日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
フィル・カールソン『アリバイなき男』(52)★★★☆
Kansas City Confidential
ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』やキューブリックの『現金に体を張れ』と並べてもそう見劣りのしない銀行強盗ものの傑作。
フィル・カールソンが得意としたジャンルの最高傑作の一本である。40年代にデビューし、50年代の初めに頭角を現すこのB級映画の職人監督は、B級映画好きのフランスのシネフィルからさえも曖昧な評価しか受けていない。実際、わたしがフィル・カールソンという名前をはじめて意識したのは、アメリカの批評家マニー・ファーバーの『Negative Space』を読んだときだった。ヌーヴェル・ヴァーグに先立ってアメリカのB級映画を擁護したとされるこの高名な映画批評家の評論を集めた本のなかで、フィル・カールソンは、記述こそ少ないが、アルドリッチらとならんで言及されているのである。アンドリュー・サリスの『The American Cinema』のなかでは、フィル・カールソンは、バッド・ベティカー、アラン・ドワン、ジョゼフ・H・ルイス、ドン・シーゲル、ロバート・シオドマク、ジャック・ターナー、エドガー・G・ウルマーらと同じくくりである「Expressive Esoterica」に分類され、「カールソンがもっとも個性的で真価を発揮するのは、組織悪に支配された世界における暴力を描くときである」と書かれている。『アリバイなき男』はまさにそのような作品であるといっていい。
ジョン・ペイン、プレストン・フォスター、ジャック・イーラム、リー・ヴァン・クリーフ、ネヴィル・ブランド(!)という配役を見て、リー・ヴァン・クリーフ以外は知っている名前がひとつもないと思うか、すごいメンツだと思うかは、その人がB級映画にどれほど親しんでいるかによるだろう。プレストン・フォスター(『地獄への挑戦』)演じるボスが、ジャック・イーラム、リー・ヴァン・クリーフ、ネヴィル・ブランドの三人を集めて銀行強盗をたくらむ。ただし、3人は終始マスクをかぶらせられ、ボスだけが彼らの顔を知っている。残りの三人は、ボスの顔はおろか、互いの顔もわからない。映画がはじまってから銀行強盗がおこなわれるまでは恐ろしいスピードで進行し、銀行強盗もあっさりと成功する。映画が描くのはここからの物語である。
強盗犯とはまったく関わりがないのに、車を犯行に利用されたために名誉も仕事も失ってしまったジョン・ペイン(アラン・ドワンの西部劇でおなじみの名前である)は、たったひとりでメキシコくんだりまでいって銀行強盗の一味を捜し出し、追いつめていく。ボスの顔がわからず疑心暗鬼になる手下たちと、最初から彼らを利用して完全犯罪をもくろむボス、そこにひとりで乗り込んでくるジョン・ペインらの心理的駆け引きがストーリーの牽引力となる。ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』のように、互いを出し抜こうとする悪党たちの力の危ういバランスが精緻に描かれているわけではない。鈴木英夫の『悪の階段』のように、よかれ悪しかれあざといほどの人間描写が強い印象を残すわけでもない。物足りなく感じるひともいるだろう。しかし、間違ってもオスカーなんてねらわないといったカールソンの作風のほうがわたしは好きである。
『Kansas City Confidential』というタイトルは知っていたが、それが『アリバイなき男』というタイトルで公開され、DVDにまでなっているとは知らなかった。いわゆる500円DVDではないが、PD扱いでほとんど500円程度で手に入れることができる。しかし、本屋で見かけたことがないし、ネットでも手に入りにくくなっているようだ。とりあえず楽天のリンクを張っておいたが、在庫があるかどうかはわからない。手にはいるようだったら早めに買っておくことをお薦めする。見て絶対に損はない作品である。
フィル・カールソンのDVDとしては他に、『消された証人』など数作が日本で出ている。『アリバイなき男』以外では、『無警察地帯』The Phoenix City Story がカールソンの代表作としてあげられることが多いが、アンドリュー・サリスは『The Brothers Rico』がカールソンの最高傑作だとしている。どちらも本国アメリカでさえDVDにはなっていない。
『アート・アニメーションの素晴らしき世界』という本のなかで筒井武文が面白いことを書いている。
いわゆる実写は、その意味では静止写真ではない。実写には一コマに「時間」が刻まれている。ふつうの映画は1秒24コマですね。しかし、コマが送られる時間が必要だから、シャッターが間欠運動で閉まったり開いたりすると、仮にシャッターの開角度が180度だったとすると、一コマは24分の1秒じゃなく48分の1秒になるんですね。一コマの時間には48分の1秒の時間が凝縮されている。48分の1秒よりも動きの速いものは写っていないかもしれないし、ゆるやかに動いているものはその48分の1秒でぶれてるわけです。[・・・]要するに、現実の時間の半分を写し取ってるわけですよね。映写するときも同じで、写ってない間の時間があるわけです。 << 映画は世界の半分を取り逃がしている・・・。
考えたこともなかったことなので、思わず目が点になってしまった。
ところで、最近、ひさしぶりにリュミエール兄弟の作品をまとめて見直した。周知のように、このころの映画は、フィルムの感度がいまほどすぐれていなかったので、明るい陽光のなかでしか撮影できなかった。つまり、夜の世界は写すことができなかったのだ。リュミエール兄弟が撮影したリヴァプールのライム・ストリートは、夜の女たちが出没する場所として知られていた(いる?)という。しかし、むろん、そのフィルムには、明るい日差しを受けて散歩する紳士たちの姿しか写っていない。リュミエールの映画は世界の半分を取り逃がしていた。いや、筒井武文の話と合わせると、世界の4分の3を取り逃がしていたということになる。なんだかめまいがしてきそうだ・・・
それにしても、リュミエール兄弟が撮影した映像はなぜこれほどに美しいのだろうか。毎日テレビのニュース番組で流されているのと一見大差のない他愛もないイメージが、どうしてこれほど見るものの心をとらえてしまうのか。これがショットの力というやつなのかもしれない。それとも、これは、かつてあったものに対するただのノスタルジーにすぎないのだろうか。
『スキャナー・ダークリー』はどうやら『ウエイキング・ライフ』のようなアニメ調の映画になっているようだ。個人的にはちょっとがっかりな気がしないでもない。実写で見たかった。
さて、楽しみにしていた『マリー・アントワネット』がついに公開される。ポスターの写真を見る限りでは、ほとんどセックス・ピストルズのアルバム・ジャケットにしか見えない。パンクなマリー・アントワネットが見られそうだ。映画を見る前に、最高の伝記作者シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』も読んでおこうと思う。『ジョゼフ・フーシェ』は素晴らしかった。
『マリー・アントワネット』 監督:ソフィア・コッポラ 出演:キルスティン・ダンスト (正月第2弾〜全国) 配給:東宝東和/東北新社
『麦の穂をゆらす風』 監督:ケン・ローチ 出演:キリアン・マーフィー/ボードリック・ディレーニー 内容:1920年、アイルランド。英国による支配からの独立を求め、若者たちが義勇軍に参加する。デミアンもまた医者としての将来を捨て、兄テディと共に過酷な戦いに身を投じていく。そしてついに独立を手にするが、次は内戦が彼らをまき込んでいく… (11月〜シネカノン有楽町/シネ・アミューズ) 配給:シネカノン
「コメディ映画 ベスト50」に70 年代以後のコメディをアップ。ついでにジャン=ピエール・モッキーの『ソロ』も追加。作品は真剣に選んだが、面倒くさくなったのでコメントは省略した。
なにげにリストアップしていたのだが、気がつくと70年代の作品がほとんどはいっていない。いろいろ考えてみるのだが、70年代のコメディでこれといったものがまったく思い浮かばないのだ(日本映画の70年代は喜劇の黄金時代だったと思うが、日本映画は別枠にしているので、とりあえず無視している)。70年代はそんなにコメディが不作の時代だったっけ?
「Cahiers du cinéma」の HP がひさしぶりに更新をはじめた。長いあいだ全然更新していなかったような気がするのだが、別にレイアウトが変わった様子もない。なんだったんだろうか。
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「リベラシオン」と「ル・モンド」では、ヴェネチア映画祭で上映される作品のことが毎日のように報告されているのだが、面倒くさいので見出しだけちらっと見て中身はほとんど読んでいない。アピチャポン・ウィラーセクタンの新作『Syndromes and a Century』(またまた意味不明なタイトル)はこれまでの作品にもまして「étrange et déboussolant」(奇妙で、途方に暮れさせる)などと書いてあるとどうしても見たくなってくるのだが、わたしの住む関西では『Blissfully Yours』も『Tropical Malady』もまだ上映されていないというありさまだ。この新作も何年待てば見ることができるのだろうか。
老アラン・レネの新作『Coeur』は「un bouleversant chef-d'oeuvre」(驚くべき傑作)だなどという文句を見て、そうなのかと思ったりもする(フランスのメディアが伝えているのだから、多少割り引いて考えておいたほうがいいだろうが)。レネの最近の作品はなぜか日本でも公開されているので、これも待っていればいつか見ることができるだろう。
クアラルンプールを舞台にハイテク社会の暗部、ミラーイメージを描いた作品らしいツァイ・ミンリャンの新作『I Don't Want to Sleep Alone』も相当評判がいい。前作の『西瓜』(天邊一朶雲 THE WAYWARD CLOUD)は9月に公開されるらしい。『楽日』は関西でこれから公開されるんだろうけど、どこの映画館になるんだろうか。それにしても、日本で公開される時期とのタイムラグがあまりに大きいのでめまいがしてくる。
そうそう、日本から出品されているアニメ映画もまずまずの評価を得ているようだ。
ところで、ローマでも10月に映画祭が始まるらしい。「ヴェネチア対ローマ、映画祭戦争がイタリアを二分」などという見出しが躍っていたりする。ヴェネチアはローマの動向に内心では戦々恐々としているようだ。はたしてこの新しい映画祭は映画を盛り上げてくれるのだろうか。
成瀬巳喜男『稲妻』★★★☆
ジャコメッティ展を見に行った兵庫県立美術館で成瀬の『稲妻』を見る。こんなところで映画の上映をしているとは知らなかった。もっとも、知っていても気軽にいける距離ではないが。入場料500円だったのでひょっとしてビデオ上映ではないかと思ったが、フィルムだったので安心した。真っ白い壁に直に上映するシネマテーク方式(?)。マスクもカーテンもないので画面の角が丸くなっていたりする。慣れないととまどうが、フィルムの隅々まで見られるのは快感である。それにしても、こんなにでかいスクリーンでスタンダード・サイズの映画を見るのはひさしぶりだ。ただし、画面が少し暗いような気がした。フィルムの問題か、それとも映写機のランプの光量の問題か。
なんどか見ているはずだが、前半は忘れている部分が多かった。途中で橋が出てくる。高峰秀子(三女)と三浦光子(次女)が、三浦光子の亭主(冒頭、バスガイドの高峰に目撃されるだけで、直後に死んでしまう)の愛人である中北千枝子宅に乗り込んでいく場面だ。あれはトラス橋というのだろうか、黒々としたでっかい鉄橋(橋桁が一段高くなっていて、入り口と出口で階段を上り下りしなければならない)をふたりが渡ってゆくところを俯瞰で収めたロングショット(中北千枝子が住む二階からの視線?)があらわれたとたん、画面が生き生きとしだすように思ったのはわたしだけだろうか。中北千枝子との慰謝料をめぐる静かながら激しいやりとりが終わったあと、相手のいいなりになってばかりの三浦光子にいらだった高峰秀子がさっさとその場を去り、おくれて出てきた三浦光子が橋の上で高峰に追いつく。ああと思うと、やはり例によってふたりは橋の上で立ち止まるのだが、そこで振り返ると遠くの二階から中北千枝子がこちらを見ているというめずらしく深い構図になっているところが印象的だ。
勝ち気で自己本位な長女(村田知英子)、陰気で愚痴ばかりいっているその亭主、ただ耐えているだけの次女、戦争帰りを理由に無為の生活を送る兄、家族のごたごたをあきらめてただ見ているだけの母親(浦辺粂子)、厚かましいほどのヴァイタリティにあふれている長女の愛人(小沢栄一郎がいやらしい目つきの中年男をいつものように圧倒的な存在感で演じている)などなど、下町を舞台にゾラの小説を思い出させる物欲色欲のどろどろとした世界をさらりと描いた前半も見ていて飽きさせないが、個人的には、橋が出てくるあたりからの後半部分が好きだ。
自分を取り巻く世界に嫌気がさした高峰は一人家を飛び出し、山の手に部屋を借りて一人暮らしをはじめる。彼女が暮らす二階の部屋と香川京子・根上淳の兄妹が住む隣家を描いた空間描写が素晴らしい(二階の窓から隣家の庭が見え、ピアノの音がふたつの空間をつなぐ)。突然の雨に、香川京子が隣家の洗濯物をしまいにいったことがきっかけで深まる関係。下町から山の手に移ったとたん、みんないい人ばかりというのは、不自然といえば不自然だが、それもふくめて成瀬における下町≠山の手の関係ももう一度考えてみたい。
成瀬の映画では、二階は決まって借家人の住む空間だという印象がある。さらにいうなら、そこは、「家」に縛られた主要な登場人物たちとは対照的に、家族から独立した自由人の住む空間でもある。『稲妻』では、高峰秀子の家の二階を借りて住む令嬢が彼女に一人暮らしを決意させるひとつのきっかけとなっている。
二階の窓から見える稲妻(あれはたぶん美術だと思うのだが、だとすればよくできている)。
高峰秀子とは本作と同じくバスの車掌(実質バスガイドです)を演じた『秀子の車掌さん』以来のコンビ。
トゥルニエの『魔王』に次のような一節があった。カルテンボルンの指揮官が、紋章用語では右を左、左を右というと説明したあとで、次のように語るところだ。
こういった転倒には、たぶんあとから思いついたのだろうが、実際的な説明がなされている。盾というものは、それと正面から向かいあう見物者の観点からではなく、左腕に盾をもつ騎士の観点から読まれるべきだというのだ。健全な紋章の伝統を負うプロイセンの鷲は、つねに頭を右に向けている。鉤十字の描かれた柏の葉の冠を爪で押さえている第三帝国の鷲を見たまえ。頭は左へ向いている。それは左向きの鷲、不純な、あるいは貴族の家系から落後した枝葉に残された正真正銘の変種だ。もちろん、どんな党指導者もこの怪物性を正当化できない。
前々から興味があったが、こういうのを読むと紋章学についてもっと知りたくなってくる。調べてみたら、『鷲の紋章学〜カール大帝からヒトラーまで』(アラン・ブーロー)という本があった。著者はアナール学派に属する歴史家らしい。まさにうってつけの内容みたいなのだが、10年ほど前に出たばかりなのにすでに手に入らなくなっているようだ。アマゾンのマーケットプレイスでは19800円なんてばか高い値段が付いている。図書館で借りることにしよう。
ところで、上に引用したのはみすず書房の訳だが、訳文では左と右がどういう意味で使っているのかがわかりづらい。最初に紋章用語では左が右、右が左になるといったあとで、「左」といわれても、ふつうの左なのかそれとも紋章用語の左なのかはっきりしない。「プロイセンの鷲は、つねに頭を右に向けている」とあるが、ここの「右」は原文では「dextre」となっている。「dextre」は紋章用語で右を意味する言葉だ(英語では dexter)。つまり、盾をもつ騎士から見て右、簡単にいうと向かって左のことだ。同様に、第三帝国の鷲は頭を左に向けているという部分も、「左」は原文では「senestre」となっている(英語では sinister)。これは「dextre」の対概念で、向かって右を意味する。ややこしいですね。わからないひとはここに図版があります。
つまり、プロイセンの鷲は基本的に向かって左を向いているということだ。逆に、ナチスの鷲は向かって右側を向いているということになる。それは伝統的にいって非常にアブノーマルだというわけだ。しかし、ネットでちょっと調べてみただけだが、ナチスの鷲の頭の向きは、向かって右向き(つまり sinister)のものもたしかにあるが、向かって左向きのものもあるようだ。あとからネオ・ナチなんかが勝手にデザインしたものもあるだろうから、どれが正式なのかもう少し調べてみないとよくわからない。プロイセンの鷲にしても、たとえばデューラーがカール大帝を描いた絵では、鷲は sinister の方向を向いている。これはひょっとしたら、デューラーが右左を間違ったのだろうか、と、素人としては思ったりするのだが、これもよくわからない。まずは、さっきの『鷲の紋章学』を手に入れることにしよう。
ところで、わたしが紋章に最初に興味を覚えたのはナボコフの『ベンドシニスター』がきっかけだった。勘が鋭い人はおわかりのように、「シニスター」とは sinister のこと。「ベンドシニスター」は、紋章の楯の左上から斜めに引かれた筋、あるいは帯 をさし、平民を意味する言葉とされる。当然、貴族を意味する言葉は「ベンドデクスター」ということになる。 どうです、なかなか面白いでしょ?
粗野な言動となによりもその強さで人気の的だった若いボクサーが、微妙な判定をめぐって一転、メディアのバッシングの対象となる。その開いた穴を埋めるようにして、白いユニフォームに身を包んだ礼儀正しい高校生投手が、どう考えても過剰すぎる注目を浴びて、連日テレビのワイドショーで取りあげられる。もうすっかり見慣れてしまったこうしたマス・メディアの光景は、民俗学でポトラッチと呼ばれる、ありったけの財貨を積み上げておいてそれを破壊する贈与と消費の儀式を思い出させる。「ハンカチ王子」という愛称で親しまれているその高校球児も、その人気が絶頂に達したときになにかのきっかけでふいにどん底に突き落とされてしまうのかもしれない。もう夏休みは終わるのだから、そろそろそっとしておいてやればいいのではないかとも思う。長いあいだテレビを見てきてわかったことは、メディアは決して反省しないということだ。
さて、前にも書いたように、どのテレビを買い換えるかでいま迷っている。自宅のテレビがもう瀕死の状態なのだ。
どこかで書いたかもしれないが、わたしは前々からテレビのデジタル化には懐疑的だった。率直にいって、いまデジタル化する意味がわからないのだ。わたしはたぶんくだらないテレビ番組をだれよりも数多く見ていると思うのだが、それを高画質の画面で見たいとは思わないし、デジタル放送によって可能になる情報の双方向化とやらにもまったく興味がない。ただでさえばかな国民が、これでますますばかになる、ぐらいにしか思えないのだ。それに、こういう記事を読むと、デジタル放送がはらむ危険をあらためて意識させられる。そもそも、テレビがデジタル放送に移行するということがどういうことなのかわかっていない人が多いのではないだろうか。電気店の薄型テレビの前に群がっている人たちを見ると、なにもわからずに購買意欲をかき立てられているとしか思えない。(少し古いが、この記事を読めばデジタル放送化について大まかなことは理解できるだろう。
なるほど映画が電波障害の少ない状態で高画質で放送されるというのは魅力的ではあるが、次世代DVDの派閥争いがまだ決着を見ていない(というか、まだほとんど市場に出回ってさえいない)いまの段階では、その魅力は半減するといわざるをえない。しかも、一回ダビングするのに失敗すればそれまでというコピーワンスの問題がつきまとうというのでは、ただ不自由になるだけである。いずれはデジタル化に移行するとしても、状況を見て、2011年というタイムリミットは延期すべきではないのか。しかし、そんな柔軟な姿勢を政府に期待してもむだなようだ(コピーワンスはなんらかのかたちで規制緩和の方向に向かっているようだが、完全に制限がなくなる可能性はゼロだろう)。
しかし、街の電気量販店のテレビのコーナーはいまやデジタル化一色であり、どうやらこの時代の趨勢には逆らえそうにない。四の五のいっている状況ではないのだ。となると、2011年のアナログ放送終了、完全デジタル化時代をにらんで、次に買うテレビは液晶かプラズマかということに自ずとなってくる。というわけで、液晶かはたまたプラズマか、メーカーはどこのブランドがいちばんすぐれているか、などといったことをこの数ヶ月ひそかに検討してきた。だが、ここに来て考えが変わってきた。そこにブラウン管という選択肢が加わったのである。いま悩んでいるのは、液晶かプラズマかではなく、液晶・プラズマかブラウン管かの二者択一なのだ。
直接のきっかけとなったのは、大型電気店の薄型テレビに映った『チャップリンの消防夫』を見たのがきっかけだった。それまでになんどか足を運び、店頭の液晶やプラズマの画面を見て、たしかに一昔前とは格段にきれいになっているという印象を受けていたのだが、そのチャップリンの映像を見てショックを受けてしまった。それはたぶんアナログ放送だったと思うのだが、ひょっとしたらデジタル放送だったのかもしれない(だとすればなお悪い)。あまりの画質の悪さにびっくりしてしまったのだ。インターネットで映画の予告編なんかをダウンロードしてパソコンのモニターで見たときの画質よりは多少ましといった程度の、要するにひどいしろもので、とても正視に耐えなかった。最初は、スタンダード映像がワイドに拡大されているからかと思って、リモコンで4:3のスタンダード画面にしてみたが変わりはなかった。液晶だからこんなに汚いのかとも思い、隣のプラズマテレビで同じ映像を見てみたが、まったく同じだった。たまたま同じ番組のBSアナログ放送を自宅のDVDレコーダーで録画していたので、うちに帰ってつぶれかけのソニーのトリニトロンテレビで見てみたのだが、店頭の液晶やプラズマとは比べものにならないほどきれいだった。
アナログ・ソースの映像を解像度の高い薄型テレビで見るとこんなに汚く見えるのかというのは、正直いって衝撃だった。これで薄型テレビを買う気持ちは一気に失せてしまった。こんなもので映画を見るのかと思うと耐えられなくなる。薄型テレビについてのレビューやレポートはいろいろあるが、映画好きがその視点から書いたものは見たことがない。はたして彼らはいまの薄型テレビに満足しているのだろうか。いま市販されているDVDはいわゆるSD(標準画質)で映像が収録されているのがふつうだ。これを大型の液晶やプラズマで見たとき、本当に満足した状態で見られるのだろうか。たとえば、500円DVDのようなビデオ・ソースのものも多い若干画質の劣る映像を見たとき、どのように見えるのだろうか。そういうレポートがほしいところだ。
結論として、わたしはいまの薄型テレビはまだ過渡期の段階にあるように思う。いま買うのは時期尚早ではないだろうか。個人的には、今すぐにもデジタル放送に移行する必要はまったく感じない。わたしの手元にはBSアナログ放送で録画した映画のDVD-Rなどが大量にあるので、それを再生するにはやはりブラウン管テレビが最適に思える。アナログ・ソースの映像の再生用にブラウン管テレビは一台もっておいたほうがいい。2011年まではまだ5年もあるのだから、そのつなぎとして安いブラウン管のテレビを買う。その間に状況は大きく変わっているかもしれない。次世代DVDの状況も整ってきているだろうし、コピーワンス問題にも動きがあるだろう。薄型テレビもいまよりも確実に進歩しているだろうし、値段が安くなっていることは確実である。そのときになって買っても遅くはないのではないか、というのがいまの考えである。ブラウン管テレビの候補としてはやはりソニーのものしかないと思っている。しかし、BSチューナー付にするか、25型か29型かではまだ結論は出ていない。
本当はいまごろは、東芝が開発している次世代薄型ブラウン管テレビ(いわゆるSED)がとっくに発売されているはずなのだが、発売時期がおくれにおくれて来年の夏ごろになるという話だ(それもひょっとするともっと先延ばしになるかもしれない)。実は、それが本命なのだが、いまのテレビがとてもそれまで持ちそうにない。ほんとに、中途半端な時期にこわれてしまったものだ、と恨めしい。
デブラ・パジェットが地下の洞窟をさまよっていると突然、地面にあいた深い穴に落ちてしまう。彼女はその暗い穴のなかでなにかを見て驚愕の表情を浮かべる。その瞬間、キャメラが切り返すと、何十人ものライ病患者たちがそこに立っていて、それがゾンビのようにこちらに迫ってくる。彼女は恐怖の叫びを上げる・・・
フリッツ・ラングの『大いなる神秘』のワン・シーンである。セルジュ・ダネーは、小さいころ見たこのシーンがトラウマになっていると、たしか「La rampe」のなかで書いていた。子供のころ見たその映画の内容はすっかり忘れているのに、そのシーンのことだけは忘れようと思っても忘れられない。それがときおり悪夢のようによみがえってくる。だれでもそんなシーンを一つや二つは抱えているものだ。ダネーの場合、それが、構図=逆構図というすぐれて映画的なショットの連鎖とともに記憶されていたというところが、この逸話を興味深いものにしている。
ごくごく平凡なものだが、わたしにもこういうトラウマ的映像がいくつかある。ひとつは、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』で、殺人犯ロバート・ウォーカーがファーリー・グレンジャーに殺人の濡れ衣を着せるための偽の証拠となるはずのライターを、道路脇の下水の穴に落としてしまう場面だ。下水のふたの隙間から必死で手を伸ばして取ろうとするのだが、どうしても届かなくて焦るロバート・ウォーカーの姿は、わたしにとって悪夢の典型のひとつとして繰り返しよみがえってくるイメージである。わたしは電車を使うときいつも、駅前にあるスーパーの職員専用駐輪場に自転車を駐めるのだが(ここだと屋根があって雨が降ってもぬれないんです)、そこでポケットから鍵束を出して自転車に鍵をかけるとき、ちょうど足下のところに下水のふたがあるのがいつも眼にはいる。そのたびに『見知らぬ乗客』を思い出すのだ。この映画のラストで、恐ろしいスピードで回転しはじめてぶっ倒れてしまうメリーゴーランドも悪夢的イメージとして焼き付いている。あれを見てしまうともうメリーゴーランドには乗れない。もっとも、人生で下水の穴を見る数に比べれば、メリーゴーランドを見る機会はそう多くないのがまだしも救いである。
ボートに乗ったティッピ・ヘドレンに突然襲いかかってくる鳥、トンネルのなかに入ったとたん消えてしまう窓ガラスの走り書きなどなど、ヒッチコックの映画でこの手のシーンは枚挙にいとまがない。幼いころ見て強烈な印象を受けたそれらの場面は、その後見直してみてもいささかもヴォルテージを失ってはいなかった。しかし、大人になって見てみたらたいしたことはなかったというのはよくあることだ。そんなふうに幻滅するのが怖くていまだに見直せないでいる映画もある。ウィリアム・ワイラーの『コレクター』はそんな映画の一本だ。
イギリスで8才のころ誘拐された少女が、監禁されていた男の元を抜け出して保護されたというニュースが話題になっている。日本でもこれと似たような事件が最近立て続けに起きているが、『コレクター』はもう40年以上前にこれと同じような事件を描いた映画だ。
蝶のコレクターである男が、誘拐した若い娘を一軒家に監禁する。女は脅したり、説得したり、誘惑したりして、なんとか男から逃げだそうとするがそのたびに失敗する。ずっとふたりっきりで暮らしているうちに、女の男に対する感情はしだいに変化してゆく。最後にはそれは愛情に近いものになるのだが、一度だまされている男はもう彼女のいうことを信じようとはしない。女は病気になり、死んでしまうが、男はすぐに別のコレクションを探しに出かける・・・
という物語である。当時はそんな言葉はなかったが、今でいうところのサイコ・サスペンスだ。子供のときこの映画をテレビで見たときはショックを受けたものである。そのころワイラーという名前を意識していたかどうかはわからないが、今思えばまったく巨匠ワイラーらしからぬ異色の作品だった。あれ以来一度も見直したことがない。もう一度見てみれば案外たいしたことない作品かもしれない。しかし、わたしにとってはこれもトラウマとなっている一本である。
原作は有名な作家ジョン・ファウルズの同名小説『コレクター』。それからだいぶ後になってファウルズの小説『魔術師』を読んで、そのうんざりするほどのおもしろさ(読んだ人はわかると思うけれど、これは形容矛盾じゃありません)に圧倒されてしまった。なにが本当だったのか最後まで読み終わってもいっこうにわからない、めくるめく世界を描いた傑作だ。サスペンス、恋愛小説、冒険小説、哲学小説、どこに分類していいのかわからないが、べらぼうに面白いことだけはたしかである。ちなみに、『魔術師』は松浦寿輝も絶賛している。文句なしに面白い小説を書く作家なのだが、一般の人にはなぜかあまり知られていない。翻訳もほとんどが絶版になっているのが残念だ(古本で手に入れてください。その価値はあります)。
ファウルズという作家を発見させてくれただけでも、ワイラーの『コレクター』はわたしにとって貴重な映画である。しかし、もう一度見てみたいかというと、やはり怖い気がする。
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冥王星は結局惑星から除外されてしまった。地球から最も遠い場所にある太陽系の惑星が、冥界の王 Pluton (Hades) にちなんで名付けられているというのは、占星術師でなくともなかなかに魅惑的だったのに、残念である。 ハデスを辞書で調べると次のように書いてある。
Hades ギリシア神話の死者の国を支配する神。クロノスとレアの子で、ゼウスとポセイドンの兄弟にあたる。プルトンPluton(富める者の意)ともよばれるが、これは万物を生み育てる大地のもつ富の力を表し、地下の神としてその地下の富を所有することからハデスの別名となった。またローマ神話では、プルトPluto、ディースDis(富の意)などともよばれ、いずれもプルトンに由来する。ハデスにはこのほかにもいくつかの別名があるが、多くの場合、その恐ろしい本名を直接口にするのを避けて婉曲に暗示するため、これらの別名が用いられた。ハデス(またはアイデス)とは、「目に見えない」の意味と解釈されている。
「目に見えない」とはなんとも皮肉だ。冥王星はまさに惑星の風景から消えてなくなろうとしている。
おっと、またどうでもいい話をしてしまった。 今日、話題にしたかったのは、Eugène Green という映画監督のことである。 名前を聞いたことがないひとがほとんどかもしれない。別に恥ずかしいことではない。実は、わたしも今朝はじめて覚えた名前である。朝起きて、なにげに「ル・モンド」の映画欄の RSS をチェックするとニュースがアップされていたので見にいってみた。ふだんは、見出しだけ読んで、そのまま別のサイトにいくのだが、
"Eugène Green, singulier et puissant cinéaste La publication des deuxième et troisième longs métrages de ce réalisateur américain confirme un talent étrangement méconnu."
「ウジェーヌ・グリーン、風変わりで力強い映画作家: このアメリカ人映画監督の2作目と3作目の長編の発売は、不思議なほど世に知られていないひとつの才能をあらためて確証してくれる」 という文句が気になって、続きを読みにいってしまった。急いで訳すと次のようになる(見ていない作品のことなので、細かい部分は間違っているかもしれない。ご了承を)。
ウジェーヌ・グリーンの長編第一作(「Toutes les nuits」99)──時代を1968年5月に移しかえたフローベールの『感情教育』のブレッソン風脚色──は驚きだった。このとき見いだされたのは、力強く、インスピレーション豊かで繊細な映画作家、奇妙な巴里のアメリカ人であり、ヨーロッパの文化と芸術に夢中になるあまり、30年来この旧大陸に住み続けているバロック演劇の専門家だった。 以来、彼にまつわるニュースがわれわれのもとに必ず届くようになった。2作目、3作目の長編の発売が示しているように、それはいつもうれしいニュースである。中世を舞台にしたファンタジー「Le Monde vivant」(2003)は子供殺しの人食い鬼(生まれながらの菜食主義者であるその妻はそれゆえいっそう彼のことを恥じている)によって幽閉された王女を解放しようとする騎士の闘いを描いている。
超自然のリアリズム
この下絵はモンティ・パイソンを想起させるかもしれないが、有無をいわせぬ復活(ゴダール)、距離を置いた様式化(ブレッソン)、口をきく木々(まあ見てご覧なさい)などなどは、実際の作品をはるかに詩的な雰囲気のものにしている。これはウジェーヌ・グリーンの作品なのであり、その独自の世界は「Le Pont des arts」(2004)でいっそうはっきりとする。厳格なリアリズムで撮られながら超自然なものに敏感なこの非常に美しい映画は、一度も出会うことのないふたりの人物の愛の物語を描いている。[・・・]この作品の美しさ(ナターシャ・レニエがこれほどみごとに撮られたことがあったろうか)、その都会的ポエジー(パリがこんな風に賛美されたことが長らくあったろうか)、そのバロック的リリスム(見えるもののなかにある見えないものの震えとして理解された音楽と映画)、そのあけすけな辛辣さ(上流社会のきちんとした風刺)は、この映画を知性が優美と競い合う作品にしている。
どうですか、なんだか見たくなってきませんか。
記事を読めばわかるように、これはウジェーヌ・グリーン(英語読みすると、ユージン・グリーン)の2作目と3作目の長編「Le Monde vivant」と「Le Pont des arts」のDVD発売にあわせて書かれた記事である。一作目の長編「Toutes les nuits」は今のところ中古でしか手に入らないようだ。 正直いって、見てみないとなんともいえないが、わたしは買ってみてもいいと思っている。実際に見てみたら、案外たいしたことないかもしれない。しかし、こういうものに挑戦しないと新しい発見はない。というか、配給会社に優秀な人間がいて、ちゃんと働いていれば、こういう映画はとっくに公開されているはずなのである。見た映画についてあれこれ書くのも大事だが、見られなければなにもはじまらない。すぐれた批評家が百人いるよりも、すぐれた配給業者が一人いるほうがずっと有益である、とさえ思う。
映画監督にもいろいろある。星にも恒星・惑星・衛星・彗星・流星といろいろあるように、ジョン・フォードや小津といった不動の地位を築いている惑星にも似た映画作家がいる一方で、一本だけ撮って流れ星のように消えてゆく作家たちも大勢いる。惑星が惑星でなくなる場合もあるように、むかしあれほど騒がれたのに今ではまったく忘れられている作家もいる。わたしが思うに、ネットという環境、特にブログという媒体は、彗星や流星のような作家たちにこそふさわしいのではないだろうか。しかし、実際には、惑星の周りをぐるぐる回っているだけのものが少なくない。事実、この Eugene Green について日本語で書かれたページはほとんど存在しないようだ。日本ではこの作家はまだ未知の星なのである。
惑星の数がふえたかと思ったらへったりと、世界ではいろんなことが起こっている。 それにしても、冥王星が惑星でなくなるかもしれないという話には驚いた。理由は小さすぎるからだとか。ホルストの『惑星』はどうなるんだと思ったが、あの曲が作曲された1916年にはまだ冥王星は発見されていなかったそうだ。占星術のみならず音楽の世界にも影響を与えるかに見えたこの事件だが、さすがに古典はこの程度のことではびくともしない。
と、そんな話はどうでもいいのだった。
1939年5月7日。フィルムを現像してネガ画像を見ると、誘惑とすまなさがつきまとう。というのも、透かして眺めるそれらのネガは、無類の魅力を持っているからだ。それに、ポジ画像を復元する焼き付けがある種の堕落の意味を持つことも、あまりに明白だ。微妙な陰影と細部の豊富さ、色調の深み、ネガを照らす夜の明るさ、そういったすべてのものも、価値転倒 inversion から生じる奇異感がなければ、やはりなにものでもないだろう。
ミシェル・トゥルニエ『魔王』(植田裕次訳)
ネガとポジの inversion というのは面白い。そもそも、技術的な必要性は別にして、フィルムはなぜいったんネガという媒介を経なければイメージをえることができないのか。 ネガを必要とするフィルムと、ネガを持たないヴィデオ=DVD的なるものとのあいだにはいかなる本質的差異があるのか。 ヴェンダースはなぜネガを持たないポラロイドカメラや8ミリフィルムにこだわるのか。デジタル・カメラを手にしはじめたヴェンダースは以前の彼とは違うのか。 あるいは、フィルムそのものを光に感光させてしまうマン・レイ(Ray!)・・・ などなど。
ところで(脈絡のない話で申し訳ないが)、『魔王』を読んでいたら、主人公=筆者が電話で時報を確かめるくだりが出てきたので、1939年に電話時報なんてあったんだろうかと気になり、調べてみた(気になることは調べないと気が済まない性格なので困る)。電話の時報サーヴィスが開始されるのは1933年のフランスにおいてだった。これぐらいのことはたいした技術がなくてもできるとは思うが、結構むかしからあったサーヴィスなのだと知ってちょっと驚いた。ちなみに、日本で電話時報が開始されるのは1955年のこと。
ついでに書くと、みすずから出ている『魔王』の翻訳に、
生死の後退の前に身を置いた群衆が「死だ! 死だ!」と叫ぶ様は、ユダヤ人たちがポンティオル・ピラトに答えて、「バラバスだ、バラバスだ!」と叫んだのに似ている。
とある。もちろん、キリスト処刑の場面のことが念頭におかれているのだが、Barabbas は「バラバ」と訳されるのがふつうである(リチャード・フライシャーにも『バラバ』という映画がある)。しかし、こう自信たっぷりに「バラバス」と書かれるとかえってこっちが自信をなくしてしまう。本当の発音は「バラバス」なのか。この本の翻訳は全体としてまあ及第だとは思うが、明らかな誤訳も散見される。はたしてこれはどうなのか。 最近は、固有名詞の表記はできるだけ原音に近いかたちで記述するというのが主流だが、あまりにも有名すぎる名前の場合はどうするか迷ってしまうところだ。ロバート・アルトマンも本当は「オルトマン」と書くほうが正しいらしいのだが、いまさら「ロバート・オルトマン」と書いてもだれもわかってくれないだろう。結局、最初が肝心ということになる。 しかし、ロナルド・リーガンのように一夜にしてロナルド・レーガンに名前が変わってしまった例もある。アルトマンも大統領になったときは、「ロバート・オルトマン」に変わるのかもしれない。
岡本綾と相武紗季が別人だということに今朝になってようやく気づいた。よく見れば全然似ていない。なぜそんなふうに思いこんでしまったのか不思議だ。「似ている」ことの不思議。
だが、イマージュがそこにある(ガストン・バシュラール)──イマージュの問題は、根源的に、ここ、イマージュがあらわす対象の存在ではなく、いわばイマージュそのものの現前、なにものかの再現ではなく、単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
[・・・]似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、それ自体からのずれであること、それ以外のところでそれであることであり、あるいはむしろ、この自己同一性の間隙からのある非人称の出現、それをわれわれは似ていることと呼ぶのだろう。われわれが見ているのは、背後にあるべき対象ではなく、そのような背後を失った純粋なあらわれなのだ。いや、むしろ、似ていること、それはこの背後のないことそのもののあらわれ、軽薄なまでに表面であることの権利、純粋な外面の輝き、純粋に見られることへの呼びかけであり、それゆえに、われわれを魅惑し、われわれを、見ないことの不可能性のなかにとらえるのだ。
さもなければ、なぜ鏡はあれほどしばしば、それをこわしたいというある凶暴な欲望にひとびとを駆り立ててきたのだろうか。
宮川淳『鏡・空間・イマージュ』
宮川淳(1933-1977): 美術批評家。わずか数冊の著書を残して若くして亡くなったが、その批評は美術界のみならずさまざまな領域に影響を与えつづけている。
近いうちに兵庫県立美術館にジャコメッティ展を見に行く予定なので、その準備運動に、ひさしぶりに宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』を読み返してみた。「鏡」の一語で来たるべき思想の風景をいち早く映し出して見せたこの本は、数十年たった今もそのアクチュアリティをいささかも失っていない。 この本の中心をなしているといってよい冒頭の「鏡について」と題された論考において、宮川はジャスパー・ジョーンズ、フィリップ・ソレルス、ルイ=ルネ・デ・フォレといった実にさまざまな芸術家や作家たちについて語っているのだが、そのなかでもとりわけ特権的な地位を占めているように思えるのがアルベルト・ジャコメッティである。
ジャコメッティの芸術家としての生涯は、「キュビスムとシュールレアリスムとの影響を受けたのち実存的写実に転じ」、というぐあいに二つにわけて語られることが多い。しかし、宮川はそうした表面的な見方を退け、根源的なイマージュの体験という視点からジャコメッティの芸術を捉え直す。ジャコメッティが製作したあのやせ細った彫像の数々を、たとえばサルトルたちはおおざっぱに言って実存的リアリズムの文脈でとらえていたといっていい。それは要するに、偽りの現実に対する真の現実、現実の背後に隠されたより深い現実の姿をとらえたものと考えられていたのだ。しかし宮川はそこに、真実でも偽りでもないイマージュの「純粋な外面の輝き」を見るのである。
ジャコメッティはよく「似ていること」について語ったが、それは多くのひとが考えたように、対象に似ていることを意味していたのではいささかもなかった。でなければ、「見えるとおりに」描く、「似ている」という一見素朴な試みが、ジャコメッティにあれほどの努力と絶望を強いたわけがない。それはなにかの「再現」ではなく、なにかに「似ている」ことでもなく、イマージュそのものの現前、その魅惑であったのだ。鏡とはこのイマージュの体験にほかならない。
「鏡、それは想像力にとって、もはやなにものかのイマージュではなく、イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならないのだ。」
もうずいぶん昔に出た本なのでとっくに手に入らなくなっていると思ったのだが、調べてみたらまだ売られているらしい。といっても、1987年発行となっているから、わたしが持っている箱入りで帯に浅田彰と中沢新一のコメントが書かれている本と同じものがまだ売れ残っていたということなのだろう。しかし、『紙片と眼差とのあいだに』や『美術史とその言説』がまだ新品で手にはいるというのは驚きだ。ただ、『引用の織物』は絶版になっているようなのが残念である。わたしがはじめて読んだ宮川淳の本はたしかあれだったと思う。てっきり手元にあるものと思っていたのに、本棚を調べてみたらなかった。図書館で借りて読んだのを買ったものと思いこんでいたらしい。残念である。マルセル・デュシャンは便器を引用したのだという宮川の説明に目から鱗が落ちる思いをしたことを思い出す。
地震は地震計とは独立して存在し、気圧の変動は針の跡とは別に存在するが、藝術作品はかたちとしてしか存在しない。言い換えれば、作品は行為としての藝術が残した痕跡や軌跡ではなく、作品がまさしく藝術なのである。
アンリ・フォション『かたちの生命』
アンリ・フォション: フランスの高名な美術史家。
この本に収められている美しいテキスト「手を讃えて」はゴダールの「映画史」にも引用されている。そういえばたしか『ゴダールの決別』には、「手か眼かどちらかを失うならば、わたしは眼を失う」というセリフをだれかが口にする場面があった。ちなみに、蓮實重彦はこの批評家に影響を受けたと公言している。
▽橋口亮輔『ハッシュ!』(2001)★☆
最近の日本映画でよくみかける長回し撮影は、わたしには演出の放棄としか思えない。アンゲロプロスの長回しは、的確なショットを積み重ねて演出できる人があえてワンショット=ワンシークエンスを使っている長回しであり、このワンショットのなかではいわば内部的に編集がなされている。そこではまた、フレームの外(hors champ)にあるものが絶えず意識されており、フレームの内と外との緊張関係がそれを見る観客をも深い緊張状態におく。一方、たとえばこの映画で使われている長回しは、どこにキャメラをおいていいかわからず、どうやってショットをつなげていいかわからない人間が、その責任を放棄した結果にすぎない、と思える。
▽熊切和嘉『アンテナ』(2003)★★
田口ランディの原作に何一つつけ加えていない引き算の映画。しかし、退屈せずに最後まで見ることはできる。
▽斎藤久志『いたいふたり』(2002)★★
わたしの好きな斎藤久志監督の作品であるが、『サンデイドライブ』などに比べると若干緩い仕上がりになっている(このゆるさはDV的といっていいのかもしれない。まあ、この緩さが斎藤監督の映画の特色でもあるのだが)。遠くに離れていても一方が痛みを感じればもう一方も痛みを感じる、文字通り痛みを共有する夫婦(唯野美歩子と西島俊之)の物語。興味深いテーマではあるが、物語は完全に説得力あるものにはなっていない。 すべてを傍観者的に見て記録している妻の弟役で、唯野美歩子の実弟、唯野友歩が出ている(これがそっくりな顔をしていて笑わせる)。嫉妬深くてすごく嫌みな画家の役で出ている俳優がどこかで見た顔だと思っていたら、原一男だった。他にも廣木隆一、井口昇、篠原哲雄、富岡忠文、緒方明(『いつか読書する日』)など、日本映画の監督が総出演しており、斎藤監督の人脈の広さをうかがわせる。そういえば『サンデイドライブ』の主演も塚本晋也だった。
▽庵野秀明『ラブ&ポップ』
テレビで放映される映画はどんな無名監督の作品もほとんど見ているわたしだが、これほどひどい代物を見るのはひさしぶりだった。まだそれほど有名でなかった頃の仲間由紀恵の女子高生姿(水着姿もあり)が見られるという楽しみはあるが、それ以外に見るべきところはなにもない。村上龍の原作のほうがはるかにいいです。
以上すべて、『リアリズムの宿』の山下敦弘などと同じ大阪芸大出身の監督作品。この大学の卒業生たちが日本映画の活力のひとつとなっているのはたしかだが、わたしは彼らの映画にどこかで違和感を覚えてしまう。一言でいうならそこには歴史意識が欠けている(映画的にいうなら、フレーム外に対する意識の欠如ということになろうか)。映画の歴史ももちろんだが、より大きな「歴史」に対する無知・無関心が、なにも彼らの映画だけではなく日本映画の大部分を支配しているように思えてならない。
ニーチェの『権力への意志』の単行本の下巻だけ持っていたのを Amazon のマーケットプレイスに出していたのがそこそこの値段で売れた。早速ちくま文庫版の『権力への意志』を買い直そうと思ったのだが、どの本屋に行っても上巻はおいているのに下巻だけがない。ネットの本屋もいろいろあたってみたが、やはり下巻だけ在庫切れになっている。在庫ありとなっているところも、いざ注文してみるとやっぱり在庫がありませんでしたという連絡が入る。困ったことになったと思っていたのだが、昨日京都シネマで『ゆれる』を見た帰りにアヴァンティのブックセンターによってみたら奇跡的に上下巻そろっておいてあったので速攻手に入れた。
さすがにニーチェぐらいになるとそのうち補充してくるとは思うが、ちくま文庫はいったん絶版になると復活する可能性はほとんどない。いずれ買おうと思っている人は、『権力への意志』が上下そろっているのを見つけたらすぐに買っておくことをお薦めする。 (これを書いてからさっき Amazon を見に行ったら、少し前まで在庫切れになっていた『権力への意志』の下巻が発送可能になっていた。なんのために今までかけずり回っていたのか。ただし「通常4~6週間以内」と書いてあるから、取り寄せ扱いということだろう。結局在庫はありませんということになるかもしれない。上下巻あわせて注文すると、上巻だけ手に入って下巻はなかったということになる可能性もある。)
それにしても、ちくま文庫はやる気があるんだろうか。今年は安吾生誕百年とかいうことで、講談社文芸文庫の坂口安吾は本屋の目立つところにピックアップしておかれたりしているのをよく見かけるが、ちくま文庫の安吾全集のなかには品切れ状態になって久しいものも少なくない。人気のある『桜の森の満開の下』がはいっている巻ぐらいはいれといてほしいものだ。
▽フランク・キャプラ『ポケット一杯の幸福』(61)★★☆
ルビッチやプレストン・スタージェスの話をするのはかっこいいが、キャプラの映画なんかをほめると程度が低い人間と思われかねない。キャプラにはそういうところがある。アテネフランセでキャプラの映画が上映されることはあまりなさそうだし、あってもたぶん客はあんまりはいんないだろう。そんなところでキャプラの名前を出そうものなら、「キャプラだって? ふん、あのヒューマニストね」とかいわれてしまいそうだ。 しかし、わたしにはやっぱりキャプラは嫌いになれない。だれだって本当は嫌いになれないんじゃないか。
『ポケット一杯の幸福』はキャプラがハリウッドで最後に撮った作品だ。たしかに、このリメイク作品のオリジナルにあたる『一日だけの淑女』に比べれば力の衰えは隠しきれない。しかし、最後の作品としては立派だと思う。リンゴ売りに扮したベティ・デイヴィスは多少説得力に欠けるかもしれないが、淑女となった彼女は申し分がない。グレン・フォードはいつものように素晴らしいし、なによりわたしの好きな脇役たちがこれでもかというぐらいたくさん登場する。トーマス・ミッチェル、エドワード・エヴァレット・ホートン、ジャック・イーラム(はそんなに好きでもないが、欠かせない)、それにピーター・フォークまで。ピーター・フォークは『オペラ・ハット』のライオネル・スタンダーのような役所を演じて笑わせてくれる。
ある対談で、『素晴らしき哉、人生』が好きだという山田宏一に、「あの頃はちょっと落ちてたのよ」と淀川長治はすかさず返していた。ひょっとすると、キャプラがサイレント映画を撮っていたことさえ知らない人も多いのかもしれない。せめて、キャプラがハリー・ラングドン主演で撮った3本のコメディぐらいは見ておいてほしいものだ。キャプラについて語るのはそれからにしてほしい。
そういえば、トリュフォーが『アメリカの夜』でアカデミー外国映画賞を取ったとき、アメリカに行き、大好きだったキャプラの夕食会に招かれたのだが、同じテーブルにキング・ヴィダーとジョージ・キューカーが座っていたので緊張しまくったそうだ。そりゃそうだろう。
▽イー・ツーイェン『藍色夏恋』★★
たいした映画ではないが、好感が持てる。エドワード・ヤンならこれぐらいの話はもっと大きな物語のなかでさらりと描いてしまうだろう。ヒロインが体育館の柱になにか落書きをしているショットが何度か出てくるのだが、アップにならないのでなにを書いているのかわからない。最後にそれを見せるんだろうなと思っていると、案の定ラストショットがその落書きで終わるのだが、なぜか字幕が出ない。こういうところはちゃんとしてほしいものだ。最近中国語の勉強をしているのでなんとか読めたが(早速成果が出たのがうれしい)。
ダニエル・シュミットが亡くなった。
眠れないので夜中起きてネットを見ていたら、Liberation が更新されているようなのでいってみると、シュミットの訃報がトップに出ていた。「マジかよ」と思わず口走ってしまった。病気だとは聞いていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。 土曜から日曜にかけての深夜に息を引き取ったそうだ。不思議なことに、場所が書いていない。おそらくスイスの自宅だったのだろう。64才だった。
21世紀に入ってからはあまり音沙汰がなかった。ある年代よりも下の世代の人たちは、ひょっとしたらシュミットという名前を聞いてもぴんとこないかもしれない。 わたしがはじめてシュミットを見たのは、京大のすぐ隣にある日本イタリア文化会館で『ラ・パロマ』と『天使の影』が上映されたときだった。一般公開される前で、字幕をスライドであわせての上映だった。今のようにコンピュータ制御で字幕が自動式に落ちてゆく方式ではなく、まったくの手動であわせていたので、途中で字幕がずれはじめ、会場に殺気だった空気がみなぎっていたのを覚えている。まだ大学に入る前のことだった。 在学中に見た『ヘカテ』について書いた文章が「キネ旬」の「読者の映画評」欄に掲載されたことも、個人的には思い出深い。 それから、今はない扇町ミュージアムスクエアでたしか『トスカの接吻』が上映されたときだったろうか、シュミットがゲストとして来館し、観客の質疑応答に答えてくれたことがあった。あれが間近でシュミットを見た最初で最後ということになる。
シネフィルというのは、映画以外のことには嘘のように目をつぶってしまうことがある。寺山修司が短歌や戯曲も書いていることをすっかり忘れて、彼が撮った映画のことを「つまらない」といっておけばそれで事足りると考えてしまう、といったぐあいに。 シュミットは映画以外にもオペラの演出の仕事に力を入れていた。それも忘れてはいけない。幸い、ベリーニの『テンダ・ディ・ベアトリーチェ』など、彼が演出したオペラのいくつかがDVDになっている。
上は、シュミットが演出したドニゼッティの歌劇「シャモニーのリンダ」である。この写真はなんだか『ラ・パロマ』でペーター・カーンが山上でアリアを歌うあの途方もない場面を思わせるではないか。
結局、前世紀に撮られた『ベレジーナ』(99)がシュミットの遺作になってしまったようだ。まだまだ撮れそうだっただけに残念で仕方がない。 『ジュリアが消える』という新作を用意しているところだったという。見てみたかった。
この二日ほどのあいだで『GANTZ』というマンガを1巻目から18巻目まで読み通した。結構有名なマンガなので、マンガ読みには今更といった作品だろう。前にも書いたように(たしかどこかで書いたと思うのだが)、わたしは90年代になってマンガをあまり読まなくなったので、この本のことも最近まで知らなかった。『GANTZ』の1巻目が出たのは2000年である。
実は、だいぶ前に一巻目だけは読んでいたのだが、そのときはちょっとえぐい絵のタッチと唐突な展開に、「ちょっと違うな」という感じがして、先を読むのをやめてしまったのだった。思い直して、また読み始めたのだが、これがめちゃくちゃ面白いのだ。結局、前回は、話が面白くなり始める前に読むのをやめてしまっていたのだった。最近は、なんでも見切るのが早くなってしまい、根気よく作品とつきあうのがだんだんできなくなってきている。反省しなければ。もう少しでこんな面白いマンガを知らずに終わってしまうところだった。
さて、このおもしろさをどうやって伝えたらいいのか。実は、ものすごく長い文章を書いたのだが、読み返してみて削除してしまった。ストーリーを説明しても、このおもしろさが伝わりそうにない。とにかく読め、としかいえない。
一言でいうと理不尽なマンガである。物語は主人公が死ぬところから始まるのだが、そこから彼は生とも死とも区別がつかない時空を生き始める。その時空が、生死をかけたゲームとして設定されているところが面白い。彼が戦う相手は、マンガチックな宇宙人だったり、恐竜だったり、巨大な大仏だったりするのだが、見ようによっては『うる星やつら』ふうの非常にコミカルな状況が、リアルすぎるほどリアルに、シビアに描写されてゆく。しかも、18巻まで読んでも、なぜこんな闘いをしなければならないのか説明が一切無い。理不尽である。この理不尽な状況をまったく飽きさせずに読ませる作者の力業は相当なものだ。
バトルが繰り広げられる異世界と現実とのあいだには最初は境界がひかれていたのだが、ここに来てその境目がほころびかけてきた。主人公たちの闘いは現実の世界の住人には見えないはずだったのが、彼らを襲う吸血鬼のグループなんてものまで現れ始め、ますますわけのわからない展開になってきた。まだ19巻目は読んでいないのだが、これからの展開に目が離せない。
イスラエルの一時的空爆停止があと2時間で終わる。避難する時間は与えてやったから、これで心おきなく空爆できる、というわけか。恐ろしいね。
恐ろしいといえば、500円DVDも恐ろしいよ。
こないだ本屋でラインナップを眺めていたら、どう見てもパッケージの写真はウィリアム・ウェルマン版の『スター誕生』なのに、ジョージ・キューカー監督作品と堂々と書いてあった。恐ろしい。どっちが本当なんだ。ほとんどダブル・バインド状態。答えは買ってみてのお楽しみ、てか。
タイトルも恐ろしい。オーソン・ウェルズの『ストレンジャー』が、『謎のストレンジャー』というタイトルで500円DVD化されている。謎でないストレンジャーがいるのか。謎である。
しかし、恐ろしいのはそんなことではない。じゃなにが恐ろしいのか。画質が恐ろしい? そういうことではない。たしかに、『市民ケーン』の500円DVDの画質は結構ひどい、などといった噂は聞く。なかにはそういう粗悪なものも混じっているようだ。わたしは500円DVDは数枚しか買ったことがないのだが、その数少ない経験からいうと、500円DVDの画質はそうひどいものでもない。値段を考えるとコストパフォーマンスは高といえる。
(500円DVDの画質については、http://cinemania.seesaa.net/article/13131856.html の記事がわかりやすい。)
500円DVDの字幕も問題があるといわれる。周知のように、500円DVDが一般のDVDと比べて安いのは、著作権が切れてパブリック・ドメインとなった作品をソフト化しているからだ(「えっ、なに」と思った方は、http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_6257.html の記事とコメントを読んでください)。権利が切れているといってもそれは本編だけの話で、映画会社のロゴには権利が発生するので、500円DVDではワーナーなどのロゴの部分をカットして収めてあったりするらしい。同じことは字幕についてもいえる。公開されたときの字幕は字幕作者の権利がからんでくるので、500円DVDでは新しく字幕がつけ直されるのがふつうである。だから、『カサブランカ』の有名な「君の瞳に乾杯」というセリフは、500円DVDではまったく別の味も素っ気もない字幕になっている(らしい)。それだけでなく、500円DVDの字幕は往々にしてひどいものが多いと聞く。なかには、セリフと字幕がずれているものもあったりするらしい。
たしかに、恐ろしい。恐ろしいが、500円DVDが恐ろしいのはそういうことではない。
先に紹介したホームページにも書いてあるように、53年に公開された『ローマの休日』の500円DVDの著作権をめぐってパラマウントが訴訟を起こした事件は大きく取りあげられた。ついこないだも、チャップリンの娘だかだれかが、チャップリンの廉価版DVDをめぐって訴訟を起こしたと聞く。つまり、製作元の映画会社のほうでは500円DVDの存在を快く思っていなかったりするのだ。3,4千円するDVDの横で500円のDVDを売られたら、そりゃ困るだろう。500円DVDを市場から一掃したいと思うのもわからないではない。
とするならば、500円DVDの販売会社はどこからフィルムを調達しているのかという謎が浮上する。考えてみてほしい。パラマウントは訴訟まで起こしているのだから、500円DVDを作っている会社に『ローマの休日』のネガを喜んで貸し出すわけがない。では、『ローマの休日』の500円DVDはどのフィルムを元に作られたのかという話になってくる。これがよくわからない。ネットで調べてみたが、この問題を取りあげている人はいないようだ。
わたしが独自調査を行ったところ、どうやらこの闇の部分にブローカーが暗躍しているらしい。彼らは世界中に散らばったフィルムを買い集めてまわって、500円DVDの業者に売りつけているようなのだ。失われていたと思われた日本のサイレント映画が遠い異国の地で発見されるなどといったニュースを見てもわかるように、フィルムというのは旅をするものだ。そんなふうに世界各地に散らばったフィルムをブローカーが集め、それをもとに500円DVDの業者はDVDを製作する。どうもそういうことらしい。ひどい業者になると、別の業者の500円DVDをコピーしたものを元にDVDを作っていたりする場合もあるという。実際にそんなことが行われているのかどうか確認はしていないが、それで訴訟になったケースはたしかにあるようだ。
これはたしかに恐ろしい。このあたりを突っついて調べてみればなにが出てくるかわからない。それで映画が一本作れるぐらいのネタが挙がる可能性だってある。ひょっとしたら、500円DVD一枚が作られるまでに人一人ぐらい死んでいるかもしれない。
ひょっとすると、わたしはパンドラの箱を開けてしまったのだろうか。この記事をアップしてから、この日誌が途絶えたら、それはわたしが口封じに殺されてしまったからだと考えてほしい……。
恐ろしい。
恐ろしいが、ジャック・ターナーの『過去を逃れて』やキング・ヴィダーの『群衆』が500円で売っていれば、買ってしまうのが人情というものだ。『過去を逃れて』は昔ビデオで出ていたが、レンタルショップではほとんど見かけることがない。しかも、20分近くカットされたヴァージョンだった。この500円DVD(正確には399円だった)のパッケージには、オリジナルの時間に近い97分と表記してあるが、怖くてまだ確かめていない。
500円DVDは恐ろしい。恐ろしいが魅力的だ。
あんまり書いてる暇がないです。雑文ふうに。 Amazon のマーケットプレイスでミハイル・ロムの『一年の九日』とジョセフ・マンキーウィッツの『ピープル・ウィル・トーク』を購入する。 『一年の九日』は新品なのに6割引、『ピープル・ウィル・トーク』はほぼ新品状態で半額。いい買い物だ。『一年の九日』は映画館で2回ぐらい見ているが、このDVDはだいぶ前に発売されたもので、人気がある作品ともいいがたい。いかにもすぐになくなってしまいそうなので買っておくことにした。
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『Ergo Proxy』というアニメを見始めた。近未来を描いたサイコサスペンスだ。
人混みのなかで怪物が暴走し、赤ん坊の乗った乳母車が階段を落下してゆくシーンを見て、ふーんと思う。『戦艦ポチョムキン』を見てまねたのか、それともデ・パルマの『アンタッチャブル』の影響か。 次に、ジョー・ブスケが引用されるのを見て、おやおやと思う。 やがて、ドゥルーズとガタリという名前のロボットが出てくるのを見て確信する。あとで見直してみたら、最初のほうに出てくるロボットかなにかにラカンとデリダという名前が付けられていた。最近のアニメの連中は映画の連中よりもよぽど教養があるのかもしれない。まあ、はったりなのだろうが、それなりに知っていないとはったりもきかない。 球体の巨大なドームの中の管理社会ロムドと、その外に追放された、あるいはそこから逃亡して荒野に生きているものたち。「コギト・ウィルス」にかかって意識を持ちはじめるロボット……。設定は紋切り型だが、今のところそれなりに楽しめている(まだ3話ぐらいまでしか見ていないが)。
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テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』★★★★☆
ひさしぶりに見直した。ミュージック・ホールでの王制支持者と共産主義支持者たちの歌合戦のシーン。エドワード・ヤンはこの場面を見て『クーリンチェ少年殺人事件』を撮ったに違いない。この場面につづくめまぐるしい時間軸の移動もすごい。ナチ占領時代に聞こえてくるツァラ・レンダーの歌声!
チャップリン『サーカス』★★★
ミラー・ルームの場面で記憶されるべき作品。ギャグの切れ味もチャップリンの作品のなかでかなり上位を占めるものだろう。有名なライオンの檻のシーンは、「禁じられたモンタージュ」という文章をアンドレ・バザンに書かせた。それにしても、映画に出てくるサーカスの座長というのはどうしてこういつもサディスティックなのだろう。
また『となりのトトロ』を見てしまった。テレビで放映されるとついつい見てしまう。宮崎駿のアニメではわたしはいまだにこれがいちばん好きだ。リアリスティックな部分とファンタスティックな部分のバランスがいちばんいいように思えるし、説教くさくないのがいい(ほかの作品は幾分説教くさいところがある)。先日、『ハウルの動く城』をテレビではじめて見た(というか、宮崎駿のアニメはテレビでしか見たことがない)。ヴィジュアル的にはあいかわらず素晴らしかったが、物語にまとまりがなく、いつものような説得力に少し欠けるような気がした。しかし、いつになく混沌としているところが逆に面白いとも言える。例によって、ここでもやはり家族は不在である(暖炉の火を囲んだ疑似家族のようなものが形成されるのだが、その火がしゃべったりするのだ)。その意味では、『となりのトトロ』は例外的な作品だったといえるかもしれない。
▽ チャン・ユアン『緑茶』★★★
チアン・ウェンとヴィッキー・チャオによる異色のラヴ・ストーリー。ヴィッキー・チャオが一人二役でふたりの女を見事に演じ分けている。理想の男性を求めて見合いデートを繰り返す、眼鏡をかけた堅物そうな大学院生ファン。一方、バーでピアノを弾いているランランは、ファンと瓜二つの顔をしているが見た目も正確も正反対で、声をかけてきただれとでも寝る奔放な女。遊び人ふうのキザな男ミンリャンがファンと見合いデートをするところから映画は始まる。全然タイプではないインテリ女ファンに最初は大して興味を持っていなかったミンリャンは、なんどか会って彼女の自称〈友人〉の話を聞かされるうちに、次第にファンに惹かれてゆく。しかし、ファンとの距離はいっこうに縮まらない。そんなとき、ミンリャンは彼女と瓜二つの女ランランに出会う。ファンとは違って見た目は派手で、性的に奔放に見えるランランだが、何かを求めて次々と男と逢瀬を繰り返している点ではファンと同じである。ミンリャンはファンとランランが同一人物ではないかと疑うのだが、映画はそれを終始曖昧にしたまま最後まで進んでゆく。ふたりが同じ女性であるかどうかは結局はどうでもよい。もしハリウッドでリメイクされたなら、そこが肝心ということになるのだろうが、ここではむしろ、この物語を通して、女という生き物の持つとらえがたさや、現代人の孤独な生態を浮かび上がらせることに主眼が置かれている。ウォン・カーワイふうといえばそれまでだが、最後まで飽きさせない力量はなかなかのもの。
こういう一人二役の使い方では、プレストン・スタージェスがバーバラ・スタンウィックに一人二役を演じさせたコメディの傑作『レディ・イヴ』がすぐに思い浮かぶ。詐欺師の女と上流界の淑女という瓜二つだが正反対のふたりの女にヘンリー・フォンダが恋をして振り回されるという物語だが、あの映画のラストにはめまいすら覚えたものだ。それに比べると『緑茶』の終わり方は詰めが甘い気がする。
ところで、二人一役といえば、前々から気になっていることがある。日本映画にはなぜこんなにも二人一役を使った映画が多いのかということだ。『プラーグの大学生』以来、映画がスクリーンに分身を登場させることに魅せられてきたことは周知の事実だが、それにしても日本映画には一人二役が多すぎるように思えてならない。『中山七里』や『人生劇場 続飛車角』の中村玉緒や佐久間良子のように、主人公が愛した女が死んだり落ちぶれて姿を消したあとに、それと瓜二つの女が現れるというのならまだしも理解できるが、『一心太助』シリーズの中村錦之助の一人二役のように、物語の上で何の役割も果たしていないように思えるケースも少なくない。これは単にスターの見せ場を多くするために考え出されたシステムにすぎないのだろうか。いずれにせよ欧米の映画と日本映画では、一人二役のありようが違うような気がする。
レバノンも日増しにめちゃくちゃなことになってくるね。国連軍の部隊まで空爆するなんて、イスラエルは何を考えてるんだろうね。
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さて、イタリア語もスペイン語もまだ中途半端なのに、中国語と韓国語を本格に勉強し始める。
まずは韓国語から。
昨日、早速、『目からウロコの「ハングル練習帳」』(八田靖史)という本を買ってきた。「3日で終わる文字ドリル」というサブタイトルは、この手の本にありがちな大げさな物言いだとは思うが、たしかにすらすらと読み進むことができて、昨日の今日で、もうかなりのハングルが読めるようになっている。ゲーム感覚で読み書きを覚えていけるので、飽きずにつづけていけるのがいい。
筆者の軽いノリの文章と独善的ユーモアにはちょっと引き気味になるが、まあそのへんはあまり気にせずに読んでいくといいだろう。わたしの専門のフランス語では、『フラ語入門、わかりやすいにもホドがある!』という本が最近売れているが、この本も同じようなノリで書かれている。ただ、この本の場合、口調が話し言葉ふうで軽いだけの話で、フランス語の教え方自体は従来の入門書とまったく違いがない。わかりやすいというより、説明すべきところを省略して簡単にしているだけである。
『目からウロコの「ハングル練習帳」』は140ページほどの薄い本なので、3日とはいわないが、一週間もあれば読み終えることができる。最初はこれぐらいのものがいい。最初に挫折してしまうと後々いやなイメージが残ってしまっていけない。わたしの場合ドイツ語がそうだった(ドイツ語については、近いうちに、『ドイツ語のしくみ』という本で仕切り直しをしようと思っている)。
CD はついていないので、細かい発音を勉強するには限界があるが、韓国語のように文字体系がアルファベットとも漢字とも違う言語をマスターするには、文字を読めるようになるというのが第一歩だ。文字が読めるようになると、もっと知りたいという欲が出てくる。たとえば、ロシア語では、『ロシア語のかたち』という本がおすすめだ。これを読むと、キリル文字で書かれた看板の文字が簡単に読めるようになる。エイゼンシュタインの映画もアルファベットに直して読めるようになる。たしかに、文法的なことについてはほとんどふれられていないので、物足りなさが残るが、このむずむずした感じが勉強意欲につながるのだ。吸収しきれないほどのことが書いてあると、逆に挫折してしまう。
中国語の参考書もすでに当たりはつけてある。ところで、ライブドアは中国語で「活力門」と書くらしい。しかも、この漢字を中国語ふうに発音すると、「ホリエモン」に近い音になるそうだ(たしかに「門」は「モン」だ)。よくできてる。
「コメディ・ベスト50」を作ると宣言してからだいぶたつのにまだ一行も書いていなかった。ようやくリストアップを始める。映画史を代表するコメディ50作を選ぶというのは意外と骨が折れそうだ。しかし、このあれこれ迷いながら選んでいるときが楽しい。
テレビで見た映画について簡単にメモっておく。
▽フランソワ・オゾン『8人の女たち』★★☆
タイトルバックの宝石。窓に近寄る鹿。あからさまにダグラス・サークを意識したオープニングだ。しかし、映画はまったくサークとは似ても似つかぬものになっている。雪に閉じこめられた一軒家の館で起こった殺人事件。館の主(ただひとり登場する男性)の死によって映画は幕を開ける。館の8人の女性たちにはそれぞれ秘密があり、だれもが疑わしい……。ミュージカル、というよりもインド映画のように唐突に歌と踊りのシーンが挿入される。8人それぞれにひとつのナンバーが律儀に割り当てられているのだが、どの歌とダンスも、やる気があるのかないのかわからないゆるい仕上がりになっている。一体の死体によって始まり、それを中心に物語がめぐっていく一方で、死体そのものにはほとんど意味がなく、犯人捜しもどうでもよくなるという構図はヒッチコックの『ハリーの災難』を思い出させるものだ。結局、オゾンの頭のなかには、8人の女たちをキャメラの前で華麗に競演させること以外なかったのだろう。映画はホモセクシャルのデザイナーによる美女のファッションショーといった感を呈している。
ファスビンダーの原作による『焼け石に水』を撮っていたりするわけだから、オゾンがサークを引用するのはそれほど驚くことではないのかもしれない。調べてみれば、オゾンはパリ大学で映画を学び、FEMIS でロメールとジャン・ドゥーシェに師事している。フランス映画の「恐るべき子供」といわれたオゾンだが、結構由緒正しい出自だったらしい。でもやっぱり、オゾンとサークというのはわたしにはしっくりこなかった。サークというなら、模倣に徹したトッド・ヘインズの『エデンより彼方に』のほうがずっと不遜な作品に思える。しかし、この映画で引用されているのはサークだけではない。この映画と同じくダニエル・ダリューとカトリーヌ・ドヌーヴが母娘を演じた『ロシュフォールの恋人たち』など、過去のフランス映画の記憶も総動員されている。ドヌーヴとファニー・アルダンは、ここではトリュフォーのふたりの主演女優として対峙しているといってもいいだろう。8人の女たちの衣装がだれを意識して作られているのかを考えてみるのも一興だ。
『8人の女たち』は間違いなくオゾンの代表作となるだろう。しかし、やっぱりオゾンは好きになれない。
▽安田公義『大魔神』★★☆
ゴジラはまず姿を見せない足音だけの存在としてあらわれるが、ついに姿を見せるときなぜかいつの間にかその足音は消えている。この音と映像のずれがゴジラを単なる怪獣ではなく、神話的な存在へと高めている──といったことを塩田明彦がいっていたが、大魔神の足音は魔神が姿を見せたときにも聞こえている。それは、魔神がそもそも神だったからだ、なんちゃって。それにしても、CGの時代のはるか前に撮られたこの合成映像のただならぬ迫力はいったい何だろう。大映美術恐るべし。
▽フランチェスカ・アルキブジ『明日、陽はふたたび』★★
[ガス状の知覚に向けて]
万有変化のシステムというのが、ヴェルトフが「キャメラ=眼」において到達しようと、いや復帰しようともくろんだものだった。あらゆるイマージュは、そのすべての面と部分において、互いに関わり合って変化する。ヴェルトフは自身でキャメラ=眼を次のように定義している。「宇宙の任意の点を、任意の時間順序において、互いに接触させる 」もの。スローモーション、早回し、オーヴァーラップ、断片化、減速、マイクロ撮影、これらすべては、変化と相互作用のために用いられる。キャメラ=眼は人間の眼を改善したものでさえない。というのも、人間の眼が機械と装置の助けを借りておのれの限界のいくつかを乗り越えることができたとしても、どうしても超えることのできない限界がひとつ残るからだ。なぜならその限界こそが人間の眼が可能であるための条件をなしているからだ。その限界とはすなわち、受容器官としてのその相対的不動性であり、それによってあらゆるイマージュはたったひとつの特権的イマージュとの関係で変化することになるのだ。キャメラを撮影装置とみなすならば、キャメラも人間の眼と同じく自身の可能性の条件をなす限界にしたがっている。だが映画はたんなるキャメラではなく、モンタージュである。モンタージュは人間の眼の視点から見たときはおそらくひとつの構築であるが、もうひとつの眼の視点から見るならば、モンタージュは構築であることをやめる。モンタージュは非人間的な眼の、事物のなかに存在する眼の純粋なヴィジョンとなる。万有の変化、万有の相互作用(modulation)というのは、すでにセザンヌが人間以前の世界、「われわれ自身の黎明」、「虹色のカオス」、「世界の処女性」などという言葉で呼んでいたものだ。そうした世界はわれわれのもっていない眼にしか見えないのだから、われわれがその世界を構築しなければならないことにはなんの不思議もない。ミトリがヴェルトフの矛盾を批判するのは先入観があってのことに違いない。同じ矛盾を画家がもっていてもミトリは非難しないだろうからだ。(モンタージュの)創造性と(現実の)元の完全な状態とのあいだの矛盾は見せかけのものである 。ヴェルトフによると、モンタージュの仕事とは、知覚を事物のなかへと導き入れ、知覚を物質のなかに置いて、空間のどの点もが、それが働きかけまたそれに働きかけるすべての点を、その作用と反作用がどれほど遠くまで広がっていようと、知覚できるようにすることである。これが客観性の定義である、すなわち「境界も距離もなしに見ること」。したがってこの観点から、すべての手法が許されることになるだろう。それらはもはやごまかし(トリック)ではないのだから 。唯物主義者ヴェルトフが映画で実現したのは、「物質と記憶」の第1章の唯物論的プログラムである。すなわち、イマージュの即自。ヴェルトフの映画=眼、非人間的眼は、蝿や鷹やその他の動物の眼のことではない。それはまた、時間のパースペクティヴを与えられ、精神的全体を把握するエプスタン風の精神の眼でもない。それは逆に物質の眼、物質のなかにある眼であり、時間にしたがうのではなく時間を「打ち負かし」、「時間のネガ」に近づき、物質的宇宙とその広がり以外の全体を知らないような眼なのである。(ヴェルトフとエプスタンはここでは、キャメラ=モンタージュという同じ総体の二つの異なるレベルとして区別される)。
ドゥルーズ:『シネマ1』第5章3節の試訳。
ジガ・ヴェルトフ『レーニンの三つの歌』★★★
レーニンの死後に完成されたドキュメンタリー。トーキー映画だが、実質的には音楽付サイレント映画に近い。全体が三つのパートに分けられ、人民がレーニンを讃える三つの歌として構成されている。第一の歌は、レーニンの教えに感化されたイスラムの女性を描いたもの。9/11後のアフガンやイラクでヴェールを脱ぐイスラム女性の姿を、欧米のメディアはまるで鬼の首でも取ったように報道したものだが、ここでもヴェールを脱ぐイスラム女性の姿が光明へとむかう歩みのように描かれている。資本主義においても、共産主義においても、ヴェールは無知蒙昧の象徴になっているところが面白い。原将人は『初国知所之天皇』で、「日の丸は美しい」とあえてつぶやいてみせた。「ヴェールは美しい」といえるようになってはじめて民主主義は根付いたことになるのだろう。
映画の冒頭、レーニンが安置されている建物のそばの公園にぽつんと置かれた白いベンチが映し出される。この寂しげなベンチのイメージはその後もなんどか繰り返し登場する。生前のレーニンがよく座っていたベンチだ。マルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』に挿入されている薄雪の積もったベンチをとらえた美しいモノクロ映像は、第二の歌の最後にあらわれるイメージをそのまま引用したものである。『レーニンの三つの歌』では、レーニンは死んでも革命はつづくと力強く歌われるが、ベロッキオの映画では、主人が不在のベンチは潰えた理想のようにあわくはかなくあらわれて消えてゆく。
この映画はアメリカではDVDが出ている(下の写真)。同じDVDには『キノ・グラース』(KINO-EYE)も収録されている。わたしはフィルムでなんどか見ているが、地方ではほとんど見る機会がない映画だろう。このDVDはベロッキオの映画を見る前に買っていたものだが(もちろん、ヴェルトフの映画が引用されているなんてことはまったく知らなかった)、長いあいだ開封もせずにほったらかしてあった。なにかのきっかけがないとなかなか見る気にならないものだ。買ったまま見ずにいるDVDがどんどんたまりつつある。わざわざ海外に注文して、そのまま見ないでいるうちに日本版が発売されてしまうという場合も。まあ、日本で買うよりたいてい安いからいいのだが……。
日本で出ているヴェルトフのDVDは今のところ『カメラを持った男』だけである。しかし、この日本版にマイケル・ナイマンがつけている音楽の評判は微妙だ。
1968年に起きた19才の少年永山則夫による連続射殺事件に衝撃を受けた足立正生が、松田政男、佐々木守らとともに、事件の直後に撮り上げたドキュメンタリー。とはいえ、ここには永山則夫を知るものを取材したインタビューもなければ、永山本人の映像すらない。それどころか、「永山」という名前さえ一度も口にされることがないのだ。わたしの記憶が正しければ、この名前が登場するのは、彼が生まれた北海道の生家をとらえた映像に、「永山」と書かれた表札が小さく見える瞬間だけだったと思う。
「去年の秋、四つの都市で同じ 拳銃を使った四つの殺人事件があった。今年の春、十九歳の少年が逮捕された。彼は連続 射殺魔とよばれた。」映画の冒頭と最後にあらわれるこの同じ字幕にはさまれた86分間、映画は犯人がその生涯において見たであろう風景のみをひたすら映し出してゆく。製作者たちはこれを「風景映画」と呼んでいた。富樫雅彦と高木元輝によるアルバート・アイラーふうのフリー・ジャズが流れ、忘れた頃に挿入される簡潔なナレーションが事件の経緯を簡潔に要約するばかりで、説明は一切ない。予備知識のない人が見れば、ただ無秩序に映像が並べられていっているだけとしか思えないだろう。八坂神社の境内でいきなりキャメラがズームを繰り返す場面があるのだが、そこで永山が警備員に向けて発砲したことを知らなければ、このズームはまったく無意味に思えたに違いない。
しかし、「風景映画」とはいったい何なのか。この映画の製作に関わった松田政男は次のように説明している。
下層社会に生まれ育った一人の大衆が<流浪>という存在態においてしか自らの階級形成をとげざるをえなかった時、したがって私たちが永山則夫の足跡を線でつなぐことによってもう一つの日本列島を幻視しようと試みたとき、意外というべきか、線分の両端にあるところの点として、風景と呼ぶほかはない共通の因子をも発見することとなったのである。そしてこれは、この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、都市も田舎も、一連の巨大都市としての劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均一な風景であった。私たちスタッフ6人は、1969年の後半、文字通り、風景のみを撮りまくった。撮っては喋り、喋ってはラッシュを見、そして再び風景を撮った。作家と観客と批評家の回路が私たちの内部にできあがり、モーターが唸り、私たちが確かに私たちのまぼろしの日本地図をこの列島の上にあぶり出した時、映画が完成した。それは一種異様なる<風景映画>であった。(松田政男)
よく指摘されることだが、この映画が撮られた数年後、国鉄が「ディスカバー・ジャパン」と銘打った国内観光の一大キャンペーンを開始し、日本の地方の風景は資本主義のシステムのなかへと回収されてしまう。この映画が撮られたのは、かろうじてその直前だった。このときすでに日本の風景は均一化・画一化され、互いに置き換え可能なものとなり始めていたのかもしれない。そしてそれは永山則夫が見ていた風景でもあった。ここに映し出される風景は、高度経済成長のなかで取り残され、見捨てられたような、わびしい風景ばかりだ。この凡庸な風景に向けて引き金を引いたのが、永山則夫の起こした事件だったといういい方もできるだろうか。もちろん、風景によって永山が犯罪者となった理由が説明できるわけではない。しかし、匿名の視線によってとらえられたこれら凡庸な風景とのせめぎ合いのなかにこそ永山則夫はいたのだという、この作品の描き方にはそれなりの説得力がある。
「凡庸な風景」といったが、40年後の今見直されたこの映画の風景は、単純に美しく、そして生々しい。ひょっとすると、それは作者たちにとっては思いもかけないことだったのかもしれない。
優れた風景写真を見ているときのように、こちらが風景を見ているのではなく、風景がこちらを見返しているような、そんな強いまなざしに貫かれた風景がここにはある。没落する地方都市の姿をとらえた奇跡の映像。「ディスカバー・ジャパン」によって、やがてそんな風景はただ見られるだけの一枚のポスターへと変えられてしまうだろう。60年代と70年代のちょうど境目という、この時代の狭間でのみ撮りえた映画かもしれない。
足立正生はすでに新作『幽閉者』を撮り終えている。機会はあったのだが、見逃してしまった。わたしにとっては、この『略称 連続射殺魔』が足立の最高傑作であり、これ以上の作品はそうは撮れないだろうと思っているのだが……。
▽足立正生『銀河系』★
分身をめぐるスラップスティックな作品。この時代の観念的な前衛映画の悪いところしか見えない。
▽木下恵介『女』★★
木下恵介にはめずらしい心理サスペンスふうドラマ。登場人物は小沢栄太郎と水戸光子のふたりだけ。強盗をやらかして逃亡中らしい男が、強引に女を連れて逃避行する。やくざものの男を演じる小沢栄太郎がいつもながらすばらしい。本心の見えない男を前にして揺れ動く女を演じる水戸光子の、どことなくだらしない感じもいいのだが、タイトルが「女」という割りには、女の存在感はそれほど強烈に感じられない。クライマックスの温泉宿の火事のシーンはオープンセットなのだろうが、まるでドキュメンタリーのようでかなり迫力がある。実験好きの木下恵介らしい作品だ。
最近古本屋でラテンアメリカの文学をよく見かけるような気がする。なにか動きがあるのだろうか。古本屋には最低週一回は顔を出しているので、なんとなく雰囲気でわかることがあるのだ。ヘンリー・ミラー全集をやたら見かけるなと思っていたら、しばらくして新しいコレクションが刊行され始めたりとか。ついこないだも、ブレヒトの映画論集が出ていたのでよっぽど買おうかと思ったのだが、微妙に高い値段だったのでどうしようかと考えていたら、どうやらこの映画論集を含む著作集がまもなく刊行されるらしいという情報をつかんだ。危ないところだった。
そういえば、アンドレ・バザンの『映画とは何か』が同じ時期に二つの古本屋に売りに出されたことがあった。これもやっと再版が出るのかと期待したのだが、いまだにその気配がないということはわたしの勘違いだったのか。ヌーヴェル・ヴァーグの父とも呼ばれる批評家アンドレ・バザンによる非常に有名な批評集なのだが、この本は本国フランスでも数十年前からダイジェスト版でしか手に入らない状態が続いている。特にややこしい権利問題があるとも思えないし、「カイエ・デュ・シネマ」も何をやってるんだか。まあ、わたしは旧版を持っているからいいのだが、これぐらいの本はいつでも手にはいるようにしておいてほしいものだ。
それはともかく、集英社文庫あたりから、ラテンアメリカの小説をまとめて出してもらえるとありがたい(講談社文芸文庫とかちくま文庫では、単行本並みの値段に成りかねない)。ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』など、もう一度読み返してみたいし、アストゥリアスの『大統領閣下』など、読みのがしている作品も多い。わたしは高校生のときにヌーヴォー・ロマンの主要作品を読んでいたので、たいていの小説には驚かなくなっていたが、それでもドノソの『夜のみだらな鳥』を読んだときはぶっとんだものだ。
ヌーヴォ・ロマンといえば、幸運なことに、なぜか今クロード・シモンの小説何冊か(『三枚つづきの絵』、『フランドルへの道』など)が書店で簡単に手にはいる(売れているのか売れていないのかわからないが)。欲をいえば、クロード・シモンは平岡篤頼以外の訳で読みたいものだ。この人の訳には、何というか色気がないのだ。かといって、フランス語で読むのはかなりしんどそうだし。堀江敏幸あたりが新訳を出してくれるとありがたいのだが。
まあ、このへんの文学がもっとふつうに読める状態になっていれば、平野啓一郎などといったとんちんかんは出てこないと思うんだが。
ブラジルが負けてしまい、お気に入りのロナルドのいるポルトガルも敗れてしまった。今大会はロナウジーニョの大会になるといわれていたが、結局、終わってみたらジダンの大会だったということになりそうだ。そういえば、Web 版のカイエ・デュ・シネマにも、ジダンを描いたドキュメンタリー映画『ジダン、神が愛した男』Zidane, un portrait du 21e siècle (日本ではまもなく公開されるはず)についての批評が載っている(英語で書かれているので、興味がある人は、http://www.cahiersducinema.com/ に行って読んでみてください)。
カイエ・デュ・シネマといえば、最近ジャン=ミシェル・フロドンの『映画と国民国家』という本を読み始めた。なかなか面白い。この本の翻訳が出たときはまだだったと思うが、フロドン氏は今やカイエ・デュ・シネマの編集長という地位にあるフランスの批評家だ。Web 版のカイエにもときどき彼の批評が載っている。たまに目を通しているが、正直いってそんなに面白いと思ったことはなかった。この本も、そんなに期待はしていなかったので、とりあえず買うには買ったが、すぐには読む気にならず、しばらく本棚で眠ったままになっていたものだ。まだ読みかけなので、全体の要約はできないが、映画というのは本来的に民主主義的なものであるという基本テーマから出発して、映画史を読み直した本であると、とりあえずいっておく。映画史の本というわけではないのだが、各国別に映画の歴史を振り返ることから始めて、グローバリゼーションとデジタル・ネットワークの時代における映画への考察で終わるという形は、百科事典の「映画」の欄を高級にしたようなものということができる(などといったら著者に怒られるかもしれないが)。
そんなに型破りな本ではないかもしれない。訳者も書いているように、カイエ=バザン主義的な限界も感じさせる。しかし、映画はもちろん映画以外の分野にも及ぶ知識が豊富で、様々なことに目配せが行き届いており、一ページごとに教えられることがある。フランスの批評家が書いたものとしては、かなりわかりやすい部類にはいると思う。映画についてじっくり考えたい人は一読をおすすめする。
原文と比べたわけではないが、翻訳は野崎歓なので、まあ信頼していいだろう。『リバティ・バランスを撃った男』などという誤りもみられるが(正しくは、『リバティ・バランスを射った男』)、こういう間違いは何度確認しても入り込んでしまうものだ(経験者は語る)。それで思い出したが、 どこの TSUTAYA にいっても、おすすめコーナーに『オズの魔法使い』と手書きで書いてあるのだが、あれも正しくは『オズの魔法使』である。いい加減気づいてほしい。
ここ数日体調が不良で、頭もよく働かない。
アンヌ・フォンテーヌ『おとぼけオーギュスタン』★★★
フランスの女性監督アンヌ・フォンテーヌの処女作。1995年という製作年度を考えると、スタンダード・サイズはめずらしい。61分という上映時間も注目に値する。この映画はわずか数シーンより成っている。シーンがたしかに存在すると感じさせてくれる映画は今では貴重だ。シーンが存在するなんて当たり前だと思われるかもしれない。しかし、大部分の映画は、シナリオにシーン3とかシーン4とか書いてあるだけで、実際には、シーンと呼ぶべきものは存在しない。でたらめな場所にキャメラが置かれ、でたらめな順番で映像がつながれているだけ。そんなものはシーンと呼ぶに値しない。
タイトルがタイトルだけに、あまり見る気が起きないかもしれないが、スモール・ムーヴィーの佳作である。ちなみに、ゴダールがこの映画について何度か言及している、と書けば少しは見る気になるだろうか。
▽チャン・ヒョンス『誰にでも秘密がある』★★
途中までは予想外の展開でそれなりに楽しめるが、終わってみればふつうの映画。パゾリーニの『テオレマ』をコメディにしたような作品。
昨日七藝で見たマルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』はなかなかの力作だったが、今は書く気力がない。体調がよくなったら、明日にでも書くことにする。
8月にジャコメッティ展が関西でも開催される模様。兵庫県なので、わたしが住んでいる場所からはちょっと遠いが、ジャコメッティが日本でまとめて見られるなんて機会は滅多にないことだ。これは見逃せない。
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本屋で『ルイス・ブニュエル著作集成』という本が出ているのを見つけた。6月に出ていたようだ。インタビューなどをのぞくほとんどの文章が集められている結構分厚い本で、たしか箱入りだったと思う(間違っていたらごめんなさい)。値段は5千円弱と少々高めだが、その値打ちはある本だろう。
ブニュエルの本ではほかに、『ルイス・ブニュエル 公開禁止令』(フィルムアート社)というインタビュー集が出ているが、とにかくインタビュアーがきまじめすぎていけない。ブニュエルが「意味なんてない」と繰り返しいっているのに、なんとかして作品の隠された意味を見つけようとするアカデミックな姿勢が、このインタビューをつまらなくしている(それでも相当面白い本なのだが)。
やっぱり本人が書いたものが読みたい。『ルイス・ブニュエル著作集成』には、幻の詩集『アンダルシーアの犬』草稿、映画作家ブニュエルの真髄を伝える映画論(ラング、ドライヤー、キートン)、シュルレアリスム時代を代表する実験的創作群(ブニュエル版「ハムレット」)、人形劇の歴史を縦横に語りつくす講演「ギニョル」、未映画化のシナリオやシノプシス(「アルバ公爵夫人とゴヤ」、「フルートの息子イレヒブレ」)、絶筆となったエッセイなどなどが収められており、ブニュエルのすべてを知ることができる内容となっている。 これを読めば、映画作家以外のブニュエルの顔も見えてくるかもしれない。
この機会に、あの荒唐無稽な自叙伝『映画、わが自由の幻想』も再販してほしいものだ。
山根貞男は、72年以降に、東宝のスクリーンに「異種の血」が大量に流れ込んでくることを指摘している。「異種の血」とは、要するに、非東宝のスターや監督たちのことだ。具体的には、勝プロによる「座頭市」「子連れ狼」シリーズ、石原プロによる「影狩り」シリーズなど、この年に東宝系で公開され始めた作品のことが指されている。山根は、60年代末から始まっていた東宝の(というよりも日本映画界全体の)転換期の危機が、この「異種の血」の混入によってよりいっそう明々白々になったと考える。そして、これらの作品がすべて活劇であることに注目し、この活劇は転換期の危機感がエネルギーとして噴出したものであると論じる。山根はこれらの作品を「東宝ニューアクション」と名付けている。その代表的傑作としてあげられているのが、西村潔『豹は走った』(70)、福田純『野獣都市』(70)である。そしてもうひとり、山根が大きく取りあげているのが小谷承靖の『ゴキブリ刑事』『ザ・ゴキブリ』(73)だ。
藤田敏八の『修羅雪姫』は、実は、この『ザ・ゴキブリ』の併映作品として公開されたものだ。そして藤田も、主演の梶芽衣子も、やはり日活出身の「異種の血」である。『修羅雪姫』の撮影を担当しているのは、今では青山真治作品のキャメラマンとしても有名な田村正毅である。田村はそれまでずっと小川紳介のドキュメンタリーのキャメラを担当してきた。わたしの勘違いでなければ、『修羅雪姫』は田村にとって初めての劇映画だったはずである。ドキュメンタリー畑出身の田村がはいったことで、『修羅雪姫』はさらにハイブリッドな作品になったといっていい。
同じ梶芽衣子主演で伊藤俊也の「さそり」シリーズが撮られ始めたのは、この前年の72年である。伊藤俊也は東映の東京撮影所で労働争議をやってた、ばりばりの左翼知識人だそうだが、藤田敏八ははたしてどうだったのか。あくまで彼の映画から受ける印象にすぎないが、藤田の場合、そういう左翼の運動を距離を置いて冷めた目で見ていたような気がする。しかし、権力や権威に対する反骨精神は半端じゃなかったに違いない(これも単なる推測だが)。 この70年代初期というのは、60年代に盛り上がった学生運動が急速に勢いをなくし、大衆消費社会が完成する時期である。しかし、あのデモで爆発したエネルギーがすべて消えてしまったわけではい。行き場をなくしたエネルギーは、執念深く形を変えてあらわれようとする。それが「さそり」であり、「修羅雪」であるといっても、そう的はずれではないだろう。「大きな問題」を描く60年代的作品から、よりパーソナルな「復讐」や「怨み」といったものに物語の中心は移っている(その橋渡しを田村正毅がつとめているところが興味深い)が、そこにはやはり「大衆の無意識」が反映しているはずである。まだ見ていないが、第一作と同じく明治を背景に描かれる第二作の『修羅雪姫 怨み恋歌』では、もっと政治的なストーリーになっているようだ。
さて、わたしは今日、京都造形芸術大学に足立正生の『略称・連続射殺魔』を見に行ってきたのだが、ここにもまた別の転換期があらわれれている。それはたしかに、東宝の転換期とは別の物語なのだが、根っこのところではそう違っていないような気もする。とはいえ、今はこれ以上書く気力がないので、またの機会にしたい。
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