日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■青山真治『サッド・ヴァケイション』
青山真治の最近の作品としては、久々によかった。ただ、これがとくにすぐれているというよりも、『Helpless』と『ユリイカ』というレフェランスを外部にもっている強みというべきだろうか。片腕の男のイメージをワンカット見せるだけでイメージが広がるわけだし。 しかし、それにしても贅沢な役者の使い方だ。息子でもあり父親でもある主人公を演じる浅野忠信は、多少おじさん化している気がしないでもないが、いつものように素晴らしいし、オダギリジョーはこういう脇役でもすごく存在感があっていい。あまり好きではない石田えりまでがすごくよかったのだから、困ったものだ。石田えり史上の最高傑作かもしれない。彼女が演じるのは、最後の最後までエゴの固まりのような女で、中村嘉葎雄にはたかれてもまだ気づかないという感じなのだが、なにもかも飲み込んでしまうグレートマザーとでもいうべき存在感が圧倒的だった。 流れ者が集まって構成される疑似家族の光景は、最近のヴェンダースの作品をとりわけ思い出させるが、中村嘉葎雄が登場するシーンでのどかな音楽が流れると、これは「寅さん」か、と思う瞬間もあった。
■甲斐谷忍『ONE OUTS』
「あらゆる野球漫画へのアンチテーゼ」 として描かれた型破りの野球漫画。バッターとの一対一の賭勝負野球「ワンナウツ」で負け知らずの伝説のピッチャー渡久地が、プロ野球にはいるところから物語ははじまる。一見、素人同然の球しか投げられないピッチャー渡久地が、バッターの心理を読み尽くす驚くべき洞察力で、嘘のようにアウトの山を築いてゆく。野球版「ライアーゲーム」とでもいうべき「だまし」のおもしろさ。球団のオーナーと交わした契約も、アウト1つとるごとに500万のプラス、逆に 1失点につき5000万のマイナスという前代未聞の内容で、文字通り一球ごとの真剣勝負が繰り返される。金儲けしか頭にないオーナーは、チームの勝ち負けを無視して、渡久地に無理な登板を繰り返させる。絶対不利の条件を渡久地はことごとく乗り越えてゆくが、オーナーはそのたびにさらに厳しい条件を突きつけてかれを追い込む。相手チームだけでなく、この悪徳オーナーとの勝負も熾烈を極めてゆき、目が離せない。 野球漫画につきものの努力と根性といった汗臭さが全然ないのが特徴だが、主人公が加入したことで、いままでやる気がなかった選手たちに勝利への執着が生まれ、意外にもチームはまとまり始める。実は結構、野球漫画してるんじゃないか、という部分もある。 クールなタッチは新しいが、そのぶん淡泊な感じがしないでもない。非常に面白いのだが、全19巻をもたすにはもう少し大きな流れがほしかった。
■ パトリシア・ハイスミス『Eleven』
ほかで読んでいる作品も結構はいっているのだが、「The Birds Poised to Fly」(「恋盗人」)がどうしても読みたかったので。短編ベストテンなどでたまに選ばれることもある結構有名な短編だ。プロポーズの手紙に対する返事をひたすら待ちつづける男が、隣人の郵便受けに何日も放置された手があることに気づく。男は手紙を盗み開封する。それは、かれと同じように恋人からの返事を絶望的に待ち続ける女の手紙だった・・・。相似形の物語が切なさを増幅させる。期待しすぎたところもあったが、面白かった。 この短編集には、初期から後期までヴァラエティあふれる短編が収められていて、パトリシア・ハイスミス入門としては、最適の一冊かもしれない。「恋盗人」のようなセンチメンタルな色合いのものもある一方で、カタツムリが活躍する2篇「かたつむり観察者」と「クレイヴァリング教授の新発見」、閉塞した少年の心理をスッポンに託して描いた「すっぽん」、あるいは「からっぽの巣箱」などの動物ものは、底知れぬ不気味さで読後にしこりのようなものを残す。「モビールに艦隊が入港したとき」では、夫を殺してバスで逃亡する女性の心理が、意識の流れを思わせる手法で巧みに描き出されてゆく。今さらだが、実にうまい。 洋書も翻訳もアマゾンのサイトで、ハイスミスの著書のなかでは売れ行き上位にランクされている人気の短編集である。英語は非常に読みやすいので、手頃なペーパーバックを探している人にもお薦めの一冊だ。『11の物語』として、ハヤカワ・ミステリ文庫で翻訳を読むことができる。
自転車で行ける範囲にある唯一の映画館が9月いっぱいで閉館することになった。とくに何の思い入れもない映画館だったが、つぶれるとなると痛い。どこでもやっているような封切り映画を見に行くのには便利な映画館だった。しかし、いついってもがらがらだったことを思うと、仕方がないのかという気もする。こんな田舎にまだ映画館が残っていたというだけでも奇跡だったのかもしれない。 いまは改装されてシネコンになっているが、ここはわたしが子供の頃からずっと映画館だった。はじめてひとりで映画を見に行ったのも、改装される前のこの映画館だった。小学何年生の頃だったか。タイトルも覚えているが、恥ずかしいので隠しておく。
☆ ☆ ☆
バーベット・シュレイダー『完全犯罪クラブ』
テレビにて。エリック・ロメールの映画を製作したり、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは船でゆく』、ピエール・ズッカ=ピエール・クロソフスキーの『ロベルトは今夜』などに俳優として出演するなど、そうそうたる経歴を持つフランスの監督バーベット・シュレイダーがアメリカに渡って撮った作品。ハリウッドでも、『マーズ・アタック!』に出演したり、ラウール・ルイスの『悪夢の破片』を製作するなど、いろいろと活躍しているが、肝心の監督業のほうはどうなのだろう。アメリカではじめて撮った『バーフライ』などは悪くなかったが、あっという間にハリウッドになじんでしまった気がして、その後積極的な関心をなくしてしまった。少し前に、これもテレビで、『死の接吻』を見たが、ニコラス・ケイジの健闘むなしく全然だめだった。アイラ・レヴィンの映画化ではなく、リチャード・ウィドマーク主演のヘンリー・ハサウェイ作品をバーベット・シュレイダーがリメイクした作品だ(同じタイトルなのでややこしい)。
その約5年後に撮られたこの『完全犯罪クラブ』は、1924年にアメリカで実際に起きた、インテリ青年2人組が自分たちが優秀であることを示すためだけに起こしたとされる誘拐・殺人事件「レオポルド&ローブ事件」を題材にしている。同じ事件はヒッチコックの『ロープ』やリチャード・フライシャーの『脅迫/ロープ殺人事件』(『動機なき殺人』のほうがなじみ深い)によっても映画化された。もっとも、『ロープ』のほうは、直接的には、パトリック・ハミルトンの原作戯曲「Rope's end」がもとになっており、一見すると非常に演劇的な作品なので、『脅迫/ロープ殺人事件』『完全犯罪クラブ』とはだいぶ印象が異なる作品になっている。『ロープ』では、若者による傲慢で、思い上がった犯罪が描かれていると同時に、彼らに犯行のきっかけを与えてしまった人物(ジェームズ・スチュアート)との師弟関係における「罪の交換」(by ロメール&シャブロル)が、ヒッチコック的な重要なテーマをなし、モラルをめぐる心理的サスペンスにさらなる深みを与えていた。『ロープ』には実録ものの印象はほとんどなく、完全にヒッチコックの作品になっているといっていい。 実際、『完全犯罪クラブ』を見ていて、すぐにこれはフライシャー作品のリメイクだと思ったが、『ロープ』のことは思い浮かばなかった。 『死の接吻』のすぐあとに見たせいもあるのだろうか、シュレイダーはこの作品ではなかなか健闘しているように思えた。しかし、世間での評判はかなり悪いようだ。シュレイダーは当然、ヒッチコックやフライシャーの作品を意識しながら撮っているにちがいない。そういう興味で、比較しながら見ると面白いのだが、なにも知らない人には、ただの安っぽいテレビドラマのような作品にしか見えないのもたしかだろう。
テッド・テツラフの名高い『窓』を見る。40年代に撮られたもっとも有名なフィルム・ノワールの一本だ。
テツラフはヒッチコックの『汚名』などで有名なキャメラマン。コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の原作を、『らせん階段』(ロバート・シオドマク)や『無謀な瞬間』(マックス・オフュルス)で知られるメル・ディネリが脚本化した物語は、一言でいうなら、狼少年の話をサスペンスにアレンジしたものである。製作はあのドーリ・シャーリ(ただし、クレジットはされていない)。
いつもほらばかり吹いていて、両親からも相手にされなくなっている少年が、上階でおこった殺人事件を、窓の隙間から目撃してしまうところから、物語ははじまる。少年は両親に見たことを話すが、両親はいつもの作り話だろうといってまともに取りあってくれない。絶望した少年は、警察に事件を通報しにいくのだが、それがきっかけで、殺人犯たちに自分が事件を目撃していたことを知られてしまう・・・
物語は、当時としては斬新だったと思われるが、いま見ると多少鮮度が落ちているように感じられるのは否めない。同じようなテーマをあつかった『狩人の夜』にくらべると、インパクトの点では数段落ちるだろう。しかし、そつのない演出で最後まで飽きずに見させる。殺人犯役のポール・スチュアートはあまり有名でないバイ・プレイヤーだが、その独特の風貌は忘れがたい。もともとはマーキュリー・シアターでオーソン・ウェルズと活動をともにした人物で、『市民ケーン』ではホテルの支配人かなにかを演じていて、『オーソン・ウェルズのフェイク』にもたしか出ているはずだ。ほとんど脇役ばかりで、主役級を演じている作品はほとんどないといっていいだろう。『窓』は彼が非常に重要な役を演じた初期の代表作の一本でもある。アンソニー・マンの映画に慣れ親しんでいると、父親役のアーサー・ケネディは若干違和感があった(それに、ほとんど最後までたいした活躍はしない)。母親役のバーバラ・ヘイルと、ポール・スチュアートの妻役のルース・ローマンの女優二人が、シナリオ上あまり重要な役割を担わされておらず、どちらも影が薄かったことが残念だ。
この作品は、後に、リチャード・フランクリンによって、『ビデオゲームを探せ!』としてリメイクされている。
やっぱり仏版「カイエ・デュ・シネマ」を10冊というのは借り過ぎだった。全然読んでる時間がない。とりあえず、目次の部分だけスキャンしておいて、あとで暇なときに OCR をかけて検索できるようにしておこうかと思ったが、よく考えてみたら、「カイエ」のホームページにいけば、目次を見られることを思い出した。無駄な時間を使ってしまうところだった。
ここ数年、Web 版に時折目を通すぐらいで、「カイエ」の本誌はほとんど読んでいなかった。しかし、「カイエ」も様変わりしたものだ。ぱらぱらとめくってみたが、知っている書き手がほとんどいない。編集長のジャン=ミシェル・フロドンをのぞけば、ジャン・ドゥーシェとか、ビル・クローン、リュック・ムレなどの名前をごくたまに見かけるぐらいだ。「ル・モンド」に吸収されてから、やはり体質を変えてしまったのだろうか。それはもう少し中身を読んでから判断することにするが、ただ、やっぱり「カイエ」だなと思わせるセンスのよさは随所に見られる。
ムルナウの『サンライズ』の小特集がくまれたある号では、「死の記号の湖」と題して、『サンライズ』の湖のシーンと、『陽のあたる場所』、『哀愁の湖』、『ヌーヴェル・ヴァーグ』の湖のシーンが、それぞれ縦長の連続写真でならべられる。一瞬の殺意、揺れる湖面、飲み込まれる人影。こういうレイアウトで見せられると、「映画的湖」とでもいったものに、否応なく注目させられる。だれが書いたか知らないがこの記事を読んでみたいと思う。もっとも、これを書いたのはベテラン、アラン・ベルガラだった(やっぱり)。
こういうセンスのよさは、日本の映画批評雑誌(そんなものがあるとしてだが)を探してもなかなか見つからないものだろう。一時期ほどの求心力はなくなったのかもしれないが、こういうところはやっぱり「カイエ」である。
もっと早く書くつもりだったが、時間がなかった。
米女優ジェーン・ワイマンが、10日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅でなくなった。享年93歳。
30年代からワーナーの契約女優として映画に出演し、ジーン・ネグレスコの『ジョニー・ベリンダ』(48)で暴行された耳の不自由な女性を演じてアカデミー主演女優賞を獲得。その他の代表作としては、『失われた週末』(45)、『子鹿物語』(47)、『ガラスの動物園』(50)、『青いヴェール』(51)などがあるが、わたしにとってジェーン・ワイマンは、なによりもダグラス・サークによる2本のメロドラマの傑作、『心のともしび』と『天の許し給うすべて』のヒロインであり、それ以外の作品の彼女はほとんど記憶に残っていない。
美人女優というのとはちょっとちがうし、性格女優というわけでもない。こういってはなんだが、色気がある女優ではなかった(その証拠に、山田宏一の『美女と犯罪』では、ジェーン・ワイマンはたった一行しか言及されていない。トリュフォーは『舞台恐怖症』にふれて、この映画でヒッチコックがワイマンを起用したのは、彼女がパトリシア・ヒッチコックに似ていたからではないかと、インタビューでヒッチコックにたずねているが、これはワイマンがぶすだといっているに等しい)。そういう意味では、家庭の母親を演じたホーム・メロドラマがまさにふさわしい女優だったようにも思えるが、同時に、サークがメロドラマに与えたゆらぎのなかで、彼女は、もうひとりのサーク映画のヒロイン、バーバラ・スタンウィックのようなグラマラスな美人女優とはまた別のかたちで「女」を感じさせる演技をしていたといっていい。
ジェーン・ワイマンがレーガン大統領の元夫人であったことにも一応ふれておこう。もっとも、平成生まれの若者たちのなかにはレーガンの名前さえ知らないものも多いだろう(いや、冗談でなく)。ジェーン・ワイマンのことを覚えている人がどれだけいるのだろうか。 それにしても、ダグラス・サークの DVD の日本での発売は、まるでこの死を予言していたとしか思えない。何というタイミングのよさだろう。
ヴェネチアで公開されるというオリヴェイラの新作「Cristovao Colombo - O Enigma)」(「クリストファー・コロンブス─謎」)は、DV で撮影されているらしい。ストローブに続いてとうとうオリヴェイラも DV で撮るようになったか。一世紀のあいだフィルムで撮り続けた映画作家が、新たなテクノロジーによってどう変わるのか、変わらないのか、興味深い。
☆ ☆ ☆
テレビで見た映画のことももう少し取り上げていこうと思っている(実はネタ切れ?)
■岡本喜八『斬る』
三隅研次作品と同じタイトルだがまったく別の内容。圧政を見かねて城内家老を暗殺した若き志士たちが、次席家老の陰謀によって反逆者として追い詰められてゆく。そこに、武士を捨てたやくざもの(仲代達也)と、武士にあこがれる農民(高橋悦史)、次席家老に金で雇われた浪人(岸田森)などがからむ群像劇。空っ風に砂塵の舞うゴーストタウンに高橋悦司がふらりと現れるマカロニ・ウエスタン風というか、『用心棒』ふうの始まり方は期待させるが、太いうねりとなる物語の芯に欠けていて、おもしろさも感動も今ひとつだった。しかし、これが大好きだというファンも多いようなだ。
■廣木隆一『やわらかい生活』
廣木隆一の映画を見るのはこれがほとんど初めてだ。こんないい映画を撮れる監督だとは知らなかった。実をいうと、長い間この監督を別の人物と混同していた。むかし、『あふれる熱い涙』という映画が評判になったことがある。別にたいした映画ではないとわたしは思ったので、その監督(田代廣孝)のことは忘れてしまっていたのだが、どういうわけか、いつの間にかこの監督と廣木隆一を混同するようになっていたらしい。「どういうわけか」といったが、はっきり言うと、名前に同じ「廣」の文字が入っているという実に単純な理由からだったようだ。 そんなわけで、廣木隆一という名前をときどき目にすることがあっても、ほとんど無視してきたし、フィルモグラフィーを調べてみようという気になることもなかった。『やわらかい生活』を見てはじめて関心をもち、これまでの経歴を調べてみたのだが、このひとは80年代にポルノ映画路線でデビューし、今に至る、日本映画の監督としては由緒正しい経歴の持ち主のようである。作品にはばらつきがあるようだが、今後は要注目だ。
映画は痴漢の場面で始まる。最初からデジャ・ヴュ感があったが、EDの都議会議員が出てきたところで、絲山秋子の『イッツ・オンリー・トーク』が原作だと確信する。精神病院に入院していた過去をもち、今はニートのヒロインと、彼女が関わるちょっと変わった男たちとの日常を、「イッツ・オンリー・トーク」(ただのおしゃべりさ)と突き放して描いた小説だ。原作の連作小説風の構成はある程度生かされているが、映画では豊川悦司演じる中年男の部分がクロースアップされていて、原作とはだいぶ印象が違うものになっている。実をいうと、原作を読んだとき、この中年男に中原昌也のイメージをかぶせて読んでいたのだが、その中原昌也がこの映画に出演する予定があったということをあとで知って驚いた。もっとも、全然関係ない役だったらしい(結局、出演はなくなったのだが)。
蒲田界隈の古びた町並み、時代遅れの銭湯、古びた商店街、縁日の金魚など、忘れ去られたような光景や事物がことさら映し出されていくが、決して懐古趣味的ではない。 ポルノ出身の監督だが、この映画にはきわどい場面はほとんどないといっていい。痴漢は痴漢するだけだし、イケメンの議員は勃起障害を抱えている。男女がベッドにはいるシーンはあっても、いわゆるベッド・シーンはなく、最後の最後に、すべての官能性をそこに賭けたようなキスシーンが一度あるだけだ。 アップはほとんどなく、終始引いた画面での長回しが多用されている。最近のある種の日本映画によく見られる長回し撮影のほとんどはわたしには演出放棄としか思えないのだが、トヨエツと寺島しのぶの濃密な演技にはその時間を埋めるだけの存在感がある。セリフに頼らずとも表情やしぐさでわからせるだけの厚みがある。それだけに、寺島しのぶがトヨエツの死を知らせる電話を受ける場面の弛緩しきった演出にはがっかりした。ヒロインと関わった男たちのその後をぽんぽんと見せていくラストも、とってつけたようでわざとらしい。そんなに急いでまとめる必要はなかっただろうに。しかし、ここは監督というよりも、脚本の荒井晴彦の責任かもしれない。
最後の最後でお茶を濁してしまったが、いい映画であることはたしかである。
ブログのほうにも書いたが、MacBook がこわれたので、G4でこれを書いている。G4はスピードも遅く、メモリも少ないので、快適な環境とはいえない。とくに、ホームページを更新するのに使っている DreamWeaver は重いので使うのは面倒だ。しばらく更新は遅れ気味になるかもしれない。
☆
金融市場が大混乱している。株には興味がないし、今のところわたしの生活には直接関係ないのだが、ひさしぶりにフランスに本や DVD などを注文しようと思って少し前から品定めしていたところだったので、グッド・タイミングだった。ついこのあいだまで1ユーロ 170 円だったのが、いまは 150 円台前半にまで落ち込んでいる。ここぞと思ってまとめて注文した。
まずは、カナダのドキュメンタリー作家、ピエール・ペローの作品集『Trilogie de L'Île-aux-Coudres』。ドゥルーズの『シネマ 映像=時間』のなかでも、ジャン・ルーシュとならんで多くのページが割かれている非常に重要な作家だが、日本ではこれまで(そしてたぶん、これからも)ほとんど見る機会がなかった。10年以上前に、フランスで一度だけ見るチャンスがあったが、そのとき見逃してしまったことを、その後ずっと後悔していたので、この DVD 発売は実にうれしい。 『Pour la suite du monde』『Le Règne du jour』『Le Beau plaisir』『Les Voitures d'eau』の4作と、ペローのインタビューなどの特典映像を収録。
それから、前回うっかり買い忘れてしまったウジェーヌ・グリーンの『Pont des arts』と、テッド・テツラフの『窓』の DVD を注文する。 『窓』は以前から見たかった映画で、つい買ってしまった。ヒッチコックの『汚名』などで知られるキャメラマン、テッド・テツラフが監督した、ウィリアム・アイリッシュ原作の非常に名高いサスペンス映画である。これは、たぶん、アメリカでも DVD になっていないと思う。
ほかに本を数冊注文したので、そこそこの金額になったが、日本だと DVD-BOX を買っただけでこれぐらいになるので、それを考えるとずいぶん安い。 気が向いたら、作品を見たあとでまた報告する。
日本版が出ることになった今頃になって、ずいぶん前に購入していながらそのままにしてあった北米版の『シャロン砦』DVD を取り出して、やっとナイロンパッケージを開封する。この DVD は、ふつうの日本製の DVDプレイヤーでは再生できないリージョン1のディスクなのだが、驚いたことに、この DVD にはなぜか日本語字幕がついていた。英語字幕以外でついているのは日本語字幕だけなので、明らかに日本人をターゲットにしていると考えていいだろう。これまでに北米版の DVD はずいぶん買ったが、日本語字幕がついていたのは初めてだ。英語字幕を目で追いながら映画を見るのは、正直いって疲れる。第一、画面にいまいち集中できないのが問題だ。日本語字幕はありがたい。これが一般化することを望む。
>> アンソニー・マン『シャロン砦』The Last Frontier<<
ひさしぶりに見直してみたが、すごい傑作だった。もっとも、前に見たのはテレビの吹き替え・トリミング版だったので、シネスコのちゃんとした画面で見るのはこれが初めてだ。
ヴィクター・マチュア、ジェームズ・ホイットモアらが枯れ草に覆われた空き地を歩いてくると、突然四方八方からインディアンが姿を現して、たちまち取り囲まれる様子を、アンソニー・マンは固定カメラによるワンカットでとらえてみせる。 ヴィクター・マチュアが演じるのは、狩りを生業としている、無教養で野蛮な男。インディアンたちが殺気立っているのは北軍の横暴のせいだと知ったかれらは、早速、北軍兵が駐留している砦へと向かう。そこの隊長が意外と話のわかる好青年だったこともあり、かれらは北軍のいわば傭兵のようなものとして、そこに滞在することになる。砦の空気が重苦しい雰囲気に包まれるのは、そこに「シャイロの屠殺者」という異名をもつ大佐率いる一隊が、別の砦から退却してきたときからだ。大佐はインディアンに復讐するという一念に取り憑かれており、周囲の反対を押し切ってインディアン掃討を決行しようとする。大佐とヴィクター・マチュアのあいだには、ロバート・アルドリッチの『攻撃』におけるエディー・アルバートとジャック・パランス、あるいはマン自身の『最前線』におけるアルド・レイとロバート・ライアンを彷彿とさせる緊張関係、無能な上官と切れ者の部下とのあいだに否応なく生まれる殺伐とした空気が生まれ、それは時に殺意に似たものとなる。ここでは、ヴィクター・マチュアが大佐の妻に横恋慕してしまうことによって、事態はさらによじれてゆく(脚本はフィリップ・ヨーダン)。
ドラマ自体、緊張が最後までとぎれることなく、目が離せないが、画面の緊張感もただごとではない。森の中にぽっかりと開けた空き地という、西部劇においてはそれ自体で不吉な空間を、偵察に出たジェームズ・ホイットモアがひとり馬に乗って進むのを、小高い丘からインディアンたちが見守っている。さらにその背後の高い木の上から、ヴィクター・マチュアがインディアンたちの動きをひそかに監視しているという、驚くほど深い焦点深度でとらえられた、俯瞰によるパノラミック撮影には、ひさびさに心底興奮した。これはマンがシネマスコープを使ったわずか2作目だというが、この横長の画面をすでに自家薬籠中のものにしているように思える。
ジェームズ・スチュアートに象徴される、知的で紳士的なヒーローを描いたアンソニー・マンの西部劇を見慣れたものには、ヴィクター・マチュアの肉体と演技は、マンの世界とずいぶん異質なものに感じられるのはたしかだ。『怒りの河』や『ウィンチェスター銃73'』のジェームズ・スチュアートがときおりかいま見せていた狂気やフェティシズムとはまたちがった、野生への誘惑といったものがここにはあり、それがこの作品をマンの数ある西部劇のなかでも傑出したものとしているといっていい。同時に、マンは野蛮人ヴィクター・マチュアのうちに文明人以上の繊細さを見て取り、文明人ひとりひとりのなかに潜む野獣をそれに対比させてもいる。野生と文明といった、単純な構図には収拾されない曖昧さは、この作品をまさにモダンな西部劇たらしめている。インディアンが身につけていた軍服を奪って着るという違法行為を犯して嬉々としていたヴィクター・マチュアが、最後に本物の軍服を着るところで終わるこの映画は、一見、野生が文明へと回収されるところで終わっているともいえるが、それはまた、野蛮な文明がすべてを覆ってしまうはじまりだったのかもしれない。 必見の傑作だ。
『情無用の街』The Street with No Name
ウィリアム・キーリーは日本ではほとんど忘れ去られた監督だといっていい。そもそも一度でも作家として評価されたことがあったのかどうかも疑問である。本国アメリカでもそれほど評価が高かったとは思えない。アンドリュー・サリスの『The American Cinema』にはキーリーの名前すら見あたらないのをみても、そのことは伺える。しかし、『暗黒街の顔役』や『犯罪王リコ』などのギャングを描いた犯罪映画が全盛の30年代に、それを追う側のものたちを描いた『Gメン』でこのジャンルに新風を吹き込み、その後も、エドワード・G・ロビンソンとハンフリー・ボガートの共演による『弾丸か投票か!』や、ジェームズ・キャグニーとジョージ・ラフトが共演した『我れ暁に死す』など、ギャング映画の佳作を次々と撮り上げたこの「ワーナーのスタイルをもっとも代表する作家」(ジャン・テュラール)を、そう簡単に忘れるべきではないだろう。
ウィリアム・キーリーのギャング映画以外の代表作がマイケル・カーティスとの共作『ロビン・フッドの冒険』だとするなら、ギャング映画の代表作といわれているのがこの『情無用の街』である。映画の雰囲気は、アンソニー・マンの初期のフィルム・ノワール『T-Men』などと同じものであり、セミ・ドキュメンタリータッチの先駆的作品のひとつということができる。ここではGメンならぬFBIの犯罪捜査が、ドキュメントフィルムを思わせるようなタッチで描かれてゆく。FBIを描いた映画としても先駆け的な作品である。(『ロビン・フッドの冒険』については、山田宏一の『何が映画を走らせるのか?』を参照。)
一方で、この作品は、サミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』などを経て、『インファナル・アフェア』にいたるおとり捜査ものの古典的作品でもある。実をいうと、『東京暗黒街・竹の家』はこの作品の舞台を戦後の東京に置き換えたリメイクなのだ(その意味でも、もう少し注目されていいところだろう)。この映画を見ているときはそのことを知らなかったのだが、映画を見ながらフラーのこの作品のことを何度も思い浮かべたのは本当だ。だが、『東京暗黒街・竹の家』が『情無用の街』のリメイクだと知ったときは、本当に驚いた。まるで似ていないのだ。フラー作品のバロックぶりにくらべてしまうと、たしかにキーリーの作品は見劣りしてしまうだろう。しかし、フラーとくらべるのは酷というものだ。フラーとくらべて見劣りのしない作家などそうはいないのだから。
『情無用の街』が犯罪映画史上にしめる重要性はだいたいそんなところである。しかし、そんなことは実はどうだっていい。この映画の魅力の半分は、ギャングのボスを演じるリチャード・ウィドマークの圧倒的な存在感に負っているのだ。冷酷かつ狡知に長けた暗黒街のボス(ウィドマーク)と、マーク・スティーヴンス演じるFBIの潜入エージェントとのあいだに、特別な友情や、ホモセクシャルと見なされても不思議ではない関係が生まれるわけではない。おとり捜査ものとしてはあっさりとしていて、少しドラマ性に欠けると思う人もいるかもしれない。だが、それだけにいっそう、ウィドマークがときおり浮かべるあの不思議な微笑が、その空虚さゆえにわたしを惹きつけてやまないのである。
キーリーが撮った数少ない西部劇、『勇魂よ永遠に』では、エロール・フリン率いる隊がインディアンによって全滅させられる様が描かれるという。一部では評価が高い作品なので、これも機会があれば見てみたい。
(『情無用の街』は 500円 DVD でも出ているが、画質がちょっとひどい。どういうソースを使ってどういう作り方をしたのか知らないが、前半の40分ほどがブロック・ノイズだらけで、見てられないほどだ。なぜか後半はまずまずの画質に戻るのが、さらに解せない。パッケージには例によって、「この作品は製作されて50年以上経過しているため、原盤のフィルムの状態によっては見づらい部分、聞きづらい部分のあることをあらかじめご了承ください。」とあるが、こんなのはクレーム封じのためのいいわけにすぎない。少なくともこの DVD に関しては、問題は元のフィルムの状態ではなく、DVD の作り方にあると思う。何なら、その原盤とやらを見せてみろといいたい。わたしは、ここでリンクを張っておいた20世紀フォックスの DVD のほうを見ていないから、どっちのほうが画質がいいか断言はできないが、どうしても安く手にいれたいという人以外は、20世紀フォックス版を買っておいたほうが正解だろう。)
NHK BS で「ヒッチコック劇場」の放映がはじまったことは前に書いた。すでに十数話ほどが放映されている。最初は、1955年から1962年にかけて白黒で撮られた「ヒッチコック劇場」の数編が放映されていたが、いま放映されているのは、ヒッチコックの死後、80年代になってカラーでリメイクされたいわゆる「新・ヒッチコック劇場」のほうだ。こちらも、プロローグとエピローグにヒッチコックが登場して、毎回ミニコントをやるのだが、これはカラーで撮られている本編にあわせて、「ヒッチコック劇場」の白黒フィルムをカラーで着色したものである。ふつうの美的感覚の持ち主なら、プロローグとエピローグのところだけが妙に画質が悪いことに気づいただろう(NHK BS の放送では、両方とも「ヒッチコック劇場」となっていて、区別されていないが、わたしは「ヒッチコック劇場」と「新・ヒッチコック劇場」を区別して書く)。
いまのところ、ヒッチコックが監督した作品は放映されていない。すでに書いたように、いま放映されているのは、ヒッチコックが死んだあとで撮られた作品ばかりなので、これからもヒッチコック監督作が登場することはないだろう。しかし、ヒッチコックが監督した「ヒッチコック劇場」の作品は、前にも紹介した「ヒッチコック劇場」の DVD コレクションに収められているから、そちらで簡単に見ることができる。問題は、それ以外にも貴重な作品が結構あるということだ。だから、逆に言うと、ヒッチコック監督作品以外を中心に集めた今回の放映は貴重だということだ。 わたしは、アイダ・ルピノの監督した「Sybilla」(60)と「A Crime for Mothers」(61)が見られるのを期待していたのだが、この2編は「ヒッチコック劇場」のほうにはいっているので、もう放映は望めそうにない。しかし、いま放映されている「新・ヒッチコック劇場」のほうにもまだまだ掘り出し物がありそうだ。
先日オンエアされた「The Jar」という作品は、最初、ナチの時代を描くモノクロ画面ではじまったので、おやと思って、いつになく注意して見始めた。キャストにポール・バーテルの名前が見えたので、ほおー、と思う。「原作レイ・ブラッドベリ」のクレジットにふむふむとうなずく。そして、最後に、「監督ティム・バートン」と出たときは、オーと思ってしまった。ティム・バートンが「新・ヒッチコック劇場」の監督をしていたとは知らなかった。 これは、得体の知れない物体のはいったガラス瓶が、不思議な力で周りの人々を虜にしてゆく様を描いたファンタスティックな作品で、まだ一目でわかるというほどの個性は発揮されていないが、色彩の使い方などにティム・バートンらしさはすでに見え隠れしていた。ポール・バーテルがシニカルな美術批評家の役でいい味を出している。ロジャー・コーマン門下の監督たちは基本的にみんな芸達者なのだ。
この日放送されたもう一つの作品「Man from the South」は、スティーヴ・デ・ジャーナットという主にテレビ専門で撮っていた二流監督の作品だが、原作はロアルド・ダールの中でも一、二を争う短編である。よほどのへまでもしない限り、面白くならないわけがない。しかも、キャストがすごい。賭に取り憑かれた狂気の男を演じているのが、ジョン・ヒューストンなのだ。常軌を逸したゲームに、子供のように一喜一憂する演技が鬼気迫る。彼に乗せられて賭をしてしまう若者の恋人役にメラニー・グリフィスが出演しているのだが、彼女の実の母親のティッピ・ヘドレンがウェイトレス役で母娘競演を披露しているだけでなく、最後の最後には、キム・ノヴァクがショッキングな登場をして、作品を締めくくるわけだから、往年のヒッチコック2大女優の競演にもなっているというサーヴィスぶりだ。いいものを見させてもらった。 (「Man from the South」の原作の翻訳は、『あなたに似た人』などに収録されている。)
『七人の無頼漢』の DVD のことを紹介したときに、ジョン・ウェインのバトジャック・プロによるこの作品がなぜパラマウントから DVD 化されて出るのか不思議だという意味のことをたしか書いたと思う。調べればすぐにわかることだったが、面倒くさいのでそのままにしておいた。最近になって、このベティカー作品を含めたバトジャック・プロの数作品がフランスでも DVD 化され、「ル・モンド」の Web 版に関連記事が出た。そのなかでその辺の事情がふれてある。要約するのも逆に面倒なのでそのまま訳しておく。
ジョン・ウェインの作品なんてみんな見たよと思っている人も多いかもしれないが、実際には、ほとんど見る機会が奪われている作品も少なくない。ここでふれられているのはそのほんの一部である。
「プロデューサー、ジョン・ウェイン 1952年、ジョン・ウェインは、プロデューサーのロバート・フェローとともに映画製作会社ウェイン=フェロー・プロダクションを設立する。数ヶ月後、フェローが去ると、ウェインは会社の名前をバトジャック(Batjac)に変える。Batjak はエドワード・ルトヴィクが監督した実に見事な作品『怒涛の果て』(48)の中に登場する架空の海運会社の名前だった。だが、ウェインの秘書が名前を勘違いして、Batjac と会社名を書き込んでしまったのだった。
ウェインにとって大事だったのは、自分が主役を演じる映画を芸術面で管理することだった。もっとも、一握りの作家たちには、ウェインは盲目的な信頼を寄せていた。ハワード・ホークスや、とりわけジョン・フォードがそうだった。バトジャック・プロは、ワーナーやユナイテッド・アーティスツと配給契約を結び、『アラモ』(60)や『グリーン・ベレー』(68)のような自ら監督主演した作品はもちろんのこと、他監督が手がけ、必ずしも自分が出演しているわけではない作品も何本か製作している。
1979年、ウェインの死後、バトジャック・プロはウェインの家族によって管理運営される。法的な問題によって、一部の作品が凍結されて、ながらく日の目を見なくなり、ジョン・ファローの『ホンドー』や、バッド・ベティカーの『七人の無頼漢』のような作品は、神話的映画の域に近づくことになる。
2004年、バトジャック・プロはパラマウントと配給契約を結ぶ。パラマウントは、DVD のかたちで修復された作品を配給し、場合によっては、35ミリのニュープリントで公開した。いくつかの作品が DVD で見られるのはこの契約のおかげである。とりわけ、ウィリアム・ウェルマン監督による2本、『紅の翼』(54)では、ウェインは飛行機を危機から救おうとするパイロットを演じ、『男の叫び』(53)では、ウェインは北極に墜落した飛行機から仲間とともに生き延びようとする。
同じウェルマンが監督し、ロバート・ミッチャムが主演した『血ぬられし爪あと/影なき殺人ピューマ』は、どちらかというと型にはまっていた上の2作よりも興味深い作品である。兄を殺したピューマに復讐するという観念に取り憑かれた凶暴な男を描いた作品だ。ウィリアム・H・クローシアの華麗で実験的なキャメラが、時に荒々しい色に染められるモノクロのようなイメージを作り上げている。
さらに、ジョン・ファローの神話的作品『ホンドー』(53)も見ることができる。人種差別に異を唱える誠実なウェスタンだが、その厳格さは最後の場面(インディアンとの派手な闘い)で崩れる。ボーナストラックを見ればわかるが、この場面はフォン・フォードによって撮影されたものである。アンドレ・バザンの文章によって名高いバッド・ベティカーの『七人の無頼漢』(56)は、もう一つの貴重な作品であり、ランドルフ・スコットとリー・マーヴィン主演による激しい復讐の物語である。必見の作品だ。 」
リンクは基本的に Amazon.com にはってあるが、フランス版をお探しの人はここ(『紅の翼』の仏版)あたりから調べていってほしい。『七人の無頼漢』などは、Amazon.fr には登録されていないようだ。仏版はまだ発売されていないのか、それとも、もうなくなったのか。フランスの DVD は1年もたたないうちに品切れになることが多いが、それにしても早すぎる。 ちなみに、ジョン・ファローの『ホンドー』だけは日本でも DVD が出ている。『大時計』の日本語版もそろそろ出ていいころじゃないのか。
参考までに蓮實重彦の言葉を引用しておく。
「ミア・ファーロウの父親に立体西部劇の古典。ロケーションを人件費の安いメキシコの地に求めることで、マカロニ・ウエスタンへの道を開いたことでは犯罪的だが、その空間感覚は忘れがたい。テクニカラー末期の「アメリカの夜」による夜景の夢魔的な魅力。」
リリアン・J・ブラウン「The Cat Who Came to Breakfast」を読みはじめる。シャム猫ココが鋭い勘で事件を解決してゆく人気ミステリー・シリーズの一冊だ。このシリーズに挑戦するのは初めてである。「猫の文学──猫本大全集」などというページを作って公開しているからには、こういうものにも一応目を通しておく必要がある。まだ60ページほどしか読んでいないので、判断するのは早いと思うが、いまのところそれほど面白くない。これからの展開に期待することにしよう。ただし、英語は非常に読みやすい(だから、読んでも英語の勉強にはあまりならないのだが)。
それにしても、リタ・メイ・ブラウンの「トラ猫ミセス・マーフィ」や赤川次郎の「三毛猫ホームズ」などのシリーズもの、あるいは奥泉光が漱石を巧妙にパスティッシュした『吾輩は猫である殺人事件』など、どうしてこうもネコが探偵として活躍するミステリーが多いのだろうか。 小さいころからずっとネコと一緒に暮らしてきた人間としては、ネコほど探偵にむいていない動物はいないと思う。たしかに何にでも首をつっこむが、あきっぽいし、何度も同じ過ちをくり返す。帰納とも演繹とも無縁の存在だ。ネコは泥棒のほうがむいているというのがわたしの結論である(『泥棒成金』を見よ)。
不思議といえば、警察犬などというものが存在する一方で、犬が探偵として活躍するミステリーはあまり思い浮かばない。わたしが犬文学に疎いだけなのだろうか。アイザック・アシモフが編集した『犬はミステリー』などといった本が何冊か出たりもしているが、単に犬が出てくるだけというものがほとんどである。探偵犬が活躍するミステリーも探せばあるのだろうが、シリーズ化されているほど有名なものはないのではないか。結局、ミステリーの犬といえば、『バスカヴィル家の犬』のような魔犬のほうが、わたしには忘れがたい。そういえば、ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』で、突然誰かが「バスカヴィル家の犬!」と叫ぶシーンがあった(字幕には訳出されていなかったが)。あれは何だったのだろう。
■ 丹生谷貴志『フーコー・映画・ドゥルーズ』
「〈崩壊以後〉の映画としてのイーストウッド論」を増補した新装版で登場。正直いって、丹生谷貴志の書いたものの中ではいちばん面白くなかった本だが、丹生谷貴志入門として読むといいのではないか。
■ ミシェル・フーコー『哲学の舞台』
これも増補改訂版。
浅田彰による推薦の言葉:
「演劇的なるものと権力的なるものの交錯を読み解く対話が、それ自体、演劇的な力をもって立ち現れる。自らを匿名化しようとしたフランスの哲学者がそれにもかかわらず捨てきれなかったフランボワイヤントな言葉に、フランス人よりも華麗なフランス語を操る日本の演出家の言葉が拮抗する。ミシェル・フーコーと渡邊守章の遭遇は、そういう稀有な出来事だった。フーコーを読み解く者は今も世界中にいる。だが、このようなフーコーとの対話は、当時も今もほとんど類例がない。この貴重な記録は、変貌の途上にあったフーコーの実像を示す興味深い内容に加え、自らを焼き尽くさんばかりの言葉の力によって、現代の読者をも圧倒するだろう。」
■『ブレヒトの映画・映画論 (新装新版ベルトルト・ブレヒトの仕事 6)』
こちらも大昔出ていたものの新装改訂版。前々から出ることは知っていたが、やっと店頭にお目見えした。
[2005年3月に実施された上映・展示企画『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』の記録集。 ペドロ・コスタ監督と蓮實重彦氏の対談、ポルトガルでの監督へインタビュー、 ギャラリーに展示された『ヴァンダの部屋』ヴィデオ・インスタレーションや仙台での監督の表情(撮影:田村尚子)など。 注意と情熱/二度生まれた映画作家(対談:ペドロ・コスタ×蓮實重彦) inside / outside--ペドロ・コスタの街路(北小路隆志) 敷居をまたぐ瞬間(ペドロ・コスタ) 『ヴァンダの部屋』ヴィデオ・インスタレーション(撮影:田村尚子)]
△上に戻る