映画の誘惑

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365日間映画日誌

日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。

2003年1月〜3月

■3月25日

『夜の河』(56年、吉村公三郎)

まあ、退屈な不倫映画なのだが、山本富士子の働く染物屋の助手(?)として後で入ってくる伊達三郎が、いつもの切られ役とはひと味違った感じを出していてよい。

■3月20日

『右門捕物帖 卍蜘蛛』(62年、河野寿一)
無国籍ミステリー時代劇。進藤英太郎が大友柳太朗のライバル。別に大した映画ではないが飽きずには見れる。金髪の桜町弘子にはドキドキ。 チャンバラの場面でジャズっぽい音楽を使っているのはこの時代としては新しいのか? そうでもないのか?

『非常の街』(88年、サン・チャン)
『リーサル・ウェポン』?

■3月19日

『ネットワーク』(76年、シドニー・ルメット)
テレビによる非人間化の批判。図式的すぎるきらいがあり、特に後半の部分は、風刺にしてもリアリティに欠けすぎる(過激左翼云々)。ただし、ピーター・フィンチとフェイ・ダナウェイはよい。

『昨日・今日・明日』(63年、ヴィットリオ・デ・シーカ)
マストロヤンニとソフィア・ローレンを主演に、ナポリ、ミラノ、ローマを舞台に描いたオムニバス。第1話の、逮捕を逃れるために子供を妊娠しつづける夫婦の話がおもしろいといえばおもしろい。でも、そんな法律ほんとにあるの?

■ 3月17日

こんなに長いこと日記を書いてなかったとは──。

あんまり頭を使わない本が読みたい気分なので、山田風太郎のミステリーを読む。
「誰にでもできる殺人」:オムニバス形式でかかれた長屋者ミステリー。一編一編がよくできているが、各話どうしの絡ませ方もうまい。最後のまとめ方にやや無理があるような気もするが、山田風太郎のミステリーのなかでは最高傑作のひとつといっていいだろう。

「黄色い下宿人」:ホームズと夏目漱石を対決させ、しかもホームズを敗北させるという異色のパスティッシュ。

『JSA』(00年、パク・チャヌク)

『家族の肖像』Gruppo di famiglia in un interno(74年、ルキノ・ヴィスコンティ)
室内描写だけで構成された映画。ベランダ越しに見えるローマの風景がすばらしい(実際にはあり得ない空間がコラージュされているというが)。ヴィスコンティの映画にしばしば現れる芸術愛好家。絵画に囲まれたバート・ランカスター(相変わらず見事な演技)。回想シーンでほんの一瞬現れるドミニク・サンダ(とクラウディア・カルディナーレ)が素晴らしい。回想場面では、切り返しショットを使わずに、彼女たちのアップだけで処理しているのも聡明なやり方だ。

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■2月23日

『レマゲン鉄橋』(70年、ジョン・ギラーミン)

意外と面白かった。戦争映画の場合、味方だけを描くか、敵と味方の両方を描くか、二つのケースが大まかにいってあると言えるが、この映画は律儀にナチス側と連合軍(アメリカ軍)側を描き分けている。話はちょっともたついているが、個々の人物描写は悪くない。ナチス側も一方的に悪者に描いてはおらず、全体的に反戦的なのはやはりベトナム戦争時代の戦争映画だからか。ナチスの将校役に、ハンス・クリスティアン・ブリッヒが出ているので驚く。

■2月19日

『ロング・キス・グッドナイト』(96年、レニー・ハーリン)

うーん、映画がどうのこうのいう前に、女優がひどいね。『靴をなくした天使』のジーナ・デイヴィスはそんなにひどいとは思わなかったけど・・・。自分の妻を主役にして生かし切れない監督というのもねぇ。

『動く標的』Harper(66年、ジャック・スマイト)

フィルム・ノワールの復活をしるす作品として有名だが、今見ると別にどうということはない。プールのある大邸宅のあるじの失踪。インフォマニアの娘。そして女主人は――、ローレン・バコール! 『三つ数えろ』から時代はめぐった。ポール・ニューマンはすぐに殴られて気絶する結構情けない探偵を演じている。

■2月15日 (土)

『ガッジョ・ディーロ』(97年、トニー・ガトリフ)
ハンガリー。ロマ族?

『異邦人たち』(00年、スタンリー・クワン)
いわゆるスタイリッシュな映像。フィルターがかかったような画像はいらいらさせ、閉所恐怖症的な気分にさせる。もっとも、話が進むにつれて舞台となっている島が伝染病のために外部から封鎖されることになるという展開なので、これはこれで良かったのか・・・。大沢たかおのナレーションは、まるで安物のテレビドラマのようだ。かれは脚本家という設定らしいので、このナレーションの陳腐さはひょっとしたらねらったものか。そうは思えないが。

『ニューヨーク・ニューヨーク』New York, New York(77年、マーティン・スコセッシ)
最後のミュージカルシーン(「Happy Ending」)がいい。ひょっとしたらこれが最後の本格的ミュージカルだったかも。40年代のハリウッドのミュージカルのデコールのなかで芸術家夫婦のドキュメンタリーを撮るという野心的作品。

■2月9日 (日)

『アガサ・愛の失踪事件』(79年、マイケル・アプテッド)。撮影ヴィットリオ・ストラーロ。

『偽りの晩餐』(87年、エルマンノ・オルミ)。公開されたとき以来だから、今回見るのはもう15年ぶりぐらいになる。二度見てもやはり謎めいている。グルメ系映画の傑作? もっとも、ほとんど引きの画面のみで、料理の皿は一度もアップで写されないのだが。

『靴をなくした天使』(92年、スティーヴン・フリアーズ)
原題『Hero』。いい意味でフランク・キャプラの映画の延長上にある映画。意外と泣ける。

『天使が見た夢』La vie rêvée des anges(98年、エリック・ゾンカ)
これはひろいものだった。リュックを背中に担いでリールにやってきた女が、工場で知り合った別の女性と同棲を始めるが、やがてふたりのあいだはぎくしゃくし始め、悲劇的な結末を迎える。ふたりの女優、エリック・ブシェーズとナターシャ・レニエの素晴らしさにだいぶ助けられた映画ではある。彼女らが女工として働く工場の描写にあまり説得力がなかったり、病院で昏睡状態の少女の挿話がそれほど生かされていなかったりするところなど、不満な点は色々あるが、ほかの作品にも期待してみたい。ナターシャが窓から飛び降りるところは、ブレッソンの『やさしい女』の最後を思い出させ、なかなか冴えている。

『キング・オブ・コメディ』King of comedy(83年、マーティン・スコセッシ)
白塗りの壁に囲まれた自宅の居間のテレビに映ったサミュエル・フラーの『拾った女』に一瞬見とれるジェリー・ルイス。

■2月9日 (日)

『アメリカン・プレジデント』基本的には『プリティ・ウーマン』のヴァリエーション。マイケル・ダグラスの大統領というのはいかにも頭が悪そうだが、フロンガス20パーセント削減、銃規制にも積極的というのは、ブッシュより数倍ましである。どこだったかでフランク・キャプラへの言及。アメリカ映画における大統領の変貌。

『美しき小さな浜辺』(48年、イヴ・アレグレ)。雨の映画。

『エボリ』(79年、フランチェスコ・ロージ)。《Cristo si e fermato a Eboli.》カルロ・レーヴィの原作。北(ローマ)で反ファシズム運動にかかわっていた画家が、南の僻地エボリに流刑になってやってくる。流刑といっても、強制労働させられるわけではなく、ただ監視がついていることをのぞけば、ほとんどVIP待遇である。北部の知識人が、キリストさえもそこには踏みいらなかったといわれるその見捨てられた南の町で、貧しく活きる農民たちの姿に、イタリア文化の基盤のようなものを発見してゆくという物語は、一言でいうと、いい気なもんだと思った。それでは少し単純すぎやしないか。

■2月3日 (月)

『テルミン』(93年、監督・製作・脚本:スティーブン・M・マーティン)

たしか一昨年だったと思うが、イヴェントなどで話題を集め、ミニシアターではかなりヒットした映画だ。ヴェンダースの『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』などと同じで、いわゆる「音楽がらみ珍ヒット映画」(とわたしが名づけているタイプ)である。

・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

ビーチ・ボーイズのファンならテルミンという楽器の存在はたぶん知っているだろうが、その実物を見た人はそれほど多くないはずだ。実はわたしも、この映画を見るまではテルミンがいかなるものなのかも、この楽器の陰にこのような物語が隠されていたことも、知らなかった。

そもそもはたしてこれを楽器と呼べるのか。上部が斜めに切り取られた木製の楽譜台のような箱に、垂直と水平のアンテナが一本ずつついているだけの、その奇妙な外観は、楽器というよりもむしろなにかの通信機を思わせる。映画は、その奇妙な箱の赤いスイッチランプが暗闇にぼんやりと浮かび上がり、あの世から聞こえてくるような声が、まるで三島由紀夫の『仮面の告白』を模倣するかのように、自分の誕生の瞬間を語るところから始まる。霊界との交信装置? そんなことをふと想像させもするその声の主こそが、テルミンの発明者、テルミン博士らしいことが、やがてわかってくる。そしてかれが、一度死んでから甦るという、文字どおりあの世からの帰還者であったことも・・・。

その冒頭の場面のあとに、テルミン博士のパートナーであった老女が、テルミンを演奏する場面が続く。箱の前に立った彼女が、二本のアンテナのあいだの空間にまるで見えない弦が存在するかのように両手を動かすと、その動きに合わせて空中から音楽が現れ出てくる瞬間は、一度見たら忘れられない。

『白い恐怖』、『失われた週末』、『地球の静止する日』など、往年のハリウッド映画(とりわけ SF あるいはホラー映画)で、恐怖や不安をあおるためによく使われる定番といってもいいような効果音が、実はテルミンを使ったものだということも、この映画を見てはじめて知った。さらには、『紐育ウロチョロ族』で、ジェリー・ルイスが本物のテルミンを前にコミカルな演技を披露している珍しい場面を見ることができるのも嬉しい。だが、やはり圧巻は、ブライアン・ウィルソンが自らテルミンを演奏してみせる場面だ(そのあと一瞬挿入されるトッド・ラングレンのショットは、なぜ使われたのかよくわからないが)。

この不思議な楽器を発明した天才テルミン博士が、どういうわけで KGB の特殊機関でクレムリンを盗聴する装置の開発に携わることになるのか・・・。その数奇な運命は、作品を直にご覧になっていただくとして、最後にひと言。この映画は、音楽ドキュメンタリーであると同時に、「老人映画」として見ることをお薦めする。

・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

[この映画のチラシなどには、「タイトルの“テルミン”とは、ロシアの物理学者にしてチェロの名手でもあったレフ・セルゲイヴィッチ・テルミンの名前であり、彼の発明した世界初の電子楽器でもある」と書いてあるのだが、人のいうことをほとんど信じないひねくれ者であるわたしは、なんでも自分で調べないと気がすまない。そこで百科事典で調べてみると、「世界最初の電子楽器は、ケーヒルがつくったテルハーモニアムtelharmoniumである。これは1906年にニューヨークで公開されたが、総重量200トンという巨大なものであった。音を電気的に得ることに関する多くの問題を解決し、また今日の電子楽器の基本的要素はほとんどすべて盛り込んだ画期的なものであったが、実用には至らなかった」、とある。

テルミンが発明されるのは1920年であるから、テルミンが世界初の電子楽器というのは間違いだ。それでテルミンの魅力が減少するわけではまったくないが、多くの人に目が触れる媒体に文章を書いている人は、こういう簡単に調べられることはチェックして欲しいものだ。]

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■1月29日 (水)

『愛と死の間で』(91年、ケネス・ブラナー)。最低3本は見なければ、監督の評価はできない。ケネス・ブラナーについては、そろそろ能なしだと判断を下しても良さそうだ。

『シックス・センス』(99年、M・ナイト・シャマラン)。結末を知った上で見直してみると、やはりいろいろ無理な点が目立つ。幽霊は自分が見たいものしか見ないというのが、逃げ口上になっているのだが、気づかないのはやはりおかしいだろう。

『RONIN』(98年、ジョン・フランケンハイマー)。いつものフランケンハイマー。プロフェッショナリズム、裏切り者。南仏アルル(闘牛場、ゴッホのカフェ)からパリへ。何よりも驚いたのは、ミッシェル・ロンスダールの存在。全然姿を見ないと思っていたら、こんなところにいたのか。相変わらずのひげ面。「RONIN」という言葉を口にするのは彼である。

『リプリー』(99年、アンソニー・ミンゲラ)。ホモセクシャルへのあからさまな言及。

『おしゃれ泥棒』(ウィリアム・ワイラー)。フランス語で書かれたヒッチコック論を読むヘップバーン。警報機を何度も鳴らして、誤作動だと思わせてスイッチを切らせる、狼が来た作戦。

『SAFE』(95年、トッド・ヘインズ)。シックハウス症候群がテーマ。女主人公は、安全な環境を求めて、最後には人里離れた施設で同じ症状に悩む人々と共同生活をはじめる。なにやら新興宗教めいた怪しげな施設。監督はこれを肯定的に描いているのか、それともシニカルに描いているのかが、いまいちはっきりしない。ヒロインはついには、窓がない白いカプセルのような家のなかで生活をはじめる。「SAFE」とは、「安全」という意味であると同時にまた、「金庫」のように閉じられた空間の意味でもあるだろう。安全のために「外」が排除されるというのは、端的に不愉快である。

『ダークシティ』(97年、アレックス・ブロヤス)。『クロウ』でもそうだが、この監督は、漫画チックな世界をつくりあげるのが結構うまい。とはいえ、仮想記憶、ヴァーチャルな世界を現実と信じている住人、等々、どれも紋切り型で、新しさはまるでない。神父のかぶっているような帽子をかぶった黒ずくめの異星人が、立ったまま空を飛んでゆくところはなかなかいい。

『ペイバック』(99年、ブライアン・ヘルゲランド)。ジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイントブランク』のリメイク。元の話がよくできているので、それなりに楽しめるのだが、リメイクする意味があったと感じさせるものはなにもない。前作で描かれた「組織」の不気味さは、まるで描かれていない。ラストは、メル・ギブソンが組織を全滅させて恋人と旅立つという、馬鹿みたいなハッピー・エンド。

『双頭の鷲』(47年、ジャン・コクトー)。アントニオーニのリメイクのほうが印象深い。コクトーはなによりも、台詞作家である。

■1月6日 (月)

『続・激突 カージャック』(74年、スティーヴン・スピルバーグ)。

いかにも70年代的な自由の希求とその挫折。大量の車が登場するが、けっしてカーチェイスにはならない。『ユーズド・カー』と比較せよ。

『フェリーニのアマルコルド』(73年、フェデリコ・フェリーニ)。『県警対組織暴力』

■1月6日 (月)

『アンナ・カレニナ』(48年、ジュリアン・デュヴィヴィエ)。

ロンドン・フィルム作品。デュヴィヴィエだから大したことないと思っていると、脚本にジャン・アヌイが参加し、衣装がセシル・ビートンだったりするので、馬鹿にできない。もっとも、あまり面白くないことには変わりないのだが、プラットホームに舞う粉雪などけっして悪くない(撮影、アンリ・アルカン)。

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