日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
神戸映画資料館に特集「ストローブ=ユイレの21世紀」を見に行ってきた。本当は黙って見るだけにしておきたかったのだが、昔からの知り合いである支配人の田中範子さんから、明日までになにか紹介文を書けと脅されたので、仕方なく急遽以下の文章をしたためた。(というようなことを理解してもらった上で、優しい気持ちで読んでもらえるとありがたい。)
この特集では、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレが40年以上にわたってふたりで作ってきた作品のなかから、2000年代に入って撮られた作品のみが選ばれ、まとめて上映されている。特に今回は、関西初上映となる『魔女─女だけで』『コルネイユ=ブレヒト』『おお至高の光』がプログラムに入っており、とても貴重だと思うのだが、残念ながら、わたしが行ったときは客の入りはあまり良くなかった。やはりストローブ=ユイレは難解だとか、退屈だとか思われているのだろうか。1本だけ見て尻込みしてしまった人も多いのかもしれない。しかし難しく考えることはないのではないか。『黒沢清、21世紀の映画を語る』の黒沢清が、リュミエールの『工場の出口』のワンショットへとたえず立ち返っていたように、ストローブ=ユイレの21世紀も結局はそこに回帰していくのだ。今そこにある世界を、フレームによって一定の時間だけ切り取って見せる。20世紀に(正確には19世紀の終わりに)リュミエール兄弟によって発明された映画とは、そもそもそういうものだった。そして、ストローブ=ユイレの映画は、そんな創生期の映画を思い出させる瞬間に満ちているのだ。
だが、一方で、『工場の出口』は映画の「外部」に満ちていると黒沢清はいう。『工場の出口』は、固定キャメラで撮られたワンショットから成り立っている。このショットのフレームの外にはいったい何があるのか。このショットがはじまる前、あるいはショットが終わった後には何があるのか。そのようにショットのなかには映っていないものを、黒沢清は「外部」と名付ける。映画はそもそもの始まりからそのような「外部」をはらんでいたのだ。
ストローブ=ユイレの映画が地層を掘り進むようにして浮かび上がらせてゆくその土地に刻まれた記憶、それもまた映画の「外部」と言っていいだろう。たとえば、『アルテミスの膝』のラストのパノラミック撮影がとらえてみせる林の中の記念碑がそんな「外部」の一つだ。この記念碑は、戦時中に処刑されたパルチザンを記念してブーティの市長が90年代に建てたものだという。このショットにナレーションはなく、記念碑のクロースアップが挟まれることもない。だから、その事実を知らなければ、いくら目をこらしたところで、それが何かはわからないのだ。
DV を用いて撮られたアジビラ映画『ヨーロッパ2005年、10月27日』についても同じことがいえるだろう。この10分程度の短編で、キャメラはある建物をほぼ同一のパノラミック撮影で何度も繰り返しとらえてみせるのだが、この建物がフランスの警察に追われて逃げ込んだ移民少年が感電死した変電所であることを知らない観客にとって、このショットはいかなる意味を持つのだろうか。ここにも映画の「外部」が顔をのぞかせている。それを一言で「歴史」と呼ぶことも出来るかもしれない。このような映画を見るとき、観客はただ受動的に映像と音を受け止めているだけでは不十分である。みずから参加することが求められるのだ。それは一言で言うなら、歴史を学ぶことであり、映画の外の世界で起きていることに目を向けることだろう。
今そこにある光景をたった一つのショットによってありのままに記録する。リュミエール兄弟によって創造された映画とはそもそもそのようなものだった。『あの彼らの出会い』や『労働者たち、農民たち』に描かれる圧倒的自然──移ろう日の光、風にそよぐ木の葉、小鳥のさえずり、小川のせせらぎ──には、リュミエールの映画のワンショットが持っていた映画の原初的力とでも言ったものがみなぎっている(むろん、リュミエールの映画に音はないが)。と同時に、そこには、リュミエールの映画が可能性として孕んでいたかもしれない「外部」がざわめいてもいるのだ。映画の「外部」など存在しないふりをしている映画のほうが、たぶん観客にとっては心地よいのかもしれない。しかしはたしてそれは21世紀の映画と呼べるのだろうか。ストローブ=ユイレの映画はそんな問いを観客に突きつけてくる。厳しい映画である。
マーク・ロブスン『The Seventh Victim』(43)
「世紀末オカルト学院」というアニメを見ていたら、シャワールームの半透明のビニールの向こうにふわっと人影が現れて消えるという場面があった。『サイコ』(60)のシャワールームの場面はこんなところでも使われている。だが、実をいうと、これと同じことを『サイコ』の20年前にやっている奴がいたのだ。『The Seventh Victim』のヴァル・リュートンである。
『The Seventh Victim』はマーク・ロブスン監督のデビュー作だが、これはもうプロデューサーのヴァル・リュートンの作品であるといってしまっていいだろう。『キャット・ピープル』や『私はゾンビと歩いた』などで、低予算を逆手にとり、肝心なもの(モンスターや殺人鬼など)を直接画面に見せずにただ暗示するだけによって恐怖の雰囲気を作り上げるという、この時代に彼が作り上げたホラー映画の新たなスタイルは、ある意味、この『The Seventh Victim』でとことん突き詰められている。 先ほどのシャワールームの場面や、まるで社交クラブのように撮られた悪魔集会、そして、目ではなく耳をそばだててないと何が起きたか理解できないラストなど、ヴァル・リュートン美学の極みがここにあると思うのだが、あまり書くとネタバレになるのでやめておこう(『The Seventh Victim』は、ホラーというよりは、フィルム・ノワールに近い作品で、その意味でもなかなか話しづらいのだ)。ほんの少ししか登場しないが強烈な印象を残すジーン・ブルックスの変な髪型(クレオパトラふう?)も注目だ。
ヴァル・リュートンが製作したホラーの代表作は IVC から DVD が出ているのだが、何故かこの作品は入っていない。
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