日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■3月31日 (日)
日影丈吉の「飾燈」は主人公が少年時代にまだ物珍しかった映画小屋にはじめて行ったときに偶然関わったある事件の真相が、何十年もたった今偶然に明かされるという話。冒頭、ファンタスマゴリーや影絵などといった見世物の説明に始まり、それが映画へと発展していった様が語られる部分が結構面白い。ただ、谷崎の映画ものと違って、ここでは映画はたんなる背景としてあるだけで、事件と映画が本質的に結びついていないところが不満と言えば不満だ。結末は相変わらず、なーんだという感じのあっけないものである。
■3月27日 (水)
日影丈吉は大したことないかと思っていたが、『日影丈吉選集 I かむなぎうた』に収められている表題作「かむなぎうた」はなかなかの傑作だった。幼年期の失われた母の記憶、仲間のなかで一人だけ優越しどこか悪魔的な部分を持った子供、倒錯的な性欲の暗示、不気味な巫女、殺人(の幻想)。谷崎の初期の短編を思わせる耽美的な作品だ。
■3月26日 (火)
『素敵な歌と船はゆく』(オタール・イオセリアーニ監督)。ここには、見慣れていると同時に初めて見るパリの姿が描かれている。異邦人のみが見ることのできる、あるいは創造することのできるパリ。普通のような普通でないような人たちがすれ違い、音楽を奏で、別れてゆく。まるで物語のないおとぎ話を見ているような、連続する幕間劇を見ているような、そんな不思議な味わいの映画だ。女房に尻に敷かれ、楽しみといっては酒を飲み、クレー射撃をし、女中に手を出すことぐらいしかない父親の役をイオセリアーニ自身がまるでジャック・タチのように、あるいはミッシェル・シモンのように演じている。
■3月25日 (月)
『昼下がりの情事』はパリのヴァンドーム広場の塔の上から探偵のモーリス・シュヴァリエが向かいのリッツホテルで人妻と密会をしているクーパーを写真に収める場面から始まる。前にも見ている映画なのにこの場面は忘れていた。この塔は『マルドロールの歌』のあるエピソードでも大活躍する建物なのだが、するとあの塔は登れるようになっていたわけだ。もちろん、こういう塔はたいてい登れるようになっているのだろうが、あの探偵のように関係のない人間が登っていいものなのだろうか。それを確かめてみたいと思っただけでも、またパリに行きたくなってくる。
■3月22日 (金)
松浦寿輝が面白いと言っていたので、日影丈吉の短編を今読んでいるのだけれど、そんな大したものでもないなというのが正直な感想。今読んでるのは『恐怖博物誌』(出版芸術社)という短編集に収められた動物奇譚とでもいった作品群。物語はいつもおどろおどろしく始まるのだけれど、結局最後は科学的に説明されて終わるので、なんだかがっかりさせられるのが多い。まだぜんぶ読んでいないが、今のところは、方位をテーマにした「鵺の来歴」がいちばん興味深く読めた。言葉づかいに妙に土着的なものを感じたので地方の人かと思ったが、出身は東京らしい。ただ、作家のなかには短編を得意とする人と長編を得意とする人がいるので、長編の代表作『内部の真実』を読むまでは、この作家についての判断は保留しておきたい。
■3月21日 (木)
『血文字屋敷』(工藤栄一 監督)。テレビのカット版。大友柳太朗が町人の金持ちの娘と結婚したために、彼の恋敵であった番士組頭ら17の陰湿ないじめを受け、最初は耐えているのだがついにキレてしまい、そのひとりひとりを闇討ちして首を奪ってゆくという復讐劇。大友柳太朗はその復讐者と、彼を手助けする瓜二つの顔をした浪人の二役を演じている(調べてみないとわからないが、日本映画は外国映画に較べて一人二役を使う場合が多いのではないだろうか)。この一人二役の意図はいまいちわからないのだが、一人で相手にするには17人と数が多すぎるので、分身のようなもうひとりの人物をもうけたということかもしれないが、ふたりのキャラクターは正反対で、浪人ものの能天気な明るさが復讐劇のシリアスさに水を差している気がしないでもない。大岡越前だけでなく、十手取りまでがふたりに味方するというのがちょっと面白いところだ。最後はわざと本物と偽物を間違えたりして泣かせる終わりかたにもってゆく。結局ふたりとも無罪放免に終わるというのはどうかとも思うが、まあ面白かった。
■3月16日 (土)
『Dr.Tと女たち』(ロバート・アルトマン監督)。不気味なほど評判が聞こえてこなかったので、ひそかに期待しながら見に行ったのだが、悪くなかった。オープニング早々から画面のあちこちで登場人物たちは同時にしゃべりはじめ、キャメラはせわしなくパンニングを繰り返す。しかも出ているのはすべて女。このまま女だけしか登場しないのかとも思ったが、さすがにそこまではやっていない。いつものように中心を欠いた不遜な映画作り。この映画、女好きの映画なのか、女嫌いの映画なのか。リチャード・ギアの産婦人科も、彼の家庭も、最終的には見事に崩壊する。それは女の力によって自壊したのか、それとも男に問題があったのか。いずれにせよ、女たちの前では男たちは徹底的に影の薄い存在として描かれている。
■3月13日 (水)
『ハスラー2』(マーティン・スコセッシ監督)。ポール・ニューマンとトム・クルーズのあいだの疑似親子関係。演技すること。ゲームに勝つことと勝負に勝つこと。ニューマンはクルーズにあえてゲームに負けることで勝負に勝つこと(金を儲けること)を教えるが、クルーズはゲームに勝つことに執着する。最後にふたりの関係は逆転し、アトランティック・シティでの大会で、クルーズはニューマンにわざと負けることで勝負に勝つ。しかし、ニューマンの方が今度はゲームに勝つことに執着する。「疾風のエディの復活だ!」 金儲け主義と芸術的完成度の追求。ここに映画のメタファーを読みとるのは深読みだろうか?
『デリンジャー』(ジョン・ミリアス監督)。ニューディール政策のころの不況の時代を描いたいかにも70年代的な犯罪映画。デリンジャーは Biograph Theatre から出てきたところをベン・ジョンソンに射殺される(ベン・ジョンソンは、ギャングの一味がひとり死ぬたびに殺された同僚の形見の葉巻に火をつける。最後はその葉巻に火をつけるのがデリンジャー狙撃の合図になる)。そのとき彼が見ていた映画はクラーク・ゲーブル主演の『男の世界』。ベイビー・フェイス・ネルソン役でリチャード・ドレファスが出ているのも注目だ。
■3月8日 (金)
『あなた買います』(小林正樹 監督)。これも読売の野球映画特集。当時ベストセラーになった小野稔の同盟小説の映画化。プロ野球の選手獲得をめぐってのどろどろとしたスカウト合戦を描く。大物高校生打者(大木実)を獲得しようとして球団のスカウトマンたちが、札びらを切り根回しをし、互いに駆け引きを繰りひろげる。その高校生にヒモのようにくっついて、のらりくらりと応対しながら契約金をどんどんとつり上げてゆく男を演じる伊藤雄之助がいい。スカウトマンのひとりである主演の佐田啓二も最初は非常な「人買い」として登場するが、さすがに最後は仕事を忘れて人間らしい側面を見せる(残るふたりのスカウトマンを三井弘次と山茶花究が演じている)。金と欲望に薄汚れた大人たちの世界にとまどう無垢な存在に思われた高校生が、彼らに利用されていると見せかけて実は彼らを利用していた最大のワルだったことが最後にわかる。金に目がくらんだ高校生の家族の描写とか、ちょっと紋切り型の描写も目立つが、なかなか面白い映画だった。
■3月7日 (木)
今、読売テレビの深夜放送で野球をテーマにした日本映画の特集を毎週やっているのだが、これが結構面白い。丸山誠二の『男ありて』は志村喬演ずるプロ野球の監督を主人公に、野球がすべてで家族のことをほとんど顧みない彼と家族とのすれ違いを描いた映画。かつてハリウッドで撮られた『打撃王』や『甦る熱球』といった映画とくらべても遜色がない出来。この映画では、野球の試合自体はほとんど描かれない。1年間を通じてチームがリーグの最下位から脱出できるかどうかが問題となっている。もっとも野球の映画と言うよりも、夫婦愛を描いた映画としての印象の方が強い。志村喬は、試合中にエキサイトしすぎて退場になり1ヶ月間出場停止になったことで、初めて家族と親密な時を過ごすことになる。夫婦は結婚後初めてふたりで出かけ、少女歌劇(宝塚)を見た後でたこ焼きを食べる。そんなささやかなことに幸福を覚える妻。今までのことを反省してわびる志村。そこへ出場停止が解かれたというニュースが届いたとたん、志村はあたふたと勘定を済ませ、夜行で遠征地へと出発する。この辺のキャラクターの描き方というか、それを演じる志村喬がいい。その同じ晩に妻は倒れて亡くなるのだが、その後も志村は涙さえ見せず、野球のことしか頭にないように見える。葬式の日にもシーズン最後の大事な試合があるといって彼はそそくさとそこを後にする。その試合で彼は監督であるにもかかわらず自らマスクをかぶりキャッチャーとして試合に出場する。そして素晴らしいプレーを見せて勝利を収め、クビにするぞと脅していたオーナーから来年も契約してほしいと頼まれたにもかかわらず、「妻が死んだときに決めていた」と言って辞表を提出する。そして妻の墓前にいって初めて涙を見せるのだ。なかなか泣かせる映画である。
■3月5日 (月)
『カタクリ家の幸福』(三池崇史 監督)をシネ・リーブル梅田で見る。三池崇史はやっぱりよくわからない。宇宙人が撮ったような映画だ。でも、意外と面白かった。『ハリーの災難』のミュージカル版といったところか。
衛星でヴァデムの『戦士の休息』を見た。つまらない映画で、あまりまじめに見ていなかったが、最後にでてくる教会の廃墟はたぶん『ノスタルジア』にでてくる廃墟と同じものだろう。とするとあれはフィレンツェだったのか。
△上に戻る
■2月21日
『GO』を京都みなみ館で見る。去年非常に評判になった映画だが、はっきり言って大したことはなかった。ワイプとか、スローモーションとか、コマ落しなどといった映像処理についても、物語そのものについても、よく言えば一般受けする、悪くいえば非常に通俗的な作られ方をしており、まあ、飽きずに最後まで見ることができるという点では面白いと言ってもいいかもしれないが、「在日」という今日的な問題が盛り込まれているし、それをそれなにに面白く見せているというだけのことで、これを高く評価するというのは全然わからない。第一なぜこういうテーマを描きながらほとんどの役を日本人、しかも有名どころの俳優ばかりに演じさせているのか? ドキュメンタリーではないから別に全員本物の「在日」を使えとは言わないが、このキャスティングはたんに「売れる」顔を並べたとしか思えない。主人公がつきあっている少女に自分が「在日」であることをうち明けたとたん、彼女は彼を拒絶するのだが、半年ほどたったクリスマスの夜に彼女は彼をふたりが最初に出会った校庭に呼び出し、やっと彼のことが理解できたと言って彼を受け入れ、ふたりが抱き合ったところで雪が降ってくるというラストは、あまりといえばあまりだろう。なにも暗ければいいとはいわないが、これではちょっと楽天的すぎるのではないか。
■2月16日
『地獄の黙示録 完全版』、『殺し屋1』 。三池崇史は相変わらずよくわからない。手足がちぎれたり内蔵が飛び出たりと、グロテスクなシーンの連続だが、ここまでやっていると現実感がほとんどなく笑うしかない(ただ、あまり笑えないんだなぁ、これが)。
『ポイント・ブランク 殺しの分け前』、『事件を追え』、『ネネットとボニ』、『現金に体を張れ』など。感想を書く暇がないのでまたあとで。
■2月11日
『ラスト・エンペラー』をベルトルッチが撮影していたのと同時期の中国にヨリス・イヴェンスがいたというのはなにか嬉しい偶然だ。
『リリー・マルレーン』にダニエル・シュミットが出演していたことは今回テレビで見直してみて初めて気づいた。ファスビンダーの最良の映画とは言い難いが、 ファシズムの時代に「普通に」生きることがそれだけでひとつの犯罪行為であることをこの映画は描いているように思える。
『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ)。ここでは街路さえもが室内のように描かれる。
■2月10日
『ラブ・ゴー・ゴー』 4人の男女のあまり幸福とは言えない恋愛模様をコミカルにモザイク状に描く。パン焼き職人、そのパン屋に居候しているらしき娘、そのパン屋にやってくる内気な護身グッズのセールスマン、そのパン屋でいつもレモンパイを買う美女。緩やかなつながりを持つこの4人のエピソードが順に描かれる。『豚が井戸に落ちた日』や『退屈なオリーブたち』、あるいはツァイ・ミン・リャンの映画など、都会の孤独な男女を別々のエピソードでモザイク状に描く映画がどうやらアジアで流行っているらしい。あるいはタランティーノの影響だろうか。ただ、この『ラブ・ゴー・ゴー』の場合、4人の人物のあいだにそれほどの断絶感がなく、タッチもユーモラスで、いかにも楽天的な印象を与える映画になっている。
『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(ポール・オースター)。ポール・オースターという作家は世間でいわれているほどたいした作家だとは思えないのだが、映画監督としてはそれに輪をかけて才能はないらしい。『パンドラの箱』をリメイクする話(監督がバネッサ・レッドグレイブ!)が物語の重要な部分を占めているのだが、そもそもルル役を演じるヒロインがだめなのが致命的だ。物語は荒唐無稽で、一貫性がなく、しかも夢オチという最悪の幕切れ。ただし、ウィレム・デフォーは相変わらず素晴らしい。
■2月8日
『スライディング・ドア』(ピーター・ホーウィット)。ヒロインが地下鉄に乗り遅れるか乗り遅れないかの二つの物語が同時進行で描かれてゆく。 面白そうに見えるが、結局1本の映画のなかにつまらない映画が2本入っているというだけのことだった。 レネの『スモーキング』『ノー・スモーキング』とは似て非なるものだ。
△上に戻る
■1月28日
ジャン・ルノワール『河』。片脚を戦争でなくした英国人大尉と3人の娘たちの恋の鞘当てがあって、4人が森に入っていくところで、「気がつくといつの間にか少女時代を通り抜けていた」というナレーション(いちばん子供っぽい、作家志望の娘のナレーションで映画は物語られてゆく)が入り、ヴァレリーと大尉のキスでそのシーンはクライマックスに達するのだが、そのキスのあとでヴァレリーが涙して言う台詞。「あなたが去っていくのが悲しいのではなく、物事が去っていく(it's going)のが悲しいの。あなたがいて、私がいて・・・」 これ以外にも、この映画にはすばらしい台詞がいっぱい詰まっている。
■1月27日
クリストファー・ノーランの『フォロウィング』をシネ・リーブル梅田で見る。珍しく人と一緒に見に行ったので、冒頭の5分か10分ほどを見逃してしまった。これだから映画はひとりで見るに限る。さて『フォロウィング』はロンドンを舞台にモノクロで撮られた『メメント』の習作といった作品で、観客を巧みにミスリーディングしつつも筋の流れを見失わせない巧妙な演出はこの作品ですでに確立してたようだ。ホップ、ステップという感じできているので、今度の『インソムニア』では大きくジャンプしてほしいものだ。
■1月26日
長谷川和彦『太陽を盗んだ男』。久しぶりにテレビで見直したが、そこそこに面白かった。冒頭の皇居前でのバスジャックのエピソードはすっかり忘れていた。それともちゃんと見るのはこれが初めてだったのだろうか。最後、ビルの屋上で沢田研次と菅原文太が対峙するところが結構好きだ。あのまま向き合っているところで終わっても良かったのではないか? ところで原爆をネタに沢田研次は、テレビの野球中継(巨人ー広島戦)を延長させ、その直後に王貞治がホームランを打って逆転勝ちをするのだが、あのとき投げていたピッチャーは江夏だろうか。90番時代の長嶋が監督をしているゲームだった。
■1月23日
沢島忠『森の石松鬼より恐い』。現代劇で始まって時代劇へ移行するという、当時流行ったスタイルで作られている映画。胡蝶の夢ふうの構成になっているところがちょっと変わっているところか。錦之助の現代劇というのは初めて見た。ソフト帽をかぶった錦之助というのも悪くない。もっと見たかった気がする。錦之助の口から「ヌーヴェルヴァーグか・・・[青春]残酷物語だな」などという台詞が言われるのを耳にするのはおかしい。
■1月22日
フレッド・スケピシ『私に近い6人の他人』。フレッド・スケピシはそこそこの才能の持ち主なのだが、結局それ以上でも以下でもない。とはいえ、この映画にはウィル・スミス演じる魅力的な詐欺師がでてくる。詐欺師というのはつねに魅力的だ(とりわけ、メルヴィルの『詐欺師』)。この詐欺師とドナルド・サザーランド夫婦の間に疑似家族的な関係が生じ、そして消え去るというのが物語の骨子だ。彼は、ジョン・レノンを撃った男も、レーガン大統領を狙撃した男も、同じように『ライ麦畑でつかまえて』の愛読者だったという話を彼らにするのだが、このエピソードは『陰謀のセオリー』でも重要な役目を果たしていた。冷戦時代に無意識の暗殺装置に仕立て上げられた男が、部屋に何十冊もの『ライ麦畑でつかまえて』を買い込んでいる場面がでてくるのだ。タイトルは、「この地球上ではだれでも6人の『知り合いの知り合い』を介してつながっている」という意味。
■1月17日
斉藤久志『フレンチ・ドレッシング』をテレビで見る。昔よく似た名前の監督が日活ロマンポルノにいたような気がして、それと混同しながら見たのだが、どうやら全然別人みたいだ。(あれは斎藤水丸だっけ? 『女子大生寮VS女子看護婦寮』を撮った監督なんだけど。)ともかく、この斉藤久志はPFF出身の監督らしい。PFF出身といえばろくなものはいないという感じなのだが、この男はなかなか才能がありそうだ。『フレンチ・ドレッシング』の原作は「やまだないと」のコミック(ところで「やまだないと」ってだれだ?)。最近の日本映画はルーズな長回しを使ったものが多い。相米慎二の長回しのような緊張感がこれっぽっちもない、ただ長く回しているだけというものだ。けれども、この監督の長回しには、アクションの「間」の取り方や、俳優の演技のさせ方に確かな演出力が感じられる。
■1月13日
『シティ・オブ・エンジェル』をテレビで見る。『ベルリン天使の詩』のハリウッド版リメイク。 壁崩壊直前のベルリンという時間と場所をなくした物語には、歴史性が完全に欠けていた。
ストローブ=ユイレの『シチリア』を見てシチリアに行きたいと思う人間はあまりいないだろう。『グレート・ブルー』や『明日を夢見て』を見てそう思う人間は多いだろう。結局、通俗はつねに勝利するということだ。
■1月12日
スティーブン・フリアーズの『グリフターズ』をテレビで見る。フリアーズの映画はいまいち乗りきれないものが多いのだが、これはぼくの見るところ彼の最高傑作の一本である。 しがない3人の詐欺師たちが破滅していく様を冷めた眼で描いた映画だ。3人を演じるのは、アンジェリカ・ヒューストン、ジョン・キューザック、アネット・ベニング。さすがに原作を書いているのがジム・トンプスン(『ゲッタウェイ』、『現金に体を張れ』、『突撃』)だけのことはある。面白いのは3人の詐欺師の関係だ。アネット・ベニングがジョン・キューザックの愛人で、自分の欲望をコントロールできず、ほかの二人を巻き込んで破滅へと誘うのはこの女だ。アンジェリカ・ヒューストンは競馬の飲み屋をやっていて、ボスの目を盗んで大金を車のトランクにため込んでいる。ジョン・キューザックは彼女を自分の母親だというのだが、二人はとても親子とは思えない。アンジェリカは彼の本当の母親なのか、それともかつて関係のあった女なのか。この曖昧な関係が物語に緊張感を与える。どうやら、二人は本当の親子であるらしいのだが、14歳という若さで産んだ子供ゆえに、二人の年は親子にしてはわずかしか離れていない。この二人のあいだの近親相姦にも似た愛憎のもつれが、平凡な物語に特異な雰囲気をもたらしている。ジョンの母親に対する無意識の欲望を見破ったアネットが嫉妬に駆られ、アンジェリカのボスにトランクに彼女が隠している金のことを密告するところから、映画は急速にカタストローフへと向かう。言ってみれば、フィルム・ノワール版『フェードル』といったところか。
■1月8日
今日は、『鬼畜大宴会』の熊切和嘉の『空の穴』のことを書くつもりだったが、あまりにもくだらなかったので話す気にもならない。『鬼畜大宴会』もそんなに評価していたわけではないのだが、少なくともそこにはパロディのかたちで批評らしきものがあったし、よくわからないパワーも感じた。それが2作目にしてこのふぬけぶりはいったいどうしたことか。エロとグロがなくなると同時に、批評性も消えうせたということか。そもそも、北海道を舞台にしていることの意味がまるで見あたらない(たとえば、同じ北海道を舞台にした相米慎二の『風花』と比較してみれば、この映画の弛緩ぶりは明らかだ)。わざわざ自衛隊の演習場の近くに物語の中心となるレストランを設定しながら、それがまったくなんの機能も果たしていない。テロやアフガン情勢で世界が緊張しているこの時期に、オコチャマじみた「恋愛」に興じる二人が8ミリで零戦の映像を見る? しかも無意味に? ばかばかしいというか無性に腹が立つ。最近の若手監督が撮った日本映画はどれもこれもせせこましくて、ちまちまとした自愛的、自閉的世界に自足していて、まったくうんざりさせられる。そういえば、このとき見た予告編で、『世界の終わりという名前の雑貨店』とかいう日本映画の紹介をしていたが、こんなタイトルつけて恥ずかしくないんだろうか。
最近テレビで見た映画で面白かったものをメモっておく。『或る夜の殿様』(衣笠禎之助)、『陰謀のセオリー』(R・ドナー)、『MONDO〈モンド〉』(トニー・ガトリフ)、『渡世人列伝』、『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン)、『コンタクト』(ロバート・ゼメキス)。このなかでは、『ブギーナイツ』と『コンタクト』が出色だった。コメントは、暇になったときにでも書くとしよう。
■1月4日
『アンナ』(ピエール・コラルニック)。MTVにどうでもいいお話がくっついているだけの映画。変な黒めがねをかけたアンナ・カリーナがひたすらアホっぽい役を演じ、ジャン=クロード・ブリアリ演じる伊達男が(ブリアリが伊達男以外を演じたことがあったろうか?)彼女に一目惚れするという話。もっとほかに公開する映画はあるだろうに・・・。まあ、カリーナの歌声に魅力があるのは認めるけど。
ちょっと前に見た岡本喜八の『侍』という時代劇は、万延元年(1860)という時代を描いた映画だ。大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読んだとき、万延元年というのがどういう時代なのかよくわからなかったが、この映画で具体的なイメージを持つことができた。あれってこんな時代だったんだ。
△上に戻る