日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
昨日は、フロドンの文章の日本語訳を半分まで読んだ時点で書いたのだが、後半の訳もぐだぐだだった。それでも、『フィルム・ノワールの時代』の細川晋の訳よりは全然ましだったが・・・。
ま、こんな話を続けてもしようがないので、今日は別の話をしよう。京都造形芸術大学で吉田喜重作品と抱き合わせで上映された青山真治の『すでに老いた彼女のすべてについて語らぬために』についてである。2001年にDVで撮られた作品だ。わたしは映画作家のフィルモグラフィーをあまり丹念にチェックしたりしないので、青山真治がこんな作品を撮っていたことは、今回初めて知った。相変わらずの勉強不足である。
『エリ・エリ』など、最近の青山作品をどうも物足りないと思っているわたしには、5年ほど前に撮られたこの商品はすごく新鮮に映った。巨大な凧のようなグライダーが空に舞い上がってゆくイメージに、豊川悦司(?)が朗読する中野重治のテキスト(『五勺の酒』)が重ね合わされる冒頭のシーンからぐいぐい引き込まれる。ひさしぶりに青山真治の才能を感じることができた一本だった。
内容を要約するのは非常に難しいが、一言で言うなら、スガ秀実、渡部直己らによる天皇をめぐるテクストと、ゴダールの『映画史』、この二つから強烈にインスパイアされて撮られたドキュメンタリー風エッセイ映画とでも説明できるだろうか。作中で引用される、「辛よ さよなら/金よ さよなら」で始まり、「君らは雨にぬれて君らを追う日本の天皇を思い出す/君らは雨にぬれて 彼の髪の毛 彼の狭い額 彼の眼鏡/彼の髭 彼の醜い背中を思い出す」と天皇を歌い、「彼の胸元に刃物を突き刺し/返り血を浴びて/温もりある復讐の歓喜のなかに泣き笑え」と結ばれる中野重治の詩「雨の降る品川駅で」も、渡部直己の『不敬文学論序説』からそのまま引用したものだろう(「Fu Kei Cinema」という字幕も作中何度か挿入される)。
前半では、天皇の姿を写した写真や記録映像、あるいは冒頭の飛行機に続いて、高速道路の映像や水面の照り返しが複雑な模様を投げかけている港に係留されたボートのイメージなどに重ねて中野重治のテクストが読み上げられ、後半では、同時代に書かれた夏目漱石のテクストに大逆事件の痕跡が不在であることが、修善寺の大患をめぐって書かれた『思い出すことなど』の引用を通して検証される。
他方で、大逆事件の女テロリスト、菅野須賀子(スガ)がクローズアップされ、「terrorist」 の字幕から 「eros」だけが残されるという、言葉遊びが行われる。作品のタイトルはおそらくベルイマンの映画『この女たちのすべてを語らないために』をもじったものだろうが、ここでの「彼女」とは「天皇」でもあり「母」のことでもある。そこには、この国においては天皇が表象の対象としては常に回避されてきたことだけでなく、「母」もまたタブーであったことが含意されている。
terrorist → eros の言葉遊びもそうなのだが、ホークスの『脱出』のウォルター・ブレナンの台詞のサウンドトラックや、字幕で挿入されるエルロイのミステリーのタイトルの引用、"Mission Impossible" をもじった "Mission : invisible" の字幕など、『ゴダールの映画史』を想起させる手法が多用されている。そもそも、英語によるタイトルが銃声とともに撃ち抜かれるように消えていくオープニングからして、ゴダールの模倣である。サンバイザーをかぶった男がタイプライターならぬワープロを打っているイメージなど、あまりにもあからさますぎて、パロディをもくろんでいるのかとも思ったりするのだが、そういうわけでもないようだ。わたしは、『冷たい血』のなかでメルヴィルやフィッツジェラルドやシェイクスピアの超有名な一説が引用される場面で、なにか恥ずかしいものを見たような気になったことを思い出す。こういうことができるのは大馬鹿者かよほどの自信家だろう、と。
なんの説明もなしに挿入される「1972」「1995」「2001」といった年号が、現在に穴をうがち、歴史の断層を不意に浮かび上がらせる。72年は浅間山荘事件(あるいは沖縄返還?)、95年は地下鉄サリン事件を指しているのであろう)。2001年はむろん、作品が撮られた現在を指す。
やがて、唐突に、成瀬や相米慎二や大島渚などなどの日本の映画作家の写真が次々と並べられてゆく場面が続き、作品は『ゴダールの映画史』に対する日本の映画作家からの返信といった趣を呈してくる。『ゴダールの映画史』の余白に書き込む試み、といったところか。
影響の受け方が8ミリ時代の黒沢清や万田邦敏の作品(万田は病院の廊下でキャメラに向かって語りかける男の役でこの映画に出演している)を思わせ、ほほえましいが、すでに『ユリイカ』を撮っている人間がこんなことをやっていていいのかという気もする。
わたしには消化しきれない部分も多々あるが、いずれにしても、ぐいぐいと観客を引き込んでいくイメージの喚起力はすごい。やはり青山真治は侮れないとひさしぶりに思った作品だった。
仏「Cahiers du cinema」 のサイトはときどきのぞいているのだが、あまりまともに記事を読んだことがない。そんなわけで、このサイトに日本語訳のページがあることに気づいたのも、つい最近だ。フランス語を読めない人にとって、こういうページがあることはありがたいことなのだろう。しかし、その日本語訳というのがかなり意味不明のしろものなのだ。今日初めて読んでみて、あまりの精度の低さに驚いてしまった。こんなやっつけ仕事の訳だったら、載せないほうがましである。
困ったのは、なぜか日本語訳だけあって、それに対応したオリジナルのフランス語のテクストがないことだ。仕方がないので、英訳と読み比べてみた。もちろん、英訳のほうが正しい訳になっているとは限らないのだが、どう考えても日本語訳には変な部分が多々あり、英訳のほうがオリジナルの文意に近いと思われる。
以下に示すのは、私が読んだジャン=ミシェル・フロドンの文章の英訳と、対応している日本語訳の部分を交互に並べたものである。
This geo-economic dimension is part of the current phenomenon demonstrated
in several symptomatic films like "Syriana" and "Munich".
These films do not merely translate the (real) commitment of a large
number of American actors (of whom we find a model list in the credits
of "Syriana", as well as in "Good Night, and Good Luck", "Jarhead", "Lord
of War", and "The Constant Gardener") against the politics
of the Bush administration [...].
「こうした地域経済的な次元が、『シリアナ』や『ミュンヘン』といった、いくつかの徴候的なフィルムが示しているアクチュアルな現象の一部を担っている.こうしたフィルムは、ハリウッドスターの大部分がおこなっている、ブッシュ政権の政策にたいする(実際の)反対運動(『シリアナ』が範例的だが、『グッドナイト&グッドラック』、『ジャーヘッド』、『ロード・オブ・ウォー』、『ナイロビの蜂』でも、作品のクレジットが、あたかも有力者連の様相を呈している)」
※「有力者たちの様相」っていったいなんですか? ちなみにイタリア語訳では( )括弧内の部分を ”(manifesto in Syriana, ma anche in Good Night and Good Luck, Jarhead, Lord of War, The Constant Gardner)”というふうにさらりと訳している。はしょり気味の訳だが、意味がわからないよりはよほどましだ。
the two blockbusters "Munich" and "Syriana" are characterized in fact by a heavy industrial project, in both instances at the service of a conception of the world disoriented, which is truly the last thing to have been expected.
「ふたつの超大作、『ミュンヘン』と『シリアナ』は重工業的な産業プランの特色を有しているが、どちらも、行くさきの見えない世界というコンセプトの推進に一役買っている.ハリウッド・システムから期待することができた究極のことは、こうしたことなのだ. 」
※そもそも、学校英語風の訳がわかりにくいのだが、"the last thing" は学校英語で十分カバーできる範囲じゃないの? 完全に逆の意味になってますね。
And, almost invariably, the family as community of reference - family either as a given or to rebuilt - operated metonymically with these approaches of living together, intersected by all questions, but within the known horizon - which was first of all the horizon of the United States [...].
「そして、ここで参照される共同体は、ほぼつねに家族――それも、とつぜんあらわれた家族であったり、再建すべき家族であったりする――であり、それが、共生へとつづく道の換喩となっている.共生という考えには、あらゆる問いかけがなされているものの、それも、なじみの領域内での話――なによりもまず、合州国という考えかたの延長にすぎない.」
※「とつぜんあらわれた家族」?「合州国という考えかたの延長にすぎない」? 謎だらけです。
京都造形芸術大学で吉田喜重がトークをしにくるので、話を聞きにいく。トークが終わってホールの外に出ようとしていたとき、第七藝術劇場の松村氏に呼び止められる。七藝で吉田喜重の上映をやるので、今日はそのために監督とスケジュールの調整などの打ち合わせにきたとのこと。おまえもついでに来いといわれ、急遽、七藝のスタッフ数名といっしょに、吉田喜重氏と小一時間ばかりお話しすることになってしまった(といっても、企画についての実務的な話がほとんどだったが)。前回は、「吉田喜重通信」というチラシに批評らしきものを書いただけで、吉田氏ともほとんどお話ししていない。面と向かって話すのは今回が初めて。最初は緊張したが、いろいろとお話しできてよかった。何となくむっつりとして、気むずかしそうなイメージがあったのだが、全然違った。決して多弁な人ではないが、人当たりはとてもよかった。
名刺ももらったし、ご著書までいただいてしまった。突然思い出したみたいに、「あ、そうそう」といって、鞄から本を取り出されて、「これを差し上げます」といって、そこに居合わせたものの前にぽんぽんぽんと並べていかれたので、驚いてしまった。吉田氏の本というわけではないのだが、吉田氏がガブリエル・ヴェールについて書かれた「映画誕生百年」という文章が収められている講演集だ。『夢のシネマ 東京の夢』で描かれていたのに近い内容だが、あそこではふれられていなかったことも書いてあり、興味深く読ませてもらった。ISBN 番号が振られていないのは、まだ見本の段階ということなのだろうか。とにかく、ありがたい。
七藝での企画の内容はまだ全然固まっていないが、「美の美」のシリーズを中心に、いろんな人を呼んで講演してもらうことになりそうだ。話せるようになったときには、大々的に宣伝させてもらいます。
京都造形芸術大学での吉田喜重連続上映にいっているので、なかなか更新する時間がない。やっと暇ができたが寝不足気味で、あまり頭が回らないので、見た作品についてはまた後で。
一つだけ情報を書いておく。
「吉田喜重 反=映画史」のチラシに間違いがあって、3月26日、吉田監督トークのあとに、15:50から『BIG-1物語 王貞治』の上映があるとのこと。昨日初めて知った。わかっていたら別のスケジュールの立て方もあったのに、こういうのはほんとに勘弁してほしい。
アラン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』がいつの間にか品切れになっていた。大型のネット書店をいくつか調べてまわったが、すべて入手不可。いつか買うつもりでいたが、まさかこんなに早くなくなるとは思っていなかった。が、最終兵器として残していた三月書房に行くと、あっさり見つかる。どこの大型書店にもない本が、六畳ほどの大きさしかない小さな本屋で見つかる不思議。それにしても、ラテン・アメリカの本は岩波文庫には似合わない。ボルヘスも岩波文庫ではなんだか場違いに思える。しかし、ラテン・アメリカの文学を読めるのは今は岩波文庫ぐらいしかない。集英社からむかし出ていたラインナップはほぼ全滅してしまったし。ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』など文庫で出たらまた読んでみたいのだが。あれを初めて読んだときは衝撃だった。
▽衣笠貞之助『狂った一頁』『十字路』
京都文化博物館にて。最も有名な日本のサイレント映画。実は、今回見るのが初めて。たしかに、瞬間瞬間すごいイメージがあるのだけれど、全体的に見るとどちらも結構退屈な映画だった。ま、結局、お話はどちらも古くさい新派のそれなのだ。
両作品とも、雨のシーンがすばらしい。『十字路』では、映画のクライマックス、姉と弟が落ち延びた小屋で激しく雨が降り始める。やがて雨はやみ、弟は吉原の女への思い立ちがたく、姉をひとり残してまた女の元へと向かい(吉原の場面では、くるくると回転する大きな提灯(?)のイメージが印象的)、そこで息絶えるのだが、絶命する瞬間、幻のように雪が舞う。暗い路地をひとりの男が転げるように駆けてくる冒頭のシーンからしてどきりとさせられる。舞台となる家の、姉弟のすむ2階へとつづく階段(日本の家屋とは思えない抽象化された演劇的空間)を上ってくる男を俯瞰でとらえた後退移動撮影など、トリッキーなイメージが印象的。
『狂った一頁』の冒頭、激しい雷雨の夜、きらめく稲妻(切り抜いた紙(?)を使ったトリック撮影)、氾濫する河、精神病院で踊り狂う女狂人、病院の窓越しに不気味に揺れる大木の影などが、フランスのアバンギャルド映画のようなめまぐるしいモンタージュでカッティングされる。精神病院のなかの場面では、一転してドイツ表現主義風のキアロスクーロ。上映されたものには字幕は一切なかった(衣笠が自ら音楽を入れた75年のサウンド版)。もともとなかったのだろうか。あらかじめストーリーを確認してから見たのだが、特に後半、よくわからないイメージが展開する。知らずに見れば、誰が誰かさえわからないだろう。
『十字路』のフィルムは、ロンドンのナショナル・フィルム・アーカイブに保存されていた英語字幕版だった(原版は下加茂撮影所の火災で紛失)。
「私は、あの冬、漠とした怒りの虜になっていた。」(『シチリアでの会話』)
プラネットでストローブ=ユイレの『労働者たち、農民たち』と、ペドロ・コスタの『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』を大阪 Planet Studio + 1で見る。『映画作家ストローブ=ユイレ』については前にどこかで書いたので、ここではふれない。そのかわりに、この作品のなかでストローブ=ユイレが編集作業を行っている映画『シチリア!』の原作、ヴィットリーニの『シチリアでの会話』について少し書くことにする。
映画『シチリア!』を見たあとで『シチリアでの会話』を読むと、ずいぶん印象が違うので驚く。ストローブの映画はシルヴェストロが研ぎ師に出会うところで終わっているが、原作では、このあともまだまだ続く。シルヴェストロは研ぎ師とともに酒場に行き、そこで研ぎ師の仲間エゼキエーレと出会う。このふたりは反ファシズムの闘士を象徴している。彼らは、「われわれ自身のためではなくて、傷つけられた世界の痛みのために」苦しんでいるシルヴェストロと意気投合する。酒場には、ファシズム体制の知識人を象徴していると思われるポルフィーリオや、体制側の特権階級・権力の象徴であるような小男コロンボも居合わせる。
シルヴェストロはやがて、毒のように甘美な葡萄酒に酔って自らを見失っている彼ら「亡霊たち」のもとを去る。墓場を通りかかったとき、無知ゆえにイタリア・ファシズム帝国の侵略戦争に加担させられて戦死した彼の弟の亡霊が現れる。
母の家にたどり着いたシルヴェストロは、弟の死をめぐって母親と議論し、それから、煙草をくゆらし、涙を流しながら、灰の舞うシチリアの街路を歩いてゆく。いつの間にか彼の後ろには、それまでに登場した登場人物たちのほとんどすべて(ファシズムと教会と王を象徴する父と母とコロンボだけはそのなかに入っていない)がぞろぞろとついてくる。彼らはファシズム国家イタリアの嘘と偽りを象徴しているような戦没者記念碑のブロンズ女性像を愚弄し合う。やがてあの兵士=弟が、「えへん」というと、居合わせたものたちは、そこにファシズム打倒の暗黙の合い言葉を認め、うなずき合う。
エピローグ。別れの挨拶をするために母の家に戻ったシルヴェストロは、こちらに背を向けてうなだれている父親(あるいは祖父)の姿を認める。長らくあっていなかった父に声をかけることなく、シルヴェストロはシチリアを去る。
『シチリアの会話』が書かれたのは、ファシズム体制まっただ中の1937年。この作品にはスペイン内戦で無辜な人々を殺戮しているムッソリーニのファシズム・イタリアへの強烈な批判が込められているのだが、ヴィットリーニは政権の検閲を逃れるために、ムッソリーニ、ファシズム、スペインなどの言葉を一切使うことなく、曖昧かつ明確なメッセージを読者に聞き取らすことに成功している。でなければ、数千部も売れなかったはずだ。
『シチリアの会話』は、カルヴィーノなど多くの作家に影響を与え、パヴェーゼの『故郷』とならんでイタリア・ネオレアリズモ文学の双璧といわれる作品である。しかし、実際に読んでみれば、いわゆる「リアリズム」の作品とは違うことがわかるだろう。ストローブの映画の最後に登場する研ぎ師も、原作の中ではどこか幻めいた存在として描かれている。
ストローブ=ユイレは原作の第4部の初めあたりまでをかなり忠実に映画化しているのだが、それでもカットされている部分も多い。なかでもいちばん違うところは、母親に与えられた重層的なイメージだ。
シルヴェストロは12月8日の聖名祝日に、母にお祝いを述べるために、シチリアに向けて出発する。12月8日は、聖母マリアの《無原罪の御宿り》(インマトラータ・コンツェチィオーネ)と呼ばれる主要祝日であり、しかもシルヴェストロの母親の名はコンツェチィオーネである。つまり、彼女はいわば聖母マリアとして描かれているといってもいいのだ。当然息子シルヴェストロには《イエス・キリスト》を象徴する存在となる。しかし、作品を読み進むにつれて、母親のイメージは聖母マリアから、貧しいシチリアの庶民、社会主義者の農民の娘、不義を犯す女へと、幾重にも変化する。シルヴェストロの場合も、コスタンティーノ大帝の癩病を聖水によって癒したとされるシルヴェストロ一世(ファシズムを癒すもの)をただちに想起させ、《森》(シルヴァ)を連想させる名前は作中何度も言及されるマクベスやダンテともつながってゆく。
ストローブの映画のなかでは、こうした原作の持つ象徴的で多義的なイメージはまったくと言っていいほど取りあげられていない。ヴィットリーニがこうした象徴的なイメージを多用したのは、もちろん検閲の目をくらませるためでもあった(もちろんそれだけではないが)。だから、「鋏だ、錐だ、包丁だ、槍だ、火縄銃だ、臼砲だ、鎌と槌だ、大砲だ、大砲だ、ダイナマイトだ・・・」という研ぎ師の台詞で終わる映画『シチリア!』のほうが、逆に、メッセージをより直接的に伝えているといえなくもない。
ちなみに、ストローブの次作の『労働者たち、農民たち』でも別のヴィットリーニ作品の一部を取りあげて映画化しているし、未見だが、その次に撮られた『放蕩息子の帰還』も、『労働者たち、農民たち』に登場する一人物イバラ(コミュニティから逃亡し、のちに大金を稼いで帰ってくる男)を別の角度から描いた作品になっていると聞く。『労働者たち、農民たち』を見られるまでに6年かかった。『放蕩息子の帰還』を見られるのはいつだろう。
青山真治の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を京都シネマで見た。青山の映画は、最近は、3本に1本ぐらいしか劇場で見ていない。これも知らない間に封切りが終わっていたので、しまったと思っていたのだが、調べてみたら、京都シネマで1週間ほどかかっていたので、『樋口一葉』のついでに見に行ったのだった。
すごいノイズ音とともに、強い浜風に吹かれて砂埃の舞う砂丘のなかを、異様な風体をしたふたりの人物が、海から引き上げて帰ってくる場面から映画は始まる。中央アジアの騎馬民族が暮らしているようなテントのなかでは、食べかけの食事に蠅がたかり、そばに男の死体が転がっている。ふたりは死体を見てもまったく驚いた様子を見せない。それに罹ると自殺したくなるという「レミング病」(寺山修司?)が発生し、世界は終末を迎えているのだ。
ふたり(浅野忠信と中原昌也)はあたりに落ちているがらくたを振り回したり、たたいたりしては、それがたてる音色に子供のように興奮する。彼らはそんな風にして音を収集して回っているのだ。ふたりが世界的に有名なノイズ・ミュージシャンであることがやがてわかってくる。そして、彼らの作り出す騒音=音楽がどうやらレミング病を治癒する効果があるらしいことも。
やがて、ふたりがたまり場にしている岡田茉莉子が経営するレストランに、筒井康隆、宮崎あおいの親子と、そのボディガードのような男の三人組が現れる。宮崎もまたレミング病にかかっており、彼らは浅野と中原の音楽の噂を聞いて、ここにやってきたのだった・・・。
こんなことを言うと怒られるかもしれないが、雰囲気はリュック・ベッソンの『最後の戦い』のような作品に似てなくもない。「死」と「再生」の物語は、『ユリイカ』や『月の砂漠』のテーマを変奏するものだ。緊張感をはらんだレストランの空間は『Helpless』の喫茶店を思い出させる。この物語に『ユリイカ』ほどの説得力はないが、ノイズが病原菌を殺すのではなく、むしろその餌でしかないという設定は、なかなかリアルだ。
ひさしぶりに田村正毅の撮影を見たが、あいかわらずすごい。しかし、先日プラネットで見たストローブの『労働者たち、農民たち』のレナート・ベルタのキャメラに比べたらまだまだである。田村の撮影はまだ美しさに甘えている。
浅野と中原のノイズ音楽のライヴはなかなかの見物だったが、わたしが一番感動したのは浅野が耳を傾けるステレオ装置から聞こえてくるナンシー・シナトラの "End of the World" だった。小学生でも聞き取れそうなシンプルな歌詞が胸にしみいってきて思わず泣きそうになった。『キル・ビル』の冒頭で流れる "Bang Bang" にもやられたが、この曲にもやられた。数年前に TSUTAYA でナンシー・シナトラのCDをリクエストしたことがあるのだが、さんざん待たされたあげく、結局入手不可とのことだった。リクエスト100%かなえますと豪語しているくせにこのていたらくだ。
昔のことなのですっかり忘れていたが、思い出してしまった。あれはたしか "Boots" という洋盤のアルバムだったと思うのだが、Amazon で調べてみたらいつの間にか日本版がでていた。しかし、"End" は入っていない。いくつかベスト・アルバムが出ているが、この曲が入っているものはほとんどない。どのベスト盤も一長一短といった感じで、これといったものがなくて迷ってしまう。そのなかで一番よさそうなのは、"Essential Nancy Sinatra" という洋盤だ。全部で26曲と収録曲数は一番多いし、選曲もつぼを押さえている。ただしこれにも "End" は入っていない。
しかたがない、これと "End" のはいっている『イン・ロンドン』あたりを押さえることにするか。両方ともついこの間発売になったばかりのものだ。ブーム再来、か?
京都市立博物館に並木鏡太郎の『樋口一葉』を見に行く。ふだんは入場券を買いさえすれば入れるのだが、今回は特別企画なので、あらかじめはがきを持っている人だけしか入れないと受付でいわれる。しかし、上映開始ぎりぎりになってまだ空席があれば見られるとのことなので、ぎりぎりまで待ってみる。なんのことはない、空席だらけだった。
上映前に、並木鏡太郎のことをよく知る山際永三氏のお話。半分以上は、「映画の本(哲学篇・小説篇)」で紹介した内藤誠の『シネマと銃口と怪人』で知っている話だったので、居眠りしてしまう。というか、この人、この本を見せて宣伝していました。
この本にも詳しく書かれているように、綿密な時代考証によって再現された明治時代のセットが魅力的。セットに愛があります。一葉の生涯(といっても、死ぬところまで描いているわけではない。続編の予定もあったという)に、『たけくらべ』『大つごもり』などの作品のエピソードを交えて脚本化したもの。『たけくらべ』の美登利役の高峰秀子が初々しい着物姿で登場したときは、会場から「おぉー、かわいい」というどよめきが起きた。彼女がいよいよ芸者となるとき、お歯黒どぶ川の「はね橋」(中世のお城の堀に架ける橋のミニチュア版みたいなもので、ひもをキリキリと引っ張って上下させるんです。これがいい)を渡って塀の向こうに消えると、キャメラが右にパンし、別世界のような吉原の遊郭の豪奢な建物を映し出す場面など、思わず息をのむ美しさだ。
しかし、こういう映画作りはもはや不可能となりつつある。日本アカデミー賞では、全編CGで昭和30年代を再現した映画がグランプリを獲得した。CGによって、過去を描く際の「本当らしさ」はますます高まっていくのだろうが、映像の持つ存在感はますます希薄になってゆく。
ところで、最近、ちくま文庫から『樋口一葉小説集』というのが出た。一葉の本はいろんなところから出ているが、小説の代表作が一冊にほぼ収まっていて、資料も充実しているので、わたしは文庫本ではこれが決定版だと思っている。樋口一葉はお札にもなるぐらい有名だが、実際に読んでいる人は少ないのではないだろうか。言文一致していない独特のエクリチュールは、たしかに慣れないと読みづらい。一葉は読点をほとんど使わないので、ひとつのセンテンスが2ページ近く続くのもごくふつうだ。その間に主語がコロコロ変わったりするので、最初は戸惑う。なれさえすればそう難しくないのだが、どうしてもなじめない人は最初は現代語訳で読んだほうがいいかもしれない。
現代語訳もいろいろあるのだが、わたしのおすすめは河出文庫から出ているものだ。なにしろ訳者の顔ぶれがすごい。松浦理英子、藤沢周、阿部和重、伊藤比呂美、島田雅彦、多和田葉子などなどが一葉を現代語訳しているのだ。それぞれの訳者が巻末に書いている解説もなかなか面白い。とはいえ、あくまで現代語訳は現代語訳だ。最終的にはぜひ原文に当たってほしい。
評価する人もいるようだが、ゼメキスはわたしにはよくわからない。『コンタクト』はそれなりに興味深い作品だったが・・・。
湖畔の家を主な舞台とするこの作品は、隣家で殺人事件が起きているのではないかと疑うヒロイン(ミシェル・ファイファー)の危険な好奇心を、『裏窓』ふうのサスペンス映画として描くかたちで始まるが、すぐにホラー映画のほうへも引き寄せられてゆく。多くは語られないヒロインの過去(交通事故、分裂病の兆候?)が、すべての心霊現象が彼女の幻覚にすぎない可能性を暗示する。サスペンスとホラーのあいだを行き来する曖昧さが、最後まで作品をひきずっているが、この曖昧さは、ゼメキスのジャンルに対する鈍感さというよりは、むしろ逆に、過剰なジャンル意識によるものと考えられる。ヒロインが桟橋の先まできて湖をのぞき込むと、暗い水の底から女の顔のようなものがかすかに浮かび上がってくるかのように見える場面はなかなかいい。この場面のように、一見、ふつうに撮影されているように見えて、全編でCGが使いまくられている。
古文書の修復の仕事をしている男マトゥゼック(クロード・リッチ)の結婚生活は不幸だった。彼の妻は夫を顧みず、日がな一日テレビばかりを見ているような女で、彼は離婚したがっているのだが、妻は今の安穏な生活を捨てる気はない。マトゥゼックは、その神業的な文書修復のテクニックを生かして、「金がかからず、スピーディで、しかも合法的な(?)」離婚・再婚の方法を考えだす。それは戸籍簿を書き換えるという方法だった。この方法なら、離婚することなく、別の女性と再婚することができる。つまり、最初の妻と結婚していた記録がもう残っていないのだから、離婚したことにもならないというわけだ。
彼は夫婦を交換し合ってくれる相手を探していると、新聞に広告を出す。警察がその広告を見て彼に目をつける。広告を見て夫婦交換に応じてきた男は実は刑事ルルー(フランシス・ブランシュ)だった。ルルーは彼のしっぽを捕まえようとするが、知らないうちに自分がマトゥゼックの妻と結婚させられていて、彼の若くて美しい妻がマトゥゼックと結婚していることになっていることを知る。ルルーは復讐に燃えて彼をなんとかして捕まえようとする。一方、マトゼックはこの「合法的で金のかからない」離婚・再婚方法を使って、彼と同じように不幸な結婚をした人たちを幸せにしてあげようとする。こうして、彼を支持する「ひな菊の会」les compagnons de la marguerite のメンバーたちと警察とのいたちごっこが始まる・・・。
この時期のモッキーの作品にはどこか革命前夜的な雰囲気が漂っている。どこかの党が国会に提出した偽造メールの問題で日本中が大騒ぎだったが、この映画の主人公ははっきりいって文書偽造の達人。モッキーは彼を魅力たっぷりに描く一方で、彼を捕まえようとする警察権力を徹底的におちょくって描いている。眼鏡をかけた小太りのルルー刑事は、警察署のベランダにやってきた鳩をピストルで撃って、丸焼きにして食べているような男。マトゼックを捕まえるためのいわば生け贄になった彼の妻も、最後には愛想を尽かしてマトゼックの側につく。フランシス・ブランシュがとことん間抜けに演じていて、笑わせてくれる。
マトゼックの妻がテレビの前から決して離れようとしないというのも、いかにもモッキーらしい。翌年に撮られた "La grand lessive!" では、パリの屋根という屋根からテレビのアンテナを剥奪しようとするある文学教授の「闘争」が描かれることになる。 スピルバーグの『ミュンヘン』で、テロリストの情報を主人公に売る男の父親役を演じていた老俳優ミッシェル・ロンスダールが若々しい姿で登場している。
モノクロ。pal →ntsc 変換で見たが、ウルトラきれいな画質だった。
▽ピーター・ウィアー『危険な年』:デイヴィッド・リーン風。
▽『雨あがる』
降りしきる雨にも、雨が上がる瞬間とそのときの空気の変化にも、全く鈍感な作品。
▽ニール・ジョーダン『ことの終わり』
▽ジョン・シュレシンジャー『ダーリング』
▽デヴィッド・バトラー『カラミティ・ジェーン』
▽ジョン・スタージェス『老人と海』
ポスト・モダン的オペラ映画の試み。モノクロで撮られた録音風景と、舞台上のオペラ、8ミリふうの荒い画質の実写風景をモンタージュ。悪くはないが、音楽といえば、フランスで見たブレッソンの影響著しい『音楽家、殺人者』"Assassin musicien" が懐かしい。
アニメは実写に憧れる。世界のオタク化を反映して世界公開。正直言って、よくわからないです。
▽安藤尋『Blue』
地方の女子校(新潟?)を舞台に、二人の女子高生の同性愛(未満)的な関係を描いた映画。この映画のことはほとんど知らなかったし、監督の名前も初耳だが、悪くない出来。少女漫画っぽいなと思いつつ見ていたら、やっぱり漫画が原作だった(魚喃キリコ)。
この作品では、大人は意図的に画面から排除されている。学校が舞台となっているのに、教師の姿が画面に登場するのは、わたしの記憶に間違いがなければ、たった一度だけだ。市川実日子の家庭は、両親が離婚して母子家庭らしいことがわかるが、母親の姿を観客が見ることはない。小西真奈美もセリフの中で母親のことを何度か口にするが、結局こちらも画面に登場することはない。いかにも作り物めいた親子のやり取りを見させられるのも嫌だが、その映像がまったく不在でありながら、それがことさら不自然に見えないところが、逆に少し引っかかる。
不倫男との過去の恋愛にいまだに引きずられている小西真奈美に、「わたしは汚いの」と言わせたりしてはいるが、この映画に描かれる世界はあくまで美しい。大人の世界がフレームのなかから排除されていることも、そこには大いに関係しているだろう。様々なことを見せないことで洗練された世界を作り上げているが、それは一種の逃げに見えなくもない。
しらべてみたら、この監督は90年代にピンク映画でデビューしている。スタジオ・マラパルテとも関わりがある人物のようだ。ただ、最近は、テレビ向けのの「ケータイ刑事」シリーズばかりを撮っている模様。もう終わってしまっているのか。
▽イ・ハン『永遠の片想い』
ごく平凡な恋愛ものといっていいが、後半の展開が一風変わっている。この展開の仕方はほとんどホラー映画のそれだ。
更新できていなかったあいだにテレビなどで見た映画についてまとめておく。
▽三谷幸喜『ラヂオの時間』『みんなの家』
ひどい出来。ヒットしているらしいのがよくわからない。面白いと思う人が多数いるということか。謎。
▽カール・フランクリン『ハイ・クライムズ』(02)
high crime
「n. 【米法】 重大な犯罪 《米国憲法第 2 条 4 節で, 大統領・副大統領その他の文官の弾劾の理由として挙げているもの; 重罪にはならないが,
公けの道徳に反する破廉恥な犯罪》.」
ラングの "Beyond a Reasonable Doubt" を思わせる展開。出来はあまり良くない。
▽カーティス・ハンソン『激流』
ほとんど予想通りの展開をする映画だが、意外と面白い。この監督の映画は、『L.A.コンフィデンシャル』『ゆりかごを揺らす手』しか他に見ていないが、これがいちばんよかった。『ゆりかごを揺らす手』はたしか封切りのときに見ているはずだが、あまり印象にない。『L.A.コンフィデンシャル』と同じ監督だというのも、今度調べてみて初めて知った。それよりもフラーの『ホワイト・ドッグ』の脚本をこの監督が書いていたというのが驚きだ。ヒッチコックやイーストウッドのドキュメント番組を撮ったりしているのも血筋の良さを感じさせる。取り立てて個性を感じさせない監督ではあるが、もう少し注目しても悪くないと思った。
▽チョ・ジュンギュ『花嫁はギャングスター』
最後まで見なかった。途中で寝てしまったのか、それともあきらめたのか、理由は覚えていない。
▽後藤幸一『新・雪国』
奥田瑛二ってどこか古くさい。彼だけのせいではないが、この映画もなんか古くさい。
▽カール・フランクリン『青いドレスの女』(95)
Devil in a Blue Dress
カール・フランクリンは最近の『ハイ・クライムズ』などを見ていると、あんまりよくないのだが、彼の映画はあまり見る機会がないので、これが最近の彼の水準なのかどうか。これ以外でわたしが見ているのは、『運命の銃爪(ひきがね) 』(未)、『青いドレスの女』、『母の眠り』だけだ。『運命の銃爪』はたまたまフランスで見ている。「パリスコープ」というフランス版「ぴあ」のような情報誌でフィルム・ノワールの力作として紹介されていたので見に行ったのだった。上映中に映写機が故障し、館内が真っ暗となったとき、そばに座っていたフランス人が、「俺たちはフィルム・ノワールを見に来たのに、いまは真っ暗(ノワール)のなかにいる」とすかさず冗談を飛ばしたのを覚えている。それともあれは『レッド・ロック/裏切りの銃弾』のときだったろうか。まあどうでもいい。
『運命の銃爪』はデビュー間もない監督の作品としては全然悪くない出来で、けっこう期待させてくれたのだった。それにしても邦題が悪すぎる。こんなタイトルではだれも見てくれない。"One False Move" というオリジナル・タイトルはすごくいいのに、残念だ。
しかし、『青いドレスの女』の監督とこの映画の監督が同一人物だとは知らなかった。実をいうと、『青いドレスの女』は先日テレビではじめて見たばかりなのだ。公開時には、レトロなシネフィルのあいだで評判になっていたので、なんとなく見る気をなくしてしまったのだった。この予感はある程度当たっていたといえる。オープニングのタイトル・バックからして映画はかなりノスタルジックに始まる。とはいえ、ディック・リチャーズの『さらば愛しき女』みたいに徹底的に反動的な作品ではない。が、逆に言うと、良くも悪くもあれほど突出した映画にはなっていないともいえる。
探偵でもなんでもない黒人の若者(デンゼル・ワシントン)が、生活費を稼ぐために素人探偵となってある女性を捜し出すうちに、深みにはまってゆく。デンゼル・ワシントンのいつになく情けない役が楽しめる作品だ(先日、ジョナサン・デミの『クライシス・オブ・アメリカ』をDVDで見たばかりだったので、あまりの違いに一瞬だれだかわからなかったくらい)。彼のナレーションを軸にストーリーが進んでいくところはフィルム・ノワールの定型をふまえている。話がさっぱりわからないが、とにかく前へ前へと動いていくところも、『三つ数えろ』以来の伝統だ。黒人が探偵の映画は別にこれが最初ではないが、デンゼルの助っ人として登場するちょっと短絡的で粗暴な黒人を演じるジョン・チードルがコミカルな風味を作品に付け加えている。しかし、なんといってもこの作品の最大の欠点は、タイトルとなっている「青いドレスの女」役のジェニファー・ビールスにまるで存在感がないことだ。Devil という言葉でとんでもない悪女を予想させておいて、最後に、実はむしろ犠牲者だったという展開は、別にそれでいい。ジェニファーにファム・ファタールとしての迫力が欠けているのだ。個人的には、キャスリン・ターナーよりもジェニファーのほうがずっと好きなのだが、それでも『白いドレスの女』のキャスリン・ターナーのヴァンプの前ではこの映画のキャスリンはかすんでしまう。
「映画史を作った30本」の戦後篇をようやくアップした。コメントの大部分はユセフ・イシャグプールの『ル・シネマ』からの引用ですませた。ようするに手抜き。しかし、この本はなかなか簡潔にまとまっていて便利である。引用しやすい文章がすぐに見つかるのだ。必ずしも独創的な本とはいえないが、映画史と映画理論がわずか150ページほどのなかに器用にまとめてあるブリリアントな本だ。本格的に映画を学びたい人が最初に目を通す本としてもいいし、映画にある程度詳しい人がもう一度映画全体について整理し直すときに読んでもいい。
映画は、「現実のイマージュ」(技術による現実の複製)と「イマージュの現実」(イメージのもつ魔術的力)が分かちがたく絡み合うかたちで多用な発展を遂げてきた、というのが著者の基本姿勢だ。このふたつは、もっと単純化するなら「現実」と「フィクション」と呼ぶこともできるし、リュミエールとメリエスの関係であるということもできる。イシャグプールは、アンドレ・バザン流の「存在論的リアリズム」に立脚しつつも、その限界を見据えている。
ハリウッド映画はかつて自らが作り出すイリュージョンによって世界を魅了していた。それはたしかにイリュージョンであったが、そこでは「現実のイマージュ」と「イマージュの現実」が調和しあっていた。そこに描かれる現実は虚構の現実にすぎなかったが、すくなくともそれを支えていたのは「現実のイマージュ」だった。ウェルズによって映画のなかに映画自身に対する反省的思考が導入され、戦後、イタリアン・ネオレアリズモによって、映画イマージュは現実を開示する力を自らのうちに発見する。
しかし、CG映像が氾濫するいま、映画は「現実のイマージュ」という独自性ゆえにそれが有していた魔術的な力を失ってしまった。いまや「現実のイマージュ」が作り出すイリュージョンではなく、シュミラークルと化したイマージュが現実に取って代わっている。だが、バザンの「存在論的リアリズム」を素朴に信じることで、イマージュによって現実を救済することは可能なのか。
「映画が20世紀の偉大な神話のひとつであったのは、、たんに映画が現実のイマージュを見せていたからではない──そんなことはテレビが、多くの虚偽を含みつつ嘔吐を催すまでに、映画よりずっとうまくやっていると豪語していることだ」
「したがって映画にとっての問題は今なお、リュミエールとメリエスの二つの遺産を継続させること、そして我々をますます支配してゆくシュミラークルに対して、現実とフィクションの二領野を、言いかえれば、映画の本質をなす二重の性質──現実のイマージュであり同時にイマージュの現実であるという性質──を、我々にとって開かれたかたちで維持することである。」
これが結論である。いささか平凡であるといえなくもないが、映画が抱えもつこの二重の性質については、何度も立ち返って考えるべき問題であることはたしかだ。
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名前からも推察されるように、著者はテヘラン生まれの映画理論家・批評家で、現在はパリに住んでいる。非常に有名な人で、ドゥルーズの『シネマ』のなかでもたびたびその著作が引用されている。イスラム教徒なのかどうかは定かでないが、少なくともこの本を読む限りでは、あまり宗教的なバックボーンは感じられない。
原文と比べてみたわけではないのでなんともいえないが、翻訳は水準には達している。たまに意味がよくわからない文があるが、それはわたしの頭が悪いせいだろう。ただ、映画のタイトルで、カサヴェテスの "Faces" が『顔』となってたり、"Jules et Jim" が『ジュールとジム』となってたりするのは、わざとそう訳してあるのだろうか(エイゼンシュテインの未公開作『全線』は、この訳者がしているように『全面戦線』と訳すのがより正確なのかどうか、とりあえず判断しかねるが)。 わたしも映画の本を訳すときにタイトルを間違って訳したことがあるが、少し数が多すぎる気がした(他にも『イタリー旅行』『ウィーク・エンド』など)。
■2006年2月12日
「西部劇ベスト50」をとりあえずアップ。正直いうと、書いている途中でちょっと面倒くさくなってきて、手抜き気味になってしまった。いずれ時間をかけて手直ししてゆくつもりだ。
デンマークの新聞にムハンマドを揶揄した風刺画が発表されたことがイスラム社会の反発を招き、ますます波紋を広げている。この風刺画自体は昨年の9月に発表されたものだというから、今回の騒動の直接の引き金となったのは、その風刺画がフランスなどのヨーロッパ諸国の一部のメディアに転載されたことにあるようだ。例によって、欧米メディアはイスラム社会の反発に対して、言論の自由を盾にして対決する姿勢をみせている。デンマークも政府レベルではいまだ謝罪していない。
「またか」というのが、この報道を最初に目にしたときの率直な感想だった。いろんな意見はあるだろうが、結局、イスラムに対する欧米諸国の無知と偏見が問題の背景にあることは間違いない。ムスリムの紋切り型のイメージを今更見せられたところで、なんの発見もないわけだから、これは無意味な挑発以外のなにものでもないだろう。
ちょうどこの事件が話題になり始めたころ、ポール・ボウルズの最高傑作といわれる『蜘蛛の家』 "The Spder's House" を、翻訳が品切れで手に入らなかったので、英語の原書を手に入れて読んでいるところだったので、読みながらいちいち納得してしまうところが多々あった。ボウルズの小説は "Up above the world" (『世界の真上で』。これもいまは品切れ)をなぜかフランス語訳で読んだことがあるだけで、英語で読むのは初めてだ。仏訳でもだいたいわかったが、ボウルズの英語はかなり読みやすい。ただ、この小説にはアラビア語やベルベル語が頻出するので、そのへんはやっかいだ。もっとも、短い単語がときおり英語に混ぜて使われるだけなので、多くは前後関係から意味がある程度推測できるし、わからなくても大意を理解するのに差し障りはない。とはいえ、気になるのでそのへんは四方田犬彦の翻訳を参考にしながら読み進んだ。ごくたまに明らかに誤訳と思える部分もあるが(これぐらいはないものを探す方が難しいというレベル)、なかなか正確で美しい訳なので、翻訳が手に入る人はそちらで読んだほうがいいかもしれない。
この小説は、スタンバーグの『モロッコ』やマイケル・カーティスの『カサブランカ』などで描かれる仏領モロッコの迷宮を思わせる古都フェズを舞台に、独立直前のモロッコの不安と混乱を、まさにこの時期そこに住んでいたボウルズがヴィヴィッドに描き出した作品だ。ちなみに、この作品に着手する直前、ボウルズはヴィスコンティの『夏の嵐』の脚本に参加していた。
この小説の主要な登場人物は3人いて、ひとりはボウルズを思わせるアメリカ人作家のステンハム。彼は長年フェズに住んでいて、その中世のままに残ったたたずまいをこよなく愛している。彼はボウルズと同じく短い間だがかつて共産党のシンパだったことがあり、そのことがいまの彼に深い影を落としている。もうひとりは、フェズに住む敬虔なムスリムの少年アマール。彼はアラーに対する強い信仰を抱いており、フランス軍が町からいなくなることを願っているが、同時に、武力的な独立闘争を展開する民族主義者たち(イスティクラル党)の卑俗な進歩主義にはどうしても同調することができない(ステンハムはイスティクラル党と共産党は同じ穴の狢だと喝破する)。そして残るもうひとりは、フェズにやってきた謎のアメリカ女、リー・バロウズである。彼女は、進歩こそすべてという単純な信念から、わけもわからずイスティクラル党を支持し、ことあるごとにステンハムと対立する。
たとえば、米軍の空爆後のアフガニスタンで、ベールをかぶらない女性の姿を映した映像を見せ、自由が勝利した、アフガンの女性は進歩したなどと簡単に言いきって平然としている人間が少なくない。どうしてそれが進歩だといえるのか。進歩することははたしていつもいつも望ましいことなのか。こうした疑念は彼らの頭には浮かばないらしい。決して馬鹿ではないのだが、リー・バロウズ(四方田犬彦によるとこの名前は『裸のランチ』のあのバロウズからとられているそうだ)は、結局そういう女として描かれている。デンマークの風刺画家にもそういうおごりが感じられてしかたがない。今回は、「表現の自由」に介入はできないという政府の(それ自体は正当だが)杓子定規な対応もまずかった。もっと大局を見て柔軟に対応できないものかね。
モニターが壊れていて更新できなかったあいだに見たミシェル・クレイフィの『ルート181:パレスチナーイスラエル 旅の断章』を見に行ったときも、この本を読んでいたのだが、この映画についてはまたいずれ。
モニターのことで頭がいっぱいになっていたので、東レオープンでシャラポワ対ヒンギス戦があったのに気づかずに、見逃してしまった。すごい試合だったらしい。残念だ。その試合でヒンギスは見事な復活を印象づけたようなのだが、今日の決勝戦では序盤からペースを乱し、全然覇気がなかった。
しかし、このヒンギスの現役復帰は往年のファンとしてはとてもうれしい。わたしはかなりのテニス・ファンで、一時は世界ランキングもすらすら言えるぐらいだったが、ヒンギスが引退した頃からあまり見なくなっていた。シャラポワの人気にもいまいち乗れずにいた。男子テニスとなると、いまどんなプレイヤーがいるのか名前すら出てこない。という状態だったので、昔応援していた選手が復活したというだけでうれしくなってしまう。これからしばらく目が離せなくなりそうだ。ヒンギスにはナブラチロワみたいに老練な選手になってほしいと思う。
ずいぶんひさしぶりの更新です。実はパソコンのモニターが突然壊れてしまったので1週間ばかりまったくまともな作業ができなくなっていました。買ってからすでに6年になるモニターだったのでそろそろ寿命だったのでしょう。修理に出すと6万円近くかかるといわれました。保証ももう切れているし、いっそ買い換えようと思い、どれにしようかとあれこれと悩んでいるうちにずいぶん時間がかかってしまいました。
幸いネットにつなげるモニター一体型のパソコンがもう一つあったので、それを使って「価格.com」などの口コミなどで評判のいいディスプレイの情報を集めまくっていたのですが、このパソコンは10年以上前に買った骨董品に近いもので、あまりにも鈍足なので(メモリーは48メガしかないし、CPU も100メガあるかどうか)この1週間で相当ストレスがたまりました。
いろんな情報を総合し、いま使っているパソコンとの相性も考えて、結局ナナオの FlexScan S1910-R というモニターに決めました。「価格.COM」で一番安かった店がふたつあって、その一つのPCサクセスという店は、液晶モニターのドット欠け保証もついていたので最初はこれにしようかと思ったのですが、ネットで調べてみたら相当悪い評判も流れている店だったので、もう一つの NTT-x Store で注文することにしました。こちらはドット欠け保証は付いていなかったのですが、その辺は運にまかせることにしました。わたしは性格的に念には念を入れるタイプなのですが、最後のつめがいつも甘いのです。
ラッキーなことに、今日届いたモニターにはドット抜けはありませんでした。アナログ・デジタル両方で接続できるモニターだったのですが、デジタルの接続には問題がある場合もあるという話を聞いていたので、あまり期待していなかったのですが、アナログ・デジタル共になんの問題もなく接続できました。
なかなか快適に使えそうです。ゲームはほとんどやらないし、パソコンでDVDを見ることもほとんどないのに、オーバードライブ搭載モニターというのはオーバースペックという気もしましたが、メーカー5年間保証というのに惹かれました。ケーブル類も全部そろっているし、そのあたりを考えるとまずまずの買い物だったかなと思っています。
というわけで、ぼちぼち映画関係の情報もアップしていきますので、ときどき見に来てください。とりあえずDVDの新作情報をアップしておきます。
あるテレビ番組でホリエモンを三島由紀夫の『青の時代』の主人公と比較していた。描かれるのは戦後を揺るがせた「光クラブ」事件である。三島と同じ東大出身の若き主人公が会社を設立し、あれよあれよといううちにどんどんのし上がってゆくのだが、一年足らずのうちに詐欺容疑の追求を受け、最後は自殺するにいたる、というような事件だったと思う。この詐欺事件は高木彬光の『白昼の死角』のモデルともなった。
──そもそも唯物論は「金で買えないものは何もない、どんな形の幸福でも金で買える」という資本主義的偏見の私生児なのである。
──男が金を欲しがるのはつまり女が金をほしがるからだというのは真理だな。
──現代では宣伝のほうが実質よりもずっと信用される。
などなど、なるほどライブドアにも当てはまりそうな三島的警句があちこちにちりばめられている。三島はこのアプレ・ゲールの申し子とでもいうべき男に多分の共感を寄せていたといわれる。一方で、その人物描写は、モルモットを観察するような冷淡なものだという意見もある。そういっているのは新潮文庫の解説を書いている西尾幹二である。たしかに彼ならそういうだろう。ライブドアの元社長のことも嫌いなのに違いない(ところで、西尾幹二ってまだ生きてるんだっけ?)
ま、そんなことはどうでもいい。話を変えよう。
▽ホン・サンス『女は男の未来だ』
ホン・サンスの『女は男の未来だ』を見るため久しぶりに動物園前シネフェスタにいく。地下鉄の動物園前で降り、劇場に一番近い5番改札口をでるとき、いつもローマのチネチッタのことを思い出してしまう。むかしいったチネチッタの地下鉄の駅がわたしの記憶のなかではたしかこんな感じだった。なんか寂れた感じがよく似ているのだ。
アミューズメント・ビルとしては完全に破綻しているフェステバル・ゲートは相変わらずどの店のシャッターも閉め切ってあって、人気が全くない。数ホールあるシネマ・コンプレックス型の映画館のロビーにも待っている客の姿はまばらだ。その回は結局全部で10人もいなかっただろうか。勢いのある韓国映画といっても、テレビ・コマーシャルも流れていない作品と落ち目の映画館が組み合わさればこんなものだ。
『気まぐれな唇』は見逃しているので、ホン・サンス作品を見るのは『豚が井戸に落ちた日』(96)以来になる。そのときの印象と大きな違いはなかった。『豚が井戸に落ちた日』はタランティーノふうの構成が記憶に残ったが、今度の作品はロメールふうだ。物語よりも、待ちのポジションのキャメラの使い方などにロメールの影響がうかがえる。たとえば、画面の右側をじっとみている男の姿をとらえたショットのあとに、そこに歩いてくるソナのショットが続くといった具合。『豚が井戸に落ちた日』のときに才能ある監督だと思ったが、やはりなかなかのものだという気がした。しかし、同時に、いかにも小粒だなという印象は否めない。ロメールの映画にあるような哲学もフォルムの強さもないし、将来『グレースと公爵』を撮りそうな器の大きさも感じられない。
タイトルはアラゴンの一節から。女は男の未来だというタイトルとは裏腹に、男たちはだれもが過去にこだわっている。そのうじうじぐだぐだ具合を楽しめればいいのだが、いまひとつユーモアに欠けるところが惜しい。
あるお話。
ある金持ちの男が道を歩いていると、道ばたに寝転がっている男がいた。興味を持った金持ちが寝ている男にたずねた。
──きみはそんなところでなにをしているんだい?
──見りゃわかるだろ。寝てるのさ。
──それはわかってるよ。でも、どうして働かないんだね?
──働く? 働いてどうするんだい?
──働いて金を稼ぐのさ。
──なんのために?
──金があれば、その金で好きなものを変えるじゃないか。服や、車や、家だって手にはいるだろ。
──それで? そのあとは?
──もっと稼げば、働かないで一生遊んで暮らせるようになるだろ。
──だからいまそうしてるんじゃないか。
ライブドアをめぐる一連の報道を見ながら、ついこの話を思い出してしまった。このエピソードはたしかロッセリーニの『自伝に近く』に出てきたと思うのだが、手元にないので確認できない。細かいところは違うかもしれないがだいたいこんな話だったと思う。金儲けのむなしさを端的に表現したエピソードだ。
いまの時代、あるのはただ雇用(仕事口) emploi だけで、労働 travail は存在しない、と最近よくゴダールは口にする。Travail が労働者の手と切り離すことができず、その手によって作品(それがマッチ箱であれ映画であれ)を生み出すことであるとすれば(ゴダールは労働をメタモルフォーズという言葉でしばしば形容する)、Emploi において労働者は作品を生み出すことはなく、そこにはただ金銭の授受があるだけだ。
ライブドアはいったいなにを生産していたのか、生産しようと思っていたのか。わたしにはそれがよくわからない。
とはいえ、個人的にはあまり好きでないホリエモンだが、今回の家宅捜査には、なんだかいやなものを感じる。わたしは金持ちは嫌いだが、権力と関わりのあるものはすべてそれに輪をかけて嫌いなのだ。
アンゲロプロスの『霧の中の風景』のパンフレットをたしかにもっていたと思うのだが、見つからない。気のせいだったのだろうか。『狩人』のパンフレットも記憶の中ではもっていたはずなのだが・・・。
朝のBSニュースでやっていたのだが、フランスでもリフォーム詐欺事件が発生しているらしい。手口は日本のものと同じで、お年寄りをねらって不必要なリフォーム話を持ちかけ、多額の金をだまし取るというもの。日本の事件をまねたのではないかと思うのだが、どうだろう。
女優のシェリー・ウィンタースが84才で亡くなった。40年のなかばにデビューして以来、つい最近になるまでずっと映画に出演しつづけた名女優だった。主役作品はほとんどなかったと思うが、脇役としてなくてはならない存在だった。キューカーの『二重生活』、『陽のあたる場所』、『狩人の夜』など、なぜか殺される役ばかりが記憶に残っている。そのほかの代表作は、『赤い河』『ウィンチェスター銃'73』『ビッグ・ナイフ(悪徳)』『拳銃の報酬』など。ロジャー・コーマンの『血まみれギャングママ』では珍しく主役を務めているようだが、実はまだ見ていない。惨めで、哀れっぽい女の役をやると実に様になった人だったが、ギャングママの彼女も見てみたい。
OS劇場のモーニングで上映される豊田四郎の『雪国』を見に大阪に向かう。電車の通路に吊革につかまって立ってると、窓ガラスに女性が正面を向いている姿が映っているので、横を見たらだれもいなかった。後ろを振り向くと、こちらに背中を向けた女性が立っている。その前のガラスに彼女の正面を向いた鏡像が映っている。わたしが見たのは、その鏡像がわたしの前のガラスに反射したものだった。影の影を見ていたわけか、と思ったとたんに電車がトンネルを抜け、幻は消えてしまった。
『雪国』はトンネルのなかに入った列車が、暗いトンネルを抜け、その出口の先にまばゆい雪の世界が広がっているところから始まる。
たしか『声に出して読みたい日本語』だったか、川端康成の『雪国』の冒頭が引用されていて、「国境の長いトンネルを抜けると」という部分に、「こっきょうの」というルビが最初ふってあったのだが、あとで間違いを指摘されて「くにざかいの」と訂正されたという話を聞いたことがある。体育会系の人間がこんな本を書くと恥をかくという例。余談だが、香山リカがこの本はプチナショだというのは正しい。
暗い顔をして列車の外の景色を見つめていた池部良が、窓ガラスに映っている女性の姿にふと気づく。しかし、キャメラはなかなか切り返さないので、これはひょっとしたら彼の記憶のなかに写っている女性なのだろうかと思い始めたとき、ようやく通路を挟んで反対側の座席に座っている八千草薫を映し出す。ふたりのあいだにとくに言葉が交わされることもなく、列車は目的地に到着する。
駅の待合室のガラス窓に、いま到着したばかりの列車から降りてくる人々を思い詰めたような顔で見ている女の顔が映っている。やがて外側から窓ガラス越しにキャメラが女の顔をとらえた切り返しショットが、この物語のヒロインとなる岸恵子の顔を正面から映し出す。池部良の人生に決定的な影を落とすことになる二人の女性は、ともにガラス窓に映った影として画面に登場するわけだ。
▽テオ・アンゲロプロス『シテール島への船出』
この日、某所で仕事を済ませたあと、七芸に『シテール島への船出』を見に行く。
ギリシアにはじめて社会主義政権が誕生した時代に撮られた作品。それだけに、絶望はさらに深いともいえる。
スピローアレクサンドルースピロ。軍国主義的(?)行進歌。40年代のギリシア。ナチ。レジスタンス。かくれんぼ。フィクションと現実。冷め切った夫婦関係。何もかもが凝縮された見事なファースト・シーン。
ラベンダー売りの老人は、最初、カフェの鏡のなかに写ったイメージとして現れる。文字通り歴史の亡霊。その後をつける監督アレクサンドル。港まで来たところで、女優のヴーラが現れる。彼女はこの時点ですでにアレクサンドルの妹の役を演じている。映画のなかの映画がもう始まっている。船のタラップから降り立った老人の姿が、まず水たまりに映った影として現れる。建物の上から彼を見つめるアレクサンドルとヴーラ。キャメラがゆっくりとズームしてゆく。「わたしだよ」(エゴイメ)。キャスティング会場で繰り返されていたのと同じセリフが、ここでようやくそれにふさわしい肉体を見出す。まれに見る効果的なズームの使い方。
繰り返される「しなびたリンゴ」というセリフ。老人の捜索隊がでて騒ぎとなり、家の中に閉じこもっていた彼を妻のカテリーナが迎えに行く場面でも、この言葉がつぶやかれる。このときはおそらくロシア語でいわれているためか、字幕はカタカナで「シナビタリンゴ」となっていた。この突然のカタカナを、「しなびたリンゴ」という意味だと理解できた人はあまり多くないのではないか。
ラストシーンは、何度見てもどうやって撮ったのかよくわからない。浮桟橋のほうが沖に流れていっているのか、それともキャメラが後退しているだけなのか。気がつくともう遥か遠くに見えているという感じが実に素晴らしい。
▽瀬々敬久『肌の隙間』
まるでダメだった。あいかわらず全編に流れる水のイメージ。『課外授業 暴行』のころがいちばんよかったね。
兵庫県立美術館でフェルメールを見たあと、一階のロビーからガラス張りの自動扉を通って建物の外にあるテラスのほうに何気なく歩いていくと、そこに水辺が広がっていたので驚いた。思わず、ソクーロフの『エルミタージュ幻想』のラストを思い出してしまう。エルミタージュはネヴァ川のほとりに位置しているのだからあれは幻想というわけではないのだが、ワンショット・ワンシークエンスで撮られた映像の緊張感を一瞬一瞬に感じながら、迷路のような美術館の時空を、息詰まるような気持ちで旅してきた果てに、ついに建物の外に出たキャメラが映し出す水のイメージは、ソクーロフ一流の特殊な細工を施されてゆがみ、まるで幻のように現れるのだった。
いまから急げば七芸でやっているアンゲロプロスの『狩人』に少し遅れて間に合うという時間だったが、ついふらふらと誘われて水辺のほうに降りてゆくと、そこには殺風景な散歩道がただ広がっているだけだった。最寄りの駅に降りたときから、まるで作り物みたいに人工的な町だと思っていたのだが、ここにも、いかにもといった散歩道をいかにもといった散歩者が三々五々歩いているばかりだ。散歩道は海のほうから船がはいってくる運河のようなものにそって走っている。とりあえず、少し散歩してみたがさして気分が高揚するわけでもないので、すぐに引き返すことにする。このあたりも震災のあとのどさくさのなかで宅地整備されたのだろうか。こういうところを歩いているとつい、大洪水で水没してしまえば少しは詩的な味わいがでるかもしれない、と、いつもの水没幻想に駆られてしまう。わたしは町が水に沈んでいるのを見るとなぜかうれしくなってしまうのだ。そういえばアンゲロプロスも『エレニの旅』で、村を丸ごと水没させてしまっていたのを思い出す。『狩人』には間に合いそうもなくなった。
▽セディク・バルマク『アフガン零年:OSAMA』
タリバン政権下のアフガンを描く。生活のために少女が少年になりすますという話は『少女の髪どめ』でもあったが、この映画では想像以上に悲惨な結末で終わる。少女は少年のふりをしてほかの少年たちとコーランを覚えたりするのだが、それがタリバンにばれて罰を受けることになる。彼女の直前に、無断で撮影を行っていた外国人記者が銃殺され、彼女も同じ運命をたどるかと思われたが、最後の瞬間に恩赦が与えられ、彼女はタリバンの老人に娶られて彼の家に連れて行かれることになる。しかし、そこには彼女と同じように彼と結婚させられた少女たちが何人も幽閉されているのだった。このあたりは、トビー・フーパーのホラー映画を思わせるような怖い展開だ。ある意味、銃殺されるよりも悲惨なラストである。映画としてはとりわけ際だっている作品でもないと思ったが、主役の少女は文句なしにすばらしい。
イランはますますやばくなっているようだが、いったいどうなるんだろうか。
「アムステルダム国立美術館展」を最終日に滑り込みで見に行く。例によってぎりぎりまでのばしてしまったので、最悪のコンディションで見ることになってしまった。ものすごい人混みでまともに見られなかった。フェルメールの「恋文」も、近くで警備員が「ゆっくりと進んでください」とせかすので、落ち着いてみられなかった。しかし、一昨年の神戸みたいに、たった一枚のフェルメールを近くで見るために長時間ならんで待たなければならないということはなかったので、あれに比べればまだましだ。
フェルメールとレンブラント以外はたいしたものは着ていないのかと思ったが、意外と充実していたのではないか。前日に本の複製で見ていたライスダールの風景画が出品されていたのには驚いた。フェルメールの向かいの壁に展示してあるピーテル・デ・ホーホの絵も傑作だった。
アブラハム・ミニョンなどの花の絵によく描かれている蝸牛にはなにかの意味があるのか。これにも〈ヴァニタス〉の意味が? 造花のように作り物めいて見えるほど美しい花。
心を引かれる絵には、見ているうちにその中にはいってしまいたくなる。写真を見ているときも、ときどきそういう気持ちになる。しかし、映画を見ているときに、このフレームのなかにはいってしまいたいと思うことは皆無だと言っていい。見ているときにこの場所に行ってみたいと思うことはあるが、それとはまったく別の衝動だ。
▽木下恵介『笛吹川』
木下恵介はときどき妙に映像主義的な作品を撮る。終始キャメラを斜めに傾けた構図で撮られた『カルメン純情す』とか、白黒フィルムに部分的に着色するかたちで全編が撮られているこの作品がそうだ。いずれも、あまり成功しているとはいえず、いま見ると古くさく見えるだけだが、視覚的スタイルはともかく、この時代劇のかたちを借りた戦争批判映画にはたしかに説得力がある。繰り返される戦を淡々とならべてゆくというかたちは、木下恵介が得意とする年代記ものと同じ作り方だが、この作品ではこの語りのスタイルがテーマと密接に絡み合って、戦争のどうしようもないむなしさを際だたせている。木下作品のなかではもっとも成功したものかもしれない。
プレストン・スタージェスの『モーガンズ・クリークの奇跡』が DVD になってたの知ってましたか? わたしはつい昨日発見してたまげました。まさに奇跡です。
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ベティカーの『七人の無頼漢』の DVD はとっくに届いているのだが、怖くて見れない。高校時代から本当に見たかった幻の作品なので、その間に期待が高まりすぎてしまっているのだ。
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フランスでは昨年、シャルナス・バルタスの新作が公開されている。日本では日の目を見そうな気配さえない。このサイトのお客様のなかにどなたか配給関係の人はいらっしゃいませんか? どうかこういうものも配給してください。
ジョディ・フォスターの『フライトプラン』は、予告編だけ見ているとヒッチコックの『バルカン超特急』のリメイクにしか思えないのだけれど、表だってはそういわれていないようだ。
▽三池崇史『ピイナッツ』
これはテレビ向け作品ですかね? いかにも軽く撮ったという感じの作品。前田耕陽がでているのでつい「勝手にしやがれ」シリーズを思い出してしまう。黒沢清がなぜ竹内力ではなく哀川翔を必要としたのかが、これを見ているとよくわかる。哀川翔のどこまでも空洞化してゆく内面。
▽稲垣浩『待ち伏せ』
稲垣浩の時代劇には、このジャンルを刷新しようという努力の跡が見られる。峠の茶屋のなかだけで展開する物語はひょっとするとヒューストンの『キー・ラーゴ』あたりを意識したのかもしれない。しかし、全体的な雰囲気はマカロニ・ウェスタンを思わせる。三船敏郎と勝新太郎の傍らに立つと、石原裕次郎はいかにも小物に見えてしまう。最後は思ったほど盛り上がらないが、悪くない。もう少しで傑作になったかもしれない。
これだけひどい映画を見るのも久しぶりだ。『パラサイト・イブ』を見ればこの監督にはこれっぽっちも才能がないのはだれの目にも明らかだと思うのだが、それでもまだ映画を撮り続けられていることの不思議。宇多田ヒカルの旦那みたいに自分で金を出して作るのならわかるが、こんな映画に金を出すやつがいるのが理解できないし、こんな監督に映画を撮らせるプロデューサーがいるのも理解できない。(そもそも『パラサイト・イブ』なんておバカな小説がホラー・エンターテインメントとしてベストセラーになること自体が間違っているのだが。)優れた監督も必要だが、同じぐらい優れたプロデューサーが必要だ。
▽木下恵介『香華』
良くも悪くも木下恵介の得意な年代記もの。前後編合わせて3時間半を超える大作だが、そう飽きもせずに見られる。新藤兼人仕込みの乙羽信子の母親役はどうにも好きになれないが、その母親に翻弄されて犠牲の人生を強いられる娘役の岡田茉莉子は悪くない。ただし、吉田喜重作品にでているときのような謎めいた表層性は皆無だ。菅原文太がちょい役で出演(文太の松竹時代)。
▽木下恵介『新・喜びも悲しみも幾歳月』
80年代の後半に撮られたとはとても思えない反動ぶり。
ひさしぶりに Amazon.com で洋書3冊ととDVD8本を購入。年末に発送を知らせるメールがあってから10日後にやっと届いた。
本棚の洋書を整理していたら、John Le Carre のTHE SPY WHO CAME IN FROM THE COLD がでてきた。映画も見ているので話は知っているのだが、原作を読んだのかどうか思い出せない。つい読みはじめてしまった。また無駄な時間を使ってしまいそうだ。
▽ポン・ジュノ『殺人の追憶』
今頃になってテレビで見たのだけれど、予想以上にいい作品だったので驚いている。一言でいうとサイコ・スリラーものなのだが、よくできているだけの『セブン』などよりはよっぽど刺激的な映画だ。
舗装もされていない道の両側に田んぼがどこまでも広がっている。そんな田園風景のなかに女性の惨殺死体が発見されるところから映画は始まる。死体が発見されるのは、田んぼの脇を流れる細い用水路のトンネルのなかだ。このトンネルのモチーフは謎に満ちた事件の迷宮を象徴するものとして、作品のなかで何度か繰り返し登場することになるだろう。映画の冒頭にもふれられるように、この映画は実際に起こった未解決の連続殺人事件を題材に映画化したものだ。しかし、そんなことは忘れてしまうほど映画自体はフィクションとして完成されている。
ソン・ガンホ演じるたたき上げの刑事と、事件を捜査しにソウルからやってきたインテリ刑事とが最初対立し合うが、事件を追ううちにふたりが協力し合ってゆくという展開は、『夜の大捜査線』などに代表される刑事ドラマの典型的パターンだ。しかし、ソン・ガンホの存在感がこのキャラクター設定に十分すぎるほどのリアリティを与えている。
雨の夜、ラジオであるメランコリックな曲が流れる日に限って、若い女性が犠牲になる。獲物となる女性を木陰からのぞく犯人を、背中から主観キャメラ気味に撮った場面。ダリオ・アルジェントふうともいえるが、詩的な雰囲気はむしろシオドマクの『らせん階段』などを思い出させる。徹底して曇天にこだわった画面が秀逸。それだけにラストの嘘のように晴れ渡った田園風景が鮮烈な印象を残す。なにもない用水路のなかをのぞき込んだあと、同じようにその中を覗いていた人がいたという少女の話を聞いて、惚けたような顔でキャメラを見つめるソン・ガンホの顔がすばらしい。この映画は最近では一二を争う「顔」の映画でもある。白痴の男の麻痺したような顔、最後の容疑者の青白いおびえたような顔。しかし、結局犯人の顔は最後まで画面に映し出されない。
この映画の英語タイトルは MEMORIES OF MURDER なのだが、果たして「殺人の追憶」という邦題はこれでいいのだろうか。 この場合の MEMORIES には、容疑者たちの記憶という意味と同時に、80年代軍事政権の「時代の記憶」という意味もあると思うのだが、「追憶」という言葉はあまりにも叙情的にすぎる気がする。この作品は、経済的には88年のソウル五輪でピークを迎える時代の「暗」の部分を描いてもいるわけだが、多くの観客はサイコ・キラーを描いたいわば韓国版『セブン』ぐらいにしか受け取っていない可能性がある。ちなみに、ベルクソンの『物質と記憶』では、「記憶」memoire と「追憶」souvenir は「本質的差異」として峻別されるべきものとして扱われる。
ウクライナの天然ガスの問題でロシアもえげつないことするよね。とりあえず価格が合意されたのはよかった。
シャロンがまた入院したらしい。まさかシャロンを応援する日が来るとは思わなかった。極め付きの右派が大きく左にぶれたことで、やっとなにか変わりそうな期待を抱かせてただけに、いまはとても大事な時期だ。ここで死んでもらうのはまずい。しかし、重い脳卒中というから、やばいかもしれない。
▽キム・ソンス監督『MUSA(武士)』
80年代以後、クリント・イーストウッドの作品をのぞいてほとんど瀕死の状態だった西部劇は、ハリウッドを遠く離れて意外な場所で生き残っている。タイ映画の『怪盗ブラック★タイガー』やドイツ映画の『マニトの靴』など、どちらかというと西部劇をパロディにした「なんちゃって西部劇」が多いなかで、『ヘブン・アンド・アース』のような本格的アジア版西部劇がときおり作られるのは、われわれにとってうれしい驚きだ。
韓国人監督キム・ソンスが中国との合作で撮った『MUSA』は 、 14世紀末の中国大陸を舞台に、高麗武士たちの元軍との戦いを描いた歴史活劇。高麗(かつての朝鮮王朝)から明へと派遣された外交使節団がスパイの嫌疑をかけられて砂漠に流刑されてしまうが、明に敵対する元軍の襲撃に会い、図らずも自由の身となる。そして、帰路の途中、元軍にとらえられていた明の姫を救い出す。高麗使節団の一行は、いわば明の姫を手みやげに外交交渉をはかろうとして、困難を承知で姫を護送するのだが、同じく姫をねらっている元軍が執念深く彼らを追跡してくる。そして最後には、海岸を背にして立てられた砦に立てこもった高麗武士たちと元軍との壮絶な死闘が演じられることになる。
寄せ集めの集団を引きつれての旅はジョン・フォードの『幌馬車』を思い出させるし、疾走する馬車の上での戦いは同じフォードの『駅馬車』を、最後の砦は『アラモ』を彷彿とさせる、といったぐあいに、様々な西部劇の記憶が見ているうちに喚起されてくる。腕は立つが考えの浅い将軍と、アン・ソンギ演じる知将との対立など、典型的な人物設定ではあるが、よく描けている。ケビン・コスナーだのなんだのの撮った近年のハリウッド製の西部劇よりも、よほど濃いウェスタンの血がこの韓国映画に流れているというのは、なにか複雑な思いがするが、ここは素直に喜びたい。公開されたものも2時間を超える長尺だったが、それよりもさらに20分長いディレクターズ・カット版がDVDになっている。
ドキュメンタリーだと思ってみたのだが、内幕暴露もののフィクションだった。ハリウッドの内幕を描くというよりは、『市民ケーン』というフィクションを現実に移し替えて、それをさらに役者を使ってドラマにしたといった内容。わたしには『市民ケーン』という作品そのものが問題なので、そのモデルであるハーストなどはっきり言ってどうでもいいことだ。しかも、多少映画を知っているものならだれでも知っているようなことしか描かれておらず、暴露ものにさえなっていない。
▽シャロン・マグワイア『ブリジット・ジョーンズの日記』
なんか腹立つね、こういうのが人気あるのって。
▽堤幸彦『新生トイレの花子さん』
高橋洋脚本。前半はかなり面白い。後半、高島礼子がでてくるあたりから、『学校の階段』ぽいちゃちな合成画面とお馬鹿な展開になるのがダメ。ホラーがアクションのほうに行くとたいてい破綻する。
▽ミミ・レダー『ペイ・フォワード 可能の王国』
期待していなかったが、意外と面白い。pay it forward というアイデアは作品のなかでケヴィン・スペイシーも口にしていたように「ユートピア的」なものとしかいいようがなく、ラストなんかシラケまくりだが、フランク・キャプラふうの味わいがなくもない作品だ。
物語は三隅研次の『剣鬼』を少し思い出させる。太平ムードの寛永年間、真剣を使う実戦経験のほとんどないまま鬱屈とした日々を暮らしている武士たち。剣の道を極めんとする主人公は次第に孤立してゆき、やがて邪険ともいえる秘剣を修得し、ついには無二の親友と刃を交えることになる。画面的にはほとんど刺激のない映画だが、テーマは面白い。決闘の舞台となる荒野にごつごつした岩を配置するのが、ひょっとするとこの監督の視覚的特徴かもしれない。
▽ジョン・アミエル『ザ・コア』
ひどい。
▽フランコ・ゼッフィレリ『永遠のマリア・カラス』
正視に耐えない。
▽五社英雄『薄化粧』
浅野温子と松本伊代の太ももだけが見所。
▽ロバート・ワイズ『砲艦サンパブロ』
拝外運動の激しくなり始めた第二次大戦前の中国。ベトナム戦争に対する批判が込められているともいわれるが、そのメッセージは曖昧だ。港に停泊中の砲艦と陸との空間的緊迫感の欠如(たとえば『戦艦ポチョムキン』を参照)。ラストの夜の人気のない寺院で、マックイーンが屋根から迫ってくる中国兵たちとひとりで戦う場面は悪くない。
長らく絶版になっていたパトリシア・ハイスミスの『11の物語』が復刊。名作「恋盗人」が収録されている。
▽ロバート・ワイズ『深く静かに潜航せよ』
愚かな、または常軌を逸した艦長と、有能で部下から慕われている副艦長という潜水艦もののセオリーともいうべきパターンだが、そつのない演出で見せる。ワイズ作品としては一般に評価が低いが、わたしはこういう映画のほうが『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウェスト・サイド物語』なんかよりもよっぽど好きだ。少なくともいつもの社会派的メッセージ性がない分だけ「名作」っぽくないところがいい。
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