映画の誘惑

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365日間映画日誌

日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。

2009年1月〜3月

 

2009年3月16日
スティーヴ・マクイーン

『ハンガー』 大阪アジアン映画祭の字幕の仕事がやっと終わった。

KyotoDU というところで、映像と字幕を照らし合わせての最終チェックを行い、それでわたしが担当する部分は終わったのだが、これがなかなかきつかった。午後の2時から始め、気がついたら終わったのは夜の10時過ぎだった。チェックが終わった後で見に行こうと思っていた『チェンジリング』も、結局見そびれてしまった。

さて、時間の余裕もできたことだし、しばらく中断していた日誌を再開するとしよう。 字幕の仕事で忙しかったあいだも、なんだかんだと見てはいたのだけれど、ブランクがあきすぎてしまって何から書いていいかわからない。なので、いちばんマイナーな話題を選んだ(このサイトにはこういう話題がふさわしい)。

今回取り上げる作品は、スティーヴ・マクイーンの Hunger という映画だ。スティーヴ・マクイーンといっても、あの『大脱走』の俳優とはまったく別人である。こちらのマクイーンは、イギリス生まれの映画作家であり、Hunger は、その過激な内容からイギリス本国で物議を醸し、カンヌ映画祭のカメラ・ドールをはじめ、数々の賞を受賞して世界的にも話題になった彼の映画デビュー作なのだ。 二人は名前の綴りもまったく同じなので、まぎらわしい。日本では、世界的に有名な俳優のほうは、「マックィーン」と書くのがふつうだ。区別するためにも、この際、英国の映画作家のほうは「スティーヴ・マクイーン」という表記に統一したらどうだろう、とあらかじめ提起しておく。そのほうがたぶん発音にも忠実なはずだ。(もっとも、映画作家スティーヴ・マクイーンは眼鏡をかけた黒人で、見た目は『ブリッド』の俳優とは似ても似つかない。)

それと、「飢え」というタイトルは、ノルウェーのノーベル賞作家 Knut Hamsun の自伝的小説『飢え』を映画化したヘニング・カールセンの Hunger を、ただちに思い出させもする。実は、「カイエ・デュ・シネマ」の表紙でこのタイトルを最初見たとき、わたしはヘニング・カールセンの映画がリメイクされたのかと思ったのだが、もちろん、こちらもマクイーンの作品とはまったく関係がない。

映画作家としては新人だが、マクイーンはそれ以前にすでに、絵画やヴィデオ・アート作品によって、美術の世界では有名な存在であったようだ(マクイーンは、1999年に、ビデオ・インスタレーション作品によって、イギリスのオスカーとも呼ばれるターナー賞を獲得している)。日本でも、Hunger を見たり、その噂を聞いた人たちがブログに書いた記事などを通じて、マクイーンの名前はすでにささやかれはじめている。とはいえ、今のところ、ほぼ無名に近い存在だといっていいだろう。 わたしは、先ほどいったように、「カイエ」でこの作品の存在を初めて知った。当初は、Amazon.uk でしか DVD が手に入らなかったので、そこで購入して見たのだが、フランスでも、今年、 DVD が発売される予定である(仏版 DVD)。DVD を買った後で、東京国際映画祭で Hunger が上映されたという話を耳にした。それが本当だとしたら、日本の映画ジャーナリズムはどこかに問題があるに違いない。『おくりびと』程度には騒げとは言わないが、もっと話題になっていて当然だと思うからだ。

見るものに爆弾のように強烈な印象を残す映画である。

Hunger が描くのは、北アイルランドのメイズ刑務所に収監されていた IRA 暫定派の活動家ボビー・サンズが、刑務所内での政治犯としての地位を要求し続け、それが拒否されると、66日間にわたるハンガー・ストライキを行ったあげく餓死するという、世界的な話題となった事件だ。日本ではあまり知られていない事件かもしれないが、英国人にとっては、日本人にとっての浅間山荘事件と同じぐらい、社会にインパクトを与えた出来事である。 作品のこうした背景は、冒頭、字幕で簡単に説明される。海外の観客にはたしかに最初は状況がよくわからないだろう。"blanket protest" だの "no wash protest" だのといわれてもピンとこないはずだ。しかし、心配しなくてもいい。見ているうちに状況は徐々に見えてくる。「説明」するのではなく、「存在」を提示するというのが、この映画でのマクイーンの一貫した姿勢だ。それに慣れるまで少し時間はかかるが、それだけに、イメージは生々しい存在感で迫ってくる。

「 わたしは、キャメラが指先であるかのように、視覚器官であると同時に触覚器官でもあるかのように、撮ろうと試みました。」

キャメラは最初の数十分間、ひとりの男を追い続ける。男は、洗面台の冷たい水に両手を浸し、鏡に映った顔をじっと見つめる。食卓で黙って朝食を取り、家の外に出る。家の前の通りに出て、左右を確認する。静かな住宅街には人気がなく、それがなぜか不安感を見るものに抱かせる。男は自宅の前に停めてあった車のそばで不意にしゃがみ、車の下をチェックする。明らかになにかの危険を感じているようであるが、同時に、こうした一連の動作は彼にとってすでに日常となっていることも感じられる。 何も変わったことがないことを確認すると、男は車を発車させる。たぶん職場へと向かうドライブのあいだに、カーラジオから聞こえてくるナレーションが、メイズ刑務所における "dirty protest" について、補足的な説明を与えてくれる。男はとある建物に着き、制服に着替える。楽しそうに談笑する同僚たち。男が洗面所で再び手を水に浸すショット。指の第二関節に、さっきはなかった傷痕があり、洗面台の水がうっすらと赤く染まる。これらの一連のショットにはなんの説明も加えられず、その意味がわかるのはだいぶ後になってからだ。

映画は数分のあいだこの男を画面の中心にとらえ続けるが、男はいつも同僚たちとは距離を置いており、言葉もまったく交わさない。指の傷はなにかの暴力を示唆しているが、彼がその暴力の犠牲者なのか、それとも加害者なのかも定かでない(いずれにせよ、この男がこの映画の主人公なのだろうと、観客はここまで見てきてごく自然に思うはずだ。しかし、そうではなかったことがやがてわかる。その瞬間は衝撃的なのだが、いまは詳しく書かないでおく)。

男は、建物の外に出て、雪のなかでひとりたばこを吸う。同僚たちから離れて黙々と食事を取る男のショットにつづいて、誰もいないトイレの洗面所のショットが映し出され、そこに女性の声で、"There is no such thing as political murder, political bombing or political violence. There is only criminal murder, criminal bombing and criminal violence" と語るナレーションがどこからともなく聞こえてくる。知らない人には、ラジオの女性アナウンサーの声のようにも思えるが、実は、この声は当時の英国の首相マーガレット・サッチャー女史の声なのだ。

このように、音楽は皆無、台詞もほとんどないまま、映画は進んでゆく。視線は自ずとそこにある身体の所作へと集中する。Hunger は優れて身体の映画である。

収容されていた IRA のメンバーたちは、刑務所内での政治犯としての地位を要求して、様々な抵抗を試みた。彼らはまず、刑務所の囚人が着させられる制服を着用することを拒否する。これが "blanket protest" と呼ばれるものである。真っ裸の姿で生活する彼らにとって、身体は唯一の武器となってゆく。彼らは自分の排泄物を壁に塗りたくり、刑務所の廊下に尿を垂れ流す。彼らの抵抗が "dirty protest" と呼ばれるゆえんである。こうした試みは、もちろんこの映画のなかでも描かれているが、やはりほとんどまったく説明を与えられていない。壁に描かれた美しい渦巻き模様と、それを看守が流し落としていくショット、あるいは、濡れた廊下を画面奥から手前のキャメラに向かって看守がゆっくりとモップで拭いてゆく姿をフィックスで捉えた長いショットがあるだけだ。

看守たちによって彼らの身体に加えられる暴力の描写も半端ではない。真っ裸の二人の囚人が、楯と棍棒をもって完全に武装した数十人の看守たちに取り囲まれて滅多打ちにされる場面など、正視しがたいほどである。 そして、その身体に加えられる暴力の極みが、ボビー・サンズによるハンガー・ストライキなのだ。自らによって加えられる暴力、いわば内面化された暴力は、ボビー役を演ずるマイケル・ファスベンダーが、実際に断食を行って作り上げたという、やせ細った身体に痛々しく具現化されている。

この映画に描かれるのは、20年以上前にイギリスでおきた出来事である。しかし、刑務所内の暴力、身体を唯一の武器とする抵抗といった主題は、アブグレイブやグァンタナモ、あるいはイスラムの自爆テロといったアクチュアルな問題とも密接に関わっており、全的な否定を含めた様々な反応を観客に引き起こすだろう。

ここまで書いて、なにか寡黙な映画という印象を与えてしまったかもしれない。たしかに、途中まで映画はほとんど台詞もないまま進行する。しかし、ボビー・サンズがハンガー・ストライキの是非をめぐって神父と議論を交わすシーンでは、20分間にわたって、キャメラは二人の議論をフィックス・ショットで撮りつづける。ここでは、文字通り言葉だけが画面を占めているのだ。

いずれにせよ、観客にとっては、厳しい映画である。しかし、とうてい無視しがたい映画であることは間違いない。

2009年2月16日
ミッチェル・ライゼン、ふたたび

Coffret mitchell leisen : la baronne de minuit ; jeux de mains

去年の秋ごろ、フランスでミッチェル・ライゼンのボックスが出たのを紹介し忘れていたので、ここに書いておく。 収録されているのは Midnight (39, 未) と『春を手さぐる』(Hands across the table, 35) の2作。

ミッチェル・ライゼンはなぜか気になる監督だった。とはいえ、正直、それほど優先順位が高い監督ではない。つい後回しにしてしまいがちなので、今のところ4本ほどしか見ることができていない。 最初に見たのは、キャロル・ロンバートとフレッド・マクマレーが共演した音楽映画『スイング』だった。ライゼンの代表作の一つに数えられる映画だが、ロンバートとマクマレーの演技をのぞけば、さして見どころがある作品とは思わなかった。淀川長治のいうとおりそんなたいした監督でもないのかなというのが、このときの素直な感想である。 (おそらく、日本でソフト化されているミッチェル・ライゼンの作品は、この作品と『100万ドル大放送』だけだろう。どちらもジュネス企画からビデオが出ているだけで、DVD にはなっていない。今は、ビデオショップで見つけるのも難しいだろう。)

次に見た『黄金の耳飾り』については、このブログにも書いたことがあるので、詳しくは書かない。興味深い作品ではあったが、これもいまひとつだった。 やっぱりこの程度の監督なのか。そう思って次に見たのが、『街は春風』(Easy Living) だ。これはプレストン・スタージェスの脚本とあって、さすがにおもしろかった。ただ、レイ・ミランドがコメディの主演というのは、最後までピンとこなかった。37年に撮られたこの作品で印象に残っているのは、金持ちの息子でありながら、家を出てアルバイトしているレイ・ミランドが働いているセルフ・サーヴィスの店だ。格子状のガラスの仕切りを開けて、客が自分で食べ物を取り出すというスタイルのセルフ・サーヴィスが、この時代にもうあったことに驚いた。ふつうの人よりはかなりたくさん古いアメリカ映画を見ているつもりだが、こういう光景を見るのは初めてだった。

「街は春風」という邦題の意味はわたしにはよくわからない。『春を手さぐる』の「春」にたぶんかけたんだろう。もっとも、「春を手さぐる」というタイトルも、原題の Hands にひっかけただけで、たいして内容に合っているようには思えないが、こちらは見ていないので何ともいえない。

登場人物が身分を偽っていることから生まれる喜劇的シチュエーションを描いている点で、『ミッドナイト』は『街は春風』と似ている。成り行きで男爵夫人を名乗ることになってしまったクローデット・コルベール、彼女にぞっこんのタクシー運転手ドン・アメチー、妻に不倫されながらその状況をなぜか楽しんでいるようなジョン・バリモア、それぞれがしかるべき場所に収まっているし、愛人を奪われて嫉妬する人妻メアリー・アスターもなかなかよい。 いままで見たミッチェル・ライゼン作品では、これがわたしの中では圧勝だった。 よくできた脚本だと思ってみていたら、あとで、ビリー・ワイルダーの脚本だとわかった。どうしてわかったかというと、わたしがこのブログにむかし書いた記事にそう書いてあったのだ。自分で書いたことも忘れるとは耄碌したものだ。

脚本といえば、『黄金の耳飾り』の脚本はエイブラハム・ポロンスキーだった。それは前にブログでも書いた。ただ、そのときは意識していなかったが、考えてみると、ミッチェル・ライゼンはひとりでプレストン・スタージェス、ビリー・ワイルダー、エイブラハム・ポロンスキーの脚本を映画化したことになる。そんな監督がほかにいるだろうか。 それだけでもすごいと思うのだが、日本ではミッチェル・ライゼンは一部の映画ファンのあいだでしか名前を知られていないようだ。別にアンケートを採ったわけではないので、その辺の真偽を問われても困るが、Allcinema で『春を手さぐる』『ミッドナイト』『街は春風』『淑女と拳骨』といった彼の代表作を調べても、だれひとりコメントを寄せていないところを見るとどうやらそうらしい。

『ミッドナイト』がリメイクされるかもというニュース(ただし2007年の)が Allcinema で取り上げられているのをさっき発見したが、その後実現したのかどうか。興味がないので調べていない。

『春を手さぐる』と『淑女と拳骨』がパッケージで出たら心を動かされるのだが、なかなかこちらの思ったようにはいかないものだ。

2009年2月3日
アルバート・リューインとマン・レイ

大阪プラネットで上映されるダダについての記録映画の字幕をつくっていて、調べたいことがあったので、20年以上前に読んだマン・レイの自伝『セルフ・ポートレート』(リンクは新装版なので、わたしが読んだ訳とは変わっているかもしれない)をひさしぶりに本棚から引っ張り出して読んだ。 なにげにページをめくっていて、終わり近くでふと手が止まった。

「月と6ペンス」「ドリアン・グレイの肖像」「ベラミ」

という部分が私の目を引いたのだ。 いずれも有名な文学作品だが、これが三つ並べられるとある特別な意味になる。この3作はいずれもアルバート・リューインの監督作品なのだ。もしやと思って、少し先まで読み進むと、エヴァ・ガードナー主演で「さまよえるオランダ人」の伝説を映画化した作品のことが書いてある。間違いない。しかし、肝心の監督名が出てこない。少し手前のところまで戻って、やっと「アル・レーウィン」という名前を見つけた。 アルバート・リューイン=アル・レーウィンというわけか。これなら見落としても仕方がない。そもそもこの本を読んだとき、わたしはこの監督のことをまったく知らなかった。なにげに読み落としたとしても致し方なかっただろう。その頃はもちろん、いまでも、日本ではさして有名な監督とはいえないからだ。結局、しかるべきタイミングがこなければ、人はうまく出会うことができないということだ。(ちなみに、山田宏一は「ルーウィン」という表記を使っている。)

マン・レイのこの自伝を読んだたぶん数年後、わたしはフランスで、レーウィンことリューインの映画を2本見ることになる。『パンドラ』と『ドリアン・グレイの肖像』だ。この監督はすぐにわたしのお気に入りになった。そのことは何年も前にホームページでも書いたので、ここでは繰り返さない。日本に帰ってきて見たジャン・ユスターシュの『ぼくの小さな恋人たち』に『パンドラ』が引用されているのを知って感動したことだけをもう一度書いておく。

わたしにとっては重要な監督のひとりだったのだが、かれとマン・レイとのあいだに交流があったとは、今のいままで知らなかった。『パンドラ』のなかで使われるエヴァ・ガードナーの写真も、実は、マン・レイが撮ったものだったのだ。マン・レイはウォルター・アレンズバーグの家でリューインと出会ったという。アレンズバーグといえば、ニューヨークのダダイストたち、とくにマルセル・デュシャンのパトロンとして著名な人物だ。リューインはそういう場所に出入りしていたのだ。かれの映画にどこかアメリカ映画離れしたところが感じられる理由がこれでわかった気がする。こういうインターナショナルというよりは、コスモポリタンな雰囲気を知っているものだけがもっている洗練とでもいったものがかれの映画にはあるのだ。

と、後付で考えて納得した。

2009年1月28日
ロッセリーニ『ルイ14世による権力の掌握』ほか

「もう私は映画を捨てようと思う。私にとって映画や、芸術一般や現代の知的活動は、みな直接の現象を観察することにとどまっているように思える。私はこうした現象の構成要素にまでさかのぼっていきたい。」

ロベルト・ロッセリーニ

Criterion がまたやってくれた。 ここから発売される DVD にはしばしば驚かされてきたが、今回のは特にすごい。なんと、ロッセリーニが晩年に撮った歴史物のテレビ映画をまとめて DVD にしてしまったのだ。こんな売れそうにないものを出して大丈夫なんだろうか。ここまでくるとちょっと心配になる。

 

Roberto Rossellini: Director's Series

昨年の冬に出た DVD。Criterion ではないが、ロッセリーニつながりでついでに挙げておく。 『ローマで夜だった』と『自由は何処に』(Dove' la liberta..? 未)の2作を収録の模様。

The Taking of Power by Louis XIV

Criterion Collection から。『ルイ14世による権力の掌握』(66、未)は、フランスでは比較的見る機会のある作品だが、日本ではおそらくまだまともなかたちでは紹介されていない。わたしはフランスで最初に見て、その後、仏版 DVD も購入している。仏版 DVD には字幕が入っていないので、英語字幕入りの Criterion 版の登場は朗報だ。 テレビの歴史物といってもNHKの大河ドラマとは似ても似つかないものなので、その辺は覚悟しておいてほしい。この映画に描かれるほとんどすべての出来事は、まるでそこで初めて起きた出来事であるかのようにフィルムに収められている、とセルジュ・ダネーは書いている。「映画という芸術は歴史を再現することにつねに失敗する。だが、映画は過ぎてゆく瞬間 (le moment où ça passe) をとらえることができるのだ。」

Rossellini's History Films: Renaissance and Enlightenment

Criterion の Eclipse Series から。 最晩年に撮られたテレビ向け歴史映画 Blaise Pascal, The Age of the Medici, Cartesius の3作を収録( "Renaissance and Enlightenment" というのは、このパッケージのためにつけられただけのタイトルだと思うが、未確認)。 『ルイ14世による権力の掌握』だけならそれほどでもなかったが、このパッケージにはほんとにびっくりさせられた。こんな地味なテレビ映画をだれが見るんだろうか。ディスク3枚で、収録時間は546分。しんどそうだと思わずに、Criterion を応援するために思い切って買ってしまおう。そこそこの値段はするが、日本の DVD にくらべたら驚くほど安い。

2009年1月22日
Allcinema Online のことなど

情報が不正確なデータベースや、必要な情報の欠けている百科事典ほど役に立たないものはない。 Allcinema Online は、残念ながら、いま日本で唯一使える映画データベースである。残念ながらというのは、間違いが多すぎて、相当注意していないと使い物にならないからだ。そもそも、データベースというのは情報を検索するために使われるものだが、このデータベースは使い勝手が悪すぎる。IMDb のような曖昧検索ができないので、たとえばタイトルをほんの少し間違って入力すると、なにもヒットしない。じゃ、正確に入力しさえすればいいのかというと、そうでもないから困る。この映画データベースは、作品の原題さえ間違っていることが少なくないのだ。

たとえば、エルンスト・ルビッチがドイツで撮ったサイレント映画に 『デセプション』という作品がある。この作品の原題は "Anna Boleyn" であり、国際的にもこのタイトルで紹介されるのが一般的だ。"Deception" というタイトルは、アメリカで公開されたときにつけられたものに過ぎない(ちなみに、Madame DuBarry も、同じようにして、 アメリカでの公開時に "Passion" というタイトルに変えられた)。このタイトルが使われるときも、"Anna Boleyn (aka Deception)" といった具合に、括弧付きで使われることがふつうである。それなのに、Allcinema Online のこの映画の項目には、"Deception" のタイトルしか載っていないのだ。 とりあえず、もっと優秀なスタッフを入れて、こういう不備をできるだけ減らしてほしいものだ。

(それと、これはこのサイトの制作者の責任ではないが、誤字・脱字だらけの役に立たないコメントも読んでいていらいらする。たとえば、最近、ケン・ローチの『ブラック・アジェンダ』という作品を調べていたら、こんなコメントが書いてあった。

「事件の真相を自分の命に代えてでも徹底して追求し続け、刑事としての執念を貫くサリバン刑事に感激していたが、なんだあのラストは・・ 後味悪すぎ。製作者の意図的な終末だとしても酷すぎる。」

「製作者の意図的な終末」? まあ、勘でだいたい意味はわかるけれど、こういう文章を読んでいると気分が悪くなり、それこそ後味が悪い。ちなみに、映画で「製作者」というと、ふつうはプロデューサーのことを指すんだけど、わかっていってるのか。)

しかし、それにしても、このいい加減なアメリカン・タイトルをそのまま使って、Madame DuBarryAnna Boleynを「パッション」と「デセプション」という邦題で公開してしまった人間にも責任をとってほしいものだ。第一、「デセプション」ではなんの映画かわからないではないか。とにもかくにも、ルビッチのこの二本の歴史映画が、このタイトルで損をしていることは間違いない。

つい最近も、スカーレット・ヨハンソン主演の『ブーリン家の姉妹』という作品が公開されたばかりだが、これが『デセプション』と同じ歴史の一幕を描いた映画だということに気づいた人がどれだけいるだろう。たとえば、Wikipedia の「アン・ブーリン」の項目には、この女性を描いた映画作品がいくつかあげられているのだが、ルビッチの『デセプション』のことは一行も言及されていない。(たしかに、「デセプション」ではなんの内容かわからないが、それにしても、この程度のことは調べればすぐにわかる話である。仮にも百科事典と名のつくものが、これぐらいの情報も集められない人間によって執筆されていいものだろうか。)

ついでなので書くが、去年の何月号だったか、「カイエ・デュ・シネマ」 誌に IMDb の創始者のインタビュー記事が載ったことがあった。いまや世界最大といっていい映画データベースの創始者なのだから、IT長者のようなものを思い浮かべてしまうが、写真を見ると、パソコンが数台おかれただけの質素な部屋に住んでいるのに驚いた。壁にヒッチコックの『めまい』のポスターが貼ってあるのを見ると、それこそ「カイエ」などを読んでいるようなシネフィルかと思うが、話を聞くと、ごくごくふつうの映画が好きなごくごくふつうの映画ファンのようだ。 まだ文字データだけをやりとりしていた時代のインターネットで、映画関係のいわゆる「ニュース・グループ」に、仲間同士で好きな女優の映画などをリストアップしたものを投稿していたのが始まりで、それがあれよあれよという間にいまの IMDb のような巨大なデータベースにふくれあがっていったらしい。実は、わたしも、この頃からインターネットに手を染めていて、こういうニュース・グループも時々のぞいていた。ファイルメーカーを使って映画のデータベースをつくったりもしていた。才気さえあれば、自分がこういうものをつくっていたかもしれない(まあ、そんな才気はこれっぽっちもなかったんだけど)。その頃、こういうデータベースがあれば便利なのにと思っていたものに、いまの IMDb はほぼ近づきつつある。

それにくらべると、Allcinema Online は隙だらけである。IMDb には各ページに "Update" ボタンというのがあって、その下に、"You may report errors and omissions on this page to the IMDb database managers. They will be examined and if approved will be included in a future update. Clicking the 'Update' button will take you through a step-by-step process." と書いてあり、誤りを見つけたときは簡単に報告できるようになっている。Allcinema にもメールを送るボタンはあるが、データベースの内容について特化されたものではない。何度かそれを使って誤りを指摘したことがあるが、返事が来るわけではないから、修正されたかどうかは自分で確認しないとわからない。ここのスタッフはひょっとするとプライドの高い人間なのだろうか。情報には誤りがつきものだということをあらかじめ想定さえしていないのかもしれない。べつにそれでもいいのだが、それならそれで、突っ込みようのない完璧なものを目指してほしいものだ。

2009年1月18日
ヨリス・イヴェンスの DVD

Joris ivens, vol. 1 - 1 et 2, Joris ivens, vol. 2 - 3 a 5

ヨリス・イヴェンスの DVD がフランスで発売。二枚組の二巻セットの模様だが、詳細は不明。 フラーの『映画は戦場だ』を訳している吉村和明が「途方もなく感動的」と書いていた『スペインの大地』の米版 DVD が、いつのまにか中古でしか手に入らなくなってしまったので、それもはいっているとありがたい。中国を描いた遺作『風の物語』もそろそろ見直したいところだ。

2009年1月5日
『ラオ博士の7つの顔』

- Are you an acrobat?
- Only philosophically.

Seven Faces of Dr. Lao

 

お正月にこれを読んでいるひとはそういないだろう。あまり興味を引きそうにない映画をあえて取り上げることにした。といっても、つまらない映画ではない。ジョージ・パルの『ラオ博士の7つの顔』は、サーカス文学のベスト3にも数えられるチャールズ・G・フィニーの原作を、『宇宙戦争』のジョージ・パルが映画化したユニークな作品だ。少し前にゴーゴンの話をしたとき、ゴーゴンが印象的な登場の仕方をするこの映画のことをすっかり忘れていた。主役でこそないが、この映画のゴーゴンも忘れがたいのだ。

荒野の真ん中にぽつんとある町。そこに鉄道が通ることを秘かに知って、ならず者たちを使って土地を買収しようと企む町の大立て者……。道具立てはほとんどすべて西部劇のそれといっていい。ただし、地平線の向こうからやってくるのは、凄腕のガンマンでも、残忍な殺し屋でもなくて、不思議なパワーをもつ謎の中国人である。町に着くなり、かれはサーカスの広告を出し、町はずれにサーカス小屋を建てる。そこで繰り広げられるまか不思議な出し物が、町の人びとを感化し、かれらの考えを変えてゆく。

その出し物のひとつに、本物のゴーゴンが登場するのだ。怪物の造形は『妖女ゴーゴン』のそれよりもこちらのほうがはるかに出来がよい。鏡に映った姿だけを見せるというアイデアも秀逸なのだが、そのあとの場面ではふつうにサーカスの舞台の真ん中を堂々と歩いていたりするのが笑える。

原作の小説にくらべると、映画のほうはよりストーリー性をもたせてあり、だいぶテイストの異なる仕上がりになっている。脚本にはもう一工夫ほしいところだし、キャストもはっきりいって貧弱だ。しかし実にユニークな作品であるのはたしかである。 サーカスと言えば、チャップリンやボリス・バルネット、フェリーニの作品などなどが次々と思い浮かぶ。この映画が「サーカス映画」のベスト3に入るのは難しいだろう。しかし、この西部劇とファンタジーとアジア趣味の融合は、今も映画史上ユニークな存在であり続けている。 アメリカでの興行成績はふるわなかったというが、Amazon.com の DVD のページに寄せられたコメントの数を見ると、今やカルト作品になっているといっても過言ではないだろう。 ティム・バートンにぜひともリメイクしてもらいたい作品である。

 

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