日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
マリオ・バーヴァ『血みどろの入江』
この作品には、イタリアン・ホラーの例に漏れず、英語タイトルだけでも「A BAY OF BLOOD」、「TWITCH OF THE DEATH NERVE」、「LAST HOUSE ON THE LEFT, PART II」、「THE ECOLOGY OF THE CRIME」など、無数の別名がある。タイトルがちがうと、微妙にヴァージョンもちがうのだろうか。謎だ。(ちなみに、「LAST HOUSE ON THE LEFT」は、ウェス・クレイヴンが、ベルイマンの『処女の泉』から宗教的なテーマを抜きさってモダン・ホラーとしてリメイクした『鮮血の美学』の原題だが、この二つの作品のあいだにはなんの関係もないし、作られたのも『鮮血の美学』のほうが後。有名な話だが、ダリオ・アルジェントの『サスペリア PART2』も日本で勝手につけられたタイトルで、『サスペリア』とはまったく関係がないし、そもそも『サスペリア2』のほうが『サスペリア』よりも先に撮られている。とくに世の中に迷惑はかけていないが、映画の世界にはコムスンやミートホープの社長のようなうさんくさい連中がうようよしていて、こういう嘘を平気でついているということだ。)
『血みどろの入江』は、マリオ・バーヴァとしては、ミステリー色の強い『モデル連続殺人!』などの系列に属する作品。というより、『13日の金曜日』の走りとでもいえる作品といったほうが端的でわかりやすいだろうか。
冒頭、いきなり老婦人が何者かに絞め殺されるところからはじまり、あれよあれよという間に死体の山が築かれてゆく。莫大な遺産をめぐる殺意の応酬という点では、前にふれた『ファイブ・バンボーレ』の姉妹編といいたくなるほど、よく似た物語である。ただ、『ファイブ・バンボーレ』が『ハリーの災難』を思い出させるブラック・ユーモアに終始徹していたとするなら、こちらはユーモアを極力排して真っ正面から観客を怖がらせようとしている。斧を顔面に突き刺す、銛で体を刺し貫く(黒沢清いうところの串刺し)など、当時としては残酷きわまる殺し方だったと思うが、スプラッター・ホラーの一大ブームを見てしまったいまとなっては、さしたるインパクトはない。ここでは、殺し方よりもむしろ、死体の見せ方のほうが印象的だ。ボートを覆っていた布をめくると現れる、蛸にからみつかれた水ぶくれの水死体。薄暗い部屋の鏡の表面に映し出されるおびただしい死体の山。マリオ・バーヴァは人を殺すときよりも、死体を見せるときのほうがずっと冴えている。『ファイブ・バンボーレ』でも、死人が出るたびに、冷凍貯蔵室の肉と一緒に次々とつり下げられてゆく死体が、不気味でもあり、またユーモラスでもあった。
『ファイブ・バンボーレ』のほうが話は凝っていたが、その分わかりにくかったともいえる。ミステリー系列のマリオ・バーヴァ作品のなかでは、これがいちばんストレートに楽しめる作品かもしれない。
SF シャーマン・A・ローズ『Target Earth』 50年代に撮られた宇宙人侵略もの。へなちょこぶりをバカにするつもりで見たが、意外と面白かった。 監督の名前は正直いって初耳だ。30年代から映画を撮っているベテランのようだが、50年代からはもっぱらTVドラマの演出ばかりをしている。ちょっと調べてみた限りでは、日本では一本も監督作は公開されていないようだ。主演はリチャード・デニング。いかにもB級な俳優である。ここではヒーローを演じているが、どちらかというと、異星人に体を乗っ取られて操られ、ヒーローを襲う役でもやってたほうが似合う男優だ。ヒロイン役のキャスリーン・クローリーも、映画女優というよりはTV女優といったほうがよい地味な存在で、まったく印象に残らない。
ホテルの一室で女が目覚めるところから映画ははじまる。女のかたわらには睡眠薬が転がっている。どうやら自殺しようとしたが、できなかったらしい。女は自分が眠っているあいだになにか異変が起こったことに気づく。部屋の電気はつかないし、隣の部屋をノックしても応答がない。不安になって通りに出てみるが、そこにも人気がない。街中がもぬけの殻になっているのだ・・・
この出だしだけで、わたしなんかは、いいなぁと思ってしまう。小さいころテレビで見た映画で、主人公が地下鉄工事かなにかで地下で潜っているあいだに、地上で世界が滅亡していたというSFがあった。地上に出てくると街が壊滅していて、人っ子ひとりいなくなっている。そのデペーズマンというか、途方に暮れた感じがなんともいえなかった。いまとなってはタイトルもなにもわからないのだが、いまだに忘れられない作品だ。突然人が消えてしまった街というイメージには、抵抗しがたい魅力がある。 この映画の冒頭の部分にも、そんなわたしの琴線に触れる悪夢の雰囲気が漂っていて、思わず真剣に見てしまう。この場面は、ロサンジェルスの街頭で、無許可で撮影されたらしい。そういう事情もあるのか、ときおり挿入される街の全景ショットがスチール写真になっていたりするのが、いかにも低予算映画である。
実は、ヒロイン以外にも街に何人か人が残っていたことがわかり、彼らが集まってさてどうしようかと思っていたところに、ロボットのかたちをした金星人が現れる。ビルの壁にロボットの影が映るのを見てヒロインが悲鳴を上げるところはまあよくできている。しかし、ロボットが実際に姿を見せるところで、そのあまりにもチープさに力が抜けてしまう。日本の「ウルトラマン」シリーズや、ロボット対戦アニメでは、ヒーローや怪獣はまわりの建物よりも背が高いというのが暗黙のセオリーだ。『大日本人』でもそれはほぼ踏襲されていた。しかし、アメリカ映画ではこの掟は必ずしも守られていない。ハリウッドで映画化された『ゴジラ』はビルよりも背が高かっただろうか。よく思い出せない。まあどうでもいい。とにかく、この映画のロボットはそう高くもないビルの半分ぐらいの大きさだ。
そんなロボットが何体も街をうろうろしていて、人間を見つけると頭部から発射するビームで人間を殺戮してゆく、ということになっているのだが、画面に登場するロボットは必ず一台だけ。ロボットが何台も同時に姿を見せることはない。どうやら、こんなにチープなロボットでも予算の都合で一体しか作れなかったらしく、その一体を使い回して何体もあるように見せかけていたらしい。なかなかのB級魂だ。しかし、これだけでストーリーをもたせるのはさすがに無理があると感じたのか、映画はピストルをもった逃亡中の殺人犯を登場させて、サスペンス色を脚本に付け加えている。後半はほとんど心理サスペンス映画だ。ロボットはときおり窓の外を通りすぎるだけで、登場人物を密室に閉じこめる口実をあたえる以外には、ストーリーにとくに影響を及ぼしていない。
侵略ものSFとしては異例なのは、UFO が一度も画面に出てこないことだ。冒頭、宇宙から地球に何者かが向かってくるのが主観映像で示されるだけである。主観映像だから、当然 UFO の姿は画面には写っていない。実に経済的といえば経済的な作り方である。 結末も、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を思い出させるあっけないものだ。ある特定の周波数の音波をスピーカーから大音響で流すと、ロボットは嘘のようにばったりと倒れて機能を停止してしまうのだ。
これも日本では未公開である。アメリカでは DVD 化されている。まあ、わざわざ見るほどの映画ではないと思うが、B級映画ファンなら目を通しておいてもいいだろう。
訳あって、戦争映画のことを調べている。 まずは図書館で調べてみたのだが、役に立ちそうな日本語の文献はほとんどなかった。まあ、最初からわかっていたけれど。武器オタクが書いた本とか、「映画で読み解く現代史」とかいったたぐいの本ばかりで、戦争映画を戦争映画として扱ったものは皆無。しかし、このジャンルに関しては、海外でもこれといった本は思い当たらない。フィルム・ノワールやホラー、ミュージカルといったジャンルなどとくらべると、戦争映画を(何かのだしに使うのではなく)正面切って論じた本はあまり多くないようだ。
ほかのジャンルとくらべて、現実の歴史との関わり方が生々しいところがこのジャンルの特徴といえる。そこから映画と現実、映画と歴史といった問題が出てくる。ヴィリリオの『戦争と映画』などはそうした文脈で非常に興味深い本だが、これを戦争映画論として読むのはちょっと苦しい。映画と歴史ということでは、ジャン・ミシェル・フロドンの『映画と国民国家』のなかでもたびたび引用されているマルク・フェロの『映画と歴史』などが、戦争映画を大きく取り上げていて興味深い本である(英訳も出ている)。しかし、戦争映画が「映画と歴史」というテーマだけに還元できるものではないことはいうまでもない。この分野ではまだ決定的といえる書物は現れていないのだろうか。
ところで、この問題を調べていて『映画と写真は都市をどう描いたか』(高橋世織 編著)という本を見つけた。まあ、タイトルの通りの本なのだが、執筆者がなかなか豪華だ。高橋世織による論考をはじめとして、蓮實重彦「無声映画と都市表象─帽子の時代─」、黒沢清「映画のなかの都市の記憶」、さらには港千尋、吉増剛造などによる読み応えのある文章が集められている。 フランスで、ティエリー・ジュスが編纂した『La ville au cinéma』(「映画における都市」)という本が出版されていて、これは映画と都市の関係を論じた百科事典とでもいえる大著で、値段もバカにならなかったのだが、少し前に思い切って買ってしまった。分厚い本だが、事典のようになっているので、どこからでも好きなところをゆっくりと読めるようになっている。この本のなかに、さまざまな都市ごとに映画との関わりを論じた部分があり、そこに蓮實重彦が京都について書いた文章も収められている。『映画と写真は都市をどう描いたか』に蓮實が書いている文章はその日本語版かと最初思ったのだが、全然関係がなかった。こっちはどこかでした講演を転載したもののようだ。すでに講演を聴いて内容をご存じのかたもいるかもしれない。
この『映画と写真は都市をどう描いたか』は、ウェッジというよく知らない出版社の「ウェッジ選書」の一冊として出版されている。なかなか面白い本なのに、弱小出版社のせいか、本屋ではあまり目立たない置かれかたをされているようだ(推定)。気づいていない人もいるかもしれないので、紹介しておいた。値段も安いので、関心がある人は買っておいて損はないだろう。
PRESTIGE:
noun
[U] the respect and admiration that sb/sth has because of their social position, or what they have done
Oxford Advanced Learner's Dictionary
『監督・ばんざい!』はまだ怖くて見に行けてない。『TAKESHI'S』についづいて『監督・ばんざい!』というのは、『81/2』が立て続けに二本撮られたようななにか禍々しいものを感じてしまう。予告編を見ると、今度は自分の人形まで使って自己と戯れているみたいだし、この自己破壊の衝動はどこへ行き着くのか。
というわけで、単純に楽しませてくれそうな『プレステージ』を見に行く。わたしの大好きな作家クリストファー・プリーストの『奇術師』を映画化した作品だ。たまたまこの原作は読んでいなかったので、映画を見る前に読むべきかどうか迷う。結局、読まずに見に行った。その方が驚きを楽しめると思ったのだが、失敗だった。 伏線の張り方がまずいのか、それともわたしの勘がよすぎるのか、話の展開が先へ先へと読めてしまって、驚くところがほとんどない。ラストのトリックも、だいぶ手前に気づいてしまった。原作を読んでないのにこういうのはどうかとも思うが、映画よりも原作のほうが間違いなく面白いと思う。だいたい、「この映画自体がトリックだ」なんて宣伝の仕方をしたら、勘のいい人間はどのあたりにトリックが仕掛けられているか気がついてしまうに違いない。ネタバレになるので詳しいことは書けないが、わたしはポイント、ポイントで仕掛けに気づいてしまった。
優れたマジックとは、タネや仕掛けのないことを観客に確認させる「プレッジ」、パフォーマンスを展開する「ターン」、そして最後に予想を超えた驚きを提供する「プレステージ」の三つの部分から成り立つという、冒頭のマイケル・ケーンの説明はだれもが印象深く覚えているだろう。この映画では、舞台で行われるその優れたマジックそのものが、観客を物語のトリックから目をそらすための目くらまし、「ターン」になっている。マジックの舞台裏を見せておきながら、その裏で物語のトリックが着々と準備されているわけだ。しかし、その目くらましは完全に機能しているとはいえない。だからこの映画には、本当の意味で「プレステージ」が欠けているのだともいえる。
[余談だが、「プレステージ」という邦題から、pre-stage「舞台の前」という意味の造語を想像していたのだが、この映画の原題は The Prestige だった。どう考えても、prestige は「プレスティージ」としか読めない。こんなのでいいのか? まあ déjà-vu (「デジャ・ヴュ」)を「デジャブ」と平気で読む国だから、こんなものなのだろう。ちなみに、この prestige という言葉は、ふつう「名声」や「威信」という意味で使われる。ふたりのライバル・マジシャンの地位と名誉をかけた戦いを描く物語にふさわしいタイトルといえよう。]
しかし、監督のクリストファー・ノーランを責めるのは酷なのかもしれない。回想を軸とする複雑な物語をノーランはなかなか手際よくまとめていたと思う。舞台上の鮮やかなマジックも映画で見るほうが迫力がある。しかし、受け手をだますことにかけては、やはり小説は映画の比ではない。結局、映像は嘘をつけないのだ。人物描写ひとつをとっても、情報の出し加減を言葉で自由自在にコントロールできる小説とはちがって、映像はすべてを見せてしまう。無理に隠そうとすれば、余計に不自然になる。それがイメージの強みでもあり弱みでもあるのだ。アイラ・レヴィンの『死の接吻』などは、その意味でもっとも映画化不可能な小説だろう(マット・ディロン主演で映画化されたが、もちろん原作とは別物だった)。意外な真犯人であっといわせるぐらいなら、TVのサスペンスドラマが毎日のようにやっているが、『死の接吻』のようなかたちで人をだますのは映画にはたぶん至難の業だろう。気持ちよくだまされたい人は、映画を見る前に原作を読むことをおすすめする。
19世紀ロンドンといえば切り裂きジャックが世間を騒がせていた時代だ。この題材ならもっとホラーの方向にもっていくこともできたかもしれない。科学が怪しげな見世物として成立していた時代(それはいまもそう変わっていないのかもしれないが)、そういう時代を背景に、物語は非常に現実離れした方向へと向かいもするのだが、SFファンタジー的な方に深入りすることをノーランは極力避けていたようだ。それがこの監督のバランス感覚なのだろうが、もっと原作から離れて(いや、ひょっとしたらそれは原作に近づくことになるのかもしれないが、読んでいないのでわからない)、『TAKESHI'S』を少しは見習ってもっとでたらめな作り方をしていたなら、すごい怪作になっていたかもしれない。
最近しばらく大きな書店をじっくり見て回ることがなかった。昨日、Planet+1 でストローブ=ユイレの映画を見たついでに、旭屋と紀伊国屋をぶらりと歩いてきた。『あの彼らの出会い』にいたく感動したので、さっそくまだ読んでいなかったパヴェーゼの『故郷』と『美しい夏』を買う。映画で使われていた詩編『レウコとの対話』はまだ翻訳がない。今回の映画につけられていた字幕は満足のいくものではなかったので、ぜひ専門家の手になる翻訳を望む。 さて、ほかに気になったものをメモしておく。
■ 金井美恵子・金井久美子『楽しみと日々』
金井美恵子のひさびさの映画エッセイ集『楽しみと日々』が出ていた。プルーストの著作から借りたタイトルも、(たぶん)金井久美子による本の装丁も映画本らしくないが、中身はルノワール、ロメール、小津、成瀬、ワイズマンなどの映画について書かれた、れっきとした映画本だ。いかにも金井美恵子が見ていそうな映画ばかりが扱われていて、正直いって、とくに新しい発見は期待できないような気もする。しかし、情報だけ、観念だけ、感情だけが、映画とはかけ離れたところでむなしく踊っている Web の映画評などを見ていると、「細部に淫する」とでもいうしかない金井美恵子の文章の由緒正しい官能性は、やはり映画に必要なものなのだと思えてくる。
■フェルナンド・ペソア『不安の書──リスボン市に住む帳簿係補佐ベルナルド・ソアレスの 』
ずいぶん前に出ていた本だが、昨日気づいたので。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(とは誰なのか。いくつもの名前を持つこの謎の作家について考えるとき、アイデンティティの問題がつねに立ち現れる)による未完の断章。数年前に思潮社から出た『不穏の書、断章』というのを買ってもっているのだが、あれは原著の10の1程度の抄訳にすぎない。これが完訳に当たるというが、結局この未刊の書には完成版など存在しないのかもしれない。どうでもいいが、こういう本が出るなら最初から出してほしかった。二度手間になるじゃないか。
■ 矢澤 利弘『ダリオ・アルジェント──恐怖の幾何学』
こんな本もだいぶ前に出てました。本屋に行っても、映画本のコーナーにはあまり行かないんです、なぜか。というわけで、だいぶ古い情報ですが・・・
■野坂昭如ルネサンス
野坂昭如のレアな作品2作『好色の魂』、『水虫魂』が、岩波原題文庫に登場。この後も刊行は続けられるらしい。全部で7作がラインナップされている。
■ 柄谷行人の『日本精神分析』も文庫に。
前から出るという話は聞いていた、コリン・マッケイブによるゴダールの伝記『ゴダール伝』が、いよいよ明日出版される(書店には、もう並んでいるのかもしれない)。わたしは基本的に芸術家の伝記のたぐいにはあまり興味がない人間である。トッド・マッカーシーによるホークスの伝記『ハワード・ホークス──ハリウッド伝説に生きる偉大な監督』が出たとき、すごく高い値段にもかかわらずまわりのシネフィルたちはこぞって買って読んでいた。しかし、わたしには他人が書いた伝記にはさして興味がわかなかった。ホークスの作品だけが重要だった(関係ないが、以前ピエール・リシアンという人物について書いたことを覚えておられるだろうか。トッド・マッカーシーがリシアンについての映画を撮り上げたそうである。今回のカンヌでお披露目されたと聞いている)。 しかし、相手がゴダールとなると話は別だ。どんな些細な情報でも集めておきたい。しかも、著者はゴダールの研究者として知られるコリン・マッケイブだ。ベルナール・エイゼンシッツの『ニコラス・レイ』のような、たんなる伝記ではない質の高い批評的作品になっていることを期待したい。 ずいぶん昔、わたしはゴダールの兄だったか弟だったかに会ったことがある。アンリ・ゴダールという名前の学者で、ルイ=フェルディナン・セリーヌの研究者だった。仏文科の大学院のゼミにやってきた彼を囲む会があったのだ。そのあとの宴会で、鰹のたたきをうまそうに食べていたのを覚えている。アンリはジャン=リュックとは似ても似つかないきまじめそうな男で、兄弟といわれても信じられなかった。もっとも、兄弟仲は最悪だと聞かされていて、ジャン=リュックについての質問は NG であるというお達しを受けていたので、いちばん聞きたいことは聞けなかった。しかし、あのゴダールにもやはり家族がいたのだ。考えてみたら当たり前だが、この体験は、わたしのゴダール観に少なからぬ変化を与えたとはいえる。その後、とくにゴダールの生い立ちについて調べてみようという気にはならなかった。しかし、こういう本が書かれたのなら、やはり読んでみたい。
バスに乗った松本に、キャメラの背後に隠れたインタビュアーが語りかける。インタビュアーの姿は、ときおりガラスに映りこむ場合をのぞいて、画面に現れることはない。シネマ・ヴェリテふうの擬似ドキュメンタリー。映画はまずはそんなふうにはじまる。出だしは悪くなかった。 松本が自宅でインタビューを受けていると、突然背後の窓がパリンと割れる。嫌われ者のヒーローの家にだれかが石を投げ入れたらしい。ショットが変わると、割れた窓に紙が貼られている。薄暗くなった部屋で、何ごともなかったかのようにインタビューはつづけられる。このあたりのさりげないユーモアもなかなかいい。
インタビューのなかで、折りたたみ傘やふえるワカメといった、「巨大化する」ものがそれとなく伏線として小出しにされてゆく。公園でインタビューに答えていた松本に、突然携帯電話で連絡がはいる。いよいよ本人が巨大化するときが来たようだ。急遽バイクでどこかに向かう松本を、インタビュアーは車で追跡する。バイクはとあるゲートをくぐり抜け、なにやら大学のキャンパスを思わせる場所にはいってゆく。松本を呪詛する言葉が書かれた垂れ幕や立て看があちこちに見える。このあたりの雰囲気も悪くない。監督一作目にしてはまずまずではないか、と思ったのもつかの間、このあとが惨憺たるものだった。安っぽい CG を使った「大日本人」と巨大獣との戦いがはじまるやいなや、まったくしらけてしまい、スクリーン上で起きていることにまったく興味がもてなくなってしまった。
たとえば、北野武の映画は、芸人ビートたけしと映画作家北野武とのあいだの距離から生まれる緊迫感のなかで撮られている。そういう距離感が松本人志の映画には感じられない。テレビのなかの自分のイメージに甘えているようなところが見え隠れしてしまうのだ。わたしにはこの映画は、テレビ番組でときおり彼がやっているコントふうミニドラマを拡大したものにしか見えなかった。別に映画でなくてもよかったのではないか。こういう映画があってもいいとは思う。ただ、この映画には数年の歳月と、5億円もの制作費がかかっていると聞く。これが本当だとすると、それはいくらなんでも時間と金のかけ過ぎだろう。数千万の予算と、2週間程度の時間があれば、これに近いテイストの作品は作れるはずである。
芸人ビートたけしのファンだったわたしは、『その男、凶暴につき』を初日に見に行って以来、まわりのシネフィルたちにバカにされ、哀れまれたりさえしながら、映画作家北野武を擁護しつづけた(その彼らが、雑誌「リュミエール」に蓮實重彦と北野武の対談が載ったとたん、「タケシも悪くないかも」などと手のひらを返したように言い始めたことを覚えている。まったく、映画の良し悪しぐらい自分で見分けろよ)。わたしは芸人松本人志の大ファンでもあるが、どうやら映画作家松本人志については、本気で応援する必要はないようだ。これには正直、ほっとしている。
このくくりで書くのはひさしぶりだ。今回紹介するのは、ポーランド映画『サラゴサ手稿』(65)。まさにカルト中のカルト映画である。『砂時計』で知られるヴォイチェフ・ハス監督が、18世紀ポーランドの作家ヤン・ポトツキの手になる世紀の希書として名高い同名小説を映画化したもので、ハスを国際的に認知させるきっかけとなった出世作だ。日本ではいまに至るまで正式公開されたことはなく、ビデオ・DVD 化もされていない。わたしの知る限りテレビで放映されたこともないはずである。
『サラゴサ手稿』はブニュエルが溺愛したことでも知られる作品だ。実は、わたしもこの作品のことを最初に知ったのはブニュエルの自伝によってだったと記憶している。そういう人は多いのではないだろうか。手元の北米版 DVD のパッケージには、「ポトツキによる小説『サラゴサ手稿』も、ハスによる映画も、どちらも大好きな作品だ。この映画をわたしは3度見た。わたしの場合、これはきわめてまれなことなのだ」というブニュエルの言葉が引用されている。 ついでに豆知識を披露しておこう。トリュフォーの『逃げ去る恋』で、主人公ドワネルが、列車で再会した初恋の人コレットに、『恋のサラダ』に続く自分の2作目の小説の構想を語る場面がある。その小説のタイトル「悪童手稿 Le Manuscrit trouvé au Sale Gosse」が、実は「サラゴサ手稿 Le Manuscrit trouvé à Saragosse」のもじりなのである(ちなみに、『サラゴサ手稿』はもともとフランス語で書き上げられた。その後、そのフランス語の原稿の一部が紛失してしまうなど、いろいろあって、『サラゴサ手稿』はテクスト・クリティック的にはいまでもさまざまな点で議論されているようだ。ポトツキが書いたかどうか疑わしいという説もまだくすぶっているようである)。あとで書くように、『サラゴサ手稿』は非常に特異な回想形式で書かれており、トリュフォーはその影響を受けて『逃げ去る恋』の回想形式を組み立てたともいわれている。トリュフォー本人がこのことに言及するのを、わたしは聞いた覚えがないが、文学かぶれであり、またブニュエルの熱狂的なファンでもあった彼のことだ、そういう経緯があったとしても不思議はないだろう(もっとも、『逃げ去る恋』のフラッシュ・バックと『サラゴサ手稿』の回想形式はほとんど似ていないのだが)。
先ほど書いたように、この映画は日本ではまだソフト化されていないが、ポトツキによる原作のほうは、国書刊行会からかつて刊行されていた『世界幻想文学大系』の第19巻に収められていた。しかし、この本はとっくに絶版になっている。そもそもあれは原作の5分の1程度を訳したにすぎない抄訳だった。5,6年前に、同じ国書刊行会から完訳が出るという噂が流れたことがあったが、この話はいつの間にか立ち消えになってしまった。いまは出そうな気配もない。とうに翻訳は終わっていると聞いているのに、なぜ刊行が遅れているのだろうか。映画が公開されるタイミングにあわせて、原作小説の翻訳を出すということはよくある。しかし、この場合はどうもそれはありそうにない。だとすると、タイミングの問題だけではなく、なにかほかに事情があるのだろうか。なんでもいいから早く出してほしいものだ。 翻訳が出るのを待ってられないという人は、日本の Amazon から英訳が簡単に手にはいるので、そちらで読んだ方が早いだろう。同サイトでは、本の冒頭部分を読むこともできるので、買う前にチェックしておくこともできる。英語のレベルはごくふつうだと思うので、そんなに苦労せずに読めるのではないだろうか。
ヴォイチェフ・ハスによる映画『サラゴサ手稿』は、ポトツキの原作をある程度忠実に映画化したものだ。物語は結構複雑なので、要約するだけでもなかなか大変である。ポトツキの『サラゴサ手稿』はしばしば『千夜一夜物語』と比較される。たしかに、いくつもの小さな物語が集積して、ひとつの大きな物語をなしているところは、『デカメロン』や『百物語』などといった枠物語を思い起こさせるが、『サラゴサ手稿』の物語構造は、もっと複雑で入り組んだものだ。
物語は、ナポレンオン戦争が行われているさなかのスペインで、フランスのある将校がスペイン語で書かれた不思議な手稿を発見するところから始まる。このフランス人将校は、手稿のなかに書かれた物語のなかへと導くための案内役を務めるだけの存在で、映画では、冒頭に登場するだけでいつの間にかフェイドアウトし、最後まで再び現れることはない。 ここで物語は、手稿のなかに語られた物語、いわば物語の第2の階層へと移行する。手稿のなかの物語の主人公(小説のなかでは語り手)となるのは、スペイン国のワロン護衛隊アルフォンス・ファン・ボルデンである。彼がスペイン南部のシエラ・モレーナ山脈を越えようとしていたとき、馬丁のモスキトが、次いで召使いのロペスが相次いで姿を消してしまう。土地の人たちがいうには、そのあたりに最近絞首刑になったふたりの山賊、ゾト兄弟の幽霊が出没するらしい。やがて、アルフォンスは人里離れた旅籠につく。ところが、真夜中を告げる最初の鐘が鳴ったとき、不思議な身なりをした「半裸の美しい黒人女」が部屋に入ってきて、あとについてくるよう促す。女について洞窟のような地下の広間に行くと、そこには薄物をまとった若く美しい姉妹が彼を待っていて、食べ物や飲み物をすすめる。やがて、女たちは、実は自分たちはアルフォンスの従妹なのだ明かす。アルフォンスは一晩彼女たちと快楽をともにするのだが、翌日の朝、目がさめてみると、彼は姉妹と一緒にベッドに横たわっているのではなく、絞首台の真下で盗賊ゾト兄弟の死体と並んで寝ているのだった。
この出来事が夢だったのか現実だったのか確信できぬまま、アルフォンスは泊まるところを探し求めて、とある隠者の小屋の前までやってくる。そこで彼は悪魔に憑かれた男パチェコと出会い、彼から不思議な話を聞く。ここで物語は第3の階層へと移行する(『サラゴサ手稿』はこのように物語のなかに別の物語を語る語り手が現れ、さらにその物語のなかに別の語り手による別の物語が現れるという具合に、幾重にも重ねられた入れ子状態になっているのである)。そのパチェコという男の語る物語は、前夜のアルフォンスの体験と不思議なほど似通っていた。パチェコもまた、アルフォンスが泊まったのと同じ旅籠で一夜を過ごしたことがあったが、彼もやはり地下の広間まで降りていって、ふたりの姉妹と一夜を過ごしたあと、絞首台の下で二つの死体にはさまれて目を覚ましたのである。この恐ろしい体験のせいでパチェコは発狂してしまったのだという。隠者は、アルフォンスが出会ったのは悪魔に違いないというが、アルフォンスはまだ悪魔や幽霊の存在を信じようとしない。
隠者のもとを去り、マドリッドに向かおうとしたとき、アルフォンスは突然現れた異端審問官に逮捕されてしまう。後ろ手に縛り上げられたアルフォンスに、審問官はふたりの姉妹のこと、魔女たちのことを問いただす。審問官が、口を割らないアルフォンスをさらに痛めつけようとしていたとき、あの姉妹たちがゾト兄弟を連れて、彼を助け出しにくる。ゾトの二人の兄弟は実は生きていたというのだ……。アルフォンスは姉妹たちにつれられてまたあの地下の広間へといくのだが、そこに突然見知らぬ男が手下のものたちを連れて現れ、アルフォンスを脅して得体の知れない飲み物を飲ませる。目覚めた彼が絞首台の下で、ゾト兄弟の死体のかたわらに横たわっているだろうことは、ここまでくると想像がつく。
幻想文学を研究するさいの必読書といっていい『幻想文学論序説』のなかで、ツヴェタン・トドロフは、それまで曖昧に用いられてきた「幻想文学 littérature fantastique」という言葉を定義するに当たって、カゾットの『悪魔の恋』と並べてこの『サラゴサ手稿』をモデル・ケースとして取り上げて分析している。その結論を一言で要約するなら、読者にたえず「ためらい」を要求するのが、幻想文学の構造的特性であるということになる。
「 完全な懐疑と同じく、絶対的な信じ込みもまた、われわれを幻想の外へと連れ出す。幻想に生命を与えるのは「ためらい」なのである。」
要するに、超現実的な出来事を前にして、それをただの夢として片付けて否定する態度はもちろん、逆に、その超現実的な出来事を完全に信じてしまうことも、ともに幻想を殺してしまうのである。幻想とは、夢と現実の境界領域で、そのどちらの側にも振り子が振りきれることなくとどまっていることによって、はじめて成り立つのだ。
こうして、夢ともうつつともつかない物語が、語り手を変えながら延々続いてゆく。この曖昧さが『欲望の曖昧な対象』の映画作家を魅了したのだろうか。ポトツキの原作では、66日間のあいだにさまざまな語り手が現れてさまざまな物語を次々と語り、物語は遅延と迂回を重ねてゆくのだが、映画のほうでは、3時間の大作とはいえ、さすがに原作の挿話の多くが省略されている。それでも、ハスは原作のもつ雰囲気をかなりうまく映画に移し替えているといえる。正直、この映画の魅力の大部分は原作に負っているといっていいような気もするのだが、映画に翻案されたことでそこに新たな魅力が付け加わったところも少なくない。何度も反復される絞首台の場面などは、映画の編集のリズムによって最大限の効果を引き出されているといっていいだろう。 主人公のアルフォンスを演じるのは、『灰とダイヤモンド』でマチェックを演じたズビグニエフ・チブルスキー。「ポーランドのジェームズ・ディーン」(どこが?)と呼ぶ人もいるポーランドのスター俳優だ。『灰とダイヤモンド』のころよりもいくぶん太って見えるせいか、この映画ではどこかしらユーモラスな雰囲気を漂わせている。 最後に、フランシス・フォード・コッポラやマーティン・スコセッシもこの映画の熱烈なファンであるということを付け加えておこう。
今年のカンヌ映画祭は、松本人志の初監督作品が出品されるということで、いつにもまして日本での注目度が高い。また、いまやカンヌでは常連となった北野武が、今回は、世界を代表する監督35人のひとりに選ばれたことも話題になっている。この35人の監督たちが「劇場」をテーマにそれぞれ撮り上げた3分のショート・ムーヴィーを集めたオムニバス映画が上映されるのである。ところで、日本のテレビニュースで知ったのだが、このオムニバス映画には「To Each His Own Cinema」という名前がつけられているらしい。「To Each His Own」というのは、ミッチェル・ライゼンが46年にオリヴィア・デ・ハヴィランドでアカデミー主演女優賞を取った『遥かなる我が子』の原題である。シネフィルの国フランスのことだから、それを意識したということも考えられると思っていたのだが、このタイトルは「Chacun son cinéma」というフランス語を単に英語に直訳したに過ぎないらしい。 その日本のテレビニュースでもそうだったし、インターネットの日本語ニュースサイトのいくつかでも、「To Each His Own Cinema」には世界各国から35名の監督が選ばれたと紹介している。しかし、このことをとりあげた海外の記事にはどれも「33-short-film」 というふうに、「33本」と書かれている。2本少ないのはなぜか。実は、35人と書いてある記事は間違いとはいえないまでも正確ではなく、厳密には、33組35人といわなければならないのである。なかにはダルデンヌ兄弟のようにふたりで一本という場合があるからだ(もう一組はたぶんコーエン兄弟だろう。ちなみに、このダルデンヌ兄弟の短編は、コンペのどの作品よりもいいといっている批評家もいた)。それにしても、テレビの画面で北野武の横にヴェンダースやオリヴェイラが立っているのに、そのことをなにもコメントしないテレビのコメンテーターっていうのはいったいなんなのかね。
さて、ちょっと強引だが、今日はカンヌのことではなく、このミッチェル・ライゼンという映画監督のことについて書きたいと思っている。日本ではあまり知られていない監督だ。いまではほとんど忘れ去られているといっていい。こういう機会でも利用しないと書くきっかけがないからだ。 『映画となると話はどこからでも始まる』(淀川長治、蓮實重彦、山田宏一)で、「ミッチェル・ライゼンという監督なんかはどうだったのでしょうか。戦後は、『別働隊』という戦争メロドラマ、というよりも、大ヒットした『モナリザ』という主題歌だけで覚えている作品があるんですが・・・」、と、おそるおそる伺う山田宏一に、淀川長治は、「つまらない人だね。彼は第二のセシル・B・でミルになろうとしたんですよ。でも、やっぱりスケールがちいちゃかったの」と、一刀両断している。しかし、シネフィルのあいだでは、ミッチェル・ライゼンはいまでも結構評価は高い。実をいうとわたしはライゼンの作品はほとんど見ていないのだが、手元の本を頼りに簡単な紹介を試みてみる。ここに書いたことが回り回って作品を見る機会につながる、と、いうことはまあないだろうが、知らない人にはなにかの参考になるだろう。
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淀川長治がデミルの名前を出したのは、ミッチェル・ライゼンが最初はデミルのコスチューム・デザイナーとして出発したからだ。『男性女性』をはじめとするデミル作品のほか、アラン・ドワンの『ロビン・フッド』、ラオール・ウォルシュの『バグダッドの盗賊』などの衣装もライゼンが手がけたものである。ルビッチがアメリカに渡った直後に撮った『ロジータ』の衣装もライゼンの担当だった。その後、1933年に監督として自らメガフォンを撮るようになったミッチェル・ライゼンは、『春を手さぐる』(Hands Across the Table, 35) あたりを皮切りに、上品で洗練されたコメディを得意とする「偉大なるマイナー作家」へと成長してゆく。とりわけ、プレストン・スタージェス脚本による『街は春風』(Easy Living, 37)、ビリー・ワイルダー脚本による『ミッドナイト』(Midnight, 39, 未)の2作は傑作といわれている。 一方で、『スウィング』(Swing High, Swing Low,37)、『遥かなる我が子』といったメロドラマも数多く手がけているが、こちらのほうの作品は彼のコメディほどには成功していないようだ。戦後は、じょじょに輝きを失っていったようだが、そのなかでも、ピグマリオンをテーマにしたコメディ『Kitty』 (45)や、ライゼンがフィルム・ノワールのジャンルで唯一成功した作品といわれている、ウィリアム・アイリッシュ原作の映画化『No Man of Her Own』(50)などの佳作が撮られている。 その後は映画界から退き、テレビに活動の場を移したようだ。
1898年生まれ。1972年にロサンジェルスで死亡。
わたしは『淑女と拳骨』(NO TIME FOR LOVE, 43) という不思議な邦題の作品が前々から気になっていて見たいと思っているのだが、淀川長治は、「ミッチェル・ライゼンは一目でホモみたいな人で、なよなよして、映画も一作たりとも感心したものはない」と手厳しい(結構なよなよしていた淀川がこういうことをいっているのが笑える)。その淀川長治が、「ライゼンとしては思いもかけぬ、間違ってできたほどの傑作」と語っている『絢爛たる殺人』(Murder at Vanities, 34)もぜひ見てみたい作品だ。もっとも、いまのところどちらも日本海外ともに DVDにはなっていない模様。 (『スイング』はジュネス企画からビデオが出ている。根気よく探せばレンタル・ショップで見つかるかもしれない。)
小説のほうでは、数年前に新作『反復』が日本でも翻訳出版され、相変わらずの健在ぶりを見せつけたアラン・ロブ=グリエだが、昨年、映画のほうでも新作『Gradiva(C'est Gradiva qui vous appelle)』を撮り上げていたらしい。
IMDb によると、ロブ=グリエが映画を撮るのは、プロデューサーのディミトリ・デ・クレルク Dimitri de Clercq との共同監督作品『Un bruit qui rend fou』 (1995) 以来だ。その前の、『囚われの美女』が 1983年だったから、最近はほぼ10年おきにしか撮っていないことになる。ほとんどビクトル・エリセ並のスローペースだ(ちなみに、ロブ=グリエは、『Un bruit qui rend fou』と『Gradiva』のあいだに、ラウール・ルイスの『クリムト』(99)に俳優として出演している。演じたのはゴンクール!)。
「グラディーヴァ」というタイトルでぴんと来た人も多いだろう。原作はデンマークの詩人イェンセン(イェンゼンとも書く)の小説『グラディーヴァ』。フロイトに深い影響を与えたことでも知られる、あまりにも有名な小説だ(むかし、角川文庫からイェンセンの小説とフロイトの論功をあわせたものが出ていたが、いまは絶版になっている。古本屋で探せば見つかるかも)。 ある若い考古学者が、ローマの太古美術館で、若い女性を描いた一体のレリーフに出会い、その夢の女性に次第にとりつかれてゆくという物語だ。いかにもロブ=グリエが好みそうな物語であり、また、ロブ=グリエが映画化すれば非常に興味深い映画になりそうな話である。 しかし、日本では、ロブ=グリエの映画は、ずいぶん大むかしに特別上映のかたちでまとめて上映されたことがあるぐらいで、一般公開された作品は数えるほどしかない。いちばん有名な『去年マリエンバードで』ですら、日本では DVD になっていないのだから困ったものだ。わたしはフランスにいたとき、『嘘をつく男』『快楽の漸進的横滑り』『ヨーロッパ横断急行』などの代表作をビデオでまとめて見ているから、まあいいのだが、そろそろ DVD-BOX で出してもらえると大変ありがたい。・・・と、思うのだが、フランスでさえロブ=グリエはほとんどまったく DVD化されていないようだ。この新作を機会に、だれか動いてくれないものか。
学生のころに一度見ている映画だが、Criterion Collection の DVD で今回ひさしぶりに見直してみて、びっくりした。こんなにすごい傑作だったっけ。前に見たときはたしかレンタル・ビデオだった。トリミング版だったはずである。クオリティーには定評のある Criterion Collection の、目が覚めるようなカラーのワイド画面であらためて見てみて、初めて見たとき以上の圧倒的な印象を受けた。見ていてぞくぞくしたね。
IMDb には、使われたフィルムは Eastmancolor とある。テクニカラーだと思って見ていたのだが、これでイーストマン・カラーなのか。どうにも気になったので、ネットでちょっと調べてみた。すると、『血を吸うカメラ』で使用されたカラーについては、テクニカラーだとする情報と、イーストマン・カラーだとする情報とが入り乱れていることがわかった。考えてみれば、別にネットで調べなくても、フィルムで確認すればいいだけのことなので、DVD で冒頭のクレジットの部分を見てみた。Eastmancolor とたしかに書いてある。やはりイーストマン・カラーだ。しかし、どうしてテクニカラーだとする情報が多いのだろうか。『血を吸うカメラ』のDVD について書かれたレビューでも、「見事なテクニカラー」などといった文句が書かれてあったりするのが解せない。DVD で確認すればすぐわかることではないか。ひょっとして、Eastmancolor 社がテクニカラー方式を使った撮影方式を考え出したのか、などと複雑なことを一瞬考えたりしたが、それはありそうもない。結局、これもネットにつきもののいい加減な情報のひとつだったということなのだろう。マイケル・パウエルのテクニカラー映画は有名なので、先入観からこの作品もテクニカラーに違いないと思いこんだ人が多かったのかもしれない(しかし、藤崎康のような映画通までもが、「マイケル・パウエル独特の、まろやかで鮮やかなテクニカラーが目に快いイギリス映画」と書いているのを読むと、また不安になってくる)。
そういえば、パウエルを非常にリスペクトしているマーティン・スコセッシのインタビュー『スコセッシ・オン・スコセッシ』にはこんなふうに書かれてある。
[『レイジング・ブル』]公開前年の4月5日、スコセッシは声明文を発表し、「私たちのやっていることはすべてまったく無意味だ」と訴えた。1950年頃からテクニカラーに代わって登場し、現代ではほぼあらゆる映画製作で使われているカラーフィルムが退色に対して何ら防御策を施していない現状では、フィルムメーカーにとって作品が将来にわたって保存される保証がない、とスコセッシは感じたのである。彼は『レイジング・ブル』の劇場公開に立ち合うかたわら、映画祭やシネマテークに顔を出し、フィルムの退色の問題についてスライド等を使った講演を行った。アメリカ国内のみならず諸外国においても映画用生フィルムの主要供給者であるイーストマン・コダックは、そのとき以来、退色傾向の著しく少ない生フィルムをそれまでと同じ価格で提供するようになった──その一方、皮肉なことにパウエル=プレスバーガーものやジョン・フォードもののような、40年代の特定のテクニカラーは、あとの時代のイーストマン・カラーの映画より復元性が優れていることが明らかになった。
『血を吸うカメラ』がイーストマン・カラーで撮られているとすると、それはまだここに書いてあるような保存性の優れた改良が施される前だということになる。それにしては、この DVD に収められたカラー映像は美しい。フィルムで見たことはないのでどれだけ当時の発色に近いのか比較できないが、かなり見事に復元されているといっても良さそうである。
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初めて見たときも強烈な印象を残した映画だったが、今回見直してみて、いろいろ忘れていたところも多いことに気づいた。なかでも、主人公の女友達の母親である盲目の女性の存在がわたしにはとりわけ重要に思えた。
カール・ベーム演じる主人公の青年は、映画スタジオでアシスタントの仕事をする一方で、たえずカメラを持ち歩き、密かにプライヴェート・フィルムを撮り続けている。そのフィルムはだれにも見せることができない。そこには、彼に殺された女たちの断末魔の姿が刻み込まれているのである。彼は下宿の2階のアパルトマンの暗闇のなかで、そのフィルムを夜な夜な上映して、ひとりで眺める。それはだれにも知られることのない孤独な快楽だったはずだ。しかし、それに気づいていた人物がひとりいた。それが階下にすむ青年の女友達の盲目の母親なのである。彼女は盲人特有の鋭敏な聴覚で、青年の人目を忍ぶようなかすかな足音を聞き分け、一度もなかに入ったことのない彼の部屋の様子を頭のなかに描き、彼がそこで夜ごとなにをしているかを察知していたのである。
窃視症の快楽殺人者を描いたこの作品は、同じく覗きをあつかったヒッチコックの『裏窓』などと同じく、映画のメタファーとしてたびたび論じられてきた。そこでは、もっぱら「見る」というまがまがしい欲望をめぐって言葉が費やされてきたように思う。しかし、この盲目の婦人の存在は、この映画では視覚だけでなく、聴覚もまた同じぐらい重要であることを気づかせてくれる。
少年時代に、主人公は学者の父親からモルモット扱いされていた。このことが主人公のゆがんだ人格形成の一因になったともいえるのだが、父親はその様子をフィルムに記録していただけでなく、おびえる少年の叫び声を、5歳のときの声、6歳のときの声、といった具合にすべて録音して残してもいたのである。おぞましい殺人フィルムの最後を締めくくる自らの死の場面を自演し、かつそれを撮影しながら主人公は死んでゆく。その直前に彼は、盲目の女性の娘である女友達に、録音された自分の叫び声を聴かせる。それと同時に、この下宿のいたるところに隠しマイクが仕掛けてあり、住人たちの会話がテープに録音されていたことを暴露する。盗み見ること(映画の原題は「Peeping Tom」である)だけでなく、盗み聴くことが問題でもあったのだ。 以上の部分だけでも、この作品においてサウンドがどれほど重要であるかは一目瞭然だ。もっと子細に見てゆけば、パウエルがどれほど繊細な音の使い方をしているかがわかるだろう。
死んだあとも父親の存在は、どこからともなく聞こえてくる心の声としてたえず主人公を縛りつづける。その声は、実は、マイケル・パウエル自身の声である。そして彼に虐げられる少年時代の主人公を演じているのは、パウエルの実の息子なのだ。なんという倒錯!
これを見て、いまでは珍しくないサイコ・ホラーの走りぐらいにしか思わない人がいるとしたら、それはあまりにも鈍感というものだろう。これだけきわもの的なテーマを扱いながら、崇高ささえ感じさせる作品に仕上げるというのは、ほとんど奇跡といってもいい。
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ベルトラン・タヴェルニエやスコセッシの尽力によって、マイケル・パウエルはいまでは巨匠のひとりに数えられる。しかし、日本で公開された彼の作品は全フィルモグラフィーのほんの一部に過ぎない。その全貌が知られるのはまだまだ先のことだろう。わたしがいま特に見たいと思っているのは、初期の犯罪映画「The Phantom Light」(35)や、スパイ映画『スパイ』(39)およびその続編の「Contraband」(40)などの作品である。こういうのにも誰かが目をつけてソフト化してくれるとうれしいのだが。 (『血を吸うカメラ』はむかし日本でもDVDが出ていたが、いまは中古でしか手に入らない。下の写真は、北米版)
ゴールデンウィークに NHK BS で「怪奇大作戦」が連夜放映された。 「ウルトラマン」で知られる円谷プロが1968年、総力をあげて作り上げたテレビドラマシリーズである。小さいころ再放送で見た記憶があったのだが、今度放映されたのを見ていてもなにも思い出さないところをみると、名前だけ聞いていて実際にはほとんど見ていなかったのかもしれない。見ていなくても見た気になるぐらい伝説的なテレビ番組ということだろうか。
科学捜査研究所、通称 S.R.I. のメンバーたちが、毎回起きる不可思議な事件を科学的観点から説き明かしてゆくというドラマで、特異な事件の裏に潜む人間のゆがんだ深層意識、暗く怪しい雰囲気、シリーズを通して維持されるクオリティーの高さなどから、いまでも根強いファンをもつ。 30年以上前のドラマにしてはやけに画質がいいなと思っていたら、やっぱりデジタルリマスター版を放映していたようだ。フィルムで撮られている画面だけがもつ独特の手触りは、いまのテレビ・ドラマにはないものである。どこもかしこも照明があたっていて陰のない最近のドラマとは違って、画面がとにかく暗い。暗すぎて俳優の顔が見えないこともしばしばだ。こんなのはいまではあり得ないだろう。
68年から69年にかけて全26編のエピソードが撮られている。なによりもタイトルがいい。「壁ぬけ男」「青い血の女」「散歩する首」「ジャガーの眼は赤い」「死者がささやく」「殺人回路」「京都買います」などなど。江戸川乱歩を思わせるようなタイトルがずらりと並ぶが、怪奇と科学のせめぎ合いはむしろエドガー・アラン・ポーだろうか。マニアのあいだではシリーズ晩年の京都ロケもの、特に「京都買います」の人気が高い。京都の仏像が次々と消失する事件が起き、容疑者として浮かび上がってきた仏像を溺愛する若き女性に、S.R.I. のチーフ(でいいのか?)岸田森が珍しく恋をする話で、怪奇色よりもむしろ人間ドラマに焦点を当てた作品だ。小沼勝の『古都曼陀羅』を思い出させなくもない雰囲気があり、悪くはないのだが、個人的には、怪奇と科学が絶妙のバランスを保っている「恐怖の電話」や「かまいたち」などのほうがわたしは好みだ。 「かまいたち」では、謎に満ちた猟奇的バラバラ殺人事件は科学的解決を見るものの、犯人の動機は一切説明されないまま終わる。異常な父娘愛を描いた「白い顔」は、いま見ると笑える部分も多いが、事件が解決したあとのラストカット(ケーキを顔に受けてしまった少年の顔が、能面へとオーバーラップし、一瞬にして笑いを凍り付かせる)がなんともなぞめいていて忘れがたい。原爆の記憶を背景に、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』を彷彿とさせる猟奇殺人を描く「死神の子守歌」もなかなかの名作だ。「呪いの壺」では、最後の炎上シーンの特撮のあまりのリアルさに目を見張らされる。本当に寺が燃えていると思った人がいたそうだが、嘘ではないだろう。わたしも一瞬だまされたぐらいだ。「人食い蛾」では、作り物の殺人蛾のちゃちさにあっけにとられたものだが、円谷プロはこういうミクロな特撮よりも、「呪いの壺」の炎上シーンのような大仕掛けな特撮でこそ真価を発揮するようだ。
それにしても岸田森は名優だね。岸田森映画祭というのをやれば、すごいラインナップになりそうだ。 『放浪記』、『水で書かれた物語』、『斬る』、『帰ってきたウルトラマン』、『血を吸う薔薇』、『黒薔薇昇天』、『ダイナマイトどんどん』、『蘇える金狼』、『総長の首』, etc. ざっと挙げただけでもすごい。まあ、絶対無理だろうが・・・。岸田今日子をいとこにもち、樹木希林の元旦那というぐらいでは、人は集まらないだろう。
「怪奇大作戦」の現代版リメイク「怪奇大作戦 セカンド・ファイル」も同時に BS2 で放映された。設定はオリジナルとほぼ同じで、岸田森が演じた役を西島俊之が担当している。清水崇や中田秀夫など、そうそうたる監督が演出しているのだが、オリジナルの風格にはやはり及ばない。オリジナルのほうは、『無情』で知られる実相寺昭雄(セカンド・ファイルの製作総指揮もやっている)などが監督を手がけているのだが、監督の力というよりは、むしろスタッフ・俳優すべて含めた総合力だろう。ちなみに、オリジナルの脚本には、『野獣都市』の福田純、大島渚や吉田喜重との仕事で知られる石堂淑朗などが参加している。すごいね。
『スパイダーマン3』を今日が初日のつもりで焦って近所のしょぼい映画館に見に行ったら、チケット売り場で「公開は明日からです」といわれ赤っ恥をかいてしまった。ワールドプレミアを日本でやるのはいいが、少年プロボクサーに馬鹿なレポーターがくだらない質問をしている様子が間違って世界配信されてしまったらどうしよう、などと考えて夜も眠れなくなっていたせいかもしれない。 そのまま帰るのももったいないので、映画館近くのしょぼい本屋に行って情報を収集する。柄谷行人の『坂口安吾と中上健次』が文庫になっていた。というか、去年の9月に出ていたのにいま気づいた。そういえば柄谷行人の本はここしばらく全然読んでいない。収められている文章はほかで読んでいるものが結構多かったりするのだが、まとめて文庫で読めるのはいいことだ。そのうち買って読むことにしよう。
ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』が平積みされていた。たしかこれはひさしぶりの再販だと思うのだが・・・。Amazon のサイトではまだ登録されていない模様で、いまのところ中古のものしか注文できない。ほしい人は本屋に走れ。ついでに、ジェイムズ・ハドリー・チェイスも復刊されることを希望する。むかし出ていた文庫は軒並み絶版になっているし、よほど人気がないのか、アメリカの Amazon.com でもハドリー・チェイスの代表作はすべて品切れ状態だ。 ちなみに『裁くのは俺だ』は、リチャード・へフロンが『探偵マイク・ハマー/俺が掟だ!』として映画化している。一昔前までは新世界などで上映していたが、いま劇場で見る機会はほとんどないだろう。傑作だとはいわないが、忘れがたいB級アクション映画の一本だ。ぜひ、DVD化してほしい作品の一つである。テレビ・ドラマで永瀬正敏が演じた濱マイクは、むろん「マイク・ハマー」のもじり。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』の原作がミッキー・スピレインであることも、老婆心から付け加えておく(最近、教育的であろうと心がけているのだ)。
一方、ハドリー・チェイス原作の映画としては、ジョゼフ・ロージーの『エヴァの匂い』やロバート・アルドリッチの『傷だらけの挽歌』などが有名だ。しかし、ゴダールの『映画というささやかな商売の栄華と衰退』の原作がジェームズ・ハドリー・チェイスの『ソフト・センター』だというのは、にわかには信じがたく、おもわず笑ってしまう。
「ぴあ」を立ち読みしていて、『大エルミタージュ美術館展』が 5月の13日までだということに気づく。5月いっぱいぐらいまでやっていると思っていたのに、計算ミスだ。予定を変えて、『スパイダーマン3』は1日のサービスデーに京都で見ることにしよう。連休の美術館は混雑しそうでいやだが、しかたがない。そういえば、先日、「ベルギー王立美術館展」を見に梅田の国立国際美術館に行ってきたのだが、平日だったとはいえ結構がらがらだった。この美術館に入ったのは初めてだ。というか、こんな美術館ができていたとは実は知らなかった。鉄骨がむき出しになったガラス張りのエントランスをくぐるといきなり階下に通じるエスカレーターが続くという構造は、いかにもルーブルをまねたといった感じの作りになっていて、建物自体にはそれほどオリジナリティは感じられなかったけれど、なかの雰囲気は悪くなかった。
展示ホールにはいると、入り口のところにいきなりピーテル・ブリューゲル(父)の「イカロスの墜落」が目に飛び込んできて驚く。実は、この絵一枚を見るためにわざわざ出かけてきたようなもので、ほかの作品はそのついでといってもいいくらいだった。それだけに、もう少し期待感をじょじょに高めていったところで登場してほしかったのだが、これには少し拍子抜けした。しかし、そんなわたしの興奮をよそに、訪れた人々はこのブリューゲルの傑作を5、6秒ちらと眺めただけで素通りしてゆく。どこの美術館でも見慣れた光景だとはいえ、フェルメールを大阪や神戸に見に行ったときはそこだけ行列ができていたものだ。ブリューゲルはそんなに有名ではないということか(そんな馬鹿な)。ともかく、鈍感な来館者たちのおかげで、だれにも気兼ねすることなく思う存分鑑賞することができたのはよかった。 しかし、一枚の絵に対してどのような距離をとり、どれだけの時間見つめたらいいのかというのは、実をいうと、なかなか難しい問題である。
絵と彼との距離はぴったりと測定された何かであり、ひとつの作品から次の作品に移る動きにしてもすこしの乱れもなく、きわめて自然なリズムがあり、彼の視線の漂う方向に絵が吸い込まれるのだろうか、見事に停止して、そのあいだには緊張のみがある鑑賞姿勢であった。
これは、美術評論家 宮川淳が美術館で絵を見るときの様子を、友人吉田喜重が描写した文章だ(『吉田喜重 変貌の倫理』)。こんなふうに見ることができたら理想的なのだが、凡人にはなかなかそこまで到達した見方はできない。わたしの場合、後ろ髪を引かれる思いで絵をあとにし、しばらくうろうろしたあとで、人の流れに逆行してまたその絵のところに戻ってきたりと、いつも無様な見方ばかりしている。宮川氏のようなかっこいい鑑賞ができるようになることはたぶん一生ないだろう。
ルペンが大敗したのはよかったが、かといってサルコジの大統領姿は見たくないな・・・。しかし、そうなるんだろうか。
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パスカル・ボニゼールの『歪形するフレーム ─絵画と映画の比較考察─』を読み始める。やっぱり梅本洋一の訳は読みにくい。できれば原書で読みたかったのだが、いつの間にかフランスでも品切れ状態になってしまっていた。仕方なく翻訳を買ったのだけれど、読んでいるとなんだか尻がむずがゆくなってくる。何度読んでも意味がすっきりとおらないのは、なにもわたしの頭が悪いせいだけではあるまい。たとえば、こんな箇所。
「ミトリは、『2001年宇宙の旅』や『トロン』の空間を考慮するまでもなく、観客たちが関心を持っている空間(スクリーンの空間だ)がフィルムに撮られる前の空間としばしばなんの対応関係もなく、だが、古典的なマスク・反マスクから、単なる『発見』を経て電子的なマットに至る様々なものが混合したトリックの結果であることを知っているはずだから、このことはますます不可思議なものになる。というのは、映画の映像とは、もしその映像が記録というものを通過して、その具象的な構造を獲得するなら──たとえ総合的な映像について言及しないまでも今日のビデオやコンピュータの効果が大きく映像を変形することができるにせよ──、当然のことながら形のない絵画同様の映像の宇宙から派生するものだからである。だから、偉大な映画作家たちはつねに偉大な画家をその存在証明にするのだ。」
原文がないので、これがどれほど正確な訳なのかはわからない。「総合的な映像」とあるのは、たぶん、「image synthétique」の訳なのだろうと推測がつく。「synthétique」は、哲学用語としては、「analytique」(「分析的」)に対立する言葉で、「総合的」と訳されることが多いのはたしかだ(そういえば、今日の衛星ニュースで、サルコジが「La France est une synthèse」と連呼していた)。が、「image synthétique」となると、ふつうは「合成映像」の意味になる。ここは文脈上そう訳さないとわからない。しかし、そうした単語レベルの話ではなく(まあそれも重要なのだが)、文の各要素がどう関係しているのかがさっぱりわからないのだ。それにこの本、誤植が多すぎるぜ。もうちょいプロ意識を持って作ってほしかった。
『叫』
ホラー・ノワール。役所広司演じる刑事は、不可解な連続殺人の現場に、犯人が自分であることを指し示す証拠物を見つけてとまどう。まるで自分の影を追っているような不気味さ。どんよりとのしかかってくるいわれない罪の意識。役所広司は赤いドレスを着た幽霊に向かって「おまえはだれなんだ」と問いかけるが、それは結局、自分はだれなんだというアイデンティティの問いかけでもある。これはフィルム・ノワールの中でもとりわけダークなある種の作品群の伝統につながるものだ。自らが犯した犯行を隠蔽しつつ、見つかるはずのない犯人を捜査する演技をつづける『歩道が終わるところ』のダナ・アンドリュース。あるいは、だれよりもよく知っている犯行現場にはじめて来たふりをする『飾窓の女』のエドワード・G・ロビンソン。あるいは、イーストウッドが半分監督したともいわれているリチャード・タックルの『タイトロープ』で、自分が関係した娼婦たちが次々と殺されていくのを目にして、否が応でも犯人と自分をダブらせていくイーストウッド演じる刑事。あるいは、出来は遙かに劣る凡作だが、ホラーとハードボイルドの融合という点だけをとれば、ウィリアム・ヒョーツバーグの『堕ちる天使』を映画化した『エンジェル・ハート』も『叫』と通じるものがある。小説でいえば、ジム・トンプスンの犯罪小説や、あるいは・・・。いや、きりがないのでやめよう。
作るでも壊すでもなく、ただ忘れ去られてゆく街。だれにも気づかれずに朽ち果ててゆく死体。同じ手口の連続殺人事件と、不連続な殺人者たち。フェリーの上から見た風景の記憶がよみがえり、数十年の時を経て、死者の視線がその切り返しショットとしてよみがえるとき、物語はクライマックスへと突き進んでゆく。またしても物語の核心に据えられた水浸しの廃墟のような建物に最後に行き着いても、それで物語が終わらないことは端から予想されたことである。家に帰るとそこにはもう一人の死者がまっているというラストは、あるいは『雨月物語』を意識したものだろうか。新聞紙が路上で風に舞うワンカットで世界の終末を感じ取らせるB級センス。しかし、そこにはただ終末の雰囲気があるだけだ。
『LOFT』だけでは確信が持てなかったが、『叫』を見ると、やはり黒沢清はホラーとコメディのあいだでも危ない綱渡りを演じようとしているように思える。ただ、どこまで確信犯でそれをやっているのかはよくわからない。『Cure』や『回路』でオリジナリティあふれるホラーなどいくらでも撮れることを見せたあとで、ミイラやこの世に恨みを残した女幽霊といったテーマをあえて取り上げるのも、黒沢清なりの闘争なのだとは思うが、このあたりは黒沢清を評価する海外の批評家のあいだでさえ理解しにくいところであるようだ。実際、『LOFT』『叫』などの近作を、一種の作家的後退ととらえる海外の批評は少なくなかった(もちろん、その一方で、これらの作品を熱烈に支持する黒沢清ファンも確実に存在する)。
それにしても、8ミリ時代からのファンとしては、最近の黒沢清に対する評価の高さにはちょっとたじろいでしまう。むかしは、『勝手にしやがれ』シリーズなどを見ていると、「高級な」映画ファンから馬鹿にされたものだが、いまでは黒沢清は、ほめないと馬鹿にされるような存在になってしまった。『LOFT』など、恋愛映画としてみれば、惨憺たるできばえだったと思うのだが、だれもそんなことは問題にしていないようだ。
ロバート・シオドマクの DVD-BOX がフランスで発売された。『殺人者』『幻の女』『Cobra Woman』の3作が収録されている(このうち『殺人者』は日本でも DVD が出ている)。特典映像も多数収録されているとのこと。『Cobra Woman』だけは見ていないのだが、タイトルからなんとなくフィルム・ノワールを想像していた。だが、調べてみると、どうもそうではないようだ。南国の島コブラ・アイランドで繰り広げられる、姉妹の争いを描いたトロピカル・アドヴェンチャー映画らしい。シオドマクとしては失敗作の一つに数えられているようで、フランスのガイドブックには「A voir à titre de curiosité」(「興味本位で見るべき作品」)と書いてある。そういわれると逆に見たくなるのだが、どんなものだろうか。対照的な姉妹というテーマは『暗い鏡』を思い出させるし、その点でも興味深い。 ちなみに、コブラ・アイランドは、わたしの簡単な調査によると、想像上の島で実際にはそんな島はないようだ。Wikipedia には、 >> Cobra Island is the main base of operations for the fictional Cobra Organization featured in the G.I. Joe toyline from the 1980s. It is featured in both the cartoon and comics. << とあるが、『Cobra Woman』についての言及はない。
シャンタル・アッケルマンの近作はこれまでにも数本DVD化されているが、初期の作品はまだソフト化されていなかったように思う。だから、この4月にフランスで、アッケルマンの70年代作品がまとめてDVDとして発売されるのはうれしい知らせだ。下の DVD-BOX「Coffret Chantal Akerman , les années 70」には、「Hôtel Monterey / Je, tu, il, elle / Jeanne Dielman, / News from home / Les Rendez-vous d'Anna」の5作が収められている。ちなみに、ドゥルーズの『シネマ』で言及されるアッケルマン作品も、すべてこの時代の作品である(まあ、この本が出たのが80年代の半ばだから、それ以後の作品が出てこないのは当然なのだが)。 「Jeanne Dielman, 23 Quai du commerce, 1080 Bruxelles」は単品でも発売される。が、値段を考えると BOX で買ったほうが圧倒的にお得だ。せめてフランス語と英語の字幕ぐらいはつけておいてほしいところだが、経験上、フランスで発売されるフランス映画に字幕がついているものはかなりまれだと思われるので、これもついてないと考えておいたほうがいいだろう。少なくとも、Amazon のページにはその旨は記載されていない。
ペドロ・コスタの新作「En avant, jeunesse!」が 2007年秋からフランスで公開される模様。 「En avant, jeunesse ! 」は、訳すとするなら「若者よ進め!」ぐらいの意。最初見たときは記事のタイトルかと思ったが、これが作品名らしい。 『ヴァンダの部屋』で描かれた街はもはや存在しない。かつてそこに住み、いまはリスボン郊外の低所得住宅に住む男ヴェンチュラがこの映画の主人公である。彼が出会う子供たちは、〈彼自身の〉子供たちとなる・・・(タイトルはここからきているらしい)。見る前にあまり作品のことは知りたくないので記事はちゃんと読んでいないのだが、要約するとこういう映画のようだ。『ヴァンダの部屋』のある意味で続編といってもいいだろう。日本での公開については不明だが、『ヴァンダの部屋』が奇跡的に公開され、DVDにさえなっているぐらいだから、可能性はある。
"En avant, jeunesse!"
de Pedro COSTA
France/ Portugal/ Suisse - 2006 - 2h34 - 35 mm - couleur - Dolby SRD
Sortie le : Automne 2007
『ブーベの恋人』で知られるルイジ・コメンチーニがなくなった。『ブーベの恋人』はゴダールがベストテンに入れたりしているので見ているものの、正直いってそんなに関心をもっていた監督ではない。しかし、「リベラシオン」に載った追悼文や、フランスで出ている映画ガイドなどを読んでみると、その評価が非情に高いので驚かされる。考えてみれば、わたしは『ブーベの恋人』と『パンと恋と夢』ぐらいしかこの監督の作品は見ていない。メロドラマの傑作といわれる『天使の詩』、未公開だが代表作の一本とされている「Le Scopone scientifico」ぐらいは見ておかないと、正当な評価はできないようだ。それにしても、「リベラシオン」の記事その他で、テレビ映画『ピノッキオの冒険』の評価がやたら高いのだが、本当だろうか。
『ラーゼフォン』というテレビ・アニメをたまたま見ていたら、10話目ぐらいまで見たところで、「脚本 小中千昭」とクレジットにあるのに気づいて、驚いた。テレビのアニメの脚本は毎回変わることが多い。このアニメも小中千昭が全回担当しているわけではないが、その後も数回クレジットされているところを見ると、わたしが気づいていなかっただけで最初のほうのエピソードの脚本も彼が何度か書いていたようだ。 結構有名な作品なので、アニメ・ファンならとっくに見ているだろう。逆に、アニメを見ない映画ファンは、説明したところで見ないだろうし、詳しくは書かない。いかにも「エヴァンゲリオン」以後といった匂いのぷんぷんするロボットものSFだとだけいっておく。思わせぶりな作り方をしているが、「エヴァンゲリオン」ほどの晦渋趣味はなく、その分素直に楽しめる作品だろう(だから、いくぶんインパクトに欠けるということもできるのだが)。
一方、小中千昭については、アニメ・ファンはたぶん知らないが、映画ファンならだれでも知っている名前だといっていいだろう。「ほんとにあった怖い話」など、数々のホラーものの脚本を書いてきたベテラン・ライターである。メイクやCGによる画像処理を使わずに、生身の俳優を画面のどこかに立たせるだけで、異様な雰囲気をスクリーンにみなぎらせる演出のことを、黒沢清は「小中・鶴田方式」と命名している(鶴田はもちろん鶴田法男のこと)。黒沢清自身が多大なる影響を受けている手法である。(『黒沢清の恐怖の映画史』を参照)
しかし、小中千昭がこういうアニメのホンも書いていたとは知らなかった。そういえば、小さいころ好きだったアニメに『ガンバの冒険』というのがある。動物たちの冒険を描いた作品で、主人公の動物たちはいかにも子供向けといったかわいらしいキャラクターに描かれているのだが、かれらの宿敵であるノロイ(呪い?)という名のイタチが登場するシーンだけは、場違いなほどの劇画タッチで、凍り付くような恐怖感をもって描かれ、見ていて非情に怖かった。そこだけとると、わたしのなかではいまだにいちばん怖いアニメの一つである。 ずいぶん後になって、その『ガンバの冒険』をたまたまテレビで放送されたときに見直していたら、「シナリオ 大和屋竺」とクレジットに出たのでびっくりしたものだ。いくら小学生だったとはいえ、大和屋竺の名前を見逃していたとはうかつだった。これだから、アニメだといって気が抜けないのだ。
(しばらく更新していなかったので、穴埋めに没ネタを載せてしまいました。次回はもう少しがんばります。)
フランスではジャック・リヴェットの新作『Ne touchez pas la hache』が公開されていて、これが結構評判がいい。原作はバルザックの『ランジェ公爵夫人』。『アウト・ワン』『美しき諍い女』に続く3度目のバルザック作品の映画化である。 『ランジェ公爵夫人』は『十三人組物語』の一篇だ。数年前に刊行された「人間喜劇」セレクションにはいっているが、いまは古本でしか手に入らないようである(そろそろちくま文庫で全集が出ないものか)。バルザックというとなにか古めかしい古典作家というイメージを抱いている人も多いだろう。しかし、だまされたと思って、たとえば『ラブイユーズ』でも読んでみてほしい。たしか、フランス語版では、序文をエリック・ロメールが書いている本だ。この無類のピカレスク小説を読んで面白くなかったら、わたしも諦めるしかない。あなたは小説のおもしろさがたぶんわからない人なのだ。
リヴェット、ロメール、そして、『夜霧の恋人たち』で『谷間の百合』を引用するトリュフォー、『暗黒事件』を熱く語るゴダール。ヌーヴェル・ヴァーグが好きだというなら、バルザックぐらい読んでいないと話にならない。
『Ne touchez pas la hache』はベルリン映画祭に出品されていた作品なので、すでに日本にも噂は伝わっている。それに、わたしはまだ見ていないので、今日は映画とは直接、というかまったく関係のない話をしよう。"Ne touchez pas la hache" というフランス語についてだ。
"toucher" というフランス語は、英語の touch とほぼ同じような動詞である。基本的に「さわる」を意味する単語だが、そこから「感動させる」などという意味も派生する。"Ne touchez pas la hache" はこの動詞を否定命令形で使った文章で、直訳すると「斧にさわるな」という意味になる。
ところで、この動詞は、自動詞としても他動詞としても使われる。問題は、その使い分けが結構微妙なことだ。「さわる」という意味から、この動詞は直接目的語しかもたないと思いこんでいる人がいるようだが、それは間違いである。たとえば、ジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』の原題は "Ne touchez pas au grisbi" であり、ここでの toucher は自動詞として用いられていて、grisbi(「現金」)は文法的には間接目的語になる。一方、リヴェットの "Ne touchez pas la hache" では、toucher は他動詞として用いられていて、hache は直接目的語に当たる。
両方とも「さわる」という意味で使われているところは同じなのだが、toucher が自動詞として使われている場合と、他動詞として使われている場合では、どのような違いがあるのだろうか。『ロワイヤル仏和辞典』には、「toucher qc. にはさわる人の感触が含まれるのに対し、toucher à.にはそれがなく、また強い衝撃も示さない」と書いてあるが、よくわからない説明だ。相変わらず、辞書は肝心なときに役に立たない。前に紹介した(これはしていなかったか)一川周史の『初学者も専門家も動詞オンチではフランス語はわからない』には、toucher à のほうは、「包括的に関係をもつ」というニュアンスがあり、à がはいらなければ、(直接目的補語)「そのもの "を" じかに触る」という意味になると書いてある。まだわかりにくいが、そこにあがっている例文をいくつか見ていくと何となく違いが見えてくるようだ。
toucher le but / au but (的に当てる/目的に近づく(核心に入る)
toucher le plafond / au plafond(〔頭が〕天井につく/つきそう
)
toucher son salaire / à son salaire(給与を 受け取る/に手をつける)
toucher le tableau / au tableau(絵 を(に)触る/に手を加える)
こう並べてみると、微妙というよりはかなり明確な意味の違いがあることがわかる。最初の2例は、他動詞 + 直接目的補語が「接触」を、自動詞 + 間接目的補語が「接触寸前」を意味する場合があることを示している。あとの2例では、直接目的(à なし)の場合は対象に直接触ることを、à ありの場合は、もっと広い意味で対象と関係をもつことを示しているようだ。 だから、"Ne touchez pas au grisbi" を、「現金にさわるな」ではなく、「現金に手を出すな」と訳すのは正しいといえる。
と、つまらないことにこだわってしまった。しかし、こういうことにこだわらない人は語学の上達もあるレベルで止まってしまう。それだけはたしかだ。
「フランス映画祭2007」でオリヴェイラの新作『ベル・トゥジュール』を見る。
この映画祭は数年前から行われているものだが、毎年上映作品には、これが本当にフランス映画のいまを代表する作品なのかどうかいまひとつ信用できないものばかりが並べられていて、どうもあまりぱっとしない(どうしてウジェーヌ・グリーンをやらないのだ、としつこくいわせてもらう)。おまけに、例によって、関西では東京でのプログラムが縮小再生産されるかたちになっていて、たとえば今年は、東京では上映されたジャック・ドゥミ作品や、FEMIS 出身の新進作家特集などがまったく上映されなかった。フランス滞在中に『Femme Femme』という作品を見たことのあるポール・ヴェッキアリの『ワンス・モア』なども関西では上映されない。こういうものを関西で見るのは結構難しいのだ。
それにどうして会場が、TOHOシネマズなのだろうか。関西の会場となっていたのは、難波と高槻の TOHOシネマズという映画館だ(東京では、六本木と横浜の TOHOシネマズ)。今回初めて TOHOシネマズ高槻という映画館にいったのだが(というか高槻の駅で降りたのは何年ぶりだろう)、一言でいうなら、ここはごくごくふつうのシネコンである。つまり、まるで個性のない映画館ということだ。シネコンというのはどれもこれも同じような顔をしていてまったく見分けがつかない。昔はどの映画をどの劇場で見たかをはっきり覚えていて、映画館の記憶とそれを見た場所の記憶とは切り離せないものだった。最近それがおぼつかなくなってきたのは、年をとったせいだけではなく、シネコンで映画を見る機会が圧倒的にふえてきているせいでもあるに違いない。実際、ビルのエレベータで上がってTOHOシネマズ高槻の薄暗いホールに降り立ったとき、一瞬、間違ってナビオTOHOプレックスにきてしまったのかと思ったほど、この二つのシネコンは印象がそっくりだった。これでは、映画館が特権的な場所として人の記憶に残っていくわけがない。だから、ジョナサン・ローゼンバウムの『Moving Places -- a Life at the Movies』のような書物は、もは書くことが不可能となりつつあるのだ。
テレビでコマーシャルが流れているような映画しか普段やっていない劇場で、そういう映画が平行して上映されているなかでこういう催しをやられてもお祭り感はまるで出ない。見られればいいじゃないかという人も多いかもしれない。しかし、受付でチケットを買う、そのチケットをもぎってもらうという一連の手続きに、映画という世界にはいってゆくための必要不可欠な入信儀礼の儀式を見いだしているわたしのようなものには、「映画祭」と銘打っているからには、祭りを成り立たせる最低限の準備はしてほしいものだと思う。余計な仕事がふえたというような感じで仕事をされても困るのだ。『ベル・トゥジュール』の上映前のアナウンスで、係の若い男性は「ベル・トゥジュール」というタイトルがうまく読めずに、3度も読み直す始末だった。なれないフランス語が読みにくかったのだろうが、上映される映画のタイトルぐらいは覚えておいてほしかった。
さて、オリヴェイラの新作『ベル・トゥジュール』について。とりあえずメモ風にまとめておく。
「Belle toujours」というタイトルは、ブニュエルの『昼顔』の原題「Belle de jour」を意識したものである。昼間だけ現れる娼婦をカトリーヌ・ドヌーヴが演じたブニュエル作品で、ドヌーヴは「昼の美女」を意味する「Belle de jour」(植物の昼顔も指す言葉)と呼ばれていた。昼だけではなく、いつも(永遠に)美しい女を意味する「Belle toujours」というタイトルをもつオリヴェイラの新作は、『昼顔』と同じ名前のヒロインに、同じく『昼顔』でドヌーヴを導くメフィストのような役を演じていたミシェル・ピコリが 38 年ぶりにパリで再会するという、『昼顔』の後日譚のような物語を描いている。しかし、この作品を『昼顔』の続編であるとか、『昼顔』に付け加えられたポストスクリプトゥムであると簡単にいってしまっていいのだろうか。
ドヴォルザークのコンサートの客席で交わらぬ視線劇が演じられたあと、ドヌーヴならぬビュル・オジェ演じる『昼顔』のヒロインと同名の女性セヴリーヌがタクシーに乗って逃げるように夜のパリの街角に消えてゆくところから映画は始まる。パリを俯瞰する光景をときおりはさみながら、昼の世界と夜の世界が律儀に代わるがわる描かれてゆく。その緩やかな反復のリズムのなかで、ビュル・オジェとミシェル・ピコリがルビッチ作品にも似た滑稽な鬼ごっこを演じる。一方、ピコリが通うバーでは、そこだけが別次元であるかのように、ピコリとバーテンのあいだで『昼顔』の物語が確認され、分析される。ピコリは自分もその物語の主人公であることについては終始曖昧な態度をとり続ける。というよりも、無関心であるといったほうがいいのかもしれない。ここでは誰も彼もが傍観者なのである。
映画が半ばを過ぎたころ、一連のすれ違いのあとで、ピコリとビュル・オジェは骨董店の前でようやく言葉を交わすのだが、高い位置から俯瞰で撮られたロングショットからはふたりの台詞はまったく聞き取れない。最後の場面になって、それが物語の核心にある秘密を打ち明けることを条件に交わされたディナーの約束であったことがわかる。シックな個室でテーブルをはさんで向かい合ったふたりが、いつまでたっても物語の核心(『昼顔』でドヌーヴの夫は彼女の真実を知らされていたのかどうか)に迫っていかないように思える会話をつづけているあいだに、ろうそくの灯は次第に小さくなってゆき、ついには部屋は真っ暗になる。暗闇のなか憤慨したビュル・オジェがテーブルをひっくり返しそうな勢いで出て行ったあと、廊下の明かりに四角く浮かび上がったドアの向こうに、いかにもブニュエル的な記号を背負わされたといった風情で現れる鶏。そうして誰もいなくなった部屋で、若いふたりの給仕が「drôle de type」と何度もつぶやきながらテーブルを片付ける様子をとらえた、あからさまに演劇的な長いフィックス画面で映画は終わるのだが、ただでさえ長い間合いのこの映画のなかでもとりわけ長いこの場面で、この脇役ともいえないほどの人物たちが不意に重要な存在として浮かび上がってくる。この給仕たちは、バーにいつもいる娼婦たちと同じ下層階級であり、彼女らと同じように『昼顔』の物語からは閉め出されている脇役以前の存在だ。ピコリとビュル・オジェの物語自体が『昼顔』への批評なのだが、オリヴェイラはこの給仕と娼婦たちに別次元の批評性を託しているように思える(しかも娼婦を演じているのは『家宝』の女優であるという自己言及性)。
最初からわかっていることではあるが、結局、『昼顔』の謎は何一つ解決しない。わたしには、そこにさらにピラミッド広場の黄金のジャンヌ・ダルクという謎が一つ余計に付け加わることになった。
ロレンス・ダレルの傑作『アレクサンドリア四重奏』が河出書房から全巻復刊されることになった。まずは今月、第一巻「ジュスティーヌ」が出、その後、ほぼ一ヶ月に一冊のペースで、第二巻「バルタザール」、第三巻「マウントオリーブ」、第四巻「クレア」が順次出版されていく予定になっている。 わたしが学生のころにはかろうじてまだ本屋に並んでいたが、その後ずいぶんながいあいだ絶版になっていた本だ。ひょっとして知らない人もいるのだろうか。「現代における愛の探求」を主題にした、恋愛小説のもはや古典といってもいい本だ。これを読まないと恋愛小説は語れない。三島由紀夫はこの大作を、「20世紀最高傑作の一つであり、優にプルースト、トーマス・マンに匹敵する」といって絶賛した。プルーストというのは間違いなく言い過ぎだと思うが、トーマス・マンならひょっとして、というぐらいの名作である。少なくとも、『豊饒の海』よりも面白いのはたしかだ。柄谷行人がこの本について書いていた文章を引用しておこうと思ったが、どこにあるのか忘れてしまった。まあいい。 四つの作品は、単純に続きが物語られるのではなく、もっと複雑微妙な構成になっている。一巻目の「ジュスティーヌ」だけでも一応完結しているので、それを読んでいやになった人はやめればいい。とにかく、読まないと始まらないので・・・
いくつもの本を平行して読んでいるので、ときどき頭が変になりそうになる。いま読んでるのは、アガサ・クリスティの "The Witness for the Prosecution" (ビリー・ワイルダーの『情婦』の元になった同名短編)が入っている短編集のペーパーバックと、これもペーパーバックでトム・クランシーの "Net Force", それから、『家庭教師ヒットマン REBORN!』という別にどうということもないがけっこう笑える漫画(『うる星やつら』の影響をもろに受けているような気がするアクション・コメディ)など。しかし、こんなものばかり読んでいると馬鹿にされるので知的なものも一冊読んでおこうということで、例によって買ったままながいあいだ放っておいた『絵画の準備を!』を読み始める。 わたしが紹介するのもなんなので、帯に言葉を書いている、いとうせいこう、島田雅彦、浅田彰の三人の言葉を引用しておく。
絵画の問題系をもらさず網羅した濃厚で緻密な対談。語られるべきすべての絵画の、言語形式での完全アーカイブ。このテキスト群はまるで百科全書のように一生涯参照可能だ。いとうせいこう
岡崎乾二郎、松浦寿夫の両氏は芸術の歴史に深く思いを馳せながら、最初の原則に立ち戻るために言葉の限りを尽くしている。島田雅彦
絵を描こうと思ったら白い画布に虚心に対面しさえすればいい──この通念がイデオロギー的虚構に過ぎないこと、「絵画の準備」のためにはそのような虚構こそを粘り強く解体していかねばならないこと、この対話集で語られるのは煎じ詰めればそのことだけだと言ってもいい。ただ、その議論が、ルネサンスから現代、西洋美術から日本美術に至る広い範囲にわたって、たえず具体的な作品に即して展開されるので、読者はつねに新鮮な発見に満ちた議論を追いながら、自ずと凡百の美術書をどれだけ読んでも得られぬ知見を得ることができるだろう。セザンヌやマティスのどこがどう面白いのか、グリーンバーグやクラウスは要するになにを言っているのか……。向かうところ敵無しという勢いで縦横無尽に論理を展開し議論をリードする岡崎乾二郎。時に暴力的でさえあるその論理を柔らかく受けとめ、歴史的な細部や感覚的なニュアンスにこだわりながら巧妙に補助線をひいてゆく松浦寿夫。理想的とも言うべき顔合わせによる、これはきわめて実り豊かな対話の記録である。浅田彰
ここまでほめられるとわたしでなくともつい買ってしまうだろう。しかし、そう生やさしい本ではない。お手軽な知識が必要な人は、インターネットで適当なサイトを探してブラウズしていたほうが身のためだ。400ページを超える分厚い書物で、いい紙を使っているのかもつとずしりと重い。論文ではなく対談だけを収めたものなのだが、おちゃらけた部分はほとんどなく、どのページを開いてもレベルの高い議論が緻密に展開されている。モダニズムを論じた章では、カントやレヴィ=ストロースの話が大部分を占めていたりして、全体的に美術というよりも哲学的な問題が掘り下げられてゆく。たしかに読み応えはあるけれども、最後まで読み通すのは一苦労だろう。随所に注目すべき見解が提示されているので、わたしのように美術の専門家でないものは、自分の気になるテーマだけに目をとめてそこだけを集中して読むだけでもためになるかもしれない。純粋視覚、平面性などといった問題系は映画を考える際にも有効だろう。とはいえ、グリーンバーグの美術評論など、いわゆる「猿でも読んでいる」本ぐらいは最低限目を通しておいたほうがいい。というか、それさえ読んでいない人がこの本を読んで得るものがあるかどうか。 この内容で3000円もしないのは激安といってもいいだろう。とにかく買っておいて損はない本だ。
テレビで紹介されていたのを見て以来、気になってしかたがないDVDだ。日本各地の工場地帯を歩き回って、工場の風景を延々映し出すだけの映像なのだが、短い抜粋を見ているだけでも引き込まれる。前にここで書いたが、『宇宙を夢見て』というロシア映画がちょっといいなと思ったのは、実際には宇宙とはなんの関係もない青春映画にもかかわらず、そこに出てくる工場の風景がどこかSFめいて見えてくるところだった。巨大なタンクがひしめくように並び、いくつものパイプがそのあいだを縫うようにして走っている。なかでは大勢の労働者たちが働いているのだろうが、遠くから見ていると人がいるように思えない。ただ白い煙だけがあちこちからモクモクとあがっている。それでいて、結局のところなにを作っているのかさっぱりわからない。そんな近未来の宇宙ステーションかなにかを思わせる鉄のかたまりがもつ不思議な魅力。わかる人にはわかるが、わからない人にはまったくわからないところが、いっそうマニアの心を刺激して〈萌え〉させるのだろう。
工場には、宇宙のイメージと同時に、どこか廃墟に通じるようなものがある。わたしは工場マニアでもなんでもないのだが、廃墟マニアだとはいえるかもしれない。町を歩いていてビルの解体跡などを見かけるとつい立ち止まってしばらくじっと眺めてしまう。ユベール・ロベールの描く廃墟画や、ピラネージの牢獄の絵は何時間見ていても飽きないぐらい大好きだ(そういえば明日から始まる「大エルミタージュ展」にはユベール・ロベールは入ってるんだろうか)。寂れた工場の風景にもそんな廃墟の雰囲気がある。いや、別に寂れていなくとも、巨大な工場はそれ自体が廃墟である。たとえば、黒沢清の映画には廃墟のような場所が繰り返し舞台として登場する。その無人のだだっぴろい空間のもつ魅力は、工場の風景がもつ魅力と結局は同じものといっていいだろう。実際、黒沢清の映画にはどこかの廃工場が重要な舞台として使われることが少なくない。
ただ、廃墟という言葉はいまではずいぶん手垢にまみれてしまっている。栗原亨の『廃墟の歩き方』のような本がそれなりに売れ、薄っぺらい廃墟本がいくつも書かれてしまった。いまさらこういう場所で廃墟美を語るなど恥ずかしくてとてもできない。もしも廃墟のDVDがあったとしても見たいとは思わなかっただろう。そこへいくと工場というのは盲点だった。これがあったか、やられたという感じだ。つい見てみたいと思ってしまった。このままだと買ってしまいそうである。
欲をいうなら、これには日本の工場しか入っていないようなので、ぜひアメリカ編や、地中海編などを作ってほしいものだ。思いつくまま挙げるなら、たとえばロバート・アルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』で、試合のあいだに挿入される移動の場面で車外に映し出されるいかにもアメリカ的な工場風景などが、本筋とは関係のないところでなぜか記憶に残っている(キャメラはたしかジョゼフ・バイロック。思い出しながら書いているので、ひょっとしたら工場なんか出てこなかったかもしれない。録画したビデオがあるが確認するのも面倒だ)。
ちなみに、姉妹編として『工場幻想曲 インダストリアルロマネスク』というDVDも出ている。
どうでもいいが、最近の ATOK はキーボードで「もえ」と打つと「萌え」と変換してくれるようになっていることを初めて知った。
ロバート・ワイズの『地球の静止する日』(51)がリメイクされるという話は聞いていたが、オットー・プレミンジャーの『バニー・レイクは行方不明』をリメイクするという企画もあるらしい。『フライトプラン』をニューロティックにしたような『バニー・レイク』の物語はたぶんいまでもそれなりに受けそうな気はする。監督のジョー・カーナハンがどの程度の人物なのかは作品を見たことがないのでよくわからない。ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』の監督も任されているということは、かなり期待されている新人監督なのだろう。『M:I-3』を途中で降板した理由は知らないが、渋いB級テイストの映画を作ってきた監督が、大作主義的な映画作りに嫌気がさしたのではないか、と勝手に想像してみる。そういう監督なら、『バニー・レイクは行方不明』のリメイクも少しは期待できるかもしれない。脚本の出来が重要になると思われるが、シナリオは『クイルズ』でゴールデングローブ賞を取ったダグ・ライトが担当したとのこと。
『地球の静止する日』のほうは、ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』の原案を書いてもいるスコット・デリクソンが監督することになっている。50年代の冷戦時代を背景に撮られたSFの古典をこの時代にどう描き直すのか。まあ、あまり期待しないで待っているといったところだ。
オリジナルのほうは、たしかに巨匠ではあるが作家としての魅力には欠けるロバート・ワイズの作品のなかでは、わたしのいちばん好きな一本である。バイロン・ハスキンの『宇宙戦争』(スピルバーグがリメイクした作品)とほぼ同じ頃に撮られた作品で、こちらも地球外生物の到来を描いた作品だ。宇宙船の場面で効果的に使われているテルミンの音楽が忘れがたい印象を残す。宇宙船の内部の不気味な照明も見事である。 共産主義への恐怖からドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)や『宇宙船の襲来』(58)のような侵略ものSFがはやった時代であるが、この映画が侵略ものであるかそうでないかは少し曖昧だ。宇宙船で地球にやってきた異星人(といっても外見は人間そっくりであり、その理由は作品内では特に説明されていなかったように思う)は、地球がそのもてる科学を危険な方向に発展させ、宇宙にとって脅威となることのないよう警告しにきたと語る。しかし地球人(というかアメリカ人)は、共産主義と資本主義というイデオロギーの問題にかまけていて目の前の危機を理解できない。もしも地球が平和を守らないなら、地球を丸ごと破壊するしかないと、異星人は警告して去ってゆく。異星人=共産主義者を暗に示唆するたぐいのSFとは違い、つまらぬ争いの無意味さを説くところは、『ウェスト・サイド物語』のロバート・ワイズらしい倫理的作品であるが、恐怖によって平和を押しつける宇宙人は、侵略して破壊を繰り広げる宇宙人よりもある意味たちが悪いともいえる。いまのアメリカに似ていなくもないこの宇宙人が、リメイクではどのように描かれるのか、見てみたいものだ。
ついでだが、このころワイズが撮った『捕らわれの町』(The Captive City)という作品をぜひDVD化してほしい。ワイズの映画は数多く公開されているが、例によって、フランスのシネフィルのあいだで評価の高いこういう作品に限って未公開なのはなぜなのか。わからん。
全編がワンショットで撮り上げられていることで話題になった作品。『エルミタージュ幻想』ですでに試みられている技法であるが、映画を最初から最後までカットなしに撮り切るというのは、映画を撮る側だけではなく、映画を見る側の原始的欲望といってもいい。この監督は、以前、『スパイダー・フォレスト』という風変わりなミステリーを見たことがあり、そんなすごい監督でないことはわかっていたが、やはり気になったので見に行ってしまった。
暗い森のなかを女が一人歩いている。そのからだがふわりと浮き上がったかと思うと、いつの間にかキャメラがこの映画の舞台となる山荘のなかに入り込んでいるというオープニングは悪くないのだが、見ているうちに映画はどんどん緊張感を欠いてゆく。3年前に自殺した女性ギタリストの命日にバンドのメンバーがこの山中の酒場に集まり、それぞれの人物がいまだにとらわれているその過去を巡って、過去と現在がワンカットのなかで交錯しつつ映画は進んでゆくのだが、残念ながら脚本の完成度が高いとはいえず、過去のトラウマからの脱却が歌となって最後に高らかに歌われるという、ある種おなじみのクライマックスもさして盛り上がらなった。回想シーンになると照明が変わるところもいささかやり方が古めかしく思える。アンゲロプロスはそんなわかりやすい長回しは使わない。ワンカットのなかでいつの間にか時代が変わっているという密度の高い画面を、観客は一瞬も気を緩めることなく凝視していなければならないのである。それに比べると、この映画の話法はわかりやすすぎるというか、観客に親切すぎる。映画自体は《魔術師》とはほど遠いといったところか。
実は、冒頭に登場する人物はその自殺した当の女性ギタリストなのであり、彼女は亡霊としてこの映画の登場人物たちを見守ってゆくことになると同時に、回想シーンに登場して過去の自分自身を演じてもいる(これは冒頭5分でわかることなのでさしてネタバレにはならないだろう。というかすでにだいぶネタはばらしてしまった)。彼女の自殺の記憶が、バンドのほかのメンバーたちが前に踏み出すことをじゃましていることを知ってか知らずか、亡霊となった彼女は終始陽気な笑顔を浮かべて蝶のように登場人物の間を飛び回る。が、わたしには彼女が亡霊として映画の冒頭から最後まで存在しつづける意味がぴんとこなかった。いっそのこと背中に天使の羽でもつけて演じさせた方がよかったかもしれない。
映画を見ながら森の描き方がなってないなと思っていたのだが、以前に『スパイダー・フォレスト』について書いたメモ書きを読み返してみたら、同じことが書いてあった。冒険するのもいいが、やはり基本は大事だ。
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