日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
「あなたはこれこれについてどう思いますか」と尋ねてくる人たちとは違って、ダネーはインタビューでまず自分から話しはじめ、そのうちにこちらが、彼のいったことに対してなにか答えないではいられないようにもっていくのです。
ジャック・リヴェット
このたび、セルジュ・ダネーが 1985 年から 1990 年の間に「フランス・キュルチュール」でおこなった対談をおさめた CD 6枚パック『Microfilms』が、L'Institut national de l'audiovisuel (フランス国立視聴覚研究所)によって発売された。全部で7時間あまりに及ぶその対談の相手は、Claude Dityvon、ジェーン・バーキン、アラン・カヴァリエ、ジャック・ドゥミ、マルグリッド・デュラス、 Humbert Balsan、ジャン=クロード・ビエット、オリヴィエ・アサイヤス、ファン・デル・コイケン、エリック・ロメールと、多彩で魅力的な顔ぶれがならんでいる。是非聞いてみたいものだ。
大西巨人の『神聖喜劇』については何度も紹介している。荒井晴彦が脚本を書いていることもどこかで書いた。しかし、まさか本当に映画になるとは思っていなかった。ところがなんと、その監督を澤井信一郎がやるという話があるらしい。最初はちょっと違うんじゃないかと思ったが、これは意外といい選択かもしれないと思い始めているところだ。
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だれも本を読まなくなったといわれている割には、こんなものまでと思う本が文庫になっている。今回は、昨日本屋で見つけた文庫の新刊を紹介。
▽フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』
この本については前にどこかで(たしかホームページでゴダールのことを書いたときに)紹介していたはず。文庫になって登場です。
▽アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』
これも文庫になって登場。わたしはむかし出ていたアルトーの生声テープ付きの単行本を持っている。
▽レッシング『ラオコオン 絵画と文学の限界について』
説明不要の有名な本。岩波文庫から今月再版になったばかりのはずだが、この Amazon のリンクは間違っているかもしれない(1970年の版になっているので)。
オーソン・ウェルズのやった偽放送「火星人襲来」はいまや伝説と化しているが、今朝の衛星ニュースで似たようなことがベルギーでおきたことを伝えていた。ベルギーの公共放送テレビ局が、フランドルが分離独立し、ベルギーが分断されて二つの国になるという嘘のニュースを放送し、それがもとで国中が大騒ぎになっているのだ。ラジオとテレビという違いはあるが、やり方はオーソン・ウェルズのものと同じで(というか、真似したんだろうが)、テレビの放送が突然中断されて臨時ニュースが入るという体裁でその番組ははじまる。"Ce n'est peut-être pas une fiction"(「これはおそらくフィクションではない」)という字幕が最初にはいることははいるのだが、その後に続く部分があまりにも真に迫っていて、かなり多くの人がそれを信じてしまったようである。もちろん、あとで大問題となり、やり過ぎだ、悪趣味だなどと非難囂々となったらしい。 ベルギーは地理的にヨーロッパの十字路にあたり、北部はゲルマン系民族のフラマン人、南部はラテン系民族のワロン人からなっている。フラマン人はフラマン語、ワロン人はワロン語を用いるが、フラマン語はオランダ語とほぼ同じであり、ワロン語もフランス語とほぼ同じと考えていいようだ。要するに、民族的・言語的に南北に分裂した状態がずっと続いてきたわけである。今回の放送は、公共放送のあり方の問題で物議をかもしたが、遠く離れた国に住む第三者には、ベルギーという国の置かれた状況を非常にわかりやすく理解させてくれるものではあった。
///などという話はどうでもいいのであって、今日はジャン=ダニエル・ポレの『L'Ordre』という作品について書くつもりだったのだ。最近、いろいろ書くことが多くて、なにから書いていいか迷ってしまう。結局、もっとも流行からかけ離れた話題を選んでしまった。『L'Ordre』は 1973 年にポレが撮った 42 分の中編映画だ。わたしがよく使うフランスの映画ガイドでは完全に無視されている。フランス人でさえほとんど知らない作品だ。日本人で見ている人は限られているだろう。見捨てられた人たちを描いた見捨てられた映画である。
この作品は、前に紹介したフランスで発売されているポレの DVD-BOX の一枚目のディスクに収録されている。このディスクにはほかに、『Méditerranée』『Bassae』の計3作が収められている。いずれも、ジャンルでいうならドキュメンタリー作品ということになるのだろう。地中海的な風土が描かれていることでもこの三作は共通している。『Méditerranée』『Bassae』にはほとんど人の姿が出てこない。正確にいうと、出てくるのだが、うち捨てられたような風景のイメージだけが強烈に残り、人間の記憶はほとんど残らないのだ。画面に登場する人物が言葉を発することさえほとんどないのである。たとえば、『地中海』には、手術台のようなものに載せられて眠りつづける白衣の美少女(だれなのかまったくわからないのだが)のイメージがくり返し登場するが、彼女は人間というよりも、名も知れぬギリシアの彫像のごときものとして画面を詩的に彩っているだけであるといっていい。
『L'Ordre』(とりあえず『秩序』と訳すことができる)も、そのようないわば詩的ドキュメンタリーとしてはじまる。クレタ島の近くにあるらしい寂れた島の光景がつぎつぎと映し出されていく。アラン・レネの『夜と霧』を思い出させるような、ゆるやかに前進移動・後退移動をおこなうキャメラによってとらえられたイメージが、くり返しを基調として複雑に重ねられてゆき、魔術的といってもいいような効果がうみだされる。ここまでは『Méditerranée』『Bassae』とそう変わらない印象なのだが、突然、キャメラに真っ正面をむいた人物が語りはじめるのだ。前の2作では、ナレーション以外にだれもしゃべるものがいなかっただけに、だれかが観客に向かって話しかけるというだけでもちょっと驚くところである。しかも、その人物の顔が・・・なんといったらいいのだろうか、こういういい方はあまりしたくないのだが、あまりにも異様すぎて、人間というよりも怪物めいて見え、ショックで一瞬目がくらんでしまう。彼はライ病患者なのだ(あの顔をどうやって表現したらいいのかわからないが、パゾリーニの『奇跡の丘』でキリストがライ病患者を治す奇跡のシーンを覚えている人もいるだろう。まさにあんな顔をしているのだ)。これは本当に撮影してもいい被写体なのだろうかという疑問が見ていてよぎったのは、ヴェンダースの『ニックス・ムーヴィー/水上の稲妻』以来だ。
1904 年に、ギリシア政府は、社会的に「危険」だとしてライ病患者たちを逮捕し、この小さな島に集めて幽閉する。彼らがそこからようやく解放されるのは、その 50 年後、1957 年になってのことだ。隔離されていたライ病患者たちはアテネの近くの施設に移され、そこで社会復帰を待つことになるが、結局そこからでることはなかった。そこももうひとつの幽閉地に過ぎなかったのである。多くの人たちが島を訪れたが、それは彼らの存在を認めるためではなく、珍獣でも眺めるようにして彼らを観察するために過ぎなかった。人間として認めてもらえることしか望んでいなかった彼らにとって、それは裏切りでしかない。20世紀の半ばを過ぎてもまだそんなことがおこなわれたというのは驚きだが、そのことがいまに至るまでほとんど知られていないことに言葉が出なくなる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』が書かれたのが 1972 年。フーコーの活動ともクロスする映画である(おそらくその影響を多分に受けて撮られたのだろう)。
ミシェル・トゥルニエの『魔王』を信じるなら、「怪物」を意味する "monstre" という言葉の語源は "montrer" (「見せる」)という語であるという。このライ病患者もまさにそんな「怪物」として自分を指し示していたのだ。しかし、ゴルゴンの神話が示すように、怪物とは、まがまがしいものとして視線を投げ返されることのない存在であるともいえる。この映画は、一言でいうなら、そんな彼らに視線を投げ返してやる試みであったといえる。しかし、この作品もまた、ほんのわずかの視線にふれただけで忘れ去られてしまった。視線を投げ返されることのない孤独な存在を描いた、孤独な作品である。日本で上映される可能性はほとんどないと思うが、万が一そういう機会があったなら、是非見てほしい。
ラウール・ルイスのことを書いた数日後にピノチェトが亡くなるというのもすごい偶然である。イギリスで逮捕されて以来なにかと話題になってきたピノチェトだが、ついにくたばったというわけだ。相当ひどいこともやった男だったらしいが、こいつのおかげでラウール・ルイスというたぐいまれなる亡命作家が生まれたのだともいえる。そのことだけは感謝すべきかもしれない。
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ミシェル・フーコー『マネの絵画』 ちくま文庫の「ミシェル・フーコー・コレクション」も『フーコー・ガイドブック』が最後にでて一応完結したようだ。その流れで、同じ筑摩からフーコーによるマネ論が出た。日本ではモネのほうが圧倒的に人気なのだろうが、美術史的にはマネのほうが断然重要な画家であるというのが定説ではないだろうか。これを読む前に、ゴダールの「映画史」にも引用されているバタイユの『沈黙の絵画─マネ論』は当然読んでおくべきだろう。つでに、映画評論家としても知られるユセフ・イシャグプールの『現代芸術の出発―バタイユのマネ論をめぐって』も読んでおきたい(イシャグプールについてはここで紹介してある)。 ちなみに、タイトルはABBAのもじり(ABBAってパソコンでは正確に表記できないんだよね)。
ラウール・ルイスの『クリムト』をモーニングショーで見るためにめずらしく早起きして出かけた。上映後、時間の余裕ができたので、ひさしぶりに本屋をじっくり見て回る。ネットをブラウジングしているだけではやっぱりだめだ。本屋を歩き回っていると、こんなものもでているのかという発見の連続で、あれもこれもほしくなって気が変になりそうになる。 ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』の文庫本は、単行本を文庫にしただけだと思っていたのだが、宇野邦一の個人訳だったことを知る。ドゥルーズの『シネマ』もやっと実物を眼にした。重いし、高い。まあ、しかしこれはいずれ買うことになるんだろう。2巻目は結構現代哲学しているので、読んでいてときおり訳註がほしくなる。しかし、原書をもっているので今すぐ買う必要はない。たぶん、読みはじめてすぐに手放すやつも続出するだろうし、古本屋でいい状態で手に入る可能性も高そうだ。かわりに、メリエスの伝記『魔術師メリエス』を見つけて迷わず購入する。この本はもう品切れで手に入らなくなっているものと思いこんでいたので、うれしい発見だった。実をいうと、この日の午前中に見たばかりの『クリムト』のなかに、メリエスが出てくる嘘のような場面があったので、気になっていたのだ。まあ、そのあたりのことは今度書くことにする。
さて、このとき見つけためぼしい本をピックアップしてみた。
▼矢川澄子『わたしのメルヘン散歩』
ちくま文庫の復刊。マーク・トウェイン、 ルイス・キャロル、ジュール・ヴェルヌ、宮沢賢治、イーデス・ネスビットなどの児童作家たちに捧げられたオマージュ。ところで、イーデス・ネスビットの本はむかしは結構文庫ででていたものだが、いまは軒並み絶版状態になっている。ハリー・ポッターものがばか売れする一方で、こういうのが忘れ去られているのは残念だ。『緑の国のわらい鳥』、だれか復刊してくれませんか。「図書室のなかの図書室のなかの町」なんて、タイトルを見ただけで読みたくなってくるでしょ。
▼ソルジェニーツィン『収容所群島』
わたしは新潮文庫で読んでいる(いまはもちろん絶版)。まあ、基本ですね。もっとも、これを読み通すのは実は大変なんだけど、避けては通れない。この単行本は今のところ2巻しか出ていないようだが、これで完結なんだろうか。
須賀敦子の全集がなんと文庫で出ることになったようです。イタリアのお供に。わたしは、いまは、読みませんけどね。読むと無性にイタリアに行きたくなるだろうから。
Planet Studyo Plus One にチェコ映画を見に行く。意外なことに、満員ではいりきれないほどだった。一応関係者なので、お客よりいい場所に堂々と座っているわけにもいかず、『火事だよ!カワイ子ちゃん』のときは、お客が落ち着いたあとで、スクリーンの手前の空いた場所に座ってみることになる。スピーカーが近くて、声がでかすぎ、コメディというよりはアクション映画でも見ているような気になった。
ミロシュ・フォルマン『火事だよ!カワイ子ちゃん』(67)★★☆
『アマデウス』のミロシュ・フォルマンがチェコ時代に撮った喜劇。全編が、チェコの田舎町の消防署が主催でおこなわれるパーティの場面だけでほぼ構成されている。パーティでは「ミス消防署」のコンテストがおこなわれ、それに優勝した美女が元消防署長に記念品を手渡すことになっている。消防署のおじさんたちは、だれもかれも子供じみていて、おまけに好色だ。テーブルのケーキや、くじ引きの賞品を盗むものがいたり(その上、明かりが消えたときに、盗んできたものを返しに来たところを見つけられて気絶する)、自分の娘をコンテストに参加させろとだだをこねるものがいたり。コンテストの審査は、なぜか即興の水着ショーに早変わりし、元消防署署長は、何度もタイミングを間違えて舞台に進み出て、そのたびに連れ戻される。映画はパーティ会場のなかだけで展開していくのだが、最後の最後に、火事の場面でキャメラは外に出る。寒い夜空の下で燃え上がる自宅を、惚けたようにいすに座って眺める老人。 結局なにごとも起こらないばか騒ぎだけの映画であるが、このひょうひょうとした軽さはフォルマンをチェコから亡命させるに十分だった。プラハの春がソ連によって圧殺されるのは、この翌年のことである。
ヤン・スヴィエラーク『ドライブ』★☆ ただのロードムーヴィー。風景がきれいなので、それなり感じよく見られる。ヴェンダースふうというよりは、アメリカン・ニューシネマふう。が、ヴェンダースの映画史に対する諦念も、ニューシネマの甘ったるいナルシシズムさえもなく、別にこれといってなにもない。まあ、なにかが動いていればそれでいいというわたしのような人間には、それなりに楽しめた。
たしか、この『火事だよ!カワイ子ちゃん』と『ブロンドの恋』は、わたしがパリではじめてみた映画だったような気がする。何しろ大昔の話なので記憶が定かでないが、「パリスコープ」をペラペラとめくっていたらミロシュ・フォルマンの映画が街の映画館で上映されているのを発見して、驚いたことだけは覚えている。その時はじめてみたチェコ時代のフォルマンの映画の新鮮な印象は、残念ながら、今回見直してみて、若干薄まってしまったが、『アマデウス』よりはよほど面白いことはたしかである。
それにしても、こういうものを、いくら名画座とはいえ、都会の真ん中の映画館で上映しているというのはすごいと思ったものだ。ローレル&ハーディのコメディだとか、ラオール・ウォルシュの『大雷雨』だとかが、当たり前のように上映されている。『鉄腕ジム』は、たしかシャンゼリゼの近くの映画館で見たはずだ。当時日本ではほとんど見ることができなかったカサヴェテスの映画は、一年中パリのどこの映画館でも上映されていた。まさに、なんでもありである。しかし、わたしがほんとにびっくりしたのは、ポンピドゥー・センターの近くのバーガーキングの広告ポスターにランドルフ・スコットの写真が使われているのを見たときだ。世界中の映画が見られるということでは東京が世界一の映画都市だとよくいわれるが、あれを見たときは、日本は負けたなと思ったね。
先頃亡くなったジャック・パランスについてなにか書かなければと思っていた矢先に、今日、ロバート・アルトマンが亡くなったことを知った。癌による合併症によるものだという。病気だったとは知らなかった。享年80歳。 正直いって、最近のアルトマン作品はあまりいいとは思えず、わたしのなかではアルトマンはフェイドアウトしつつあった。しかし、『ゴスフォード・パーク』などを見ると、まだまだいけそうな気がしていただけに、残念である。 いまDVDで見ることができるジャック・パランスとロバート・アルトマンの作品はここ。
一台の車とひと組の男女がいれば映画は作ることができる、といったひとがむかしいたが、『明日へのチケット』を見ていたらふとそんな言葉を思い出してしまった。特撮も、スターも、ドラマさえも必要ない。列車が走り、そこに乗客がいれば、そこに映画は成立するのである。映画を作る、なんと簡単なことではないか。本当はそんな簡単なことではないのだが、そんなふうに思わせてしまうところが、すばらしい。テロの不安が漂うなか、初老の男の頭のなかに去来する思い出と、最後の恋への夢を描いたエルマンノ・オルミ編もすごくいいのだが、わたしとしてはキアロスタミ編が頭ひとつ抜けていたように思う。傲慢不遜な女の付き人のようなことをさせられている青年を描いた短編だが、そこにはいつものように何ごとも起こらない。まるでドキュメンタリーを見るようだとついいいたくもなる。しかし、よく見ればそこにはたえず視点の移動があり、非常に巧みに演出されていることがわかる。母親ほどの年齢の女と青年との関係、携帯電話と座席をめぐるやりとり、偶然乗り合わせた少女との会話のなかに感じ取られる過ぎ去った時間。どうしようもない世界が浮かび上がってくるが、その世界は残酷であると同時に、滑稽でもある。映画の素肌に触れるような、静かな興奮を味あわせてくれる作品だ。ラストを飾るケン・ローチ編は、メッセージが少しばかり直接的すぎ、ほかの2編に比べて純度はいささか落ちる。しかし、これがケン・ローチのケン・ローチたるゆえんでもある。
最近見た映画のなかでは、これがもっとも感銘を受けた作品だ。ソクーロフの『太陽』もデプレシャンの『キングス&クイーン』もすぐれた映画だったが、愛すべき作品かというと、ちょっとちがうような気がする。『明日へのチケット』は見ることの幸福をひさしぶりに思い出させてくれた。
Lady Lou: You know, I always did like a man in a uniform. That one fits you grand. Why don’t you come up sometime and see me…I’m home every evening.
Captain Cummings: I’m busy every evening.
Lady Lou: Busy? So what are you trying to do, insult me?
Captain Cummings: Why no! Not at all. I’m just busy, that’s all. You see, we’re holding meetings in Jacobsen’s Hall every evening. Anytime you have a moment to spare, I’d be glad to have you drop in. You’re more than welcome.
Lady Lou: I heard you. But you ain’t kidding me any. You know, I’ve met your kind before. Why don’t you come up sometime, huh?
Captain Cummings: Well, I…
Lady Lou: Don’t be afraid, I won’t tell. Come up, I’ll tell your fortune. Aw, you can be had.
メイ・ウェスト主演の映画『わたしは別よ』She Done Him Wrong(33)の一場面である。メイ・ウェスト演じる悪徳酒場の女レディ・ルーが、心を寄せている救世軍の男カミングスを、彼が覆面警官であることも知らずに誘惑しようとするところだ。日本ではほとんど忘れられている作品だが、アメリカではメイ・ウェストの名台詞とともに長らく記憶されている作品である。
14歳の時にミュージック・ホールでデビューし、やがてブロードウェイの舞台に立つようになったメイは、26年、水夫相手に春をひさぐ売春宿の娼婦たちを、下層階級の言葉や隠語を交えて描いた『セックス』と題する自作の劇の大ヒットによって一躍有名になると同時に、風紀を乱すという理由で警察に目をつけられるようになる。翌年、ついには、当局の手によって芝居は打ちきられ、ほかの俳優たちとともにメイは逮捕、拘留されることになるのだが、釈放されるとすぐに、今度はホモセクシャルをテーマにした芝居『ドラッグ』を書いて上演するというふてぶてしさだった。 こんな話題性のある女優にハリウッドが目をつけないわけがない。32年、パラマウントが多額の契約金で彼女と契約を結ぶ。『わたしは別よ』は、ブロードウェイでの彼女のヒット作『ダイヤモンド・リル』を映画に脚色したものだ。すでにヘイズ・コードは発令されていた。ヘイズ・オフィスはメイの芝居の多くの映画化を「道徳的見地」から禁止していた。『ダイヤモンド・リル』も、タイトルとヒロインの名前を別のものに変えるという条件で、ようやく映画化が許可されたといわれる。メイがパラマウントにはいって撮ったわずか数本目の映画だったが、これが大ヒットし、おかげでパラマウントは経済的な窮地から救われることになったという。
この映画は、アメリカ映画協会 AFI(American Film Institute)の映画関係者ら1500人の委員が選んだコメディー映画ベスト100 の 75 位に選ばれており、上に引用した場面でのメイ・ウェストのセリフ、"Why don’t you come up sometime and see me…" というセリフは、同じ AFI によるアメリカ映画名セリフベスト100 の 26 位に選ばれている(ある作品をめぐる日本とアメリカでの評価の違いをたまには認識するのもいい)。この回りくどい誘い文句は、ヘイズ・コードゆえに生まれた名ゼリフといっていいだろう。コードの存在が、逆説的にも、微妙で繊細きわまるセリフを生み出したのだ。メイはたんに挑発的なだけの肉体女優ではなく、非情に頭のいい女優でもあった。『わたしは別よ』のセリフはほとんどすべて彼女によって書かれたものである。検閲を免れるために、彼女は二重の意味を持ったセリフを映画のあちこちにちりばめた。明らかに性的なコノテーションをふくんでいるセリフも、一見普通の意味に解釈されるように書かれており、ヘイズ・オフィスはそれを通すしかなかった。
たとえばこんなセリフ。
"Is that a gun in your pocket, or are you just happy to see me?"
アメリカでは、先ほど引用した"Why don’t you come up sometime and see me…"がいちばん有名なのだが、フランスではなぜかこの映画は、この"Is that a gun in your pocket, or are you just happy to see me?" というセリフとともに知られている。"gun" という単語が俗流フロイト的な連想をさせるところがフランス人には受けたのだろうか。フランス人も案外単純である。
それはともかく、わたしが気になったのは、冒頭のダイアローグの最後でメイがいう "you can be had" というセリフだ。これはどういう意味なんだろうか。これもまたこの映画で有名になったセリフのひとつであり、翌々年にサム・ニューフェルドによって『You Can Be Had』という映画が撮られているのは、おそらくこの映画のヒットを受けてのことだろう。 この "you can be had" というセリフもヘイズ・オフィスによって削除されかかったという記述があることからも、ここに性的な意味合いが込められていることは明らかである。たしかに、辞書には「異性を性的にものにする」という意味が have にはあると書いてあるのだが、この場合はふつう受動態にはならないようだ。イレギュラーな表現なのだろうか。この言い回しがごくふつうに使われるものなのか、正直いってわたしにはよくわからない。しかし、google での検索ヒット数もそれほど多くないし、その大半がこの映画がらみであることから見て、それほどポピュラーな言い回しではないような気がする。
いずれにせよ、ここでは、女が男に向かって、 "you can be had" といっていること、つまり男のほうが "be had" されるという受け身の状態になっているというのが、このセリフのポイントではないかと思う。つまり、女が男に向かって、「あなたはわたしのものになってもいいのよ」といっているわけである。そして、ここでその受け身の対象になって、メイ・ウェストの誘いを受けている男性が、ほかならぬケイリー・グラントなのだ。『わたしは別よ』はケイリー・グラントにとってもそのキャリアの節目となる重要な作品だった。
ポーリン・ケイルはその有名なケイリー・グラント論「The Man from Dream City」をこう書き始めている。
You can be had, Mae West said to Cary Grant in She Done Hime Wrong, which opened in January, 1933, and that was what the women stars of most of his greatest hits were saying to him for thirty years, as he backed away -- but not too far. One after another, the great ladies courted him [...].
そして、ポーリン・ケイルは、映画のなかでケイリー・グラントに言い寄った女たちをつぎつぎに挙げてゆく。"Cary Grant must be the most publicly seduced male the world has known". クラーク・ゲイブルのように、粗野な言葉で女にあからさまに言い寄る攻撃的な男とはまったく対照的な男優が、ケイリー・グラントだというわけだ。そして、それを象徴するセリフが、女たちが彼にいう "you can be had" という言葉だとポーリン・ケイルはいっているのである。
ところで、このセリフは、山田宏一監修によるポーリン・ケイル映画評論集『明かりが消えて映画がはじまる』のなかでは次のように訳されている。
「あんたはいつまでいてもいいの。わたしのことを好きにしていいのよ」
たった4語のセリフがなんとも長いセリフになったものだ。それほど、メイ・ウェストが書いたセリフにはポテンシャルがあり、強い緊張感がみなぎっているということなのだろう。たしかに、内容的には女はこんな意味のことをいわんとしているようだ。しかし、こういうふうに訳されてしまうと、英語にある受動態のニュアンスが完全に消えてしまう。わたしにはそれこそがこのセリフのミソだと思うのだが、どうなのだろう。まあ、それ以前に、この訳をそのまま使えば、確実にヘイズ・オフィスは許さなかっただろうが・・・
[直前に、"I'll tell your fortune" 「運勢を占ってあげる」といっているところを考えれば、"You can be had" は、字義通りには、「だまされるかもしれない」という意味に解釈できそうだ("be had" は「ペテンにかかる」という意味ではよく使われる表現である)。もっとも、実をいうと、わたしはこの映画を見ていないので、この場面のニュアンスがまるでわかっていない。日本で公開されたときにはどう訳されたのだろうか。気になるところだ。いまとなっては確かめようがないが。]
▽シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』
ステファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』については前に紹介したと思うのだが、岩波文庫からすでに出版されているこの本が、最近になって、河出文庫からも別の訳者の翻訳で出版された模様。ナチスを逃れ、イギリス、アメリカをへてブラジルに渡り、ついに自ら命を絶つに至ったこの高名な伝記作者の、最高傑作ともいわれる作品がこの本です。フランス革命の時代に権謀術数の限りを尽くしてのし上がっていったマキャヴェリスト、フーシェを描いた同じ作者の『ジョゼフ・フーシェ』も、そのへんのつまらない歴史映画より百倍は面白い傑作。
▽伊吹 武彦 『フランス語解釈法』
フランス小説を原書で読みたい人のための本です。 「名著を読みやすい全面新組で復刊。フランス文を読み解く上で必須の構文を基礎編で細目にわたって整理し、応用編で、ボードレール、プルースト、サルトル等の原文を詳細な注で味わう。」
11月1日から5日まで「大阪アジアン映画祭2006」が開催された。この映画祭の最中に、ピエール・リシアンなるフランス人が来るので相手をしてほしいという暗黒の指令が Planet Studyo Plus One の富岡氏から送られてきた。ときおりこのような闇の指令が送られてくるのだが、たいていそれでなにか得をするわけではない。面倒くさいことも多い。しかし、なにかの経験にはなるので大概は引き受けることにしている。 さて、このピエール・リシアンなる人物、最初は聞いたこともない名前だったのだが、調べているうちにかなり重要な人物だということがわかってきた。
IMDb によると、ゴダールの『勝手にしやがれ』の助監督を務めたことがあり、ジョゼ・ジョヴァンニの『Dernier domicile connu』(70)では press attache(「大使館報道官」 という訳が辞書には載っているが、まあ宣伝係といったところか)をやっている。その後、監督業に乗り出し、同時にプロデューサーとしてロメールの『グレースと公爵』のアソシエイト・プロデューサーを務めたりもしている。 IMDb にはこれぐらいのことしか書いていないのだが、ネットで調べているうちにここには漏れている作品がほかにもいろいろあることがわかってきた。フィルモグラフィー的には、フェルナンド・ソラナスの『スール』の助監督、ジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』、ホン・サンスの『女は男の未来だ』『Conte du cinéma』のアソシエイト・プロデューサーなどの情報が抜けている。しかし、ピエール・リシアンの重要さは、こういうクレジットに名前が出てくる作品以外のところにどうやらあるようだ。
今も昔も熱狂的なシネフィルであったリシアンは、若いころはいわゆるマクマオニストとして知られていた。皆さんご存じだとは思うが、マクマオニストというのは、パリの映画館 MacMahon に通って、フリッツ・ラング、オットー・プレミンジャー、ラオール・ウォルシュなどのアメリカの映画作家たちを熱狂的に支持したシネフィルたちのことを指す呼び名だ。赤狩り時代にイギリスに亡命し不遇な生活を送っていたロージーを世界に認めさせるきっかけになったのは、このパリのマクマオニストたちがロージーを「発見」し、擁護したことにあったことを思い出し、ロージーの長編インタビュー『追放された魂の物語─映画監督ジョセフ・ロージー』を読み返してみると、なんとロージー自身がピエール・リシアンのことにふれているではないか。ロージーは、イギリスではまったく注目されなかったこの時代の作品が、フランスのマクマオニスト、とりわけピエール・リシアン、ミシェル・ファーブル、クロード・マコウスキらのおかげで注目されるようになったと感謝の念を述べている。ロージーはもちろん、ウォルシュやラングなどともリシアンは親好があったようだ。
シネフィルなのはいまだに変わらないようだが、韓国のホン・サンスの作品を2本もプロデュースしていることからわかるように、リシアンの興味はいまはアジアのほうに向かっているらしい。そもそも、80年代にイム・クォンテクを最初にフランスに紹介したのは彼らしい。2002年に、リシアンはユネスコからフェリーニ・メダルという賞をイム・クォンテクとともに受賞しているのだが、そのときは友人であるイーストウッドから祝電をもらったそうだ(イーストウッドとも親好があるとははすごい)。 というわけで、話がそのへんのことになったときのために、『春香伝』のフランス語タイトルなどのアジア系の映画のタイトルがすらすら出てくるように予習をするついでに、ロージーのインタビュー本と同じ著者ミシェル・シマンによる分厚いインタビュー集『La petite planète cinématographique』のなかの、ホウ・シャオシェンやツァイ・ミンリャンなどアジア系の映画作家たちのインタビューに目を通していたら、キン・フーのインタビューのところで、「またしてもピエール・リシアンがいなければキン・フーのフランスでの発見は何年も先のことになっていたであろう」といった意味のことをミシェル・シマンが書いているのを発見し、驚いてしまった。
伝記『ハワード・ホークス』を書いたジャーナリスト、トッド・マッカーシーはリシアンを、 "the least known enormously influential person in international cinema" と評している(彼はリシアンについてのドキュメンタリーも準備しているようだ)。一般にはほとんど知られてはいないが、いま簡単に述べたように、映画史のいろんな場面に現れる陰の立て役者というか、まさに映画史の生き証人といってもいいような人物ではないか。これはいろいろ面白い話が聞けそうだ。
うーん、そう思って楽しみにしていたのだが、結局、会場には現れず会えなかったのだ。残念。
そのうちまた会う機会があるかもしれない。まあ、今回は、こうやってブログのネタがひとつできただけでよしとしよう
いよいよほんとに出るようです。 ついに Amazon でも予約可になりました(リンクは下)。11/6 日が出版予定日だとか。たぶん今度こそほんとです、たぶん。 しかし、どうやら2巻目から先に出すつもりらしい。原書のほうを読んでいる人はいいとして、2巻目からはじめて読む人は大丈夫なのか。まあ、いろいろ事情があるんでしょう。1巻目は来年の夏だとか。
>>ジル・ドゥルーズ『シネマ2』(法政大学出版局)<<
ついでですが、『アンチ・オイディプス』が文庫になっていたことをご存じでしたか。わたしはついさっき知りました。そういえば、『アンチ・オイディプス』の翻訳はもっていなかったことに思い当たる(だって単行本、高から)。
ボリス・バルネット『トルブナヤ通りの家』★★★
ナナゲイで前に見ている映画だが、そう見る機会もないと思うので、シネ・ヌーヴォでおこなわれてる「ロシア・ソビエト映画祭 in OSAKA」に見に行く。 サイレント時代のコメディの傑作だ。サイレント映画なのになぜかヴィスタ・サイズでの上映。ナナゲイでやったときもたしかヴィスタでの上映だった。ナナゲイもシネ・ヌーヴォもスタンダードをちゃんとかけられる小屋だが、それでもだめだということはフィルムの問題で、技術的にだめだということなのだろう。ナナゲイでやったときに訊いて確認していたので、とくに文句はいわなかったが、マスキングで上の方の画面が隠れているのがぼんやりと見えるだけに、なんとかならなかったのかと思う(ときおり人物の顔が見えなかったりするのだ。マスクを使わずに上映するパリの・シネマテーク方式が懐かしい。サイレント映画をヴィスタで見るのは居心地が悪い体験だ)。上映時間も、記載の98分より30分ぐらい短かった。サイレント・スピードでないとこんなに上映時間が変わったっけと思うのだが、とくに途中が飛んでいるようでもなかった(終わり方は唐突だが)。
冒頭、ビルの窓の明かりがつぎつぎと消えていき、「街は眠りにはいる」という字幕がはいる。ついで、「街は目覚める」という字幕とともに、早朝の街の光景が目の覚めるようなモンタージュで映し出されてゆく。路面電車のレールの走る街路に日が差し始め、清掃夫が舗道のゴミを片付けるのが見える。 つづいて、グリフィスの『イントレランス』の一場面を思わせる、左右をマスクでおおって縦の動きを強調した構図でとらえられた吹き抜けの階段が映し出され、階上や階下からつぎつぎと起き出してくる住人たちのあわただしい様子が、荒唐無稽なアクションとともにスピーディーに描き出されてゆく。だれもがいっせいに、布団をはたいたり、ゴミを掃き出したり、わけもなく階段を駆け上ったり駆け下りたりする。しまいには上から布団まで落ちてくるし、最上階の踊り場では、隣通しの部屋から出てきたふたりの男たちが、当たり前のように丸太をそれぞれ部屋の外に出して、薪割りをはじめる始末。あまりの勢いで斧を振るうので、床がぼろぼろと崩れ落ち、いまにも底が抜けそうだ。下の階の女がそれを見て、「廊下で薪割りは禁止されていますよ」と注意する。そんな禁止があること自体が笑わせる。この光景をキャメラが、マキノ雅弘の『恋山彦』ふうの縦移動で階段を上昇しつつとらえてみせる。この映画は一種の長屋ものでもあるのだが、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』など欧米の映画では階段が重要な舞台装置となるのが、日本の時代劇の長屋ものとはちがうところだ。
町中の場面になって、なぜか突然、アヒルをもった娘が現れ、街の真ん中で逃げ出したアヒルを拾おうとして、危うく路面電車にひかれそうになるところで画面がストップ・モーションになり、回想シーンとなる。田舎の駅での娘と年老いた祖母(?)との別れの場面。娘は都会に住む祖父に会いに行くところだ。汽車に乗った娘と見送る祖母が最後の別れをしているところに、反対方向から別の汽車がはいってきて、お互いの姿が隠れて見えなくなる。そのうちに、娘の汽車が動きはじめるのだが、いま入ってきた汽車から、娘が会いに行くことになっているはずの祖父が降りてくる。シンプルだが巧みに演出された場面だ。いざこういうシチュエーションを演出しろといわれても、こんなにふうにシンプルな演出は思い浮かばないものである。
さて、都会にたどり着いた少女は、目的の家を探すのだが、訊く人ごとにあらぬ方角を指さすのでいっこうにたどり着かない。最後にたずねようとした相手が自分と同じように紙切れの住所を頼りに家を探し回っている少女だということに気づいた娘は、うんざりとした顔で少女に適当な方角を指さしてみせる、というのがオチだ。そんなふうにしてようやくどり着いた家は、当然留守で閉まっている。途方に暮れた少女が、逃げ出したアヒルを追いかけるところでさっきのシーンに戻るというわけだ。 そこへ突然、娘の幼なじみの青年が車に乗って現れ、彼女はとりあえず彼の家に住むことになる。それが例の長屋だ。ふたりが車に乗っているところを、青年の恋人が偶然目撃し、彼女にライバル心を燃やすことになるのだが、その話はそんなにふくらまない。これはそんなちゃらちゃらした映画ではなく、階級闘争の物語なのだ(本当か?)。
娘(名前をパラーニャという)は、長屋の住人であるいけ好かない夫婦のところで女中として働きはじめる。彼女が雇われたのは、応募してきた人間のなかで、労働組合に入っていないのは彼女が初めてだったからだ。この夫婦のところで働くことになるきっかけは、中庭で主人が不器用に洗濯物を干しているところをパラーニャが助けてやるからだ。関係ないが、『稲妻』でも洗濯物がひとをつなぐきっかけとなる。田舎娘のひとの良さをいいことに、夫婦は次から次へと用事を頼んで彼女を酷使する。ここでも、けなげに仕事をこなしてゆくパラーニャの姿が、スピーディにユーモラスに描き出される。 やがて、パラーニャは、知り合いの女性から労働組合のことを教えてもらって加入する。組合員の権利を知った彼女が、一日の仕事を終えたので芝居にいってもいいかと主人にたずねると、留守番をしていろとにべもなく却下される。その芝居というのが、「バスチーユ解放」だから、これは革命の映画なのだ(本当か?)。
さて、その芝居では、舞台で使うはずのカツラが直前になって見つからず、演出家が主人のやっている床屋にカツラを探しにやってくる。そこで、パラーニャがそのカツラを届けることになり、おまけに主人はなぜか舞台で将軍の役を演じるはめになる。舞台上で民衆がバスチーユを解放するのを見ていて興奮したパラーニャは、思わず舞台に駆け上がり、壇上に上って快哉を叫ぶ。あきれた主人が、その場でパラーニャをクビにするという流れだったと思うのだが、それでとぼとぼと通りを歩いていると、市会議員の選挙の行列のなかにはいってしまう。チャップリンの『モダン・タイムス』で、トラックから落ちた赤い旗をチャーリーが拾って持ち主に知らせようと追いかけるうちに、デモのリーダーと間違われて逮捕されてしまうシーンがあるが、ひょっとしたらこの映画を見ていたのだろうか。 その選挙でパラーニャが市会議員に選ばれたという噂が流れ、長屋は大騒ぎになる。散らかし放題だった階段はきれいに片付けられ、主人宅では歓迎会の用意がなされる(主賓が帰ってくる前に、みんな勝手に料理に手を出してしまうのだが)。奥方は、このチャンスをなんとか利用してやろうとして、パラーニャを独り占めにしようとする。しかし、結局勘違いだったことがわかり、パラーニャは今度こそクビになるのだが、主人が労働組合から違約金その他を命じられるところで映画は唐突に終わる。
とにかく、人もキャメラも、一瞬たりとじっとしていない。楽しい映画だ。
前にも報告した、ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』がすでに復刊して、手に入る状態になっている模様。パスカルの『パンセ』を思わせるアフォリズムには、ブレッソンの映画のみならず、映画なるものの意味と可能性についての究極の問いかけがこめられています。だれでも簡単に近づける本ではありませんが、必読です。
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長らく手に入らない状態になっていたロメールとシャブロルによるあの有名なヒッチコック論が最近になってやっと再版された。図書館で借りて目は通したことがあるが、手元に置いておけることができるようになったのはうれしい。もちろん、わたしはもう購入した(まだ届いていないが)。
iPod 用のモバイル・ステレオ・ボイスレコーダー italk pro がまもなく発売される模様。iPod に対応したものは以前にもあったが、今度の新製品は、第2世代 iPod nano にも使えるとのこと。値段も意外と安い。買っておけば、授業や講演のさいなどに使えてなにかと重宝するかも。
【製品特徴】
・iPod 5G / 第二世代iPod nano対応 高性能ステレオマイクボイスレコーダー
・内蔵ステレオマイクで高音質レコーディング(16bit / 44.1KHz)を実現
・iPodにマッチする背面ミラーデザイン ・少ないディスク容量で録音できるモノラル(16bit / 22.05KHz)モード ・ポケットに入るほどのコンパクトボディで、どこでもレコーディング
・会議、セミナー、英会話学習、ミーティングなどのサウンド録音に活用
・3.5mmジャック搭載の外付けステレオマイク*1 を接続可能
・バッテリ不要で接続するだけの簡単セットアップ
・iPod 5G、第二世代iPod nanoモデル対応
【録音データ容量】
High Qualityモード(ステレオ、16bit / 44.1KHz)1分約10MB Low Qualityモード(モノラル、16bit
/ 22.05KHz)1分約2.5MB
【対応iPodモデル】
iPod 5G 30GB、60GB、80GB 第二世代iPod nano 2GB、4GB、8GB *2
本体サイズ:約62(W)×29(H)×11(D)mm 重さ:約15g
ダニエル・ユイレが亡くなった。
事情通の方はとっくにご存じのようだが、わたしはつい昨日知って、驚いた。毎週、「リベラシオン」と「ル・モンド」の Web サイトをチェックしているのに、気づかなかったとは。たしかに、「リベラシオン」の11日付の記事の見出しに「Straub sans Huillet」とあったのを眼にしてはいたのだが、あとで読もうと思ってそのままにしていたのだ。ついつい、ウジェーヌ・グリーンだの、ジャン=ダニエル・ポレだの、マイナーな記事のほうを優先してしまうのがわたしの悪い癖だ。
自分でいうのもなんだが、勘はいいほうなので、「Straub sans Huillet」という見出しを見てぴんと来てもよかったのかもしれない。しかし、正直いって、そのときはなにも思わなかった。わたしのなかでは、ストローブ=ユイレと「死」という言葉はまったく結びつかなかったといっていい。ゴダールが死んだあとの世界のことはときどき想像することがあるが、ストローブとユイレがいつか死ぬなんてことは一度も考えたことがなかった。
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大昔だが、一度だけユイレを間近で見たことがある。パリのシネマテークでストローブ=ユイレの特集上映があったときのことだ。どの作品の上映のときだったか忘れたが、遅れそうになったので、メトロの駅を降りて猛ダッシュし、パレ・ド・トキョーについたとき、入り口の近くにいるストローブの姿が眼に飛び込んできた。だれかと話し込んでいるので、よく見るとユイレだった。その日は、二人がゲストとして来館する予定はとくになかったので、いったいなにしに来たんだろうと思っていると、映画の上映が終わったあとで、司会者が出てきて、ストローブ=ユイレが急遽舞台挨拶をおこなうことになったと告げた。 そのときストローブが壇上でなにを話したのかはよく覚えていないが、フランスで公開されたばかりのイーストウッドの『許されざる者』をストローブが猛烈な勢いでけなしはじめたことはよく覚えている。『許されざる者』はもちろん傑作だが、それをけなすストローブを目の前で見られたのは幸せだった。ペドロ・コスタの『あなたの微笑みはどこに隠れたの』を見てもわかるように、ストローブはいつも怒ったような顔をして(実際怒っているのだが)、ぶつぶつと独り言でもいうようにしゃべる。けれども、この人は泣くときは号泣するにちがいない。
その日は、ストローブがひとりでしゃべりまくり、ユイレは落ち着きなさそうに舞台の袖に立って、ときおりストローブが間違ったことをいうと大声で訂正するぐらいだった。しかし、その存在感は圧倒的だった。わたしは舞台の端っこにいるユイレが気になってしかたがなかった。 こんなにパワフルなふたりがいつか死ぬなんて、そのときはもちろん、いまも考えられない。死というのはたしかに、いつも早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかなのだ。ユイレの死はあまりにも早すぎた。
むかし福武文庫から出ていて、長いあいだ入手不能になっていた古井由吉の『山躁賦』が、いつの間にか講談社文芸文庫から出ていた。買い逃してずっと公開していた本のひとつだ。あいかわらず千円強という若干高めの値段設定。しかし、いやしくも文学を口にするものであれば買わないわけにはいかない。
ひさしぶりにフランスの Amazon で買い物をした。ジャン=ダニエル・ポレの『地中海』がDVD化されていることを知ったからだ。 ゴダールの評論で眼にして以来、ずっと気になっていた監督だったが、いままで見る機会がなかった。日本ではほとんど話題にならない監督である。情報もほとんどはいってこない。それにしても、ポレが2004年にすでに亡くなっていることに気づかなかったとは、うかつだった。
その後、彼の作品は続々とDVD化されていたらしい。今回新たに『L'amour c'est gai, l'amour c'est triste』がDVD化されるという「リベラシオン」の記事を見てはじめて、ポレが亡くなっていたこと、その作品の多くがすでにDVD化されていることを知ったというわけだ(ちなみに、いささか保守的なシネフィル、ジャック・ルールセルによると、この作品がポレの最高傑作ということになるようだ。トーキー以後のフランス映画を知るためには、『素晴らしき放浪者』、『Faisons un rêve』(サッシャ・ギトリ)、『エドワールとカロリーヌ』、『快楽』、『黄金の馬車』、『スリ』などとならんで、この作品が欠かせないらしい)。
わたしが注文したBOXには、『地中海』をふくむ初期の2作と、中期の『Ordre』、遺作となった『Ceux d'en face』をふくむ晩年の2作が収められたDVD三枚がはいっている。 しかし、ジャン=ダニエル・ポレとはいったい何者なのか。わたしにはまだまったくわかっていない。処女短編の『酔っぱらってりゃ』について梅本洋一が、『ブロンドの恋』のミロシュ・フォアマンは『酔っぱらってりゃ』を見ているにちがいない、でなければ『ブロンドの恋』を撮れたわけがないと書き(残念ながら『酔っぱらってりゃ』はまだDVD化されていない)、処女長編『照準線』についてゴダールが、「オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮影したのは、彼が25歳の時であった。それ以来、世界中のすべての若い映画作家は、25歳以前に、最初の大作を作ろうとしきりに夢見ていた。ポレはこの夢を実現する最初の人物になるだろう」と評していること。せいぜいそういったことを知っているぐらいである。しかし、これだけで、どうしても見たいと思うには十分だ。
『映画を作った100日』(「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン特別号」)のなかで、ノエル・シムソロが、リールのシネクラブで『地中海』が上映されたときの様子をこう書いている。
ピエール=アンリは、パリで『地中海』のフィルムを見つけてきた。彼は、この作品を詩的な息吹による破壊行為という2、3言で紹介し、それから映写技師に合図をする。会場は、嘲笑するざわめきのなかで明かりが消されるが、映像がスクリーンに現れるや否や驚きと感嘆の沈黙がその嘲笑に取って代わる。観客たちは、ただ驚嘆するばかりである。この疑似ドキュメンタリーは、自由な思考を強要させつつ物事がはっきりと区別できないといったふつうではない状態に観客たちを導いてゆく。一風変わった体位旋律としてフィリップ・ソレルスが解説するテクストとアントワーヌ・デュアメルの魅惑的な音楽が際だたせる横や正面の緩慢な移動撮影を目の前にして驚愕してしまうのはなぜなのか、わたしたちにはその理由がまったくわからない。音楽と絵画が映画に刻み込まれたものを見ているような気がする。1秒24コマの流れに沿って、わたしたちは自ずと想像の国へと進んでゆき、そこでは感覚が理性にひらめきを与え、例外的なものに遭遇するのだということをはっきりと直感させてくれる。規範や規則や基準を超えたものに遭遇することを。つまり一言でいえば、わたしたちは、現在進行形のエクリチュールのなかに身を投じているのだ。
ポレの映画が批評家たちから高い評価を得ていることがこれでわかる。しかし、その一方で、彼の映画は本国フランスでさえほとんど上映されることがないというのもまた事実のようだ。敬して遠ざけられる孤高の作家といったところだろうか。ヌーヴェル・ヴァーグが生まれる瞬間のパリの映画世界を活写した山田宏一の『友よ、映画』には、ジャン=ダニエル・ポレの名前は一度として登場しない。この賞賛と無視のアンバランスさが、逆に、見てみたいという激しい衝動を起こさせる。 注文した品が到着するのはもう少し先になりそうだ。見たあとでまた報告したい。
以前ふれたアンドリュー・サリスの『The American Cinema』では、ダグラス・サークは「The far side of paradise」という項目に分類されている。『天の許し給うすべて』(All That Heaven Allows)をみごとにリメイクしたトッド・ヘインズの『エデンより彼方に』(Far from Heaven)の原題は、たぶんこのサリスの「The far side of paradise」を意識したに違いないと思うのだが、確認したわけではない。
まあ、そんなことはどうでもいい。 北朝鮮問題はますます緊迫したものとなっているようだ。そういえばイラクのフセイン元大統領が書いた独裁者小説『悪魔のダンス』が世界に先駆けて日本で翻訳が出ている。フセインはブッシュとは比べものにならないほどインテリだという噂だ。この小説はどうなのだろう。たしかに、独裁者小説には、ガルシア・マルケスの『族長の秋』をはじめ、ドゥルーズも天才的小説と呼ぶM・A・アストゥリアスの『大統領閣下』、A・ロア=バストス『至高の存在たる余は』、アレッホ・カルペンティエル『方法再説』などなど、傑作が数多い(全部ラテン・アメリカの小説だが。しかし、独裁者をはぐくむ南米のこの土壌はいったい何なのだろう)。
もっとも、フセインの小説はたぶん駄作にちがいないと思う。
ついでに、映画ではたとえばこんなものがある;
シドニー・ギリアット『絶壁の彼方に』
キドラット・タヒミック『虹のアルバム 僕は怒れる黄色』
アレックス・コックス『ウォーカー』
エイゼンシュタイン『イワン雷帝』
セミョーン・アラノヴィッチ『わたしはスターリンのボディガードだった』
アレクサンドル・ソクーロフ『モレク神』
ジョセフ・マンキーウィッツ『ジュリアス・シーザー』
ジョセフ・マンキーウィッツ『クレオパトラ』
ロベルト・ロッセリーニ『ルイ14世の権力奪取』
正直いって、シャマランの新作はどうでもいいと思っていたのだが、中原昌也が例によって大げさな物言いで、2回見て2度とも号泣した、今度3回目を見に行くなどといっているのを眼にすると、こいつ信用できないなと思いつつ、やっぱり『レディ・イン・ザ・ウォーター』は見に行っておいたほうがいいのか、と思ったりする。今月号の「カイエ・デュ・シネマ」でも、ミシェル・フロドンが、イオセリアーニの新作の★三つに対して、『レディ・イン・ザ・ウォーター』には★4つをつけている。しかし、これ以外にジャン=クロード・ブリソーの新作にも唯一の★4つを与えているのを見ると、フロドンの趣味をはたして信じていいものかどうか。ブリソーの映画は初期の数作しか見ていないが、そんなにすごい映画を撮れる人間にはどうしても思えない。しかし、最近は、こういう言葉にだまされた振りでもしなければ、なかなか映画館に足が向かないのだ。
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ダグラス・サーク『明日は必ずある』★★★
『翼に賭ける命』
『自由の旗風』
ひさしぶりに Planet Studyo Plus One にいって、ダグラス・サークの映画を三本見る。『翼に賭ける命』以外ははじめて見る作品だ。どのフィルムもコンディションは最悪だった。『明日は必ずある』はぶれがひどく、音声も聞き取れない部分が多い。『翼に賭ける命』の上映フィルム自体は悪くなかったが、シネスコのトリミング版である。『自由の旗風』もシネスコのトリミング版で、こちらはカラー。もっとも色はほとんど失われていて、真っ赤っかの状態である。結局、いちばん状態の悪かった『明日は必ずある』だけが、サイズも合っていたし、もっともオリジナルに近い上映だったといえそうだ。とくに、カラーの『自由の旗風』のほうは、数日前にウルトラ・ビューティフルな画質のDVDで『風と共に散る』を見ていただけに、あまりにも無惨すぎた。まあ、見ることができただけでよしとしたいところだが、これでは完全に見たとはいえないので、『翼に賭ける命』と『自由の旗風』については★はつけない。
『明日は必ずある』はシュミットの『人生の幻影』を見て以来見たかった作品だ。テクニカラーがまぶしい『風と共に散る』のようなバロック的な派手さはないが、ラッセル・メティのキャメラは白黒映画においても陰影の深いコントラストのある画面を作り出している。おもちゃ会社の内部の描写など、まるでホラー映画のようだ。
おもちゃ会社の社長として社会的には成功を収めているフレッド・マクマレーは、家庭では妻からも子供たちからも軽んじられている存在(リビングに飾ってある写真に父親だけが写っていないというのがわかりやすい)。フレッドは、かつての女友達バーバラ・スタンウィックと偶然再会し、やがて彼女とともに牢獄のような家から抜け出すことを一時夢見るようになる。しかし、バーバラは彼の家族のことを思って身を引く決意をする(家族という幻影のために、愛という幻影を捨てる)。
お話的には、『人形の家』の男性版といったところだろうか。「女性映画」ならぬ「男性映画」ということもできるだろう。父親が家族のもとへと帰ってくるという《一応の》ハッピーエンドがよけいにむなしい気分にさせる(バーバラの乗った飛行機を自宅の窓から見上げるフレッド、申し分なく鈍感なジョーン・ベネット、ふたりが話す姿を見て「ふたりはナイス・カップルね」という娘。子供たちの姿は牢獄を思わせるリビングの格子状のしきり越しにとらえられる。『天の許し給うすべて』の子供たちと同様、ここでの子供たちも社会通念を体現している保守的存在として描かれている)。
There's Always Tomorrow というタイトルもそうだが、「陽光降り注ぐカリフォルニアで」という字幕のあとに土砂降りの場面がつづくオープニングからしてアイロニカルである。鏡、ガラス窓、枠を通してみられるサーク特有のイメージはここでも健在だ。
前に見たサークの映画で、骸骨のマスクをかぶった男が突然部屋のドアを開けて顔をのぞかせ、主人公たちを驚かせるという場面があったはずなのだが、どの作品のなかだったのかどうしても思い出せないでいた。『翼に賭ける命』の一場面だったとわかって、ちょっと意外だったが、この映画のテーマが死であることを考えれば、実にわかりやすい演出だ。フォークナー原作というのはサークの世界と相容れないような気もするが、二つのポールのあいだをぐるぐると回り続ける飛行機レースは、すぐれてサーク的な円環のメロドラマを象徴しているように思える。
『自由の旗風』は、そう多くはないサークの活劇のひとつである。しかし、パンを多用した撮影や、階段を使った演出など、メロドラマのときとあまり違いはない。もっとちゃんとしたフィルムで見たかった。
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"There is a wonderful expression: seeing through a glass darkly. Everything, even life, is inevitably removed from you. You can't reach, or touch, the real. You just see reflections."
『Sirk on Sirk』
しばしば引用されるサークの言葉である。この言葉が聞かれるインタビュー本『サーク・オン・サーク』は日本では最近翻訳がでたばかりだが、アメリカではこの本が出たことによってサークの再評価が決定的なものになったといっていいだろう。その後のサーク評価はこの本によるところが大きい。ただ、このインタビューのおかげでインテリ西洋人としてのサークが再発見されるわけだが、描かれた対象に批評的距離ををおくサークのブレヒト的ということもできる手法があまりにも強調されすぎてしまったきらいがある。その結果、サークが撮ったメロドラマ以外の西部劇やコメディが、周辺的作品として批評から抜け落ちてしまっているような気がするのだ。『アパッチの怒り』はパリのシネマテークで一度見る機会があったのだが、見逃してしまった。それもふくめて、このあたりのサーク作品をいい状態でまとめて見てみたい。
夏休みのあいだ、結局、映画館では一本も映画を見なかった。ジャコメッティを見に行った美術館で上映されていた成瀬の『稲妻』を見たぐらいだ。これも見みないと、あれも見ないとという、むかしはもっていた強迫観念が最近はすっかりなくなってしまった。それでいいのではないかと思ったりしている。
とはいいつつ、10月にはいってからまたぼちぼち映画館に通い始めている。最近見た映画のことを簡単にメモっておく。
黒沢清『LOFT』★★☆
すごい場面はいくつかあるが、すごい映画ではなかった。しかし、いつものように水準は高い。ラストの歯車仕掛けがカタカタと動いて湖底からなにかを引き上げるところ。結局、これがやりたかったんじゃないだろうか。ミイラものとしては鈴木清順の『木乃伊(ミイラ)の恋』のほうがいい。幽霊よりも人間のほうが基本的に怖いと思っているわたしとしては、多少マンネリ化しはじめている幽霊の演出よりも、西島俊之の暴走ぶりのほうが怖かった。あんまり描くとネタバレになりそうなので、また機会があったら書きたい。
アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』★★★
笑っていいのかわからないが、この映画は笑える。マッカーサーとヒロヒトがかみ合わない会話をするディナーの場面。暗に決断を迫るマッカーサーにヒロヒトは、「ワインをもういっぱい」ととぼけてみせる。一瞬、『殺人狂時代』でチャップリンがラム酒を飲むシーンを思い浮かべた。彼が見るアルバムにはキートンやボギーのブロマイドにまじってチャップリンの写真もはいっている。だが、この映画のなかで彼が米軍の通訳と交わすセリフを信じるならば、この喜劇役者の映画を彼は一本も見たことがなかったらしい。チャーリー=ヒットラー、チャーリー=ヒロヒト。
日活ロマンポルノの名匠として知られる田中登監督が4日に亡くなった模様。 『実録阿部定』、『人妻暴行致死事件』、『(秘)女郎責め地獄』など、田中登の名作は数多いが、わたしにとっては田中登はなによりも『(秘)色情めす市場』のひとだった。
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