日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
神戸映画資料館の連続講座「ジャン・ルノワール『素晴らしき放浪者』編」があと一ヶ月もないところまで近づいてきたので、しばらくはフランス映画の話題が増えると思う。
ジュリアン・デュヴィヴィエ『モンパルナスの夜』(La tête d'un homme, 32) ★★½
ジョルジュ・シムノンの小説を初めて映画化したジャン・ルノワールの『十字路の夜』の直後に作られた、シムノン小説の最初期の映画化作品の一つ。
原題は直訳すると「男の首」くらいの意味になるのだが、たぶん恋愛ものと錯覚させようと狙ったのであろう邦題は、この原題が持つ不気味なニュアンスを台無しにしてしまっている。
金のかかる恋人に手を焼いていた男が居酒屋で冗談でこういう。「だれでもいい、だれか叔母を始末してくれたら10万フランあげてもいい。そしたらおれに遺産が入ってくるんだ」。するとその直後に正体不明の何者かが彼にメモを手渡す。そこにはこう書かれていた。「取引は成立した」
男は悩んだ末に、指定された場所に金を持ってゆく。すると本当に、彼の叔母は何者かによって殺害されてしまうのだ。むろん男はその時間に完璧なアリバイを用意していた。犯人はすぐに捕まるのだが、彼は真犯人によってまんまとはめられた単なるスケープゴートに過ぎなかった……。
『見知らぬ乗客』をちょっと思い出させる映画の出だしからしてなかなかスリリングだ。追い詰められていけば行くほど不気味に落ち着き払ってゆく真犯人の、絶望的であると同時に、達観したような顔、仕草、セリフが強烈な印象を残す。そのため、メグレ警視ものの一つであるのにもかかわらず、この映画のメグレはほとんど存在感を発揮していない。
ミステリー映画なので、内容についてはあまり多くは語らないことにするが、今で言うところサイコ・サスペンスの先駆けと言ってもいい作品であり、現在でも十分に鑑賞に耐える。というか、単純に、とても面白い。
刑事による聞き込みの場面で、手前の刑事はそのままに、相手だけがスクリープロセス画面で次々と変わっていくところなど、当時としては洒落た演出だったのだろうが、今見ると古めかしく、やっぱりデュヴィヴィエはセンスがないなぁと思ってしまうところも多いが、ルノワールの『牝犬』『ボヴァリー夫人』と同じくビアンクール撮影所のマルセル・クルムが音響を担当しているので、サウンド面では数々の実験を試みていて実に興味深い。
警察署内部を捉えた場面での、各自が一斉に関係のない話をしている声をざわめきのように聞かせるところや、オフ・サウンドの多用、あるいはメグレが車のタイヤのパンクを装って容疑者をわざと逃がす場面におけるイメージと音とのズレなど、見るべきところ(というか、聴くべきところ)はいろいろある。しかし、同時代のルノワールが同時録音に徹底してこだわっていたのに比べると、デュヴィヴィエにはこの点においてもやはりルノワールが持っていた現代性に欠けていると言っていい。ルノワール作品のオフ・サウンドは、カメラがパンすればそこに音源となるものが確実に存在していることを確信させる厚みと存在感を持っているのだが、このデュヴィヴィエ作品のオフ・サウンドにはそれがまったくない。
同時代のフレエル((30年代を代表する歌手で、多くの映画に使われ、また本人も『とらんぷ譚』や『望郷』など少なからぬ作品に女優として出演している。ルノワールの『大いなる幻影』ではラジオ放送の歌として使われ、ジャン・ギャバンが口ずさむ。また、『ママと娼婦』『アメリ』など、その後のフランス映画のなかでも彼女の歌を聴くことができる。))と並ぶ女歌手ダミアの歌も実に効果的に使われている。映画が始まると同時にクレジット画面(タイトルを連想させる不気味なギロチンのイメージ!)をバックにすでに彼女の歌は聞こえている。その後も、彼女の声は、あくまでも画面オフから、だが真犯人の部屋の隣の部屋から聞こえてくるリアルな歌として、作中で大きな存在感を放つ。真犯人はその見えない歌声の主を、かれが性的に執着する女(そのために彼は犯行を犯すのだ)と、想像のなかで重ね合わせるのである。こうした歌の使い方も、『牝犬』の殺人をストリート・ミュージシャンの歌に接続する場面や、あるいは『獣人』の殺人場面での同じような歌の使い方など、ルノワール作品における歌の使い方と比較することが可能だろう。
フェリペ・カザルス『Canoa: A Shameful Memory』(76) ★★★
こんな映画が存在することさえ、つい最近まで知らなかった。それなりに映画を見てきたつもりだが、この世にはわたしが見たことも聞いたこともない映画がまだまだ残っているらしい。当たり前といえば当たり前の話である。しかし、この映画にはそんなことを久しぶりに痛感させられた。実にユニークな作品である。
「メキシコ版 実録『2000人の狂人』」とでもいえば、この映画の内容を簡潔に言い表したことになるだろうか。この映画に描かれるのは、1968年のメキシコで起きたある事件である。
メキシコ中南部の都市にあるプエブラ大学の職員5名が登山目的で地方に旅行する。しかし、目的の山の麓にある村サン・ミゲル・カノア(映画のタイトルになっている)に到着した時、折悪しく土砂降りの雨になる。仕方なく一夜の宿を探そうとするが、教会の神父を始めとして、村人たちはなぜか彼らに敵意を剥き出しにしてくる。それが、田舎の村でよく目にする「よそ者」に対するたんなる警戒心などではなく、殺意そのものであることにやがて彼らは気づくが、そのときはもう手遅れだった。 彼らは酒場で知り合った村人の家(というよりも小屋に近いあばら家)に泊めてもらうことになるのだが、気がつくとそこに何十人もの村人が詰め寄せ、家の周りを取り囲んでいた。やがてかれらは扉を押し破ってなかになだれ込み、家の主人を殴り殺すと、5人の職員に襲いかかり、一人ひとり殺してゆく。滅多打ちにした挙句、泥道を引きずってゆき、死にかけの状態で倒れているところをさらにナタ(マチェテ)で何度も何度も斬りつける。残酷極まりない。直接犯行に加わっていないものたちも、憎悪の叫び声を上げて囃し立て、街全体がお祭り騒ぎの様相を呈してゆく。知らせを受けてようやく機動隊が駆けつけたときには、二人だけがなんとか生き残っていたが、どちらも瀕死の重傷を負っていて、一人は片方の手の指をほとんど切り落とされていた……。
まるでハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』のようなホラーな展開だが、実はこれは、この映画が撮られる数年前にメキシコで実際に起きた事件なのである。
こんなことが本当に起きたのかと信じられない気持ちになるが、これは、幾つもの要因が重なって、起こるべくして起こった事件だった。当時この村は、一人の怪しげな神父によって支配されていた。彼はよその教区から追放されていわばこの村に逃げ込んできていたいわくつきの人物だった。ほとんどが読み書きもできない無知な村人たちを、神父はその右翼的といってよい思想でたちまち洗脳してしまったのである。村人たちは、反政府的な運動をする学生たちは憎むべき共産主義者であり、カトリックの教会を破壊し、村人たちの土地を奪おうとしていると教え込まれた。そして、共産主義者の学生たちがやがて村に現れるから、警戒を怠るなと言われていたのである。 プエブラ大学の職員たちが村に現れたのは、そんな最悪なタイミングだった。彼らは共産主義の学生たちと間違われ、命を狙われてしまったのである。この日、雨が降っていなければ、彼らは悲惨な事件に巻き込まれることもなく、登山を楽しむことができていただろう。そんな不幸な偶然も重なって起きた出来事だった。
しかし、この事件をほんとうに理解するには、当時のメキシコの社会情勢を知っておく必要があるだろう。当時メキシコは、長期にわたる高度経済成長を達成する一方で、貧富の差が拡大するなど、様々な社会問題を抱えていた。この映画に描かれる1968年は、メキシコ・オリンピックが行われた年であり、オリンピックの直前になって学生たちによる反政府運動は激しさを増していた。そんなときにこのカノアの村の事件は起きたのだった。メキシコシティで、軍隊が学生のデモ隊に向かって発砲し、一説によると300人近くの学生が死亡したと言われる有名な虐殺事件が起きるは、このカノア村の出来事が起きたわずか数ヶ月後のことだった。このメキシコシティーでの虐殺事件はこの映画で直接的には描かれていない。だが、監督のフェリペ・カザルスはこの虐殺事件も射程に入れているに違いない。いや、むしろ、それこそが本当のターゲットであったとも考えられる。
この出来事を描くにあたってカザルスは、直線的な語りではなく、ブレヒト的ともいえるような距離をおいた複雑な語りを用いている。映画は、二人の新聞記者が、その夜起きたばかりのこの事件のことを電話で語るシーンで始まる。ついで、殺戮の現場に転がっている死体、その周りに群がる村人たち、それを制止する機動隊員を捉えたニュース映像風のモノクロ画面をバックにタイトル・クレジットが流れる。それが終わると、殺されたプエブラ大学の職員たちが登るはずだったラ・マリンチェ山を捉えた美しいカラー画面が現れ、サン・ミゲル・カノア村の風景が次々と映し出されてゆくにつれて、画面外の語り手が、この村の経済的に貧しい現状や、識字率の低さなどを、まるで教育ドキュメンタリーのように説明してゆく。やがて野良仕事をする一人の男をカメラがアップで捉えると、男はカメラに向かって語り始める。むろん、この男も役者である(実は、彼は映画監督のフアン・ロペス・モクテスマであり、彼はこのあとも狂言回しとして何度も画面に登場することになるだろう)。
こんな風にして始まった映画は、一体この映画は何がしたいのかと観客がいささか不安になり始める頃になって、ようやくプエブラ大学の職員たちの物語を再現ドラマとして語り出すのだが、そこにもモクテスマ演じる男は何度も現れ、物語から超越した存在として、出来事にコメントを加え続ける。モクテスマの語りはときにアイロニーたっぷりであり、こうして映画は終始一貫して出来事とは一定の距離をおきながら語り進められてゆく。
事件そのものも悲惨だが、事件の結末がまたやりきれない。この犯行には、神父をはじめ村人全員が加担していたと言ってもいいのだが、それを立証することは難しく、直接手を下した何人かだけが結局裁判で有罪になる。いずれもわずか数ヶ月の刑期であり、しかもほとんどは刑期よりもずっと短い期間で出所した。このなんとも中途半端な結末は、この直後に起きるメキシコシティーでの虐殺事件を予告している。カザルスがこの事件をただの再現ドラマとしてではなく、一歩距離をおいたところから構成し直して描いたのは、これを非常に特殊なケースとして片付けるのではなく、起こるべくして起きた出来事として描くためだったのだろう。まるで中世の世界で起きたような現実離れした事件だが、条件さえ整えば、現在においてもこういう事件はきっと起こりうるに違いない。そう考えると恐ろしくなる。
ジョン・M・スタール『裏町』(Back Street, 32) ★★★
メロドラマとは不思議なものだ。 メロドラマとは一体何なのか。考え始めるとわからなくなる。しかしそれは西部劇であっても、フィルム・ノワールであってもホラーであっても同じだ。どんなジャンルでも突き詰めてゆくととたんにわからなくなるものである。しかしそれでも、自分が西部劇やフィルム・ノワールを好きか嫌いかくらいは答えられる。ただ、メロドラマだけは違う。自分がそれを好きなのか嫌いなのかさえ、いまだにわからないのである。
ジョン・M・スタールのメロドラマ『裏町』を見る前に、たまたま『野玫瑰之戀』(王天林監督)という香港映画を見ていたのだった。日本では、香港映画ファン以外にはほとんど知られていない作品だが、香タイム・アウト誌「香港映画ベスト100」の11位に選出され、香港映画賞協会が選定する「史上最高の中国映画ベスト100ランキング」においても64位に入っている有名な作品である。 この映画の主演女優グレース・チャンは歌手としても有名であり、映画ファン以外のあいだでもよく知られている。ツァイ・ミンリャンが『Hole』のなかで、彼女に対して熱烈なオマージュを捧げていることも、よく知られている事実である。
しかし、わたしはグレース・チャンという女優=歌手にははまらず、『カルメン』に緩やかに基づいたフィルム・ノワール風のメロドラマ((グレース・チャンが最初と最後に歌う唄は、ビゼーの『カルメン』の広東語(?)バージョンである。))にも早々に嫌気が差してしまった。自分はやはりメロドラマが好きではないのだ。 そんなことを思ったりもしたのだが、その直後に見たスタールの恋愛メロドラマ『裏町』にはいたく感動し、思わず涙してしまった。そして、やはりメロドラマはわからないと、思い悩んでしまったのだった。
結局、これは監督の力量の差にすぎないのだろうか。同じメロドラマでも、凡才が撮れば見るに堪えない作品になり、才能ある監督が撮ればまばゆいばかりの傑作になる。それだけのことなのだろうか。いずれにせよ、メロドラマというジャンルには、他のどのジャンル以上に、映画のエッセンスがむき出しの形で現れるような気がする。
ジョン・M・スタールは、日本では、ダグラス・サークによって2度リメイクされた作品(『心のともしび』『悲しみは空の彼方に』((サークによるスタールのリメイクとしてはこの2本が有名だが、実は、『間奏曲』もスタールの『When Tomorrow Comes』のリメイクである。もっとも、サークはいずれの場合もスタークの作品をそれまで見たことがなかったと主張している。その真偽はともかく、これらはリメイクというよりも、同じ原作の映画化といったほうが正確なのだろう。ちなみに、『裏町』の原作を書いたファニー・ハーストは、『模倣の人生』とそのリメイク『悲しみは空の彼方に』の原作者でもある。))の監督くらいのイメージしかいまはない(ほとんどまったく知られていないが、マックス・オフュルスの『忘れじの面影』も、実は、スタールの『昨日』のリメイク)。しかし、『哀愁の湖』一本を見るだけでも、この監督がそんなに簡単に忘れ去られてしまっていい存在でないことはわかるだろう。ただ、日本では彼の作品を見る機会がほとんどなく、実を言うと、私もトーキー作品をほんの数本見ているだけにすぎず、スタールのサイレント時代の作品(彼の監督デビューは1914年)に至っては、ただの一本も見ていないのだ。
今回、かれが30年代に撮ったメロドラマ『裏町』を初めて見て、この監督の重要性を改めて確信した。『裏町』に描かれるのは、一言で言うならば、不倫の物語である。原題の "back street" とは、不倫の関係にある恋人たちが、人目を忍んで逢引することを暗に意味している。
20世紀初頭のシンシナティ。アイリーン・ダン演じるヒロイン、レイ・シュミット((映画の中では特に説明はなかったと思うが、彼女はおそらくドイツ系移民の子供である。オハイオ州はドイツ系の移民が多く(今日でも30%近くいる)、とりわけシンシナティはそうだった。この映画には、この街のドイツ系移民のコミュニティがさり気なく描かれている(冒頭のビアガーデンの場面など)。))は、偶然出会った若きビジネスマンの富豪ウォルター(ジョン・ボールズ((ボールズは、この時期、スタールの映画に立て続けに主演している。)))とたちまち恋に落ちる[一目惚れ]。しかし、実はウォルターには母親に気に入られている婚約者がいて、近々結婚することになっていた。二人は今度公園で行われる演奏会で会うことを約束する。ウォルターは、そこで母親にレイを紹介するつもりだった。母親にさえ気に入ってもらえれば二人は結婚できるはずだ。しかし、当日、レイはやむをえぬ事情で演奏会に遅れてしまい、ウォルターにも母親にも合うことができない[すれ違い]。
何年かが過ぎたとき、二人はまたしても偶然出会う[再会]。ウォルターは婚約者と結婚していた。二人はそれでもどうしようもなく惹かれ合い、逢引を続ける。妻を捨てることができず、彼女の孤独も辛さも理解できない男(子供がほしいというレイを彼は激しくなじる)に、レイは一時は愛想を尽かして別れを告げ、愛してもいない別の男と結婚する寸前まで行く[真の愛と偽の愛]。しかし、ウォルターに懇願されて、レイは結局不倫の関係を続けることになる。ウォルターが家族とともに旅行するときも、レイは「影のように」彼らのあとをついて行く。そんな関係が何十年も続いたとき、ウォルターが突然病に倒れる。瀕死のベッドでウォルターは、家族を部屋から追い出し、事情を知っている息子(父親の愛人を憎んでいる)に、レイに電話をさせ、愛していると言い残して死んでゆく。ウォルターの死に呆然とし、一人自宅でうなだれているレイの元を、ウォルターの息子が訪れ、父親が彼女をほんとうに愛していたこと、これからは自分が彼女を援助することを告げて立ち去る。これを嬉しく思ったレイは、満足そうな笑みを浮かべて死んでゆく。
こうやって物語を言葉にしてみると、本当に陳腐な映画にしか思えないのだが、これが映画になるとあんなにも感動的になるのだから不思議だ。最初にいったように、描かれているのは確かに不倫の物語なのであるが、最後まで見ると、実はこれは純愛の映画であったことがわかる。男の妻が夫に愛人がいることを最後まで知らないという設定はずるいといえばずるい。この映画がどろどろした不倫の物語になっていないのは、いささか信じがたいこの設定のおかげだからである。しかし、この映画を純愛メロドラマと考えるならば、そんなことは些細な問題に思えてくる。愛し合う二人の障害になるものが、ここではたまたま相手に妻がいたという些細な事実だったということにすぎない(こんなことを書くと誰かに怒られそうだが)。
ダグラス・サークの映画のような迫力のある画面も鮮やかな色彩もここにはない。バロック的ともいえるサークのスタイルとの避けがたい比較から、この映画は(この映画自体はサークによってリメイクされているわけではないが)見劣りがするように思えるかもしれないが、それは単に見かけに騙されているだけだ。『裏町』の画面の平板さ(コントラストは自然で、クロースアップもほとんどない。もっとも、スタールの映画としては、この映画のカメラは冒頭からよく動く)、演技の素っ気なさ=自然さ(サークの映画の演劇性とくらべて)は、単にこの二人の作家のスタイルの違いを示しているにすぎない。サーク作品との比較からスタールの才能が影に霞んでしまい、なかば忘れ去られてしまっているのは、残念で仕方ない。 『裏町』でとりわけ感動的なのは、突然数十年の時間が過ぎ、ふたりの恋人たちがともに白髪になっている映画の終わり近くの部分だ。同じ俳優が、メーキャップで老人を演じるのは、時として滑稽に思える場合があるのだが、その一方で、それはしばしばとても感動的な場面にもなる。『裏町』のラストはまさにその成功例であり、スタールの決して目立たない演出と俳優の抑えた演技が、ここでも功を奏している。とりわけ、ウォルターの死を知らされたあと、質素なアパートの一室で一人思いにふけるアイリーン・ダンは素晴らしい。ここでは、もしもあの演奏会の約束に間に合っていたらという、あり得たかもしれない過去をレイが回想するという、なんともユニークな場面が設けられているのも注目だ。もしかすると、白髪のアイリーン・ダン演じるレイは、ドライヤーの『ゲアトルード』のヒロインと同じセリフをいうこともできたかもしれない。
「私は若かったか。いいえ、でも愛した。私は美しかったか。いいえ、でも愛した。私は生きたか、いいえ、でも愛した」
ファニー・ハーストの原作は3度映画化されていて、スタール版はその最初の作品である。この映画はいわゆるプレ・コード時代に映画化された。38年にこの映画のリバイバルが企画されたとき、ブリーン・オフィスはこの映画が不道徳だとして、公開を禁じた。ユニヴァーサルは代わりにシャルル・ボワイエ、マーガレット・サラヴァン主演、ロバート・スティーヴンソン監督で再映画化した。61年には、デイヴィッド・ミラーがスーザン・ヘイワード、ジョン・ギャヴィン主演で再び映画化している。41年版は日本でも DVD が出ているし、61年版も比較的入手が簡単なのだが、この32年版だけは、わりと最近修復されたにも関わらず、わたしの知る限りスペイン版しか DVD が出ていないし、現在は入手するのがなかなか難しい。下写真はそのスペイン版のはずなのだが、コメントはすべて61年版について書かれている。これはたぶんアマゾンのシステムのせいだろう(タイトルが同じなどの類似製品のページに関係のないコメントが付くことがよくある)。まあ、あたりまえだが、買う人は自分で確かめて、自己責任でお願いします。
リチャード・C・サラフィアン『荒野に生きる』(Man in the Wilderness, 71) ★★
いささか冗長な気もするが、なかなかユニークな西部劇として記憶に残る作品。
もっとも、アメリカン・ニューシネマの名作『バニシング・ポイント』の監督リチャード・C・サラフィアンが撮った映画だけあって、この映画は西部劇というジャンルにふつうに期待するものとはだいぶかけ離れている。
探検隊のガイド役を務める主人公(リチャード・ハリス)が、旅の途中で熊に襲われて瀕死の重傷を負う。探検隊のリーダーは、彼を置き去りにし、場合によっては殺せと部下に命じる。奇跡的に生き残った主人公は、彼らへ復讐することだけを考えて、ひたひたと跡を追いかける。 アンソニー・マンの『怒りの河』の後半をちょっと思い出させもする展開だが、実際は、復讐話は二の次で、主人公が傷を癒やしながらいかにして荒野のなかでサヴァイヴァルするかを描くことに映画の主眼は置かれている。その意味で、「荒野に生きる」という邦題はなかなか的を射ている。
面白いのは、探検隊の一行が大きな船を引っ張りながら移動していることだ。船を担いで山を超える西部劇なら、この30年前にすでにキング・ヴィダーが『北西への道』でやっているが、この映画に出てくる船はあんなボートではなく、何十人も乗せることができ、縄梯子で昇り降りするような、とても大きな船で、しかも大砲まで積んでいる(インディアンが襲ってきたときは、この大砲をぶっ放すのだ)。しかも、映画の最初から最後まで、雪が降ろうが、敵が攻めてこようが、探検隊はこの船を延々と運び続けるのだ。 そんなわけで、この探検隊のリーダーは船長と呼ばれているのだが、それを演じているのがなんとジョン・ヒューストンなのである。黒いコートに山高帽という西部劇らしからぬ出で立ち。息子同然のハリスをあっさり置き去りにし、いつも何を考えているのかわからい。この船長を演じるヒューストンは、自分が映画化した『白鯨』に出てくるエイハブ船長を意識しているとしか思えない。
最後にハリスとヒューストンが対峙する場面の〈スカシ〉かたは、自分的にはピンとこなかった。このラストも70年代的というべきなのか。
『レヴェナント:蘇えりし者』はこれとそっくりの話を描いていて、リメイクか、でなければパクリだと思ったのだが、実は、ここに描かれる物語は本当にあった出来事を元にしているらしい。実話なのだ。似ていて当然だ。
リトウィク・ガタク『Ajantrik』(58) ★★★
インドの映画監督リトウィク・ガタク(読み方いろいろ)がデビュー作『Nagarik』に続いて撮った長編劇映画第2作(共同監督作品も数えると違ってくるが)。これまでガタクの映画は6,7本見ているが、出来不出来は別にして、これが一番好きかもしれない。素晴らしい作品だ。
これは一種の恋愛映画ということになるのだろうか。ただし、ここに描かれるのは男女の愛ではなく、一人のタクシー運転手と彼の愛車との愛の関係なのである。
この映画に描かれているのは、作品が撮られたのとほぼ同時代、50年代のインドであると考えていいだろう。主人公のタクシー運転手は、20年型のオンボロなシボレーをいまだに使って営業を続けていて、金ピカの新車を使っている同業者や、町の人達からいつもからかわれている。しかし、彼の車はどんなにポンコツであっても壊れたことはなく、今までちゃんと走り続けてきた。それが彼の誇りだった。しかし、その車にもとうとう寿命が近づいてくる……。 ま
ず注目すべきは、主人公が自分の車に対してみせる愛、というか執着の凄まじさだ。車を "Jaggadal" という愛称で呼び、客が車のことを馬鹿にすると怒り狂う。それだけならば、車好きが少し行き過ぎただけということになるのだろうが、かれが車に対して抱いている感情は、そんな普通の車愛好者と愛車との関係を遥かに超えるものだ。車に対してまるで人間相手のように呼びかけ、ラジエーターの水が不足すると、近くの川で汲んできた水を、「のどが渇いたかい?」と言いながら車に飲ませてやる。すると車は、ごくごくと音を立てながらその水を文字通り美味しそうに飲むのだ。
このように、主人公のいささか常軌を逸した愛情に応えるかのように、車もときとして生き物のように振る舞う。それどころか、だれもふれていないはずの車のヘッドライトが点滅することさえあり、この車には自立した意識さえあるのではないかと思わせる瞬間まである。この映画に描かれる人間と車との異様な関係を見ていると、どうしてもジョン・カーペンターの『クリスティーン』を思い出してしまう。ジャンルもスタイルも何もかも異なる作品だが、車に対する異常な執着という一点でこの2作は共通している。ただ、『クリスティーン』に出てくる車はタイトルからもわかるように女性だったのだが、『Ajantrik』の車の性別はなんなのだろうか。ベンガル語は全くわからないのだが、英語字幕を見ると、車は "he" という男性代名詞で呼ばれている。どうやらこの車は男性であるようだ。となると、この映画に描かれる主人公と車との関係はどのように理解すればいいのだろうか(同性愛?)。かれがこの車を初めて買ったのが、母親の死の直後だったというのもポイントになるところかもしれない。いずれにせよ、主人公がタクシーの乗客の女に恋をして、それまで大事に扱ってきた車に無理をさせ、彼女が乗った列車を追いかけさせたことがきっかけで、車が壊れ、ついには廃車=死を迎えることになるというのは、とても意味深である。
ガタクは、車がまるで生き物であるかのように見せるために、ヘッドライトの動きや、とりわけ様々なサウンド効果を巧みに使っている。その斬新かつユーモラスなサウンドの使い方は、たしかにジョナサン・ローゼンバウムの言うとおり、ジャック・タチ作品のそれを思わせもする。なかでも、ラストのところで、なんとか車を甦らせようとする主人公の努力にも関わらず再起不能となってしまった車がとうとうスクラップ業者によってくず鉄として運び出されてゆく場面の哀切極まるサウンドは筆舌に尽くしがたい。ガタクの映画をあまり音を意識してみたことはなかったが、この映画を見ると、その側面から彼の作品をまた見直したくなってきた。
なにかファンタジー映画のような印象を与えてしまったかもしれないが、ぜんぜん違う。下手をすると現実離れしたファンタジーになりそうな主題を、ガタクはあくまでリアルに描き出してゆく。デビュー当時から晩年まで、フィクションと並行してドキュメンタリー映画を作り続けてきた監督らしい鋭い眼差しが、この映画にも随所に感じられる。そこがまた素晴らしい。
この時代、タクシー運転手を描いたインド映画がもう一本存在する。巨匠サタジット・レイが62年に撮った『Abhijaan』である。レイがガタクの作品からいかなる影響を受けたかは定かではない。レイの映画に描かれる不機嫌なタクシー運転手も、30年型クライスラーに並々ならぬ執着を見せ、その点では共通する部分もある。しかし両作品のテーマはやはり全く異なる。『Abhijaan』では、タクシー運転手の困難な人生を通じてインドの社会的現実を描くことにこそ監督の狙いがあるといっていい。たぶんだが、スコセッシの『タクシー・ドライバー』はこの『Abhijaan』から少なからぬ影響を受けている。
ラリー・コーエン『スペシャル・イフェクツ/謎の映像殺人』 (Special Effects, 84) ★½
「スペシャル・エフェクト」というタイトルでサスペンスとなると、『F/X 引き裂かれたトリック』のような作品をちょっと想像してしまうが、ぜんぜん違う。原題も邦題もいささかミスリーディング。 女優の卵が経験する悪夢が描かれるという意味では、『マルホランド・ドライブ』や『ネオン・デーモン』などに近い題材を扱っているといえるが、むしろ、『血を吸うカメラ』や『女の香り』(アルドリッチ)、あるいはキューカーの『二重生活』などといった作品の系譜と微妙に重なる部分のある作品だ。今見るといささか古めかしく思える映画であるけれど、こうしたテーマに興味がある人にはなかなか興味深い作品ではあるだろう。 ちなみに、ヒロインを演じているゾー・タマリス(ルンド)は、アベル・フェラーラのパートナーとして彼の数作品に出演しているだけでなく、『バッド・ルテナント』の脚本を書いてもいる女性。
ゴードン・ダグラス『駅馬車』(Stagecoach, 66)★
フォードの『駅馬車』をゴードン・ダグラスがリメイクした作品。
フォード版の冒頭シーンでは、通信士の漏らす「アパッチ」のたった一言によって、物語を理解するのに必要な状況が簡潔に提示されていたわけだが、ダグラスは、フォードがあえて見せなかった、アパッチが駐屯地の騎兵隊を襲撃し、電線を切断するところを律儀に見せてゆく。駅馬車の乗客一人一人に対しても導入場面がたっぷりと設けられ、おかげで全員が馬車に乗るまでフォード版の2倍近く時間がかかっている。ここでは何もかもが映像で丁寧に説明されていくにもかかわらず、オリジナル版に付け加えられるものは何もなく(むしろその逆で)、人物もいっこうに際立ってこない。
何とか見せ場を作ろうと、馬車に崖っぷちを走らせたり、大雨を降らせたりといろいろやっているが、すべてから回りしている。唯一興味深かったのは、オリジナル版がカリフォルニア近郊のモハーヴェ乾燥湖(モニュメント・ヴァレーではない)で撮影したクライマックスのアパッチ襲撃シーンの舞台を、ダグラス版は森の中に設定しているところぐらいだろうか。
セシル・B・デミル『スコオ・マン』(The Squaw Man, 31)★
サイレント時代にデミル自身が撮った作品をリメイクした西部劇。
冒頭、都会のシーンがしばらく続いてから、西部に舞台が移る。こういう出だしで始まる西部劇はないこともないのだが(チミノの『天国の門』とか)、そこのところは別にしても、西部劇らしからぬ作品で、恋愛メロドラマといったほうが近い。いわゆる「偽の西部劇」。
弟の犯した横領事件の罪をかぶって主人公は西部に渡り、そこでたまたまかかわることになったインディアンの女と結婚する。女がインディアンである物語上の必然性はほとんどなく、主人公の幸せを阻む女というメロドラマ上の設定が、たまたまインディアンでもあったというに過ぎない(そもそも、このインディアンの女は何族だったかすら説明はなかったと記憶している)。
インディアンの女とのあいだに子供が生まれ、それなりに平和に暮らしていたところに、都会から、主人公の愛する女(彼の弟は彼女と結婚していた)がやってくる。都会に帰ることを拒む主人公に、女の父親は、せめて子供だけでもちゃんとした教育を受けさせるべきだと説得する。
今までいろんな西部劇を見てきたが、西部で生まれた子供を都会で教育を受けさせるべきかどうかなどという話が出てくるウエスタンというのは見た記憶がない。東部からやってきた女が野蛮な西部に嫌気がさして都会に帰ろうとするという話ならよくあるが(その場合、たいていは、結局、西部にとどまる)。
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