの数分間テレビに釘付けになってしまった。「ふくらはぎの痛みに耐えて」というメロドラマ的な味付けがなければ、さらによかったのだが・・・。
■2005年11月18日
はじめにロゴスありき。ゲーテのファウストは、ロゴスを「言葉」ではなく「行為」と訳して納得する。また『色彩論』のゲーテは、「色彩は光の行為である。行為であり、受苦である」とも書く。映画は言葉でも映像でもない。なによりも、ひとつの行為である。
■2005年11月16日
▽北野武『TAKESHI'S』
梅田ピカデリーに『TAKESHI'S』を見に行く。はなから失敗作を見るつもりでいったのだが、それでもかなり居心地の悪い映画だった。この居心地の悪さは『みんな〜やってるか!』以来であり、あのとき以上のものだった。しかし、わたしはこの居心地の悪さを肯定的にとらえたい。『みんな〜やってるか!』では、勝新太郎の「座頭市」を始めとする様々な映画のジャンルが批評的パロディの対象にされていたが、ここで俎上に載せられるのは北野の作品自体だ。たけしが武を殺す(武がたけしを殺す)試みは結局果たされることはないが、ここに渦巻いている闇雲なエネルギーを前にして作り手は決して無傷ではいられなかったはずだ。夜道に累々たる死体を踏みつけながらうねうねと走り続けるたけし=武の運転するタクシーは、映画作家北野武のいまの心境を映像にしたものと思っていい。
北野の映画にはもともと説明が付かないようなカットつなぎがよくあり、どこに帰属するのかわからない宙に浮いたようなショットが観客をとまどわすことがよくあった。この作品では、カット同士のつながりが、胡蝶の夢を思わせるふたりのたけしの夢の合わせ鏡という構造の中で、さらに曖昧きわまるものとなって、ほとんど破綻をきたしているといっていい。もっと「うまい」監督ならば、たとえば鏡のイメージを使ったりして小器用にまとめてしまっただろう。混沌としたものを混沌としたまま放り出したような作品だ。たけしはいまだにアマチュアなのであり、そもそも巨匠になる気などさらさら無いのだと思う。それでいいのだ。巨匠意識を持ったときが、彼の終わりである。
この作品が優れた作品だとはいわないが、次になにがくるのかを大いに期待させる作品だとはいっておこう。
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前から探していたちくま文庫の『坂口安吾全集18』をやっと手に入れた。Amazon でも古本しか手に入らないし、どこの本屋でもこれだけはなかったのだが、こないだ梅田の旭屋にいったらふつうに文庫のコーナーに並んでいた。98年発行となっているから、新しく増刷されたものでもないようだ。謎である。謎といえば、去年、京都の丸善に間章の『非時と廃墟そして鏡』が新品として売られていたのも謎である。こっちは1988年刊だから、今ごろ古本や以外の本屋に並んでいるはずのない本なのだ。在庫処分にしても遅すぎるし。だれかが勝手に置いたんだろうか。
関係ないが、『ブランショ政治論集』という本がこないだ出た。わたしは大学時代の一時期、このモーリス・ブランショという作家の本をほとんど憑かれたように読みあさっていたことがあった。映画オンリーの人には関心のない人物だろうが、言葉というものについて真剣に考える人なら避けては通れない作家だ。ブランショは難解な作家だといわれる。たしかにユダヤ神秘主義にも似たその思想の真意をとらえるのは難しい。しかし、その難解な思想とは裏腹に、原文のフランス語自体は非情に透明で読みやすいものだ。ブランショの小説や文学論はこれまで数多く出版されているが、彼の政治論をまとめて読める本はこれが初めてだろう。ブランショの政治姿勢についてはいろいろ伝え聞いてはいたが、こうして本格的に一冊の本にまとめられたのはうれしい。ただ、出版社がマイナーだし、訳者が若手の研究者3人というのも気になる。とくに、初期のブランショの翻訳物は、ひどい訳のものが多かった。気になる本だが、原書が手にはいるならそっちのほうを手に入れたほうがいいかもしれない。
■2005年11月13日
▽矢口史靖『スウィングガールズ』
映画と思わなければ、それなりに面白い。
▽デルマー・デイヴィス『恋愛専科』
前に一度見ているはずなのだが、最後まで見ても確信が持てなかった。しばらくすればまた忘れてしまうかもしれない。ローマを舞台にした観光映画。チャールズ・ロートンJr.の撮影。
▽高橋治『彼女だけが知っている』
連続奉公魔にレイプされた女(小山明子)が自己を犠牲にして捜査に協力する。良質の犯罪映画だが、ただそれだけ。 笠智衆がが父親役。
▽N ・ケンドル『天使といた夏』
なぜかデイビッド・ボウイが出ているファミリー映画。見るべきところなし。
▽E・エリアス・マーヒッジ『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』
ムルナウの傑作『吸血鬼ノスフェラトウ』のロケ撮影自体をホラー映画に仕立てるという風変わりな試み。マックス・シュレックが 実は吸血鬼だったという信じがたい設定で、ここでのムルナウ(ジョン・マルコヴィッチ)は、映画を撮り上げるために、撮影が終わったら女優の命をさし出すという契約を吸血鬼と交わし、撮影スタッフが次々と血を吸われて死んでいくのを眼にしながらキャメラを回しつづける狂気の映画監督として描かれている。まるで芥川の『地獄変』だ。ウィレム・デフォーが特殊メイクでシュレック=ノスフェラトウを演じているのだが、クレジットを見ないとわからないほど顔が変わっている。
監督はパロディを撮るつもりはさらさらなく、役者も真剣そのものだが、出発点がずれているという気がしないでもない。どうしていいか反応に困る映画だ。ムルナウ作品を愛している人は、とりあえず押さえておいても損はないだろう。
■2005年11月8日
▽フランスの郊外
いまフランスがたいへんなことになっている。日本のメディアでもようやく伝えられはじめたが、10日ほど前からフランスでとんでもない暴動騒ぎが起きている。パリ郊外のクリシー(ヘンリー・ミラーに『クリシーの静かな日々』という小説がある。シャブロルが映画化)で、警官に職務質問された移民系の若者が逃げ込んだ先の変電所で感電死した事件に端を発した暴動が、フランス全土に拡大し、いまだに事態が収束する兆しが見えていないのだ。政府は強硬な姿勢を見せ、逮捕者も多数出ているが、ほとんど効果を上げていない。この10日あまりのあいだに車だけでも数千台が放火され、保育園までもが放火されるなどして、すでに死人も出ている。サルコジ内相が暴動を起こした若者たちを「ごろつきたち」と呼んだことが、さらに彼らを刺激している(わたしはこのサルコジという奴がむかしからどうも好きになれない。野心家で、エリート主義者で、見え見えのパフォーマンスを恥ずかしげもなくおこなう典型的な「政治家」だ)。
暴動の背景にはフランスの移民政策の失敗があることは間違いない。郊外の「低家賃住宅」HLM(というと聞こえがいいが、用は貧乏人用のスラム)に彼らを押し込んでやっかい払いしてきたつけがいまになって回ってきたというわけだ。この問題はいまにはじまったわけではない。甘い恋愛映画ばかりを見ている人は知らないだろうが、フランス映画をちゃんと見ている人は、大むかしからこういう問題が存在していたことを知っているはずだ。
あまり大した映画ではないがマチュー・カソヴィッツの『憎しみ』がこの問題を正面から描いていたことが、最近では記憶に新しい。パリ郊外の貧民の町で少年が警察から暴行を受けたことがきっかけで大暴動が起きるまでを、フレンチ・ラップに乗せて描いた作品だ。以前見たときは多少大げさに思えたが、いま見直すと予言的にさえ思えてくる。ジャン=クロード・ブリソーの『かごの中の子供たち』も郊外の暴力を描いた映画だった。
郊外についてもっと考えたい人は、宮台真司の『まぼろしの郊外』、堀江敏幸『郊外へ』などを読むとよい。
■2005年11月4日
▽マーチン・リット『パリの旅愁』(61)
アレクサンドル・トローネルが美術を担当していること以外は、書くべきことはなにもない。冒頭、サクレクールを遠く望むパリの景観をとらえたロングショットからキャメラがパンするといつの間にかトローネルの作った精緻なセットに変わっているという場面はなかなか昂奮させるものがあるが、ロケとセットがうまく調和しておらず、ヌーヴェル・ヴァーグのパリと『巴里の屋根の下』のパリがむりやり同居させられているというちぐはぐな感じはいかんともしがたい。
セルジュ・レジアーニがドラッグ中毒のミュージシャンとしてしがない役を演じさせられている。ハリウッド映画がドラッグをあからさまに描くようになるのはどの作品からか? 少なくともプレミンジャーの『黄金の腕』(55)よりはこの作品のほうが、あきらかに描写は直截的である。
■2005年11月2日
▽サイト・リニューアルとりあえず完成
ホームページのリニューアルがとりあえず完成した。といっても、各セクションのトップページを作っただけなので、まだまだやらなければならないことは多い。しかし、いままで書いたものをすべて書き換えるのは大変なので、大部分は昔のレイアウトのままアルシーヴ扱いにしようかとも思う。いろいろくだらないことも書いたので、これを機会に再出発することにしよう。
最近、スタイルシートというやつにはまっている。スタイルシートを使ってサイトをデザインしておけば、サイト全体のレイアウトを一瞬にして変えることができる。こんな便利なものがあるなんてどうしてだれも教えてくれなかったのか。いやいや、そういえば本屋で「スタイルシート」と書かれた本をよく見かけた気がするが、いままで気にもかけなかっただけだ。実際、ここ数年、パソコンの本なんて買ったことなかった。これからしばらく、スタイルシートの本をいろいろ買ってお勉強することになりそうだ。
スタイルシートにはタグの数を減らしてサイトをダイエットすることができる利点もある。これからはスタイルシートによるレイアウトが標準になっていくことは間違いないようだが、古いブラウザの中には対応していないものもあるようだ。とくに、Mac版のIEにはバグがあるらしく、レイアウトが崩れるので対応させるのに苦労した。
▽フレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』
Amazon.co.jp に注文していた Fredric Brown の "What's a mad univers" が、さんざん待たされたあげく入手不可との知らせが届いた。と思ったら、長らく品切れ状態だった文庫の翻訳のほうがついこないだ再販になった。良かったのか悪かったのかわからないが、とにかくめでたい。そういえば、ジム・トンプスンの "Killer Inside Me" の新訳が出た(『おれの中の殺し屋』 というタイトルよりも前の『内なる殺人者』のほうがかっこよかったと思うが)。パトリシア・ハイスミスの翻訳もどんどん出ているみたいだし、なかなかいい感じだ。
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■2005年10月28日
▽ウィリアム・フリードキン『フレンチ・コネクション』
昔はどうでもよかったこういう映画も、いま見ると結構面白く見れてしまう。それだけいまのハリウッドの映画が面白くないということか。ジョン・フランケンハイマーの『フレンチ・コネクション2』は一作目に比べて冗長な仕上がりだったが、どちらも幕切れのあっけなさが心地よい。『フレンチ・コネクション』では、ポパイ(ジーン・ハックマン)が麻薬組織の取引現場を押さえ、一味を一網打尽にするが、ボスのフェルナンド・レイをあと一歩のところで取り逃がしてしまう。廃ビル(どうしてアクション映画のクライマックスはいつもいつもこういう場所を舞台にするのか)で同僚のデカを誤って射殺してしまったポパイが、そんなことにはお構いなしにフェルナンド・レイの跡を追いかけていくところで、映画は唐突に終わる。『フレンチ・コネクション2』では、船底に隠れてうまく逃げおおせたつもりのフェルナンド・レイが、もう大丈夫と思ってデッキに現れたところを、埠頭で待ち受けていたポパイが射殺する瞬間に映画は終わる。
この二つが特別だったわけではなく、かつてのハリウッド映画ではこういう幕切れのあっけなさはごく普通のことだった。それが変わりはじめるのは、いつからのことだったのか。
■2005年10月21日
▽村川透『もっともあぶない刑事』 (89)
村川透にまだ余力が残っていたころの作品だが、館ひろしと柴田恭平が結婚式の新郎のような格好で、むなしいダンディスムをふりまくこのシリーズでは、さすがの村川透でもいい映画は撮れない。廃ビルでの場面だけは彼らしいきれを見せているが、これも結局自己模倣の域を出ていない。
ついでだが、村川透のデビュー作『白い指の戯れ』がDVDで出ている。このへんのポルノ映画もどんどんDVD化してレンタルしてほしいものだ。そして、できればアダルトコーナーではなく、ふつうの場所に置いてほしい。いまの基準で行けば、かつての日活ロマンポルノでアダルト扱いすべきものはそんなにないはず。だれのためになにを守っているのかわからない規定は、いい加減に廃止したらどうか。
■2005年10月20日
▽ピーター・イエーツ『ブリット』
同じサンフランシスコの坂道を、マックィーンがトップギアで車(ダッジチャージャーっていうの?)を疾走させる『ブリット』よりも、ジェームズ・スチュワートがゆっくりと車を走行させる『めまい』のほうが、どれほどサスペンスフルで官能的な魅力にあふれていることか、って話。
とはいえ、あの乾いたエンジンオンにもそれなりの魅力があることもたしか。オープニングのタイトルの出し方はいま見てもかっこいい。
▽ノーマン・ジュイソン『夜の大捜査線』
大した映画ではないが、最後の最後にとびっきりの笑顔を見せるロッド・スタイガーはやっぱりいい。気のせいか、こういう映画に出てくる町を牛耳る大物は、たいてい屋敷の温室で花を育てている。それとも、『大いなる眠り』のリメイクを何本も見ているせいでそう思うだけだろうか。
■2005年10月19日
口内炎がつらい。
▽ツイ・ハーク『ドリフト』
ハリウッドから香港へ帰っての第一作。独創的なアクション・シーンはなかなかクオリティが高い。とくに、ウー・バイのアパートでのロープを使ったアクション。非常階段をロープにつり下がって回転しながら降りていったり、ベランダの並ぶ建物の側面を縦横に移動しながらの撃ち合いなど、あまり見たことのないアクションが見られる。この場面の最後の爆発で大量の鳩を焼死させているのは、ジョン・ウーを意識してのことか。アンソニー・ウォンやホウ・シャオシェンの映画でおなじみのジャック・カオなど、脇役の顔ぶれもいい。最後の部分で、敵のひとりが赤ん坊を投げるのはひょっとしてジョン・ヒューストンをまねたのだろうか。
それほど好きでもない監督だが、そのなかではこれは一番いいほうにはいる。
■2005年10月16日
▽ダグラス・サークの季節到来?
ダグラス・サークの『Scandal in Paris』『Accord final』ほか数作品が東京横浜などで上映される模様。ちなみに、『Scandal in Paris』はDVD上映。これはたぶんわたしがもっている北米版のDVDだと思う。2000円も出せば手に入るものだが、今回の上映では入場料に1200円も取るらしい(青山真治をゲストに呼んでのレクチャー付きだから、妥当な値段か)。
まあどうでもいい。それより『Accord final』は関西では上映されないのだろうか。東京フィルメックスでの上映だから、今回だけの特別上映ということか。こういうときだけは、さすがに東京に住んでいるヤツがうらやましい。東京国際映画祭で上映される映画はあまり見たいとも思わないが、東京フィルメックスの上映作品には見たいものがいろいろある。国際映画祭の名にふさわしいのはむしろこっちのほうではないかという気がしてくる。
『サーク・オン・サーク』も出版されるそうだが、詳細はわからない。これもわたしは大昔に英語で読んでいる。自分で翻訳しようかと思ったこともあるが、売れそうにないのでやめた本だ。
サーク情報はここで。
■2005年10月13日
▽ハロルド・ピンターにノーベル文学賞
ジョゼフ・ロージーの『できごと』 、『召使』、『恋』などで知られるイギリスの劇作家ハロルド・ピンターがノーベル文学賞を受賞した模様。
■2005年10月10日
▽ 西河克己『エデンの海』
西河克己の映画にはある潔さというか、ポジティブな諦念のようなものがある。溝口や成瀬のような突出した才能には恵まれていないが、そのもてる才能を尽くして最良の作品を作り上げる。あまり世間から評価はされないが、こういう作家は愛すべき存在だ。
僻地にある学校に若い男性教師が赴任し、女子高生たちが色めき立つ。その中で、ひとりだけ超然としてひときわ目立つ女子生徒がいる。新任教師と彼女のあいだには次第に教師と生徒という関係を超えた感情が芽ばえはじめるが、それは小さな街に波風を立たせずにはおかない。
こうした物語は石原裕次郎などが主演で何度も映画化されてきたものだ。それにしてもこのデジャ・ヴュ感はいったいなにかと思っていたら、この原作はこの作品の十年ほど前に西河克己自身が高橋英樹と和泉雅子主演で映画にしていたのだった。しかし、高橋英樹の役は覚えていても、そのときの和泉雅子の印象はほとんど残っていない。
それにしても山口百恵はすごい。今をときめく上戸彩やらなにやらのアイドル女優などとはものが違う。結局、女優というのは顔でもなければ、演技力ですらなく、その存在感なんだということを改めて実感する。この映画の山口百恵は、おしっこを漏らしたり、蛙を引き裂いたり(未遂に終わるが)、木陰で水着に着替えたり、水着で馬に乗って街を疾走したり、別れの悲しみを無表情の下に隠してバイクにまたがったりと、なかなかパッショネイトだ。レズビアンを演じている悠木千帆(樹木希林)の役も笑える。浅野温子が出ていたみたいなのだが、不覚にも気づかなかった。後で見直してみよう。
■2005年10月10日
▽『七人の無頼漢』ついにDVD化
『七人の無頼漢』のDVD化を呼びかけてから、ほとんど反応のないまま早数ヶ月。Google で『七人の無頼漢』を検索したら、自分のページがトップになる始末。これはこれで複雑な思いだ。やっぱり日本じゃベティカーなんてはやらないのか。
バーガーキングのポスターにランドルフ・スコットの写真がでかでかと使われるパリの街なら、ベティカーがリバイバルされてもなんの不思議はないが、日本ではそれはあり得ない。だから、Amazon.com のページに "Seven Men from Now" が現れたときには驚喜したものだが、その後全然進展する様子がなかった。 下の8日の日記で書いた変化は少し期待させるものだったが、あんまりあてにはできない。とりあえず情報を集めるために、ときどき書いてる某ブログに下と同じ内容を書き込んだら、早速コメントをくれた人がいた(わたしは遊び程度にしかブログはやっていないのだが、このレスポンスの速さがブログの魅力なのだろう)。
その人に教えてもらってわかったのだが、 "Seven Men from Now" のDVDがついに発売になることが決まったのだ。パラマウントから12月の20日に発売されることがすでに決まっていて、ここから予約できる。いまなら11ドル程度で買うことができる。『七人の無頼漢』はジョン・ウェインのバトジャック・プロとワーナーの作品なので、なぜパラマウントからでるのかは謎だが、どこでもいいからベティカー作品は全部DVDで出してほしいものだ。パラマウントから出るのなら、日本での発売も少しは期待していいのかもしれないが、いつになることかわからない。少なくとも、わたしはそれまで待てそうにない。
■2005年10月8日
▽『七人の無頼漢』DVD化が始動、か?
バッド・ベティカーの西部劇『七人の無頼漢』のDVD化への投票を前々から呼びかけているのだが、どうもこれまであまり手応えがなかった。当分のあいだ孤独な戦いをつづけなければならないのかと思うと憂鬱な気分になる。しかし、先日ひさしぶりに Amazon.com の "Seven Men from Now" のページにいってみたら、若干の変化が見られた。以前は、リクエスト投票を呼びかける案内が書いてあったのだが、それが消え、いまは単に "Not yet released" とだけ書かれてある。これはすでに DVD化が決定したということなのか。よくわからない。このページには、だれかが英文で書いたレビューが以前一度掲載されていたのだが、しばらくして削除されてしまった。ところが、また今度その同じレビューが掲載されている。よくわからない。
とりあえず、まだメルアドを登録していない方がまだいるなら、このページの右側のフォームから登録できるので、ここでもう一度登録をお願いしたい。
■2005年10月7日
ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』を見に行く。子供ばかりだったらどうしようと思ったが、平日の夜の回だったので子供の姿はどこにもなかった。『がんばれベアーズ』も見に行くつもりなのだが、さすがにこちらは子供連れが多いかもしれない。
『猿の惑星』と『ビッグ・フィッシュ』のときは完全には乗りきれなかったのだけれど、今度の『チャーリーとチョコレート工場』は最初から最後まで最高だった。バスビー・バークレーや『2001年宇宙の旅』、『サイコ』などへのオマージュが楽しい。全体としては『市民ケーン』か。とりあえず、お薦め。
毎週水曜の深夜にアジア映画を放送しているのをハードディスク・レコーダーで「毎週録画」設定で録画している。今週は『男たちの挽歌II』だったのだが、昨日それを再生してみていると、録画が途中で終わっていた。「毎週録画」で予約録画しているときは、スポーツ自動延長は機能しないのか。だとすると、この機能はあまり役に立たない。
たまたまチャンネルをひねったら、『電車男アナザーストーリー』というテレビ・ドラマをやっていた。パソコンの前に座った男たちをキャメラが順々に映し出すという官僚的演出。こういうのを見ているとうんざりする。一瞬だけ見てすぐにチャンネルをひねる。別にこのドラマだけじゃなく、「ショムニ」などといった複数の準主役スターというか役者が出ているドラマでは、ここぞといったときにその役者のひとりひとりをいちいちアップで撮っていかないと気が済まないらしい。というか、それ以外にカッティングのしかたがわからないのだろう。頭が悪いというか、原始的というか。こんなのがそこそこの視聴率を取っているのかと思うと、悲しくなるね。
■2005年10月6日
▽成瀬巳喜男『女の座』
ほとんど女ばかりの大家族を描くオールスター作品。どちらかというとマイナーな作品と思って見たのだが、非常に面白い。「たったひとりの他人」である未亡人の嫁が店を切り盛りしているという高峰秀子の役どころは、『乱れる』で彼女自身が演じることになる役を準備している。『乱れる』のようにひとりのヒロインに焦点が絞られているわけではないので、多少あわただしい印象は否めないが、達意の人間描写は堂に入っている。成瀬版『東京物語』という風に見ることもできる(高峰秀子=原節子、司葉子=香川京子、父親役はどちらも笠智衆)。
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