映画の誘惑

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365日間映画日誌

日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。

2005年4月〜6月

■2005年6月29日
▽クイックシルヴァー

部屋の温度が上がるので、最近パソコンをスリープさせておくことが多い。このページの更新もついおざなりになりがちだ。今日も暑い。

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Amazon.fr から注文していた本とDVD が届く。Positif の50周年記念に発行された "L'amour du cinema 50 ans de la revue Positif" とか、バーバラ・ロデンの "Wanda" とか、ジャン=ピエール・モッキーの "Les compagnons de la marguerite" とか(日本ではほとんど話題になっていないものばかり)いろいろ。ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』の原書まで買ってしまった。

同じ決済でマーケットプレイスから注文していたジャン・ルーシュの DVD がまだ届いてないのが、そろそろ不安になってくる。こちらのほうが先に発送されているはずなのだが・・・。いざというときは保証が利くのでお金は戻ってくることになっているが、在庫がまだあるかどうか。そもそも、新品が定価の半額というのがうさんくさかったのだが、ホームページにいってみると一応ちゃんとした書店みたいだし。もう少し待ってみるか。しかし、発送日からもうすぐ2週間近くになる。まさか船便ということはないだろうが、ちょっと時間がかかりすぎではないかと思う。

以前、Amazon.com のやはりマーケットプレイスから、Quicksilver Messenger Service の "Shady Grove" を買ったことがある。そのときはちゃんと届いたのだが、どうもこれが海賊版くさい。ちゃんとしたパッケージに入っているし、CDのラベルにも印刷がされてはいるのだが、パッケージの表紙になっている、森の木陰に座る女性を描いた絵(この絵は青山真治の同名作品のモチーフになっている)に、変なところで折れ目が入っていて、"Quicksilver" の "Q" の文字が表からは半分見えなくなっているのが、少しうさんくさいのだ。もっとも、プリンターでコピーした安物といった感じではなく、ちゃんとした印刷がされているようなので、それだけでは海賊版とはいえないのが、よけいに腹立たしいというか。それでも中身がちゃんと聞けるなら、別にそれでもかまわない。ところが、曲のなかに音割れしているのがあるのだ。このアルバムは日本でもアメリカでもなかなか手に入らず、仕方なしにマーケットプレイスを利用したのだが・・・。こういうのほんと困るんだよなァ。

■2005年6月26日
▽XTC『オレンジ・アンド・レモンズ』

トム・ハウクがトム・ソーヤーとハックルベリ・フィンの名前を組み合わせたものだという説はなかなかおもしろい。ヘミングウェイ曰く「すべての現代アメリカ文学はこの小説に由来する」。南部の保守的な土地を同じように舞台としながらも、田舎町から抜け出して冒険の旅に出かけたハックとは対照的に、『ポップ1280』の主人公は、『内部の殺人者』の主人公同様、結局、偽善者だらけのちっぽけな世界のなかから抜け出すことができない。

同時に「裏切る男と裏切られる男」である狂気のキリストの目をとおして見られたアメリカ。シェイクスピアの道化師のように、とぼけた顔をしてすべてを見透かしている主人公は、最後の最後の幕切れに冒頭と同じ言葉をつぶやく。

「おれは考えに考え、また考えに考えた。そしてとうとうある結論を得た。そこいらの普通の人間と同様に、おれはなんにもわかっていないという結論さ!」

ジム・トンプスンが全然文庫になってないというのも不思議な話だ。この手の作品を最初に評価したのはフランスだった。(ドゥルーズも若い頃「セリ・ノワールの哲学」という文章を書いている)。それをヌーヴェル・ヴァーグがアメリカ映画礼賛というかたちで継承していったのだが、タランティーノが活躍する時代になっても、パルプ・フィクションの評価はまだまだということらしい。

トーキントン探偵社=ピンカートン探偵社についてはもう少し研究する必要あり。

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相変わらずいらいらする事件が多い。というか、理解不能なことが。

ナベツネの会長復帰。意味不明だ。そもそも他のオーナーたちが情けない。要するに、ナベツネがいないと、なにもできないのだ。このニュースを聞いたときは、XTCの "Here Comes President Kill Again" の最後の部分をつい思い出してしまった。

Hooray, everything's great.
Now president Kill is dead.
Hooray I'll bet you can't wait,
to vote for president Kill instead...

この部分の(というかこのアルバム全体の)ヴァージンの歌詞カードの訳はめちゃくちゃで、それこそ意味不明。ここは、最悪の大統領キルが死んで大衆は歓呼するのだが、結局また、こともあろうにキル大統領に投票してしまうという、非常に皮肉な結末を歌っている。パパ・ブッシュの湾岸戦争のあとに、息子ブッシュがイラク戦争を起こしたときも、この曲のことが頭に浮かんだものだ。このアルバム自体はそんなに好きでもないのだけれど、歌詞はどれもなかなか奥深い。翻訳がひどすぎるのが残念だが。

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住民基本台帳。これもいらつく。これが導入されそうになったとき、メルマガを通じてささやかな抵抗を試みたのだが、あのときの気持ちはさらなる確信に変わっている。そもそもなんの役に立っているのか全然わからないし、聞くところによると役所で利用している人間の6・7割はDM業者だというではないか。そんな奴らのために貴重な個人情報をただでくれてやったのかと思うと、腹立たしい。ほんとに勘弁してほしい。

反日運動、靖国参拝等々、いらいらの種は尽きない。ハックのように「外」に向かって逃げることがもうできないことはわかっている。では、ニック・コーリーのようにするしかないのか。それとも映画でも見てるか? なんの後ろめたさも感じずに映画を見ていられるひとが、心底うらやましい。

6月26日
▽ジム・トンプスン『ポップ1280』

昨日寝る前に、買ったまましばらくほったらかしてあったジム・トンプスンの『ポップ1280』を読み始める。少しだけ読んで寝るつもりだったのに、つい150ページほど読み進めてしまう。物語は同じ作者の『内なる殺人者』と非常に似ている。ほとんど双生児と言っていいくらいだ。

タイトルの「ポップ1280」とは、人口が1280人という意味。そんな小さな田舎町ポッツ郡の保安官ニック・コーリーが、この小説の語り手でありまた主人公だ。彼は、『内なる殺人者』の主人公ルー・フォード同様、町の人からはちょっと頭は足りないが善良な人間と思われているが、実は非常に頭が切れる。しかも最悪なのは、彼が狂っていることだ。ルー・フォードもそうだったが、ニック・コーリーも演技者、本能的な演技者である。せいぜい淫売宿のひもから賄賂をもらうぐらいが関の山だったこの「凡庸な善人」が、突然堰を切ったように連続殺人を引き起こす。だれも彼がそんなゆがんだ性格の持ち主であるとは思っていない。だから簡単にだまされて、殺されてゆく。『内なる殺人者』の主人公同様に、なにが彼を動かしているのかは、今ひとつよくわからない。それが不気味でもあり、また魅力でもある。

翻訳がいささか平板な印象を与えるのが残念だ。

■2005年6月25日
▽「宮廷女官チャングムの誓い」

たしか今月の「新潮」だったと思うが、四方田犬彦が「冬ソナ」論を書いていたのを、図書館で立ち読みする(といっても、かなり長いのでほとんどとばし読みだが)。韓流ブームのはるか以前から韓国とつきあってきた四方多だが、今回ばかりは海外から帰ってきて初めて知ったこのブームに、ほとんど浦島太郎の気分を味わったそうだ。とはいえ、そこは韓国の専門家、なかなか鋭い指摘をいろいろとしていた。ちなみに同じ号には、蓮実重彦がソウルで行ったフィクションについての講演も収録されている(蓮実のフィクション論、いつかでるといわれているのだが、いつでるのか。そういえば、最近、どこかに『ライフ・アクアティック』論を書いてたな。どこだっけな)。

どちらにも映画の話は一切出てきませんので、映画馬鹿は読まなくていいです、念のため。

さて、その四方田の文章にも出てくるドラマなのだが、わたしはいまBSで放送中の「宮廷女官チャングムの誓い」という韓国ドラマにはまっている。主演は『JSA』のイ・ヨンエ。宮中で女官だった母親が、陰謀に巻き込まれて殺されたという過去を持つヒロイン、チャングムが自らも女官となって、様々な苦難を乗り越えてゆくという物語で、韓国版「ガラスの仮面」みたいなものとでもいえばいいだろうか。どうもわたしはこういう話に弱いらしい。見逃しのないようにHDDレコーダーで毎回録画して見ているぐらいなのだが、これがいつまでたっても終わりそうで終わらない。チャングムはぬれぎぬを着せられていったん島流しにさせられるのだが、そこで医術を身につけて、医女となって再び宮中に帰ってくる。いまは医女として宮中に仕えているところだ。医女といっても、身分は奴隷と同じ。女官よりも身分は低い上に、上級の医女からのいびりもあり、前よりも状況は悪くなっている。自分を島流しにした奴らは、前よりも高い地位について、宮中を支配しようとたくらんでいる。さて、これからどうなってゆくのだろうか・・・

四方田も指摘していたように「冬ソナ」には韓国を指示する記号がことごとく欠如していたとすれば、「チャングムの誓い」は、人物の衣服や食べ物など、なにからなにまで文字通り韓国だらけで、好対照である。好みで分かれるだろうが、それなりにどれもおもしろい韓国ドラマのなかでも、わたしはこれがいちばんハマった。

・・・というか、このサイトの訪問者はこんな話に興味ないか? 映画狂って多角的な視点でものを見れないから、韓国映画は見ても、韓国ドラマには全く関心がなかったりして。ま、この辺でやめておいた方が無難かもしれない。とにかくおもしろいです。ただ、最初から見ないとおもしろくないので、再放送があったらそのとき見てください。DVDにもなってます。

■2005年6月24日
▽アニェス・ヴァルダ『落穂拾い』

『精神分析学事典』で知られるジャン・ラプランシュがブドウの製造業者で、その妻がラカンの分析を受けていたという話はおもしろい。ルイ・ポンス。

▽『ペイネ 愛の世界旅行』

画像処理された戦争のニューズリールの引用ではじまる70年代的というか、リチャード・レスターふうというか、要はジョン・レノンふうのメッセージが込められたアニメ映画。無為徒食の恋人たちが、世界を旅するあいだに歴史上の様々な人物が現れる。

▽『ビートニク』

わたしのようにビートニクに関心のあるものにはそれなりに興味深いドキュメンタリーであり、乱雑に並べられる映像とテキストの洪水も、心地よく見ていられるが、『路上』『裸のランチ』(映画は原作とは無縁。河出文庫から翻訳はあるが・・・)も読んだことがない、聞いたこともないという人には、何のことかまるでわからないだろう。どさくさに紛れてエイブラハム・ポロンスキーの『苦い報酬』なども引用されていたりするのだが、何の説明もない。「知らない」人には楽しみにくい作品だ。まあ、『路上』も『裸のランチ』も基本中の基本で、読んでないほうがおかしいのだが。

映像とテクストの豊かさの割には、音楽がいまいち貧弱。バロウズが妻の頭にリンゴをのせてピストルで(誤って)射殺してしまったときのことを語るところで、ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」を流すのは、あまりセンスがよいとはいえないかも。

■2005年6月22日
▽ソニーも二層式DVDレコーダーを発売

パイオニアの二層式DVD-R対応HDDレコーダー DVR-530H に食指が動いていたのだが、つい先日、ソニーからも二層式に対応した DVDレコーダー新「スゴ録」シリーズが売り出され、また選択肢がふえた。

今度の第3世代となる「スゴ録」は、二層式DVD+R 録画に加え、ダブル・チューナー搭載など、前の2世代に比べ大幅にヴァージョン・アップしている感がある。正直、心惹かれる内容なのだが、問題は、今回もマニュアル録画モードが見送られたこと。これさえあれば迷うことなくこれを買うのだが・・・。

「スゴ録」シリーズは録画画質の良さに加え、チューナーの性能が抜群にいいので、ハードディスク録画の画質に関してはピカイチちといっていい。ただ、そこまで画質にこだわりながら、DVD-R にダビングするときの画質にあまりこだわっているように見えないのが残念というか、謎である。今度の「スゴ録」でも、「2時間モード」の次は「2時間半モード」しかなく、たとえば2時間5分の映画でも、「2時間半モード」でダビングするしかない。この点で、マニュアル録画モードを当たり前のように備え、さらには従来の一層式DVD-Rに長時間映画を録画する際の画質にもとことんこだわっているパイオニア機は、わたしにはやはり魅力だ。

それから、「スゴ録」が対応している二層DVDメディアは DVD+R DL で、パイオニアのほうは DVD-R DL だという違いも見逃せない。この二つの相違点は、わたしにはイマイチわからないのだが、どうもパイオニアの DVD-R DL のほうが互換性も高いし、将来性もあるように思える(もっとも、どちらも次世代DVD がでるまでのつなぎ的なものであることは、否めないが)。ソニーのホームページを見ても、DVD+R DL の互換性についてはなにも書いていないのも、不安を感じさせる。せめて、旧「スゴ録」で再生可能かどうかぐらいは書いておいてほしいものだ。ちなみに、パイオニアの DVD-R DL は第2、3世代の「スゴ録」では再生可能だが、わたしの持っている第1世代のでは、再生できないらしい(某レビューのページで実験の結果)。

どちらのメディアも今のところ千円強の値段で、あいかわらず結構な値段である。手頃な値段になるまでにはまだ時間がかかりそうだ。

■2005年6月21日
▽チェスタトン『木曜日の男』

帰りの電車のなかで、チェスタトンの『木曜の男』を読んでいたら、降りるのを忘れて三つ先の駅まで乗り過ごしてしまった。こんなことは久しぶりだ。

(以下、できるだけぼかして書いたが、多少ネタばれになっているかもわからない。ここは映画狂しか見に来ないサイトなので、本など読む人間はいないと思うが、他から流れてくる人がいるかもわからないので、一言断っておく。)

『木曜の男』はチェスタトンのあまりに有名な作品だが、こういうおいしそうなものはついつい後回しにしてしまう癖があるので、今頃になって読んでいる。期待に違わず、めちゃくちゃおもしろい。「ブラウン神父」ものや『ボンド氏の逆説』などで、チェスタトンの小説の、知的で逆説に満ちた世界の魅力はすでに体験済みだったが、『木曜の男』にはそこにさらに、恐ろしいまでのスピード感が加わって、とんでもない作品になっている。

これはいったいどのジャンルに分類すればいいのか。テロ小説か、スパイ小説か、それとも喜劇か? あるいはそれらすべてのパロディか。すべてが悪夢のようでもあり、また壮大な冗談のようでもある。こういう犯罪を描く物語の場合、警察を登場させるかどうかがシナリオ上の大きな選択になるといった意味のことを、黒沢清がどこかで書いていた気がする(『映像のカリスマ』のなかだったか)。この小説のとりあえずの主人公は警察の人間だ。というか、気が付くと、どこもかしこも警官だらけになっている。ところが、チェスタトンは冒頭で主人公に、警察には密告しないことを約束させてしまう。その結果、警官(たち)が主人公でありながら、警察とはまるで関係のない次元で物語は展開していく。

それにしても、いくらジェントルマンの国イギリスが舞台であるとはいえ、あれだけの状況になれば、「男の約束」もくそもないと思うのだが、そんな些細とはいえない疑問もすべて飲み込んで進んでいく圧倒的なパワーがすごい。

原書吉田健一の名訳を平行して読み進む。チェスタトンの英語はそう難しくはないが、彼一流のパラドクサルな言い回しにはしばしば頭を悩まされる。もっとも、そういう部分は翻訳を読んでもよくわからないことがしばしばだ。しかし、勉強にはなる。

■2005年6月18日
▽キン・フー『迎春閣之風波』

ビデオが発売されているようだが、レンタルされているのを見たことがない。今回たまたまテレビで放映されたので、やっと見ることができた。

『大酔侠』などと同じ客棧もの。ヒューストンの『許されざる者』にでてくる一軒家を思い出させる、岩の斜面をくりぬいて作ったような宿屋が印象的だ。宿屋の主人と女給たちや、次々とやってくる客たちは、いずれも一癖ありそうで、いったいだれがだれで、だれとだれが通じ合っているのかなかなかわからない。彼らは目配せや、貨幣を使った合い言葉で密かに交信しあう。この辺のサスペンスのもりあげかたは、『大酔侠』よりもさらに磨きがかかっている。ただ、アクション映画としてみたとき、他のキン・フー作品ほど興奮を覚えないのはなぜだろうと思いながら見ていたのだが、キン・フーのインタビュー『キン・フー電影作法』を読んで納得した。キン・フーは最初この映画を、客棧の中だけで完結する、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のような陰謀劇にしたいと思っていたらしい。それが、プロデューサーの意向で、最後に屋外での派手なアクション・シーンをつけさせられたということだ。しかも、俳優たちのなかには武侠がもともと全然できないものもいたらしい。だから、ラストのアクション・シーンがいまいち平板に感じられたわけだ。

■2005年6月17日
▽モンテ・ヘルマンの新作!

偶然だが、先日、モンテ・ヘルマンの簡単なバイオグラフィーを書いてからしばらくして、フランスでヘルマンの『銃撃』『断絶』などがリヴァイヴァルされた。「リベラション」の web サイトにヘルマン自身による略歴が掲載されていたので、それを参考に「モンテ・ヘルマン」を一部加筆訂正した。そこにも書いたが、モンテ・ヘルマンが新作を準備中とのうれしい知らせがある。ダリオ・アルジェント、トビー・フーパーらとともに、ホラー・オムニバス映画『Trapped Ashes』という映画を撮っているらしい。

ちなみに、『バッドマン・ビギンズ』がフランスでも公開中なのだが、「ル・モンド」のレビューにも、「リベラション」のレビューにも、Ken Watanabe の名前は一言も出ていない。

■2005年6月16日
▽リチャード・ソープ『監獄ロック』

プレスリーの映画では断然これがいい。俳優としての代表作なら、エルヴィスが混血児を演じたドン・シーゲル監督の西部劇『燃える平原児』だろうが、音楽映画の代表作はやはり『監獄ロック』(57)しかない。『ラスベガス万才』がいいというひともいるが、わたしには60年代に数多く生産されたプレスリーものは、どれもあまり魅力が感じられない(ニコール・キッドマンに少し似たアン・マーグレットは、たしかにスタイルは抜群で踊りもうまいが、見ているうちにすぐに飽きてくる)。フロリダあたりでいかにも好青年といった人物を演じているときのプレスリーは、ただたんに不良のイメージを身にまとっているだけの石原裕次郎の青春映画を思い出させて、どうも好きになれない。それにくらべて『監獄ロック』のプレスリーは、獄中でも、出所して一躍スターになってからも、とんがりつづけていて、いかにもロック・スター然としているのがいい。レコード業界、ハリウッドなどのショー・ビズがちくりと皮肉られているところも愉快。それにしてもこの荒みかたはなんなのか。

ところで、プレスリーの曲には、「冷たくしないで」とか「やさしくしてね」など、なぜか女言葉のタイトルが多い。これは曲名を翻訳する際の、資本主義にもとずく(要するに売るための)戦略的ジェンダー転換だろうが、プレスリーの魅力がその両性具有的な部分にあることは、『性のペルソナ』のカミール・パーリアも指摘していることである。女装したプレスリーというのも、一度見てみたかった気がする。

▽ジャック・ペラン『WATARIDORI』

人間の消滅? 科学的な映画ではない。では、自然の映画か? 

片羽が折れた渡り鳥がかにの群におそわれて食べられる場面。ヤコペッティ風のあざとさ。とにかく、よく撮ったなとは思う。しかし20億かけただけのものは得られているか?

■2005年6月10日
▽ サマリテーヌが閉鎖

あのサマリテーヌ百貨店が閉鎖するらしい。建物が安全基準を満たしていないとかで、これから6年間をかけて改築するそうだ。6年間とは長すぎやしないか。実際、雇用者のあいだではこのままずっと閉鎖されたままになるのではないかという不安も広がっているという。『ポンヌフの恋人』の橋のたもとにも姿を見せていたあの瀟洒な姿が、これから見られなくなるのかと思うと残念だ。

ちなみにサマリテーヌの名は、ポン・ヌフ橋北側の岸に17世紀初めから19世紀初めまであった揚水ポンプの名前から来ている。そこからルーブルやチュイルリーに給水を行っていた。 la Samaritaine (サマリアの女) の名称自体は、 「ヨハネによる福音書」で、ユダヤ人と交際のないサマリア人の女にイエス・キリストが井戸の水を飲ませてほしいと頼み,不審に思う女に、「わたしが与える水を飲む者は渇くことがない」と生命の水について教える説話にちなんでいる。

むろん、キム・ギドクの『サマリア』も、この聖書に登場するサマリア人のエピソードからタイトルを取ってきている。が、こちらはむしろ、強盗に遭ってけがした男を祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通りすぎるが、サマリア人は傷の手当をして宿屋まで連れてゆき、自分の費用で主人に世話を頼むという、「ルカによる福音書」が意識されているようだ。

■2005年6月9日

ウィリアム・ウェルマンの紹介文を書き始めたのだが、なかなかまとまらない。そもそも見ている作品が少なすぎる。特に30年代のワーナー時代。

■2005年6月5日
▽マーク・ロブソン『殴られる男』

ハンフリー・ボガート主演のボクシング映画の傑作。マーク・ロブソンはいかにも編集者上がりの監督というのだろうか、たしかにそつのない映画は撮るのだけれど、どうも際だった作家性に乏しく思えて、いまいち好きになれない監督だ。とはいえ、『チャンピオン』、『逆転』などの代表作をまだ見ていないから、あまり早く結論を出さない方がいいだろう。

実際、『キャット・ピープル』の製作者ヴァル・リュートンのプロデュースによる、初期の『恐怖の精神病院』や『吸血鬼ボボラカ』などは、ホラー映画の傑作といってよく、忘れがたいし、今度初めて見た『殴られる男』(57)も、なかなかの傑作だった。原題の "The harder they fall" とは、"The bigger they are, the harder they fall." (「体がデカけりゃ、そのぶん派手に倒れる」ぐらいの意)という表現から。巨体だが心優しいボクサーを通して、腐敗したボクシング界が描かれる。テーマ的には、エイブラハム・ポロンスキーの『苦い報酬』などを思い出させる作品だ。

ハンフリー・ボガートは、金のために八百長試合に荷担したものの、良心の呵責に苦しむ新聞記者を演じて、相変わらずすばらしいのだが、この映画では、そんなふうに悩む彼を尻目にかけて、ボクサーを食い物にしてひたすら金儲けに走るマネージャーを演じているロッド・スタイガー(最近惜しくも亡くなった)が、ボガート以上に圧倒的にすばらしい。わたしがこの映画が好きなのは、ひとえに彼の演技に惚れたからだ。

この作品は、ボガートの遺作となったことでも知られる。ちなみに、『勝手にしやがれ』で、映画館に張られていたボガートの写真は、この映画のもの。ベルモンドがその写真に向けてたばこの煙を吹き付けるシーンがある。このときすでにボガートはなくなっていた。(昔の記憶なので、要確認)。

この機会に、ボクシング映画のベスト10を作ってみた。

『鉄腕ジム』
『左側に気をつけろ』
『どついたるねん』
『街の灯』
『罠』
『拳闘屋キートン』
『ファット・シティ』
『殴られる男』
『静かなる男』 (ボクシングというより、殴り合いの映画です)
『ゴダールの探偵』(10本目が思い浮かばなかったので)

■2005年6月4日
▽ロアルド・ダールと映画

「猫の文学」で、ロアルド・ダールの「暴君エドワード」のちょっとした誤訳を指摘しておいたのだが、ダールの他の邦訳もどうやらかなり誤訳だらけのお粗末なものが多いらしい。ネットで調べているうちに、ダールの誤訳を指摘したこんなページも見つけた。わたしはほとんど英語でしか読んでないので、ダールの英語はかなり読みやすく、ペーパーブック入門には最適だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。

ところで、まさかロアルド・ダールを知らない人はいないと思うけれど、この人は『あなたに似た人』などで知られる英国の有名作家です、念のため。映画との関わりでいうと、『007は二度死ぬ』の脚本などの仕事が有名。晩年は子供向けの物語を数多く発表した。その代表作の一つ、『チョコレート工場の秘密』は、今度ティム・バートンによって映画化される。『チャーリーとチョコレート工場』公式サイトはここ(日本語サイトはまだのようです)。

■2005年6月3日
▽ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』

『天才マックスの世界』で、マックス青年は図書館の本に書き込まれたジャック=イヴ・クストーの言葉をきっかけに、美人教師と知りあって彼女に恋し、その恋愛沙汰が原因となって退学処分となり、最後には海洋博物館を作るに至るのだった。『ライフ・アクアティック』はそのクストーに捧げられている。『天才マックスの世界』では教室におかれた小さな水槽にミニチュア化されていたにすぎなかった海が、まさにこの映画の舞台である。

この監督の映画を一本でも見たことのあるものならば、たとえクレジットを見なくとも、『ライフ・アクアティック』がだれの映画か一目でわかるだろう。例によって、ビロードのカーテンによって全体が細かく章分けされ、人物や建物は主に正面から距離を置いてとらえられる。ベラフォンテ号の巨大な断面セットを映し出すショットは、まさにアンダーソン的である。『天才マックスの世界』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の重要なテーマの一つだった芝居は、ここでは映画に置き換えられている。イタリアでの公開試写にはじまり、クストーの海洋映画もどきを撮っている探検隊「チーム・ズィスー」の冒険を描くこの映画は、ある意味、ウェス・アンダーソン版『81/2』であるといってもいい。巨大な船のセットはチネチッタで撮影されたというし、監督がフェリーニを意識していただろうことはまず間違いないだろう。

ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン、アンジェリカ・ヒューストン、シーモア・カッセルなど、ウェス・アンダーソン作品の常連たち、ウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドブラムの新顔、いずれの俳優が演じる人物も相変わらずエキセントリックだ。

ウェス・アンダーソンの音楽センスは抜群で、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』では音楽が圧倒的な存在感を見せていた。この作品では、ブラジリアン・ソウルのカリスマ、セウ・ジョルジュがデイヴィッド・ボウイのナンバーをポルトガル語で歌う場面が、あたかもばらばらなエピソードをつなぐ蝶番のように各所に挿入されている。ディーヴォのどこかレトロな電子音楽もいい。

『天才マックスの世界』は、最後に擬似的な親子が成立するところで終わり、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』は、崩壊した家族が緩やかに再生してゆく姿を描いていた。『ライフ・アクアティック』で描かれるのは、父による子の認知の物語を中心にした、船=映画のクルーという疑似家族にも似た関係である。ただ、ビル・マーレイとオーウェン・ウィルソンの関係は、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のジーン・ハックマンと彼の子供たちとの関係ほど説得力はない。映画全体としても、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ほど成功していないように思えるのはなぜだろうか。ひょっとするとアクション・アドヴェンチャー的なものはこの監督にはあまり 向いていないのかもしれない(未見だが、処女作の『アンソニーのハッピー・モーテル』Bottle Rocket はその手の映画のようなのだが)。あるいは、不可測な事態を引き寄せてしまう海という場所のなせる技だったのか・・・。

■2005年5月27日
▽ トム・ティクヴァ『ウィンタースリーパー』(97)

『ラン・ローラ・ラン』の監督がその前年に撮った映画。良くも悪くもタランティーノ以後を感じさせる作品。出だしの数分間のテンポの良さはなかなかの見物だが、話が見えてくるにつれて集中力が薄れてゆく。近い記憶をなくしてしまうため、すべてを写真に撮って部屋の中に写真を並べておく男(記憶喪失の挿話は、ここでは単に話のきっかけにすぎない)。

▽ジョニー・トゥ『ザ・ミッション 非情の掟』

香港アクション映画としてはたしかに異色な作品ではある。マフィアの親分を護衛するために雇われた5人のプロが、執拗にねらってくる正体不明の敵からボスを守る姿を、淡々と描く。女はほとんど画面に登場せず、いわゆる男臭い作品だが、人物がほとんど描き込まれていず、だれにも感情移入できない。そのくせ最後は、殺し屋のプロらしくない男同士の友情が語られる。ドナルド・サザーランドに似た俳優がでているのが気になった。それほど評価しないが、この監督の別の作品を見たいという気にはなった。

■2005年5月25日
▽キン・フー『大酔侠』

総督の息子が賊にとらえられ、交換条件として賊の首領の解放を要求してくる。息子の妹が一人で兄の救出に向かう。武術の達人の乞食剣士が彼女を助ける。キン・フー最初期の作品、そして彼の数ある傑作の一つ。すでにしてキン・フーの世界はなかば完成している。

客棧(宿屋)での立ち回りのシーン。キン・フーの映画を見ていると、とても人間が演じているとは思えない瞬間がたびたびある。まるでサルが演じているみたいだ。サルでなければあんなに素早く岩山を駆け上がれるわけがないし(『忠烈図』)、竹林のなかを飛び回ることもできない(『侠女』)。しかし、あんなに美しく舞うように剣を振りかざして大勢を切り倒していくことなど、サルにはとうていできない芸当だ。食堂は吹き抜けになっていて、二階の廊下から一階が見下ろせるかたちになっている(たしか『龍門客棧』の宿屋も同じ構造だったはず)。キン・フーにとって客棧は死闘が演じられる場所と決まっているらしい。飛んできた矢を箸で掴まえる場面が、たしか『龍門客棧』のワン・シーンにあったと思うが、『大酔侠』の宿屋でも超絶的な武芸が披露される。それを見せるのがただの小娘(デビューしたてのチェン・ペイペイ)だというのがいい。チェン・ペイペイはこの映画で一挙にスターダムにのし上がったが、人気絶頂期にあっさりと引退。いまは娘に演技を教えていて、『大酔侠』の続編を娘主演で撮る計画を練っているらしい。

客棧の空間構造は西部劇のサロンに似ている。それだけでなくこの映画全体の空間設計と物語構造を、西部劇と比較してみたい誘惑に駆られる。

キャメラは西本正。北京語。キン・フーはひたすら北京語にこだわった。ジャッキー・チェンが子役ででているらしいが、確認できなかった。

■2005年5月23日
▽オキサイド・パン『The Eye』

タイ映画の鬼才(実は香港人)オキサイド・パンによるホラー。自殺した人間の魂は成仏せずこの世をさまようという、日本の怪談ものにも通じる幽霊観。一方演出は、近年のジャパン・ホラーを思わせる斬新さ。幽霊の見せ方は比較的うまい。ただし、黒沢清、中田秀夫、鶴田法男などを見慣れている人間には、あまり新鮮味はない。物語自体も、カーペンターの『ボディ・バッグス』のなかの一編とか、これと似たものは他にも多い。『アザーズ』にしろ、これにしろ、トム・クルーズにはイマイチ見る目がないのかもしれない。それでも、ヒットしているのだからプロデューサーとしては成功といえる。結局観客のレベルが低いのだ。

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以前、自分のやっているメルマガで、大西巨人の『神聖喜劇』のことを紹介したことがある。映画ファン向けのメルマガだったので、わたしの短い紹介をきっかけにしてこの長い小説を読み始めたという人は、皆無だったと思う。まあ、映画とは無縁の話だったのだが、最近、この小説を映画のシナリオに書き直した本が出ているのを、ジュンク堂で見つけた。出版されたのは去年の年末らしい。脚本家の荒井晴彦がシナリオ化したものだが、別に映画化の話が決まっているわけではなく、荒井がやりたくて勝手にやった仕事みたいだ。荒井晴彦と『神聖喜劇』というのは、わたしにはだいぶ違和感があるのだが、そのシナリオを実際に読んだわけではないので、コメントは控えよう。それにしても、『神聖喜劇』を映画化できる人間なんていまの日本にいるのだろうか。だれが監督しても、熱血軍隊ものみたいな映画になりそうで怖い。ストローブ=ユイレならたぶん・・・などと、あり得ないことをふと夢想する。

『神聖喜劇』は今のところ光文社文庫から出ているが、5巻本で本屋のスペースも取るので、近いうちに間違いなく絶版になると思う。買うならお早めに。

■2005年5月22日
▽フェリーニ『ボイス・オブ・ムーン』

月と井戸。フェリーに的な上昇と下降の運動にふさわしいデコール。共同墓地のコンクリートの屋根にあいた穴。死者たちの世界とつながっていることを一瞬期待させるが、それはただの穴にすぎない。ポストモダン様式の教会。『インテルビスタ』同様ここにも日本人観光客の姿が。地下の「地獄」とつながっているマンホールから現れた男は、今度は大型のクレーン車に乗って現れる。アンテナの林立する屋根のシーン(実は兄弟の兄の方。弟は月が世界を監視するスパイだと思いこみ、なんとかして捕獲しようと思っている)。片思いの女の靴を片方だけ肌身離さず持ち歩く男(ディスコのシンデレラの場面へ)。

被害妄想の元知事。ニョッキ祭(といえばヴェローナが有名だが、ここはどう見てもヴェローナには見えない)。

「生きるよりも覚えている方がいい。どちらも同じことだ」

ざわめきのなかからメッセージを聞き分けること。ディスコ・ミュージックが突然停止し、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が流れるなか元知事と彼の不倫相手(?)が踊る場面。同時に、シンデレラの靴はどの女性の足にもぴったり合い、女たちはすべて一人なのだという啓示をベニーニは得る。若者文化へのアンヴィヴァレントな眼差し。

地元では新しくできるテレビ局が話題になっている。ベニーニの生家の子供時代のまま残っている空っぽの部屋は、妻に離別されたベニーニの友人の空っぽになった部屋とつながっている。友人はベニーニに月が捕獲されたことを伝える。ここから映画はさらにもまして荒唐無稽になってゆく。月の捕獲は広場におかれた大型のプロジェクターにテレビ中継される。『甘い生活』に描かれた聖母マリアの顕現のヴァリエーション。「すでにすべては明らかなのです」と語る聖職者の超然とした態度に業を煮やした観衆の一人が、プロジェクターの月に向かって発砲し、たちまち広場は大混乱に陥る。

■2005年5月21日
▽ 青をもとめて

ゴッホの手紙を読んでいると絵の具の話が毎回のように出てくる。生前に売れた絵はただ一枚だけという、画家としては極貧生活をしていたゴッホは、ゴーギャンと共同生活していたアルル時代、生活費だけでなく、現地では手に入りにくい絵の具などを、弟のテオに送ってもらっていた。そのテオとの手紙のやりとりのなかに絵の具の色のことがたびたび書かれているのだが、絵の素人にはこの色の話がなかなかわかりにくい。

たとえば、アルルの南西にあるサント・マリー・ド・ラ・メールという海岸の村にゴッホが出かけたときのテオ宛の手紙には、"La Mediterranee a une couleur comme les maquereaux." 「地中海の色はまるで鯖の色のようだ」という風に書き出してあって、地中海の色がまるで鯖の色のように光の反射で絶えず移り変わる様子に、ゴッホは驚いている。その後も、空の青さについて、"bleu fondamental d'un cobalt intense" 「強いコバルトの原色の青」よりもさらに深い青色の雲がまだら模様をなしている深い青、と書かれてあったり、さらには "La mer d'un outremer tres profond" 「非常に深いウルトラマリンの海」、そしてその岸辺の砂丘には "bleu de Prusse" 「プルシアン・ブルー」の茂みがある、といった記述がある。

せいぜい紺と水色ぐらいしか青の種類を知らないわたしには、こういう微妙な色の話はなかなかわかりにくい。青には大別すると三種類あり、明るい順に cobalt, outremer, bleu de Prusse になるという。まず「明るい」という言い方が曖昧だ。たとえば一番明るいとされる bleu cobalt コバルト・ブルーを辞書で調べると、「さえた青」(リーダース)、「濃青色」(ニューアンカー)、「暗青色」(研究社英和)などといった訳語が載っていて、いったい明るいのか暗いのかよくわからない。

outremer「ウルトラマリン」は日本ではむしろ「群青」という言葉でよく知られている色であるが、わたしは昔からこの群青という色がよくわからなかった。群青については「鮮やかな青色」といった説明をされていることが多い。cobalt との違いは結局辞書を読んでいるだけではぴんとこない。ちなみにクラウン仏和で outremer を引くと、「紺青(こんじよう), ウルトラマリン」と書いてある。「紺青」はふつう bleu de Prusse「プルシアン・ブルー」の訳語として使われる言葉だから、これは誤訳と言っていいだろう。もっともわたしの使っている電子辞書は版がいまのものより古いので、最新版では修正されているかもしれない。いずれにせよ、辞書でさえ間違うほどややこしいということだ。

ウルトラマリンという名前は、わたしのなかではずっと海の底のイメージと結びついていたのだが、どうやらこれは勘違いだったようだ。outre-mer とはもともと「海の向こう」を意味する言葉で、これはウルトラマリンの原料となる瑠璃石(ラピス・ラズリ)が海の向こうのアフガニスタンでとれることから来た呼び名とされるということをどこかで聞いたことがある。関係ないが、ジョン・ヒューストンが映画化した『火山のもとで』の原作者マルカム・ラウリーに『ウルトラマリン』という小説があるのだが、だれか訳してくれないものか。まあ無理だろうな・・・。あの名作『火山のもとで』さえ何十年も絶版になってるんだから。

最後に、「プルシアン・ブルー」というのは、「ペルシャン・ブルー」と混同されることが多いのだが、実は「プロシアの青」つまり「ドイツの青」ぐらいの意味で、もともとドイツ人に発見されたのでこの名がある。ほかにも bleu de Berlin「ベルリン青」、bleu de Paris とも呼ばれる。「ベルリン青」はわかるが、なぜ「パリの青」と呼ばれるのかは不明。ゴッホなどのパリの画家たちが多用したから、とも考えられる。

まったく色というのはやっかいだ。途中で挫折したゲーテの『色彩論』でも読み直してみるか。ヴィトゲンシュタインの『色彩について』もまだ奇跡的に手にはいるようだ。これも買っておくか。

以上、シネフィルにはまったく関心のない話だったね。ちなみに『色彩について』はゴダールの『フレディ・ビァシュへの手紙』でも引用されているんだ、残念でした。映画ばっかり見てると、視野が狭くなっていけない。それにしても、『論理哲学論考』が文庫になってるってすごくない? だれも読んでないと思うけど。

■2005年05月18日

映画の話をするのにはいいかげん飽きた。いまは「猫の文学」のコーナーを書いているときが一番楽しい。調べていていろいろ発見があるし。将来的には、このコーナーが本サイトのメインになるかもしれない(?) まだまだリストは続くので要注目。

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次世代 DVD をめぐってのソニーと東芝の交渉は結局ほとんど進展していないらしい。いつまでたっても結論がでないなら、この際、それぞれ勝手に発売して、市場に決着をゆだねたらどうだろうとつい思ってしまう。むかしの VHS と Beta みたいに規格が二つあるのは困ったものだが、このままだといつまで待たされるかわからない。最近、『エル・シド』だの『木靴の樹』だの、2時間を越える映画を何本も録画してしまい、レートを落として DVD-R に焼くのがいやなので、そのままハードディスクに録りためておいたのがどんどんたまってきて、ディスクの空き容量がどんどん残り少なくなってきた。そろそろ何とかしないとまずい。次世代 DVD がでるまでのあいだのつなぎとしていまわたしが考えているのが、パイオニアの新製品 DVR-530H だ。この噂のハードディスク・レコーダーは、世界初の片面二層対応 DVDレコーダーとして注目を集めている。それだけでなく、片面一層ディスクにも高画質で長時間録画が可能な設計になっているという(最大13時間録画)。BS チューナーがついていないのが少し気になるが、もともとパイオニアのチューナーはあまり評判がよくないので、スゴ録のチューナーを使った方がいいかもしれない。問題を起こすといけないのでスゴ録のおまかせ録画は全然使っていないのだが、パイオニアのこの機があれば、それをおまかせ録画とダビング専用機として使うこともできる。かなりそそられる製品だが、店頭での実売価格はまだ6万円台を切っていない。もう少し安くならないものか。

■2005年5月17日
▽セガン島のプロジェクトが挫折

セガン島のルノー工場跡に美術館を作るという一大プロジェクトは挫折したらしい。日本の安藤忠雄のデザインが採用される予定だったというから、残念である。行政側の腰が重くて、プロジェクトがなかなか進行せず、結局中途で挫折したということだ。セガン島のルノー工場はフランス労働運動の聖地といわれてきた。ゴダールが『愛の世紀』の舞台の一つにここを選んだのは、むろんそうした歴史の記憶がこの場所に刻み込まれていたからだ。その工場はいまや完全に解体されて更地になってしまっている。美術館のプロジェクトも挫折してしまったし、しばらくこの状態が続きそうだ。『愛の世紀』がこの場所を最後にキャメラに収めた映画となったのだろうか。まだ工場が残っているあいだに一度訪れようと思っていたのだが、結局果たせずに終わってしまった。

■2005年5月16日
▽ 土本典昭覚書4

『水俣─患者さんとその世界─』や『不知火海』、あるいは『海とお月さまたち』などの「水俣」シリーズであれ、それ以外の『海盗り─下北半島・浜関根─』であれ、土本の描く海の映画はいつも、日没時の海の沖合に浮かぶ漁船を逆光でとらえた画面でおわっていたような気がする。海の映画作家土本典昭。

『水俣─患者さんとその世界─』(71)は、わたしがたぶん最初に出会った土本典昭の映画だ。大学の2,3回生ぐらいの時だったろうか。ラストの大阪チッソ株主総会での会社側と患者たちとの壮絶なやり合いは、長いあいだ幻のように頭にこびりついていた。今回ずいぶん久しぶりに見直してみて、こんなに静かな映画だったかと驚いた。たしかに、巡礼姿で総会に参加した患者たちが、鈴を打ち鳴らし御詠歌を唱えながらチッソの社長に詰め寄り、会場全体が怒号に包まれる場面はいま見てもすごい迫力である。ついついこういうわかりやすい場面に目がいってしまいがちだが、そこに至るまでに水俣の人たちの生活の姿が丹念に描かれているからこそあれだけの感動を呼ぶのだろう。

それにしてもこの会社はひどい。チッソはいまのJRだ。チッソが最初表明した戦争中海底に沈んだ爆弾が原因だという姑息な説など、まるでJRの置き石説ではないか。

こうやって「水俣」シリーズを短期間で何本も立て続けに見ているうちに、どの場面がどの映画のものだったのかが次第に曖昧になってくる。それと同時にまさに「水俣の世界」としか言い様のないものが浮かび上がってくる。30年以上にわたる時間のなかで、遅すぎる感はあるものの、水俣病に向けられる社会の眼は徐々に変化してきた。土本のキャメラはその変化にときには荷担しつつそれをつぶさに記録し、同時に変わることなく存在し続ける生活のリズムをとらえてゆく。

『不知火海』(75):「不知火海」。それにしても美しい名前だ。この見た目には風光明媚な海が工場から排出された有機水銀によって汚染されてしまっている。水俣病が確認されてから20年近くたつというのに、不知火海の略図に記された水銀の濃度を示す四角や丸の記号が、汚染の規模の大きさを端的に物語る。汚染の激しかった水俣湾では、漁師の手で魚を捕っては捨てる作業が続いている。しかしその対岸では、920ppmという人類最高の毛髪水銀量が確認されながら、何ら対策がとられていない。食卓に積まれる魚の山を無造作にとって食べる人々を見ていると、思わず大丈夫かと思ってしまう。しかし、彼らに魚を捕るな、食べるなというのは、死ねというのと同じことだ。

海を間近にした岩場で、胎児性の少女が『医学としての水俣病』にも出てきた医者にいろいろな質問を投げかける。「脳を手術したら治らない?」 答えようのない質問に、医者は答えを濁すしかない。ふたりの応答はかみ合っているようには見えず、その様子をとらえつづけていたキャメラはもどかしげにパンしてふたりに背を向け、岸を映し出してから再びふたりのほうに戻ってくる。少女の後ろで、われわれには顔なじみの同じく胎児性の少年が車椅子に無言で座っている。患者の内面世界を一瞬かいま見せる希有な場面である。

『海とお月さまたち』(80):実はこの作品が今回の回顧展のなかで一番見たかった。見ていていつもの土本作品とはなにかが違うのだが、それがなんなのかよくわからなかった。あとでこれが低学年の子供向けに作られた注文映画だとわかって、なるほどそうだったかと思った。水俣の海を描きながら、この映画にはどこか童話のような雰囲気があるのだ。ここでは太陽ではなく、絶えず姿を変え、潮の満ち引きさえも支配する月が、同じように休みなく表情を変えつづける海のパートナーとして描かれる。

海と人間との調和に満ちた関係をこれほど美しく描いた作品は他に類がないだろう。あらゆるものが慎ましく自分の場所に収まりながらその存在を主張している。海の様々な生物が描かれるが、ここに描かれているのはむしろ植物的ともいえる静謐な世界である。

船の上でひとり釣り糸を握る漁師。あるいは夜の海で、おばあさんのこぐ船でホコ突き漁をする老人。土本版『極北のナヌーク』といったところか。さりげなく撮られているが、恐ろしい技術の高さだ。釣り糸に食いついた魚をとらえていた水中キャメラが、魚が釣り上げられる瞬間に水面にあがるタイミングなど、プロにしかできない技があちこちで見られる。

■2005年5月14日
▽トラン・アン・ユン『夏至』

この監督の映画をあまりおもしろいと思ったことはなくて、この作品もテレビで見たのだが、集中できずに他のことをしながらいい加減に見てしまった。 「映像はきれい」という観客のコメントが聞けそうな映画である。

街には緑があふれ、窓から見える庭にも緑が生い茂って室内まであふれ込んできそうだ。 所々はげ落ちた壁は色が一様でなく、時に現代絵画のようにも見える。窓辺や家具の上に鉢植えの大きな葉をつけた植物が置かれ、部屋のしきり代わりに うすぎぬのカーテンや長いビーズの暖簾が、風が吹いたり人が通るたびに揺れる。こういうのを「ヴェトナム的」と呼べるのかどうかわからないが、こうしたエキゾチックな室内装飾がこの作家の評価につながっているのはたしかだろう。実際こうしたエキゾチシズムを取り去ってしまえばこの作品にはあとなにが残るのかはなはだ疑問である。

ルー・リードの曲(Coney Island Baby, Pale Blue Eyes) で目覚める朝のけだるさ。こういうのがほんとはヴェトナムなんかに興味のない欧米人に受けたりするのだろう。

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▽エドワード・ヤン『ヤンヤンの夏休み』

マンションの窓の外から捉えられたショットにはいつも夜のドライヴウェイを走る車のライトが反射して写り込んでいる。「反射」の映画。ウー・ニエンジェン演じる父親が日本への出張を機会に初恋の女性と会ってデートを楽しんでいる場面とカットバックされて、彼の娘が同じように初恋の相手とデートをする光景が映し出される。踏切で初恋の女性と手を握り、初めて手を握りあったときのことを回想する父親。その場面に、交差点の信号待ちで手を握りあう若い恋人たちの姿が重なる。

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関川夏央『女優男優

数ページで器用に俳優の経歴や特徴をまとめあげているところは、さすが関川夏央だと思わせるが、たとえば原節子のところで 、彼女が『新しき土』という親ファッショ的な映画に出演していることを あっさり無視して『わが青春に悔いなし』だけを取り上げているところなど、記述に偏りが見られる。最後の『秋津温泉』論もいささか平凡。それでも、ちゃんとした映画評論家である田山力哉の『日本映画俳優全史』などに比べたら、こちらのほうがよほどましである。女優論はおもしろかったが、男優論のほうはほとんどとばし読みしてしまった。夏川のせいではなく、わたしが女優のほうにばかり関心があっただけかもしれない。

■2005年5月12日
▽イ・ジェヨン『純愛譜』

ソウルと東京に住むふたりの孤独な現代の男女が、出会うまでを平行して描く。タイトルの「純愛」というのはイマイチぴんとこない。小粒なツァイ・ミン・リャン、あるいは大島弓子をちょっと暗くしたといった感じの作風。悪くはない。ハッピーエンドで終わるわりには見ていてあまり元気が出る映画ではないが、ヒロインの新人女優橘実里のとぼけた演技が作品を救っている。監督は橘に『男と女のいる舗道』のアンナ・カリーナのコスチュームを着させたりするほどのゴダールの大ファン。

韓国といえば、『冬のソナタ』の原作者がパトリック・モディアノの『暗いブティック通り』に影響を受けたという話を最近聞いて驚いた。パトリック・モディアノぐらい誰でも知ってるとは思うが、シネフィルさんたちは本をあまり読まないかもしれないので一応説明しておくと、モディアノというのはゴンクール賞を受賞したこともあるフランスの作家で、「モディアノ中毒」という言葉があるぐらいに人気の高い人物。こないだ名前を出した堀江敏幸の『郊外へ』の「郊外」というテーマも、半分はモディアノの小説から取られている。・・・などという説明より、『イヴォンヌの香り』の原作者だといったほうがシネフィルにはわかりやすいか。

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このところ、列車のオーバーランが毎日のようにニュースになっている。列車がオーバーランしたぐらいでテレビニュースになるというのも異常な事態ではないだろうか。 あれだけの大事故のきっかけの一つともなったのだから、たかがオーバーランといってすませられるものでもないが、この過剰な報道は運転手たちに間違いなくプレッシャーを与えているに違いない。

最近の竹島をめぐる韓国での反日デモや、北京・上海での暴徒による日本レストラン襲撃などに対する反応を見ても、日本人には良くも悪くもバランス感覚があると思っていたのだが、それは考え違いだったかもしれない。なんでもかんでも針小棒大に騒ぎ立てるマスコミのバランス感覚のなさが、たまたま日本人を韓国人や中国人よりもまともに見せていただけなのではないのか。テレビの報道を見ているだけなら、まるで中国民全体が一団となって反日を叫んでいるように思えてしまうが、事実はそれとはほど遠かったに違いない。日本製品不買を叫びながらその様子を日本のビデオで撮影するといった反日デモ参加者の矛盾を勝ち誇ったように指摘する人間もいるが、居酒屋でそれと知らずに Made in china の割り箸を使ってご飯を食べながらそんな中国人の悪口を言っている日本人がどれだけいたことか。

マスコミによる過剰なほどのJRたたきに刺激されて、関係のないJRの職員を襲った暴行事件が多発しているという。むろん、そんなことをする人間は、教科書で教え込まれた歴史を疑いもなく信じて反日デモで暴徒化した中国人以下の存在だが、マスコミにも責任がないとはいえない。まあテレビなんてそんなものさ、とわたしなどははじめから高をくくって見ているのだが、イメージの裏側を読むことができない人が世の中には多いのだ。

だいたいにおいて、加害者を描くというのは難しい。判官びいきという言葉があるように、われわれは弱いものについ味方しがちだし、加害者というのは被害者以上に口を閉ざしがちだ。わが土本典昭でさえ、彼の代表作のタイトルが図らずも物語っているように、彼の描くのは基本的に「患者さんとその世界」なのであり、そこには加害者の視点がほとんどごっそり抜け落ちていると言っていい。しかし、彼が対象に対してみせる執念やそれを描く際にかける膨大な時間を見れば、彼が常に被害者の側に身を置くのは、ドキュメンタリー作家としての欠点というよりも一つの倫理的選択であるのだと納得される。

■2005年5月10日
▽土本典昭覚書3

『原発切抜帖』(82)、『ひろしまを見たひと─原爆の図丸木美術館』(85)、『ビデオ絵本・ひろしまのピカ』(87):この三作品は、わたしの用語でいうところの〈モンタージュ・ドキュメンタリー〉のジャンルにはいる。写真やニュース・フィルムや資料などをモンタージュによって構成することでなにかを伝えるドキュメンタリーを、わたしはそう呼んでいる。アラン・レネの『ゲルニカ』などがその代表的な作品である。『原発切抜帖』などように新聞やニュース・フィルムなどのアーカイヴを使って構成されたドキュメンタリーはとくに〈アーカイヴ・ドキュメンタリー〉と呼ばれる(佐藤真の『ドキュメンタリー映画の地平』を参照)が、この用語だと『ひろしまを見たひと』や『ひろしまのピカ』まで含めるのは難しい。〈モンタージュ・ドキュメンタリー〉という言葉のほうが許容範囲が広いので都合がいい。

『原発切抜帖』は、切り抜きマニア土本が、あつめた膨大な量の新聞記事から、故意の言い落としや嘘、悪質な隠蔽などをかぎ出し、行間を読むようにして執念で作り上げた、核兵器=原発告発のドキュメントである。土本の作品群のなかではどちらかといえばマイナーな作品であり、小沢昭一の皮肉に満ちたユーモラスな語り口の軽妙さもいつもの土本作品とはひと味違うが、ある意味これも土本の代表作の一つと考えていいだろう。

『ひろしまを見たひと』は、実際には原爆が投下された三日後に広島に入り、広島を見ることができなかった画家、丸木位里と丸木俊が、以来半世紀にわたって「その日」へのイマジネーションを通して描き続けてた「原爆の図」シリーズをモンタージュしつつ、原爆の悲劇を映し出す土本版『ゲルニカ』。洋画的とも日本画的とも見える不思議な作風で描かれた「原爆の図」。そのキャンバスの表面のみを写し取りながら、映画は絶えずその裏側へと、誰も生きては見ることができなかった「その時」へと、視線を誘う。

『ひろしまのピカ』は、丸木俊が原爆を描いた絵本を元に、土本がそれを映画的にモンタージュした作品。これをドキュメンタリーといえるかどうかわからないが、いずれにせよ土本作品のなかでは『原発切抜帖』や『ひろしまを見たひと』に連なる作品である。照明効果や焦点の移動、あるいは特殊効果による雷など、なかなか技巧的である。ただ、物語がある分、『ひろしまを見たひと』に比べて迫力に欠けることは否めない。

■2005年5月7日

いま東京でやっているジョルジュ・ド・ラトゥール展は関西には来ないのだろうか。

▽『ブラック・ダリア』が映画化

このHPでも何度か紹介しているジェイムズ・エルロイのLA四部作の一作目『ブラック・ダリア』がブライアン・デ・パルマの監督で映画化されることが決定した模様。『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソンらが出演予定。原作は、40年代にハリウッドで実際に起きた女優の卵エリザベス・ショートの惨殺事件を題材にしたサスペンス。四部作の中では、これが一番好きでないという人も多いというということも、一応付け加えておく。とはいえ、幼いころ母親を惨殺されるという過去を持ち、「アメリカが無垢だったことは一度もない」と断言するエルロイという作家の押さえがたい怨念のようなものがこの作品にもどす黒く立ちこめている。デ・パルマが監督すればその辺の部分がごっそり抜け落ちてしまい、たぶんレトロなミステリーができあがるのだろう。

ちなみに「ブラック・ダリア」というタイトルは、ヴェロニカ・レイク主演のフィルム・ノワール『蒼い戦慄』(The Blue Dahlia)から。エルロイのオリジナル脚本「The Night Watchman」も、スパイク・リー監督で映画化が進んでいたが、リーがスケジュールがあわず降板したため、監督はオリバー・ストーンに交代したとのこと。

「扇情的なタブロイド新聞は鬨の声をあげ、“土地成金”──マック・セネットとエメット・スプレイグもその一人に数えられた──と、“ギャングとの癒着”を盛んに記事に取り上げた。コンフィデンシャル誌はセネットによるハリウッドランドの宅地開発と、リー山に掲げられたハリウッドランドの巨大広告板からLANDの文字を取り払いたいという、ハリウッド商工会議所の強い希望をシリーズで報じた。そこには、かわいらしい少女を連れた、ずんぐりした体格の男をお供に従えて立つ、キーストン・コップ・シリーズの監督の写真が掲載されていた。その二人がエメットとマデリンかどうか定かではなかったが、とにかく私はその写真を切り抜いておいた。

私の敵。
私の友人。
私の妻。」

『ブラック・ダリア』

▽土本典昭覚書2

今日シネ・ヌーヴォで見た『海盗り──下北半島・浜関根』は紛れもない傑作だった。が、それはまたあとで書くとして、まずは先日見た『医学としての水俣病』三部作(74)のことを書こう。冒頭、静かに波立つ海をとらえたショット。オフで漁師の声が聞こえる。ショットが変わると小舟に乗った漁師に、インタビュアー(土本)が話しかけている。それまではほとんど決して画面に現れることのなかったスタッフの姿がキャメラに捉えられている。この作品でなにかが変わりはじめたのかもしれないという予感。

この4時間半にも及ぶ大作に映し出されているものは結局なんなのか。「医学としての水俣病」。一見平凡なタイトルであるが、この題はくせ者かもしれない。水俣病がただの病気であるなら、「医学としての水俣病」という言い回しは変といえば変だ。医学としての水俣病の他にいったいなにがあるというのか。そもそも、このフィルムに写っているものは「患者」なのかそれとも「人間」なのか。一人の人間が「人間」であると同時に「患者」でもあるということ。土本はむろんその人のなかの「人間」を捉えようとしているのだが、「患者」として認定してもらえないことで苦しんでいる人がたくさんいるという現実が一方にある。だからこそ、「医学としての水俣病」をとことん追いつめてゆかなければならないのだ。

とりわけ第三部が興味深い。おびただしい図やグラフによって可視化されてゆく水俣病。その一方で、症状の基準を満たしていないということで「水俣病」として認定されない人たち。不可視の社会病としての水俣病。

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郊外へ』の堀江敏幸の『熊の敷石』が講談社文庫から出ていることを発見して早速購入。最近でたばかりだが、すぐに絶版になることは間違いない。川上弘美が解説。

■2005年5月6日
▽キム・サンジン『アタック・ザ・ガス・ステーション』

全体としてはサブの諸作品や石井克人の『鮫肌男と桃尻女』といった作品のノリに近い。ほかにも日本の若手監督の撮った映画にはこれと似たようなものが多いが、この韓国映画のほうがはるかにおもしろい。ガソリン・スタンドという閉鎖的な場所を舞台に若者の暴力を描く映画というから、最悪の事態も予想されたのだが、結構がんばっている。物語はカーペンターが撮ったテレビ向けのホラー短編を思い出させるが、あれとは対照的に決して陰湿になることなくユーモラスにかつパワフルに、最後まで描ききっているのはなかなかのものだ。ガソリン・スタンドの社長と従業員とか、学校内での番長と子分とか、あるいは街のボスと子分といったすべての上下関係が、次々と崩れていくところが心地いい。主役の4人の回想がフラッシュ・バックで挿入されるところが後半にあるのだが、あまりにもわかりやすすぎるというか、説明的になりすぎているのが残念。安易なフラッシュバックは作品をだめにしてしまう。

■2005年5月3日
▽土本典昭覚書

大阪シネ・ヌーヴォに「土本典昭フィルモグラフィー展2005」を見に行く。今日2日は『パルチザン前史』『留学生チュア スイ リン』『水俣の子は生きている』『ある機関助士』『ドキュメント路上』を見る。『留学生チュア スイ リン』『水俣の子は生きている』『ある機関助士』は初見だ。いずれも60年代に撮られた土本の最初期の作品に当たる。同録で撮られていないので口の動きとせりふのズレが結構気になる。『留学生チュア スイ リン』のような作品の場合、同録で撮られていないことでずいぶん損をしているような気がする。あの千葉大の学長のふざけた態度も同録で撮られていたならいっそうエモーションをかき立てなのではないかと思うと残念だ。日本で同録が可能な16ミリ・キャメラが導入されたのは60年末というから、これは致し方なかったのだろう。

『パルチザン前史』(69):ヘルメットをかぶった京大の学生たちが夜の暗いキャンパスで行進をつづけるシーンで始まり、エンドクレジットに行進の足跡がかぶさって聞こえてくるところでおわる「闘争」の記録。とはいえ土本の視線はいたって冷静だ。最後のデモの場面で、突然上映中の映写機のたてるカタカタという音にかぶさって、デモのやり方を批評しあう声が聞こえてくる。おそらくはデモを行った学生が、いまわれわれ観客が目にしている映像をデモの後で上映しながら述べたコメントを、その映像にかぶせているのだ。

その最後の百万遍の交差点での激しいデモの場面。交差点は今よりもとても広々としているように思える。市電の停車場があり、線路も走っているようなので、さっきネットで調べてみたらこのころはまだ市電が走っていたらしい。この交差点は何度も通ったことがあるのだが、かつてここに市電が走っていたことを、恥ずかしながらいま初めて知った。これからはここを通るたびに『パルチザン前史』を思い出すことになるだろう。

『パルチザン前史』は「火」と「水」の映画だ。政治闘争を熱く語る学生たちは火炎瓶という手段を使う。この映画のなかには、火炎瓶の作り方を事細かに説明し、学生が大学のビルに向かってそれを投げつけて実演してみせるところまでを映し出したシーンが含まれる。百万遍のデモでは、車が激しく燃え上がる。それに対して警察と機動隊がいつも使う手段はホースによる放水だ(エイゼンシュテインの『ストライキ』を思い出せ)。京大の時計塔や、後半描かれる阪大での闘争で大学の校舎のてっぺんに立てこもった学生たちに向かって、機動隊がホースで激しく放水攻撃を行う。上空を旋回するヘリコプターのプロペラのたてるぱたぱたという音が、なにかこの場面を夢のようなものに変えている。

坂道を撮った固定と移動による二つのショット。美しい。当たり前のことだが(本当に当たり前か?)、土本のドキュメンタリーにはショットが存在する。

『留学生チュア スイ リン』(65):「われわれ」(あるいは「わたし」だったかもしれない)という一人称によるナレーション。ただしスタッフはキャメラには写らない。『パルチザン前史』は字幕だけでナレーションは使われていなかったはず。政治活動を理由に千葉大学を除籍させられた英領マラヤ(現マレーシア)の留学生の闘争を描く。大学側の官僚のうさんくささが彼らをいい悪役にしたててくれている。

『水俣の子は生きている』(65):「水俣」シリーズの中ではどちらかというとマイナーな部類に入る短編。水俣病のケースワーカーとして実習に参加した女子大生の一週間の記録。彼女のナレーションで進む。ビデオ(もしくはビデオをフィルムに焼いたもの)による上映。後で受付に確認すると、ネガがなくなってしまって残っていないとのこと。フィルムとビデオの違いもわからない人が多いのかもしれないが、こういう場合はせめて上映前に説明を行ってほしい。

『ある機関助士』(62):土本の記念すべき映画デビュー作。カラーだったので少々びっくりした。駅を俯瞰するショットなど、非常に美しい。62年、三河島で起きた大事故の印象を一掃するため、国鉄当局が鉄道の安産性をPRするために企画した映画。この事故は機関士の赤信号見落としによる脱線・衝突と、その後の安全対策の不備による二重衝突により死者160人の大惨事となった。ATSはこの事故の教訓から取り付けられるようになったという。尼崎でJRの大惨事があった直後だけに、あまりにタイミングよすぎる上映になにか予言的なものさえ感じてしまう。JRの腐りきった体質は今度のことでほぼ明らかとなったが、スポンサーの意図とは別なところでこの映画のなかにもその萌芽のようなものを見て取れる。事故の多くはダイヤの乱れによるもので、そのために定刻通りに列車を発着させることが重要だ、列車が遅れたときには規定の速度内でスピードを上げることも必要だ、と機関助士のナレーションが語る。列車が脱線などで停止したときの安全訓練で、衝突事故を避けるために発煙筒を焚いて線路を駆ける機関助士を移動撮影でキャメラが追いかける。スタッフ(土本?)がインタビューしている場面(機関助士の運転中の健康状態を調べるために、裸の体に電極を取り付けるところ)もあるが、キャメラには写らない。

『ドキュメント 路上』(64):最初この作品は『パルチザン前史』の後で撮られたものと思いこんでいたので、国家権力と戦う学生たちを描いた映画の後で、警察庁をスポンサーにした映画をどうやって撮ったのかと思っていたのだが、やっぱり逆の順番だった。不思議な映画である。最後の衝突の場面などが一番わかりやすいところだが、明らかに演出している場面も多い。ナレーションはないし、せりふもほとんどなく、ドキュメンタリーという範疇を超えて、たとえば『ベルリン大都会交響楽』といった映画と通じ合う部分もある。タクシー会社の前の坂道。キャメラの上下移動の多用。一人のタクシー運転手とその家族が一応この映画の中心と考えていいのかもしれないが、実際にはかなりとりとめのない映像の連続である。日活ニュー・アクション映画に流れていそうなモダンな曲(ジャズ?)が使われている。

土本典昭の本:『土本典昭 わが映画発見の旅』『逆境のなかの記録』(未来社)など多数。

ドキュメンタリー総論としては佐藤真の『ドキュメンタリー映画の地平』などがお薦め。

■2005年4月30日

少女から大人の女への成長を描き、結婚したヒロインが着物を脱がされる場面で終わる幸田文の『きもの』は見事に完結しているように思えるのだが、作者自身はこれを未完と考えていたようだ。

伊藤大輔『幕末』:やっぱりトーキーになってからの伊藤大輔はあまりおもしろくない。が、ラストで屋根が出てくると急に生き生きする(竜馬が暗殺され、仲代達也が屋根に落ちる場面)。やっぱり彼は屋根の人なのだ。寺田屋の前で屋台を隠れ蓑に見張りをしている男役で野坂昭如が出ている。意外とうまい。

■2005年4月24日

▽幸田文『きもの
幸田文の有名な小説。前から好きな作家だったのだが、こういう機会でもなければ読まなかったかもしれない。『崩れ』や『番茶菓子』などのエッセイものばかり読んでいたので、小説を読むのはこれが初めてだ。小説のほうもとてもおもしろい。あの凛とした文章は小説でも相変わらずで、読んでいて気持ちがいい。おもしろい小説はいまでもたくさんあるだろうが、こんな風に気持ちのいい文章を書ける人はもう少なくなった。「文は人なり」という怪しげな言葉があるが、こういう文章を読んでいると書き手の姿がありありと目に浮かんでくるのもたしかだ。

幸田文の小説を原作にした映画には、『おとうと』(市川昆)と『流れる』(成瀬巳喜男)があるが、この『きもの』もぜひ誰かに映画化してほしかった。過去形で書くのは、いまこれを映画にできそうな監督が思い浮かばないからだ。凡庸な監督がこれを映画にしようと思いつかなかったことだけでもありがたい。さて俳優のほうは? きかん気の少女であるヒロインのるつ子役には高峰秀子(の少女時代)。残る三姉妹の長女と次女役には誰がいいだろう? 母親役には木暮美千代では我が強すぎるから、田中絹代ぐらいが適当か。などと死んだ女優の顔ばかりが思い浮かぶ。

▽雷蔵メモ
『大菩薩峠』三部作:第一、二部が三隅研次、なぜか第三部だけが森一生。前にも書いたが日本映画にはなぜか一人二役というのがやたら多い。ここでの中村玉緒は三部作を通じて一人三役を演じている。机龍之介が殺した女とそっくりの女が現れ、彼女も病死するのだが、第三部でまた彼女とそっくりの女が現れるという展開はあまりにも強引。虚無を絵に描いたような男、机龍之介に絶えず罪の意識を抱かせるためだけに中村玉緒は別の女の姿をしてよみがえってくる。

『お嬢吉三』:歌舞伎の『三人吉三』をベースにした映画。中村玉緒を窮地から救い出すために雷蔵が女装する場面が見物。正面から見るといくら雷蔵でもきついものがあるが、斜め後ろのアングルだと結構いい女に見える。

『女と三悪人』:これにも『三人吉三』のにおいがする。追っ手から身を隠すために旅芸人の一座のなかに紛れ込むという展開はヒッチコックの映画にもよくあるパターン(『蛇姫様』など)。

■2005年4月22日

▽『新・平家物語』
大阪の某所で「映画と着物」についてある詩人と対談する羽目になる。着物については全く無知なので、なにを話したらいいものやらわからず、ここしばらくその準備で忙しかった。着物という視点からいろいろ映画を見直したり、本を読んだりしてあれこれと話すことを用意してイヴェントに臨んだのだが、結局スケジュールが尻カッチンで対談の時間がほとんどなくなり、全然話せずに終わってしまった。内心ほっとしたと同時に残念な気も。結構おもしろい話を用意してたんだけどな・・・。

そんなときに溝口の『新・平家物語』(デジタル・リマスター版)を見に行く。平安末期の揺らぎ始めた貴族社会。雷蔵(平清盛)の母親役の木暮実千代の着ている胸元のあらわら着物は、果たしてちゃんと時代考証したものなのだろうか。どの着物を着たときも、(あれは袴の上の部分だろうか)胸の谷間がはっきりと見えるのだ。時代劇でこんな着物を他に見た記憶があまりないので、気になる。

▽『昼下りの決斗』
ペキンパー初期の傑作。この作品を見直すのはずいぶん久しぶりだ。ビデオ版はたしかスタンダード・サイズかせいぜいヴィスタ・サイズにリサイズされていたと思うが、衛星放送ではシネスコ版が見られたのがうれしい。大昔に見たときにはジョエル・マクリーが誰かも知らなかった。ホークスやプレストン・スタージェスの諸作品、とりわけ『西部の王者』『死の谷』などの西部劇を見たあとで改めて見直すと、冒頭で登場するジョエル・マクリーの顔に、一瞬ほとんど誰かもわからないほど深い老いが刻まれていることに感動する。ペキンパーの映画が繰り返し描いてきた「疲労感」はすでにこの作品のなかにはっきりと感じられる。

全体としてのストーリーの流れにはいまひとつ盛り上がりに欠けるところがあるのだが、あのクライマックスの奇妙な決闘シーンはやはり感動的だ。はじめのうち溝に隠れて敵の銃弾をさけていたジョエル・マクリーとランドルフ・スコットは、敵の視線にさらされるのもものともせず不意にそこを飛び出して3人の敵と正面から向かい合い、敵の銃弾をさけようともせずに横に並んでゆっくりと敵に向かって歩んでゆく。その直前まで二人のあいだには信頼と裏切りを巡る緊張関係があっただけに、視線すら交わすことないこの無言のアクションはなおさら感動的なものとなる。

それにしても映画のタイトルに使われる「決闘」は、他に「決斗」とか「血闘」とかいろいろあってワープロ変換が面倒くさい。

■2005年4月15日

フランスの映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」は今月号で600号を迎える。その記念すべき600号の編集企画を北野武が任されたらしい。武は609枚の写真をカイエに送り、様々なシネアストがそのなかから4枚の写真を選んで、それを使って1ページの "cine-manga" を作るというゲームを思いついた。このゲームに参加したのは、アサイヤス、デプレシャン、ドワヨン、クロード・ランズマン、ホン・サン・スー、ガス・ヴァン・サント、アピチャポン・ウィラーセクタン等々。そうそうたる顔ぶれだ。見てみたい。それにしてもこういうことがほとんど話題にならないとは、日本のマスコミにはほんとに感心する。(ちなみにカイエの400号はヴェンダースが、500号はスコセッシが編集した。)

長らく機能していなかったネットのサイトのほうもまもなく再開するらしい。

■2005年4月10日

『ラスト・シューティスト』:ヴィクトリア女王の死を伝える記事。1900年初頭。西部の終わり。鉄道馬車。ジョン・キャラダイン(『駅馬車』)が葬儀屋。ジミー・スチュワート(『リバティ・バランスを射った男』)が医者。ロン・ハワードが少年役。ローレン・バコールとウェインの競演作はほかにないはず。でたらめな記事で一儲けしようとする新聞記者や、髪の毛を売ろうとする床屋、ウェインに面と向かって「まだ死なないか」などと憎まれ口をたたく保安官など、人物描写が痛烈であると同時にコミカルだ。そういえばバコールが『私一人』につづく新たな自伝を出したという記事をどこかで読んだ気がするが、あれはどこだったか。

■2005年4月9日

ハードディスクにクロスリンクが発生したため、最近システムが不安定になりぎみだったので、思いきって初期化することにした。修復ツールでなんとかしのいできたが、クロスリンクは Norton では修復しきれないらしい。症状もだんだんひどくなってゆくようなので、このへんで一度きれいにしておくほうがいい。とはいえ、100ギガ以上あるハードディスクのバックアップをとるのは大変な作業で、この数日それに掛かり切りだった。そのせいでホームページの更新も全然できなかった。

ところが、あんなに綿密にバックアップしたのに、ハードディスクの内容を全部消してしまった後で、ここ1週間分のメールデータをなくしてしまったことに気付いた。さして重要なメールのやり取りはなかったが、残念だ。気のせいか、初期化する前よりシステムが不安定になった気がしないでもない。もう少し微調整が必要かも知れない。ともかく、なんとか使える状態にまでは回復した。

■2005年4月2日

セリーグ開幕。清原不発。9回表ストッパーが本塁打を打たれて逆転負け。今年の巨人も例年通りのようだ。

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DVD ドライブでDVD-RAM を試しに使ってみる。DVD-RAM は初体験である。ちなみに、わたしの使っているドライブは Logitec の LDR-HA165FU2/M 。マニュアルでは DVD-RAM のメディアはマクセルのものしか推奨されていないが、安かったので TDK の録画用DVD-RAM 10枚パックを買ってきた。それをフォーマットしてPC で使ってみたが、全然問題はないようだ。

DVD-RAM はほとんど MO と同じ感覚で使えるので、MO に代わる日常のデータバックアップ用のメディアとして最適である。いままで苦労して MO 何枚にもわけてバックアップしていたものをたった一枚に収めることができるから、バックアップも前ほど面倒でなくなる。ただ、何ギガものデータを一度にバックアップするせいもあるのか、コピーの転送速度はかなり遅く感じられるのが難点だ。

 

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