日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
訳あってしばらくなにも書く気にならなかった。今もそうなのだが、だいぶブランクがあいてしまったので、下書き保存しておいた記事を適当に仕上げてアップしておく。
☆ ☆ ☆
映画をテーマにした映画、というよりも撮影所を舞台にした映画は少なくない。その中から、これといった3作品を紹介する。
■ルキノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ』
いきなり有名な映画で申し訳ないが、一言いっておきたかった。 世界でもっとも美しい泣き顔が見られる映画である。アンナ・マニャーニ演じる、幼い娘を映画女優にする夢にとりつかれ、大声でわめきながら撮影所のなかを奔走する母親は、今ならば、モンスター・ペアレントといわれてもおかしくない存在だろう。たしかに、「聖なる怪物」という意味でなら、彼女はモンスターだった。野外劇場でホークスの『赤い河』を見て涙を流さんばかりに感動した直後に、大口を開けてあくびをする。これこそアンナ・マニャーニだ。彼女が女優なら、今世界にどれだけ「女優」と呼べる存在がいるだろうか。娘さんを女優にしてあげるよといって近づいてくる怪しげなものたちの言葉に一喜一憂するマニャーニを見ていると、娘ではなくあんたの方こそ女優だよといってやりたくなる。 撮影所の深い部分にまで入り込んでその現実を目の当たりにした彼女は、映画の世界に幻滅し、娘を女優にする夢もきっぱりあきらめるのだが、皮肉にも、その直後に、撮影所から多額の契約金で娘を女優に採用する話が持ちかけられるのだ。母マナニャーニは、撮影所の連中を追い返し、これでいいのだといって夫とベッドで抱き合う。だが、その瞬間、野外劇場から聞こえてくる「ブート・ランカスター」の声に、うっとりとしてしまうのだ。
■マルセル・パニョール『Le schpountz』
映画をテーマにしたおとぎ話のような映画であり、また、パニョールによるコメディ映画宣言とも受け取れる映画である。
映画俳優にあこがれ、機会さえあればそうなるものと無根拠に確信している田舎青年(フェルナンデル)の住む町に、都会から映画のロケハンがやってくる。絶好の機会だと、彼らに演技を披露するフェルナンデルを、内心滑稽だと思いつつも、彼らは絶賛し、俳優として契約を交わす。無論からかっただけなのだが、フェルナンデルはその気になり、親が止めるのも聞かずパリに出て俳優になることを決意する。しかし、撮影所に来ても、誰も取り合ってくれない。ここまで来ても、まだからかわれていたことに気づかないフェルナンデルが笑いを誘う。実をいうと、私はフェルナンデルという俳優にはほとんど興味がなかったのだが、この映画を見て初めてすばらしいと思った。
契約が嘘だったことにようやく気づいたフェルナンデルは、今さら実家に帰ることもできず、撮影所で雑用係の仕事をすることになる。パニョールによって、ときに残酷にときに滑稽に描き出される映画というちっぽけな世界が、この映画の魅力の一つだ。
タイトルの "schpountz"(シュプンツ)というのは、「自分を映画スターと思い込んでいる人物」のことだそうだ(手元の辞書には出てこないので、どれほど浸透している言葉なのかはわからない)。フェルナンデル演じるシュプンツは本格俳優を目指していたのだが、喜劇俳優としての才能が上層部に注目されて、あれよあれよという間に一流の喜劇スターへと上り詰めてゆく……。
喜劇という軽んじられることの多いジャンルに対するパニョールの自負と愛情が見事に伝わってくる傑作だ。
■ジェリー・ルイス『底抜け便利屋小僧』The Errand Boy
パラマウントならぬパラミューチュアル撮影所(見た目はパラマウントにそっくりなのだが)の重役たちが、撮影所の無駄遣いを内部調査するために、誰からも怪しまれない間抜け(ジェリー・ルイス)をスパイとして送り込む。無論、調査どころか、ルイスは行く先々で混乱を引き起こすだけだ。『Le Schpountz』 同様、ルイスも、結局は、その喜劇的才能がたまたま重役の目にとまり、たちまち大スターとなる。 話はほとんど似ていないのだが、この2作は不思議と似通っている。ラストのくだりは、ルイスのコメディ映画宣言と考えてもいいだろう。『底抜けもててもてて』や『底抜けいいカモ』といった作品にくらべると、独創性は低い作品かもしれない。しかし、ストーリーは二の次にして、モザイクのように挿入されていくギャグの連続は、ルイスの映画固有のものだ(とりわけ、マリオネットと孤独に対話する幻想的なシーン)。
私が映画館のオーナーなら、『Le Schpountz』『底抜け便利屋小僧』と、プレストン・スタージェスの『サリヴァンの旅』の3本立てを上映してみたいものだ(まあ、客は入らないだろうが)。
林道を歩く団体旅行客をトラックバックで撮ったファースト・シーンから、何か新鮮きわまりない風が吹いている。キャメラの位置はこんなに遠くでいいんだろうか。どことなく素人っぽいといえなくもない画面の連続に、初めて見るような感覚に襲われる。この映画を見るのは今度が初めてなので、当たり前といえば当たり前なのだが、そういうことではない。清水宏の映画を見ていると、今まで自分が映画など見たことなかったかのような気になることがあるということだ。 長年映画を見ているうちに、今見ている映画を過去の映画と照らし合わせて類型化してしまう癖が付いてしまっている。この話は次にこう展開するぞとか、このショットの次はこういうショットが続くぞとか、なんとなく予想がつき、それが外れた場合でも、ああ、こっちの方だったかと、結局は予定調和なところに落ち着く。しかし、清水宏の映画の場合は、なにが特に変わっているわけではないのに、どうも枠にはまらないというか、勝手にこちらが思い描いていたイメージをするするとすり抜けてしまう。 この映画も、「簪」というタイトルから想像していたものと違って、最初から笑いの絶えない楽しい作品で、イメージを裏切られる(まあ、勝手なイメージだが)。
映画の舞台となるのは、東京から離れた田舎の温泉宿。そこでたまたま部屋を隣り合わせた客たちの交流を、映画はユーモラスに描いてゆく。斉藤達雄、笠智衆、坂本武といった小津組の面々を中心に、マドンナ的な存在で田中絹代が加わった豪華な俳優陣だ。「先生」と呼ばれて、何かと持って回った言い回しで相手を困らせる斉藤達雄が、とりわけ見ていておかしい。台詞のユーモアは原作の井伏鱒二のものかもしれないが、日守新一などとの絡みで見せる「間」が最高だ。
『按摩と女』は歩くというアクションを魅力的に見せる映画だった。『簪』では笠智衆が足をけがして歩けなくなることで、歩く行為がなおさら強調される(彼は田中絹代が風呂場に落とした簪を踏んでけがするわけで、それがタイトルの由来にもなっている)。笠智衆は、清水映画の代名詞といってもいい子供たち二人と歩行訓練をつづけ、そこに田中絹代も参加し、二人のあいだに淡いロマンスのようなものが生まれそうになる。笠智衆は徐々に歩行距離を伸ばしてゆき、ついには、浅瀬に渡したジグザグの足場を一人でほぼ渡りきるまでに至る。その直後に、同じ足場を二人の按摩が歩いていくのを、子供たちがお節介に応援するのがほほえましい。清水宏とキアロスタミの共通点は多いが、ジグザグ道も加えておこうかという気になる。
やがて夏も終わりに近づくと、客たちはあっさりと宿を引き払ってゆく。笠智衆は、最後に、長い石段を子供たちに励まされながら登るのだが、それを登り切ったところで田中絹代とのあいだに生まれかけたあるかなきかのロマンスも終わってしまう。愉快な映画だが、そこに漂う詩情は曰く言い難い。さらには、この作品が戦時中に撮られたことを考えると、ここに流れる至福の時間にも、禁じられた遊びめいた暗い影がさす。陰影の深い映画だ。
ウェルマンが30年代に撮った作品が見たいと前に書いたと思うのだが、意外と早く DVD化されてしまった。"Forbidden Hollywood Collection, Volume Three" という DVD-BOX で、なかに収められている6作品はすべてウェルマンが30年代に撮ったものだ。事実上のウェルマンBOX である。そういうタイトルにした方がわかりやすいと思うのだが、それでは売れないということか。ともかく、見られるようになったのはうれしい。
Forbidden Hollywood Collection, Volume Three
(Other Men's Women / The Purchase Price / Frisco Jenny / Midnight Mary / Heroes for Sale / Wild Boys of the Road) (2009)
■The John Wayne Adventure Collection
(The High and the Mighty / In Harm’s Way / Island in the Sky / Hatari! / Donovan’s Reef) (1954)
ウィリアム・A・ウェルマンの『男の叫び』(Island in the sky) は、地図にないカナダの雪原で行方不明になった飛行機の乗組員たちの生き残りをかけた闘いと、彼らを必死になって捜索する仲間のパイロットたちを描いた、ウェルマンお得意の航空映画の佳作だ。第二次大戦直後ということで、GPS はもちろんレーダーさえなく、捜索は無線だけを頼りにつづけられる。その無線さえもやがてバッテリーが切れて使えなくなるとう絶望的状況が描かれるのだが、派手な演出があるわけでもなく、『飛べ!フェニックス』のような特異な人間ドラマが展開するわけでもない。地味な印象を与える映画には違いないだろう。事実、この直後に同じウェルマンによって撮られたシネマスコープ初のカラー航空映画『紅の翼』(The High and the Mighty)の評判の陰に隠れてなかば忘れられてしまったといわれる。
行方不明機の捜索など今ならもっと簡単なのにと思っていたが、先日のエール・フランスの墜落報道を見ていて、今でもこういうことがあるのかと驚いた。それにしても「男の叫び」というのはひどい邦題だ。見てない人には何の映画かわからないし、見た人にも意味不明のタイトルである。
死の宣告をされた女性がニューヨークを訪れ、マスコミに取り上げられてセレブに仕立て上げられていくのだが、実は彼女は不治の病でも何でもなかった。そのことを隠して観光を楽しむ彼女と、彼女を取材する記者とのあいだにロマンスが生まれ・・・ という、マスコミを風刺したコメディで、キャロル・ロンバードのいささかスクリューボールな演技がなかなか楽しい作品だ。わたしが見たのは、字幕なしで、画質も悪いものだった。今年になって出たこの DVD はどうなのだろうか。
すべてフランス版です。
■ラオール・ウォルシュ 『Victime du destin』
『決斗!一対三』
■ダグラス・サーク 『Coffret douglas sirk vol.2』 :
All I Desire
Demain est un autre jour(There's Always Tomorrow)
Les Amants de Salzbourg(『間奏曲』)
La Ronde de l'aube(『翼にかける命』)
日本ではまだ DVD 化されていないものも。
■ジョン・ヒューストン 『Coffret john huston : le malin ; au-dessus du volcan』
『Wise Blood』『火山のもとで』の2作をパッケージ。『Wise Blood』は、最近日本でも新たに翻訳され、以前出ていた単行本が文庫化されたりして、注目されているはずの作家フラナリー・オコナーの『賢い血』をヒューストンが映画化した異色作だ。軍隊帰りの若者が、説教者となって「キリストなきキリストの教会」をひとりで布教して回るが、挫折の末に最後は自らの両目を突いて盲目となるという物語は、「男性作家」という安易なイメージで見られがちなヒューストン作品としてはどうにも扱いづらかったのか、日本では未だに未公開である。 同時期に、Criterion からも DVD が出た。
■レイモン・デパルドン
『La Vie moderne - Edition simple』
Raymond Depardon : Coffret Intégrale 10 DVD
■リュック・ムレ 『Luc moullet en shorts』
■ジュリアン・デュヴィヴィエ 『Au bonheur des dames』
ゾラの原作を映画化したデュヴィヴィエ最後のサイレント映画。撮影がすごいというので期待したが、たいしたことはなかった。伊藤大輔にとっての『忠治旅日記』のような作品かとも思ったのだが・・・。結局、デュヴィヴィエはサイレントの頃からダメだったようだ。しかし、当時の百貨店の様子がわかるのは、パリの風俗に興味があるものには貴重かも。
■ジャン=ピエール・モッキー 『13th french street』
■『Coffret cinema africain, vol. 1』
■ミケランジェロ・アントニオーニ 『La chine』
ベロッキオの『中国は近い』と2本立てだったら夢のパッケージだったかも。
■ダニエル・シュミット 『ヘカテー』
ここにも魅力的な傍観者が。それにしても、シュミットも全然 DVD にならないね。
アサイヤスは『夏時間の庭』だけでなく、『クリーン』と『NOISE』も公開されるようだ(この2本は音楽ものということでパッケージされたのだろうか)。しかし、もう少しタイムリーにできないものか。『クリーン』なんてもう5年前の映画なわけだし、こんなふうに時間差で公開されると、同時代感覚が希薄になってくるので困る。 まあ、公開してくれたんだし、文句は言うまい。『クリーン』は関西でも上映されたが、1日だけの特別上映だったので、見ている人はあまりいないだろう。アサイヤスとしては最高の出来ではないが、悪くない作品なので、是非見てほしい。
ところで、カンヌ映画祭が開幕した模様。 そういえば、「カイエ」のベストテンをまだチェックしていなかったと思い、今頃になって確認する。2008年の編集部ベストテンは以下の通りだった。
1.『リダクテッド』 Brian De Palma
2.『コロッサル・ユース』 Pedro Costa
3.『クローバーフィールド』 Mat Reeves
4.『ノー・カントリー』 Joel & Ethan Coen
5.『Two Lovers』 James Gray
6.『Valse avec Bachir』 Ari Folman
7.『Dernier maquis』 Rabah Ameur-Zaïmeche
8.『Hunger』 Steeve McQueen
9.『A Short Film About the Indio Nacional』 Raya Martin
10.『De la guerre』 Bertrand Bonello
このうちの半分はまだ日本では公開されていない。このブログで紹介したスティーヴ・マクイーンの『ハンガー』もまだ公開予定はないようだ。すでに公開が決まっているのは、イスラエルの監督アリ・フォルマンによるアニメ映画『Valse avec Bachir』ぐらいだろうか(今年公開の予定)。ベルトラン・ボネロの『戦争について』は allcinema で検索するとヒットするので、あるいはどこかで上映されたことがあるのかもしれない。ただし、公開予定は不明である。
『崖の上のポニョ』が出品されたカンヌ映画祭で、数十年ぶりにフランス映画がグランプリを取ったということで地元では大きな話題になった(日本のテレビメディアではほとんど伝えられなかったけれど)『Entre les murs』などはベストテン入りしてもおかしくない出来だと思ったが、選んでいる人はほとんどいなかった(読者のベストテンではかろうじて10位に滑り込んでいる)。カンヌで受賞したことがひょっとしたらマイナスに働いたのかもしれない。ガレル、ドワヨン、デプレシャン、デパルドンなどのフランスの映画作家の新作は、どれも突出した評価は得られなかったようだ。スコリモフスキーの『Quatre nuits avec Anna』も、一人が1位に推していたが、公開時期がギリギリだったのか、少数意見にとどまっている。Albert Serra の作品が入っていないのも、たんに公開時期の問題なのだろうか。 ずっと気になっている Raya Martin の『A Short Film About the Indio Nacional』はやはりベストテン入りしていた。しかし、これも日本での一般公開はあまり期待できない。フランス系アルジェリア人監督 Rabah Ameur-Zaïmeche の作品も気になる。それにしても見られない映画が多すぎるな。
個人的に気になるのは、Stéphane Delorme が一位に選んでいる、ポール・ニューマン監督作品『まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響』(72) だ。ポール・ニューマンに少なからぬ監督作品があることはあまり知られていない。allcinema の略歴でも、彼の映画監督としてのキャリアはまったく無視されている。しかし、彼が撮った数本の監督作品はどれも風変わりな映画であるという噂はかねがね聞いていた。最近、彼の監督2作目に当たる『レーチェル、レーチェル』という作品を見て、たしかに無視し得ぬ才能の持ち主だという印象を受けた。機会があたら、全作品を見てみたいと思うのだが、アメリカでもポール・ニューマンの監督作品の DVD はあまりなく、あったとしても手に入りにくい状態だ。どこでもいいから BOX で出してくれるとありがたいのだが・・・。
それにしても、『クローバーフィールド』が3位というのは驚いた。この映画のことはブログでも取り上げたし、それなりに評価している。しかし、これが3位というのはなんだかバランスを欠いているような気がしないでもない。
『グラン・トリノ』をやっと見に行く。呼吸がほとんど西部劇だ。なにげに床屋も出てくる。西部劇に出てくる床屋では、散髪ではなく、決まって髭剃りだけが行われるのだけれど、この映画では、ひげだけは剃らなかったイーストウッドが最後の最後にひげを剃るのがいい。でも、結局、引き金は一度も引かれないのだけれど・・・。
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リチャード・クワイン『逢う時はいつも他人』(Strangers When We Meet, 60)
日本では数年前に DVD が発売されているが、ほとんど注目されていない。ところが、ヨーロッパでは最近ソフト化されたこの作品が、なぜか高い評価を受けている。最初、「フィルムコメント」誌で取り上げられていたのを見て注目し、その後、「カイエ・デュ・シネマ」でも、DVD 特集で傑作として紹介されていた。正直言って、リチャード・クワインという監督にはさして関心もなかったのだが、そんなに言うなら見てやろうと思った。
結論から言うと、それほどの作品でもないだろうというのがわたしの受けた印象だ。とはいえ、たしかに注目すべきところも多い。アメリカの平凡な田舎町で出会った、互いに家庭を持つ男女の不倫が、この映画で語られる物語だ。その田舎町の日常をとらえた描写が、この映画の鈍い魅力の一つである。まだプロダクション・コードにしばられていた時代のアメリカ映画の夫婦関係のモラルを象徴するツイン・ベッド上で、欲望のはけ口を見いだせずにいるキム・ノヴァクの描写は、この時代としてはまれに見るほど直接的なものであると言っていいだろう。
不倫相手のカーク・ダグラスが新進の建築家というのは最初どうかと思ったが、見始めてみると全然違和感はなかった。奇抜な建築で知られる彼がその町で請け負った仕事は、自分の進むべき道で迷っている小説家の新居。映画の最後でようやくその建築は完成するのだが、これがジャポニスム丸出しの珍妙なしろもので、ノヴァクとダグラスの最後の別れはそこで演じられる。
不気味な傍観者を演じるウォルター・マッソーも悪くない。こういう人物がいると物語がぴりっと締まるのだ。暇があったら、映画における傍観者の系譜というのを考えてみてもいい。映画史にはしばしば、忘れがたい傍観者が登場するものだ。
リチャード・クワインはキム・ノヴァク主演で少なからぬ作品を撮っている。なかなか機会がなくて、わたしが見ているのはこの『逢う時はいつも他人』と『悪名高き女』(The Notorious Landlady, 62)ぐらいだ。
『悪名高き女』でキム・ノヴァクは、行方不明の夫を実は殺害しているとんでもない悪女(と疑われている)女を演じている。『深夜の告白』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を彷彿とさせるフィルム・ノワールふうの物語が語られるのだが、ノヴァクの色香にたちまち魅了されてしまう相手役がジャック・レモンであるのを見てもわかるように、シリアスなものではなく、探偵映画の骨格を借りただけのコメディで、印象としては、ブレーク・エドワーズの映画に近いものだ。他愛もない映画だが、それなりに楽しめる。
この二本を見た後で、山田宏一の『美女と犯罪』をぱらぱらと読み直していて、リチャード・クワインとキム・ノヴァクが愛人関係にあったことを知った(「蛇足ながら、キム・ノヴァクがフランク・シナトラのもとへ走ったあとには、リチャード・クワイン監督はキム・ノヴァクに夫殺しの噂のある美女を演じさせた『悪名高き女』を撮るのだ!」)。
『悪名高き女』を見ていて思ったのだが、フィルム・ノワールはいつ頃からパロディの対象となり得ていたのだろうか。例えば、フランケンシュタイン、ドラキュラなどのユニヴァーサル・ホラーは、シリーズが終わるか終わらないうちに、同じユニヴァーサルによって、同じセット、同じ俳優を使ってパロディにされている。あるいは、H・C・ポッターの有名な Hellzapoppin (41) では、同じ年に撮られた『市民ケーン』のそりのエピソードがすでにパロディにされている。
ハリウッドでは、何もかもがすぐさまパロディの対象となってしまう。では、フィルム・ノワールはいつ頃から、パロディの対象となりうるほどにジャンルとして認識されていたのだろうかというのがわたしの疑問だ。フィルム・ノワールについて書かれたものは数多い。その多くは、『マルタの鷹』をフィルム・ノワールの最初の作品としているが、ヒューストンらがフィルム・ノワールを撮ってやろうと思ってこの映画を作ったわけではないことは言うまでもない。では、いつ頃から、作り手たちはフィルム・ノワールをジャンルとして意識し始めたのだろうか。
話がそれた。クワインとノヴァクに話を戻そう。わたしが今見たいのは、山田宏一が『美女と犯罪』のキム・ノヴァクの章で紙数の大部分をさいている作品、『殺人者はバッヂをつけていた』だ。これは『悪名高き女』とは違って、正真正銘のフィルム・ノワールになっているらしい。ノヴァクの演じるのは、バーバラ・スタンウィックやラナ・ターナーのような悪女なのだが、フィルム・ノワールの悪女にはなりきれないところが、ノヴァクの魅力であると山田宏一は書いている。『殺人者はバッヂをつけていた』はフランスでも評価が高く、わたしはこれがリチャード・クワインの最高傑作ではないかとにらんでいる。何よりもタイトルがいい。
残念ながら、日本ではソフト化されていないし(またしても!)、海外でもスペイン版 が出ているぐらいで、手に入りにくい状態だ。だれか、日本で出してくれないだろうか。
『小海永二 翻訳選集 第4巻 アンドレ・バザン 映画とは何かI~IV (大型本)』
長らく絶版になっていたバザンの『映画とは何か』が去年、復刊していた。なにを今さらという話だが、わたしはついさっき知った。わたしのような人もいるかもしれないので、念のために紹介しておく。 Amazon のコメントにもあるように、新訳ではなく旧訳をそのまま復刻しただけのものらしい。なので、旧版を持っている人なら、特に買う必要はないだろう。翻訳にはいろいろおかしなところがあるが、今のところこれしかないし、もし新訳が出るとしても、はるか未来の話になってくると思われるので、持っていない人はもちろん買っておくべき。というか、ふつう買うでしょう。
老齢の猫がすっかり弱ってしまった。最近は、一日の半分は猫のことを考えている。ほかにもいろいろすることがあるので、正直、ブログのことは忘れていた。すっかり更新が遅れてしまったので、マイナーな話題でごまかしておく。
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「シャーロック・ホームズ協会」だか、「シャーロック・ホームズ・クラブ」だか、名前は忘れたが、とにかく世界中に支部のあるシャーロック・ホームズのファンクラブの京都支部長だとかいう女性とむかし話をしたことがある。そのクラブの会員になる第一条件は、シャーロック・ホームズの実在を信じていることだと彼女が言うのを聞いて、唖然としたことを覚えている。
今回は、ホームズに関係する映画の中から、これはといったものをいくつか紹介する。
■『バスカヴィル家の犬』(テレンス・フィッシャー, 59, 未)
サイレント時代(ということは、コナン・ドイルがまだ生きていた時代)から何度も映画化されている作品。ホームズもののなかでもっとも横溝正史的と言ってもいいかもしれない原作のおどろおどろしい雰囲気を、テレンス・フィッシャーのホラーじみた演出が増幅させている。赤い乗馬服を着たサディスティックな若者たちの集団が、強烈な印象を残す。
■『緋色の爪』(ロイ・ウィリアム・ニール, 44, 未)
ビクトル・エリセの短編『ラ・モルト・ルージュ』が、この映画に登場する村の名前から取られていることは有名。しかし、映画の中では、ホームズ役のバジル・ラズボーンも、ワトソン役のナイジェル・ブルースも、誰も彼もが「ラ・モール・ルージュ」と発音しているので、ひょっとしたらそっちのほうが正しいのではと思えてくる。たしか、手紙か町の看板かで、"la Morte Rouge" と綴られていたはずだと思うのだが・・・。と思って、IBDb でチェックしてみたら、 "The name of the village, La Mort Rouge, is misspelled (La Morte rouge) on the map which is visible in one scene." という記述があった。これが正しいなら、"la Mort Rouge" が正解ということになる。どっちにしろ、そんな町は実在しないはずだが。(ちなみに、ポーの『赤死病の仮面』のフランス語タイトルは "Le Masque de la Mort Rouge")。
ロイ・ウィリアム・ニールがユニバーサルで撮った数多くのシャーロック・ホームズものの最高傑作といわれる作品である。真夜中に鳴る鐘、喉を切り裂かれた家畜の死体、闇夜に光る人影。怪奇現象が目撃される村で起きる連続殺人をホームズが解決してゆく。明らかに同時代のユニヴァーサル・ホラーの延長線上で撮られた作品で、ホラー要素が非常に強いが、先を読ませない展開でぐいぐいと引っ張ってゆく。途中でチェスタートンの話が出てくるので、これは原作にあったのかなと思いつつ見ていると、見事にミスリーディングさせられていたことを後になって知る。 これが『バスカヴィル家の犬』に想をえてつくられた映画だということを後になって知り、ちょっと驚いた。たしかに舞台背景とか、雰囲気は似ているが、話はまったく別物だからだ。("The Adventure of the Dancing Men" も発想の元になっているという。ただし、わたしはこの作品は読んでいないのでよくわからない。)
■『They Might be Giants』(アンソニー・ハーヴェイ, 71 未)
これも一応シャーロック・ホームズものに入れといていいだろう。コナン・ドイルからキャラクターを借りただけの『緋色の爪』でも、シャーロック・ホームズはとりあえず本物だった。この映画にはホームズもワトソンも登場するが、どちらも偽物でしかない。
妻の死のショックで自分をシャーロック・ホームズと思い込んだ男が、ワトソンという名の女精神科医を巻き込んで、宿敵モリアーティの行方を追う。ホームズが偽物なら、ワトソンも偽物だ。ふつうのホームズものだと思っていたので、見る前は、ジョージ・C・スコットのホームズ役というのはどうかと思っていたのだが、パラノイアのホームズというのは実にぴったりだった。
劇場でヒットした芝居の映画化で、歌も踊りもないが、どこかミュージカル・コメディふうに作られている。もっとも、コメディといってもどこか陰鬱なところが、いかにもイギリス映画である。 監督のアンソニー・ハーヴェイは、『歩兵の前進』、『ロリータ』、『博士の異常なお愛情』などのエディターをへて監督に転じた人物。定評あるエフレイム・カッツの映画辞典には、 "As a director, he impressed with his initial three films but disappointed with his subsequent work" とある。この映画は、その最初の三本目である。
(エフレイム・カッツの映画辞典は、順調に版を重ね、わたしがもっているのは2008年に発行された第6版である。しかし、ここには、北野武の名前も、青山真治の名前も見あたらない。情報の新しさはあまり期待しない方がいいだろう。もっとも、これは、アメリカの評価とヨーロッパの評価の違いが如実に表れただけかもしれない。載っている映画作家たちの記述も、よく言えば客観的、悪くいえば味気ない。とはいえ、映画用語辞典としては重宝する。なにより、1400ページというこの分厚さで20ドル程度というのはべらぼうに安い。)
元野球小僧としては、やはり WBC は熱中して見てしまった(この話題はもう古いですか?)。
かつて草野進(誰なんでしょうね?)が「デイヴ・ジョンソンは美しかった」(『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』)と讃えたデーブ・ジョンソン率いるアメリカを破っての決勝の韓国戦は、行き詰まるというよりは、フラストレーションのたまる展開だったが、延長戦になってからがなかなかの緊張感でしびれた。
しびれるといえば、こないだやっと見に行くことができたクリント・イーストウッドの『チェンジリング』もしびれる映画だった(この話題ももう古いですか?)。見る前はストーリーだけ聞いて、オットー・プレミンジャーの『バニー・レークは行方不明』のような映画を思い浮かべていた。もちろん似ても似つかない作品だったことはいうまでもない。とてもエモーショナルな映画で、最初から最後までしびれた。アカデミー賞ではけっきょく無冠だったようだが、これよりもいい映画があったとは思えない。次に控えている『グラン・トリノ』(このタイトルを最初に見たときは、ブニュエル作品がリヴァイヴァルされたのかと錯覚してしまった)もオスカーにはまったく無視されたようなので期待が高まる。
"changeling" というのは、民話などで「さらった子の代わりに妖精たちが残していくと信じられた醜い子」を意味し、大江健三郎の『取り替え子』の「取り替え子」がまさに「チェンジリング」を意味する日本語であり・・・
・・・などという話をしていると長くなるのでやめておこう。このブログは、基本的に、テレビでコマーシャルが流れるような映画は取り上げないことにしているので、『チェンジリング』の話はこのぐらいにしておく。
☆ ☆ ☆
今回取り上げる映画は、ウィリアム・S・バロウズが関わった数本の短編である。
本当は、Family Life という映画を紹介しようと思っていたのだが、何度か書きかけてボツにしてしまった。両親によって妊娠中絶を強要されたことをきっかけに、「心の病」にかかって精神病院にいれられてしまう女性を描いた、ケン・ローチ初期の傑作である。『チェンジリング』の精神病院の場面で出てくるような最初から高圧的な医師とは対照的に、この映画に出てくる精神病医は薬も電気ショックも使わず、対話療法だけで治療をおこなおうと試みるなかなか感じのいい人物だけに、挫折感はよけいにおおきい。なんとなれば、ここでおこなわれる「治療」の過程は、けっきょくのところ、彼女の「病」を生み出したものと同じものだからだ。 不正を調査していた人間が、それを隠蔽する側に取り込まれ(『ブラック・アジェンダ』)、権力との闘っているつもりが、いつの間にか権力の手先になっている(『麦の穂をゆらす風』)。そんな出口無しの状況をケン・ローチは繰り返し描いてきたが、この『ファミリー・ライフ』ほどエモーショナルにそれを描ききった作品はないと思う。だれひとり死ぬわけではないにもかかわらず、ケン・ローチの映画でもっとも暴力的な映画であるといっていい。わたしはこれが彼の最高傑作だと思っているのだが、なぜかこういうものに限って日本では未公開なのが不思議だ。
ボツにしてしまったといいつつ、けっこう書いてしまった。 バロウズの話をしよう。
バロウズ関係の映画では、クローネンバーグの『裸のランチ』をはじめ、『バロウズ』『バロウズの妻』といったドキュメント作品、あるいは本人がカメオ出演している『ドラッグストア・カウボーイ』など、少なからぬ作品が日本でも公開されている。しかし、60・70年代にバロウズ自身が深く関わった数本の映画作品は、ほとんど見る機会がなかった。DVD のおかげでいまではこれらも簡単に見ることができるのがうれしい。
バロウズが映像化を想定して脚本を書き、部分的に監督もした作品のなかでとりわけ有名なのが、Towers Open Fire (63), Cut-Up (66), Bill and Tony (72) の3作だ。この3本はバロウズとアンソニー・バルチのコンビによって作られ、バロウズの映画作品のなかで最も重要な3本といわれる。 アンソニー・バルチの名前はあまり知られていないかもしれない。知る人ぞ知るイギリスの映画監督・ディストリビューターである。60年代初めごろからアート系実験映画、ホラー映画、セクスプロイテーション映画などを公開し、とりわけ、イギリスでは公開禁止だった『フリークス』を公開したことで知られる人物だ。バロウズなしで撮った作品では、『ホラー・ホスピタル』(73) があまりのばかばかしさ故にカルト作品となっている(このあたりについては、中原昌也の本でも読むといいだろう)。
わたしが見た DVD には字幕がついてなくて、台詞が聞き取れないところも多かったが、Towers Open Fire, Cut-Up, Bill and Tony の3作はいずれも興味深く見ることができた。Towers Open Fire, Cut-Up はともにモノクロで、撮られた年代も近いので、似ている部分も多い。いずれも 15分程度の短編だが、最初から最後までめまぐるしいジャンプ・カットの連続で、一度見ただけでは何が何だかわからない。たとえば、Cut-Up は、街を歩くバロウズ、紙に書のようなものを描く Brion Gysin、カットアップが実践される様子、ドリームマシンの映像などなどが、何度も反復されながら矢継ぎ早にモンタージュされていき、そこに呪文のように繰り返される「イエス」「ハロー」「サンキュー」というオフの声が重ねられ、ドラッグ体験にも似た映像世界を作り出している。時代はまだアナログだが、この感性はなんだかデジタルだ。
どれも、見ようによってはSFのようにも、スパイ映画のようにも見える(とりわけ、Towers Open Fire)。一見、他愛もない実験映画のようにも見えるが、これらの作品が撮られたのは、マッカーシーイズムと冷戦の影が深く立ちこめると同時に、マスメディアによるコントロールがあからさまになっていた時代であることを忘れてはいけない。バロウズはそうしたことにはきわめて意識的だった。
「カットアップ」も「ドリームマシン」も聞いたことがないという人にはあえて薦めないが、バロウズに興味がある人ならどれも必見の作品だといっておく。
わたしが見た DVD は少し古いので、Amazon のページからはすでに消えてしまっていた。下の DVD はわたしが見たのとは別のものだ。Bill and Tony が入っているかどうかが Amazon の説明には書いていない。バロウズの "Three Films" といえば、ふつう Towers Open Fire, Cut-Up, Bill and Tony を指すので、たぶん入っているはずだ(と思う)。
アンソニー・バルチはベラ・ルゴシの熱狂的なファンで、Towers Open Fire はベラ・ルゴシのイメージで始まっているらしいのだが、わたしが見た DVD にはこのショットはなかった。下の DVD に収録されているヴァージョンにはベラ・ルゴシのショットは入ってるんだろうか? (あとで知ったのだが、日本で発売されている DVD 『ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』には、Towers Open Fire が字幕付きで収録されている模様。)
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