日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
イェジー・カワレロヴィッチ『影』★★☆
『夜行列車』★★
NHK BS2 で鑑賞。有名な映画だから以前に見ていると思いこんでいたが、両方とも見ていなかった。どちらも、映画の魅力というよりはストーリーテリングで見せる作品だ(その意味では、キェシロフスキはこの系列に属する)。ハリウッドに行っても成功していたかもしれないと思わせるところが、この監督の強さでもあり弱さでもあるかもしれない。カワレロヴィッチは実は歴史スペクタクル映画も何本か手がけていて、そちらの評判も結構高く、『太陽の王子ファラオ』ではカンヌのパルム・ドールを受賞しさえしている。しかし、ポーランドを描く政治映画の監督というイメージが固まってしまっているせいか、そちらの系列の作品は日本ではほとんど忘れ去られているようだ。今回調べてみて驚いたのだが、『太陽の王子ファラオ』は『ファラオ/太陽の王子』というタイトルでビデオが出ているらしい。ビデオショップで見かけた記憶はないのだが、ひょっとしたら置いているかもしれないので、今度探してみようと思う。
『影』(56)は、チャールズ・クライトンの『夢の中の恐怖』を少し思い出させるオムニバスふうの作品。スターリニズムの影が色濃く立ちこめている陰鬱な政治映画である。なぞめいた物語はそれなりに引きつけるものをもっているが、どこか深みを欠いている印象は否めない。
『夜行列車』(59)は、匿名の乗客たちが乗り合わせる動く閉鎖空間を舞台とする《列車もの》のセオリー(?)に乗っ取ったサスペンス・ドラマに心理劇を融合させた作品。誰だかわからないが、妻を殺して逃亡中の殺人犯が乗客に紛れ込んでいるらしいことが、漠とした不安感を作り出している。サスペンスドラマの枠内で登場人物をどこまで掘り下げられるかが問題となるが、ここでもやはり底の浅さが感じられた。列車が急停車し、飛び降りた犯人を乗客たちが墓地まで追い詰めてリンチにかけるシーンがクライマックスとなるが、むしろ乗客たちをおそう罪の意識によるその後の失速ぶりがこの場面の焦点である。
『夜行列車』は、往年のジャズ・クラリネット奏者アーティ・ショウの「ムーン・レイ」を、ポーランド・モダンジャズの巨匠アンジェイ・トシャコフスキーが編曲したアンニュイなテーマ曲が忘れがたい印象を残す。アーティ・ショウといえば「ビギン・ザ・ビギン」「フレネシ」「スターダスト」などがとりわけ有名であり、「ムーン・レイ」はそれに比べると少し知名度は落ちるかもしれない。原曲も物憂い感じの名曲なのだが、この映画のトシャコフスキーによる編曲を聴いた後では少しインパクトに欠けるように思えてしまう。 アーティ・ショウがもてはやされたのは30・40年代のスウィング時代のこと。今では忘れられた存在と言っても過言ではない。しかし、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンに並ぶ「キング・オブ・クラリネット」として一世を風靡し、ラナ・ターナー、エヴァ・ガードナーをはじめとする8人の女性と結婚・離婚を繰り返したこのジャズの巨匠の名前を、映画ファンも記憶にとどめておくべきであろう。アーティ・ショウは、まだ黒人蔑視の風潮が今以上にはびこっていた時代に、白人バンドの女性ボーカルとしてビリー・ホリデイを雇ったことでも知られる。その後、彼は赤狩り時代に、左翼活動を理由に非米活動委員会の公聴会に呼び出されることにもなるのだが、マーティン・スコセッシが『アビエイター』でアーティ・ショウの「ナイトメア」を使っているのには、単なる時代の雰囲気を感じさせるバックグラウンド・ミュージックとしてだけではなく、そういう含みもあったのかもしれない。
『初学者も専門家も新・冠詞抜きでフランス語はわからない 』のリンク間違ってました。
蓮實重彦・吉田喜重『吉田喜重 変貌の倫理』 [「ろくでなし」から「鏡の女たち」へと至る43年間もの歳月を通じて、ひたすら無時間性に徹することで、そのつど鮮やかに歴史を露呈させてみせる吉田喜重。映画だけに許されたフィクションを、いま生の倫理として綴る。 ]
■ 鈴木一誌・澤井信一郎『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』
澤井信一郎の映画術。
■鈴木一誌『重力のデザイン 本から写真へ』
この人の文章は正直いってわたしにはわかりづらいのだが、なぜか読ませる。混乱しつつも、思考していることがわかるからだ。
■ 蓮實重彦『表象の奈落 フィクションと思考の動体視力』
[不可能性を超えて、事件を炸裂させる〈力〉。バルト、ドゥルーズ、デリダ、フーコーそしてフローベール。「批評」は他者の言説の中でまどろむ記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。読むことで潜在的なものは顕在化しその覚醒によって他者の言説へと変容する。待望の「批評」論集。]
■ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子 (3)』
サルトルによる記念碑的なフローベール論の蓮實重彦らによる翻訳。一瞬文庫化したのかと思ったら違った。1巻目が出始めたのはもう20年以上前。それにしても息が長い。長すぎる。(値段は見間違いではありません)
■ 一川周史『初学者も専門家も名詞に弱くてはフランス語はわからない―ニュースや古典で徹底解説 』
[『わからないシリーズ』決定的第三弾!フランス語の完全理解と文化・教養編。顔はvisage? figure?、雰囲気はatmosphère? ambiance?、回転はtour? rotation?日本語で捉えきれない多数の名詞とその背景の文化が始めてわかる。著者発掘の辛辣、軽妙にして深遠な用例満載、全文日本語訳付で一般向きの各文・警句集ともなる。 ] この人が書いたこのシリーズの一冊『初学者も専門家も新・冠詞抜きでフランス語はわからない 』は、フランス語を極めようと思っているものにとって、必読の書である。冠詞は文法の授業で最初に習う品詞だが、実はこれほど難しいものはないのだ。「定冠詞と不定冠詞のちがいぐらいわかる、部分冠詞だって知ってるもん」と高をくくっている初心者は、この本を読んで冠詞の奥の深さを知り、一度絶望してみることをおすすめする。
モンテイロの DVD-BOX については以前にほかでも紹介してあるが、あれが高すぎるという人には朗報である(どのみちあれはいま入手不可)。代表作である『黄色い部屋の思い出』『神の喜劇(神曲)』『神の結婚』、計3本をおさめた DVD-BOX が出た。というか、早くまともな形で公開してほしいものだ。
João César Monteiro : La Trilogie
Coffret 3 DVD
:
- Souvenirs de la maison jaune
- La Comédie de Dieu
-
Les Noces de Dieu
一言でいうなら、戦争風刺映画ということになるだろう。50年代の終わりに撮られた映画だが、いま見ても斬新な物語にまず驚かされる。『我輩はカモである』や『博士の異常な愛情』、『M.A.S.H』といった戦争風刺コメディのひとつ、その隠れた名作といっていい。
ヨーロッパにある豆粒ほどの小さな国が、ワインの輸出をめぐってアメリカに戦争を仕掛ける。むろん、大国アメリカに武力で勝てるわけはない。はなから負けるつもりの戦争なのだ。第二次大戦後、ドイツやとくに日本といった敗戦国が、アメリカの援助を受けて経済的発展を遂げたのにならって、自分たちも経済的な援助を受けようというわけだ。だから、送り込まれる部隊(といってもわずか数名なのだが)はすぐに負けて帰ってくるというのが、最初の計画だった。だから、ピーター・セラーズ扮する一見頼りない隊長が部隊の指揮を任せられたのである。ところが、彼らがアメリカに到着すると、ニューヨークにはなぜか人の気配がない。なんたる偶然か、その日は、A-Bomb ならぬ D-Bomb の実験がおこなわれ、ニューヨークの住民たちはみなよそに隠れてしまっていたのである。ピーター・セラーズ率いる部隊は、その D-Bomb をそれを作った博士とその娘ともども手に入れてしまう。そしてたまたま通りかかった軍人数名とともに自国につれて帰る。要は、負けるはずの戦争に、勝ってしまったのだ。しかし、この戦争をお膳立てしたお歴々たちは、この予期せぬ勝利に困惑する。それもそのはず、彼らはアメリカという大国を敵に回しただけでなく、世界を破壊することのできるほどの危険な力を手にしてしまったのだから・・・
例によって、ピーター・セラーズは一人3役の活躍(そのうちの一人は女公爵かなにか)。もっとも、いつもと比べると押さえ気味の演技といってもいいかもしれない。爆弾を開発した博士の娘役にジーン・セバーグが出ている。彼女はこの直後に『勝手にしやがれ』に出演することになるのだが、フィリップ・ガレルやロマン・ギャリら、フランスのインテリたちを魅了した暗いミューズの面影はここにはみじんもない。入浴シーンもあったりして、健康的なお色気を披露してくれている。結局、ゴダールに見初められさえしなければ、あんな悲惨な死に方をしなくてすんだのかもしれない。
ピーター・セラーズが出ているからいうのではないが、『博士の異常な愛情』のルーツは案外これかもしれない、などと思ってみたりする。『縮みゆく人間』にも放射能らしきものが描かれていた。ここで風刺されているのは明らかに核の脅威だ。当時の社会情勢を知っていれば、もっと具体的な風刺の対象がわかるのかもしれない。しかし、そんなことがわからなくても、この物語はいまでも十分通用する。最近は、この手の映画をほとんど見かけなくなった。とくに9/11以後、アメリカではこういう映画が作りづらくなっているような気がする。大胆な風刺は、エリア・スレイマンの『D.I.』など、むしろアメリカ以外の国の映画に受け継がれているようだ。
MacBook が思ったより早く届き、早速ありとあらゆることを試していたので、また更新するのをすっかり忘れてしまっていた。昨日など、寝る前になってようやくメールをチェックすることを忘れていたことに気づいたくらいだ。環境がある程度整ったので、またぼちぼち書きはじめる(まだいくつか解決しなければならない問題が残っているので、更新は若干遅れるかもしれませんが、大目に見てください)。 久しぶりに新しいマシーンを手に入れたので、日々発見に次ぐ発見だった。その辺のことを書きたい気分なのだが、たまには映画のことも書かないとただでさえ少ない読者がどんどん減っていきそうだ。今日は久しぶりに映画のことを書くことにしよう(久しぶりに書くのでいつも以上に切れ味がないかもしれないが、それも多めに見てください。それにしてもこの MacBook は快適だ。ソフトの切り替えなども何のストレスも感じずにスムースに行うことができる)。
今日の話題は、『縮みゆく人間』『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』。どちらもジャック・アーノルドの作品である。新年早々から取り上げる映画でもないと思うが、このブログはこういう地味なテーマばかりを扱うところなので、ご了承願いたい。 ジャック・アーノルドは『大アマゾンの半魚人』で知られる監督だ。『タランチュラの襲撃』などのヒット作を飛ばしたSF・モンスター映画の巨匠だが、それほど有名とは思えない。半魚人やタランチュラのことは知っていても、その映画を撮った監督の名前をいえる人は少ないだろう。ジョン・フォードやハワード・ホークスのように揺るぎない作家性はもっていず、かといってエドガー・G・ウルマーやジョゼフ・H・ルイスのようなある種の神話性を身にまとっているわけでもない。シネフィルのあいだで名前を出しても冷たい反応しかかえってこない可能性さえある。要は、話題にしてもあまりかっこよくない監督なのだ。 しかし、わたしにとっては、子供のころにテレビで見た『大アマゾンの半魚人』の強烈な印象が忘れがたく、それだけでもアーノルドは貴重な監督である。もちろん、当時はジャック・アーノルドという名前など知らなかったが、だいぶ後になってその存在を知って以来、アーノルドは一目置く存在になっていた。とはいうものの、ソフト化されているものはあまり多くない(調べてみたら、日本で手に入るアーノルドの DVD は『大アマゾンの半魚人』ぐらいのようだ)。街の映画館で見る機会にいたっては皆無であり、いままでほとんど作品を見られずにいた。 『縮みゆく人間』と『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』も、両方とも海外版のDVDで見たものである。実は、後になって、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』は日本でビデオが出ていることを知った。もっとも、レンタルショップで見た記憶がないので、入手するのは難しいかもしれない(意識して探したことがないので、案外どこにでも置いてあるのかも。いずれにせよ、オリジナルはワイドスクリーンなので、DVD で見るにこしたことはない)。
『縮みゆく人間』 The Incredible Shrinking Man(57)は、タイトルから簡単に想像がつくように、放射能物質を浴びたために体が次第に縮みはじめるという incredible な奇病にかかってしまった男の姿を描いたSF映画。作品のなかではっきりと「放射能』という言葉を使っていたかどうかは思い出せないのだが、明らかに核が意識されている(この時代は、『放射能X』とか『ゴジラ』とか、いろいろありました)。体が小さくなってしまうというのは、わりと最近では『ミクロキッズ』とか、少し古いところではリチャード・フライシャーの『ミクロの決死圏』(66)など、これまで映画のなかで幾度も描かれてきた。が、それらの多くは、その特異な状況をコミカルに、あるいは派手なスペクタクルとして描いたものがほとんどだ。『縮みゆく人間』がそれらとは一線を画しているのは、その淡々とした描き方にある。『ミクロの決死圏』よりは、スウィフトの『ガリバー旅行記』にずっと近い作品といったらいいだろうか。特に後半、猫に追われて地下室に落ちてしまった主人公が、妻にも死んだと思い込まれ、たった一人で生活(というかサバイバル)をつづける姿を描いた部分は、ほとんど台詞もなく、まるで昆虫観察でもするかのようにすべてが描かれてゆく(昆虫観察とスウィフトといったら、まるでブニュエルみたいだが)。
いまならSFXを多用して、ほとんどCGだらけの映画になるところである。たしかに、この映画でも合成画面がいたるところに使われているが、ところどころでは、巨大なセットを作って、そこで俳優を動き回らせているのではないかと思う。確かめたわけではないが、多分そうではないだろうか。でなければ、あんなに合成がうまくいくとは思えない。これは、トッド・ブラウニングが『悪魔の人形』(36)で試みた技法だったはず(この作品は、ジャン=ルイ・シェフールの『L'Homme ordinaire du cinéma』の口絵写真を見て以来ずっと見たいと思っている映画なのだが、いまだに見る機会がない)。 そして、驚くのがラスト。いまどきあり得ないアン・ハッピーエンドには一瞬あぜんとする。しかし、この終わり方は、見ようによっては楽天的といってもいいものであり、それがまたなんともいえない後味を残す。あとで、脚本を書いたのがリチャード・マチスンだと知り、納得した。説明する必要もないと思うが、スピルバーグの『激突』を書いた作家である。わたしはこの人が書いた『地球最後の男』という本が大好きなのだ。数ある吸血鬼小説のベスト3に入る大傑作である(あとの2作はなにかって? シオドア・スタージョンの『きみの血を』が特殊すぎるというのなら、スティーヴン・キングの『呪われた街』でもあげておこうか)。いや、吸血鬼小説というよりも、人類最後の人間を一人称で描いた作品といったほうがいいかもしれない。 『縮みゆく人間』には、『地球最後の男』と通じる部分がある。これは、人類最後で、そして最初の人間を描いた映画なのである。
(話があちこちそれたので、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』について書くのはまたの機会にしたい。あまり知られていないが、これも隠れた傑作なのだ。)
ブログにも書いたんですが、年末からずっと新しく買うパソコンのことで頭がいっぱいで、なかなか更新できませんでした。いろいろ悩んだ末、 Apple の MacBook を買うことに決め、昨日やっと品物が届きました。まだ環境が完璧じゃないので、あとしばらくは思うように使えません。環境が整ったらまたどんどん更新します。旧マシーンでは、Dreamweaver の動作が遅すぎてホームページのほうは更新する気が起きなかったんですが、この MacBook はきびきびと動くので、まえよりも気楽に更新ができるようになるはずです。
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