日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■12月28日
『ガンヒルの決斗』(59年、ジョン・スタージェス)。
『真昼の決闘』のアレンジ。西部劇のなかでレイプされる女はインディアンであることが多い。しかも殺される場合が多い。この映画でも、インディアン女性(カーク・ダグラスの妻)のレイプは、復讐物語を始動させるためのたんなるきっかけにすぎない。
■12月25日 (水)
『どん底』(57年、黒澤明)、『どですかでん』(70年、黒澤明)
『どん底』と『どですかでん』はいわば双子のような映画だ。『どん底』は、どん底から上の世界を見上げる仰角撮影で始まる。上=外の世界が示されるのはほとんどここだけだが、それはたしかに存在しており、だれもがそこに出てゆくことを夢見ている。一方、『どですかでん』にはそのような外の世界は存在していないように見える。たしかに、伴淳三郎は毎朝どこかの会社に向かって出勤してゆくのだが、そこは「外」の世界ではなく、まさしくこの世界の延長にすぎない場所である。
『ガラスの脳』(99年、中田秀夫)。
手塚治虫原作の映画化。「アルジャーノン」。「眠りの森の美女」。中田秀夫は案外こういうメロドラマの方がいいのかも。
『ショート・カッツ』(83年、ロバート・アルトマン)。
ロサンジェルス。無視される死体。
■12月21日 (土)
『呪怨』(清水祟、2000年)
数年前の作品だが、今頃になって初めてビデオで見た。あの鶴田法男がこれを見て本気で引退を考えたとか、黒沢清や高橋洋がこぞってその才能を絶賛したとか、噂はいろいろ聞いていたが、たしかに恐い。というよりも面白かった。80分弱という短い作品なので、思わず続けて2度見てしまったぐらいだ。
簡単にいうと、ある家に取り憑いた幽霊の怨念によって、その家に関係した人たちがどんどん取り殺されていくという話である。面白いのは、構成が非常に変わっていて、全体がいわばバラバラな短編の連続というかたちになっているところだ(各挿話のタイトルが、その中心人物の名前になっているところは、タランティーノの影響か)。
それぞれの挿話自体は、徐々に恐怖の気配が盛り上がっていって、最後におぞましいものが現れるという、非常に直線的な正統派のホラーになっており、そのもっともおぞましいものの見せ方も、至近距離でアップで見せたかと思えば、ロングショットの画面の奥に気づかないぐらいにさりげなく現れさせたり、あるいはピン送りでじわじわと焦点を合わせていったりとか、人物が振り返る瞬間に恐怖のヴォルテージを一挙に極限まで振り切らせるとか、まさに技のオンパレードといった感じである。恐怖を演出する際に用いるショットの長さ、アップとロングの使い分けなど、非常に計算されていて感心する。
ところが、一つひとつのエピソードは非常に直線的なのに、そのエピソードの重なり具合は、奇妙にジグザグで、最初のうちはしばらく迷子のような状態で見続けることになるだろう。そして、その全体の構造がわかったとき、別の恐怖が襲ってくる、という仕掛けだ。別に説明しなくても、見ているうちにだいたいわかると思うが、最近はこの程度の作品構造さえ読みとれない人がいるようなんだなー、困ったことに。
実は、この作品は、同じ清水祟監督によって、すでに劇場公開用に再映画化されている。来年早々にも公開される予定だ。主演はオキメグこと奥菜恵。「ストーリーよりも、“いつどこでなにが出てくるかわからない”アトラクションムービーを目指した」と監督が語っているのが、ちょっと気がかりだ。ただのショック・ホラーになっていなければいいのだが・・・。ちなみに、ビデオ版は『呪怨2』という続編が出ているが、一作目に比べると期待はずれという声が多い。
■12月10日 (火)
『コンフィデンス 信頼』(79年、イシュトヴァン・サボー)。第二次大戦中ドイツと同盟国だったハンガリー。地下活動をしていた夫が逃亡し、妻は偽名を使って、見知らぬ男と夫婦を装い、ある家に下宿することになる。いつだれに密告されるかもわからない状況。女に夫がいるように、男にも妻がいる。世間知らずの女と疑心暗鬼の男の偽りの夫婦生活は最初はぎくしゃくするが、やがてふたりは愛し合うようになる・・・。
シチュエーションを無視すれば、ほとんど退屈な不倫映画といってもいい。ドラマの大部分が室内で進行するのだが、その室内描写が平凡。ときおり出てくる屋外の描写もあまりさえない。極限状況というリアリティがいまいち希薄で、緊迫感に欠ける。
『ハンガリアン』(77年、ゾルダン・ファーブリ)。欧米圏では基本的に名前の呼び方は、「名」・「姓」の順になっているのだが、ハンガリーだけは別で、日本人の場合と同じく、「姓」・「名」の順になる。だから、本来は、サボー・イシュトヴァンが正しい読み方なのだが、ややこしくなるので英語風にファースト・ネームを先に出すことになっているのだろう。だが、それを知らずに間違える人も多いらしい。事実、今手元にある「ぴあ」のテレビ欄には、『コンフィデンス』の監督名は「イシュトヴァン・サボー」となっているのに、『ハンガリアン』の監督名は、ファーブリ・ゾルダンとなっている。これは、「イシュトヴァン・サボー」に倣って読めば、「ゾルダン・ファーブリ」としなければならないはずである。
そんなことはまあどうでもいいが(いや、よくもないが)、この作品も第二次大戦のハンガリーの話。といっても大部分の舞台はドイツである。外の世界を見たことのない素朴なハンガリーの農民たちが、ドイツの農園に出稼ぎに出る。捕虜になってるフランスの神父、犬のように殺されるフランスの少年などを通して、今なにが行われているのかを、かれらは徐々に感じ取ってゆく。『コンフィデンス』と同じく、ちょっと斜めの視点から第二次大戦を描いた作品。まあ、スターリンの亡霊がまだ消えていないハンガリーでは、こういった描き方が精一杯だったのだろう。
■12月7日 (土)
『ユーズド・カー』(80年、ロバート・ゼメキス)。道路をはさんだふたつの中古車ショップのあいだの確執を描くコメディ。クライマックスのところで、250台の車を集める場面。車の大群が砂煙を上げて荒野を走る場面は、明らかに西部劇を意識したものだ。『駅場所』のウェインのように、走ってる車から車へと飛び移る場面もある。
■12月4日 (水)
『戦艦ポチョムキン』(25年、エイゼンシュタイン)。ワクリンチュクの遺体が港のテントの中に安置され、「霧がでてきた」という字幕が入ったあとで、逆光で捉えられた海の夕景がいい。その遺体を一目見に人々が降りてくる階段。左右の両端が黒く塗りつぶして縦の長さを強調させるやり方は、グリフィス譲りのものか。1950年まで、フランスでは公式上映が禁止されていたと聞くと、つくづく野蛮な時代だったんだなと思う。このテレビ・ヴァージョンでは、戦艦の旗は赤く塗られていない。
■12月2日 (月)
『恋愛天国』(90年、)。ニコール・キッドマンのオーストラリア時代。こういう脇役のときの方がいいね、この人は。
『MONDAY』(99年、サブ)。いつもの通り。平凡な男が不意に巻き込まれる非日常世界。サブの映画のなかではいちばん良くできているが、はっきりいってこれはマルセル・カルネの『陽は昇る』のパクリでは?
■12月1日 (日)
92年に撮られた韓国映画『我らの歪んだ英雄』を今頃になってテレビで見た。最近、集中力がなくなって、ビデオ録画した映画は、たいてい30分ほど見てからいったん休憩して別の仕事をし、そのあとまた30分ほど見る、という風にぶつぶつに切ってみることが多く、おかげで忘れるのもすごく早かったりするのだが、この映画は思わず姿勢を正して最後まで見てしまった。
脱サラして予備校で歴史を教えている男性教師が、少年時代の担任教師の葬儀に列車で向かうところから映画は始まるのだが、列車がトンネルの闇に入ったところで黒バックにクレジットが現れ、列車がトンネルを抜けると、さっきとはまったく違うひなびた風景が窓の外に広がっていて、男が座っていた席には少年時代の彼が座っているという出だしからして、なかなか洒落たことをやるじゃないかと思わせる。
映画の大部分を占める回想場面では、主人公が少年時代に通っていた地方の国民学校が舞台になる。クラスのなかで圧倒的な権力を握っている級長と、転向してきたばかりの主人公との対立を中心に、学校内の権力の構図が繊細なタッチで描き出されてゆく。谷崎の初期短編の少年ものを見る思いである。権力におもねるもの、権力に刃向かう過程で権力に魅せられてゆくもの、それと知らずに権力に荷担しているもの・・・。それだけではない。主人公がこの学校で過ごす50年代末から60年代初頭とは、韓国で李承晩から朴正煕へと政権が移行する時期であり、学校内の権力争いは実はこの歴史の縮図でもあるのだ。そのアナロジーは、よほど鈍感な観客でないかぎり気づくと思うのだが、監督のパク・ジョンウォンは、それをあからさまに見せることなく、さりげなく暗示するにとどめている。
学校内の権力闘争は、権力者である級長が失墜することで終わりを告げるのだが、映画の終わりで話がふたたび現在に戻って、葬式の場面になると、そこでいろいろなことが明らかとなってゆく。級長の腰巾着をしていた少年は今や大金持ちの俗物になっており、級長の失墜のきっかけを作った自由主義者の熱血教師は、どうやら体制側の政治家に収まっているらしい。そして、そこに現れることをみなが期待していたあの級長は、結局最後まで姿を見せないことで、逆に、今も権力が社会に偏在することを暗示して映画は終わる。単純な構成ながら、非常によくできた映画だった。
『八百万石に挑む男』(61年、中川信夫)。これもテレビで見た映画。無声映画時代からマキノ省三・衣笠貞之助・伊藤大輔らによって何度も映画化された講談噺を、怪談もので有名な中川信夫が映画化したもの。自分が本物であることを知らずに、本物を演じ続ける偽物という設定は、いろんなことを考えさせる。しかも、その演技がたんなる遊戯ではなく命がけの賭けであることが、映画を最後の瞬間にいたるまで緊迫感に満ちたものにしている。時代劇でありながら、チャンバラを一切見せないところもいい。斬り合いになりそうになる瞬間もあるにはあるのだが、今にも刃先が交わらんとするところで次の場面に変わるのだ(もっとも、かなりCMでカットされてるので、ひょっとしたら少しはあったのかもしれないが)。怪談もの以外の中川信夫作品では、屈指の傑作ではないだろうか。
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■11月27日 (水)
『秋のソナタ』(78年、イングマール・ベルイマン)。バーグマンが落ち目のピアニスト。その娘のリブ・ウルマンと彼女の夫、そして障害児の妹。ほとんど室内劇。ベルイマンには芸術家を主人公にした映画が多い。
『波止場』(54年、エリア・カザン)。エヴァ・マリー・セイントの記念すべきデビュー作。エヴァはやっぱりカラー映画で見る方がいい。陳腐な物語がドラマティックに演出されている。カザンとしてはなかなかの出来。オープニングにかかる感じのよいジャズは誰の演奏だろう。
■11月19日 (火)
松浦寿輝の哲学的ミステリー『巴』を読む。面白いといえば面白いが、大したことないといえば大したことない。ダリオ・アルジェント+吉田健一? ポルノ映画。月光と水。魔性の女。直線と曲線。本物と偽物。冬園。大晦日から新年へ。終わり近くで「巴」という言葉を百科事典で調べるところがあるのだが、松浦はわたしがふだん使っているのと同じ小学館の日本大百科事典を使っているようだ。「巴」「巴蛾」「巴御前」といった言葉の戯れから、松浦はレイモン・ルーセル風にこの物語を組み立てていったのだろうか。
「本当はね、ひとつの『今』の中に、他のすべての『今』があるんです。すべてが、つねに、すでにその中にある。[・・・]ぐるりとまわって、『今』の中へ、しかしあくまで別の『今』の中へ滑り込んでゆく。別のわたしの中へと入りこんでゆく・・・」
「白い紙に横一文字の隅の線を引く・・・。あれもまあ、わたしの書のひとつと考えてもらっていい。あんなふうに夜の闇の中に浮かび上がっている朋絵の横一文字の白い肉体・・・。[・・・]美も醜も、清浄も汚穢も、なにもかもを受けとめ、受け入れ、包摂してくれる大いなる器・・・。[・・・]すべてを意味しうる記号・・・。しかしなあ、何と言ったらいいのかすべてを意味しうるというのは結局のところ、なにも意味しないというのと同じことに逢着してしまう。すべてというのは結局は無というのと同じなんだよ。じゃあどうするか。その横一文字と交差するものというかな、直線を補う曲線というかな、それが必要なんだ。」
■11月12日 (火)
『雨月物語』(53年、溝口健二)。冒頭のパノラミック撮影で捉えた風景を、ラストの、田中絹代の墓からキャメラがクレーンで上昇するショットが再び捉えて映画は終わる。まるで全体が長い夢だったかのように。ほとんど悪の黒幕役以外でしか見たことのない小沢栄(栄一郎)が、侍にあこがれる滑稽な農民役をやっているのは、今見ると面白い。
『キングコング』(33年、クーパー/シェードサック)。『ロスト・ワールド』にも影響を与えていると思われるこの冒険物語が、また映画撮影の物語でもあることは興味深い。フェイ・レイを守ろうとして恐竜と格闘するキングコングは、背負い投げを使っているように見えた。コングはだれに柔術を学んだのか。『猟奇島』では、霧が見事な効果を上げていたが、ここでも地図にない謎の島は霧のなかから現れる。映画の台詞のなかで「the beauty and the beast」という言葉が何度も聞かれる。作品全体が、「美女と野獣」の神話を意識して作られていると考えられ、映画の最後の台詞も、「the beauty killed the beast」である。コングがフェイ・レイの服を一枚一枚はがしてゆく場面もあり、このエロティシズムもジャングルものには欠かせない。
■11月2日 (土)
ジャ・ジャンクーらによるオムニバス映画『三人三色』を見に、久しぶりに京都に行く。映画が始まるまでだいぶ時間があったので、時間をつぶすために MEDIA SHOP という京都ではそこそこ有名な本屋に入ると、洋雑誌の棚にならべられたある雑誌の表紙に「10」と大きく書かれているのがいきなり目に飛びこんでくる。もしやと思って目を凝らすと、フランス語で「キアロスタミ革命」と書かれているではないか。思わず手に取ってみると、カイエ・デュ・シネマのフランス語版だったのでちょっとがっかりした。カイエならキアロスタミが表紙になっても不思議ではない。
それにしても、久しぶりに見るカイエはだいぶ感じが変わっていた。カイエも最近は雑誌づくりにマックを導入しているんだろうか。なんだか妙におしゃれなレイアウトがしてあって、パラパラとめっくたときの感じは Premiere などのゴシップ映画誌とあまり変わり映えがしない。この雑誌も、70年代の「政治の季節」には、ロラン・バルトのイメージ批判などの影響を如実に受けるかたちで、写真を一切使わずテキストだけで勝負するなどといったラディカルなことをやっていたのだった。カイエもずいぶん軟派になったものだ。
もっとも、フランスでは、映画本でさえも、やたらに写真を使わないのがふつうである。新聞では、「ル・モンド」が写真を掲載しないことで有名だった。だからこそ、1985年の8月8日、伝説の女優ルイズ・ブルックスがニューヨークのアパートの一室で78歳の生涯を閉じたその2日後、この新聞が一面に顔写真入りでブルックスの死を報じたのは、この女優の神話の大きさを物語るエピソードのひとつとなり得ているのだ。
まあ、そんな話はどうでもよかった。ところで、その本屋で見つけたカイエでは、先頃フランスで公開されたオリヴェイラの新作『Principe de l'incertitude』を取り上げた大部の特集が組まれてもおり、この作品への期待がますます高まる。たまにはカイエを買っておくのもいいかと思ったが、実際読んでみると案外つまらない記事ばかりでがっかりすることも多いので、金もないことだし止めておいた。
もうひとつの発見は、その本屋で、エリー・フォールの『美術史』の翻訳が出ていたことだ。『気狂いピエロ』の冒頭でバスタブに使ったジャン=ピエール・レオがこの本を読み上げる場面はあまりにも有名である。この美術史は、わが最愛の作家ヘンリー・ミラーが愛読したことでも知られ、事実、この翻訳の序文はミラーが書いている。フランス語の原書はもっているのだが、エリー・フォールの格調高いフランス語は読みやすいものではなく、だれか翻訳してくれないものかと、もう10年以上前から思っていたので、これは実に嬉しい。それにしても、4500円というのはちと高い。2000円分のスタンプカードがあったから、2500円で買えたとはいえ、これで完結したわけではなく、あと3巻は続きがでるはずなのを考えると、喜んでばかりもいられないが、この本だけはどうしてもはずせないから仕方がない。
■11月2日 (土)
『赤頭巾ちゃん気をつけて』(70年、森谷司郎)。『神田川』(74年、出目昌伸)。70年代の日本の青春映画における学生運動のイメージ。『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、庄司薫のベストセラーの映画化。東大入試が中止された69年、卒業を間近にしたある名門高校の学生の一日を描く。興味深い映画だが、風俗的な興味の域を出ない。
『スパイシー・ラブスープ』(98年、チョン・ヤン)。結婚間近の男女が狂言回しになるかたちで、五つのエピソードがオムニバス風に描かれる。録音マニアの少年のエピソードと、倦怠期の夫婦がゲームを通して関係を修復してゆくエピソードがなかなか面白い。
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■10月19日 (土)
『5時から7時までのクレオ』(61年、アニェス・ヴァルダ)。モンスーリ公園の天文台? 真後ろから乗れるバスはいつ頃まで走っていたのか? クレオが映写室から見るドタバタ喜劇。白い服を着た恋人(アンナ・カリーナ)を見送ったあとサングラスをかけたために、別の女を恋人と間違えてあわてる男の役を、ゴダールが演じている。
■10月14日 (月)
ピーター・ケアリー『ジャック・マッグス』。19世紀のロンドン。主人公の過去は催眠術と手紙によって徐々に明らかに。なかなかのストーリー・テラーぶり。基本的にはディケンズの『大いなる遺産』の焼き直し。
『巨大なる戦場』(66年、メルビル・シェイブルソン)。アラビアのロレンスならぬ、イスラエルのマーカス。実在の人物デビッド・マーカスを描く。歴史的には、プレミンジャーの『栄光への脱出』の続編的存在。独立直前のイスラエルが舞台。マーカスのおかげでイスラエルは強くなった!
■10月10日 (木)
『夕陽に立つ保安官』(69年、バート・ケネディ)。バート・ケネディによるコメディ・ウェスタン。ほとんど悪役でしか見たことのないジャック・イーラムが保安官助手の役で出ている。基本的には、『真昼の決闘』のパロディ。墓穴から見つかる金鉱、格子のない牢獄、木に登る女。
■10月10日 (木)
先日テレビで(日本語吹き替えコマーシャルカット版というひどい状態だったが)、『コップランド』という映画を見て以来、ジェームズ・マンゴールドという名前がずっと気になっていたので、見逃していたウィノナ・ライダー主演の『17歳のカルテ』をビデオを借りて見た。『コップランド』は、これならだれが監督してもさまになるだろうというぐらいシナリオがよかったので、監督については判断をひかえていたのだが、『17歳のカルテ』を見て、やはりこのジェームズ・マンゴールドという監督はなかなかのものではないかと確信した。
この映画のウィノナの役は、境界性人格障害という精神病に苦しむ女性。なんとハイスクール卒業したての作家志望の少女という設定なのだが、年齢的な無理をほとんど感じさせないのがウィノナのすごいところだ。時代は60年代末、つまりはカウンターカルチャーの時代。ラジオやレコードプレーヤーから聞こえてくる音楽がなかなか泣かせる。それにしても、この映画、ウィノナのナレーションで始まるのだが、その台詞が、「お金はあるのに万引きしたことある?」というのだから面食らう。例の逮捕劇はこの映画のあとだったはず。ちょっと話ができすぎてないか。
この映画の大部分は、ウィノナが入院させられる精神病院の内部で展開する。すべて女性の患者ばかりの病棟の奇妙な仲間たちと暮らすうちに、彼女はやがてその世界に安住してゆく。それはとりもなおさず彼女がしだいに外の世界を否定して、内側の世界に閉じこもってゆく過程でもある。何度か病院を抜け出す機会が訪れるが、そのたびに彼女は自分の意志で戻ってくる。外の世界こそが彼女を抑圧するものであるのだ。だがやがて、彼女は、結局のところ外も内も同じことに気づく。そのときようやく彼女は、病院を出ていくことができるようになるのだ。それが、病気が治療されたことを意味するのかどうかなど、この際どうでもいい。わたしとしては、彼女は正常化(ノーマライゼーション)したのではなく、この世界を肯定することを学んだのだと思いたい。
『コップランド』では、シルベスター・スタローンに、片耳の聞こえない、ほとんどでくの坊のような保安官役を演じさせ、配役にもなかなかのさえを見せたマンゴールドだが、この映画では、あのでしゃばりなウーピー・ゴールドバーグに、とりあえず見るに耐える抑えた演技をさせている。ジャック・グリーンによる寒々とした風景描写も悪くない。
地味で目立たない監督だが、注目すべき人物だと思う。最近、『ニューヨークの恋人』という作品が公開されたが、それも見逃してしまった。いずれそれも見たいと思っている。
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