日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
清水宏『都会の横顔』(53)
清水宏のフィルモグラフィーにおいてはかなり晩年に作られた作品である。全盛期と比べると落ちるといわれたりもする50年代の作品だが、『都会の横顔』にはいかにも清水宏らしい部分が多々あって、なかなかに興味深い。
路面電車の最後尾から遠ざかっていく風景を後退移動撮影で捉えてみせるファースト・ショット。ここら辺でカットが変わりそうだと思える部分まで来てもショットはそのまま持続し、こっちの調子を狂わせる。ちなみに、電車の後部座席から撮られたショットで始まるというのは、『七つの海 処女編』の出だしと同じである(後退移動撮影に対する清水宏の偏愛)。
看板を持って歩く宣伝マンの男(池部良)が、迷子の娘の母親を探しながら銀座の目抜き通りを歩きまわり、一方、母親(木暮実千代)は母親で、娘を探し回る。清水が何度も描いた「母もの」とも通じる物語ではあるが、この物語はいわば口実に過ぎない。母・娘を探す物語の過程で、靴磨きの女(有馬稲子)やいんちきそうな占い師(伴淳三郎)、浮気性の会社員(森繁久彌)といった様々な人物が現れては消えてゆく。 迷子の娘は、母親とはぐれた不安など微塵も感じさせず、母親を探していることさえ早々に忘れて、食堂で出会った見知らぬ女の後を追って一人で飛び出してゆき、連れ添って歩いていた池部良からもはぐれてしまう。そこで有馬稲子も池部良とともに娘を探し始めるのだが、彼女も娘探しをすぐに忘れてしまったかのように、別の場所で靴磨きをしながら謎の靴占いをはじめたりする。母親のほうも、娘を探す途中で出会った無責任な知人の女にひきづられるようにして、ついついわき道にそれてばかりだ。
こうして物語は脱線を繰り返してゆき、これといった焦点を結ぶことなく進んでゆく。その過程で、都会の横顔を浮かび上がらせてゆくというのが、この映画の趣旨であったようだ。弱々しい物語をある種口実にして、旅=移動の中に現れる人物と風景を点景として詩情豊かに浮かび上がらせてゆくというのが、『有りがたうさん』や『按摩と女』といった清水宏の代表作のスタイルであった。その意味では、この映画はいかにも清水宏らしい作品であるといっていい。
もっとも、当初の題名は「哀・愛・会」の意味を込めた「東京あいあいあい」だったらしく、これが、「僕と彼女の青い空」、「銀座マンボ」「泣き濡れた歩道」などといった案を経て、「都会の横顔」に落ち着いたということからもわかるように、この映画は『有りがたうさん』のようなタイプの清水作品と、これも彼が得意とした「母もの」との間でどっちつかずに揺れているようなところがあり、それが作品を弱めていることもたしかである。
歩く人物を後退移動撮影で捉える清水お得意のショットはこの映画でも多用されているのだが、視界の開けた地方で撮影された諸作品とは違って、通行人でごった返した銀座の大通りでは、超ロングで人物を捉えるのも難しかっただろうし、第一、いくら移動しても風景は一向に変化せず、ただ人ごみが映し出されるばかりで、開放感もなければ、ポエジーが立ち現れる瞬間もまれでしかない。 そういう意味では、いかにも清水宏らしい作品だと思う一方で、どこかフラストレーションの残る映画ではある。
アンドレ・ド・トス『The Other Love』(1947)
どちらかというと西部劇や犯罪映画、アクションものなどを得意とするアンドレ・ド・トスが撮ったメロドラマ。
病名は明らかにされていないが結核としか思えない病に冒された世界的なピアニスト(バーバラ・スタンウィック)が、スイスの療養所に治療にやってくる。療養所の院長(デイヴィッド・ニーヴン)と彼女は直ちに惹かれあうが、自分の病気の深刻さを直視できない彼女には、酒もタバコも、ピアノさえも禁じる院長の厳格な治療方針はどうしても受け入れられない。そんなときに、たまたま当地に来ていたプレイボーイのカーレーサー(リチャード・コンテ)と出会って恋に落ちた彼女は、療養所を抜け出して男と派手に遊び暮らし始めるが、やがて身を持ち崩してゆく。そんな時彼女の病気が突然悪化し……。
一言で言うならば、スイスのサナトリウムを舞台にした難病ものの恋愛メロドラマであるこの映画をフィルム・ノワールと呼ぶのは無理があるだろう。しかし、この映画にはフイルム・ノワール的な雰囲気が不思議とあちこちに漂っている。バーバラ・スタンウィックの病室に届けられる謎の白い蘭や、彼女が真夜中に聞いたという奇妙な物音など、伏線としてはちゃんと回収されることのない、または最後まで曖昧なままにされる細部が、なんともいえない不吉な通奏低音を作品に響かせている。スタンウィックに近づいてくる隣の病室の女の扱いなど、脚本をほんの少しひねるだけで、この映画はフィルム・ノワールに易々と転じていたかもしれない。
「この療養所では死者たちが客(ゲスト)なのね」とスタンウィックは言う。たしかに、この療養所には死の影が漂っている。しかし、ド・トスはそれをフィルム・ノワールのように「影=黒(ノワール)」で描こうとはしない。療養所の病室の壁の白、スタンウィックが病室で着る白いドレス(病人が着る服としては派手すぎる)、死者の病室に別の死者から届けられる白い蘭(この映画のフランスでの公開題名は「白い蘭」である)というふうに、この映画では、フィルム・ノワールとは違って白こそが不吉な色なのである。
フィルム・ノワールならぬフィルム・ブラン(フィルム・ホワイト)と、ある人はこの映画のことを呼んでいるが、これはそう的外れではないように思える。 ラスト、ようやく結ばれた二人のいるロッジを包み込むように雪が舞う。白で始まった映画は、白で終わる。そして、このときすでに、白さはそれまでとは全然別の意味をもたらされていることに誰もが気づくだろう。
正直言って、いささか鈍重なメロドラマではあるが、そうは割り切れない奇妙な魅力がある作品でもある。最近は、こういう作品まで次々とブルーレイ化されているのはなんとも心強い。
冒頭に現れる Anglo-Amalgamated Film Distributors という配給会社の名前、あんまり聞いたことがないなと思っていたのだが、たまたま続けて見たジョセフ・ロージーの『The Sleeping Tiger』が同じ会社のロゴで始まったのでびっくりした。IMDb で調べてみたところ、結構な数の作品を配給しているみたいなので、何度も目にしていたのに認知していなかっただけのようだ。ちなみに、『The Other Love』はこの会社が2本目に配給した作品になっている。
製作会社の Enterprise Productions というのも聞いたことがない名前だと思っていたのだが、これも IMDb で調べてみると、たしかに製作本数こそ10本にも満たないものの、ロバート・ロッセン『ボディ・アンド・ソウル』(47)、ルイス・マイルストン『凱旋門』(48)、エイブラハム・ポロンスキー『悪の力』(48)、マックス・オフュルス『魅せられて』(48)など、すごい作品が並んでいるので驚く。この会社はMGMの創設者であるマーカス・ロウの息子デイヴィッド・ロウとワーナーの元宣伝部長デイヴィッド・エインフィールドによって設立されたものらしいが、47年から48年にかけてのわずか2年でその活動を終えている。どうやら『凱旋門』にかけた膨大な製作費を回収できなかったために倒産してしまったらしい。『The Other Love』はこの会社が2本目に製作した作品であった。
気がつけば、びっくりするほど長い間更新していなかった。リハビリがてらに、小さなネタでもいいから今年が終わるまでにせいぜい更新していこうと思う。
■チャールズ・ヴィダー『Blind Alley』(39)
ハリウッドが精神分析を映画に取り入れた最初の一例。
ギャングのボスが、警察の追跡をかわすために、手下を連れて近くの民家に立てこもる。その夜、たまたまその家に居合わせたゲストたちと、ギャング一味との緊迫したやり取りが描かれてゆくのだが、ここまでは、ワイラーの『必死の逃亡者』を思わせる展開である。しかし、この映画の主眼は、実は、そこにはない。
ギャング一味が逃げ込んだ家は、偶然にも、大学で心理学を教えている心理学者、シェルビー博士(ラルフ・ベラミー)の家だった。博士はこの緊迫した状況にあっても終始冷静で、パイプをくゆらせながらウィルソンの一挙手一投足を観察し続ける。精神分析を実践してもいる彼は、ウィルソンが殺人衝動に駆られ、また、自分が発狂してしまうのではないかという不安にさいなまれていることを見抜く。ウィルソンはまた、繰り返される奇妙な悪夢にも悩まされていた。 博士はウィルソンに、問題を解決すために精神分析を受けてみてはどうかと勧める。ウィルソンは、最初、博士の言うことを一顧だにしないが、分析を受ければ不安を取り除け、悪夢も見なくなるという博士に次第に説得されてゆき、とうとう分析を受け入れる。 そして、分析を通じて抑圧していた幼少期の記憶(予想通りだ)がよみがえった瞬間、ウィルソンから不安が消え去る。しかし、それと同時に、彼から殺人衝動も消えていた。ラスト、家の周りを警察に囲まれた彼は、博士が制止するのも無視して、拳銃を片手に飛び出すのだが、分析を受ける前とは違って、拳銃の引き金を引くことがどうしてもできず、銃弾に倒れる。
原作は、当時大ヒットしたジェームズ・ワーウィックの戯曲で、たぶん原作にかなり忠実に作られているらしいこの映画は、ほぼ博士の家だけを舞台に、一晩限りの出来事を描いている。精神分析がたった一晩で成功裏に終わるというのは、専門家から見れば失笑ものだろうが、精神分析がまだまだポピュラーでなかったこの時代には、劇作上のリアリティのためにはこの程度のご都合主義はぜんぜん問題なかったのだろう。 いまだに精神分析にはあまり親しみがないわれわれ日本人から見ても、このあたりはリアリティに欠けるところである。しかし、何度か出てくる夢のシーンは、今見てもなかなか注目に値する。
一つ目は、ウィルソンを毎夜悩ませる悪夢で、その夢の中で彼は雨の中を傘を差しながら歩いているのだが、その傘には無数の穴が開いていて、雨が次から次へと漏れてくる。ウィルソンは手で穴をふさごうとするが、どうにもならない。この夢の場面では、ネガとポジを反転させるという、単純ではあるが、いまだに夢の表現に使われもする手法がとられている。 もうひとつの夢では、ウィルソンのトラウマとなった出来事が描かれるのだが、ここでは、壁が斜めに傾ぎ、遠近感が狂ったデコール(『カリガリ博士』を少し思わせる)が、無意識の世界を作り上げている。
夢の場面というのは、誰が撮ってもいささか陳腐なものになるもので、この映画でもそれは例外ではない。しかし、リュシアン・バラードの撮影も手伝って、この映画の夢のシーンはなかなか見ごたえのあるものになっている。
精神分析医が登場するアメリカ映画ということなら、ヴィクター・フレミングの『暗雲晴れて』(19) など、これ以前にも存在するし、30年代にもなると映画における精神分析医の存在はそれほど珍しくなくなっていた。IMDb でざっと調べたところによると、有名なものだけでも、ルイス・マイルストーンの『犯罪都市』(31)、ボザーキの『真珠の頚飾』(36)、フランク・キャプラ『オペラハット』(36)、ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(38)、アナトール・リトヴァク『The Amazing Dr. Clitterhouse』(38)、マーク・サンドリッチ『気儘時代』(38)などが、精神分析医の登場するアメリカ映画としてリストアップされている。 いずれも、『Blind Alley』以前に撮られた作品である。しかし、精神分析がここまでプロットに絡んでくるアメリカ映画は、たぶんこの『Blind Alley』が最初だったのではないだろうか(ちゃんと調べていないが)。
ちなみに、この映画の約10年後に、ルドルフ・マテによるリメイク(というか、同じ原作の映画化)が撮られている。未見だが、こちらもなかなか評価が高いので、いずれ機会があれば見てみたいと思う。
■『Der Mann, der seinen Mörder sucht』
シオドマクが初期ドイツ時代に単独監督した長編第2作。ドイツ語は得意でないが、原題は「その男、彼の殺し屋」ぐらいの意味か。
映画は、主人公の男が住むアパルトマンに拳銃を持った男が現れるところから始まる。不意の闖入者が手にしたピストルを目にしても、男はさして驚いた様子を見せない。実は、拳銃の男は、自殺を決意した主人公が自らを殺害してくれるように依頼した殺し屋であることが判明する。自殺願望者がターゲットだと知った殺し屋は、それは主義に合わないと最初は躊躇するが、いったん引き受けた仕事は必ずやり遂げると言い残してその場を去る。このときから、主人公はいつ何時現れるかもしれない殺し屋の影を絶えず意識しながら生活していくことになるのだが、やがて出会ったひとりの女を愛し始めたことで生への執着が芽生え、殺し屋との契約をキャンセルすることを決意する。しかし、例の殺し屋はすでに、殺しの契約を別の凄腕の殺し屋に譲ってしまっていた……。
自分自身の殺人を殺し屋に依頼した人間が、不意に生きることに意義を見いだし、殺し屋から逃げ回るという物語は、山田洋次の『九ちゃんのでっかい夢』やド・ブロカの『カトマンズの男』など、洋の東西を問わず少なからず映画で描かれてきたので、今となっては新味にかけるが、この当時はなかなか斬新だったのかもしれない。 あまり得意だったとは思えないコメディで、シオドマクらしさはまだほとんど感じられない映画ではある。しかし、作品の随所を彩るブラック・ユーモアには、後のフィルム・ノワール作品に通じるものがあり、その意味では興味深い。
何よりも素晴らしいのは、こんな地味な作品であってもウーファ撮影所のセットが実に見事であることだ。主人公の住むアパルトマンの斜めに傾いだ窓ガラスと、向かいのビルからその窓越しに狙撃の機会を窺う殺し屋のいる屋根のセットなど、別に取り立ててユニークなものではないのだが、それだけにこの撮影所の余裕の底力を感じさせる。画面に屋根が出てくるだけで興奮してしまう私のような人間には、こういうセットを見るのは至福のひとときである。これぐらいのセットは当時としては当たり前だったはずだが、今や、この程度の美術でさえ、大撮影所時代のみに可能だった贅沢になってしまった。
■『クリスマスの休暇』Christmas Holiday
クリスマスの休暇で軍のキャンプから故郷に帰るところだった若い兵士に、別の男と結婚したと書かれたフィアンセからの手紙が届く。諦めきれない彼は、それでも彼女に会いに行こうとする。てっきりこの兵士が主人公だと思って見はじめると、映画は思わぬ方向に向かいはじめる。乗った飛行機が悪天候のために途中の空港に着陸し、そこで一夜を過ごすことになった兵士は、怪しげな男に誘われてとある秘密のナイトクラブに連れて行かれ、そこで歌っていた女と知り合うのだが、そこからこの女歌手の回想が始まるのである。
主人公かと思われた兵士は、女の物語に時折合いの手を入れるだけの、狂言回しにも似た存在となってやがて背景に退いてゆき、女歌手とその夫との暗いロマンスが物語の中心を占めはじめる。 女の話はこうだ。彼女はある男と出会って恋に落ち結婚した。しかし、幸せな結婚生活は長くは続かなかった。その男には賭博癖があり、さらにはひょっとすると殺人にさえ関わっているかもしれないことがわかってくる。男は結局、殺人罪で逮捕され、今は刑務所にいるという。ところが、女の話が終わったところに、刑務所から脱獄した彼女の夫が拳銃を持って現れる……。
枠物語の部分は、ヒッチコックの『断崖』などを少し思い出させもする夫婦の物語になっている。全体としては、非常にメロドラマよりのフィルム・ノワール、あるいはフィルム・ノワール的メロドラマといったテイストの作品で、『Der Mann, der seinen Mörder sucht』と比べるとずっとシオドマクらしい作品ではある。しかし、正直、それほど出来のいい映画とは思えない。
そもそも、この枠物語になっている構成自体がさほど効果を上げているようには見えず、むしろ、いたずらに焦点をぼやけさせているだけという気さえする。ナイトクラブの歌手役に『オーケストラの少女』のディアナ・ダービン、その殺人者の夫役にジーン・ケリーを使ったのは、むろん、俳優のそれまでのイメージとはあえて真逆の役を演じさせたのだろうが、これもどれほど成功していると言えるのか。国民的美少女として常に可憐な少女役を演じてきたディアナ・ダービンをちょっとした汚れ役として使うというのは、彼女のファンには相当評判が悪かったらしい(しかし、この女性は原作ではストリッパーだったのだから、これでも相当修正を加えられた妥協の産物だったはずなのだが)。ただ、この女優にほとんど思い入れのなかった私には、この映画での彼女のヴァルネラヴルな演技はむしろ素晴らしく思えた。一方、ジーン・ケリーの陰鬱な演技は、客観的に見れば全然悪くなかったのかもしれないが、どうしてもミュージカル俳優のイメージを払拭するほどの存在感は感じられなかった。
とはいえ、俳優の顔に落ちる繊細な影の使い方や、鏡や窓ガラスを使った空間設計など、部分的には素晴らしいシーンは多々ある。たまたま、この映画と『Der Mann, der seinen Mörder sucht』を2本続けて見たのだが、ジーン・ケリーの住む家のキッチンの大きな窓ガラスと、その窓を通してキッチンを見下ろすかたちで渡り廊下が造られている妙なセットなどに、ウーファ的な美術の名残のようなものを感じたのは気のせいか。
トム・アンダーセン『Los Angeles Plays Itself』(2003)
きらびやかな夜景を捉えたモノクロの空撮画面に「LOS ANGELES」の文字が浮かび上がる。ナイトクラブで歌い終えたストリッパーが楽屋に戻ると、何者かが彼女に向けて発砲する。女は慌てて外に飛び出し、夜の舗道を人をかき分けながら必死で走るが、最後にはよろよろと車道に歩み出てそこで力尽きて倒れる。
『クリムゾン・キモノ』冒頭のいかにもサミュエル・フラーらしい荒々しいモンタージュをさらに間引きして編集した映像とともに、この映画は始まる。フラー作品の空撮に現れる「LOS ANGELES」の文字の下には、「PLAYS ITSELF」という文字が異なる字体で新たに書き添えられている。「Los Angeles Plays Itself」、それがこの映画のタイトルだ。それにしても、このタイトルはいったい何を意味しているのだろうか。「ロサンゼルスが自分自身を演じる」。演じるロサンゼルスと、演じられるロサンゼルス。つまりは、本物のロサンゼルスと、演じられた、虚構のロサンゼルスがあるということである。
トム・アンダーセンが監督したドキュメンタリー映画『Los Angeles Plays Itself』は、それまでに撮られてきた数々の映画の中でロサンゼルスがどのようなイメージに収まってきたかを、おびただしい映画作品を引用しつつ描いた映画である。『ゴダールの映画史』にならって、この映画を『トム・アンダーセンのロサンゼルス〈映画〉史』と呼ぶこともできるだろう。実際、映画のイメージと化したロサンゼルスを様々な視点から批判的に語りつつ、映画の歴史と都市の歴史を同時に浮かび上がらせてゆくアンダーセンの手つきは、映像を通して「映画史」を語るゴダールの語り口を思い出させなくもない。 『ゴダールの映画史』を見ても思うことだが、引用された映画の断片というのはなぜこんなにも魅力的なのだろうか。映画を描いたさして出来の良くないドキュメンタリーであっても、そこに引用されている映画の断片だけはなぜか心に引っかかり、気になってあとで本編を見てしまったということはよくある(そして、実際に見てみたら別に大した映画ではなかったということも、またよくある話である)。
『Los Angeles Plays Itself』はそんな出来の悪いドキュメンタリーとは違って、非常に良くできた映画である。中で引用される映画も、手近にある映像をとりあえず使ってみたといったデタラメさのつきまとう『ゴダールの映画史』とは違って、きまじめに選ばれたもので、よく考え抜かれている。その見せ方もとてもうまい。むろん、『ゴダールの映画史』と同様に、なぜこの映画ではあの作品は引用されているのに、この作品は引用されていないのか、という批判をすることは可能だろう。3時間という限られた時間を考えれば、引用できる作品に限りがあることは重々承知の上だが、なぜあの作品は使われていないのだろうという疑念というか、不満は、わたしも映画を見ながらつい感じてしまった。
フランク・ロイド・ライト設計によるエニス・ハウスや、 ジョージ・ハーバート・ワイマン設計によるブラッドベリー・ビルディングといったロサンゼルスに実在する建物が、『地獄へつづく部屋』や『ブレードランナー』といった作品の中で、時空を無視してフィクショナルに使われている様子や、バンカー・ヒルやユニオン駅のような特定の場所が映画の中でいかいかなるイメージの変遷を辿ってきたかを、様々な作品をモンタージュしながら見せていく場面はこの映画の最高の見せ所の一つだろう。しかし、たとえば、そのブラッドベリー・ビルディングも、バンカー・ヒル地区にある〈世界で最も短い鉄道〉エンジェルス・フライトもともに登場するジョセフ・ロージーの『M』は、なぜかこの映画では全く言及されていない。あるいは、デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(「L.A.ノワール」は、ある意味、この作品で頂点を迎える)を最も重要な欠落と捉える人もいるだろう。おそらくこうした欲求不満は、この映画を見るひとりひとりが多かれ少なかれ抱くことに違いない。
アンダーセンは、こうして引用される無数の映像に、ナレーションを通じてコメントを加えてゆくのだが、カリフォルニア芸術大学で映画についても教えているという彼がこの映画で語る言葉は非常に鋭く、理路整然としており、かつ機知に富んでいて、ロサンゼルスについても、ロサンゼルスを描いた映画についても、教えられることが多いのだが、それを逐一ここに書き留める余裕はとてもない。ごくごく簡単に要約だけしておく。
この映画は大きく三つのパートに分かれている。1.「背景としてのロサンゼルス」、2.「登場人物としてのロサンゼルス」、3.「主題としてのロサンゼルス」の三つである。この三つの部分は必ずしもクロノロジーに従って構成されているわけではないが、まったく歴史の時間軸と無縁に構成されているわけでもない。
「背景としてのロサンゼルス」では、映画の中でロサンゼルスがまったく別の都市(たとえばシカゴ、場合によってはスイスやベトナム(!))として描かれたり、そこにある建物が実物とは全く別の使われ方をしたり(先ほどのエニス・ハウスなど)といった具合に、ロサンゼルスが映画の中でただの背景、あるいは道具として用いられている例が、具体的な引用とともに示される。
「登場人物としてのロサンゼルス」では、ロサンゼルスの地位はかなり昇格していて、映画になくてはならない役割を果たすようになっている。戦後、ロサンゼルスがフィルム・ノワールにおける特権的な都市となっていくことはよく知られているが、ここでも特権的な作品として多くの時間を割かれているのは、ビリー・ワイルダーによるフィルム・ノワールの傑作『深夜の告白』である。また、ロスという場所に関しては一切の嘘なしに描かれているノワール作品『キッスで殺せ』が、その意味で高く評価されている。このパートで提示される、「ロー・ツーリスト」(ヒッチコックに代表される)と「ハイ・ツーリスト」(アントニオーニなど)の区分も興味深い。
最後の、「主題としてのロサンゼルス」では、ロサンゼルスという都市そのものが映画の主題となっている作品が話題になっていて、とりわけ、『チャイナタウン』と『L.A.コンフィデンシャル』という、ロサンゼルスの暗部を描いた二つの最重要作品をめぐって長々としたコメントがつづく。この2作品においてロサンゼルスはいわば映画の主役を演じているのだが、それでもやはり、ロサンゼルスがロサンゼルスを演じていることには変わりはない。ロサンゼルスを一種のパラダイスとしてバラ色のイメージで描いた作品同様、これらロサンゼルスの隠された部分を描く作品もこの都市の真実を必ずしも正確に描いているわけではないという批判が加えられる。また、アンダーセンがアニメ版『チャイナタウン』と呼ぶロバート・ゼメキスの『ロジャー・ラビット』におけるロスの交通問題と政治との関わりなども、映画とは関係なしに興味を惹かれる。
ロサンゼルスで生まれ育ち、この街の変遷を見続けてきたアンダーセンにとって、ロサンゼルスを語るとは、ある意味、自分自身を語ることでもあり、『Los Angeles Plays Itself』は、彼にとって非常にパーソナルな映画でもあったはずである。それでいながら、この映画は、いい意味で、センチメンタリズムやノスタルジーとは無縁の、ドライな知性によって作られているという印象を受ける。ナレーションの言葉がアンダーセンによるものでありながら、彼とは別の人間によって読み上げられていることも、このこととは無縁ではないだろう(アンダーセン自身は、自分の声を聞きながら編集をしたくなかったといっている)。
しかし、不思議なのは、アンダーセンが映画を愛しているのか、それとも憎んでいるのか、この映画を最後まで見てもよくわからないことである。映画が、現実のロサンゼルスとは乖離したイメージをいかにして作り上げてきたかを、彼は具体的な作品を通して見せていくのだが、そうしたフィクショナルなイメージを彼は本気で批判しているようにも思える。「Los Angeles」を「L. A.」と略して呼ぶことに対する、ふつうの人には理解しがたい彼の異議申し立ても、そのあたりに関係しているのだろう。 映画は現実をゆがめるべきではないという、純粋な、あるいは素朴なバザン主義とでもいったものが、アンダーセンの語る言葉の端々に見え隠れしている(この映画の最後で顕揚されるのは、ケント・マッケンジーによるネオリアリズム的作品『異郷生活者たち』(Exiles) や、黒人映画作家チャールズ・バーネットが黒人たちをリアルに描いた『Killer of Sheep』である)。おそらく、こうした点が、この映画でもっとも批判されるべき部分ということになるのかもしれない。
しかし、アンダーセンの意図がなんであれ、この映画が、映画をテーマにした非常に魅力的なドキュメンタリーであることは間違いないし、おそらく彼が批判的な意味で引用している映画の断片でさえ、見るものを惹きつけてやまない。
最後に一つ付け加えておくと、この映画では、2百本以上の作品が引用されているらしいのだが(むろん自分で数えたわけではない。そんなにたくさんあったかなという気もする)、そのほとんどは第二次大戦後の映画作品に限られている。この映画に登場する戦前の作品となると、エデンデール撮影所時代に撮られたマック・セネットの作品や、ローレル&ハーディの『ミュージック・ボックス』など、ほんの数作品に過ぎないし、アンダーセンもこの時代についてはあまり言及していない。いわば、戦前のロサンゼルスは不可視の都市だったのである。むろん、それは、ロサンゼルスがニューヨークなどと比べて遅れてきた都市だったということに過ぎないのかもしれない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。気になる点ではある。これは、今後の研究課題としたい。
(『Los Angeles Plays Itself』は本国アメリカでもまともに公開されておらず、日本ではなかなか見るのが難しい作品だったが、昨年になってブルーレイ化されたので、高画質の画面で簡単に見ることができるようになった(下写真)。DVD も同時に発売されている。
[お知らせ]
8月23日(日)に、神戸映画資料館で「〈亡命〉映画作家エドガー・G・ウルマーが辿ったまわり道」と題した講座をやらせていただきます。あわせて、ウルマーの2作品、『モンテ・クリストの妻』『ある姉妹の秘密』の上映もあります。2本ともめったに上映されることのない作品ですので、是非この機会にご覧になってください。
講座の概要はこちらのページに書いてありますが、実際に話す内容はここに書いているとおりにはならないかもしれません。ウルマーという映画作家とその作品の魅力に少しでも迫れるよう頑張ります。
(『ゴダールの探偵』より。カサヴェテス、ウルマー、イーストウッドに捧げられたクレジット)
△上に戻る