日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
映画批評家ジャン・ドゥーシェの代表作の一つ『愛する技法』(L'art d'aimer) の冒頭に収められた同名の評論「愛する技法」を試訳してみた。
ジャン・ドゥーシェは、50年代の終わりに「カイエ・デュ・シネマ」と「アール」誌で映画批評を書き始めた(1)。ロメールや、トリュフォー、ゴダールとくらべるとちょっと遅れてやってきたかたちである(2)。もっとも、1948年からメッシーナ通りのシネマテークに通っていたドゥーシェは、この頃には彼らとは旧知の仲であり、同じ映画作家たち、とりわけアメリカ映画の監督たちへの愛を共有しあっていたはずだ。
ネガティブな批評は居心地が悪いというドゥーシェの批評の根底には、常に、作品への愛がある。まず作品への愛がなければ話にならない。感性や、直感によって、その愛する作品を深いところで理解する。そして、その愛する作品を人に伝えるのが批評の役目だというドゥーシェの姿勢はわかりやすい。しかし、作品への情熱だけでは、批評は批評たりえないのである。一方で、作品をオブジェとして捉え、できうる限り作品のフォルムによりそって、それを分析する明晰さも必要なのだ。情熱と明晰のバランスこそが批評であると、ドゥーシェはいう。
作品のフォルムに忠実でなければ、批評はただの恣意的な解釈になってしまうだろう。「愛する技法」のなかでも、フォルムの重要性は何度も強調されている。しかし、一方で、ドゥーシェが、作品というのは生命を持った存在であることを強調していることも忘れてはいけない。フォルムといっても、ドゥーシェのいうそれはフォルマリズムのそれとは全然違うのだ。「カイエ・デュ・シネマ」の編集長がロメールからリヴェットに代わり、「カイエ」が先鋭化するとほぼ同時に、ドゥーシェは「カイエ」を去ることになる。構造主義や、ラカンの精神分析の影響を受け、政治的になりすぎた「カイエ」はドゥーシェにはたぶん居心地悪かったに違いない。
ジャン・ドゥーシェは今でも映画批評家として活躍しているが、彼の批評の姿勢は、ほぼ半世紀前に書かれたこの「愛の技法」のなかで表明されているものとほとんど変わっていないように思える。わたしがこの文章を訳してみようと思ったのは、「批評家」よりも「愛好家」(3)という言葉をあえて使い、「忘れられた芸術家や、知られざる芸術作品に、その本当の価値を取り戻させてやるには、一人の愛好家がいれば十分だ」というドゥーシェの映画批評は、インターネット時代のブログやとりわけツイッターにおいて草の根的な映画批評を展開している人たちにとって、示唆的なものを含んでいるような気がしたからだ。
ドゥーシェのフランス語は、70年代の「カイエ」に比べればずっと読みやすいが、それでもところどころ読むのに苦労した箇所があった。翻訳のせいでわかりづらいところがあるかもしれないが、大目に見ていただきたい。
☆☆☆
ジャン・ドゥーシェ「愛する技法」
批評とは愛する技法である。批評は情熱から生まれ落ちるが、ただ情熱に胸を焦がしているだけではない。抜かりない明晰さを、批評は駆使しようとする。情熱と明晰さの間に内的な調和を絶えず求めることに、批評は存するのだ。このどちらか一方が他方に勝ってしまうと、批評はその価値の大半を失ってしまう。批評にはこの二つの原動力が必要なのだ。批評の目的が、ちまたの雑誌にあふれているくだらないお喋りを読者に読ませることにあるのではないことはいうまでもない。そういうお喋りは批評という名前で呼ばれているだけにすぎず、批評という言葉の品位を落とし、批評の役割を失墜させ、それを実践している人たちを卑しくしているだけなのだ。映画を(というのも、ここで話題にしている芸術は映画なのだから)たんなる話の種とみなすことは、わたしには言語道断の振る舞いに思える。映画をたんなる個人的興味の対象(食い扶持を稼ぐための仕事、名前を売ってのし上がるためのきっかけ、シナリオを売ったり自分を売り込んだりする手段)と見なしたり、映画とは関係ない思想的、政治的、宗教的な闘いを行うために利用したり、つまりは、映画を犠牲にして、自分自身や主義主張(たとえそれがどれほど高邁なものであったとしても)を大きく見せようとするのは、根っからの知的不誠実さの表れである。芸術が批評に求めているのは、芸術を利用するのではなく、芸術に奉仕することなのだ。
芸術にとって批評は欠くべからざるものなのである。批評なくして、芸術は存在できない。芸術が批評を必要とするのは、二つの意味においてだ。第一に、芸術作品は、それを生み出した芸術家の感性と、それを鑑賞する愛好者の感性との間に、仲介者を介して結びつきが生まれなければ、死んでしまう。作品を深いところで感じ取ること、そしてその熱狂を広く伝えること、それこそが批評行為なのであり、たとえそれが口伝えによるものであろうと関係ない。忘れられた芸術家や、知られざる芸術作品に、その本当の価値を取り戻させてやるには、一人の愛好家がいれば十分だ。実際、芸術作品の物質的存在など、それ自体では何の価値もない。ひょっとしたら世界の映画作家の中でもっとも偉大な存在かもしれない溝口は、1952年に発見される以前、われわれ西洋人にとっていったい何だったのか。何ものでもなかった。日本の撮影所のなかで、ジャングルのなかのアンコールワットのように埋もれているフィルムの山に過ぎなかった。偶然が、ポンペイや、ミロのヴィーナスや、フェルメールや、ヴィヴァルディを残してくれたように、溝口の映画を救ってくれたのだ。偶然の気まぐれで、すべては破壊されてしまっていたかもしれない。そうなっていたら、今日何が残っていたろう? 思い出ひとつ、思念ひとつ残っていなかったろう。それというのも、重要なのは、作品が、つまりは芸術が、人々の意識のなかに引き起こす反響だけなのだから。人々の意識の中に、人々の意識を介してこそ、芸術は生きるのである。
その証拠に、誰もが目にし、いちばん評判がよかった作品が、土に埋もれたり、屋根裏部屋の奥に眠っている作品と大差ない、不当な評価を受けていることは珍しくない。この場合も、たった一つの感性が、作品の深い部分にふれて感動し、フォルムのなかで燃えたぎる生命をくみ取って、その感動を人々がわかち合えるように手助けしてやらなければ、いくら莫大な数の人々の目にふれたところで、作品は蜃気楼のようにたちまち消え去ってしまうだろう。映画の短い歴史は、何百万もの観客に見られながら、世に認められていない映画であふれかえっている。ムルナウやキートン、あるいはラング(後期の)、ヒッチコック、ウォルシュ、ホークス、ロージー等々の作家は、世に知らしめる努力があってはじめて認知されたのだ。逆に、偽の栄光に包まれた映画作家たち、クレールや、フェーデや、プドフキンらは、美学的に彼らにふさわしい忘却のなかに沈みつつある。この角度から見たとき──それにこれ以外の角度はないのだが──、批評は発明の同義語となる。語の普通の意味で発明であり、また「発見」という意味で発明なのである。真の批評は、宝物を発見するように、作品を発明=発見するのだ。批評は作品の生命力を捉え、維持し、引き延ばすのである。批評は、芸術家や芸術の価値を、絶えず問い直すことで、発見するのだ。批評は創造の領域と分かちがたく結びついているのであり、それ自体が芸術として創造的なものとなるのである。
というのも、これが芸術にとって批評が必要であるということの二つ目の意味なのだが、批評というのは芸術活動の根源そのものにあるのだ。フリッツ・ラングは、「すべての芸術は何かの批評でなければならない」と語っている。愛好家(4)が作品と向き合うのとちょうど同じ姿勢で、芸術家は世界と向き合っているのだ。
実際、芸術家は、世界を他ならぬ作品として感じ取るからである──この場合、その作品が自然の産物であろうが、人間による産物であろうが関係ない。芸術家は、この作品(世界)を、種々の体系──人類のもろもろの連続する段階における、集合的な意識と感性の緒局面を表している宇宙進化論的、哲学的、宗教的な体系──によって、様々な形で説明せずにはいられないのだ。芸術家の存在理由は、自己と世界との関係を表現することにあり、芸術家は外界の印象を、自己の奥深くで受け取るわけであるから、芸術家の感性が、世界と自己と外界の印象について、問いかけずにいられるだろうか。というのも、フォルムを生み出すというのは、同意か拒絶を意味する身振りに他ならないからだ。芸術家にとって、フォルムを創造するというのは、感受する主体(芸術家自身)の──意識的であれ無意識的であれ──感知するすべてを、対象(作品)の中に移し入れることなのである。知性というより感性でとらえられる(このふたつは偉大な芸術家においては両立する)弁証法的運動によって、芸術家は、一方で、主体について考慮し、自分が伝えたいと思う感覚をふるいにかけなければならない、つまりは自己批判しなければならない。そして他方で、対象について考慮し、自分の知覚とその表現の良し悪しを吟味しなければならない。これは感性によって認識するという方法であり、それがフォルムによって、フォルムの中に帰着するのである。
ところで、フォルムというのは芸術家にではなく、芸術家が自己を表現する場である芸術のほうに属している(別のフォルムをもつ絵画と音楽では想像力の働かせ方が違うし、偉大な作家が偉大な映画作家だった試しはなく、その逆もない)。芸術家は、このフォルムというダイナミックな要素に完全に身をまかせて、それを内側から制御し、それが自分という唯一無二の存在の感知できる明白な記号となるまで形作る(former)のであり、そのあとで、今度はそのフォルムを、その母体である芸術の流れにゆだねるのである。そのときから、フォルムは芸術の中で、単独の生きた存在として、独自に育ってゆくのである。この点においても、いやこの点においてこそ、批評は芸術家にとって必要なものとなるだろう。というのも、フォルムを芸術から引きはがし、芸術固有の生命を無視して、自分のものとしてしまいたいという誘惑はつよくて、たいていの芸術家は生涯の一時期、ときには一生、その誘惑から逃れられないからだ。エイゼンシュテイン、ウェルズ、レネに異を唱える人たちなら、わたしのいうことを理解してくれるだろう。芸術家は川の支流のような存在でなければならない。よりよく生きるために自ら飛び込んだ川の本流を、その源泉の独自の特性を生かして豊かにし、変化させるような支流でなければならない。芸術家は、川の水を自分のものにして、水でできた壮麗な作品を作り、それを傲慢で孤独な自分の姿しか映らない鏡にしてしまいたいという誇大妄想的な誘惑を、避けなければならない。どれほど華麗に見えようとも、そのような作品が生命のないよどんだ水でできていることは見ればわかる。情熱と明晰の間にたえず調和を維持するのは、批評家にとって以上に、芸術家にとって危険で困難なことなのだ。
どの段階をとってみても、芸術家の活動には、すべてにおいて批評的姿勢が伴う。この姿勢が明白となる瞬間を、わたしはわざと今まで書かないできた。美学上の影響、あるいは自分が受けたその他の影響を、完成した自分自身の作品と同様に、絶えず厳しく吟味し、自分にふさわしい要素を受け入れ、ふさわしくない要素を拒み、しかじかの道を選択し、とりわけ、自分の芸術の本質に帰依しつつ、そこに到達しようと努力しながら、芸術家は闘っているのである。その闘いで賭けられているのは、自分の芸術の生命そのものによって、自分の感性を生き延びさせることなのだ。芸術家は、それ自体で固有の感性を与えられている一つの足跡[=作品]を残して、その足跡に、内面の意識の豊かさを永遠に保存するという役目をまかせるのである。
そのようにして生まれた作品の輝きを世に知らしめるのが、批評の役目なのだ。作品の中で燃えたぎる炎の生命力を保持するのが、批評の役目なのだ。だが、いかにして? 作品が誕生するに至るのと同じ過程をたどることによってである。芸術家の感性が世界と出会うとき作品は創造されるのだが、批評家の感性は世界と直面する必要はない。批評は自分では何ものも放棄することなく、作品と向き合いさえすればよく、作品と向き合うことから、批評は芸術家の世界を発見することになるのである。むろん理想は、たえず、そしてできうるかぎり厳格に、対象のフォルムに基づきながら(でないと、ややもすればでたらめな解釈のほうへと横滑りしてしまう)、芸術家の受け取る外的印象がすべてそこに集まる一種の定点、急所にまでさかのぼることである。次々と生まれてくる無数のフォルムと新たな作品に独特のスタイルを与えるのは、この定点なのだ。実のところ、批評は、うまくいけば、この創造の核の所在を明らかにすることを期待できるのである。生命を持ち、複雑で、独特なこの中心は、一つの定義に収まるようなものではない。しかし、批評は、この中心のできうるかぎり正確な観念を暗示すれば十分なのだ。というのも、批評がやるべきことは、まず最初に、対象の中に、見かけの主体ではなく、真の創造的主体を見いだすことなのである。真の創造的主体というのは、この対象が世界との関係における芸術家の位置を示しているという限りにおいて、芸術家の全存在を意味している。次に批評がすべきことは、主体から対象へと逆方向にさかのぼり、対象がもつフォルムの必要性を示すことである。そのフォルムは、芸術家のために、芸術家が世界を洞察するために必要であるだけでなく、何にもまして芸術のために必要なのだ。批評というのは、作家の感性と愛好家の感性を、作品の中で、作品をとおして、その作品に特有の芸術のなかで、芸術をとおして、通底させようとする試みに他ならない。
批評は、芸術家以上に、芸術を理解し、芸術を説明しようとさえする。批評は先ほど述べた往復運動をとおして作品にアプローチするのだが、そのとき批評が目指すのは、なによりも芸術の特質であり、本性なのだ。批評の賛辞と拒絶は、芸術の名において理解される。芸術家が、自分の芸術の本性に反して、それをゆがめるようなかたちで、自分の感性の存続をこちらに押しつけてくるという印象を少しでも受けたなら、批評自身の感性は憤って、作品を拒絶する。とはいえ、そういう作品は注釈できないということでは全然ない。むしろ逆である。アントニオーニ、ベルイマン、フェリーニはいうまでもなく、エイゼンシュテイン、ウェルズ、レネらは、ウォルシュ、ラング、溝口、プレミンジャー、ホークスらよりもずっと多くのインクを流させてきた。不思議なことではない。そこには往復運動の片道、対象から主体へと向かう行程しかないからだ。この場合、対象は、主体との関係の中で作られるだけで、作者と作者による人為的な世界の〈ヴィジョン〉の虚像しか映らない巨大な鏡のようなものになってしまっているのである。ところで、困難なのは、往復運動の帰り道のほうなのであり、芸術家と、その作品と、その芸術との間に、調和のとれた自然な均衡を見いだすことなのだ。
どういう点で芸術家は、自分の作品によって自分の芸術を豊かにするのか、そして今度は、この作品が芸術によってどのように豊かにされるのか、それを示すことが、結局、批評の試金石であるとわたしには思われる。これは感覚でわかることなのだが、説明するとなると! この段階に至ると、批評は伝えがたいものの領域に入り込む。芸術の神秘そのもののただ中へとわけ入るのだ。理解してもらうにはただ一つの方法しかない。しかもそれは消極的方法だ。ある作品のなかにたしかに芸術があるとしても、どういう点で芸術があるのかを言葉で表現できなくて、批評はしかたなく、別の作品には芸術は存在しないことを証明する。あるいは、逆に、間違って、芸術のないところに芸術を発見するはめになる。この意味で、エイゼンシュテイン、ウェルズ、レネの映画はきわめて重要だ。彼らは批評にとって好都合な存在なのである。賛成であれ、反対であれ、とりわけ彼らから出発して、批評が映画とは何かを定義しようとするのには理由がないわけではない。同様に、シネフィルたちは、これらの映画作家たちを拒絶するとき、賞賛よりもこの拒絶によっていっそう強く結びつくのである。同じものが嫌いだということは、共通の趣味や、似たような感性を持っていることを意味し、個人的なヴァリエーションはあるにしても、芸術に対するアプローチの仕方が同じだということなのだ。
芸術家だけが、創造しつつ芸術を証明する。愛好家と批評家は、芸術の観念を理解し、その本質を本能的に感じることができるだけだ。これは一つの制限であり、先ほど創造的批評について述べたこととは矛盾するかもしれない。しかし、それはちょっと違う。というのも、思うに、芸術家は何よりもまず批評家、それも成功した批評家なのであり、芸術と親密に結びついた批評は、芸術家においてのみ十全になされるからだ。それに、芸術の発展の歴史をざっと眺めてみれば、独立した機能としての批評を生み出したのは芸術家自身であったことがわかる。芸術の始まりにおいて、あるいは芸術が復興するとき、批評と芸術は一体となっている。真の創造者は、自分の芸術を自覚し、それに帰依している。グリフィスや、ジオットー、ホメロスといった芸術家たちは、本能的に、そしてたちまちのうちに、自分の芸術の広がりとすべての可能性を理解するのだということさえできる。先駆者たちによって切り開かれた道をより深く探求していかなければならなくなったとき、新たな技術が芸術の概念を変え、新たな地平を開かんとしているとき、批評は芸術家から切り離される。そのとき芸術家は、内面の対話を公な場所へと向ける必要を感じるのだ。内的なものだった芸術家の批評は、外的なものとなるのである。
真の理論家がそうであるように、真の批評家も、最初は、芸術家自身である。絵画における15世紀のルネサンスが、フランス文学におけるプレイヤード派が、音楽におけるモンテヴェルディがそうだった。それから、ロマン主義の時代の、ユゴー、ドラクロア、ベルリオーズ、今日におけるジョイス、シェーンベルク、ル・コルビュジェがそうだった。自分の芸術を考察し直すたびに、自分の作品が向けられることになる新たな感性を、読者や観衆のなかに生み出す必要があるたびに、芸術家は創造のオリンポス山から降りてきて、闘いに加わり、自分の好き嫌いを声を大にしていうのだ。最後に、この新しい感性が普通に受け入れられるようになると、芸術家は再び自分の殻に戻り、批評の役目を愛好家にまかせる。威厳を持って実践されるなら、批評はその当初の使命を思いだし、それ自身が芸術となるのだ。世界との関わりのなかで批評家の感性は、作品と向き合い、世界と向き合い、まるごと巻き込まれる。批評には、それが語る芸術家や、作品や、芸術以上ではないにしても、それと同じぐらいに、その作者が表れる。批評がしばしば芸術と同じぐらい人から認められないのは、そういうわけなのだ。
(「カイエ・デュ・シネマ」1960年12月、第126号)
註:
(1)「カイエ」にくらべて「アール」誌の重要性はいささか認知されていない気がする。この雑誌については、いずれ取り上げたいと思う。
(2)「はてなキーワード」には、「『カイエ・デュ・シネマ』の創刊に関わる」との説明があるが、わたしが知る限りそのような事実はない。日本で翻訳が出ているジャン・ドゥーシェとジル・ナドーの共著『パリ,シネマ』の梅本洋一による訳者後書きに、そのような記述があるので、それを調べずに引用したのかもしれない。
(3)"amateur" は「愛」を意味するラテン語 "amare" に由来する言葉で、「素人」の意味も持つ。
(4)わたしは、批評家という言葉よりも、愛好家 (amateur) という言葉を使いたい。残念ながら、本職の批評家がいつも愛好家であるわけではないが、愛好家のほうは、たとえ言葉でうまく表現できなくとも、その嗜好を とおして批評的姿勢を示しているのだ。ただし、愛好家の情熱があまりにも排他的なものになってしまい、明晰さをまったく失ってしまうような場合は別であ る。そのときは、もはや真の愛好家ではなくなり、ただのマニア、つまりは病人になってしまうのだ。
『レオス・カラックス DVD-BOX』(ボーイ・ミーツ・ガール&汚れた血&ポンヌフの恋人)が発売。
セグンド・ド・ショーモン(Segundo de Chomón)
スペイン映画創生期のキャメラマン・映画監督で、「スペインのメリエス」と呼ばれる人物。
1871年、スペインのテルエルに生まれる。1901年からパテ作品のフィルムに色づけをする仕事をスペインで始め、1902年には自作の映画がパテ経由でフランスで公開されるようになっていた(この頃撮られた作品で見たのは『Los heroes del sitio de Zaragoza』だけだが、これはリュミエールふうのセットを使った史劇だった)。やがてフランスに渡り、1905(6?)年から1909年まで、パテ・フレールで映画を撮り始める。この頃ショーモンが撮った作品のなかには、メリエスの映画に非常によく似たものが少なくない。いや、もっとはっきり言うなら、メリエスのパクリである。いくら似ているからと言って、証拠もないのに簡単にパクリという言葉は使うべきではないと思うが、それにしてもショーモンの作品の中には、メリエスそっくりのものが混じっていることもたしかだ。
挙げればきりがないが、たとえば、舞台上の演奏者が首をひょいと上に放り投げると、それが楽譜の符号になる『En avant la musique』(07) は、メリエスの『音楽狂』(03) のパクリだし、人の顔をした星に向かって旅をする『Le voyage sur Jupiter』(09) はむろん『月世界旅行』(02) の模倣だ。しかし、後からやってきたものの利点というのか、『Le voyage sur Jupiter』では、行き先が月ではなく、それよりもさらに遠い木星になっていたり、そこに行く手段もロケットではなく、夢の中で縄ばしごを上っていくということになっているなど、ショーモンはメリエスの映画にちょっとずつヴァリエーションを加えて、個性を出してはいる。 いや、そもそも「メリエスの模倣者」という言い方はあまりにも不当だったかもしれない。ショーモンがメリエスから多大な影響を受けているのは明らかだったとしても、子細に眺めるなら、彼の映画にはメリエスにはなかった独自の視覚的アイデアが随所に用いられている。だからこそ、彼は同時代にメリエスのライバルと目されていたのだ。
メリエスとの類似性はたしかに興味を引く。しかし、わたしがショーモンの作品で一番驚いたのは、『Los guapos del parque』(05) という作品だ。これは、花嫁募集の広告を出した男のところに、無数の花嫁候補が押し寄せて、そこから逃げ回るという作品で、キートンの『セブンチャンス』(25) にほとんどそっくりなのである。キートンがこの作品を見ていたかどうかは分からない。あれはデイヴィッド・ベラスコの戯曲が一応原作になっているわけだし、全く無関係に作られた可能性も大いにあるだろう。『Los guapos del parque』が撮られる以前に、エドウィン・ポーターが似たような題材の短編を撮っているという話も聞く(未確認だが)。
こういう影響関係の問題は裏をとるのがなかなか難しいが、研究には値するだろう。しかし、その余裕はわたしにはないので、それは他の人に任せるとして、最後に二、三つけ加えておく。 セグンド・ド・ショーモンは、ストップモーション・アニメーションなど、アニメ作品も何本か作っている。影絵を使って悪夢を表現したりするなど、今見ても鑑賞に堪えるなかなかの出来だ。この分野でも注目されていいだろう。
ショーモンはフランスに数年滞在した後スペインに帰り、その後イタリアに渡っている。ジョヴァンニ・パストローネの『カビリア』(14) の撮影を担当したのは彼だ。『カビリア』の史上名高い移動撮影の陰にはこういう人物がいたのだ。
今では半ば忘れ去られてしまっているが、映画の考古学的には非常に興味深い人物である。もう少し光が当てられてもいいと思う。
ショーモンの作品を集めた DVD は出ているのだが、入手がなかなかめんどくさい。下の DVD にはショーモンの作品がいくつか収められているようだ。こちらは Amazon から買うことができる。
京都駅ビルシネマで開催された「ポルトガル映画祭2010」について。
詳しいレビューを書く気力はないので、それは他の優秀なブロガーさんの記事に任せることにして、次に神戸アートビレッジで上映されるときに見に行く人のために一言三言だけ触れておく。 今回上映される作品には駄作は一本もない。しかも見逃せば当分見られそうにない作品ばかりだ。見てない作品があれば残らず見ておくことをおすすめする。全部見たところでせいぜい一万円程度だ。
とはいえ、そんな暇も金もないという人もいるだろう。そんなひとは、とりあえず、『トラス・オス・モンテス』だけは見ておいてほしい。これが驚くべき傑作だからというのが第一の理由なのだが、もっと実際的な理由もある。オリヴェイラやモンテイロは、いずれ紀伊国屋あたりから主要作品が DVD でまとめて出る可能性が十分高いが、この映画は海外でも DVD にはなっていないはずだし、なりそうな気配も今のところない。今回見逃せば、向こう十年は見る機会がないなんてこともありうる。是非この機会に見ておいてほしい。
アントニオ・レイス、マルガリーダ・コルデイロの『トラス・オス・モンテス』は本当にすごい映画だ。しかし、この映画のすごさをどうやって説明したらいいものか。説明するのは面倒だから、とにかく見に行けといいたいところだが、それでは投げやりすぎるだろう。うまく伝わるかどうかは分からないが、とりあえずやるだけやってみることにする。
アントニオ・レイスは1927年生まれ。オリヴェイラの『春の劇』に助監督として参加したレイスが、そのロケ地であるトラス・オス・モンテス地方に再び戻って撮り上げた作品が、この『トラス・オス・モンテス』である。 ポルトガルの北東部、ドウロ河の北に位置する山岳地帯トラス・オス・モンテスは、"beyond the mountains" を意味するその名前の通り、山によって周囲から隔絶された場所だ。人々は、何世紀も前から変わらないような貧しい生活を今でも続けている(少なくともこの映画が撮られた頃までは)。アントニオ・レイスはこの地の人々の暮らしをフィルムに収めながらこの映画を作り上げていった。形だけ見ると、ブニュエルの『糧なき土地』に似ていなくもないだろう。しかしこの映画は、純然たるドキュメンタリーではない。かといってフィクションとも言い切れない。とらえどころのないやっかいな作品である。
映画は最初、夏の日に川遊びをしたり、生家で古い蓄音機を見つけて夢中になる子供たちの姿をとらえながら、この地方の美しい自然を描き出していくのだが、やがてそこに、少年の思い出や、少年の母親の記憶の中にある父親のイメージなどが重ねられてゆく。フラッシュバックというか、現在時と同時並列的に並べられていく記憶のイメージがとにかく鮮烈だ。たとえば、少年の母親が少女だった頃、風来坊のような彼女の父親が去っていくのを見送る場面。彼女の長い影が落ちる一本道を、父親が遠くの点になって消えるまでフィックスでとらえ続けたショットの何という美しさだろう。
子供たちが山に遊びに行って帰ってくると、村では数百年がたってしまっていて、だれも彼らのことを覚えていないというあたりは、まるで『ペドロ・パラモ』を思わせるが、それもしばらくするとまた普通の時間に戻っていたりする。記憶と現在、過去と未来が様々に交差する。流れている時間の厚みが、とにかく半端ないのだ。アントニオ・レイスは映画監督である前に、詩人でもあり、民俗学者であったともいうが、そんな彼の背景がこの映画をジャン・ルーシュの作品に近づけもしている。ひょっとしたら、小川紳介が『ニッポン国 古屋敷村』でさえできなかったことをこの映画はやってしまってるのではないか。そんなことさえ考えさせる映画だ。
最後のほうで村人の一人が、都なんて話には聞くけど本当に存在するのか、法とはいったい何か、などと語り始めるくだりなど、まるでボルヘスのようである。そして、宵闇の中を見えない列車が白い煙をもくもくと上げながら走るラストの魔術的イメージ。様々な映画作家がいままで列車をフィルムに収めてきたが、誰がこんな列車の撮り方をしたことがあったろうか。ラテン・アメリカの文学について時々使われる「魔術的リアリズム」という言葉はこの映画のためにあるのかもしれない。
オリヴェイラ、モンテイロ、ペドロ・コスタについてはすでにいろいろ書かれているし、わたしも何度か書いているので、ここでは触れないことにする。
今回上映されるモンテイロ作品のうちで、『黄色い家の記憶』と『神の結婚』は、モンテイロ自身が演じたジョアン・ド・デウスを主人公とする三部作の1作目と3作目だ。一本一本で一応完結はしているが、順番に見ることで分かってくることも多い(ルイス・ミゲル・シントラの役割など)。できれば『黄色い家の記憶』から見た方がいい。
残念ながら、テレサ・ヴィラヴェルデの『トランス』と、ミゲル・ゴメスの『私たちの好きな八月』はデジタル上映だった(『神の結婚』はかなりきれいな画面だったが、これもデジタル上映だったと思う)。
『トランス』は、悪夢のような酩酊感がオリヴィエ・アサイヤスの『デーモンラヴァー』を思わせないでもない、一種のロードムーヴィーであり、ホラーでもあるような作品だ。背景となっているのはヨーロッパにおける人身売買だが、描かれているのは実存の闇とでもいうべきものである。ただ、かなり刺激の強い場面が連続するので、そのあたりは覚悟してみてほしい。
『私の好きな八月』は、製作資金が不足する中、撮影そのものをドキュメンタリー化して作品の中に取り込んでいく形で作られていったユニークな作品だ(似たような展開をするヴェンダースの『ことの次第』もポルトガルで撮られたのだった)。一見投げやりに作られているようでいて、最後にはすべてのピースが絡み合ってくるような、そんな作りになっている。ちなみに、監督のミゲル・ゴメスは青山真治と親交があるらしい。
両作品ともなかなかの佳作である。
グリゴーリ・コージンツェフ、レオニード・トラウベルグ『Odna』(Alone)
グリゴーリ・コージンツェフは、ソ連におけるハムレット映画の監督として日本でもそれなりに有名だが、それ以前に彼が撮った作品についてはほとんど紹介されていない。コージンツェフは20年代の半ばのサイレント時代から映画を撮り始めており、そのほぼすべてがレオニード・トラウベルグとの共同作品だった。ふたりのコンビは、1948年、トラウベルグが反ユダヤ主義の粛正を受けるまで続く。『Odna』(31) はこのコンビの代表作の一つである。
『Odna』の前に二人が撮った『新バビロン』(29) は、表現主義的なセットを使ってパリ・コミューンを描いた映画であり、その前衛的な手法が災いしてか検閲の憂き目にあっていた((『新バビロン』は見ていないのだが、DVD の特典映像に引用されている映像を見ると、とても見たくなる。「新バビロン」という名前のキャバレーが出てくるのだが、そのセットがすごい。))。『Odna』の製作は『新バビロン』と同じ年に始まっている。折しもスターリンによる第一次五カ年計画が始まったばかりで、製作過程における党の"指導"はますます強力になっていた。『Odna』には、この当時のソヴィエトのスローガンであった、教育の奨励、富農(クーラク)の排除、テクノロジーの導入といったテーマが詰め込まれており、その意味ではまさしくプロパガンダ映画である。しかし、この映画には、プロパガンダ映画と割り切った上で見ても、ユニークな点が多々あって興味深い。
ストーリーを簡単に説明しておこう: レニングラードの学校を卒業したばかりのヒロインが、アルタイ山脈(ロシア・中国・モンゴルにまたがる山脈)に教師として派遣される。そこはまわりに何もない平原で、人々はテント暮らしをしていて、女シャーマンが怪しげな祈祷をしているような文明の遅れた地だ。ヒロインは、一部の村人(クーラクの地方版みたいなもの)の抵抗に遭いながらも、社会主義のなんたるかを浸透させていく。(シチュエーションだけ見ると、チェン・カイコーの『子供たちの王様』に似ていなくもない。)
ヒロインを演じているのはエレーナ・クジミナ。ボリス・バルネットの『国境の町』や『青い青い海』でヒロインを演じた女優だ。この映画の中では、本名と同じ役名エレーナ・クジミナで出ている。
冒頭、俯瞰を多用して撮影されたレニングラードの光景が次々とモンタージュされていく場面を見ると、すごくモダンな映画を予感させるのだが、エレーナ・クジミナが僻地の教師に任命されるところからがらりと雰囲気が変わる。その村にやってきて彼女が最初に見るのは、馬の皮を丸ごと剥いで木につるした不気味なトーテムだ。無知で遅れている未開民族に社会主義のなんたるかを教えてやるという、傲慢なプロパガンダ映画の図式に収まった形ではあるが、この少数民族の生活の描写はエスニックな視点から見てなかなか興味深い。
この映画で、もう一つ興味深いのは、この村にヒロインより先に赴任していたソヴィエト代表の党員の存在だ。この男は、クジミナが村のクーラクと対立して困っているときも全く何もしようとしない、怠惰で、腐りきった人物として、徹底的にネガティヴに描かれている。こういう映画でソヴィエトの党員がこんなふうに描かれるのは珍しい。
しかし、この映画で何よりも注目されるのは、そのサウンドの使い方だろう。この映画は最初、サイレント映画として撮られたが、後からサウンドを加える形でトーキー化された。ヒッチコックの『ゆすり』と似たような経緯をたどって作られた作品だが、トーキー部分はもっぱら、画面外から聞こえてくる歌や、広場の拡声器から話される音声などに限られていて、人物の台詞はほとんど字幕で処理されている。
ヒロインがフィアンセに電話をかけて相談するシーンがあるのだが、ここのサウンドの使い方が実に面白い。電話ボックスに先に男性が入っていたので、最初、彼女はボックスの外で待つ。このとき、カメラはボックスの外からガラス越しに中を撮っているだけだ。しかし、中で話している男性の声ははっきりと聞こえている(ここは、この映画の中で、画面に映っている人物の声が聞こえてくる数少ないシーンだ)。次に、彼女がボックスの中に入ると、カメラもボックスの中に移動し、電話で話す彼女の姿をとらえる。さっきの男性と違って、彼女が電話で話す声は全く聞こえず、台詞はすべて字幕で処理されている。ところが、ヒロインの声が聞こえない代わりに、周りのざわめきだけは、わざとらしいぐらいはっきりと聞こえる。そして、電話を終えて彼女がボックスの外に出た瞬間、すべての音が聞こえなくなるのだ。非常に斬新で、実験的な音声の使い方である((すでに、この数年前の1928年8月5日、エイゼンシュテイン、プドフキン、アレクサンドロスは、三氏連名のマニフェスト「トーキー映画の未来」を発表し、視覚的映像と聴覚的音声との「対位法的な利用」にこそトーキーの未来はあると主張していた。))。
この映画が撮られたのは、"芸術的"過ぎる表現が反体制的と考えられるようになっていく時代である。この頃はまだ"社会主義リアリズム"という言葉は使われていなかったはずであるが、すでにそういう方向に向かいつつあったことは間違いない。この変化は、一言で言うなら「イメージから物語へ」とでも呼ぶことができるだろう。多かれ少なかれどこの国の映画でも、こうした変化は起きてきたことであるが、面白いのは、ロシア映画の場合、この変化が、社会体制の変わり目と、サイレントからトーキーへの移行期がちょうど重なる時期に起きていたことだ。
音楽を『新バビロン』の時と同じショスタコーヴィチがつけている。『Odna』という作品は、ひょっとしたら、映画としてよりも、ショスタコーヴィチがつけた映画スコアとして今では有名なのかもしれない。実を言うと、この映画は、クライマックスに当たる第6巻目のフィルム・リールが欠落しており、ショスタコーヴィチのつけた音楽スコアも完全な形では残っていない。しかし、ショスタコーヴィチのスコアは様々な資料から何とかオリジナルに近い形で復元されている。DVD で使われているのは、その復元され、再演奏されたスコアだ。ショスタコーヴィチのメロディは独創的で、時にアイロニーに満ちている。彼はこの頃から当局に目をつけられていたのだろう。スターリン体制下でショスタコーヴィチが生かされていたのは、ひとえに彼の映画音楽の才能故だったという人もいる。(下写真はショスタコーヴィチの映画スコア。)
たしかに大枠ではプロパガンダ映画と言っていいだろう。しかし、随所に批判的な視線が見え隠れしている。今見ても興味深い作品である。 DVD は、今現在、Amazon ではドイツのサイト(Amazon.de)にしか置いていないようだ。
ニューヨークのインデペンデント映画作家サフディー兄弟が二十歳そこそこで撮ったデビュー作『The Pleasure of Being Robbed』は、これ一本で才能を確信させるほどの傑作ではないが、カサヴェテスの『アメリカの影』を初めて見たときのことを思い出させるような新鮮さに満ちている。
町をうろつきながら人のものを盗んでまわる少女を、手持ちキャメラで淡々と捉えつづけるだけのベン・サフディーとジョシュア・サフディーによるこの長編デビュー作は、監督の若さもあってカンヌで話題を集めた。といっても、カラックスのようにいかにも才気にあふれていて、賞賛も批判も一身にあびる恐るべき新人というのとはちょっと違って、子供のころからキャメラをおもちゃのようににぎっていたガキがそのまま大人になって、それこそ呼吸をするように映画を撮っているといった感じの、少しの気負いもないみずみずしさが作品からは感じられる。 まだ見ていないが、この次に撮った最新作の『Go Get Some Rosemary』も「カイエ」で高評価をえていた。今のところ未確認飛行物体という程度の存在だが、このまま観測を続けていくつもりだ。
関連作品:Ronald Bronstein『Frownland』(Ronald Bronstein は『Go Get Some Rosemary』の編集をつとめている人物。)
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