日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■2005年9月30日
▽行定勲『世界の中心で愛を叫ぶ』
いまの若者たちは、友達とか、彼氏彼女のことなど、ごく身近なところで起こる出来事か、その正反対に、非常に抽象的なこと(たとえば「世界の終わり」)しか考えられず、その中間の具体的な世界への感覚がすっかり欠けている、といった意味のことをだれかがどこかでいっていた。その両端(高校生の純愛と「世界の中心」)をうまく結びつけたところに、この作品とその原作の成功がある。イラクにも竹島にも、郵政民営化にも年金にも、さして関心がない若者たちは、「世界の中心」という言葉には反応する、というわけ。
しかし、もちろん両極端を結びつけたところで、映画が世界へと開かれるわけではない。遠くオーストラリアの「世界の中心」で、二つの恋愛が終わり、始まる。どこまでも予定調和的な物語の外で、世界は空無化する。
この監督の作品や、岩井俊二の映画、というか最近の日本映画のほとんどで一番気になるのは、照明のどうしようもない凡庸さだ。なんのニュアンスもない光が画面全体をだらーっと覆っている。目の前の世界を描けないものに、世界の中心の話をされても困る。最近テレビで成瀬巳喜男の『浮雲』を見直したところなのでよけいにそう思う。テレビのような劣悪な環境で見ても、あの光はすごい。
■2005年9月26日
▽『ドーン・オブ・ザ・デッド』
出だしは悪くないのだが、先に進むほどに沈滞ムードに。本家のロメロも純然たるホラーというよりは、ホラーとアクションの中間で映画を撮っていた人だったが、この現代版ゾンビ映画は、『バイオハザード』ほどではないにしても、それに近いテレビゲーム感覚で撮られている。ゾンビが全速力で疾走するというのは決定的な間違いだとは思うが、面白いといえば面白い。ただ、この映画のゾンビはすごくスピーディに動くかと思えば、ショッピング・センターの前でただでくの坊のように突っ立っているだけだったりと、いまひとつコンセプトがわからない。ショッピング・センターを取り囲んだゾンビは全然怖くないだけでなく、なによりもまずいのは存在感が全くないことだ。『ランド・オブ・ザ・デッド』のゾンビたちの圧倒的存在感に比べて、この映画のゾンビたちの希薄さはいかにも分が悪い。胎児がゾンビ化する場面も、へたくそに演出されていてまるで迫力がない。あそこはまず夢で赤ん坊がゾンビとして生まれるイメージを見せたあとで、実際には普通に人間の赤ん坊が生まれてくるという風にした方が、物語に深みが出たはず。最後の部分をビデオの映像と処理しているのも、意図がよくわからない。あそこも、島の住民がゾンビ化していることを知ってあわてて船に引き返したところで、さっきの赤ん坊が突然ゾンビ化するという幕切れだったほうが面白かったのでは、などと脚本を書き直したくなった。
■2005年9月23日
▽成瀬巳喜男『乱れ雲』
『乱れ雲』:久しぶりに見直したが、泣ける映画だ。「僕ぁ夏が好きだなぁ」といって歌まで歌ったりする加山雄三は、いつもの若大将とさして変わりない演技をしているのに、全くの別人のように見える。草木が生い茂る林のなかで、司葉子と加山が初めてキスする場面。『浮雲』のボルネオの密林で高峰秀子と森雅之がキスする場面をつい思い出してしまう。終盤の雨のシーンでは、熱で倒れ込んだ加山を、司が看病してやる。男女の関係が逆になっているが、ここも『浮雲』を思い出させる。成瀬は回想シーンをあまり抵抗なく使う人だった。『乱れ雲』で時折挿入される司葉子の回想シーンの使い方も、流れるようでうまい。成瀬の数少ないカラー作品。BSアナログでカラー・シネスコだと、さすがに細部の再現力が許容範囲を超えている。DVDを買っておくべきか。
■2005年9月21日
▽キャサリン・ビグロー『ストレンジ・デイズ』
前に見ているはずだが、記憶が曖昧なので、テレビで放送されたのをもう一度見る。K・ビグローのなかでもいちばんつまらない作品。当時としては近未来の1999年におきるSFサスペンス。被験者が体験した映像を脳波からデータ化し、それを販売することを商売にしている男が主人公。そのデータに犯罪の映像が映っていることから、犯人探しがはじまる。問題の映像はすべて一人称キャメラで撮られている。体験者の顔が写っていないことが、観客をミス・リーディングさせ、意外な結末を準備するのに役立っている。それはそうなのだが、こういう作品を見ると、映画における主観性とは、単純な主観キャメラの使用によっては表現できないということが確認できる。
■2005年9月20日
▽古井由吉『仮往生伝試文』
Amazon で注文していた本6冊がやっと届いた。Fredric Brown の "What Mad Universe" だけがなぜか在庫がなく、2ヶ月近く待たされて結局それだけ後回しにされてしまった。送料は一括で変わらないのだけれど、こんなことなら最初から在庫があるものだけ発送してほしかった。"What Mad Universe" は、『発狂した宇宙』というタイトルでむかし翻訳が出ていたが、とうに絶版になっている。洋書とはいえ525円というのは安いと思って買ったのだが、こんなに待たされるとは思わなかった。
ともあれ、これでやっと古井由吉の『仮往生伝試文』を手に入れることができた。この本は、むかし出版されたときについ買い損なってしまい、その後ずっと絶版で手に入らなくなっていたものだ。以来、もう10年ぐらいのあいだ、古本屋に行くたびに必ずこの本を探していたのだが、見つからなかった。それどころか、古井由吉の本自体、古本屋で見かけることはほとんどない。買った人が手放さないのか、それとも単に売れていないだけなのか。まあ、その両方だろう。
古井の数ある傑作のなかでも、とくにこの『仮往生伝試文』は名作の誉れが高い。どうしてもほしかったのだが、全然見つからないのであきらめかけていた。それが、つい先日になって、この本が去年再版されていたことを知った。だれも教えてくれなかったので、いままで気づかなかったのだ。ともあれ、また絶版になる前に手に入れられたのはうれしい。これもまた、たぶん、来年、再来年にはまた絶版になるのではないかとわたしはにらんでいる。そもそも去年出たばかりなのに、大きな書店でもほとんど見かけないので、探しているわたしでさえ気づかなかったぐらいなんだから。
古井由吉の前に出れば、ばななも、春樹も、龍も、和重もみんな吹っ飛ぶ。文学に興味がある人は絶対「買い」だと思う。
■2005年9月18日
▽成瀬巳喜男『驟雨』(56)
文芸作品めいたタイトルだが、成瀬作品のなかでも、もっとも心地よく見れる作品の一つ。何気ない仕草やセリフがいちいちおかしい。 佐野周二と原節子夫妻相手に、新婚の 香川京子が夫との痴話げんかの報告をする場面で、彼女に説教をする佐野周二が畳に落としたたばこの灰を吹き払おうとしているところに、原が灰皿を投げてよこすところとか、言葉で説明しただけでは全然伝わらないのだが、とにかく仕草や表情、そして「間」が絶妙で、別になにがどうというわけではないのにおかしくてしょうがない。中北千枝子が「ざんす」口調で話す嫌みなおばさん役で出ている。原が世話している野良犬をめぐっての町内会での親睦会=つるしあげが、「犬を鎖につなぐことは、結局鶏を鎖でつなぐことにもなりますね」という珍妙な結論に達するおかしさ。
テーマ的には『めし」や『夫婦』の延長線上にある作品だが、まったく別の仕上がりになっている。原夫婦の家が、となりの小林桂樹と根岸明美の夫婦の家へとなかば開かれるかたちに空間が設計されていることも、この作品が持つ独特の軽さに寄与している。成瀬的縁側の役割。あるいはデパートの屋上の持つ意味。
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『ランド・オブ・ザ・デッド』のレビューを書いたが、読み直してみてつまらなかったので破り捨てた、というか消去した。もう一度書き直してみるが、うまくいなかければあきらめよう。どうせ、ホラー映画のファンはあまりこのサイトには来てないだろう。
■2005年9月17日
▽成瀬巳喜男『夫婦』(53)
『めし』の成功を受けて作られた作品。原節子主演の予定が、急遽、杉葉子が代役に抜擢された。定住地の不在が夫婦間の亀裂と重なりあって描かれる。一時的な滞在場所となる三国連太郎宅で、三国の存在が、というよりも住居の一階と二階のあいだに生まれた緊張関係が、杉葉子・上原兼夫婦のあいだにずれを生じさせる。
▽ロバート・ワイズ亡くなる
『ウェスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』などで知られるロバート・ワイズ監督が14日、亡くなった。 というか、まだ生きていたのかとちょっと驚いた。個人的には、物語の時間と映画の時間をシンクロさせて描いたボクシング映画(フィルム・ノワールといってもいい)の名作『罠』やSFF『地球の静止する日』、黒沢清がホラー映画ベスト50の第9位に選んでいる『たたり』などが心に残っている。
RKOの編集者として出発し、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』と『偉大なるアンバーソン』の編集などを担当したのち、ヴァル・ニュートンの製作で『キャット・ピープルの呪い』を監督してデビューする。彼の代表作としては『ウェスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』が挙げられることが多いが、この二作がワイズの才能を十分に示しているかどうかは疑わしい。とりわけ、ミュージカル映画をある意味で終わらせてしまった『ウェスト・サイド物語』の功罪の罪の部分はもっと問われるべきだろう。この機会に『拳銃の報酬』をDVD化してほしい。
■2005年9月15日
▽成瀬巳喜男『おかあさん』(52)
アメリカで最初に公開された日本映画はたしか成瀬の『妻よ薔薇のように』だったはずだが、『おかあさん』は54年にフランスで公開されて高く評価をされた作品だ。焼け野原に建ったような街にクリーニング屋を構える一家の母親、田中絹代がヒロイン。映画がはじまってほどなくして長男が病死し、しばらくすると父親も病気で寝たきりの状態になってしまう。その父親もやがて亡くなり、今度は幼い次女が養女となって人にもらわれてゆく。長男と父親の死の場面は、節度ある描写の見本といっていい。死ぬというよりは画面から消えてゆくといった描き方だ。セリフを通して戦争の影がちらつく。しかし、不思議と暗くはならない。伊東隆演ずる少年の青木富夫(突貫小僧)を思わせるコミカルな演技、香川京子の明るいキャラクター(冒頭の場面で、伊東が寝小便した布団を香川が干しているところなど、小津の『長屋紳士録』を思い出させる)。
18歳という設定の香川京子の言動があまりにも幼く見えてしまうのが少し違和感。彼女が花嫁衣装のモデルになった姿を見て、嫁にいくのだと勘違いした岡田英次の母親が挨拶に来るシーンは、笑えると同時ににほろりとさせる秀逸な出来。
あまりにもタイミングがよすぎるが、この映画にも出演している女優の中北千枝子(髪結いの役)が、13日亡くなった。
■2005年9月14日
▽成瀬巳喜男の時代劇
BS2でいま成瀬巳喜男の映画数十作品が連続放映中だ。全部見ている余裕はないので、とりあえず一作残らずDVDレコーダーに録画して、DVD-Rに保存している。見ている作品が多いが、未見のものも結構あるのがうれしい。
『三十三間堂 通し矢物語』ははじめて見る作品だ。人情もの、芸道ものなどの作品が多い成瀬だが、時代劇やサスペンスものもわずかながら撮っている。これは成瀬初の時代劇である。時代劇といっても短い立ち回りが二回ほどあるだけ。通し矢の師匠長谷川一夫と市川扇升(小山内薫の息子)との師弟関係がドラマの中心となる。ある意味、芸道ものといってもいい内容だ。
1945年の終戦間際に撮られ、東宝映画でありながら松竹京都撮影所が使われた。松竹の田中絹代が助演している。その辺もふくめて、いつもの成瀬とは趣がちがう作品ではある。しかし、面白い。
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『銀座化粧』。51年、新東宝作品。銀座で女給をして働くヒロインの先の見えない生活をやるせなく描いた作品。随所にユーモラスな場面があり、結構笑える作品でもある。田中絹代に惚れるおぼっちゃまを演じる田中春男のやさ男ぶりとか、柳永二郎が藤村詩集を「ふじむらししゅう」と読み間違えるところとか、何度見ても笑える。どうでもいいが、柳永二郎を見ると「行列ができる法律相談所」でおなじみの北村弁護士をいつも思いだしてしまう。もっとも、柳永二郎はときどきすごくうれしそうに笑うのだが。
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これを書いているときにテレビで ipod nano のコマーシャルが流れた。はじめて見るコマーシャルだが、ますますほしくなってしまった。やっぱり、買ったばかりの Shuffle を売ってしまうしかないのか。Shuffle はほんとに軽くて使いやすいのだけれど、液晶がないのはどうしてもなじめない。音楽を聴くだけならいいが、語学の勉強にも使おうと思うと、液晶は必要だ。nano にはそそられる。ほんと、Apple は商売がうまい。
■2005年9月13日
▽細川晋の翻訳
昨日の続き。この『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』という本はほんとにすごい。次から次へと意味不明の文章の連続だ。リヴェットの文章につづいて、今度はアンドレ・S・ラバルトが書いたシャブロルの『気のいい女たち』論を読んでみた。のっけからわけがわからない。
「すべてはうまくいっている。これがシャブロルの最高作だった、「彼の限界に」(シュブリエ)達した作品だったと認めたものは、自分の論法の限界に達することができなかったのだ。」
なにが「うまくいってる」というのか。少なくとも、この翻訳はまったくうまくいっていない。上の部分は試訳では次のようになる:
「この作品がシャブロルの最高傑作だ、シャブロルは「自分自身の限界までいった」(シュブリエ)のだと認めた批評家たち自身は、自分たちの論法を限界まで押し進めることができなかったかのように、万事が運んでいるのだ。」
その少し先には、
「それぞれの主張が、この映画を規定する際、展開され、復権され、おそらくその能動態へと転じたにもかかわらず、この映画への非難をはぐくんだのだ。」
わたしの頭が悪いんだろうか。意味がさっぱりわからない。そのまた少し先の部分も意味不明だ。
「確かに作家の映画だが、本当に、映画作家たちは自分たちを何よりも、ある言語を進歩させる作家と自己規定しているのだろうか? 私はむしろ、彼らは自分の進歩を利用するのだが、彼らは自己規定しないし、するとしてもかなり根拠の薄弱な尺度においてのみだと考えている。」
「自己規定」とか、難しい言葉で煙に巻こうとしたってだめだ。読者をなめるなといいたい。ここは拙訳では次のようになる:
「確かに作家の映画ではある。しかし、本当に、(映画)言語を進化させるのは、何よりも自分を作家として任じているシネアストたちなのであろうか。わたしはむしろ、そうしたシネアストたちは、(映画)言語の進化を利用するのであって、自らこの言語の進化を決定づけることはないし、たとえあったとしても微々たる程度にしかすぎないと考える。」
その数行先には、またこんなでたらめな訳が書いてある:
「[・・・]『気のいい女たち』はあきらかに、何よりもまず現代映画である。その意味を簡単に言うと、ゴダールが映画を利用するのに対し、シャブロルは映画に利用されるのだ。シャブロルはたぶん「言うべきことが何もない」わけではないのだが[・・・]」
「シャブロルは映画に利用される」は「シャブロルは映画に奉仕する」と訳すべき。「シャブロルはたぶん「言うべきことが何もない」わけではない」は、「シャブロルはたぶん「言うべきことなが何もない」」が正しい。この翻訳では真逆の意味になってます。ちなみに、ne 〜 rien は一回生で習う構文。訳者は初歩からやり直すべき。
いま挙げた箇所はすべてこの本の108ページのなかにある。1ページのなかにこれだけ誤訳があるんだから、200ページ近いこの本全体としてはすごいことになっていそうだ。正直いって、最初はあきれていたが、読んでいるうちにだんだん面白くなってきた。
ここで残念なお知らせがある。昨日、細川晋氏自身はフランス語ができると思うと書いたが、よく読んでみると「翻訳:細川晋」と目次に書いてある。つまり、このでたらめな翻訳は細川氏の仕業ということになる。氏はゴダール関係の本などで、いまだに翻訳の仕事をなさっているはず。プロというのは、自分の能力を見極めて、その範囲内で全力を尽くして仕事ができるひとのことをいう。これではプロの仕事とはとうていいえないだろう。映画のことに詳しければ、なんとかなるとでも思ったのだろうか──。甘い。甘すぎる。ろくに準備もせずに政権交代できると思った民主党と同じぐらい甘すぎる。
もっとも、この本は1999年に発行されたものだから、この数年のあいだに氏のフランス語力が飛躍的に進歩している可能性もある(あまり期待できないが)。そうでないなら、今すぐ翻訳の仕事から手を引くべきだ。
フランス語ができる編集者があまりいないから、こんな適当な訳が堂々と出回ってしまうんだろう。フランス語の分野には、別宮貞徳のような欠陥翻訳批評家がいないのが残念だ。だれか実力ある人で、われこそはという人いませんかね。
■2005年9月12日
▽リヴェットの『大人は判ってくれない』
ひさしぶりにひどい翻訳を読んだ。いや、別にひさしぶりでもないのだが、原文を読むまでもなく、これほどはっきりとひどいとわかるものを読むのはひさしぶりだった。わたしがいっているのは、『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(エスクァイア マガジン ジャパン)という本のなかに収められている、ジャック・リヴェットが『大人は判ってくれない』が公開されたときに「カイエ・デュ・シネマ」に書いた「アントワーヌ家の方へ」という文章の翻訳のことである。
たとえばこんな箇所:
「『保護された』子供時代などない。自分の話をしながら、彼は私たちのことを話しているようにも見える。真実のしるし、また真の古典主義の報償は、その題材を自制するすべを心得ているのだが、突然、あらゆる範囲をできる限り制覇する。」
これを読んではたして意味がわかる人がどれだけいるだろうか。ひとりとしていないはずだ。
フランスのカイエから出ている Petite bibliotheque というシリーズにはいっている La Nouvelle Vague という本にリヴェットの原文がはいっている。文字化けしないように原文を書くのが面倒なので、原文は書かないが、その代わりにこの翻訳部分をわたしなりに解釈してみるとこうなる。
「『大人は判ってくれない』でトリュフォーは、非常に自伝的な私的な物語を語ることで、実はわれわれだれにも関わる普遍的な物語を語っているのである。それこそは真の古典主義と呼ばれるべきものなのであり、真実とはそのように私的であると同時に普遍的なものであるものなのだ。何となれば、真の古典主義というのは、ある私的な主題のみを語りながら、その主題が普遍的なものへと拡大する、そのような作品のことをいうからである。」
上の翻訳を読んでこういう意味だとわかるだろうか。訳している人間がわかっていないのだから、読者にわかるわけはない。「読者は判ってくれない」のだ。
この箇所は冒頭の部分だが、あとは推してはかるべき。この本にはリヴェットのほかに、ロメールやジャン・ドマルキ、アンドレ・S・ラバルトやジャン・ルーシュなどの文章が集められていて、内容は決して悪くない。しかし、翻訳がこれではしようがない。わたしが読んだのは「アントワーヌ家の方へ」だけだが、たぶんあとも似たようなものではないか。こういう寄せ集めみたいな本にはいっている翻訳はたいていひどいものと決まっている。監修は細川晋。いい仕事してますね。
わたしは高校時代に「キネマ旬報」の「読者の映画評」欄によく投稿していて、何度も掲載されたことがあったのだが、そのころこの細川氏もよく同じ欄に投稿していたのを、よく覚えている。細川氏自身はたぶんフランス語はちゃんとおできになると思うのだが、「監修」ならちゃんと監修してほしいですね。
ついでながら、「カイエ」の Petite bibliotheque にもわたしは文句がある。このシリーズは誤植が許容範囲を超えている。コンマが抜けていたり、イタリックになっていなかったり、確認できただけでも相当間違いがある。いま話題にしているリヴェットの文章でも、la prison と小文字になっているので、一読して意味が全然わからなかった箇所がある。翻訳を読んで、これはベルイマンの『牢獄』のフランス語タイトル(La Prison)であるとわかった。でたらめな翻訳でも、これぐらいの確認には役に立つ。
どちらも集められているテクストは素晴らしいのだから、もう少し編集に気を配ってほしかった。
■2005年9月10日
▽エルミタージュの猫
エルミタージュ美術館の宮殿では90匹もの猫が飼われている。食べ物が豊富にあるのでネズミが多いため、代々猫が飼われてきたそうだ。その一匹一匹には、トゥーシャ、ザイカ、アリーシカ、フィアルーカ、マハ、ペガーシカなどといった名前が付けられている。エルミタージュ美術館にはこの猫たちの管理責任者までいるというから驚く。90匹のうちでただ一匹だけ美術館の館内にはいることを許された猫がいる。その猫は「ワーシャ(貴族)」という名前だそうだ。
■2005年9月9日
▽テレビドラマのことなど
いつ終わるかと思われた「チャングムの誓い」もそろそろ来週か再来週あたりで終わりそうだ。それともまだ一波乱あるのだろうか。皇后と王妃のあいだの王位継承問題がもう少しくすぶる可能性もある。まだしばらく楽しめるかもしれない。夏の日本のテレビドラマはほぼ全滅だっただけに、できるだけ長く続いてほしいものだ。そういえば、唯一面白かった「女王の教室」もそろそろ終わりが近づいている気がする。子供の描き方はあいかわらず型にはまっているし、子供と親とが和解するところも説得力がないが、あの女教師のキャラクターはこれまでの学園ものにはあまりないものだった。少し評価してもいいだろう。
BOOK-OFFで和辻哲郎の『風土』、デュラスの『青い眼、黒い髪』、笠原和夫の『破滅の美学』を買う。デュラスの単行本は小口に湿気からくるシミがついている以外はとてもいい状態だった。105円は安い。全国のBOOK-OFFの店員をあわせても、そのなかでデュラスを知っている人間は少ないのではないかと思う(これではあまりに馬鹿にしすぎか)。たびたび利用しておいてこんなことをいうのもなんだが、あそこは古本屋ではなく、本の墓場だ。
■2005年9月8日
▽ストローブ=ユイレのDVD
ストローブ=ユイレのDVDコレクション(といってもこれまでに発売されているのは、『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』と『アメリカ』のふたつだけだが)に新しいDVDが加わった。『ストローブ=ユイレ・セレクション3』と題したそのDVDには、『セザンヌ』『ルーブル美術館訪問』『アン・ラシャシャン』『ロートリンゲン!』の4作が収録されている。この四作はフランスつながりといったところだろうか(『アン・ラシャシャン』はデュラスが原作。『ロートリンゲン!』では独仏の領土の境界が問題となる)。
『セザンヌ』、『アン・ラシャシャン』の二作はすでに見ているが、『ルーブル美術館訪問』はいままで見る機会がなかったものだ。『ロートリンゲン!』は以前一度だけ見る機会があったのだが、見逃してしまった。同じ日にオリヴェイラの『不安』が上映されていたので、そっちを優先させたのだった。いつ公開されるかわからない作品だったからだ(事実、『不安』はいまだに公開されていない)。『ロートリンゲン!』のほうは、神戸のファッション美術館がストローブ=ユイレのフィルムを全部買ってもっているので、いつでも見られると計算した上でのことだった。しかし、その後、結局金にならないと思ったのか、ファッション美術館がストローブ=ユイレのフィルムを売却してしまった。たいへんな裏切りだ。その後関西ではストローブ=ユイレの作品は一度も上映されていない(『労働者たち、農民たち』はどうなってるの?)。これだから、なんの信念もない奴にはやたらにフィルムなんか買ってほしくないのだ。とはいえ、あそこが持っていたあいだに、ストローブ=ユイレの作品をフィルムで何度か見る機会があったは幸いだった。『ロートリンゲン!』も最初はフィルムで見たいのだが、それを待っていたらいつになることか。
最近、『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーDVD-BOX1』が出たばかりだ(ニュー・ジャーマン・シネマがはやっているのか? まさか)。ストローブ=ユイレの作品は、一般にはほとんど知られていないが、見る人は見ている。彼ら比べてはるかに有名なのに、ファスビンダーは(とくに日本では)ずっと不幸な受け入れられかたをしているように思える。蓮實重彦が一時期ヴェンダースを擁護するためにファスビンダーやヘルツォークを切って捨てたことも、少なからず影響を与えているのかもしれない(蓮實のほめた映画だけを見ているハスミストが事実いるのだ)。まあヘルツォークのことは忘れていいと思うが、ファスビンダーの日本での評価というか地位がいまのままなのは残念だ。このDVDが発売されたことで、ファスビンダー再評価の気運が高まることを願う。
ついでに、だれかこの機会に、そろそろジーバーベルクの『ヒトラー』をDVD化してください。お願いします。
■2005年9月6日
▽マイケル・パウエル『戦艦シュペー号の最後』THE BATTLE OF THE RIVER PLATE
第二次大戦下に起きた3隻の英国戦艦とドイツの軍艦シュペー号との戦いを描くマイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガーの傑作。ドイツの軍艦シュペー号の艦長を演じるのがピーター・フィンチ。この人は絶対歳をとってからのほうがいい顔をしている(『火山のもとで』とか、『ネットワーク』とか)。若いころ(といっても、この映画のときはすでにそこそこの歳になっているのだが)の顔は、いまひとつ特徴にかけるところがある。
第二次大戦のドイツが相手ということは、ナチスが相手ということだ。事実、ヒトラーの名前が登場人物の口から何度か発せられもする。けれども、この戦争映画には、第二次大戦ものに特有の翳りがほとんどない。戦争をしているというよりは、なにかフェアプレーの精神にあふれたスポーツでもしているかのようなのだ。「休戦」中のモンテビデオの描写も、戦争というよりはまるでお祭り騒ぎである。
冒頭の数分間で、パウエルはシュペー号の艦長ピーター・フィンチの人柄をわからせてしまう。映画は終始英国側から描かれるのだが、それ故にかえってピーター・フィンチのシルエットが陰翳深く刻まれてゆくことになる。ラスト、ピーター・フィンチが深い影のなかから顔を表し、自分の戦艦が沈む姿をじっと見つめる場面は、それまでがノンシャランと進んできただけに、そのぶんよけいに深い余韻を残す。
■2005年9月3日
▽北野武の新作がヴェネチアのコンペに出品
武が新作を撮ったらしいということは、テレビの発言で知ってはいたのだが、まさかヴェネチアに出品されていたとは知らなかった。完成が間に合わなかったので、本人は出すつもりはなかったところ、ヴェネチア映画祭のスタッフがパイロット版を見て是非コンペにと向こうからいってきたという。映画祭では監督名を伏せて覆面上映され、大反響だったと日本のメディア(というかインターネットのメディア)は伝えている。実際はどうだったのか確認しようと思ったが、昨日上映されたばかりで、まだ Liberation や Le Monde には記事は出ていない。
その新作『TAKESHI'S』は、大物タレントビートたけしと、芸人を目指してコンビニでアルバイトする北野武の、同じで別の二人の武が対話しあうという破天荒な作りになっているという。ヒットするかどうかは全然考えず、あえて違和感のある作品をそれまでの集大成として作り上げ、次のステップへと踏み出そうということらしい。とんでもない失敗作になっているかもしれないが、こういうことができるのだから、まだまだ彼には可能性がある。
11月、全国松竹系ほかロードショー
公式ホームページ:http://www.office-kitano.co.jp/takeshis/
▽次世代DVDの規格統一が決裂
一週間ほど前、ソニー陣営と東芝陣営によって薦められていた次世代DVDの規格統一をめぐる話し合いが、決裂したとのニュースが流れた。両陣営はまだ話し合いはつづけるといっているが、事実上もうだめではというのがおおかたの見方だ。なんとなく予想はしていたが、これは困ったことになった。二つの企画が併存するということになれば、競争原理が働いてものが安くなることをのぞけば、ほかにまったくいいことはない。
さしあたっての問題は、2台目のDVDレコーダーをどうするかだ。だいぶ前からあれこれ悩んでいて、結局 Panasonic の DIGA の新機種(LPモードが綺麗というのを売りにしている)の BSチューナー付きのやつに決め、もう少し待てば秋モデルが出るというのも視野に入れて、値段がまだ下がるの待っていたのだが、こうなってくるとブルー・レイも念頭において考えておいたほうがいいのだろうか。
▽田中重雄『女の賭場』
東映の「緋牡丹博徒」シリーズがはじまる2年前に作られた大映のやくざ映画。オープニングは賭場のシーンから始まるのだが、それが終わるといきなりラグビーの映像が挿入され、少々面食らう。現代の話なのだから登場人物のひとりがラグビーを観戦していても不思議ではないのだけれど、やくざ映画にはやはりラグビーは違和感がある。東映のやくざ映画がこうした要素を排除することで、その様式美を徐々に完成させていったのだということをあらためて実感させてくれる作品だ。刃物や拳銃を使った大立ち回りの場面はほとんどなく(途中でやくざが車で人をひき殺す場面があるが、それもロングで撮られているだけ)、江波杏子と渡辺文雄とのあいだの心理的な戦いといったものにドラマを集中させて作ってある。最後に、かつて江波の父を破滅させたのと同じ罠にかかって渡辺文雄が自滅したあとで自殺する場面も、画面外の拳銃の音だけで処理するなど、野心的な試みがいろいろ見られる(そもそもやくざ映画のヒロインが女というのが当時としては斬新だった)。
■2005年9月2日
昨日、京都市美術館に「ルーヴル美術館展」を見に行ってきた。今回の出展作品は、フランス革命前後のフランス絵画が中心になる。美術史的にいうならば、新古典、ロマン主義の作品ということになる。個人的には、このあたりの絵画はわたしの好みからは少し離れているのだが、近くでルーヴルの絵が見れるのだから、見に行かないわけにはいかない。
展示作は年代順ではなく、歴史画、風景画、肖像画といった具合に、ジャンル別に整然と分けられて展示されている。アングルの「泉」「トルコ風呂」、ダヴィッドの「マラーの死」など、だれでも知っているような有名作はそれほどたくさん出されていないが、そのぶん珍しい絵を多数見ることができるともいえる。『パリ・ルーヴル美術館の秘密』を見ればわかるように、ルーヴルも他の美術館同様に、美術館であると同時に絵画のアルシーヴでもある。そのアルシーヴは膨大であり、すべてがいつも展示されているわけではない。だからパリのルーヴルにいけば、ルーヴルの絵がいつも見れるわけではないのだ。
ユベール・ロベールの絵が見られるのではないかと密かに期待していたのだが、一枚もはいっていなかった。残念だ。
▽ジョージ・A・ロメロ『ランド・オブ・ザ・デッド』
ルーヴル展のついでにロメロの新作ゾンビ映画を見にいった。結局、八月は一回も映画館にいかなかったので、劇場公開作を見るのはずいぶんひさしぶりだ(こんなので映画のホームページなんかやってていいんだろうか)。ひさしぶりだったのでわくわくしていたかというとそうでもない。映画割引デーの日なので今日いくのがいいのだと自分にいい聞かせて、なんだか面倒くさいなあと思いながら、重い腰を上げて見にいったのだった。
それにしても、ひさしぶりの京都は、だいぶ変わっていた。Movix に別館が出来たのも知らなかったし(ひょっとしたら大昔からあったのかもしれないが、はいったのは初めてだ)、その地下に紀伊国屋がはいってるのにも驚いた。サーヴィス・デーの割には『ランド・オブ・ザ・デッド』の入りはイマイチだった。ロメロももう「昔の名前」なのだろうか。デニス・ホッパー以外はたいしたスターも出ていないのだし、まあこんなものか。
前置きはさておき、『ランド・オブ・ザ・デッド』は最高だった。ひさしぶりに映画を見たという気分を味あわせてくれる快作だ。今日は面倒くさいので、詳しいコメントは書かないが、スプラッター映画が生理的にだめというひと以外は、ぜひ映画館に見にいった方がいい。ロメロのファンなら涙ものの映画だ。
■2005年9月1日
▽500円DVD
500円DVDが売り出されはじめてだいぶたつ。最初は一社だけだったのが、いまは別の販売元からも同じような500円DVDのシリーズが出ている。だんだんラインナップも充実してきたようだ。最初は、『駅馬車』とか『アラバマ物語』とか、「名作」路線ばかりだったが、最近になってアンソニー・マンの『ウィンチェスター銃73』と『怒りの河』(Amazon ではなぜか和書に分類されているので、『怒りの河』はDVDで検索したら、別の高いやつしか出てこなかった)が新しく発売された。この調子でいくと次はなにが出るのか、なかなか楽しみになってくる。ただ、どうも買う気にならないのは、このシリーズで出ているレオ・マッケリーの『邂逅』を見る限りでは、このシリーズは「安かろう、悪かろう」という方針でつくられているみたいなのだ。いかにもビデオからそのままDVDに落としましたといった感じの、「そこそこの」画質なのだ。水平ノイズもこれまで見たどのDVDよりも多いし、全体的な画像も少し甘めだった(これはほかのDVDでもよくあることだが)。パッケージが安物っぽいのはまあいいとして、画質がこれだと500円という値段はそう安いとはいえない。ひどいというほどではないのだが、これだったらレンタルビデオをDVDに落としたときの画質と大差がないような気がする。ただし、このシリーズのDVDがほかもみんな同じとは限らない。わたしは『邂逅』しかもっていないので何ともいえないが、このシリーズをたくさん買っているひとがいたら、どんなものか教えていただけるとありがたい(もっとも、わたしは何事も自分の目で見て確かめないとだめなのだが)。
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■2005年8月31日
▽森田宏幸『猫の恩返し』
出だしはちょっと面白かったんだけれど、あとはグダグダ。猫好きにも擁護するのがなかなか難しいアニメ。ジブリ作品だから好きな人が多いのかと思ったら、一般の評判もけっこう悪いみたいだ。「猫の文学」で紹介した宮沢賢治の『猫の事務所』へのオマージュなのか、「猫の事務所」というのが出てくる。猫が恩返しに大量のネズミを持ってくるので、ヒロインが閉口する場面。ポール・ギャリコの『ジェニー』でも、猫に変身してしまった少年が、知りあった猫にネズミを食べろといわれて困る場面があるのだが、猫と人間を大きく隔てるものは、やはりネズミである。ネズミが食べられなければ、猫にはなれない(何のこっちゃ)。四本足の猫と、二本足で立ち上がる猫とのあいだで、階級と世界が分かたれている。
■2005年8月29日
▽ノーラ・エフロン『めぐり逢えたら』
マッケリーの『めぐり逢い』のリメイクかと思ったら違った。あの映画を元ネタにはしているが、それをベースにオリジナルな脚本に仕上げたもの。『めぐり逢い』では果たされなかった、エンパイア・ステートビルでの邂逅が実現されるというオチ。ふたりが最後の最後に出会うという話は悪くはないのだが、それならいっそ、空港でトム・ハンクスがメグ・ライアンを見る場面も、道路の端と端でふたりが向かい合う場面も、なしのほうがよかったのでは。
懐メロが終始流れつづけ、ノスタルジックな雰囲気を出そうとしているが、演出が凡庸だからしかたがない。なにも『ヘカテ』のダニエル・シュミットのように徹底的に倒錯せよとはいわないが・・・。そもそも、どこにでもいそうな女としか思えないメグ・ライアンが主役では最初から期待できない。いずれにせよ、マッケリーの傑作とは比べようもない出来。
『めぐり逢い』がテレビのなかに何度か登場する。せめて、映画館でリバイバルされてるのを見るという風にできなかったのかな。テレビのなかでは何もかもが凡庸になる。
▽世界遺産
毎日放送の人気番組「世界遺産」は、どの作品もすべて同じスタイルでつくられている。一言でいうなら、「スタッフの存在を感じさせない」というのが、この番組の基本方針である。キャメラマンその他のスタッフは決して画面に映り込まないし、人物がキャメラに向かって話しかけたり、キャメラに目をやったりすることもない。もちろんインタビューなど御法度だ。
これはこれでひとつのやり方であるから、もちろん別にかまわない。ただ、ここまでスタイルを統一している割には、ひとつだけ見落とされていることがある。この番組では、飛行機から撮った空撮の場面がよく使われるのだが、そのときいつも飛行機の機影が地面に映っているのが見えるのだ。「スタッフの存在を感じさせない」というスタイルで番組をつくっているのなら、この機影はその方針と明確に矛盾するものではないか・・・(ま、どうでもいいか)。
■2005年8月26日
▽内田吐夢『逆襲獄門砦』
幕末、倒幕軍に備えて、農民たちに急ピッチで砦を建設させる領主(月形龍之介)。最後の最後に反乱を起こす農民たち。主人公の片岡千恵蔵は農民でも武士でもない、猟師。子供の頭に乗せたミカンを父親の千恵蔵に撃ち落とさせる、ウィリアム・テルめいた場面があるのが面白い。月形龍之介はやはりお人好しの家老役などよりも、こういう冷酷な悪役のときの方がずっといい。ただし、こういう悪役は死に方があまりあっさりしすぎていると、見終わったあとで後を引くときがある。この映画では、月形は殺されないが、殺されるよりも恥ずかしい目に合わせられる。
▽内田吐夢『黒田騒動』
有名な黒田騒動を映画化したもの。ほとんど伝えられる史実の通り脚本にしてあるようだが、実に面白い。知恵もの栗山大膳の忠義、倉八十太夫の野心、黒田忠之の乱心、高千穂ひずるの隠れキリシタン、中原ひとみの白痴のお姫様。それぞれの人物にとても存在感がある。縁の下で忍者同士が無言で戦うシーン、ラスト近くの相米慎二ばりの大工レーン撮影など。内田吐夢はやはり侮れない。
▽松田定次『任侠清水港』『任侠東海道』『清水の次郎長 任侠中山道』
清水の次郎長を描いたシリーズもの(?) 毎回、富士をバックに次郎長一家が街道をいく姿をロングでとらえたショットで始まるのだから、シリーズものと考えていいのだろうが、気のせいか(あまり集中してみていなかったので)、次郎長一家の顔ぶれは作品ごとに微妙に違うし、前回で死んだ悪役がまた別の悪役で出てきたりするあたり、かなりいいかげんである。ひょっとすると、こういうのは日本映画だけに特有のことかもしれない。
■2005年8月24日
▽イム・グォンテク『将軍の息子』
浮浪者の青年が街のボスにのし上がってゆくというストーリー・ラインはよくあるマフィアものと同じだが、時代が日帝時代で、朝鮮人の主人公の属する組織が対立しているのが日本人やくざという構図になっているのが、一風変わったところ。彼はたんなるやくざの親分ではなく、抗日運動の英雄として描かれる。そして最後に、自らの出自を知るところでこの三部作の最初の作品は終わる。一昔前なら国辱的映画といわれたかもしれない(いまでも右翼が見れば激怒するかもしれない内容)。日本未公開なのはそのせいだろうか。実話にもとづく映画だが、実在の彼はもっと卑劣な人間だったという話もある(これもまた嘘かもしれない)。
朝鮮人の組織は映画館をアジトにしているのだが、そこで掛かっている映画は日本映画ばかりのように思える。『女の一生』(時代から見て、池田義信監督作か?)とか、『宮本武蔵』(だれの?)とかの看板が映画館の正面に掲げられているのが見える。この時代が30年代だとすると、まだ朝鮮映画の製作は行われていたはず。館内が集会に使われる場面はあるが、上映されている映画が映し出されることはない。
■2005年8月23日
▽『ほんとにあった怖い話2005』
今日、7時放送の『ほんとにあった怖い話2005』には、鶴田法男監督作もはいっているので、注目。
■2005年8月22日
▽どうでもいい日記
最近はなかばば引きこもり状態になっていて、外出するときも車を使ってのほとんど室内から室内への移動だった。今日、ひさしぶりに自転車で出かけたら、近くに知らない建物が建っていた。でこぼこだった舗道も平らになっていたりして、軽いタイムスリップ状態を味わった。
さて、今日出かけたのは、机のなかをごそごそやっていたら、百貨店の商品券が出てきたので、それを使いに隣町にある百貨店に行ったのだった。その百貨店は入り口からエスカレーターへの最短距離の途中にレジが並んでいるので流れが悪い。しかも、三階から四階に行く途中、一度エスカレーターがとぎれるので、反対側に回り込まなければならない。その上、四階にいくエスカレータの真ん前にハンガーにかけた服が並べてあったりするのだ。しかし考えてみれば、デパートというのはあまり人の流れがよすぎてもまずいのかもしれない。ところどころで流れがよどんで人が立ち止まるように、わざと設計してあるという可能性もある。もっとも、それが見え見えだと逆効果なのだが。
その百貨店には本屋がある。田舎の本屋がどこでもそうであるように、ここは漫画と文庫と雑誌が大部分のスペースを占めていて、ほとんどろくな本は置いてない。とはいえ、このあたりではいちばんましな本屋のひとつなので、ときおりぶらりといくことがあるのだ。この本屋には岩波文庫が3棚ほど並べてある。少なく思えるかもしれないが、この辺では岩波文庫がおいている本屋自体が珍しいのだ。
早速、ユクスキュルの名著『生物から見た世界』が岩波文庫になっているのを発見する。わたしはとっくの昔に単行本を手に入れているので、今ごろ文庫化されてもうれしくないが、いい本なので文庫化したのはいいことだ。しかも新訳である。旧訳と大きな違いがあるなら買ってもいいくらいだ。このサイトの訪問者にはまったく縁もゆかりもない本だとは思うが、奇跡が起こることを期待して一応推薦しておく。
つづけて歩き回っているうちに、阿部和重の単行本を三冊も発見した。以前はこの本屋には阿倍の本は一冊も置いていなかった。前に『シンセミア』を探しにいったときに調べたから知っているのだ。これが芥川賞効果というやつか。『グランド・フィナーレ』を買うという手もあったが、いまはその気分ではない。さらに見て回ると、蓮實重彦の本が二冊見つかった。蓮實の本も以前には一冊もおいていなかったはず。いったい何が起こっているのか。少し不安になる。新刊の『魅せられて』はともかく、『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』までおいてあるのは、なにかの間違いとしかいいようがない。それはいいとして、『魅せられて』は、文庫本の解説文などを集めたものが大部分で、半分以上がすでに読んでいる文章だったので、少しがっかりした。しかし、樋口一葉論など読んでないものもはいっているので、いずれ買うことにしよう。(言い忘れたが、『グランド・フィナーレ』は『シンセミア』の続編みたいな内容だと思うので、読むなら『シンセミア』から読んだ方がいい。『シンセミア』は上下二巻のかなりの長編だが、PTAの『マグノリア』を思わせる活劇に仕上がっているので、退屈はしないだろう。ちなみに、『魅せられて』には『シンセミア』論がはいっている。)
結局、哲学のコーナーで見つけたドゥルーズの『狂人の二つの体制 1975-1982』を買うことにする(関係ないが ATOK14 では「きょうじん」と入力しても、初期設定ではちゃんと「狂人」と変換されない。最近はこの言葉まで自主規制になっているのか。ともあれ、しつこく「きょうじん」「きょうじん」とうち続けているうちに学習して、いまでは一発変換されるようになった)。
話を元に戻そう。『狂人の二つの体制』は3500円もするので、これだと商品券の額をオーバーしてしまうが、まあいいかと思いつつ、もう一周しているときに村上春樹の『海辺のカフカ』が目にはいった。なぜか急に読みたくなってしまった。わたしはもちろん村上春樹のファンでもなんでもないのだが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』以来かれの作品を読んでいないのは、いくらなんでもという気がするし、『アンダーグラウンド』以後変わったという噂も念のために確かめてみたくなったのだ(わたしとしては、全然変わっていないという渡部直己説のほうが、たぶんあたっているという気がするのだが)。
そういう理由もあるにはあったのだが、実は、「猫の気持ちがわかる初老の男」が登場するという帯の文句に惹かれたのだった。「猫の文学」なるコーナーを設けているものとしては、これは見逃せない。しかし、「ぼくは家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった」などと書いてあるのを読むと、嫌な予感がしてくる。ほんとに変わったのか?
というわけで結局『海辺のカフカ』(上・下)の文庫本を買って帰った。途中、もう何年も工事中になっている場所を通り過ぎるのだが、最近になるまでなんの工事をしているのかわからなかった。どうやら川の流れを変えようとしているらしい。
■2005年8月21日
▽ 『スズメバチ』
完全にカーペンターの『要塞警察』のパクリ。派手にやってるぶんだけ、弛緩している。人間描写もまるでだめ。
■2005年8月20日
▽鈴木英夫『悪の階段』
最近再評価されはじめている鈴木英夫監督だが、代表作といわれる『その場所に女ありき』を見ても、それほどすごい監督には思えない。この強盗映画もそつなくつくられているだけで、ごく平凡な印象を受ける。アジトになっている一軒家を画面に収めるやりかたひとつ見ても、だめだなと思う。人物たちはどれもいささか類型的に描かれているが、いつも退屈そうな顔をしている団令子は悪くない。
▽ダリオ・アルジェント『歓びの毒牙』(ネタばれ注意)
『歓びの毒牙』はアルジェントのデビュー作だが、この段階でほとんどダリオ・アルジェント・タッチとでもいうべきものがほぼできあがっていることに驚く。まあ、相も変わらずやってるんだなという言い方もできるが。なにしろ、ファースト・ショットの手袋をはめた黒ずくめの殺人鬼を見た瞬間に、犯人は女だとわかってしまうのだ。もっとも、ミス・リーディングさせる細部を巧みに散らしているので、最後までお話を楽しめるようにはできている。キャメラは、ヴィットリオ・ストラーロ。
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Evelyn Waugh: Decline and Fall
■2005年8月17日
▽サーバーに障害発生
昨日はサーバーに障害が発生して、ホームページが一日中アクセスできない状態になっていました。わたしの責任ではまったくありませんが、ご迷惑をおかけしました。サポートは12時間で復旧するといっていたのに、結局、つながるようになるまで1日以上かかりました。最近時々調子がおかしいときがあったのですが、こんなにひどいのは初めてです。これに懲りずに、また遊びにきてください。
話は変わりますが、「映画本ベスト・オブ・ベスト50」という新コーナーを設けました。最初は「入門編」として10冊を紹介しています。こちらも、のぞいていってください。
■2005年8月16日
▽ルーヴル美術館が映画をプロデュース
ルーヴルで撮影された映画についてこのあいだ少し触れたが、今度はルーヴル美術館がみずから出資して映画を製作するという企画が現在進行している。数作品が順次撮られる予定で、この企画においては、ストーリーにルーヴルをからませるという唯一の制約をのぞいて、あとは監督の自由に任せられる。
この企画の最初の監督として指名されたのが、ツァイ・ミンリャンだ。主演はすでに『ふたつの時、ふたりの時間』で共演しているリー・カンションとジャン=ピエール・レオ。2作目以後の監督もある程度決まっているらしいが、秘密とのこと。
■2005年8月14日
▽シオドア・スタージョン『夢みる宝石』
スタージョンのフリークス小説『夢みる宝石』を読みはじめる(関係ないが、『フリークス』が再公開されるそうだ)。スタージョンの代表作といえば『人間以上』だが、SF通はたいていこれを推す。地位と名誉のことしか考えていない養父の家を抜け出した主人公の少年が、見せ物芝居の一座の乗ったトラックに忍び込むという展開は、ヒッチコックの『逃走迷路』を思い出させる。少年の指を切断してしまった養父は、「将来左手の指が三本かけた青年が現れたら気をつけなければならない」と思う。このあたりは『三十九夜』の展開を予想させるが、そうはならない。不思議なことに、少年の切断された左手の3本の指は、また生えそろってくるのだ。それどころか、彼は自分の体を好きなかたちに変形させる能力を身につけてしまう。少年は女の姿に変身して養父に近づき、その目の前で自分の左手の指をもう一度切断してみせる・・・。
▽ニコラ・フィリベール
『パリ・ルーヴル美術館の秘密』は『ぼくの好きな先生』のあとで撮られた映画なのだと思っていたが、実は1988年に撮影されたことを知った。してみると、あのなかで描かれていたルーヴルの改装は、わたしがフランスに行く前のことになる。
フィリベールがはじめて映画と関わったのがルネ・アリオの "Les Camisards" だというのも意外だった(スタッフの大部分は現地調達されたのだが、フィリベールは土地のものだと偽って撮影に参加したらしい)。これは、18世紀初頭、ナントの勅令の廃止後、政府の迫害に抵抗して、山に立てこもって反乱を起こした熱狂的なプロテスタント集団、カミザールのゲリラ的戦いを描いた映画で、フランスに住んでいるときたまたまテレビで見て非常に気に入った作品なのだ。チミノの『シシリアン』のように無理にドラマをつくらず、淡々と出来事を記録していくようなタッチが、いかにもゲリラの戦いにふさわしく、見ているうちに熱いものが静かにこみ上げてくるような作品だった。ゲリラ好きのわたしには、見ていてすこぶる気持ちのいい映画だった。
フーコーの愛読者をのぞいて、ルネ・アリオなんて名前はだれも知らない。というか、フーコーの愛読者でも『ピエール・リヴィエールの犯罪』を映画化した監督の名前など知らないだろう。それに、この映画には有名な俳優は一人も出ていない。賭けてもいいが、わたしが生きているあいだに、日本で見る機会はないはずだ。こういう映画がまだまだいっぱいある。
■2005年8月13日
▽石井輝男亡くなる
『網走番外地』などで知られる石井輝男氏が12日、肺ガンのためにお亡くなりになりました。
■2005年8月7日
▽「スキャンダル大戦争」──大江・深沢の幻の天皇小説
そういえば、鹿砦社の編集長だったか社長だったかが名誉毀損かなにかで捕まった。「スキャンダル大戦争」という本のシリーズで知られる出版社だ。テレビの報道では、扇情的な表紙のこの本というか雑誌をならべた映像が使われていた。この出版社は、他社が尻込みしたり、オブラートに包んでしか記事にできないことを大胆に取り上げたりして、これまでもときおり物議をかもしてきたが、とうとう捕まったらしい。
今回はパチンコ業界の暗部に切り込んだのがまずかったようだ。パチンコ業界は警察と仲がいいのだ。社長は「出版で逮捕なら本望だ」といっているらしい。もっとも、この出版社、出版の自由を謳っている割には、あまり志が高いようには見えないのもたしかだ。
といいつつ、実はわたしはその「スキャンダル大戦争」シリーズの一冊、「スキャンダル大戦争2」というのを買って持っているのだ。そのなかにあの大江健三郎の『政治少年死す』と深沢七郎の『風流夢譚』が載っていると知って、急いで取り寄せたのだった。ご存じの方は、『政治少年死す』と『風流夢譚』と聞いたら、すぐにああ、あの発禁になった天皇小説かと、ぴんとくるだろう。ぴんとこない人にはこの話はしてもしょうがないので、これ以上説明はしない。とにかく、いまはこれでしか読めない小説だし、図書館で探すのもかなり難しいだろう。どちらも全集にさえ収められていないはずだ。
というわけで、こういう事件があったあとでは、そのうちこの本さえも手に入らなくなるかもしれないので、一応お知らせしておこうと思ったまでのこと。
千円ほどの値段で、大江と深沢の幻の小説が読めるのはお買い得である。ただし、この本ははっきりといっていかがわしい。表紙には新東宝のエロ・グロ路線の代名詞のような「海女シリーズ」の一作『海女の化物屋敷』のスチール写真が使われ、「“幻の小説”(『政治少年死す』『風流夢譚』)を読む」という見出しの左には、「それからの飯島愛 疑惑にまみれたベストセラーの背後」「マリリン・モンローのデスマスク」といった見出しがならび、ページをめくるとすぐにマリリンの見たくもないデスマスクの写真がこれ見よがしに掲載され、それをさらにめくるとマイクロソフトの社長ビル・ゲイツがスピード違反で捕まったときの警察写真がページいっぱいに見開きで広がっている。それをさらにめくると、「鬼畜系雑誌二大巨頭誌上特別裁判」と銘打って扇情的な写真が所狭しとならべられている。そのなかには、「奥菜恵のニャンニャン全裸写真」「モー娘。メンバー全員裸で大集合」といった字が見える、といった具合である。
まあ、こういう本なのであまり格調が高いとはいえない。しかし、なんどもいうようだが、『政治少年死す』と『風流夢譚』は今のところ、この本でしか手に入らない。買って損はないと思う。
■2005年8月5日
物議をかもしているスピルバーグ監督の次回作のタイトルが「Munich」に決定した模様。内容は72年のミュンヘン・オリンピックで実際に起こったテロ組織「黒い9月」によるテロ事件を題材にしたもので、ピュリッツァー賞作家トニー・クシュナーが初の映画脚本を担当している。撮影はすでに開始されており、今年の12月23日に全米で公開される。新イスラエル的なスピルバーグが事件をどう描くか(だいたい予想はつくが)。ある意味『宇宙戦争』の続編的な映画になるかもしれない。
言うまでもないこととは思うが、「黒い九月」という名称は、ゴダールの『ヒア&ゼア』にも深い影を起こしている事件から取られている。
▽ニコラ・フィリベール『パリ・ルーヴル美術館の秘密』
原題は "La ville Louvre"(「都市=ルーヴル」ぐらいの意)。都市というよりは迷路のようなルーヴルの姿を新鮮に映し出したドキュメンタリー映画だ。ニコラ・フィリベールは、ゴダールの『はなればなれ』からストローブ=ユイレの『ルーヴルへの訪問』 、ロン・ハワードの『ダ・ヴィンチ・コード』(これにも当然ルーヴルの映像は出てくるはずだ)にいたるルーヴルの映画の歴史に、また一つ魅力的な映像を付け加えた。
どうやらルーヴルは改装中のようだ(改装中のルーヴルは、都市というよりは、建設中の都市を思わせる)。ラ・トゥールの絵が無造作に壁に立てかけてあったりするのを見ると、思わず心配になる。世界の至宝にしては、美術品の扱いはいささか雑に見えなくもない。もちろん職員たちは慎重に慎重を期してやっているのだろうが、ダ・ヴィンチやプッサンが都市の日常を彩る風景の一つにすぎなくなってしまうような環境のせいで、そんなふうに見えてしまうのだろうか。
最初から最後までいつものようにナレーションはなく、説明を欠いた映像が次々と重ねられてゆく。ルーヴルの職員たちが人工呼吸の仕方の講習を受ける場面は理解できても、なぜルーヴルに体を鍛えるジムがあったりするのかは、よくわからない。陸上のスターター用に使うピストルを発射して、その音を計器で測定する場面があったりするのだが、これもその意図はにわかには推し量りがたい。「秘密」は明らかになるどころか、深まるばかりだ。
■2005年8月4日
▽野村芳太郎『拝啓天皇陛下様』(63)
天皇(裕仁)のイメージがどうとらえられているかに注目する。大演習を見に来た天皇は、丘の上を馬に乗った姿がロング・ショットで撮られ、ついで背中姿のアップ、首から下の横からのショットなどが挿入される。
てっきり山田洋次作品だと思いこんで見ていたので、野村芳太郎の作品だと知って少し驚いた。前半の軍隊の場面はともかく、後半の部分はいかにも「寅さん」の世界である。「寅さん」とはなによりも「帰ってくる男」だとするなら、この映画の渥美清はまさに「寅さん」のプロトタイプを演じているといっていい。
山田洋次がハナ肇主演で撮った『なつかしい風来坊』は、『拝啓天皇陛下様』の後半部分を特化するかたちで、「寅さん」的世界にさらに接近した作品である。
してみると、「寅さん」的世界とは、山田洋次や野村芳太郎が作り上げた固有の世界ではなく、渥美清さえ必要としていないなにか、もっと別のオリジンを持つなにかなのだろうか。たとえば、『シェーン』のような西部劇とさえ比較可能な? あるいは、『でっかいでっかい野郎』の渥美清や『馬鹿まるだし』のハナ肇が夢中になった、「無法松」がすべてのベースにあるのだろうか。
『拝啓天皇陛下様』『なつかしい風来坊』『馬鹿まるだし』は、いずれも、「わたしが○○にであったのは、これが最初だった」という第三者のナレーションによって始まっているところも、注目すべきだ。
▽山田洋次『馬鹿まるだし』(66)
桑野みゆきの代表作は『秋日和』でも『青春残酷物語』でも『日本脱出』でもなく、結局この作品ではないだろうか。シベリアから帰ってこない夫を待ちつづける寺の未亡人を演じる桑野みゆきの美しさには唖然とする。この映画の桑野の魅力にやられた人はきっと多いはずだ。山田洋次にはあまり関心がないという人も、だまされたと思って見てほしい。脚本に加藤泰が参加している。
■2005年8月3日
「信じられないことではあるが、この『季刊フィルム』の第四号には、麻生中学三年生の手になる堂々たるゴダール論が掲載されていた。中条省平という、、二歳近くも年少の少年が執筆したその論文を、わたしはなんとか読み解こうとして、あまりのレヴェルの高さに歯が立たないことを思い知らされた。」
「10月から11月にかけて、わたしの通学している教育大駒場の周囲でも駒場校から豊多摩高校まで、次々とバリケード封鎖の旋風が生じた。新宿校では三年生の一人が封鎖された音楽室でドビュッシーを優雅に演奏していたという、まことしやかな噂が流れてきた。大分後になって、その生徒が坂本龍一という名であったと、わたしは知らされた。わたしの小学校の1年上級生の原将人は麻生高校に在学していたが、バリ封された竹早高の屋上で8ミリカメラを回していた。そしてその竹早高の映画研究会のメンバーは『竹早1969』というフィルムを完成させ、やがてそれは翌1970年に大島渚が監督した『東京戦争戦後秘話』に、大きな示唆を与えることになった。」
『ハイスクール1968』
▽Italo Calvino "Adam, one afternoon"
本棚を整理していたら、イタロ・カルヴィーノの初期短編集の英訳本が出てきた。買ったことは覚えているが、読んだ記憶がない。とりあえず10編ほど短編を読んでみたが、やはりまるで覚えていない。仕方がないので、全部読むことにした。
もっと後になって書かれた『柔かい月』などになると、論理的な文章がめくるめくような迷宮をなしていく手の込んだ文体で、翻訳で読んでいてもなかなか読みにくいのだが、このころのカルヴィーノの小説はシンプルで読みやすい。それでいてどの作品にも、不安とユーモア、夢と虚無にみち満ちていて、短いながらも余韻にあふれている。この中の一部の短編が『魔法の庭』として翻訳されているのだが、英訳版とは細かい描写に異同がある。和田忠彦の訳はたぶん信頼していいと思うので、最初は英語訳の精度が低いのかと思っていた。しかし、和田のあとがきを読むと、もともとイタリア語で書かれた原書自体、版元ごとにけっこう異同があるらしい。
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■2005年7月31日
▽四方田犬彦『ハイスクール1968』
四方田犬彦はなかなかの博学だし、読んでいて勉強になる。知的な快楽も味わえる。だから彼の本はけっこう買って読んでいる。しかし、正直いって、四方田犬彦の本で本気で好きなのは一冊もない。しいて言うなら、最初に読んだ『人それを映画と呼ぶ』になるだろうか。この本が彼の他の著書と特に違っているところは別になにもないのだが、そこに収められているゴダール論や黒沢清論、あるいはダニエル・シュミットへのオマージュなどは、学生時代のわたしの興味の中心とも重なり合って、読んでいて少なからぬ影響を受けた。わたしの持っている四方田の本のなかでは、何度も手に取ったためいちばん表紙がすり切れている本だ(汚れやすい表紙というせいもあるのかもしれないが)。残念ながら、これは20年以上前の本なので、いまは古本でしか手に入らない。
ところで、去年出版された『ハイスクール1968』は、おそらく四方田犬彦が書いたもっともパーソナルな本といえるだろう。わたしはこの本を読んでいて、これまで読んだ彼のどの本にもなかったような心地よさを味わった。それはほとんど嫉妬に近いものかもしれない。四方田犬彦に対する嫉妬ではなく、彼が高校時代を過ごした68年の東京という時間と場所に対する嫉妬だ。自分の高校時代もこんな風であったらいまと違っていたかもしれない。そんなことを考えさせられて、なんだかたまらない気持ちになるのだ。
この本は、1968年当時十六歳の高校生だった四方田が、その高校時代を克明に振り返って綴った自伝である。目次には、「1968.4」「1968.7-12」などという日付がただぶっきらぼうに並んでいるだけだ。最後に「十八歳と五十歳の四方田犬彦の対話」というエピローグが添えられている。著者は68年の4月に高校に入学するところから始めて、彼がどんなことに興味を持ち、どんな生活をしていたのか、クラスにはどんな友達がいたのか、といったことを事細かに回想してゆく。
中学時代の美術教師からオーソン・ウェルズの偉大さを教えられていたというところからして、四方田の育った環境はすでにわたしのそれとは違っている。わたしも『市民ケーン』は中学のときはじめて知った。しかしそれはNHKの名画劇場を通じてであったし、オーソン・ウェルズの偉大さを教えてくれる教師など一人もいなかった。高一の頃にはすでに鞄にアンドレ・バザンの『映画とは何か』』を忍ばせて学校で読みふけるようになっていたが、クラスにはゴダールの名前を知るものさえいなかった。ムジルの『特性のない男』を教室で読んだりしているとき、わたしは自分が教室ではまったく異質であることを感じていた。
『ハイスクール1968』を読んでいてうらやましいと思うのは、高校生四方田のまわりには稲垣足穂やバタイユを語る友人がいたということだ。わたしの高校時代は、四方田のそれよりも十年以上ずれているのだが、わたしのまわりの環境はこの本に描かれているものよりもずっと遅れていた。というかいまでもあまり変わっていない。この地方の田舎町にはろくに本屋もないし、高校時代はまともな図書館さえほとんど近くになかった。ゴダールやベルイマンの映画でさえ、京都や大阪まで出なければ見れなかったのだ。しかし、この辺の事情は実はいまも同じである。何しろわたしがいま住んでいる「市」には映画館がひとつもないのだから。
話がそれてしまったが、この本はついそんなことをいろいろと考えさせてしまうということなのだ。
四方田は友人に教えられて知ったビートルズに夢中になる。やがてローリング・ストーンズ、マイルス・デイヴィス、アルバート・アイラーという風に、彼の興味は移ってゆく。当時のジャズ喫茶が描写され、「カフェ文化」の終わりが語られる。この興味の変遷は彼だけに関わりを持つものであると同時に、時代を微妙に反映してもいる。68年を大上段に分析するのではなく、あくまでも当時高校生だった彼の目線から描写していくこと。しかしそこに批評性が欠けているわけではない。むしろ、その辺の社会学的分析よりはよほど鋭く時代を映し出している。わたしは四方田の本のなかではこの本がいちばん好きだ。
■2005年7月30日
▽三池崇史『着信あり』
今頃になってテレビで見る。よくできてはいるが、土台の脚本がよくない。『リング』の二番煎じといわれても仕方がないだろう。三池崇史というのは、非常にロケがうまい人だと思うのだけれど、この映画ではそれも平凡で、彼らしさがあまり感じられない映画だ。最後の「謎」はまあ話題づくりだろう。一昔前は、こういう映画の上映が終わると(ときには上映中に)、「わからなかった人」たちが、「なにあれ、わかんなかった」などと一言いってそれで終わりだったのだが、最近は違う。インターネットというものがあるので、ネットでくだらない書き込みがどっとふえる。「わからなかった」人たち同士が、ああでもないこうでもないといって盛り上がり、「少しだけわかった」人が訳知り顔でそれを解説するというわけだ。そして、結局それが話題になる・・・
わたしは「謎」には興味がない人間なので、あのラストは『スキャナーズ』のパクリだろうぐらいに適当に解釈した。思わせぶりな終わり方としてはなかなか成功しているとは思う。ただ、やはり全体として脚本が悪い。そもそも、悪霊が電話をかけてくるというのが最大の「謎」だ。続作への布石なら、別にそれはそれでいいし、たとえ続作がないしても(もう作られているが)、そういうことをあえて説明しないのはかまわない。ただ、この映画の場合、その説明の欠如が「意味の深み」となって観客の興味を引っ張ってゆくほうには働いていない気がする。これと比較するなら、『リング』の物語はまだよくできていた。まあ、どちらも怖くないが。
■2005年7月29日
▽Jack Finney "Time
and Again"
ジャック・フィニイ『ふりだしに戻る』
このタイムトラベルSFを書くにあたって、フィニイは1882年のニューヨークの歴史を徹底的に調べ上げた。馬車は主人公が乗った道を正しく走っていなければならず、高架鉄道の駅は、彼が乗車した正確な位置になければならない。ビルの大火災の場面を書く際には、当時の天候の移り変わりまでも調べたという。それにしても、自由の女神像の腕がマジソン・スクエアに立っていたというのには驚いた。しかもそれを見事に物語のなかに取り込んでいるのだから、脱帽だ。
細部にこだわっているのでテンポがスローすぎるぐらいだと思っていたが、火事の場面のあとで、警部(こいつが強烈なキャラクターなんだが)にぬれぎぬを着せられて、町中の警官たちから逃げ回る場面のサスペンスの盛り上げ方はかなりのもの。この小説では当時の写真や絵などがふんだんに使われて独自の効果を上げているのだが、これがわたしにはあまり成功していないように思えた。小説と写真というのは、よほどのことがないと調和しないのだ。特に文庫版では、写真のレイアウトのしようがないし、どうしてもみすぼらしく見える。
■2005年7月28日
▽エドワード・ドミトリク『アルバレス・ケリー』
『アルバレス・ケリー』:フォードの『騎兵隊』を南部の側から描いたような作品(同じウィリアム・ホールデンの主演)。南部の令嬢が実は密かに南軍に手を貸しているという設定も同じ。ホールデンは北部にも南部にも与せず、一見金のためだけで動いているようなノンシャランとしたメキシコ人を演じている。ホールデンと、彼を利用して2500頭の牛を盗もうと企てる南部軍の指揮官リチャード・ウィドマクとの関係(の変化)の描き方はなかなか見事。崇高さは皆無だが、よくできている。
■2005年7月26日
シャルル・トレネのシャンソンにも歌われたN7の一部が県道化され、名称も変わるらしい。ガレルの『愛の誕生』の最後に出てくるのはたぶんこの道だったのではないのかと思うのだが。
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Time and Again『ふりだしに戻る』:1882年のニューヨークについて詳細に調べ上げ、その時代の衣装を着、その時代のままに残された古いアパートの一室を借り、催眠術によって20世紀の記憶を忘れ去ることで主人公は過去へとタイムスリップする。ジャック・フィニイは過去に魅せられた作家であり、この作品ではアインシュタインの時間についての理論が援用されたりもするのだが、読んだ印象はむしろ、時間についての物語と言うよりは、ボルヘスやジョナサン・キャロルなどのフィクションの実在を描いた作品に近い。
タイムスリップの方法はあまり説得力があるとはいえないが(村上龍の『五分後の世界』のように、気がついたら別の世界にいたというほうがむしろ説得力がある。しかしそれでは別の物語になってしまうが)、謎の手紙を巡る筋の運びはさすがにうまく、なかなか読ませる。
過去は実在するというベルクソン的テーゼ自体にはわたしも賛成だ。「過去は過ぎ去ら(passe)ない」というフォークナーの言葉を引用し、そこにテニスコートで相手の撃ったリターンが抜ける(passe)映像を重ね合わせるゴダールのユーモア。
■2005年7月22日
映画館で映画を見なくなった。ずっと封切りの時に見てきたクリストファー・ノーランの新作も見逃したし、鈴木清順の『オペレッタ狸御殿』もなんとなく足が鈍っていかなかった。『スター・ウォーズ』もたぶん行かないだろう。最近は、この手の封切り映画はDVDを借りて見ることさえせず、一、二年後にテレビで公開されたときにやっと見る、という風になりつつある。見に行きたいという気持ちにさせる映画もなければ、企画もない。このままだとほんとに映画を嫌いになりそうだ。
『アイランド』はなかなかおもしろいストーリーだと雑誌には書いてあるが、自分がクローンだと知った男女が生き延びるために逃走する話、と聞いただけで気持ちが萎える。今時そんな話でおもしろいものができるのか。しかも、監督はあの『パール・ハーバー』『アルマゲドン』といった愚作をヒットさせる才能以外は何も持ち合わせていないマイケル・ベイというから、もう絶望的だ。これが夏休みの目玉だというのだから、もう勘弁してほしい。
『アワーミュージック』と『世界』が秋に公開されるまでは、とりあえずティム・バートンとロメロの新作でなんとか耐えるしかないのか。
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Gaston Leroux "La Mystere de la chambre jaune"
Jack Finney の "Time and Again" を読み始める。眠っているあいだに過去にタイムトラベルする話らしい。『夏への扉』のように冷凍睡眠で未来に行くのはわかるが、過去に行くとはどういうことか。少し長い小説なので若干気が重いが、おもしろいことを期待する。
最近は、小説はミステリーかSFしか読まない。速読の練習になるし、語学の勉強にはこれが一番だ。ただ、図書館の洋書コーナーにはこの手の「娯楽」小説はあまりおいていないので、借りて読めるものが限られてくる。高学歴の人はこういう本を読まないのだろう。だから、たとえばドゥルーズの『無人島』のなかで、ハドリー・チェイスの『ミス・ブランディッシュの蘭』が、『蘭はない』などという珍妙なタイトルに訳されるなどということが起きるのだ。ハドリー・チェイスぐらい知っとけよ、といいたいところだが、チェイスの文庫本はいまどれも絶版状態なので、読もうと思っても読めない。アメリカの Amazon.com でも、チェイスの代表作はほとんど中古でしか手に入らないという状態だ。ま、どうでもいいが。
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「カイエ・デュ・シネマ」から、50年代から現在までの記事をテーマ別にあつめたアンソロジーがでているので、それを買って久しぶりにバザンやロメールの文章を読み直している。小海永二や奥村昭夫の訳はなかなか立派なのだが、原文と細かく見比べていくと、首を傾げるところも散見される。梅本洋一訳のロメール『美の味わい』も、訳す順序がおかしいので意味のウエイトが違っている箇所とか、訳が堅すぎて意味がよくわからないところとかが多すぎて、あまり読みやすいとはいえない。ちなみに、梅本訳の『監督ハワード・ホークス映画を語る』の英訳は、欠陥翻訳本として別宮氏にたたかれたことがある。ちなみに原書はこれ。まあ、英語訳のほうはアウェーだったという言い訳もできるのかもしれないが、フランス語の訳のほうも、できればもう少しかみ砕いて訳していただきたい。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の翻訳記事のなかにも時々怪しげな部分があったし、控えめにいって結構その辺はアバウトな人なのだろうか。
■2005年7月18日
▽小ネタをいくつか
・昨日書いた『寄生獣』はニューライン・シネマの製作で映画化されるとのこと。
・全米初登場一位となった『チャーリーとチョコレート工場』の柳瀬訳は、やっぱりやりすぎで賛否両論。
・マーティン・スコセッシが、フィリップスの薄型TVプロモーションの一環として、光と色の美しい映画10作品を発表、「雨に唄えば」、「白昼の決闘」、「赤い靴」、「河」、「ラストエンペラー」などを挙げた模様。
・ジャック・フィニの『盗まれた街』がまた映画化されるらしい。いったい何度目だ。
■2005年7月17日
▽チャン・イーモウ『キープ・クール』
チャン・イーモウが初めて描く現代の北京。いままで見たどのチャン・イーモウとも違うタッチ。手持ちキャメラを多用して、キレる人たちを煽るように撮っている。悪くない。主人公が最初つけ回している女の話が途中でまったく忘れ去られてしまうあたりも、それまでのチャン・イーモウでは考えられないところだ。コメディとしてはそれほど成功していないが、『秋菊の物語』や『あの子を探して』同様、主人公の頑固さというかしつこさが、ある種の快楽をもたらす。
チャン・イーモウは『赤いコーリャン』『菊豆』などの印象がよくなかったので、わりと最近まで敬遠して見ていなかったのだが、『秋菊の物語』以後の作品は決して悪くない。あと見のがしているのは『上海ルージュ』だけだが、これはタイトルが昔のチャン・イーモウを思わせるので、いまいち見る気が失せる。
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結局、ラ・トゥールは関西には来ないようだ。残念。
『寄生獣』が清水崇で映画化されるそうだ。あれこそハリウッド資本で映画にしたほうがおもしろうなりそうな気もするが。
フランス語は数が数えられないから国際言語じゃない、という石原都知事の発言。どの国の言葉にも独自の論理があることぐらい、一応作家なんだからわかるでしょ。
等々。
■2005年7月12日
▽バッド・ベティカー『七人の無頼漢』
先日、久しぶりに Amazon.com のDVD検索ページで、"Budd Boetticher" と入力して、なんの期待もせずに GO ボタンを押した直後に、"SEVEN MEN FROM NOW" という文字が目に飛び込んできたときは、危うく気絶しそうになった。
"Seven Men from Now" (『七人の無頼漢』)は、わたしが長年見たいと思いながらいまだに見ることができずにいる、幻の映画ナンバー1なのだ。高校時代、ヌーヴェル・ヴァーグの生みの親である批評家アンドレ・バザンの『映画とは何か』に収められた「模範的西部劇『七人の無頼漢』」というブリリアントな西部劇論を読んで以来、ベティカーという名前とともに『七人の無頼漢』というタイトルは、わたしの頭から離れたことがない。あれから何年もたった。そのあいだ、フランスに住んでいたときに、幸運にもシネマテークで "Ride lonesome" を見ることができたし、『決闘コマンチ砦』も知り合いが持っていたビデオで見ることができた。しかし、『七人の無頼漢』だけはいまだに見ることができていない。
数年前知り合いの知り合いである若い映画監督がどこかの映画祭に行ったとき、たまたまベティカー回顧展をやっていたのに一本も見ずに帰ってきたという話を聞いたときには、そいつを殺してやろうかと思ったものだ。
少し前にネット上で、『七人の無頼漢』がDVD化されるとの情報が流れたことがある。そのときもこのホームページで伝えたのだが、いったいそれが日本での話なのかそれともアメリカでの話なのか、それさえ全然はっきりせず、結局その後DVD化されたという話も伝え聞いていない。やっぱりデマだったのかと思いつつ、定期的に Amazon.com で検索をかけて調べるようにはしていたのだった。しかし、弱小プロダクションでばかり映画を撮っていたせいなのだろうか、ベティカーの映画はいっこうにDVD化される気配がなかった。
だから、"Seven Men from Now" というタイトルがリストに現れるのを見たときのわたしの興奮がどのようなものであったか、わかっていただけると思う。
ところが、である。早速予約注文しようと思って、Pre-Command ボタンを押そうと思ったら、そのボタンがないのだ。よくよく確認してみると、
Availability: NOT YET RELEASED: The studio is currently not producing this title on DVD, but to be notified when it is available, enter your e-mail address at right. You'll also be voting for this release; we'll let the studio know how many customers are waiting for this title.
と書いてある。要するにまだこのDVDは生産されていないのだ。しかも、この文だけでは、DVD化自体はすでに決定しているのかどうかもはっきりしない。とりあえず、メールアドレスを書いて送れば、リリースされたときにメールで案内してくれるそうなので、早速メルアドを書いて送った。このメールアドレスの登録は一種のリクエスト投票にもなっていて、Amazon のほうから、このDVDをリクエストするメールアドレスがどれだけの数登録されたかが製作会社のほうに伝えられることになっているらしい。その数が多ければ多いほど、DVD化される可能性は高いわけだ。
ずいぶん前に、Amazon.com で、ロッセリーニの"Joan of Arc at the Stake" のDVD のページで同じような投票をしたことがあるが、いまだにリリースされたという連絡がない。実際、まだリリースされていないようだ。リクエストの数が少なければ、いつまでたっても製作会社がDVD化に向けて動かないということもあり得る。だから、待ってれば出るだろうという考えは甘い。実際、アメリカ人ほどアメリカ映画の価値に気づいていない人間はいないからだ。売れそうもないと思ったら、わざわざDVD化なんかしないだろう。
というわけで、いまこの文章を読んでいるかたは、すぐにこのページにいって、右側の青い枠にメールアドレスをぜひとも登録していただきたい。ただメールアドレスを入れるだけなので、全然興味がない人もとりあえず登録だけしてもらえるとありがたい。たったそれだけのことでDVD化が決定するなら、これはすごいことじゃないですか。
登録したらDVDを買わなければいけなくなるなどということは全くなくて、ただリリースされたときに案内がくるだけの話なので、リスクはまったくないです。どうかお願いします。
バッド・ベティカーが何者なのかまだよくわからないという人は、たとてば蓮実重彦の『誘惑のエクリチュール』に収録されている「七の奇蹟 バッド・ベティカー論」などを参考にしてみてください。
ちなみに、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』は日本でDVDが出ています。日本で売ってるやつは高いので、北米版を買おうかと思っただけです。
■2005年7月10日
▽King Vidor "Ruby Gentry"
エミリ・ブロンテの『嵐が丘』にふさわしい映画作家は、ワイラーはむろん、リヴェットでも吉田喜重でもブニュエルですらなく、キング・ヴィダーだったのではないか。『ルビイ』を見ているとふとそんなことを考えてしまう。キング・ヴィダーによる『嵐が丘』がもし撮られていたなら、どんな作品になっていただろうか。
『ルビイ』は、『白昼の決闘』『摩天楼』など、ヴィダーが「狂気の愛」を描いた一連の作品の最後を飾る傑作である。ヒロインを演じるのは、『白昼の決闘』のジェニファー・ジョーンズ。
『白昼の決闘』では、ジェニファーの旦那であるプロデューサーのセルズニックが何度も脚本を改変し、ヴィダーはそのたびに撮り直しを余儀なくされたという。セルズニックがキャメラのそばを離れようとしないために、彼の吐く息で録音がだめになった、などというまことしやかなエピソードも伝えられている。結局、ヴィダーは映画の完成直前に降板することになる。しかし、ゴダールも『映画史』のなかで長い引用をしているあの壮絶なラストで、グレゴリー・ペックとジェニファー・ジョーンズの恋人同士が殺し合い、そして最後に手を握りあって息絶える瞬間は、紛れもなくキング・ヴィダーのものであると断言してよい。
『ルビイ』は、『白昼の決闘』の6年後に、再びセルズニックをプロデューサー、ジェニファー・ジョーンズをヒロインに撮られた。しかし、このときはセルズニックは撮影にいっさい干渉してこなかったという。その結果、キング・ヴィダーのフィルモグラフィーのなかでももっともパーソナルな映画が生まれることになった。
舞台となるのは、ノース・カロライナの湿地帯。狩りに夢中になってうっかり入り込めば、足をすくわれて抜け出せなくなるという、靄の立ちこめる沼地が映画のクライマックスとなる。原初の風景を思わせる沼のイメージが、野生の動物めいたヒロインを突き動かす、欲動の世界を鮮やかに視覚化している。
憎しみあうように愛しあうルビイとボーク(チャールトン・ヘストン)は、最後にその沼地で、ピューリタニスムの化身のようなルビイの兄に猟銃で狙われ、ルビイは兄を撃ち殺すが、ボークも撃たれて息絶える。映画は、それから何年もたったあともまだ過去の世界に生きているルビイを遠くからとらえたショットとともに、回想形式で始まっている。冒頭から、恋人たちがそれぞれ別の世界 side に属する人間であり、二人が幸福に結びつくことなどあり得ないことを、第三者である語り手の医師のナレーションがくり返し強調してゆく。冒頭から予感されていた悲劇的結末は、死が濃密に漂うこの沼地において、二人を永遠に結びつけると同時に、切り離す。『白昼の決闘』同様、暴力的な結末を彩る風景の不毛さが胸を打つ。
『華氏911』ではすっかり悪役になってしまったチャールトン・ヘストンだが、実際はそんなに悪い俳優ではない。もっとも、そんな名優だとも思わないが、唇を憎悪にゆがめていかにも嫌そうな顔をするときなど、なかなかよい。この映画では、ヘストンは長い間不毛のままだった湿地を排水設備によってよみがえらせるという夢に生きている男を演じている。彼はその夢のために、ルビイを捨てて、愛してもいない令嬢と結婚するのだ。絶望したルビイは、平凡でうだつの上がらない中年男カール・マルデンと結婚するが、ヘストンのことをあきらめきれない。さらに、夫がヨットで事故死すると、口さがない人たちはルビイが殺したのだと噂する。心を閉ざしたルビイは事業に専念し、自分を悪し様にいった人たちの土地や財産を次々とわがものにしてゆく。そしてついにはボーク(ヘストン)がようやく実現しかかった夢の土地までも買い占めると、それを水浸しにして彼の夢を一瞬にしてうち砕いてしまう。
『麦秋』では、日照り続きの土地を満たしてゆく水が希望のイメージを鮮やかになしていたのとは正反対に、『ルビイ』でヘストンの土地を浸していく水は、まがまがしい意志と結びついて、ひたすら不毛なイメージとして迫ってくる。この場面は、この作品が、ヴィダーの社会派作品とは一線を画するものであることを、見事に示していると言っていいだろう。
ジル・ドゥルーズは『Cinema: Image-Mouvement』のなかで、キング・ヴィダーをアメリカの映画作家のなかで例外的な自然主義作家として位置づけている。ドゥルーズがいう自然主義は、「欲動ーイマージュ」と呼ばれるイマージュの一タイプとの関連で語られる。極めて単純化するなら、ドゥルーズの分類において、いわゆるアクション映画は「行動ーイマージュ」というタイプに分類される。状況に対する登場人物の反応を描くハリウッドの古典的な映画の大部分は、この「行動ーイマージュ」の範疇に収まると考えていい。
「欲動ーイマージュ」とは、「行動ーイマージュ」の場となる特定化された空間がまだ生じる以前の「原初の世界」において、部分対象、フェティッシュをもとめる欲動を示すイマージュである。「行動ーイマージュ」が実在論(リアリズム)と結びつくとするなら、「欲動ーイマージュ」は自然主義(ナチュラリズム)と結びつけることができる。
ドゥルーズは、シュトロハイム、ブニュエル、ジョゼフ・ロージーの3人を、偉大な自然主義作家として称揚している。そして、「行動ーイマージュ」へと中心化されていきがちなハリウッドの古典的な映画において、ドゥルーズが自然主義作家として認めた数少ない映画監督のなかに、サミュエル・フラーやニコラス・レイとならんで名前が挙がっているのが、キング・ヴィダーなのである。
一方で、『ビッグ・パレード』『群衆』『麦秋』などの作品で、社会派リアリズムの監督と見なされてもいるヴィダーだが、わたしにはやはり『白昼の決闘』『摩天楼』『ルビイ』といった映画が、ヴィダーのなかでもっとも魅力的な作品だ。この系列の作品としては、もう一本、『森の彼方に』という未公開作品があるのだが、残念ながらまだ見ていない。ぜひDVD化してほしいものだ。
■2005年7月7日
▽ゴダールの『Notre Musique』
ゴダールの新作『Notre Musique』の公開時期がようやく決まった(詳細は、News で)。
情報だけは入ってくるが、いつまでたっても公開されないので、掟破りの海外DVDという手段も考えたほどだ。いったいなぜゴダールの新作は、いつもいつもこう待たされるのだろうか。たしかに、最近の彼の作品は、字幕を作るのも大変だとは思うが・・・
それにしても、「アワーミュージック」という邦題はどうなのだろう。なんだかまるでNHKの番組タイトルみたいじゃないか。非英語圏の映画のタイトルをそのまま英語に直訳しただけというものが最近目立つが、どうもいただけない。昔はもっと気が利いたタイトルが付いていたものだ。まあ、近頃は製作サイドが、勝手な邦題をつけずにそのままカタカナ読みにしてほしいといった注文をつけてくることも多いようだから、配給会社の怠慢だとは一概にはいえないのだが。それにしても、「アワー・ミュージック」はいくらなんでもないんじゃないか。
■2005年7月5日
レオノール・フィニ展は東京に引き続いて大阪でも行われるようです。
■2005年7月4日
▽『デスペラード』『フォー・ルームス』
拳銃なんて、正確に相手の胸か眉間を撃ち抜けばそれですむのだから、馬鹿みたいに何発も撃ち続けることはないのだ。アクションのスペクタクル化。この罪はやはりペキンパーにあるといわねばならない。
『フォー・ルームス』のタランティーノのエピソードで、「ヒッチコック劇場」の「リオから来た男」のエピソードをまねた賭がなされる場面がある。映画のなかでは名前は出ないが、「リオから来た男」はいうまでもなく、ロアルド・ダールのもっとも有名で人気の高い短編小説「南から来た男」のことである。「ヒッチコック劇場」には本当にそんな作品があるのだろうか。それともタランティーノお得意のお遊びなのか。気になって『ヒッチコック映画術』で調べてみたが、細部まで眼の行き届いた訳者山田宏一氏の手によるフィルモグラフィーでも、さすがに全350話を網羅するのはできなかったらしく、ヒッチコック自身が監督した18本の作品しか取り上げられていない。しかしその中に、ダールのこれもまた有名な "Lamb to the Slaughter" 「凶器」と、"Poison"「毒蛇」、"Dip in the Pool"「賭」、Mrs. Bixby and the Colonel's Coat"「女性専科第一課 中年夫婦のために」がはいっているところを見ると、「リオのから来た男」も嘘ではないのだろう。ブラック・ユーモアが好きなヒッチコックがダールを好きなのはわかるが、それにしても18本中4本がダール原作というのはすごい。映画のなかのセリフを信じるなら「リオから来た男」の主演はピーター・ローレだそうだ。見てみたいものである。
ロアルド・ダールについては前に何度かここで取り上げている。このサイトの訪問者の興味はさして引かなかったようだから、改めて紹介はしない。ちなみに、「南から来た男」は、『あなたに似た人』に収録されている。
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ジャン・ルーシュの DVD はやはり字幕なしだった。想定内のこととはいえ、少し残念ではある。1週間内なら不良品を交換してくれるらしいが、4枚全部見る気力は全くないので、とりあえずメニュー画面から動くかどうかだけ確認する。PALを変換した画質もまずまずだ。Amazon.fr の在庫はもうないみたいだが、去年か一昨年でたばかりの DVD なので、そのうち再入荷されるかもしれない。
■2005年7月3日
▽ピエール・ビヨン『南方飛行』
サンテグジュベリの小説の映画化。こういうのを見るとフランス人は本当にお話を語るのが下手だなと思う。いや、フランス映画だけではなく、ドイツ映画もイタリア映画も、物語を効率よく語ることにかけてはアメリカ映画に遠く及ばない。別にたいした映画ではないが、エンド・クレジットで脚本にロベール・ブレッソンが名を連ねているのには驚く(これだから油断はできない)。幻の処女作『公共の問題』を撮った2年後だ(この作品をわたしはたまたま見ている。処女作にはその作家のすべてが表れるというが、これは映画には当てはまらない、とそのとき思った)。ブレッソンがブレッソンになる前の仕事。
ピエール・ビヨンは日本ではほとんど知られていない。わたしもほとんど知らない。ガストン・ラヴェルの助監督としてキャリアをはじめると本には書いてあるが、ガストン・ラヴェル自体がフランス本国にもほとんどフィルムは残っていないという謎の監督だ。
■2005年7月1日
▽ルーシュの DVD が届く
ジャン・ルーシュの DVD がやっと届く。2週間たってもこないので、書店のほうに直接メールを書こうかと思っていた矢先だった。間一髪で届いてよかった。フランス語でメールを書くだけでもなんだか面倒なのに、メールとすれ違いに荷物が届いたとなると、さらに話が複雑になるところだった。
この前ここで疑うようなことを書いたので、頼まれもしていないが宣伝させてもらう。
Chapitre.com: http://www.chapitre.com/
いい本屋だ。ルーシュの代表作をほぼ網羅した4枚組 DVD が、送料込みで5950円で手に入った。もし日本で売り出されたとしたら、たぶん一万数千円にはなるだろう。なかなかいい買い物だった。もっともまだ封は切っていないので、中身が全然別のDVD だったというオチにならないとも限らない。仏語オンリーで字幕は付いていないようだ。結果は、またあとで。
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▽キング・ヴィダー『ルビイ』
ジェニファー・ジョーンズ、チャールトン・ヘストン主演。この映画は数年前に日本でビデオが発売されているはずなのだが、どこのレンタル・ショップにも置いていない。『快盗ルビイ』はあっても『ルビイ』はない。買おうとも思ったが、どこで売っているのかがよくわからなかった。それに自慢ではないが、わたしは未だかつて日本でセル・ビデオを買ったことがないのだ。もちろん、レンタル・ビデオはそれなりに利用している。しかし、買って手に入れたいと思ったことはほとんどない。ビデオという紛い物に対して、どこか「許せない」という気持ちがいまだにあるのかも知れない。
それはともかく、この作品はどうしても見たい映画だった。だってそうだろ。ゴダールが『Made in USA』で登場人物に意味もなく "Ruby Gentry" って叫ばせているのを見たら、見てみたいと思うのが人情というものだ。「ルビイ・ジェントリー」っていったいなんなんだ。どういう映画なんだ。「まだ見ぬ映画が最高の映画だ」。同じゴダールの『映画史』では、そんな言葉がつぶやかれる。これは百パーセント真実の言葉だ。タイトルだけは知っている、スチール写真だけは見たことがある幻の傑作。映画好きならだれでもそんな幻の映画を抱えているはずだ。見たい、けれど見たくない。どうしても見たいのだが、できれば見るのを先延ばしにしたい。そんな作品があるものだ。
わたしにとって『ルビイ』はそんな一本だった。初めてのレンタル・ショップに行くたびに、「ら」行のところでこの作品を探すのがほとんど習慣になって、何年にもなる。いいかげん探すのにも疲れたので、最近とうとう北米版の DVD を買ってしまった。いざ買ってしまうとなんとなく安心してしまうのか、そのまま見ずにしばらくほったらかしにしていた。ところが、この間、たまに行くレンタル・ショップに、『ルビイ』が置いてあるのを見つけてしまったのだ。小さな店だから、棚は隅から隅まで何度も見ている。最近入荷したものに違いない。もう遅いよ。DVD買っちゃたじゃないか。
人生ってこんなものだ。
北米版の DVD はたいてい千円程度で手にはいるし、『ルビイ』の DVD には幸い英語字幕も付いていた。なにより画質はこっちの方がいいに決まっている。だから別に損したわけではないのだが、わたしが DVD を買った直後にビデオが入荷されるという、このタイミングの良さというか悪さが恨めしいというか、悔しいというか。あんなに一生懸命探し回ったのはいったいなんだったのか、という気になる。
ま、そんなことはどうだっていいんだ。今日は疲れたので、この映画は傑作だということだけいっておく。詳しいことはまた明日にでも。
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