日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
今週の目玉はこれです。ジーバーベルクの伝説の作品がついに DVD で登場。このサイトをときどき見に来るような人には、説明する必要はないでしょう。ニュー・ジャーマン・シネマ史上、というか映画史上もっとも有名で、もっとも見られることの少ない作品の一本です。長いし(442分)、高いけれど、これは買うしかないでしょう。
(四方田犬彦の『映像の招喚―エッセ・シネマトグラフィック 』に詳しい分析がある。)
同時期に、ファイト・ハーランの Jud Suss: Holocaust Studies Series の DVD がアメリカで発売されました。ジーバベルクの『ヒトラー』同様、これも説明不要の作品でしょう。第三帝国のドイツで撮られたもっとも悪名高きプロパガンダ映画です。ゴダールの「映画史」にも何度か引用されていました。『ヒトラー』と同じ会社から出ているのかと思ったら別々のようです。偶然だったのでしょうか。 監督のファイト・ハーランは無理矢理撮らされたと自己弁護し、戦後の裁判でも軽い刑を受けたようです。しかしどうなんでしょうか。日本で公開された彼のわずか数本の作品なかには、 『支配者』(36) 『偉大なる王者』(40) といったタイトルが並んでいます。いかにもといったかんじでしょう。前に紹介したマルク・フェロの『映画と歴史』でも、この作品に短い一章が割かれ、たった4度だけ使われているオーヴァーラップの使われ方に、ナチのイデオロギーが隠しがたく露呈していると論じています。
少し前の FILM COMMENT 誌を読んでいたら、Shigehiko Hasumi による2006年度ベストテンが載っていた。
Broken Flowers
Carmen
Crickets
Flags of Our Fathers
Munich
Retribution
Still Life
The Sun
These encounters of Theirs
Three Times
pus one short: Abbas Kiarostami's segment of Tickets
まあ、そうなんだろうけど、まったくといっていいほど驚きがないラインナップだな。一つぐらい悪趣味な作品がまぎれこんでいてもいいと思うんだが。青山真治の『こおろぎ』についてのコメントで、ロラン・バルトの『表象の帝国』を援用しつつ、空虚をめぐる作品という意味で、これはソクーロフの『太陽』への返答なのだと書いているのが印象に残った。
☆ ☆ ☆
シャルナス・バルタス Trois Jours
なんにもない映画だ。ポエジー以外は。 河辺の一軒家をとらえたロングショットから映画ははじまる。おそらくリトアニアの田園風景なのだろうが、タルコフスキーの映画を彷彿とさせるこの美しいイメージには、ロシア映画の伝統が息づいているようにも思う(途中で出てくる廃墟のような教会は、『ノスタルジア』のサンガルガノ寺院を一瞬思い出させる)。映画はラストで再びこの風景へともどり、河面に雪が舞い、一軒家が雪に埋もれてゆくイメージで終わっている。ゴダールの「映画史」に引用されているシーンだ。
一軒家には、父親とその息子らしいふたりの若者が住んでいる。このふたりが列車で都会へと出かけ、そこで過ごす三日間を描いたのがこの映画である。都会といっても、実際はなにもない寂れたその田舎町で、ふたりはひとりの娘と出会う。彼女は金もなく、すさんだ生活を送っているらしい。女がホテルの女将にも目をつけられていたため、泊まることができなくなった3人は、屋根づたいにどこかの窓から住居に忍び込み、ただソファが置かれているだけの薄汚い地下室にたどり着く。そこはどうやらさっきのホテルの中らしいのだが、よくわからない。このあたりから、建物も街も迷路のような様相を呈しはじめる。いつしか時間も曖昧となり、いまが何日目かも定かではなくなってゆく。 女はときおりヒステリックに笑う以外は、無気力、無関心な様子である。ひょっとしたらドラッグ中毒なのだろうか。しかし、セリフは極端に少なく、ほとんどのショットは引きのショットで、アップは皆無。人間関係もなにもかも、すべては想像するしかない。 人物たちが建物や風景を横切ってゆくにつれ、はたしてこれが生活と呼べるのかといいたくなるほどの貧困が映しだされてゆくのだが、そこに映画の主眼はなく、秘教的といってもいい映像の背後に浮かび上がるのは、もっと抽象的で、とらえがたい生の困難とでもいったものである。
DVD には Trois Jours の前身ともいえる短編ドキュメンタリー、En mêmoire d'une journée passée が同時収録されている。ブリューゲルの絵画を思わせる広大な雪原のなかを、子供の手を引く母親らしき小さな人影が横切ってゆく美しいイメージではじまるこのモノクロ作品には、セリフも字幕もまったくない。 Trois Jours と比べても遜色のない、喚起力にとんだイメージが圧倒的だ。
シャルナス・バルタスは、ソクーロフやベーラ・タルなどの東欧の映画作家と比較されることが多いが、Trois Jours に描かれるディスコミュニケーションの有り様には、初期のジャームッシュを思い出させるところもある。これを見ると、「孤高の作家」という言葉をつい使いたくなる。しかし、黒沢やベティカーを思わせるタイトルをつけられた新作 Seven invisible men は西部劇だという噂もあり、この作家のイメージはまだまだ定まらない。
Trois Jours の DVD は Amazon.fr ではすでに品切れ状態のようだ(前に書いたように、Amazon.fr で扱っている DVD は出たとたんに手に入らなくなる)。中古品なら、まだ手に入るにようなので、ほしい人は急いだ方がいい。
ついでにフランスで出ている気になる DVD を少し紹介しておく。
ファスビンダー Rainer Werner Fassbinder : L'intégrale 18 DVD
モーリス・ピアラ Coffret Maurice Pialat, volume 2 (11 DVD + livret avec commentaires et photos)
サッシャ・ギトリ Sacha Guitry (Faisons un rêve ; Mon père avait raison ; Le roman d'un tricheur ; Quadrille ; Désiré ; Le mot de Cambronne, Remontons les Champs-Élysées ...)
『消去』において、トーマス・ベルンハルトは、猟師と庭師を、異なる世界に属する二つの存在として、何度も繰り返し対比して語り、猟師のほうをあからさまにナチズムと結びつけて考えている。さらには、『野獣たちのバラード』というかなり大胆な邦題をつけられたミハイル・ロムの『ありきたりなファシズム』で、狩りのイメージがどのようにファシズムと結びつけられていたかを思い出してみてもいい。しかし、いまわたしが書きたいのは、パスカル・フェランの『レディ・チャタレー』のことだ。
この映画で描かれる、上流社会の貴婦人と性的な関係をむすぶ森の猟番のことを考えていたのだ。どことなくマーロン・ブランドに似ている男優によって演じられたその森番は、ぶよぶよの肉体をみすぼらしい服で覆い隠し、いつも猟銃を片手に森を歩き回っている。しかし、かれがその銃を使うことは一度もない。それどころか、ふたりが互いに裸体を花で飾り立てるシーンに顕著なように、この映画のなかの猟番はむしろ庭師に近い存在として描かれているのだ。
D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』には、世に広く出回っている版以前に書かれた二つの稿があり、パスカル・フェランが映画化するにあたって参照したのは、『ジョン・トマスとジェーン夫人』(1972)の題で知られる第2稿であるという。わたしが『チャタレイ夫人』を読んだのはまだ物心つかないころだったし、この『ジョン・トマスとジェーン夫人』と題された稿も読んでいない。ロレンスがこの森番をどのように描いていたか正確には思い出せないのだが、わたしのイメージのなかではもっと獣のような野蛮な存在として記憶に残っている。原作に、ふたりが身体に花をのせあうシーンがあったかどうかも覚えていない。しかし、この場面にパスカル・フェラン版『チャタレイ夫人』の核心があることはたしかだと思う。
何となくそんなこともあるかなと予感はしていたのだが、映画『レディ・チャタレー』のダイアローグは、ファニー・ドゥルーズとジュリアン・ドゥルーズによるものだった。 わたしにとって、ロレンスは、ヘンリー・ミラーやメルヴィルほどのめり込んで読むことが決してなかった作家なのだが、唯一強く影響を受けた本があって、それが『アメリカ古典文学研究』という評論集だった(「むかしの鉄砲なんか朽ちさせておけばいいんだ。新しいのを手に入れろ、そしてまっすぐ射つんだ」、なんて言葉で終わる評論ふつうありますか?)。この本を読んだのは、ドゥルーズの対談集『ドゥルーズの思想』という本に影響されてのことだった。そして、どうやらパスカル・フェランも、やはりというべきか、ドゥルーズとパルネによるこの対談(といっていいんだろうか)によってロレンスを発見(あるいは、再発見)したらしいのだ。 死と不健康、権威と偽りの支配する館から、小鳥たちのさえずる森へと逃走の線を描くこと(ロレンスの詩集はまさに『鳥と獣と花』と題されている)。
『ABCの可能性』(95)の邦題で公開されたL'Âge des possibles(「可能性の時代」)以来、パスカル・フェランが一本も撮っていいなかったことに驚く。たしかアニェス・Bが選ぶフランス映画というくくりで上映された『ABCの可能性』を見て、才能を感じさせる監督だとは思ったが、同時に、小粒な監督だという印象も持ったことを思えている。その印象は、今作でもそう変わらなかった。しかし、英米文学と対比してフランス文学を語るロレンス=ドゥルーズの言葉を借りるのなら、「癒しがたいほどに知的、観念的かつ理想主義的」な匂いのしなくもなかった『ABCの可能性』から約10年の月日がたつあいだに、成熟したとはいわないまでも、作品に静かな落ち着きが増したような気がする。傑作というにはなにか足りないようにも思うが、これからも注目すべき作家であることはたしかだろう。
『レディ・チャタレー』を見ながら、映画における庭師のイメージを思い出していた。しかし、猟師のイメージならいくらでも浮かんでくるのだが、庭師のイメージはいっこうに浮かんでこない。ダグラス・サークの『天の許し給うものすべて』(そのリメイクの『エデンより彼方に』)、『ゴダールのマリア』(たしか庭師が出てきたと思う)、それぐらいだろうか。これはなにかを意味するのか、それともただの偶然なのか。 まあいい、どうでもいい話だ。
東京ではいまムンク展が行われている。
ムンクといえば、『ムンク・愛のレクイエム』で知られるピーター・ワトキンスがパリ・コミューンを描いた映画 La Commune が先頃フランスで公開され、話題を呼んでいた(と、強引に話を持っていく。こういう機会でもないとなかなか紹介しにくい監督なのだ)。
ピーター・ワトキンスは、1935年生まれの(ということは、ゴダールやドゥルーズとほぼ同世代だ)イギリスの映画作家。海外では非常に評価が高いが、日本ではおそらく批評家のあいだでさえ名前をほとんど知られていない(と思うが、これはバカにしすぎていますか)。
原爆の脅威を描いた War Game、カリスマに祭り上げられてゆくロック歌手を描いた『傷だらけのアイドル』(Privilege, 67)、国家による暴力を告発する反軍国主義的映画 Punishment Park などのセンセーショナルな作品で、反体制的な映画作家として名をはせる。しばしば伝記映画の模範とも評される『ムンク・愛のレクイエム』は、有名な画家の生涯を描いていることもあって、ワトキンスとしてはもっとも有名な作品であり、日本で公開された数少ないワトキンス作品の一つであるが、それほど評判を呼んだようには思えない(この作品はビデオ化さえされていないはずである)。(東京ではムンク展に会わせて上映される模様。ムンク展自体は関西には来ないようだが、『ムンク・愛のレクイエム』は来年の1月に神戸で特別上映されるらしい。これは展覧会とは関係なく、たんなる偶然のようだ。実は、この作品は見逃しているので、見に行こうと思っている)
La Commune は、パリコミューンを描いたワトキンスお得意のフェイク・ドキュメンタリー映画だ。普仏戦争の敗北につづいて、政府に反発した労働者階級を中心にした革命政府が樹立され、世界初のプロレタリア政権パリ・コミューンが成立するにいたる経過を簡単に紹介する字幕につづいて、地下の巨大な倉庫のような場所で、撮影スタッフを前にした男女ふたりのテレビレポーターがキャメラにむかって話し始めるところから映画ははじまる。作品全体は、このふたりのレポーターがコミューンの出来事を逐一レポートしていくという体裁で撮られている。むろん、この時代にキャメラも映画も存在したわけがないから、これはだれが見てもわかるように作られた偽のドキュメンタリーである。
「わたしが演じるのはテレビレポーターで、この映画はパリ・コミューンを描くと同時に、過去と現在におけるマスメディアの問題も描いています」と、当時の衣装を身にまとった男性レポーターが、この映画のテーマを簡潔に紹介する。同じく当時の衣装を着た女性レポーターが、自分はコミューンTV(むろん架空のテレビ局)のレポーターですと自己紹介し終わると、キャメラは彼らをあとに残して、すでに撮影が終わってだれも人のいないパリ11区を再現した街路のセットのなかをゆっくりと前身移動しはじめる。キャメラがつぎつぎと映しだしてゆく場所や小道具が映画のなかでどのような役割を演じたかを、レポーターによる画面外からのナレーションが一つひとつ説明してゆく。
こうして、映画は撮影の舞台裏を見せるという仕掛けの露呈にはじまり、ついで、コミューンの盛衰が、段階を追って詳細に語られてゆくのだが、そこでもワトキンスは、ブレヒト風の異化効果で、観客と映像とのあいだに距離を導入することを忘れていない。革命政府に同調する民衆、彼らにおびえ、また憤慨するブルジョアたち、政府軍の兵士たちなどに、TVレポーターがつぎつぎとマイクを向け、その声を拾ってゆく。こうして映画は疑似シネマ・ヴェリテ風に進んでゆくのだが、そこにときおり、反動政府側のテレビ中継が入り、革命政府を揶揄するアナウンサーが、皮肉な口調で出来事を伝える。装われたドキュメンタリー映像の合間合間に、文献をもとにした「客観的」事実が字幕によって挿入される。
こうした手法は、この時代の前衛映画にはそう珍しいものではないだろう(全然違うが、たとえば『煉獄エロイカ』など)。時代劇に、現代のテレビレポーターが登場するというのは、いま見るといかにも古めかしく、滑稽にすら見えるかもしれない。たしかに、安易さを感じさせもする手法なのだが、見ているうちにそんなことは忘れてしまう。この社会的混乱のなかで、そこに渦巻いている様々な声をつぶさに拾い上げるという点において、ワトキンスの撮影スタイルはたしかに成功を収めている。歴史書を読むだけでは、あるいは、ふつうの歴史映画を見ているだけでは聞こえてこなかったに違いない、無数の声がここでは聞こえてくるのである(「オスマンの都市改造は俺たち平民には関係がない」などというつぶやき。あるいは、コミューンに参加していたポーランド人などの諸外国人、そして圧倒的な数の女たちの語る声、あるいは叫び)。
おそらく、映画としての評価はたぶん賛否両論あるだろうが、パリ・コミューンを描いたドキュメントとしては、たぶんこれ以上のものはないのではないだろうか。
ネットで調べていて、アレックス・コックスがピーター・ワトキンスについて書いた文章を見つけて、なるほどと思った。たしかに、『ウォーカー』は、いま思えば、実に、ピーター・ワトキンス的な映画だったといえる。コックス以外にもワトキンスの影響を受けている映画作家は多いと思われる(たとえば、『アメリカを斬る』のハスケル・ウェクスラーなど)。もう少し評価されていい監督だと思うのだが、日本ではほとんど見る機会がないのだから、たぶん仕方がないのだろう。日本のシネフィルの9割はノンポリだから(言い過ぎですか?)、ワトキンスのような監督はとくに目にとまらない存在なのだろうか。ヨーロッパでは作品が DVD 化されているが、それも手にいれにくかった。
そこで朗報である。ワトキンスの5作品("PUNISHMENT PARK", "DVARD MUNCH", "THE GLADIATORS", "THE WAR GAME", "CULLODEN")を収めた DVD-BOX The Cinema of Peter Watkins 5-DISC BOX SETが先頃アメリカで発売されたのだ。この中には La Commune がはいっていないが、こちらはすでに去年 DVD が発売されている。
PS. 今年のチョンジュ映画祭で、ピーター・ワトキンスの回顧上映が行われたそうである。なかなかやるね。そういえば東京映画祭、やってたんだっけ。海外の映画祭より気にならない国内映画祭だね。
猫の偏食に悩まされる日々。安もんのエサ食べないねぇ、この猫。
☆ ☆ ☆
ローレルとハーディをまとめて二、三十本見る。こうやってまとめて見ると、同じギャグを結構使い回しているのがわかる。サラダにドレッシングをかけないことを "undressed" というのだが、給仕役のローレルが、「サラダを undressed で」といわれて、下着姿で給仕をしてしまい、パーティを台無しにするというギャグを、少なくとも二回は見た("undressed" がふつう「服を着ないで」を意味することに引っかけたギャグ)。
前から思っていたが、こうして見てみると、ローレルが女装する作品の多いこと、多いこと。そういえば、ローレルが女装したハーディと、ハーディが女装したローレルと結婚し、二組のカップルを演じるという映画もたしかあった(不気味だね)。ジャン=ルイ・シェフェールがこれを見て、「ローレルとハーディがホモでなかったことにほっとした」とどこかで書いていたような気がするが、忘れてしまった。しかし、このふたり、平気で同じベットに寝ていたりするから、見ようによっては危ないコンビである。
ところで、ローレル&ハーディがオックスフォードの学生になって一騒動を起こす A Chump at Oxford (40) という作品に、ピーター・カッシングが出ているので驚いた(昔の映画を見ていると、こういうことはよくある。ダグラス・サークの『僕の彼女はどこ?』にはジェームス・ディーンが、アルトマンの『ロング・グッドバイ』にはシュワルツネガーが出ている、などなど)。
ローレルの泣き顔とハーディのカメラ目線にもそろそろ飽きたので、気分を変えて、ウィリアム・ウェルマンの『中共脱出』を見る。 反共映画で、しかも主演がジョン・ウェインということで、最悪の事態を予想したが、さすがにウェルマンである、下品な作品にはなっていない。冷戦時代の Red China を舞台にした映画だが、戦争映画でも、スパイ映画でもなく、むしろ『アフリカの女王』に近いテイストの作品になっている。『キートンの蒸気船』や『周遊する蒸気船』の系譜に連なる蒸気船映画。霧で画面が真っ白になる場面は『戦場』を、舵を握る船長ジョン・ウェインにふたりの暴漢が襲いかかるところをガラス窓の外から無音で捉え続ける場面は、『民衆の敵』の一場面を思い出させる(雨で視界がかすんでいるところも共通している)。しかし、ウェルマンとしてはやはり最良の作品とは言い難い。
マーティン・スコセッシ A Personal Journey With Martin Scorsese Through American Movies を DVD で見る。断片的に引用されたイメージというのはどうしてこうもひとを引きつけるのだろう。ヴィンセント・ミネリの『明日になれば他人』の抜粋を見て、メチャクチャ見たくなった。名前ぐらいは知っていたが、『悪人と美女』につづいて映画界を描いた作品だということは、スコセッシのこの映画を見るまで知らなかった。見たい。が、日本はもちろん海外でも DVD にはなっていないようだ。だれか、ミュージカル以外のミネリを!
ラズロ・コヴァックスがいつの間にか亡くなっていたことを知る。ちょうど、ベルイマンとアントニオーニが死んだ時期と重なっていたので、このふたりの陰に隠れてしまっていたようだ。ヴィルモス・ジグモンドと同じハンガリー出身のキャメラマンであり、亡命者としては珍しくないのかもしれないが、Leslie Kovacks / Laszlo Kovacs / Lazlo Kovacs / Leslie Kovacs / Lester Kovacs / Laszlo Kovaks / Art Radford などいくつもの名前を持つ。ゴダールの『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドが、ラズロ・コヴァックスという偽名をもつのはたんなる偶然なのであろうが、シャブロルの『二重の鍵』のベルモンドの役名がやはりラズロ・コヴァックスであり、また、『気狂いピエロ』に登場する政治亡命者がラズロ・コヴァックスと名乗るのを見ると、ラズロ・コヴァックスという名前の増殖ぶりに驚かされる。
映画『アイ・アム・レジェンド』の原作は、わたしが大好きな小説の一つで、前にもこのブログで通りすがりにふれたことがあった。そのときは、ウィル・スミス主演のリメイクがつくられていることはまだ知らなかったと思う。そのリメイク作品がそろそろ公開される。たしかこれで3度目のリメイクである。 最初の映画化作品は見ていないのでわからないが、チャールストン・ヘストンが主演した二度目のリメイクは、ロビンソン・クルーソーを思わせる原作の内省的な部分をまったく削って、アクション映画に仕立て上げた、失敗作だった。それでも、わたしはこの映画の冒頭の部分だけは好きだった。
真っ赤なスポーツカーに乗って、ロサンゼルスの街を走るチャールストン・ヘストン。しかし、真っ昼間にもかかわらず、都会のビル街にはまったく人気がない。ビルの窓になにかが動く気配を感じると、ヘストンはライフルを取り出し、ためらうことなくぶっ放す。カーラジオから大音響で響き渡るオペラの調べ。 ウィル・スミス版の予告編には、この場面も映っていた。しかし、CGでつくった廃墟の街をスポーツカー(やっぱり赤だったと思う)で走るウィル・スミスを、わざとらしい空撮で撮った場面を見ると、どうもあまり期待できそうにない。ヘストン版よりもさらに大がかりなアクション映画になってしまっているようだ。ともあれ、このリメイクがきっかけで、長らく絶版になっていたリチャード・マシスンの原作が、『アイ・アム・レジェンド』として、新訳で復活したことは喜びたい。
☆ ☆ ☆
最近読みはじめた本。相変わらず、いろんなものを平行して読んでいる。
■トーマス・ベルンハルト『消去』
「ベケットの再来、20世紀のショーペンハウアー、文学界のグレン・グールド」などと、様々な言葉で絶賛され、蓮實重彦もも一目置くオーストリアの作家。ずいぶん前に買ってあったのだが、あまりにも世評が高いので、びびってしまってなかなか読み出せなかった。 第一部「電報」を50ページほど読み進む。両親と兄の死を知らせる電報を主人公が平静に受け止めるところからはじまる冒頭の部分は、カミュの『異邦人』をつい思い出させる。改行なしで延々と続く怒濤の間接話法を通して、異国ローマから故郷の家族へと寄せる主人公の思いがつづられてゆく。俗物の両親と、小姑のような妹たちへの呪詛。地中海的な知性とでもいったものを感じさせる自由奔放な叔父の思い出。ドイツ的なものとイタリア的なものの対比、などなど。
■James Baldwin, The Devil Finds Work
ボールドウィンについては今さら説明する必要はないだろう。アメリカを代表する黒人作家のひとりである。本書は、かれが映画について書いたエッセイである。
ジョーン・クロフォードのすらりとして、ほっそりとした、孤独な後ろ姿が見える。彼女は走る列車の通路を、つぎつぎに足早に通りぬけていく。だれかを探しているのか、あるいはだれかから逃げようとしているのか──。と、ひとりの男が現れて彼女の行く手をはばむ。それは、たしか、クラーク・ゲーブルだったと思う。 わたしは、スクリーンに映しだされる動き、そしてスクリーンそのものの動き、大海のおし寄せる波のうねりにも似た動きに魅了される(とはいうものの、わたしはじつはまだ海を知らなかったのだが──)。しかし、その動きは、水面に、そしてとくに水底に、ゆらぐ光りにも似ていた。 わたしは七歳ぐらいだった。母か、あるいは叔母さんと一緒だった。映画は『暗黒街に踊る』であった。
ジョーン・クロフォードが白人であることを、ボールドウィン少年は、子供ながらにうっすらと理解している。少年は、あるとき、お使いにやられたお店で、ジョーン・クロフォードそっくりの黒人美女に出会い、見とれてしまう・・・
美しい書き出しだ。
『春なき二萬年』のベティ・デイヴィス、『暗黒街の弾痕』のヘンリー・フォンダといったスターたちが、『夜の大捜査線』『招かるざる客』の黒人俳優シドニー・ポワチエが、そしてグリフィスの『國民の創生』が、黒人という視点から語られてゆく。
ジョナサン・ローゼンバウムの本に出てきたので、原書を取り寄せたのだが、じつは、山田宏一の訳で『悪魔が映画をつくった』というタイトルで翻訳が出ていたことをあとになって知る(上の引用は、山田氏訳)。もっとも、翻訳のほうは前世紀に絶版になったままで、今後再版される見込みもほとんどない。 図書館で借りたのだが、山田氏の翻訳本は、写真もふんだんに使ってあり、なによりも脚注がすごく、原書よりもこっちの方がよほどいいんじゃないかと思わせる。さすがである。
「ボーン・アイデンティティ」シリーズは、最近では珍しく、知性を感じさせるアクション映画だったが、とうとう終わってしまった。しかし、ひたすら走っているだけの映画だったね。壮大な鬼ごっこを見ているようだった。
さて、アメリカでは、2007年になってから、FOX 時代のジョン・フォードがすごい勢いで DVD化されている。
■Pilgrimage / Born Reckless (The Ford at Fox Collection Double Feature) (1933)
■Prisoner of Shark Island (The Ford at Fox Collection) (1936)
『虎鮫島脱獄』! 前からメチャクチャ見たかった一本だ。やっと見れる(「見れる」と書くたびに ATOK が「ら抜き言葉」ですと警告してくるのがうっとおしい)。
■John Ford's American Comedies
(Steamboat Around the Bend / Judge Priest / Doctor Bull / When Willie Comes Marching Home / Up the River / What Price Glory) (1926) トーキー初期のコメディ作品を集めた BOX。
(Just Pals / Four Sons / The Iron Horse / Hangman's House / Bad Men) (1928) サイレント時代のジョン・フォード作品を集めた BOX。
■Ford At Fox - The Collection (1933)
なかでもいちばんすごいのがこの BOX で、上記の作品すべてと、その他数本の作品が収められている。これでたったの 200ドル──といったら、2万5千円しないでしょ。信じがたい値段(ただし、これは 30%オフの値段。本当の値段は 300 ドルです)。
Disc 1: WHAT PRICE GLORY Disc 2: MY DARLING CLEMENTINE Disc 3: HOW GREEN WAS MY VALLEY Disc 4: TOBACCO ROAD Disc 5: GRAPES OF WRATH Disc 6: DRUMS ALONG THE MOHAWK Disc 7: WEE WILLIE WINKIE Disc 8: YOUNG MR. LINCOLN Disc 9: PRISONER ON SHARK ISLAND Disc 10: STEAMBOAT AROUND THE BEND Disc 11: WORLD MOVES ON Disc 12: PILGRIMAGE/BORN RECKLESS Disc 13: DOCTOR BULL/JUDGE PRIEST Disc 14: FOUR MEN AND A PRAYER/SEAS BENEATH Disc 15: WHEN WILLIE COMES HOME/UP THE RIVER Disc 16: FOUR SONS Disc 17: THREE BAD MEN/HANGMAN'S HOUSE Disc 18: JUST PALS Disc 19: BECOMING JOHN FORD DOCUMENTARY Disc 20: THE IRON HORSE SPECIAL EDITION UK VERSION DISC 1 Disc 21: THE IRON HORSE US VERSION: DISC 2
映画監督谷口千吉が、先月29日に肺炎のため亡くなった。『ハイ・シェラ』や『死の谷』を思わせる作品構造を持ち、三船敏郎を世に売り出すことになった『銀嶺の果て』など、いくつかの佳作を撮りながら、同期の黒澤明の陰に隠れて目立つことはなかったひとである。
ところで、谷口千吉が66年に東宝で撮った『国際秘密警察 鍵の鍵』というアクション活劇がある。この映画は、アメリカでは、What's Up, Tiger Lily というタイトルで知られている。正確に言うと、二つは同じ作品ではない。What's Up, Tiger Lilyは、ウディ・アレンが『国際秘密警察 鍵の鍵』にでたらめな英語の吹き替えをつけて、まったく別の作品にしてしまった作品なのだ。 谷口のオリジナルは、実は見ていない。キネ旬のデータベースで調べてみたが、あらすじが詳しすぎて、何度読んでも話がわからなかった。要は、一千万ドルのはいった金庫をめぐって、とある王国の反政府組織、国際ギャング団、国際秘密警察がいりみだれるという、でたらめな話のようだ。ウディ・アレンは、これに俳優がしゃべってるのとはまったく別の英語の吹き替えをつけて、全然別の映画にしてしまったのである。もっとも、谷口のオリジナル自体が、いかにもでたらめな無国籍映画のようなので、セリフが英語になってもたいした違和感はない。むしろ、英語をしゃべっていないほうが不思議なぐらいだ。事実、フランスの映画ガイドには、この映画を香港映画と誤解しているものもあった。
オリジナルでだれもが血眼になって探していた金庫の一千万ドルが、What's Up, Tiger Lilyでは、「世界最高のエッグサラダのレシピー」という陳腐な内容にすり替えられ、役名も三橋達也がフィル・モスコヴィッツ、浜美枝はテリヤキと、実にふざけたものに変えられている。娼婦が出てくる場面で、悪役に「お母さん」といわせたり、「ここはキャグニー風に」「いや、クロード・レインズでお願い」みたいなシネフィルなやりとりをさせたりと、吹き替えはやりたい放題だ。わたしが見たフランス語字幕版では、字幕が結構悪のりしていて、英語のセリフとは若干ずれたものになっていたので、ますます訳のわからないことになっていた。
ウディ・アレンにとって、これは監督第一作にあたる作品であるが(もっとも、内容が内容だけに、これを監督作として認めていない批評家もいる)、このころには、すでに、シナリオライターやギャグマンとして認められ、かなり有名だったようだ。事実、この映画の音楽を書いているのは、あのラヴィン・スプーンフルなのだ(ラヴィン・スプーンフルは曲をつけているだけでなく、ゲスト出演もしている。天本英世がバーテンをしながらコブラを飼っているクラブで、ラヴィン・スプーンフルが生ライブを行っているのだ。これはもちろん、オリジナルにはなく、ウディ・アレンが勝手に付け足した場面である。ちなみに、天本英世はこのコブラを溺愛していて、そのために最後は命を落としてしまうのだ)。 オリジナルを見ていないのでなんともいえないが、おそらく編集はほとんどいじっていないのだろう。ところどころシーンが飛んでるような気がしたが、元々そうだったのかもわからない。あくまでセリフの吹き替えだけで、別の作品に仕立て上げた作品と見ていいだろう。ウディ・アレンは脚本家に徹して、監督は別の人に任せたほうがいいんじゃないかと、松浦寿輝はどこかで書いていた。この映画では、良くも悪くも、「脚本家」としてのウディ・アレンの才能が際だっている。もっとも、わたしは次々と繰り出されるギャグにはほとんど笑えなかった。しかし、このお寒いギャグそのものを楽しむというのが、この映画の正しい見方なのかもしれない。
既存の映画のイメージに全然別のサウンドをつけて、作品を成立させてしまうというのは、映画史上まれに見る試みといっていいだろう。これは、『ヴェネチア時代の彼女の名前』で、マルグリッド・デュラスが既存の映画のサウンドにまったく別のイメージをつけたのと逆の試みであるともいえる。ギャグは寒いが、イメージとサウンドのズレから生まれる不思議な魅力がここにはなくもない。たしかに、もしもこの映画が存在しなかったとしても、映画史は微動だにしないだろう。その程度の映画である。しかし、こういう作品も存在するから、映画は面白いのだ。
日本人映画監督とウディ・アレンというビッグ・ネームの組み合わせにもかかわらず、この映画は日本では未公開である。そこには権利の問題がからんでいるのか、それとも、あまりにも国辱的で我慢がならないと考えたのか、理由はわからない。いずれにせよ、日本で公開するとなると、もともと日本映画だったものに、英語の吹き替えをつけたものに、さらに日本語の字幕をつけて見るという、非常に奇妙な状況が生まれることになるだろう。考えてみるだけでわくわくする。
Samuel Beckett, Film
ベケットによる(おそらく唯一の?)映画作品。なにかに追われるようにして足早にアパルトマンの一室に逃げ込む男。演じているのは晩年のバスター・キートンである。『ゴドーを待ちながら』を、最初、キートンとチャップリンでやりたいと考えていたベケットにとって、関係浅からぬ人物だ(もっとも、この話は真実ではないらしい。この映画も、実は、最初はキートンを予定していなかった)。キャメラは逃げるキートンを背中から追いかけてゆくのだが、正面に回り込んで顔をとらえようとするたびに、キートンは手で顔をおい隠す。だれもいないアパルトマンのなかにはいったあとも、終始なにかを恐れるかのように、落ち着かない様子で部屋を歩きまわるキートン。どうやら、かれが恐れているのは他者の視線のようだ。キャメラの視線だけでなく、鏡に映った自分の影(それをキャメラが捉えるることはないのだが)、ペットの犬と猫やインコの視線にさえ耐えられず、キートンは鏡にコートをかぶせ、犬と猫をアパルトマンの外に追い出し、インコのかごに覆いを掛ける(犬と猫は、何度外に追い出しても、ドアを閉める直前に、かわりばんこに部屋のなかに戻ってきてしまう。喜劇役者キートンを思い出させる唯一の瞬間だ)。しまいには、水槽の金魚、壁にかけられた肖像画の視線さえも取り除こうとするキートン。
この映画は、哲学者バークリーの有名なテーゼ、 "Esse est percipi" (「存在することは知覚されることである」)をベースにしているとベケットはいう(映画は、カッと見開かれた眼のアップではじまり、そして終わる。『血を吸うカメラ』と比較したくなるはじまり方だ)。ドゥルーズの『シネマ』でも、この作品は、知覚と運動をめぐる一節で、異例の長さの分析を与えられている。まあ、哲学に興味がないひとにはどうでもいい話だろうが、おそらくベケットの意図などまったくわかっていないし、興味も持っていないだろうキートンの、「疲労」という言葉を絵に描いたような身体の演技を見るだけでも価値がある作品であるといっていいだろう。ポーカーフェイスを売り物にしていたキートンから、その顔を奪ってしまったという点でも、注目すべき作品である。
バークリーの哲学は一見難しそうだが、こういう世界観は最近のアニメ作品にもしばしば見られるものである。興味がある人は、一般にもわかりやすい入門書として『ソフィーの世界』などを読んでみるとよい。また、ボルヘスの短編「疲れた男のユートピア」(『砂の本』)には次のような一節がある。
「私の過去では」と私は答えた。「毎日夕方から朝にかけて事件が起こり、それを知らないのは恥である、という迷信がはびこっていました。[・・・] 印刷された文字や映像のほうが、事物よりも現実的だった。公のものだけが真実だった。Esse est percipi. (存在することは模写されることである。)」
フランスで去年 DVD が出たのだが、Amazon ではもう入手不可になっている。わたしの経験では、Amazon.fr は日本やアメリカの Amazon と比べて、在庫がなくなるスピードが圧倒的に早い。あまり売れない商品は、一年ほどで在庫がなくなり、新しく入荷されることもない。めぼしいものがあったら、見つけたときに買っておくのが吉である。わたしはそれで何度涙をのんだことか。
来週、NHK BS でカール・ドライヤーの映画が3本放送されます。なあに、いつもの代わり映えのしないラインナップですよ。『怒りの日』『奇跡』『ガートルード』の3作です。暇だったら見てください。2時間を超えるものがあるので、録画モードには注意しましょう。ちなみに、アメリカで出ている『牧師の未亡人』の DVD には、あの超有名な短編『かれらはフェリーに間に合った』が同時収録されています。フェリーに間に合ったと思ったら、そこで待っていたのは死に神だったという怖い作品です。しかし、なにが怖いっていったら、これが PR 映画として作られたということですね。『牧師の未亡人』も、ドライヤーとしては珍しいコミカルな作品で、楽しめます。
最近、わけあって、女が書いた文章を集中的に読んでいる。女性作家の書いたものというのではなくて、語り手が女性という設定の文章、できれば手紙(あるいは手紙体の小説)をまとめて読んでいるのである。女のエクリチュールというやつだ。 翻訳だとわからないので、最初から日本語で書かれたものを探している。思ったほど簡単に見つからなくて、リストアップするのがなかなか難しい。 高橋源一郎ご推薦の「女生徒」など、女の独白体で書かれた作品をいくつも書いている太宰治などを、とりあえずまとめて読み返している。
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中平卓馬による伝説の映像論集『なぜ、植物図鑑か』が文庫本として再版された。 『決闘写真論』の数年前、73年に晶文社から出版された伝説の写真論だが、
「カメラはペシミズムを背負って 1967.6 ミケランジェロ・アントニオーニ監督『欲望』」、「ドキュメンタリー映画の今日的課題 1970.1 土本典昭監督『パルチザン前史』、小川紳介監督『圧殺の森』」、「カメラは現実を盗みとれるか 1970.4 ミケランジェロ・アントニオーニ監督『砂丘』」、「作品は現実の一部である 1970.8 ジャン=リュック・ゴダール監督『東風』その一」、「作品の背後になんかゴダールはいるはずもない 1970.9 ジャン=リュック・ゴダール監督『東風』その二」、「不可避的な身ぶりとしての映画 1970.10 A・ヴァルダ監督『幸福』、G・ローシャ監督『黒い神と白い悪魔』」、「映像の党派性の確立は可能か 1970.11 ジャン=リュック・ゴダール監督、『イタリアにおける闘争』」、「あらんとするものをあらしめる 1970.11 吉田喜重、ゴダール、川藤展久射殺事件TV中継」、「血ではなく、赤い絵の具です 1970.12 ジャン=リュック・ゴダール監督、『ウィークエンド』『中国女』」、「フェリーニのローマ 1972.9 フェデリコ・フェリーニ監督『フェリーニのローマ』」
などの映画論や、演劇テレビなど、言葉の広い意味で、映像一般を論じた文章が収められている。 『決闘写真論』をはじめて読んだとき、ブレヒトやアルトー、ジャン・リカルドゥーといった固有名詞が次々と出てきて驚いたことを覚えている。ただの写真家だと思っていたので、非常に密度の高い文章にびっくりしてしまったのだ。『なぜ、植物図鑑か』は、映画ファンが読んでも非常に興味深い本なので、一読をおすすめする。
『ペパーミント・キャンディ』のイ・チャンドン監督の新作 Secret Sunshine がフランスで公開される模様。 イ・チャンドンが映画を撮るのは、2000年の『ペパーミント・キャンディ』から数えて、これが2本目である。7年で2本というのはかなりの寡作といっていいだろう。今度も、女性の苦悩を描く重苦しい作品になっているようだ。韓流ブームなどどこ吹く風といったところだろうか。
それにしても、海外の記事を読んでいていちばん困るのは、アジア系の名前の読み方だ。最初見たとき、"Lee Chang-dong" が『ペパーミント・キャンディ』の監督だとは、すぐわからなかった。アジア人の場合、発音も、日本で親しんでいるのとはまったくちがうことが多い。「アウン・サン・スー・チー」が、フランス語では「アン・サン・スー・キー」に近い音で発音される。知らないと、一回で聞き取るのは難しいだろう(毛沢東って英語でどういうか知ってますか?)。もっとも、発音が変わるのはヨーロッパ人の場合も同じである。ヴァン・ゴッホが「ヴァン・ゴーグ」とか、モーツァルトが「モザール」とか、日本とはまったくちがう発音になるから、ヨーロッパ人の名前も注意が必要だ。しかし、それでも綴りは、"van Gogh", "Mozart" というように、英語の表記とほぼ同じであることがほとんどであり、発音がわからなくても見ればだいたいわかる。
やっぱり、問題はアジア、とくに韓国の映画監督の名前だ。欧米中心主義といわれても仕方がないが、欧米系の名前のほうが圧倒的に見慣れているので、字面を見ればある程度勘で読み方はわかるものだ。たとえ知らなかったとしても、"Kiarostami" を「キアロスタミ」と読み、"Skolimovsky" を「スコリモフスキー」と読むぐらいは何とかなる。しかし、"Park Chan-Wook" と「パク・チャヌク」が同一人物だと頭にわからせるのは、そう簡単ではない。まあ、これ一つを覚えるだけならたいしたことないのだろうが、「パク」だの「ペ」だのといった似たような名前が山ほどあると、すぐにどれがどれだかわからなくなる。 しかも、中国や台湾の映画などの場合、欧米の映画と比べて、日本での公開タイトルと国際マーケット向けの英語タイトルが全然別物になっている確率が断然高いのだ。CHUNHYANGが『春香伝』、HAPPY TOGETHERが『ブエノスアイレス』の英語タイトルであることが一目でわかるひとは、かなりの映画通だといっていい(英語タイトルも、複数ある場合があるので、事態はさらに複雑だ)。
まあ、こんなことは、海外の映画記事を読まないひとにはあまり関係のないことだろう。しかし、ごくたまに外人と映画について話す、というか、話さざるを得なくなることがあるものとしては、有名な映画の英語タイトルぐらいはすらすら出てくるようにしておかなくてはまずいし、場合によっては、フランス語タイトルのほうも覚えておかないといけない。『雨月物語』や『近松物語』なら、"Ugetsu" や "Chikamatsu" で通じる可能性は大いにあるが、『西鶴一代女』が "Saikaku" で通じるのは、相手がよほどの映画通の場合だけだろう(そもそも、近松も西鶴も映画のなかに登場しねぇだろうが)。自分の国の映画作家の作品もちゃんと英語でいえないようでは話にならない。そんなことを考えて、日本映画・アジア映画の監督のフランス語で書かれた略歴や、作品名の英語タイトル・フランス語タイトル・日本語タイトルの一覧表などをむかし作ったことがあるのだが、いまだに全然覚えられていないから、困ったものだ。話をわかりやすくするために、邦題をつけるときはできるだけ英語タイトルと同じものにしてほしいものだと思ったりもする。その点、『ペパーミント・キャンディ』は、英語タイトルがそのまま邦題になっているのでありがたい。こうであってほしいねぇ。
亀田が負けて少し喜んでいるわたしは平凡な人間だ。でも、エリカ様はかわいいのでまあいいんじゃないかと思っているわたしは、やっぱりつくづく平凡な人間だ。
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さて、本題。 今日は、『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』『四時の悪魔』を簡単に紹介する。
■ジャック・アーノルド『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』Tarantura!
ゴードン・ダグラスの『放射能X』(54) 、エドワード・ルドウィグの『黒い蠍』(57) などと同じ巨大生物SFもの。『放射能X』のあとで見ると、正直いって、二番煎じの感はぬぐえない(冒頭のシーンなど『放射能X』とそっくりなので、ディスクを間違っていれてしまったのかと思ったほどだ)。ジャック・アーノルドにはもう少しスモールな映画のほうが向いているのではないだろうか。ただし、特撮に関しては、やはりこの時代のハリウッドのレベルの高さを感じさせる。ヘリコプターの隊長にクリント・イーストウッドがちょい役で出ているのが見物。イーストウッドはこの頃からヘリコプターのひとだったわけか。
■マーヴィン・ルロイ『四時の悪魔』The Devil at 4 O'Clock
ホラー映画と思ってみたらちがった。というのは嘘だが、タイトルからは全然想像できない映画である。一言でいうなら、南の島を舞台にしたヒューマニスティックな火山噴火パニック映画、いわばハリウッド版『ストロンボリ』とでもいったところになるだろうか。 タヒチに近い南太平洋の島タルーア Talua (この島、実在するんですかね)に、護送中の3人(ひとりはフランク・シナトラ)の囚人を乗せた飛行機が一時着陸するところから物語ははじまる。この島の火山はいまは休止しているが、いつ噴火がはじまるかわからない。島の神父(スペンサー・トレイシー)は、ライ病にかかった子供たちのために、火山の近くにひとりで病院を建て、そこで子供たちの世話をしている。しかし、無知な島民たちにとって、罹病した子供たちは、さわれば感染する恐ろしい存在であるだけでなく、観光の妨げになるじゃまな存在でしかない。島民から理解を得られず、神父は信仰を失いかけ、いまは酒におぼれる日々を送っていた。神父は、3人の囚人を病院に連れてきて仕事をさせるが、かれらはすぐに脱走してしまう。そんなとき、突然火山が噴火する・・・。
ろくでもないと思われていた囚人たちが、最後には自己を犠牲にしてまで、病院の子供たちを島から脱出させることに成功し、最後は神への信仰さえ芽生えるというストーリーは、物語からなにかの意味を引き出さないでは気がすまない観客から失笑を誘うものかもしれないが、火山が噴火して崩れ落ちる街の描写など、ドキュメンタリーかと思わせるほど迫力があり、パニック映画としては十分見応えがある(地面に枕木のように敷かれた板がパタパタパタと跳ね上がるところなど、『トレマーズ』を先取りしたようなこともやっていた)。マーヴィン・ルロイという名前は、正直言って、あまり魅力的なものではなかったが、そういう固有名詞にこだわっていたらわからないアメリカ映画の底力のようなものを感じた。
"As long as he is not mistaken for a serious artist, Le Roy can be delightfully entertaining."
と、アンドリュー・サリスが The American Cinema のなかでルロイについて書いているが、たしかに、日本では巨匠扱いされてしまっているせいでだいぶ損をしている作家なのかもしれない。
サイレント映画の上映時間を調べるのは意外と難しい。資料によって上映時間がまちまちなのである。トーキー映画の場合も、劇場公開版とその後編集されたディレクターズ・カット版などといったように、いくつかヴァージョンが存在することがあるが、それはどちらかというと例外で、上映時間は一つに決まっているのがふつうである。しかし、サイレント映画となると、様々な理由から上映時間が定かでない場合が少なくない。 一つには、トーキー映画とは比べものにならないほど、サイレント映画にはヴァージョンの数が多いということがある。サイレント映画はトーキーとちがって音声がはいっていないので、海外で上映される際には、字幕の部分を変えるだけで、その国にしか存在しない外国語ヴァージョンが簡単に作れてしまうことから、様々なヴァージョンが世界中に出回ることになる。そうしたフィルムが時代を経るうちにコマを欠落させてゆく(その過程でまた様々なヴァージョンが生まれる)。オリジナルのネガが残っていれば、そこから原型を復元することも可能だが、ネガがないとなると、世界中に散らばったフィルムをつなぎ合わせて、できるだけオリジナルに近いものを復元していくしかない。『ナポレオン』を修復した映画研究家ケヴィン・ブラウンロウは、そうやって何年もかけて執念でフィルムの断片を収集していって、やっとオリジナルに近いものを再現したのである(このとき、ちまたでは、コッポラの名前ばかりがクローズ・アップされたが、ケヴィン・ブラウンロウの仕事がなければあの公開はあり得なかった。ちなみに、山田宏一は、ケヴィン・ブラウンロウの著書 The Parade's Gone by をサイレント映画について書かれたもっとも素晴らしい書物と評している)。
サイレント映画の場合、映写するときのスピードの問題もある。いまの映画は1秒24コマが標準だが、サイレント映画の場合は、1秒16コマから18コマでのあいだで上映されていた(いわゆるサイレント・スピード)。サイレント映画の上映会などでは、たまに1秒24コマで上映されることがある。サイレント映画の人物の動きが妙に速く見えることがあるのは、そのせいである(こういったことは、まあ、常識だと思うが、知らない人がいるかもしれないので、一応説明しておいた)。 長編映画まるまる一本だと、どちらのコマ数で上映するかで上映時間が相当ちがってくる。そもそも、一番最初の頃は、撮影のカメラも手回し、映写も手回しだったわけだから、映写するひとのさじ加減で上映時間はいくらでも変わってしまうわけだ。フランスの映画ガイドなどでは、サイレント映画の上映時間は、何時間何分という表示ではなく、フィルムのメートル数で書かれていることが多いのはそのためである。一見不親切にも見えるが、正確を期すためにはこの表示の仕方がいちばんだろう。
といったわけで、サイレント映画の本当の上映時間を見極めるのは結構やっかいである。こんな話をしたのは、グリフィスの『国民の創生』の上映時間を調べていて、わからなくなったからだ。淀川長治監修のシリーズにはいっている『國民の創生』の DVD の上映時間は、152分となっている。しかし、これはこの映画の数あるヴァージョンのなかでは、あまり長いほうではない。アメリカでは、この映画の様々な DVD が発売されているが、その上映時間は、103分、125分、158分、175分、187分、200分などといったぐあいに、バラバラである。そもそもアマゾンのサイトに表記されている上映時間が、特典映像まで含めたものなのかがいまいちはっきりしない。いずれにせよ、日本で出ている DVD は最長版と比べて少なくとも30分以上は短いようだ。ちなみに、IMDB では Birth of a Nation の上映時間は、"Argentina:165 min / 190 min (16 fps) / USA:125 min (video version) / USA:187 min (DVD)" となっていて、見事にバラバラである。
最初からあてにしていなかったが、allcinema online では、『國民の創生』の上映時間は「104分」とだけしか書いていない。相変わらずいい加減なサイトだ。このデータベースは映画のタイトル自体が間違っていることも珍しくなく、何度かメールで訂正を促したこともあるのだが、半年以上たっても訂正された様子がない。こういうデータベースでは、情報量にもまして情報の正確さが重要なはずなのだが、このサイトには、こういうときに素早く対応して情報を逐次修正していくシステムが機能していないようだ。洋画の邦題を調べるときには便利なサイトであるが、有名なサイトだからといって頭から信用しない方がいいだろう。そういえば、最近、Wikipedia の有名な執筆者が、学歴を詐称していたというニュースが話題になった。どこぞの大学院の教授かなにかを自称していたが、実は高卒だったそうだ。
今朝から一度もお日様を見ていない。もう8時になるのにあたりは薄暗く、細かい雨がしとしとと降り続いている。まったく、朝から気が滅入るぜ。
☆ ☆ ☆
朝といえば、最近、P・D・ジェイムズの An Unsuitable Job for a Woman(『女には向かない職業』)を読みはじめた。 週に一冊ぐらいはペーパーバックを読もうと心がけているのだが、なにやかやと用事があってなかなか読む時間がない。ブンガクばかり読んでいると疲れる。あまりストレスを感じずに読めるものとなると、結局ミステリーになってしまう。というわけで、今回は P・D・ジェームズだ。 実は、ジェームズを読むのはこれがはじめてである。アメリカの作家だと思っていたが、冒頭、ベイカールー線(ベイカーストリートとウォータールーをつなぐロンドンの地下鉄)が出てくるところで、イギリス作家だったことに気づく。探偵事務所のパートナーがある朝自殺してしまい、ひとりで事務所をつづけることを決意した女探偵コーディリア・グレイの前に、ひとりの女が依頼に訪れるところから物語ははじまる。こういう場合、この女が事件の真相に深く関わっていたことが最後にわかるというパターンが多かったりするのだが、どうだろう。まだ50ページも読んでいないが、この古典的な始まり方からもわかるように、ちゃらちゃらしたところのない非常に本格的な探偵小説になっているようだ。 ジェームズは探偵小説以外の作品も書いている。先頃公開されたSF映画『トゥモロー・ワールド』の原作は、ジェームズの The Children of Men(『人類の子供たち』)だった。もっとも、原作と映画はほとんど別物らしい。絶版になっていたが、映画公開にあわせて『トゥモロー・ワールド』というタイトルで再版されている。
デイヴィッド・リンチとサルコジが握手している写真が「ル・モンド」に出ていた。なにかと思ったら、どうやらリンチがレジオンドヌール勲章を受章したということのようだ。レジオンドヌール勲章がフランスの最高勲章だということは日本でもわりと知られていると思うが、実はこの勲章のなかにもさらに五つの階級がある。リンチが受章したオフィシエ章というのは、下から二番目の四級にあたる。もっとも、上位一,二級は、通常民間人が受章することはない。四級をもらうだけでもすごいことはいうまでもないだろう。ほかに映画監督でレジオンドヌール勲章を受章しているのものとしては、スピルバーグやイーストウッド、そして北野武などがいる(いずれも、五級にあたるシュヴァリエ章のはず)。これから階級が上がる可能性もあるので、そのうち北野武がオフィシエ賞を受けてリンチと並ぶといったことがあるかもしれない。
ちなみに、レジオンドヌール勲章受章者のなかには、想像上の人物シャーロック・ホームズもはいっているというから、笑わせる。
ニコラ・フィリベールの新作 "Retour en Normandie"
『ぼくの好きな先生』で知られるドキュメンタリー作家ニコラ・フィリベールの新作は、ルネ・アリオの "Moi, Pierre Rivière" (「私、ピエール・リヴィエール」)の後日譚を描く映画となるようだ。 日本でも評判を呼んだ『ぼくの好きな先生』が、そのほのぼのとした内容からはかけ離れた醜い訴訟沙汰に巻き込まれてしまっていることは、日本ではあまり知られていない。あの先生によってフィリベールが訴えられてしまったのだ。このことは某所でもずいぶん以前に書いたのだが、この訴訟はいまも続いているらしい。
さて、このごたごたから逃げるようにノルマンディーの大自然のなかに戻ったフィリベールが撮った新作 "Retour en Normandie" (「ノルマンディーへの帰還」)は、ルネ・アリオによる美しい作品 「私、ピエール・リヴィエール」の登場人物たちを30年後に訪ねるという内容のようだ。 "Moi, Pierre Rivière" は、若きフィリベールが助監督としてはじめて参加した作品でもある。 "Retour en Normandie" はフィリベールにとって、まさに自己のルーツへとさかのぼって、ドキュメンタリーとはなにか、自分とはなにかを問い直す作品となっているようである。
ルネ・アリオは日本ではほとんど無名に近い監督といっていいだろう。"La vieille dame indigne"(「老婆らしからぬ老婆」)を若きゴダールがある年の映画ベストテンに選んでいることで、名前ぐらいは知っている人も多いだろうが、実際の作品を見ている人はあまり多くないはずだ。わたしはフランスで "Les Camisards"(「カミザール」)という作品をたまたまテレビで見て、非常に感銘を受けた。17世紀末のナントの勅令破棄後のプロテスタントの戦いを描いたゲリラ映画の傑作だった。「私、ピエール・リヴィエール」は、タイトルを見ればわかるように、ミシェル・フーコーによる『ピエール・リヴィエールの犯罪―狂気と理性』に触発されて撮られた作品である。19世紀フランスの寒村で起こったある尊属殺人事件の訴訟記録を通じて、フーコーが言語表現における理性と狂気を論じた書物だ。最近、続々と文庫化されているフーコーだが、この本は長らく絶版になったままである。それとも、どこかに新たに収録し直されているのだろうか。
余談だが、フランスでわたしが住んでいた町の映画館に、一度ルネ・アリオが来館するはずだったのだが、結局来なかった。その映画館には、モニカ・ヴィッティとアントニオーニもくる予定だったが、そのときも来なかった。その町に着いたばかりで、どこに映画館があるのかわからなかったときに、カネフスキーがその映画館に来たらしく、あとで悔しい思いをしたのだが、たぶんあれも予定だけで、結局来なかったのではないかと思っている。
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