日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
アレクサンドル・ロゴシュキン『ククーシュカ』(2002)★★
ラップランドの存在を初めて知ったのは、たしか大島弓子のなにかのマンガのなかでだった。少女マンガの主人公が夢見る不思議の国。どこか遠い遠いところにある夢の国。マンガのなかにだけ存在する場所なのだろうと最初は思っていた。この場所が実在することを知ってからも、ラップランドはわたしにとって、その名の意味するとおり「遠い僻地」、ありえない場所に存在するおとぎの国でしかなかった。
もちろん、これはわたしの想像のなかでのことにすぎない。ラップランドはおとぎの国でも何でもなく、フィンランドの最北部の地方のことをいう。ノルウェー、スウェーデン、ロシアに接するこの土地は、第二次大戦時、フィンランドがドイツと組んでソ連と戦った血なまぐさい戦争の舞台ともなった。この映画に描かれている戦争が、その第二次ソビエト・フィンランド戦争である。
こういう背景を知らなければ冒頭の場面は多少わかりにくい。主人公のフィンランド狙撃兵ヴィエッコは、戦争放棄の姿勢を問われ、その罰として、同じフィンランド兵たちによってナチの軍服を着せられて、プロメテウスよろしく岩に鎖でつながれる。もうひとりの主人公のロシア軍大尉イワンは、身に覚えのないことで仲間に密告されて、秘密警察に連行される途中、味方の誤爆を受けて瀕死の重傷を負う。ふたりとも味方によって不当な拘束を受けていたのだが、これも見るものを混乱させる部分で、だれが敵でだれが味方なのかよくわからなくなる。映画は説明的なセリフを排して淡々と描いてゆくので、人間関係を理解するのに最初は苦労させられるかもしれない。しかし、映画が進んでゆくにつれて、ふたりの置かれた立場は徐々にわかっていく仕組みになっている。
負傷したイワンは、その近辺にひとりで住んでいたサーミ人の女、アンニによって手当てされ、一命を取り留める。そこに、なんとか岩から鎖をはずしたヴィエッコがやってくる。こうして三人の奇妙な共同生活が始まる。三人は三人とも相手の言葉がまったくわからない。ヴィエッコは、自分は戦うことをやめたとイワンに力説するが、イワンはヴィエッコをナチと罵り、隙があったら命を奪おうとする。長いあいだ男を見たことがなかったアンニは、若くて美男子のヴィエッコに一目で惹かれ、やがてふたりは結ばれる。ある日、近くに飛行機が不時着する。近くにばらまかれていたビラから、戦争が終結したことをヴィエッコは知るのだが、事態を誤解したイワンが彼をピストルで撃ってしまう。イワンはすぐに過ちに気づき、瀕死のヴィエッコをアンニの家まで担いで帰る。ヴィエッコは、日本人ならさしずめ三途の河原とでも呼びそうな、深い谷を見下ろす、石だけが転がっていて草木ひとつない殺風景な丘を、金髪の少年に導かれて歩いている。その先には死の世界が待っているのだが、アンニの必死の呼びかけに彼は意識を取り戻す。ヴィエッコを生の世界に呼び戻すのに疲労困憊したアンニは、イワンに身を任すのだった。
しばらくして、ヴィエッコとイワンはアンニに別れを告げ、それぞれの故郷に帰って行く。10年後、アンニの傍らには、二人の名前を付けられた二人の子供が、彼女の話す物語に耳を傾けている。
日本での公開にさいして勝手につけられたと思われる「ラップランドの妖精」というサブタイトルの意味はよくわからない。しかし、この映画が現実の戦争を背景として描きながら、一種のおとぎ話として作られていることはたしかだ。物語はひとりの兵士が死の淵からよみがえるところで始まり、彼とは敵同士であるもうひとりの兵士が同じく瀕死の状態からよみがえるところで終わっている。ふたりを救うのがひとりの女性であり、彼女がふたりの子供を産んだことを示すエピローグでこの映画は締めくくられている。
むかしレンフィル映画祭で見た同じロゴシュキン監督の『護送兵』(90)のように、軍隊の暗部を正面切って批判する作品とは作風が異なり、この映画は、生命を司る女性の存在を中心にすえて、反戦のメッセージを静かに訴えかけてゆく。『護送兵』のようなシャープさは全然感じられず、本当に同じ監督の作品だろうかと思ったほどだ。どうやら、ロゴシュキンの場合、ソクーロフやゲルマンのような孤独な道は歩まなかったらしい。『ククーシュカ』は、撮られた場所こそマージナルではあるが、作品自体はそれほどマージナルではない、といったところか。しかし、その分、一般の人にも親しみやすい作品になっているとはいえる。はまる人にはたぶんすごく好きになる映画だと思うので、見に行って損はない。ただし、「ラップランドの妖精」というサブタイトルは作品とはほとんど関係ないと思うので、あまりメルヘンチックな映画は期待しないほうがいいだろう。
なんだかんだいって、ワールドカップの試合はほとんど見ているので、最近寝不足気味だ(昨日のベッカムのゴールは美しかった)。虫歯の治療もまだ終わらないし、プラス、胃の調子もちょっとおかしい。 おまけに、テレビの調子もますますおかしい。昨日ぐらいから、スイッチを入れてから画面がでるまでやたら時間がかかるようになり始めた。その上、DIGA が なぜか EPG を取得しなくなってしまい、とうとう番組表が一週間空欄になってしまった。スゴ録に比べて、ただでさえ信じがたいほど使い勝手が悪いのに、番組表まで取得しなくなったら、どうしようもない。
そんな悩める今日この頃、これははたして人に元気を与えてくれるんだろうか、いや、そうに違いないひとつの発見をした。
大西巨人の『神聖喜劇』という小説がある。わたしの大好きな作品だ。前々から、あちこちで宣伝して、読め読めと勧めているのだが、どうもそれで読み始めたという人はあまりいないようだ。まして、最後まで読み終えた人がどれだけいることか。しかし、それでもこの小説を世に広めたいと思っている人は少なくないらしく、映画脚本家の荒井晴彦なんて、映画化の予定もないのに勝手にこの小説を『シナリオ神聖喜劇』としてシナリオ化してしまっているのだ。
ところが、それだけではなく、『神聖喜劇』はマンガにまでなっていることを、昨日わたしは発見してしまった。あれがマンガになるなんて想像だにしなかったが、これがどうやら原作を読んだ人たちのあいだでもなかなか評判がいいらしい。もちろん、原作を読むに越したことはないのだが、小説を読むなんてかったるい、字が苦手、という人はとりあえずマンガからはいるのもいいかもしれない。ただ、わたしはまだ読んでいないのだが、たぶんマンガのほうも活字だらけになっているのではないかという気がしている。結局あれは言葉でなければ表現できない世界を描いているのだ。 非常に硬派な印象を与える小説ではあるが、実際には、大いに笑える小説でもある。マンガのほうも、そうなっていることを期待したい。
キューカーのついでにこれも紹介しておきましょう。
ロバート・アルトマンの "California Split" がこんなタイトルで出ています。人に教えてもらうまで気づきませんでした。これなんかそのまま「カリフォルニア・スプリット」でよかったんじゃないの、と思うんだけど。
シネフィルの皆さんはとっくにご存じかもしれませんが、キューカーの劇場未公開作品「It should happen to you」が、『有名になる方法教えます』としてDVD化されています。去年の9月に出ていたものですが、適当なタイトルが付けられていたので気づきませんでした。キューカーがジュディ・ホリディと組んで撮った最後の作品で、このコンビの最高傑作といわれています。
▽『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』
訳あってギリシアの近代史について書いた本を何冊もまとめて読んでます。ギリシアは1830年にオスマン・トルコから独立するのですが、実情は、自力で独立したというよりも、西洋列強の思惑によって独立させられたというほうが近かったようです。その後も西洋諸国とロシア、第二次大戦後はアメリカなどの大国のパワー・ゲームに振り回されるかたちで、波乱に満ちた歴史を歩んでゆきます。 というわけで、いろんな国が絡んでくるので、ギリシアの歴史は結構ややこしい。どの本を読んでもなかなか頭の中でイメージできないのだけれど、わたしが読んだ本のなかでは、『ギリシア歴史の旅』という本のなかで40ページほどにまとめてある通史がいちばんわかりやすく、ギリシアに対する西欧や東欧諸国の関係などもすんなり頭にはいってきた。簡単にギリシアの歴史を学びたいという人にはお勧め。
『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』 早くも第二弾の登場です。
そういえば、同じちくま文庫から、ミシェル・ウエルベックの『素粒子』が今年になって出ていたことを、今日はじめて知った。BOOK OFF に行くと、こういうふうに新刊本を発見することがたまにある。というか、ちゃんと読んでから売っているのか疑問。「まさに、古本屋のファーストフードやぁー!」
この映画を見るのは今回が2回目だ。初めて見たときは、わけのわからないパワーにただただ圧倒されっぱなしだった。見ているあいだも、見終わったあとも、「これはいったい何なんだ」という巨大な疑問符が消え去ることはなく、それは脳にできた腫瘍のように今までずっと残ったままだった。今回は2度目だし、多少の予習をしていったせいもあり、かなり冷静に見ることができたと思う。初めて見たときの衝撃が薄れてしまったのは、それはそれで残念ではあるけれど、これはどんなことについても起きることであるし、仕方がないことだ。
それにしても、この映画はいったい何なんだろう。これを見たマーティン・スコセッシは「わけがわからないがすごい」といったそうだが、たしかにスコセッシごときには逆立ちしたって撮れそうにない映画だ。
うっすらと雪の積もった夜の道をキャメラにむかって犬が駆けてくるショットから映画は始まるのだが、画面外から聞こえてくる(犬を呼ぶのであろうか)口笛の音に始まって、ボイラーマンが門の電源をショートさせる音、歩く靴の下で雪がキュッキュッという音など、冒頭から映画は様々な音を画面に反響させる。このあとも、登場人物が無意味につぶやく「プッププー」とか「ブー」といった擬音語とか、車に並行して走る子供たちの叫び声とか、果ては、瀕死のスターリンの放屁の音まで、無数のノイズが画面を覆い尽くしてゆく。これほどの音響はゴダール以来だ(Planet studyo plus one で見たのだが、スピーカーの音量が多少大きかったこともあって、くっきりはっきりと聞こえてくるサウンドはほとんど超現実主義的でさえあった)。
ゲルマンが人物たちにでたらめなしぐさをさせるやり方は、実際、ゴダールの映画を思わせる。突然画面の奥にあらわれて世迷い言をつぶやく老婦人。ダイアン・アーバスの写真から抜け出してきたかと思わせる双子のユダヤ人姉妹は、映画の語り手の幼年時代の姿である少年のズボンを無理やりおろして猥褻ないたずらをする。室内にひしめく登場人物たちは、みな自分勝手に動き回り、画面は絶えず混沌とした様相を呈している。ベレー帽をかぶり、冬なのにいつも傘を手にして、なにかをかぎまわっているスウェーデン人の記者に、ゲルマンは、まるでジャック・タチのユロ氏のような演技をさせている。記者はその傘で、だれかが扉の隙間から落ちたたばこを拾おうとしているのを助けてやり、踊るように通りを横切ってゆく。地面に置かれた傘が、だれもさわっていないのに勝手に開くギャグがなんどか繰り返される。
映画はこのように混沌としたまま進んでゆく。ときどき、いったい今どこにいるのかさえわからなくなる。部屋を横切ってゆく人物を背中から追いかけてゆくキャメラ、いつも移動する車の前に置かれたキャメラから撮影された画面が、そうした迷宮めいた空間を作り出すことに一役買っている。時間の感覚もはっきりしない。映画は第一部と第二部とに分けられているのだが、その間に実際には一日(あるいは数日?)しかたっていないはずなのに、大変な時間が流れたように感じられる。その一方で、エピローグでは、冒頭の場面で車を覗いただけで頭を殴られて逮捕されたボイラーマンが、長い投獄状態からやっと釈放されたときのセリフから、10年の年月が流れたことがわかるのだが、結局何一つ変わっていなかったかのように、彼は列車のなかで再び頭を殴られ、「どうして俺ばっかりこんな目に遭うんだ」とつぶやくのである。牢屋で覚えた英語を使って彼は「リバティ」と得意げに繰り返すのだが、ロシアの現実はそれとはほど遠いようだ。
その列車には、今やマフィアのボスとなった主人公の将軍で脳外科医ユーリーが、偶然乗り合わせている。マフィアのボスと書いたが、それは解説を読んでわかることで、映画を見ているだけでは彼が今なにをやっているのかは、さっぱりわからない。逮捕される寸前に家の裏口から逃げ出し、雪が積もって白くなった土手の陰からKGBが自宅に踏み込むのを確認して(一人称キャメラ気味の撮影)、その場を去ると、バスタブに魚が泳ぎ(猫がそのなかで溺れさせられる)細い布きれが所狭しとぶら下がっている愛人宅にかくまってもらい、軍服から私服に着替えてどこかの村にいるところを、子供たちに取り囲まれていたずらされ、そこに通報を受けてやってきたKGBに取り押さえられて、護送車で連行されるのだが、その途中でカマを掘られ、尻に棒を突っ込まれて、地獄を味わった直後に(ソルジェニーツィンによると、「護送車は人間が何でもなくなってしまう第一のプロセス」だという)、上層部の人間がやってきて、わけもわからず連れて行かれた先に、瀕死のスターリンが横たわっている。むろん、ユーリーにはどうすることもできなかったのだが、ふとっちょのベリアは彼の労をねぎらいさえし、無罪放免で釈放してやる。こうして彼は家に帰ってくるのだが、父の姿を見た少年=語り手は、彼が脱走したのだと思い、密告の電話をかけようとする。結局、ユーリーがそれを止めるのだが、その直後に、「父を見たのはそれが最後だった」というナレーションが入り、家の門の前で交通事故があって、その場面に先ほど書いたエピローグの場面がつづくのである。
彼が家族を捨ててまったく別の人生を生きているらしいことだけははっきりしている。走る列車の上で、つるつる頭にウォッカを満たしたコップを載せたユーリーが、両手に大きなスプリングを持ってバランスを取りながら、くわえたばこでキャメラに正面を向けた姿で、次第に画面奥へと遠ざかってゆく。コップの酒をこぼさずにカーブを曲がりきれるかどうかを賭けるゲームなのだ。その姿がほとんど見えなくなり、列車がやがてカーブにさしかかろうとする瞬間、「くだらねえ」というユーリーの声が聞こえてきたところで、映画は終わっている。
ユーリーにスターリンのことを「あなたのお父上ですか」と聞かれたベリアは、最初「ばかな」と答えたあとで、思い直したように、「そうだ、父だ」と言い直す。ロシアの父スターリンの死につづく、一家の父の死をこの映画は象徴的に描いているといっていい。なぞめいた交通事故の場面は、ユーリーがある意味で死んだことを象徴しているのだ(ソクーロフの描く父のイメージや、最近の『父、帰る』、あるいは、天皇崩御を象徴的に描いた青山真治の『Helpless』と比較してみるのも面白い)。第二の人生を生きる彼は、妙に幸福そうである。政権が変わってもなにも変わらない。それは悲惨なことであるのだが、ゲルマンは結局のところそんなロシアを愛しているらしい。
夜の場面ではことごとく、街頭やランプがほとんど露出オーバー気味に白くつぶれている。いったいどうやって撮ったのだろうという不思議な画面である。白黒のコダックで撮られているのだが、これをゲルマンがイメージするとおりに現像する技術はロシアにはもちろん、フランスにもなく、ただアメリカだけがそれを持っているという。ロシアで現像したフィルムはすべて捨ててしまったそうだ。今のところDVD化はされていないが、これこそは映画館で見なければ意味がない映画である。滅多に見る機会はないと思うが、どこかで上映があったときはなにを置いても駆けつけるべきだ。
△ 『ロシアでいま、映画はどうなっているのか?』(『フルスタリョフ、車を』公開時のゲルマンのインタビューが収められている)
ルパンやジゴマ、ドラルーなどと並んで、ほとんど現代の神話と化しているファントマ。フランスでは知らぬ人のないこのファントマの伝説を作り上げるもとになった、ルイ・フイヤードのサイレント映画『ファントマ』3部作の特別限定上映が行われる模様。
メトロや地下水道を使ったロケ撮影など、都市としてのパリに興味がある人にとってもたまらない作品だ。(夏休み〜ライズX) 関西での上映もあるのかどうかは、不明。
『ファントマ』三部作は見ているので、個人的には、傑作といわれている『吸血団』Les Vampires が見てみたい。日本では『ファントマ』のほうが知名度は高いのだけれど、"Vampires" のほうを高く評価する批評家が結構多いようなのだ。もっとも、盗賊団を主役に描いた映画ばかり撮っていたので、フイヤードは警察ににらまれてしまったらしく、『Judex』では善玉に肩入れした作品を撮らざるを得なくなったらしい。
フランスでは4枚組DVD-BOX (下)がでているのだが、少々値が張るので、なかなか手が出せないでいる。2枚組の北米版もあるが、なぜか同じぐらい高い。ファントマをめぐって両大戦間のパリの文化状況を考察した千葉文夫の『ファントマ幻想』という本も一読する価値あり。
チラシにはソクーロフの最高傑作と書いてある。客の入りがそれほど見込めないミニシアター系の作品の宣伝には、最新作のたびに「最高傑作」という文句が使われるので、今更こういう文句を信じていたわけではないが、少しだまされた気がする(ちなみに、マルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』も、「最新作にして、最高傑作」だそうです)。
簡単にいうと、別れを眼前にした父と子の情景が描かれているだけなのだが、冒頭とラストの、子と父が風景のなかにひとり立ちつくす相似的な夢の光景ではさまれた一時間半あまりのあいだ、前後関係からかろうじて区別できるものの、その実、朝日とも夕日ともいいがたい薄明のなかで、これもまた一言ではいいがたい関係を生きている父と子の姿が、曖昧きわまりないかたちで描かれてゆく。その舞台となる街も、路面電車の走る市街やドームのある屋根はリスボンで撮影され、それ以外はサンクト・ペテルブルクで撮影されたという多国籍的というか、無国籍的な様相を呈しており、それがソクーロフ特有のゆがんだイメージのなかで、夢幻的に立ち現れる。
風景のなかに立ちつくす、あるいは横臥するというアクション、というかアクションの不在を軸に組み立てられたシーンはいつもの通りだが、冒頭の裸で絡み合うふたりのクロースアップに始まり、屋根の上でのサッカー、あるいは隣家の窓に立てかけられた板の上でのふざけ合いなど、ときにエロティックであったり、遊技的であったり、死と隣り合わせの危険に満ちていたりする肉体の絡み合いが、この映画の各シーンを形作る核となっている。息子アレクセイと彼の恋人とが初めて対面する場面の、少しだけ隙間があいたガラス窓をはさんで互いの顔を素早くカッティングするモンタージュなどは、ソクーロフの映画であまり見かけない編集ではないか。肩車のイメージも、ソクーロフでは初めて見るような気がする。
冒頭とラストで、父と子は同じ夢を見るのだが、それはふたりの結びつきの強さを感じさせると同時に、孤独な魂を魂を浮かび上がらせもする(「そこにぼくはいたかい?」)。映画は、突然の雪景色のなか、屋根の上に一人立ちつくす父親のイメージで終わることになる。
ソクーロフの映画を難解だという人が結構いる。わたしにはこれがわからない。どうやったらそんなふうに思えるのか。この映画など、特にわかりやすい編集をしている作品だと思うのだが、それでも難しいと感じる人がいるようだ。わたしにいわせれば、ソクーロフというのは映画史上まれに見るほど愚直というか、愚鈍な映画作家である。要は、その愚鈍さをどう評価するか、それだけが問題なのだ。
残念ながら、わたしには、その愚鈍さが文字通りただの愚鈍さに思える場合が少なくない。『精神の声』などが特にそんな作品である。プラネットで上映したときに見たので、ただで見れたのだが、結局、最後まで通して見れなかった(「見れなかった」と書くたびに ATOK が「ら抜き言葉」と警告するが、かまわずこう書く。わたしにとっては「ら抜き」のほうが自然だ)。そういえば、浅田彰もどこかで、「なにが〈精神の声〉だ」ときって捨てるようにこの映画を評していた(たしか『映画の世紀末』だったか)。
しかし、その愚鈍さが、ただの愚鈍さを超えたかたちで迫ってくることがごくたまにないわけではない。だから、今でもこうしてソクーロフを見続けているわけなのだ。ソクーロフというのはその程度の監督だと思うのだが、世に少なからずいるソクーロフ・ファンはそうではないらしい。本気でソクーロフに感動しているらしいのだ。困るのは、ほかのことでは割と映画の趣味が合う人間のなかに、ソクーロフを評価する人間がまわりに結構いることだ。ただ、わたしとしては、本気なのかおまえら、と彼らに問いただしてみたくなる。蓮實重彦がソクーロフを評価しているので、それに乗っかっているだけという奴も多いのではないか。
青山真治があるときソクーロフについてこう書いている。
彼の新作『精神の声』を見て、あるいは聞いて、まず震えが来るのはその第一話においてである。38分間、延々とひとつの画面、広い氷原の大ロングが映され、そこにソクーロフ自身のナレーションが被さるのだが、それだけでもぶっとびなのに、そこに何分目か定かでないが突如オーヴァーラップでカモメの群れが飛び交い、かと思うと今度は遙か彼方の林の片隅で小さな焚き火が燃え上がる。……お前、アホか。それ以外の言葉が出るとは考え難い。 (青山真治『われ映画を発見せり』)
青山真治はあくまでソクーロフを評価する文脈のなかでこう書いているのだが、「お前、アホか。それ以外の言葉が出るとは考え難い」というのが、ソクーロフを見たときの正常な感覚だと思う。彼の映画を評価するしないにかかわらず、これが出発点になるはずである。「お前、アホか」と感じることなくソクーロフを評価するソクーロフ信者のいうことをわたしは一切信じない。
▽ソン・イルゴン『スパイダー・フォレスト 懺悔』★★
意外と面白かったですね。ごくごく単純な話を複雑な迷宮のように見せているだけなんだけれど、先がなかなか読めないおもしろさはある。要は、『ふくろうの河』だといえばネタバレになるだろうか。わたしは映画を見ているとすぐに結末が読めてしまうのだが、これは予想とは違っていた。それだけ構成に少しむりがあるということになると思うが、なんとかぎりぎりまとめている。とはいえ、森とそのなかの一軒家の見せ方が凡庸なのが致命的。ストーリーの語り口にもっと切れがあればもう少し面白い作品になっただろう。
同志社大学 寒梅館ハーディホールにて。
『君と別れて』は成瀬のサイレント時代の代表作に数えられる作品。松竹蒲田の撮影所長の城戸四郎に「小津は二人いらない」といわれたのはこの前年。逆に、その小津安二郎の二番煎じの作品がどんなものだったのか見てみたい。実際、この作品を見ると、後年の成瀬ワールドはほぼできあがりつつあるように思えるからだ。
遠くに港が見える橋を、吉川満子と水久保澄子が歩いて渡るところをやや遠く離れた場所からとらえたロングショット。ここでふたりはきっと立ち止まるぞ、と思いながら見ていると、案の定ふたりが橋の真ん中まで来たところで立ち止まるのを見て、思わず感動する。そこでいささか深刻なやりとりが交わされるのだが、成瀬はその一連のカッティングのなかで水久保澄子に振り返る演技までさせている。成瀬的としかいいようのない場面だ。
この時期の成瀬作品には、突貫小僧(青木富雄)がほぼ常連に近い形で出演している。この作品でも、水久保澄子が吉川満子の息子役の磯野秋雄を実家に連れて行く場面で、水久保の弟役として登場し、場内を爆笑させていた。父親のために買ってきた酒を坂道で転んで落としてしまうのだが、割れた瓶の欠片に残っていた酒を飲もうとするしぐさなど、演技指導したというよりも、ついそんなふうにしてしまったのをそのまま撮影したという自然さが、天然的な笑いを生み出しており、彼に関しては小津の映画に出ているときとあまり変わらない印象を受ける。
今回の上映は、柳下美恵(柳下毅一郎夫人)によるピアノ伴奏付のものだった。個人的には、サイレント映画を音楽付で見るのには多少抵抗感がある。ときに音楽が出しゃばって映画のじゃまをしているように思えることがあるのだ。この映画で、芸者をしている吉川満子が、自分のダンナが若い水久保澄子に色目を使い、自分を捨てようとしているのを感じ取って、刃物で刺そうとする場面で、最初カルメンのメロディーがピアノで聞こえてきたときはかなり違和感があった。しかし、この場面では、2階(隣の部屋だったかもしれない)で刃傷沙汰が起きている一方で、一階ではレコードにあわせてタンゴのコスチュームの踊り子が踊っている映像がカットバックされるのであり、成瀬はあきらかにこのシークエンスを音楽的に演出していることが、ピアノの伴奏があることで明瞭に感じ取ることができた。
ところで、水久保澄子の実家は、海が見える港にあり、彼女は二階の窓を開けて、そこから見える港を磯野に見せてやりさえるする。次の『夜ごとの夢』もまた港を舞台にした映画である。しかし、不思議なことに、わたしには成瀬の映画であまり海を見た記憶がない。小津の映画に出てくる海の場面ならいくつも思い出せるのだが、成瀬の場合、海といっても『秋立ちぬ』の東京湾のように、非常に殺風景な海のイメージだけが記憶に残っている。あるいは、『女の中にいる他人』のラストにあらわれる海も、叙情性とはほど遠いものだった。『君と別れて』では、海辺の岩場で、水久保澄子が磯野秋雄に愛の告白のようなものをするのだが、成瀬の映画では、この程度のロマンティックな場面でさえ、めずらしいものに思える。成瀬的世界においては、海よりも川や湖のほうが特権的存在としてあるのかもしれない。
『夜ごとの夢』は、『君と別れて』と同じ年に撮られており、似たようなテクニックが見られる。エモーショナルな場面でのキャメラの急激な前進移動は、『君と別れて』でも散見された技法だ。『夜ごとの夢』では鏡を使った演出が特に印象的である。子供の交通事故の知らせ(宿の夫婦のセリフがテーブルから落ちるおもちゃの車とカッティングされる)を聞いた栗島すみ子が、おそらくはカフェの常連の坂本武に身を任せることを心のなかで決意する場面で、部屋の壁に下を見下ろすように斜めに立てかけられた鏡で自分の顔を見るとき。あるいは、子供の入院費のために強盗を働いた斉藤達夫が家に帰ってきたとき、2階へと続く階段を上がりきった正面にある鏡で自分の顔を見、そこの流しで負傷した腕を洗う場面。
カフェで栗島すみ子が坂本武に言い寄られているところへ斉藤達夫が来て、彼女を連れ出す場面では、海にむかって二人を互い違いに並んで歩かせながら振り返らせている。完全に成瀬的な演出といっていい。
仕事の見つからない斉藤達夫が子供たちと野球をして遊ぶ、土管の転がっている空き地の光景は小津の初期作品を思い出させる。『君と別れて』同様に、この映画でも貧しさ故の悲劇が描かれるのだが、そのときよく用いられるアイテムが穴の開いた靴下である。『君と別れて』では、磯野秋雄の穴の開いた靴下を見た突貫小僧が、穴から飛び出した指先を墨で黒く塗ってカモフラージュしてやる場面が出てくる。『夜ごとの夢』の斉藤達夫の場合、靴下だけでなく、靴の底に穴が開いてしまっている。ここでも、彼の子供がキャラメルの箱でその穴をふさいでやるのだが、そのとき明治の商標がアップで挿入される。『君と別れて』では、水久保澄子が磯野秋雄と列車(車両がひとつの地方線のようなものだと思う)で実家にむかうとき、明治のチョコレートを食べる場面が出てくる。実は成瀬は、この前年にも、水久保澄子主演で『チョコレートガール』という明治製菓とのタイアップ作品を撮っているのだ。
不倫の物語を、中年男の一人称キャメラで最初から最後まで撮った作品。男の顔は、窓ガラスと鏡に映ったときの2度だけ、画面に登場する。要するに、ロバート・モンゴメリーの『湖中の女』やデルマー・デイヴィスの『潜行者』がおおむかしにすでにやっていることを、なんの新しさもつけ加えることなく、繰り返しただけの作品。今頃どうしてこんな映画を撮るのか理解に苦しむ。相当頭が悪い監督なんだろう。記憶には残らないが、記録には残る作品ということはできるかもしれない。
"La petite anthologie des Cahiers du Cinéma: Critique et cinéphilie" に収められているセルジュ・ダネーの文章 "Le sport dans la télévision" を読んでいて、どうも意味が通じないところがある。最初は、自分の頭が悪いのかと思ったが、どうもそれだけではないようだ。前にもふれたが(ここを参照)、このLa petite anthologieシリーズの別の巻("La Nouvelle vague")には誤植がいっぱいあった。これもそうではないか。そう思って、本棚をごそごそと探っていたら、この本に載っているダネーの文章が最初に発表されたカイエが出てきた(あるものである)。比べてみたら、やはり思ったとおり、読んでいて意味がよくわからなかった部分は全部誤植だった。au lieu de とあるべきところが、de lieu de となっていたり、「,」と「.」が間違っていて、ひとつの文が二つに分けられていたり、とった大きな間違いが、わずか数ページのあいだに三つも四つもある。
信じがたいほどいい加減な編集だ。ラカンやバルトを批評に援用するのはいいが、テキストの扱いがいい加減では話にならない(このいい加減さは、かつての「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」にも受け継がれていたと思う)。こういうところだけは文献学的アカデミズムを見習ってほしいものだ。 さて、そのダネーの文章の前半だけをとりあえず訳してみる。
この討論会の意図するものは、謙虚であると同時に野心的でもある。謙虚というのは、この会議で問題となっていたのが、テレビ中継されたサッカーについて、事新しい説を唱えるでもなく、いくつかの見解を述べることにすぎないからである。そこでわれわれは、(1)「リベラション」のスポーツ・ジャーナリスト、ジャン・ハツフェルトに参加してくれるよう要請し、(2)サッカーのワールドカップの決勝((原註:延長戦の末、アルゼンチンがオランダを3対1で下した。))を見直し、(3)発言のいくつかを書き直した。これが謙虚の意味である。野心的というのは、スポーツ現象をめぐるすべての議論が陥ってしまっているように思える悪循環から抜け出すことにある。スポーツは崇高か、それとも低俗か。全体的な和解であるか、それとも、すでにわれわれのうちに存在するファシズムか。取るべきか、捨てるべきか。要するに、スポーツは言い表すことができないのだ、という議論から抜け出すこと。
見せ物としてのスポーツ、きわめてメディア化された、テレビ中継された競技スポーツの場合、事態はさらにひどくなる。スポーツの批評(あるいは賛美)にはいつも、スポーツと姉妹のように似通ったテレビの批評(あるいは賛美)がともなう。「テレシネ」編集による小特集「サッカーとフットボール」においても、興味深い覚え書き、有益な情報と並べて、スポーツとテレビ(そして、もちろん両者の結合)についての破滅的なヴィジョンが描かれている。テレビというこの、パラノイア的で、なんでも知っていて、繊細な、大いなる実体は、すべての人に同時に同じ欲望を吹き込み、われわれに同じ肉体の調教を望ませ、われわれを「代理人を立てたスポーツマン」に変えてしまうというのだ(これは、ポルノに関してすでに用いられたことのある、社会学者の典型的発想だ)。このようなヴィジョンは、スポーツ嫌いとテレビ嫌いを(スポーツとテレビが、身分の卑しい文化的実践であることを思い出す必要がある)、同じ激しい糾弾の身振りのうちに、団結させようとするときは有効であるが、この問題を熟考するにあたっては、短絡的で不毛なものである。
テレビ中継されたスポーツには何種類もの観客がいる。少なくとも三つの観客がいると思う。不均等で、異質で、さらには互いに相容れない三つの観客が。スポーツを愛する観客(彼らはしばしばスポーツを実践している)、テレビが好きな観客、そしてメタ・ランガージュが好きな観客だ。要するに、ゲームに熱狂する人間と、ゲームのイメージに熱狂する人間、そしてゲームのコンテクストに熱狂する人間である。たったひとりの個人がこの三つの熱狂を持つことが難しいとしても(テレビ好きで左翼のスポーツ選手を、胸を締め付けられることなしに、想像することができるだろうか)、それでも、われわれはみな、多かれ少なかれ、この三つの観客よりなっているのである。この円卓会議の参加者たちの(危険な?)仮説は、スポーツ選手をサポーターと、テレビオタクを社会学者と闘わせる代わりに、この三つの視点のおのおのに肯定的なもの(衝動的なもの)が含まれていることを出発点として、テレビのスポーツを批評できるようにすべきだというものだ。それらを順番に、バラバラに検討するのである。
ここに書かれている討論会というのは、ダネー、セルジュ・トゥビアナ、そしてジャン・ハツフェルトらが、サッカーのテレビ映像について語り合った討論会のことで、ダネーのこの文章はそのイントロダクションとして書かれたものだ。 その討論会の内容もなかなかおもしろいので、簡単に要約しておく。
1. テレビはサッカーの試合を標準化する
テレビの映像では、わかりやすい派手な動きをする選手のほうが目立ちやすい。彼らよりももっと優れているにもかかわらず、その繊細で微妙な動きがテレビ向きではないため、印象に残らない選手がいる。テレビによってスターとなった選手は多いが、彼らが最高の選手だとは限らない。「テレビはある種のタイプの選手を標準化してしまう」のである。同じことは、選手の行う反則プレーについてもいえる。脚を引っかけるなどの反則はテレビではよく見え、印象も悪かったりするのだが、もっとひどい反則を使っているのにテレビでは見えにくいという場合も多い。
テレビ中継のサッカーでは、キャメラはボール中心主義で動いており、ボールがある場所を常に追いかけている。ところが、実際には、フレームの外の見えないところで、もっと重要な動きが起こっていることがある。しかし、テレビにはそれは映らない。 サッカーの映像はまたゴール中心主義でもある。こぼれ球を押し込んだだけの、どんなにくだらないゴールでも、他のどんなプレーよりも特権的に扱われてしまう。スロー再生が強制的に繰り返されるのも、ゴールの瞬間だけである。
2. すべてが語られるわけではない
サッカーのTV映像では、常に視聴者になにかが隠されている。フレームの外にあるものはもちろんだが、とりわけ音がそうである。サッカーの中継では、ボールを蹴る音さえ聞こえてこない。聞こえてくるのは、アナウンサーの声だけだ。しかも、そのアナウンスというのが、たいていは、テレビの画面に見えていることを伝えるだけである。
3.画面外のインサート・ショット
その一方で、テレビの視聴者は、ある意味、アナウンサーよりも、スタジアムの観客よりも、だれよりも競技の全体を見渡すことができる位置にいるということもできる。そこで重要になるのがインサート・ショットの存在である。ここでインサートといわれるのは、ボールの軌道以外に関わるすべてのショットのことである。たとえば、ゴールが決まったときのベンチの監督の顔とか、ボールのはるか背後で守っているキーパーの様子とか。サッカーの映像における画面外 hors-champ との関わりで、インサート・ショットはいかなる役割を果たしているか。
乱暴にまとめると、だいたいこういった内容になる。これが載っている号ではハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの『ヒットラー、ドイツ映画』の小特集が載っているぐらいだから、相当昔のものである。サッカー中継もこのころから比べて技術的に大きく進歩しているから、多少的はずれになっている部分もあるが、今読んでも興味深い意見が多々あって、結構読み応えがあった。
最近、夜型生活がさらに進行し、寝る時間が前にもまして遅くなってきた。たまに朝早く起きなければならないことがあるとつらい。今週末から、京都のみなみ館で、成瀬巳喜男の『杏っ子』と『夜の流れ』がかかるので、それにあわせて朝型に生活を変えておかないと。 『夜の流れ』は川島雄三と共同監督した作品で、田中真澄・阿部嘉昭などの編集による『映画読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社)ではすこぶる評価が低いが、この本は読んでいてつまらないだけでなく、あまり信用もできない。実際に映画を見ずに、当時の評価をそのまま書いて判断しているような節もある。これを読んで成瀬の作品を見逃した人がいるとすれば、不幸なことだ(とりあえず、資料としては役に立つ本だが)。
今はほとんど疎遠になっている昔の知り合いに、田中真澄と懇意にしている人がいた。その人とどこかでばったり会ったとき、今から田中真澄に会うのでいっしょに来ないかといわれたが、用があるのでといって断ったことがある。そんなことを急に思い出した。たぶんこの人とは話が合わないような気がするのだが、一度会っておいてもよかったかなと後悔している。本人は案外おもしろい人だったのかもしれない。
---
テレビで見た映画について簡単にメモする。
□クロード・ルルーシュ『男と女』★
カンヌでグランプリを取り、日本でも一世を風靡した恋愛映画。何十年ぶりかに見直した。というか、ノーカットでちゃんと見るのは初めてだったかもしれない。ジャン=ルイ・トランティニャンが子供に車を運転させている場面で、ゴダールをまねたジャンプカットを使っていたりする。恥ずかしげもなくといった感じだ。ルルーシュ自身の撮影によるソフトフォーカスの画面がきれいですね、と最低のほめ言葉しか浮かんでこない。感覚的なカラーとモノクロの使い分けとか、ひたすら自堕落。
山田宏一の『友よ、映画よ』には、山田宏一がプロデューサーのピエール・ブロンベルジェにルルーシュを紹介してもらったときのエピソードが書かれている。そのときルルーシュは、スコピトンといわれる歌謡映画のフィルムを抱えて試写室にむかうところだった。その試写の様子。
スクリーンではダリダが歌っていた。歌っているあいだに、なんどか脈略なくシャンゼリゼ大通りを走る車とか公園を歩く男女のカットが入ってきた。それでも、ときどきダリダの口が歌にあっていない部分があった。ルルーシュはそのたびに、編集担当らしい若者にむかって叫んだ──「ドキュマン! ドキュマン!」。
もっとドキュマン、つまりドキュメント、実写のフィルムの断片をインサートして、うまく音と画がシンクロするようにしろというのだった。
ルルーシュの映画の美学というのは、要するにこれなのだ。「甘美なメロディーが流れていれば、どんなにつながりのない映像のモンタージュでも情緒的には統一性を獲得できるというわけだ」と山田宏一は結論している。そのあとに、ジャン=アンドレ・フィエスキによるルルーシュ評が引用されているのだが、「映画監督という職業の恥さらし、それが彼だ」で始まるその痛烈な批判をここに載せたりすれば、ルルーシュがあまりにもかわいそうだ。やめておく。
□青山真治『レイクサイド マーダーケース』★★
青山真治は追っかけてみているわけではないので、これも劇場公開のときは見逃していた作品。まあ、別に見に行かなくてもよかったか、というのがテレビで見た正直な感想だ。役所広司、薬師丸ひろ子、柄本明を初めとする、役者陣の演技はすばらしく(鶴見辰吾、杉田かおるの「金八」コンビも悪くない)、十分見るに堪える内容とはなっているが、そんなに褒めちぎるような映画ではないだろう。「文學界」に連載中の阿部和重・中原昌也の「シネマの記憶喪失」では、「見どころ満載のすごい映画だよ」(阿部)、「とんでもない映画だよね」(中原)と、持ち上げているが、仲間ぼめとしか思えない。「後半、事件の真相が明らかになるモノクロ場面の唐突さには、めちゃくちゃさというか、暴力的なものを感じた」と中原がいい、阿部もそれに同意しているが、こんなのごくごくふつうの手法じゃないの。
話は変わるが、「文學界」の同じ号に、阿部和重と蓮實重彦の対談が載っている。ついでにちょっと流し読みをしていたら、大江健三郎の『取り替え子』が話題になっていた。この対談は前に読んでいたのだが、大江の話が出ていたことはすっかり忘れていた。そのなかで、蓮實が、阿部と大江の小説の自己言及性の違いについて触れながら、「大江さんのインターテクスチュアリティやテクストの自己言及性は形式というより想像力の問題であるような気がする」といっている。『取り替え子』を読みながら、どこかに違和感を感じる部分があったのだが、この指摘を読んで、その所在が明らかになったような気がした。 ナボコフを読み終えたら、次は『取り替え子』の続編にあたる『憂い顔の童子』を読むつもりだ。『憂い顔の童子』では、『取り替え子』についてのある批評家の解釈と、それについての古義人の反論がテクストの一部をなし、またしても自己言及的な作品となっているらしい。
□アナトール・リトヴァク『さよならをもう一度』#(「#」は見る必要がないという意味です)
一週間ほど前に見たばかりなのに、もう記憶が薄れかけている。
□金子修介『ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃』#
ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を読み始める。古本屋で安値で買ってそのままにしてあったものだ。 まだ50ページしか読んでいないがおもしろい。ナボコフ同様亡命ロシア人の語り手が、早世した小説家である腹違いの兄セバスチャン・ナイトの伝記を書くために、生前の兄のことを知る人々を訪ね歩くという物語なのだが、そのセバスチャンはどうやら死ぬ直前に架空の作家の伝記を書こうとしていたらしいことがわかってくる。そもそも、このセバスチャン・ナイトという人物も実在していたのかどうか、なにやら怪しい・・・。フィクションが幾層にも重なり合っている構造になっていそうだ。
この本はたしか定価の半値ぐらいで買ったものだったはず。そのときは、なかなかいい状態に思えたのだが、読んでいるうちになんとなく気持ちが悪くなってきたので、本屋で新品を買い直してしまった。軽い潔癖症なので、ページをめくるところが薄汚れている本は、基本的にNGなのだ。どうしても手に入れたい絶版本以外は、よほど状態のいいものでないと、古本は買わない。買ったときは、まず最初に表紙を中性洗剤でぬぐって、手あかを落とすというのが、欠かせない習慣になっている。だから、古本屋で買う文庫は、表紙を濡れた布で拭いても傷みにくい岩波文庫や中公文庫などが中心になる。新潮文庫やちくま文庫はたいていパスだ。 特にちくま文庫は、高い割に汚れ方がひどいので、古本屋に並んでいるものなど買えたものではない。新刊で出ていたときに買いそびれた蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』は、仕方がないので古本屋で見つけたときに買ってしまったが、これも再版されればすぐに売ってしまおうと思っている。
今日はナボコフを買ったついでに、ちくま文庫の『ボードレール批評』全4巻をまとめて買ってしまったので、ちょっとした散財だった。むかしは、この本はばら売りしていたと思うのだが、今は分売不可らしい。ちくま文庫の目録にも、「分売不可」と書いてある。まとめて買っても安くなるわけではないし、結構な値段になったが、今は手に入りにくくなっている本なので、こういうときはためらわずに買ったほうがいい。こういうとき買いそびれて、あとで後悔したことが何度もある。そのために、わたしは本の品切れ状態を Amazon の携帯サイトですぐに調べられるようにしている。このときも、それで調べてみたら、『ボードレール批評』は在庫切れになっていて、定価の三倍ぐらいの値段が付いていたので、即座に購入を決めたのだった。 ボードレールの批評関係の本は角川文庫でも持っていたので、そっちのほうはナボコフとまとめて早速売り払ってしまおう。
フライシャー初期のフィルム・ノワール。日本ではたぶん未公開。北米版のDVDで、字幕なしの英語版で見たので、細かい部分はよくわからなかった。字幕がついていたらもっと楽しめたと思うので、残念だ。 Treasury Departmentのエージェントたちの活躍を描く本作は、内容的にも、そのドキュメンタリー・タッチの描写においても、アンソニー・マンの『T-Men』と比較すべき作品である(T-Men とは Treasury Men、特別税務調査官のこと)。
財務省 Treasury Department に許可を得て撮影されたその内部のドキュメンタリー映像から映画は始まり、やがてそれがフィクションへと移行してゆく。精巧に作られた偽金の原版をめぐっる T-Men とギャングたちの攻防が、むだのない演出で巧みに演出されている。 主演はロイド・ブリッジスとバーバラ・ペイトン。地味だねェ。ロイド・ブリッジスは、出演作は多いが、『真昼の決闘』などの作品で、ふだんはもっぱら脇役を演じている俳優。バーバラ・ペイトンに至っては、生涯わずか十数本の映画に出演しただけの女優で、一時期はジョージ・ラフト、ゲイリー・クーパー、ハワード・ヒューズ、ボブ・ホープらと浮き名を流したらしいが、晩年は麻薬に溺れ、車の後部座席で5ドルで身体を売るような落ちぶれ方だったという。
『T-Men』もそうだが、この時期、こういうドキュメンタリー・タッチのフィルム・ノワールが数多く撮られる。『T-Men』を見ていたときも思ったが、フィルム・ノワールとドキュメンタリーは、これらの作品では危ういバランスを保っているが、下手をするとこのドキュメンタリー色はフィルム・ノワールの雰囲気を壊しかねないものをはらんでいる。こうした作品があらわれてきたことも、このジャンルの終わりを告げる徴だったのかもしれない。
鈴木道彦訳『失われた時を求めて』 抄訳版でしか出ていなかった鈴木道彦訳マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の完訳版が、ついに文庫で出ました(情報が少し古いですが)。 わたしはおおむかしに、大学の夏休みをかけて、井上究一郎訳で読み通しました。疲れましたが、えもいわれぬ体験でした。 長いので途中で挫折する人が多いと聞きます。これは、いわばきらめく断片が複雑に寄せあわされた、多面体のような小説です。長編とは思わずに、どこから読み始めてもいいような作品と、気楽に考えて読み始めたほうがいいでしょう。
▽『取り替え子』を読み終える
「もう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれてこない者たちにだけ向けておくれ。」大江健三郎『取り替え子』
映画をよく知っている者には、『取り替え子』は多少複雑な思いを抱かせる小説かもしれない。
大江健三郎が、松山での高校生時代からの親友であり、妻の兄に当たる映画監督、伊丹十三をモデルにしたといわれる(そして、それは明らかなのだが)この作品のなかで、伊丹十三(作品のなかでは、塙五良という名前になっている)は、大江が憧憬の念を抱くほど才能豊かな映画監督として描かれている。それだけならともかく、まるで黒沢清(これも当然名前は出てこない)は伊丹十三に映画を教わったといわんばかりの描き方がしてあるのを読んで、それは違うだろうと思った人は多いはずだ。 商業映画の分野ですでに成功を収めていた伊丹が、自主映画の世界からポルノ映画をへてメジャー映画路線へと出て行こうとしていた黒沢清に、業界の「ノウハウ」を教えたことはあるかもしれないが、映画とはなにかについて黒沢が伊丹から学んだことなどほとんどなかったに違いない。だれがどうみても、黒沢清のほうが伊丹十三よりも圧倒的な映画的才能に恵まれていることは明らかなのだから。
ある意味で被害妄想的な悪意とともに、坂本龍一や浅田彰など、様々な人物が暗に言及されているこの小説において、特に映画に関して読んでいて違和感を覚える部分が多いことは否定できない。 五良=伊丹が不可解な自殺を遂げたあとで、古義人(cogito!)=大江は、五良が彼あてに残した音声テープ・システム(田亀)を通じて、「向こうの世界」にいる五良と対話を行うことが密かな習慣となり、それになかば溺れてゆく。その死者との対話が、どこにも行き着かない白熱した無意味さとでもいうべき様相を呈してきたとき、テープに吹き込まれていた五良自身の勧めにも従って、古義人=大江はかねてから話のあったベルリン自由大学での教授職を受諾することを決意する。このベルリンでの滞在は物語の展開に大きく関わってくることになるのだが、それはともかく、そこで折しも行われていたベルリン映画祭で、古義人はドイツ人の映画監督にある撮りかけの作品を見せられる。
それは、彼の小説『ラグビー試合一八六〇』(もちろん、『万延元年のフットボール』のこと)をそのドイツ人監督が映画化したものらしい。その制作中の映画の断片には、一八六〇年の百姓一揆の場面が、現代の英国チームとドイツチームのラグビー試合に唐突にモンタージュされた場面が映っているのだが、そのどう見てもくだらなさそうな映画を見て、古義人はすばらしいといって感心する。その映画はどうやら、五良=伊丹のシナリオと演出方針にもとづいて撮られているらしく、それを確信した古義人は、ドイツ人監督のなかば強引な要求にも応じてしまう。 大江が伊丹の自殺後ベルリンに渡ったのは事実として確認できるが、そこでこのような出来事があったのかどうかはわからない。「あの監督を先導者として、ドイツのニューシネマは出発した」という言葉から推測すると、そのドイツ人監督はひょっとしたらフォルカー・シュレンドルフあたりのことを指しているのかもしれないのだが、おそらくはこの場面は全体としてフィクションなのだろう。いずれにせよ、このあたりを読んでいても、大江健三郎という人はあまり映画がわからなかったのだろうなという気がしてくる。
しかし、結局はそんなことはどうでもいいのだ。 正直いって、それほど無我夢中で読んだわけではないのだが、終章の「モーリス・センダックの絵」にいたって、ようやくタイトルの「取り替え子」changeling の意味するものが明らかとなり、それが作品全体を貫いてゆく主題であったことがわかるとき、じわじわとした感動がおそってきたのはたしかだ。そこで語られる、五良のスキャンダルの原因ともされる若い女性との、ひたすらキスだけで上りつめてゆく体験、いかにも大江的といえる性的体験の清々しい官能性にも心惹かれるものがあった。
伊丹十三が真の映画作家であったかどうか、わたし自身は疑わしいと思っている。だが、大江健三郎が真の作家であり、そして今もありつづけていることだけは、この小説は確信させてくれる。
後半で重要なモチーフとなるモーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』は、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』でも重要な役割を果たしていた。下は同じ作者による絵本『まどのそとの そのまたむこう』。
△上に戻る
ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルによって『ゴダールの映画史』の前後に撮られた4つの短編を収めたDVDがフランスで発売になります。
- De l'origine du XXIème siècle (2000)
- The old place (1999)
- Liberté et patrie (2002)
- Je vous salue Sarajevo (1993)
パリのポンピドゥ・センターで、今、ゴダール自身による展覧会が行われている。展覧会といったが、その内容はどの記事を読んでもよくわからない。会場入り口には、「見せることができるものは、語ることができない」というゴダールのなぞめいた言葉が掲げられているという。
開催までに長い時間と紆余曲折があったことも、この展覧会の話題を高めているようだ。この企画は最初、"Collage(s) de France, archéologie du cinéma d'après JLG"(「(複数の)コラージュ・ド・フランス、JLGによる映画のアルケオロジー」というタイトルで進められていたのだが、それが artistique な困難のため実現不可能となり、かわりに、Voyage (s) en utopie という新たな企画として、ようやく開催にこぎ着けたということらしい。
「コラージュ・ド・フランス」というのは、当初、ゴダールが、パリにあるフランスの高等教育機関コレージュ・ドフランスで行おうと企てていた講義の名前だった。蓮實重彦いうところの、「コレージュ・ド・フランスの教授の椅子をねらっている」ゴダールがこの講義でなにを教えようとしていたのか定かではないが、それは映画の歴史と20世紀の歴史とをコラージュする企てであったようだ。
一方で、この「コラージュ・ド・フランス」という企画は、リール近くのル・フレノワ(のメディアセンター?)で行われる準備が進められていたとの情報もあり、この辺の細かい経緯は、だれかが年表にでもしてくれなければわからない。とにかく、ポンピドゥ・センターの企画は最初、「コラージュ・ド・フランス」と呼ばれていたのだが、それが挫折したことだけはわかっている。ポンピドゥ・センターでゴダール展を行うという企画は、ドミニク・パイーニ氏がゴダールに強く働きかけて、2003年に動き出したものだということだ。ゴダールとパイーニは3年かけてこの企画を準備してきたわけだが、今年2006年の1月になって、突如、ふたりの共同関係は終わりを告げ、4月24日に開催予定だった展覧会は、5月11に延期され、上述のようにタイトルも変更される。このあたりは、ジャン=ピエール・ゴランとゴダールとの決別のミニ・ドラマのようなものを想像しておけばいいのだろうか。ふたりのあいだにどういうやりとりがあったのかはわからないが、ゴダールが例によって常識はずれの無理難題を突きつけたらしいことが推測される。「まったくむだな三年だった」と語るパイーニの無念な気持ちはよくわかる。しかし、ゴダールという宇宙人とつきあうには、これぐらいのことは覚悟しなければならない。
さて、そのパイーニがいうには、ポンピドゥ・センターでの「コラージュ・ド・フランス」の企画で、ゴダールは9ヶ月のあいだに月一で映画を上映するつもりだったという。「一週間かけてイマージュを集め、二週間でモンタージュし、四週目で上映する」という言葉から見て、一ヶ月ごとに新しい短編映画を作って発表する予定だったらしい。2005年には、ゴダールが九つのホールよりなる展示会場の模型を作り、これを拡大するかたちで企画を進めようとしたらしいが、パイーニとの話し合いがつかず、結局決別するかたちになったようだ。この「九」という数字が鍵になりそうな気もする。
その九つのホールが「コラージュされ」、あるホールでは映画の考古学的オブジェとショーペンハウアー、カール・クラウス、ジョルジュ・バタイユなどの書物が空間のなかで融合されたり、ホールからホールへと電車が走ったり、大小のスクリーンに映し出されるイマージュを植物が取り囲んでいたりと、そのまま完成すれば大変なことになる予定だったらしい。
しかし、この当初の企画は、先にいったように挫折する。今、ポンピドゥ・センターで行われている Voyage (s) en utopie では、会場は大きく三つに分けられ、そのそれぞれがただ、「一昨日」「昨日」「今日」とだけ名付けられ、ほかにはなんの矢印も説明もないという。また、この企画のためにゴダールが撮りあげた短編映画「 Vrai faux passeport」も上映されるということだ。この作品は、様々な映画やテレビ番組の断片が、例のゴダール的字幕を伴って、「神」「拷問」「自由」「幼年期」「奇跡」「エロス」などといったテーマをめぐって、モンタージュされたものらしい。
この展覧会全体が、スクリーンを伴わない映画のようなものだということだ。しかし、結局、見てみないとわからない。とはいえ、フランスはあまりに遠し。なんだか、書いていてむなしくなってきた。
これは、最近テレビで見た映画のなかでいちばん感銘を受けたものですね。アンドレ・ド・トス作品では「西部劇ベスト50」で紹介した『スプリングフィールド銃』もよかったが、これのほうが断然いい。
アウトローの時代も終わりかけていて、かつては拳銃にものをいわせて町を守ったカウボーイの主人公ロバート・ライアンは、町の住民、特に農民たちにとって、疎ましい存在となりつつある。とりわけ、密かに心を寄せている人妻の夫である農民のひとりと、彼は激しく対立しあう。実はその人妻と彼とのあいだにはひとかたならぬ関係があったのだということがやがてわかるのだが、このあたりは『大砂塵』を思い出させる(実は、この映画の脚本も『大砂塵』と同じフィリップ・ヨーダンが書いているんです。やっぱりたいした脚本家ですね)。
酒場で、ライアンと農民が一触即発の状況になり、今まさに拳銃を抜こうとしていたとき、扉を開けて盗賊のボスが部下を引き連れてはいってくる。彼らは軍の金を奪って逃亡している北軍の兵士たちなのだ。ここから話が急展開する。この町まで逃げてきたのはいいものの、ここは高い雪山に背後を遮られた行き止まりの町。いわば陸の孤島だ。この閉鎖的な状況のなかで、盗賊たちと町の住民との緊張に満ちた関係が展開してゆく。いわば、西部劇版『キー・ラーゴ』とでもいうべき心理的サスペンスをド・トスは的確に演出している。
『キー・ラーゴ』のエドワード・G・ロビンソンの存在にあたる、元北軍大佐の盗賊のボスを演じているのが、ニコラス・レイの『エヴァグレイズを渡る風』のバール・アイヴス。彼が被弾して重傷を負っているところから、彼の部下とのあいだにも権力をめぐる緊張関係が次第に高まってゆく。とりわけ、欲望をむき出しにした部下のひとりを演じるジャック・ランバートは、あいかわらずどう猛な顔をしていてすばらしい。
クライマックスは、西部劇には珍しい雪山の風景のなかで展開する(この辺はウィリアム・ウェルマンの『廃墟の群盗』を思わせる)。馬が雪の中に飲み込まれて立ち往生し、盗賊たちも次々と凍死してゆく。西部劇で人が凍死するのはアルトマンの『ギャンブラー』だけではなかったのだ。この美しいイメージを撮影したキャメラマンは、ラッセル・ハーラン。脚本よし、撮影よし、演技よし。忘れられた傑作ですね。
バーバラ・ローデン:女優で、エリア・カザンの妻。1970年、唯一の監督作『ワンダ』を撮りあげた直後に病死。
『ワンダ』は一言でいうなら、女性映画ということになるだろう。この映画が撮られた時代は、アメリカにウーマン・リヴ運動がすでに定着していた頃だ。しかし、夫と子供をあっさりと捨てた直後に、たまたま知り合った男にすがりつくようにつき従い、ついには強盗まで働いてしまう「受動的」ヒロイン、ワンダはフェミニストたちからも総スカンを食らった。
こうしてこの映画はアメリカ本国ではほぼ黙殺されることになる。しかし、シネフィルの王国フランスで公開されると、『ワンダ』は批評家から高い評価を得る。映画を見たマルグリット・デュラスは、この映画を公開するためならなにを差し出してもいいといって絶賛。デュラスの『ワンダ』についての発言は『緑の眼』 に収められている。
これは実現することはなかったのだが、それから20年あまりたったあとで、フランスの女優イザベル・ユペールがこの映画を見て惚れ込み、配給権をみずから買って、フランスでの公開を成功させる。再び高い評価を得、ついにはDVD化されるまでに至った(日本に住むわたしがこの映画を見られたのも、ユペールのおかげである)。
ちなみに、この作品は本国アメリカでもDVD化されていない。仏版DVDは多くの特典映像を付した2枚組で、フィリップ・アズーリの音声解説、イザベル・ユペールの長いインタビューや、エリア・カザンのインタビュー、バーバラ・ローデンの音声のみのインタビュー、さらには、「マイク・ダグラス・ショー」にオノ・ヨーコ、ジョン・レノンといっしょに出演した際の貴重な映像(バーバラはオノ・ヨーコとレノンのライブに参加して打楽器を演奏しさえしている)など、盛りだくさんの内容となっている。
映画のファースト・シーンを見て、わたしはカサヴェテスの『壊れゆく女』を思い浮かべたのだが、アズーリの音声解説でもたまたまこの映画にふれていた。もっとも、それはテーマを比較してのことだったと思う。わたしは、ピーター・フォークが働いている工事現場の風景を突然思い出したのだった。この映画には、メジャーの映画では見たことのないむき出しのアメリカの風景が映し出されていて、ときおりはっとさせられる。
日本での公開予定:不明。
日本でのDVD化予定:不明。
日本の映画配給に関わっている人間は、海外のメディアに全然通じていない。せいぜい、アメリカのメディアに少し目を通しているぐらいだろう(推測で語っているが、そうとしか思えないほど、反応が遅いのはたしかだ)。前に、NHKの「英語でしゃべらナイト」という番組で、どこかの配給会社を取材した場面を見て驚いたのだが、そういう仕事をしているのに英語が読み書きできる人がほとんどいないのだ。配給会社が全部あんな感じだとは思わないが、大丈夫だろうかと心配になる。
この映画もやり方次第でそれなりに当たるはずだと思う。関係者の方、見ていたら検討してみてください。
このホームページをご覧になった方からメールで教えていただいたのですが、タイ語では語尾の L を n と同じように発音するそうです。だから、Weerasethakul は「ウィーラセタクン」と読むほうが正しいようです。早く作品が一般公開されれば、表記も定まってくると思うので、とにかく一刻も早く劇場公開してほしいですね。
▽メル・スチュアート『火曜日ならベルギーよ』★☆
主演のスザンヌ・プレシェット(『鳥』)とイアン・マクシェーンは地味だが、カメオ出演している顔ぶれがすごい。ヴィットリオ・デ・シーカ、ドノヴァン、エルザ・マルティネリ(『ハタリ!』)、ロバート・ヴォーン、アニタ・エクバーグ、ジョン・カサヴェテス、ベン・ギャザラなどなど。ほかに、ジョン・フォード作品でおなじみのミルドレッド・ナトウィックもでている。でも、全然おもしろくないんだな、これが。
▽『ウィスキー』★★☆
BSでサンダンス映画祭の特集をやっているのだが、総じてつまらない。このつまらなさはなんなのだろう。「映画」という言葉でイメージされているものが違うとしかいいようがない。サンダンスに招かれて渡米した黒沢清もきっと違和感を感じていたことだろう。そのなかでは、フアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールの『ウィスキー』がいちばんまともな映画だった。ウルグアイのカウリスマキなどという評価を受けている作品だ。正直、この評価の高さには少しとまどう。悪くはない作品だとは思うが、大騒ぎするほどの映画ではない。公式サイトを見たら、山下敦弘がコメントを寄せていた。なるほどと思った。彼の映画に感じるのと同じ、「なにかちょっと違うぞ」という軽い違和感をこの映画にも感じるからだ。フアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールのインタビューを読むと、アニメの「シンプソン一家」にはまったとか、『デリカテッセン』を見てショックを受けたとかいっているようだ。一方で、ジム・ジャームッシュが師匠だみたいなこともいっている。このへんの、趣味がいいのか悪いのかわからないところが、いまいち信用できない。山下敦弘もたまにアキ・カウリスマキとたとえられることがあるが、カウリスマキって単純にもっとすごい人ですよ。だいいち、映画的教養が違います。
この人は女優のサラ・マイルズと同じ人なんでしょうか(たぶん別人)。
都会に渦巻く孤独を水晶玉でのぞき見たような短編。シンディ・シャーマンの死と孤独に彩られた写真の世界を映像にしたような作品ともいえる。『オズの魔法使』 のドロシーや、『めまい』のキム・ノヴァク、『リング』の貞子などをモチーフに織り交ぜて使っているのが印象的。
▽デイマンタス・ナルケヴィチュス『いなかもの』★☆
NHKの「名曲の調べ」のような作品。よくわからない。
▽アピチャポン・ウィーラセタクル『ワールドリー・デザイアーズ』★★★
アピチャポンはフランスなどではもう相当有名になっているタイの映画作家だが、日本ではまだまだ知名度は低い。そのせいか名前の表記が定まっていない。ネットで調べると、「ウェラセタクン」とか「ヴェラセタクル」とか、いろんな書き方がされているようだ。イメージフォーラムのチラシでは、「ウィラーセタクン」となっている。Weerasethakul という綴りだけ見れば、「ウィラーセタクン」はおかしいと思うのだが。
「worldly desires」とは、直訳すると「俗世の欲望」のことで、「物欲」を意味する仏教用語の英訳らしい。軽やかな音楽が流れるなか、夜の暗いジャングルを通って白いドレスを身にまとった女が幽霊のように歩いてくるのが、鬱蒼と生い茂る木々を通して見える。突然、画面の奥がライトアップされ、先ほどの女が音楽に合わせて歌い踊り始める。それは愛と幸福を願う女の歌だ。どうやらCMかなにかの撮影らしい。歌手の前にはキャメラが据えられ、スタッフもいるらしいのが、かろうじて見える。その全体をずっと引いた位置にあるもうひとつのキャメラがフィックスで淡々とらえつづける。
次に、昼の場面に変わると、なにやらワケありの男女が、やはりジャングルのなかを何者かから逃げるように足早に歩いている。画面全体にキャメラのファインダーの照準が映し出されていて、何者かがふたりの逃避行をキャメラでのぞき見ていることを予想させる。やがて「カット」という声がはいり、これがTVかなにかのソープ・オペラの撮影であることがわかる。
こんなふうに始まった映画は、昼の物語=ドラマ撮影と、夜の歌=CM撮影が、交互に繰り返されるかたちで進んでゆく。その様子全体を、遠くからもうひとつのキャメラがとらえつづけている、というのがこの映画の構造になっている。夜の場面と昼の場面がこうして淡々と反復されてゆくのだが、やがて最後に夜の歌が昼の場面へと流れ込むところでこの作品は終わっている。
ドラマの撮影もCM撮影もたぶんこの映画のために行われたものだとすれば、これはドキュメンタリーとはいいがたい。しかし、フィクションと呼ぶのもためらわれる。『真昼の不思議な物体』とこれしかまだ見ていないので、まだこの監督のことはよくわかっていないのだが、その上でいうなら、これは方法論というよりも、この作者にとってジャングルという場所そのものが、ドキュメンタリーとフィクションという境界を曖昧にしてしまうものとして存在しているのではないだろうか。
ドラマのなかでは「聖なる木」を求めてジャングルをさまよう男女の物語が描かれ、撮影スタッフのひとりは、森の魔物の話をする。しかし、そうした小さな物語はどこにも行き着くことなく、常に遠くにおかれたキャメラが映し出す人間たちの営みはやがて背景に遠のき、ジャングルの圧倒的なプレザンスだけを残して映画は終わる。
興味深い映画ではあるが、たぶんこれはウィラーセタクルとしてはマイナーな作品にはいるのだろう。正直、雨のなか京都までわざわざ出向くほどのものでもなかったかなという気がしないでもない。『Blissfuly Yours』と『Tropical Malady』が早く見てみたい。
1975年のトルコにおける単一民族主義的政策。勉強にはなるが、そんなにおもしろい映画ではない。物語の背景にある第一次大戦後のトルコからのギリシア人の引き上げは、アンゲロプロスの『シテール島への船出』に語られる「三度の亡命」の一度目の亡命とほぼ重なる。ヒロインであるアイシェの本名はエレニ。
人の気配がなく、動くもののない、写真のような風景と風景のような写真が、絶えずパン移動するキャメラの運動とともに、だまし絵的にモンタージュされてゆく。マルグリット・デュラスの『大西洋の男』のテキストがバラバラに解体されたかたちで朗読される。同じ作者の劇映画『blue』の撮影隊が去ったあとの空っぽの風景をとらえるという試み自体が、デュラスの『インディア・ソング』と『ヴェネチア時代の彼女の名前』との関係の模倣でしかない。要するに、デュラスの物まね以上でも以下でもないのだ。デュラスにインスパイアされた映画がデュラスに似てしまうというのは、作家として恥ずかしいことではないだろうか。アメリカのB級映画を模倣しようとして、まるで別の映画を取りあげてしまったゴダールが創造的模倣を実践していたといえるなら、この映画の安藤尋はデュラスを通してなにも作り出していないように思う。
それにしても、最後にクレジットを見るまでもなく日本人による朗読とわかるナレーションのフランス語のつたなさはなんなのだろう。あれはわざとやっているのだろうか。どうも、気になって仕方がなかった。『オトン』でフランス語のできない俳優たちに猛烈な早さでコルネイユを朗読させたストローブ=ユイレは確信犯だったが、この映画の作者たちはあれが変なフランス語だとわかっていないのではないか、というのがわたしの結論だ。『セザンヌ』のユイレのナレーションも変だったが、あれはすばらしいナレーションだった。この映画のデュラスを読み上げるフランス語の声には、ロラン・バルトなら「声の肌理」と呼んだであろうものの欠片もなく、単に「アテネ・フランセでフランス語を勉強しました」的なふつうのフランス語でしかない。デュラスにオマージュを捧げるぐらいなら、彼女の映画で「声」がどれほど重要であるかはわかっていると思うのだが・・・。林の中の360度パン撮影は、ストローブ=ユイレの『労働者たち、農民たち』をまねたのかもしれないが、レナート・ベルタとの格の違いを感じさせるだけだった。
黒沢清や万田邦敏は、こういう映画は学生時代に卒業して、今はプロとしての仕事をしている。商業映画の括りにはいらないパーソナルな映画はもちろん存在していいし、存在すべきだと思うが、パーソナル=アマチュアということではないだろう。しかし、実際には、こういう「アート・フィルム」を撮る作家のなかにはそのへんのプロ意識が薄い人が多いように思う。ストローブ=ユイレのように厳格になることなどほかのだれにもできないだろうが、多少は見習ってほしいものだ。安藤尋の場合はどうなのだろう。わたしはこれと『blue』しか見ていないので、あまりよく知らないのだが、このあとで撮り始めた「ケータイ刑事」シリーズではどのようなプロ意識を見せているのか確かめてみたい気がする。
『ミシェル・フーコー思考集成』が高すぎると思っていたあなたに朗報です。あれのダイジェスト版『フーコー・コレクション』がちくま文庫から刊行され始めました。第一巻は「狂気・理性」。今月の目玉商品です。
▽ジャン=ピエール・ゴラン『ポトとカベンゴ』★★
大阪シネ・ヌーヴォで開催されている Edge in Osaka に、ジャン=ピエール・ゴランの『ポトとカベンゴ』を見に行く。ジガ・ヴェルトフ集団時代のゴダールとの共闘で知られるゴランが、ゴダールと別れてひとりアメリカに渡り、そこで撮ったドキュメンタリー映画だ。あまり期待はしていなかったのだが、意外とおもしろかった。ただし、それは映画がおもしろかったというよりも、内容がおもしろかったといったほうが正確だろう。
1977年、アメリカで幼い双子の姉妹がマスコミの話題をさらう。彼女たちが、周りのだれにも理解できない、何語ともわからない不思議な言葉でコミュニケーションを取り合っていることが、マスメディアの格好の対象となったのだった。ふたりの名前はポトとカベンゴという。しかし、この名前も彼女たちが勝手に互いにつけあったもので、本名ではない。ふたりは、あらゆるものや出来事を、ふたりだけにしか通じない言語で名付け、伝えあっているようなのだ。見ているあいだに「鏡の言葉」というフレーズが自然に浮かんできた。象徴としての言語を獲得する以前の、鏡像段階の言葉。
いい獲物を見つけたとばかりに、連日新聞やテレビの取材がはいり、この一家はたちまち有名になる。様々な学者たちがテレビに出て、姉妹の「症状」を分析してゆく。やがてわかってきたことは、ふたりが不可思議な言葉を使い始めた背景には、家庭環境が大きく関係していたらしいということだ。詳細は忘れたが、たしか、ドイツ人の母親がアメリカ人の父親と知り合って、ふたりが生まれたのだが、知恵遅れの可能性があると医者にいわれた両親は、ふたりを学校にも行かせずに、ほとんど家の中に閉じこめるような状態で育てることになる。一家が住むカリフォルニアの住宅では、ドイツ語以外は話せない祖母も同居しており、食卓では、ドイツ語や英語が入り交じったような言葉が飛び交い、双子の姉妹はそんな不正確な言葉を聞きながら育ってゆく。
そんな特殊な状況のなかで育てられたため、彼女たちは独自の言葉を創造することになった、というわけだ。しかし、メディアに取りあげられて一躍有名になってしまったため、連日知らない人たちに質問を受けるうち、外の世界の「正常な言語」を学んでいったふたりは、やがて言語的に「正常化」してゆく。ゴランが彼女たちのもとを訪れたのは、そんなふうにしてふたりの特殊な言葉が消えようとしていた頃だった。とはいえ、まだまだふつうの英語とは言えない言葉を話す彼女たちを連れて、ゴランは動物園や図書館に出かけてゆく。それまで外の世界にふれることがほとんどなかった彼女たちは、ふつうの子供以上に狂気のような好奇心に突き動かされ、キャメラなどお構いなしに走り回り、一瞬たりとも同じところにとどまっていない。このあたりのシーンには不思議な幸福感があって、あまり子供好きでもないわたしでもついほほえんでしまう。
しかし『不思議の国のアリスの』Mad Tea Party のような狂騒状態は、そう長くはつづかない。ふたりが「正常化」してゆくにつれマスコミの熱も冷めてゆく。有名人になったために舞い上がってしまい、リッチな家に引っ越した両親は、やがて家賃も払えなくなる。学習に遅れが見え始めていた妹は、専門の施設に入れられ、姉と別れ別れになる。
アリスが現実の世界に戻ってしまったような一抹の寂しさはあるが、ふたりがふつうの言葉を話せるようになったことはよかったと思うし、正しいことでもあると思う。詩が失われ、散文があらわれる。それは仕方がないことだ。しかし、それを描くゴランの側に、言葉以前のなにものかに対する畏怖の念にも似た感性が決定的に欠けていることが問題だと思う。「名前の前にはなにが?」と問いかける Prenom: Carmen のゴダールにはたしかにそれがあった。
解説によると、ゴランはこのふたりの関係に、自分とゴダールとの関係を重ね合わせているとのことだ。たしかに、ジガ・ヴェルトフ集団時代のふたりが撮る映画のなかで聞こえてくる言葉は、ふつうの人たちには宇宙人の言葉と聞こえたかもしれない。しかし、わたしにはそういう解釈は少し眉唾めいて聞こえる。それよりも、このころゴダールがミエヴィルといっしょに『ふたりの子供によるフランス漫遊記』という子供映画を撮っていたことをゴランが知っていたのかどうかに興味がある。ある意味、これは『ふたりの子供によるアメリカ漫遊記』と呼んでもいい作品であるからだ。
音楽はグレン・グールド演奏によるモーツァルト「幻想曲」。
放ったらかしていた虫歯が痛む。できうる限り病院は避けるようにしているのだが、そろそろ潮時らしい。
関係ないが、テレビにも最近虫歯ができた。ソニーの旧式トリニトロン型テレビを使っているのだが、最近画面の中央に小さな青い点が浮かんで消えなくなってしまった。だいぶ前から、ときおり画面がプチッといって、一瞬中央にむけて収縮するような現象が起きていたので、できるだけスイッチを消さないでつけっぱなしにしておくようにしていたのだった。その成果があって、最近はその現象はほとんど起きなくなっていたのだが、今度はつけっぱなしにしていたのがテレビの寿命を縮めてしまったのだろうか。ずいぶん長い間使ってきたテレビなので、まあしかたがないといえば、しかたがないのだが。
それで、いつつぶれてもすぐに対応できるように、最近のテレビはどんなものが売られているのかヨドバシカメラに調べに行ってきた。ほとんどの客は VIERA や AQUOS といった大型テレビのコーナーに集まっているようだった。そんな大画面でいったいなにを見るというのか。しかし、安いものでも20万円近くする大型のテレビが、どうやら結構売れているらしい。テレビが贅沢だった時代はとうのむかしで、時代が進めば進むほどどんどん安くなっていくものだとばかり思っていたので、これはとんだ誤算だ。
ついでにいうと、わたしは地上波デジタルにもどちらかというと反対である。2011年からは古い機器が使えなくなるというのに、PSE なんていうわけのわからない法律ができたりして、産業廃棄物の不法投棄がいきなりふえそうではないか。だいいち、そんなにクリアな映像に耐えうる番組がどれだけあるというのか。録画も面倒くさくなりそうだし。困ったものだ。
---
最近知ったのだが、フィリップ・カウフマンの『ヘンリー&ジューン』は NC-17 がはじめて適用された映画らしい。そういえば、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に一部ぼかしがはいっていたことを思い出した。 女が全裸で部屋の中を歩くというだけのシーンなのだが、ヘアの部分にぼかしがはいっていたのだ。あれには本気で驚いたね。いったいいつの時代なんだと思った。
「共謀罪」、不気味です。
「ジョジョの奇妙な冒険」、読み始めました。
▽ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』★★★☆
最近、ロードショーが充実している。『ブロークバック・マウンテン』も、『アメリカ、家族がいる風景』も、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』も、今年のベストテンの上位にはいってもおかしくない出来だった。わたしはあまり買っていないのだが、『ニュー・ワールド』も異色の歴史映画として記憶には残った(阿部和重と中原昌也は大傑作と持ち上げている)。
ジャームッシュの新作『ブロークン・フラワーズ』もこれまた期待以上の出来で、大いに満足した。「ブロークン・ブロッサム」ならぬ「ブロークン・フラワーズ」というタイトルの意味が正確になにを意味するのかにわかには定めがたいが、この映画は実はグリフィスではなく、ジャン・ユスターシュに捧げられている。といっても作風がユスターシュに似ているというわけではない。むしろ、まるで似ていないといった方がいいのだが、ニコラス・レイに師事したジャームッシュが、「アメリカの友人」のひとりユスターシュに映画を捧げているとしても、なんの不思議もないだろう。
さて、その『アメリカの友人』を撮ったヴェンダースがひさびさに撮った劇映画、『アメリカ、家族のいる風景』が、同じくジャームッシュのひさしぶりの長編劇映画『ブロークン・フラワーズ』と同じく、息子を捜す父親の旅を描いていることはたんなる偶然なのだろうか。いや、偶然だからこそ、逆に興味深いともいえるのだが、「家族の回復」などという社会学者が喜びそうなテーマでこの映画を語ることは、『アメリカ、家族のいる風景』はともかく、この映画では的はずれになるだろう。実際、この映画では父と息子の問題も、家族の問題も語られているわけではないからだ。
父親ビル・マーレイが探している息子は、『アメリカ、家族のいる風景』のようにあっさりとは見つからず、かつて関係のあった女たちを訪ねる旅が、「失われた時」をふいによみがえらせるわけでもない。どちらかというと、気まずい時間だけが過ぎていくのだが、ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』以来のあの独特の「間」を使った演出でそれをユーモラスに見せてゆく。過去でもありまた未来でもある息子は結局姿を現すことがない。では、ドン・ファンの旅は徒労に終わったのか。映画のラストで、路上に呆然と立ちつくすビル・マーレイの眼にはすべてが真新しく見えていたように思う。わたしには心が揺れる瞬間だった。
冒頭のシーンで女の手がポストに手紙を投函するショットがあったとしても、あの手紙を出したのはジャームッシュ自身ではなかったかと思うのだ。その証拠にクレジットの文字はタイプライターで打たれていたではないか(などといい加減なことをいってみる)。
最近はマンガばっかり読んでいる。こんなにマンガを読むのは学生時代以来だ。あのころは、コンビニで週刊マンガの連載を立ち読みするなど日常茶飯事だったが、90年代に入ってからばったり読まなくなってしまった。たしか、フランスに留学したのがきっかけだったような気がする。むこうに住んでいるあいだは日本のマンガに飢えていて、テレビで放映される「ドラゴンボール」や「ベルサイユのばら」「めぞん一刻」のフランス語吹き替えアニメまで熱心に見ていたものだ。今は事情が違うのかもしれないが、当時のフランスでは、書店で子供向けのマンガと大人向けのマンガのコーナーが截然と分かれていた。子供向けのマンガは幼稚すぎてフランス語の学習目的以外に読む気がせず、逆に大人向けのマンガはアーティスティックすぎて面白味に欠けるものばかりだった。子供と大人という境界が良くも悪くも消えてしまっているという、ある意味異常な現象は日本のマンガだけにおこっていることで、外側から見るとかなり奇妙に見える。日本では電車のなかでサラリーマンが「少年ジャンプ」などを読んでいる光景をとき折り目にするが、これはフランスではあり得ない光景だ(繰り返すが、今はどうなっているか知らない)。
そんなわけで、フランスのマンガは代用にならず、日本のマンガへの渇望は次第に大きくなっていったのだが、日本に帰ってくると、急にマンガに対する興味が薄れてしまっていることに気づいた。だから、90年代以後に登場したマンガは、あまりよく知らない。松本大洋のマンガとか岩田明の「寄生獣」など、ときおりはまるマンガもあるにはあったが、たいてい単発に終わるだけで、マンガに入れ込むことはなかった。しかし、今回、集中して読んでみてわかったのだが、最近のマンガには非常に水準が高いものが少なくない。
今読んでいるのは井上雄彦の「バガボンド」というマンガだ。吉川英治の原作をもとに宮本武蔵を描いた時代劇である。基本的な物語は映画などでおなじみのとおりのものなのだが、人物の設定が微妙に変えてあっておもしろい。たとえば、稲垣浩版でも内田叶夢版でも、女遊びに明け暮れて剣術を忘れてしまった人間として描かれる吉岡清十郎が、剣の天才である美少年として描かれていたり、鎖鎌使いの宍戸梅軒が、むかし因縁のあった男、辻風黄平が名を変えた姿だったりと、原作にはないひねりが加えてある(もっとも、わたしは原作は読んだことがなく、映画から得た知識しかないのだが)。とりわけ、佐々木小次郎を耳が聞こえず、口もきけない男として描くというアイデアには驚かされた。絵もものすごくうまい。
22巻まで読んだところだが、まだ一乗寺の決闘さえ終わっていない。いつ終わる事やら。
丹生谷貴志の『天皇と倒錯』がいつの間にか品切れ状態になっていて、どこの本屋にもおいていないので焦ったが、幸いジュンク堂のオンライン・ショップに新刊の在庫が残っていた(汗)。オンライン・ショップでは、注文後に、「やっぱり在庫ありませんでした」ということがたまにある。今回はちゃんと商品発送の手配を知らせるメールがはいったので、大丈夫のようだ(と思ったが、よく読んでみたら、在庫があるかどうか、取り寄せの必要があるかどうかを確認する作業に入ったというだけのことだった)。丹生谷の本もなかなかの絶版率なので、めぼしいものは早めに押さえておいた方がいい。
▽ヴィム・ヴェンダース『アメリカ,家族のいる風景』★★★
大阪上映時に見逃していたので、京都シネマに見に行く。『ランド・オブ・プレンティ』は前評判が高かったのでちょっと期待しすぎていたせいか、あまり乗れなかったけれど、これは悪くない。巨大な二つの目のような模様が、画面が明るくなって、巨大な岩場の空洞だとわかると、その前を馬に乗った男が駆けてゆくところで始まるオープニングから、「ジョン・フォード的」だという気はしていたのだが、それは主人公がB級というか、どうやらC級の西部劇俳優だからという単純な連想だけではなかったことが、最後の最後になって明らかになる。それは、サム・シェパード演じる父親が、生まれて何十年もたったあとで初めてあった息子とついに心を通わせる場面だ。その場面が、プロデューサーに見つかって撮影現場に帰らなければならなくなったサム・シェパードが、別れの言葉もかけることができずにいた息子にむかって、離れた場所から車の鍵を放り投げるというジョン・フォード的身振りによって締めくくられていることが感動的なのだ。
△上に戻る
テレンス・マリックほどではないが、最近妙に寡作になっているクローネンバーグの、前評判の高かった新作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を見に行く。最近は、封切り作品は上映終了ぎりぎりになって見に行くことが多い。封切られた週に映画を見に行くのはひさしぶりだ。
ネタバレしそうなのであまり詳しく書かないことにするが、非常におもしろかった。シンプルで力強い物語でぐいぐいと引っ張ってゆく。クローネンバーグの最高傑作かもしれない。ファンタスティックな要素はなにもない話だが、ある意味『スキャナーズ』のラストから始まる映画と言っていいだろう。『ミュンヘン』あたりから始まっているハリウッド映画のひとつの流れとして、「アンガジェ」している作品が去年あたりから急激に増えている。この作品は直接そういう問題を扱ってはいないが、ここに9/11以後のアメリカ社会の縮図を見て取ることはたやすい。
スナック・バーかなにかから出てきたふたりが、正面に止めた車の前で、観客には脈略なく聞こえる話をしているところから映画は始まるのだけれど、その場面があまりにも長すぎるなと思い始めたところで、ははぁー、店のなかでなにかが起こったのだなとわかってしまうあたり、自分でもいやになるほど勘がいいので困ってしまう。もっと映画慣れしていなければ、素直に映画に驚けるのに、と思ったりするのだが、まあ仕方がない。
やっと『仮往生伝試文』を読み終える。「吃っている」としかいいようのないエクリチュール。読んでいてどっと疲れた。古井由吉との対談で、「こういうものを書かれると困ってしまう」と蓮實重彦が絶賛して、最高傑作じゃないかとまでいっている最新連作集、『辻』も読みたいのだが、さすがに古井由吉を二冊続けてというのはしんどい。それにしても、古井作品はむかしは結構文庫になっていて、『白髪の唄』ぐらいまでの文庫はかなり持っているのだけれど、最近は文庫化されることはほとんどなくなってしまったと言っていいようだ。講談社文芸文庫にさえ敬遠されているようだし(『水』はずっと絶版のまま)。
関係ないが、ATOK の politically correct ぶりにもこまったものだ。「吃る」さえまともに変換できないとは、勘弁してほしい。
「クロサギ」:詐欺師を喰う詐欺師の話。これもマンガが原作。原作マンガのほうは、絵が平凡で、人物描写も深みがない(註が付いているので、詐欺の勉強をするにはマンガのほうが役に立つが)。TVドラマのほうは可もなく不可もなくといった感じだが、哀川翔、山崎努などの個性派俳優も出ていて、原作よりはずっとキャラがたっている。オレオレ詐欺師が出てくるかどうかは未定。
「アテンションプリーズ」:上戸彩主演のベタな職業訓練生もの。上戸彩がどうやってしごかれるのかが見物。
春の新作ドラマもそろそろ出そろった。いずれもテーマ・演出ともに平凡な印象を与えるものばかりだが、相対的にできのいい上の二つと「弁護士のクズ」の三つをとりあえず見続けることにした。
---
▽古井由吉『仮往生伝試文』
最近軽めの小説を読むことが多かったので、久々の純文学。なかなか前に進まない。やっと3分の2ほど読み終える。日記のかたちで様々な往生話が語られてゆく。小さな物語を集積してできたような小説。そこにときおり著者の日常が紛れ込む。往生というからには、そこには自ずとこの世とあの世、生と死との境界が問題となってくるのだが、その境目は最初から曖昧きわまるものとして漂いだし、小説は夢と現の狭間をさまよう。「往生伝」ではなく「仮往生伝」であることがかえって恐ろしく、もの狂おしい。
『世界の中心で、愛を叫ぶ』の著者が古井由吉のファンだということをさっき知った。本当なのか、にわかには信じがたいが、まあ、好きになるのは自由だし。柴咲コウが古井由吉の本の帯を書けば売れるのに、と思ったりもした。
ガス・ヴァン・サントの『ラストデイズ』を見に行く。芸術家ものの映画は苦手なので、ぐずぐず見るのを遅らせ、最悪DVDでもいいかと思っていたのだが、かなりのロングランでいまだに上映がつづいており、結局、見に行ってしまった。これはほんとにいっといてよかった。さすがは『エレファント』のガス・ヴァン・サントだ。一瞬でも疑ったわたしが間違っていた。これまで腐るほど撮られてきたロック・アーチストの伝記映画とは似ても似つかない作品になっている。必見です。
▽ヴィスコンティ VS ブレッソン?
民主党の小沢新代表が就任演説かなにかで、ヴィスコンティの『山猫』のセリフを引用していた。「変わらないためには、変わらなければならない」。小沢氏はバート・ランカスターのセリフだといっていたが、あれは革命に身を投じたアラン・ドロンのセリフではなかったかと思う。いや、変わりゆく時代を自覚したランカスターがドロンのセリフをみずからの言葉として繰り返すということだったのかも知れない。
それはともかく、わたしは聞いた瞬間、ゴダールの『映画史』のなかでも引用されていたブレッソンの、「なにも変えるな、すべてが変わるために」という言葉を思い出していた。一方は、ガリバルディによるイタリア統一運動が進むなかで滅び行く貴族社会を描いた歴史映画のなかで、他方は、パスカルの『パンセ』にも似た映画のエクリチュールをめぐる断想集『シネマトグラフ覚書』のなかで、それぞれ語られる言葉であり、まったく異なる文脈で発せられたものではあるが、その対称性があまりにも見事なので、思わずいろいろなことを考えてしまった。
『映画史』のまさしく冒頭でゴダール自身が口にするテキストが正確ならば(そして、わたしの聞き取りに誤りがないならば)、ブレッソンの言葉の原文は、 "Ne change rien pour que tout soit different " である。この言葉は、松浦寿輝によって「何一つ変更を加えず、すべてが違ったものとなるように」と訳されている断章と同じものであろう。おそらく、こう訳すほうがブレッソンの言わんとしていたことに近いのかも知れない。しかし、同時に、『映画史』のなかでゴダールによってつぶやかれるときにこの言葉がはらんでしまう「政治性」とでも言うべき強度は失われてしまう。翻訳とは恐ろしい。
いや、翻訳をどうのこうのいう以前に、ゴダールの引用がそもそも、テキストやイメージを文脈から解き放ち、断片を断片そのものとして輝かせる手法であったのだ。こうして、ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』はレジスタンスの映画として読み直されることになる。
新ドラマがぼちぼち放送され始めた。今シーズンも大したものはなさそうだ。
「ブスの瞳に恋してる」:5分でパス。
「プリマダム」:いかにも人物紹介というシーンを続けられると辟易する。時間はたっぷりあるんだから、初回で登場人物を全部出さなくてもいいんじゃないかと思うのだが・・・。いずれにせよもっとうまくできないものか。野球の消化試合を見ているようで、退屈。これも続きを見る気がしない。
「7人の女弁護士」:一言でいって、メンツがぱっとしない。学芸会レベルの演技合戦を見せられている感じ。これもパス。
「弁護士のクズ」:上と同じ曜日に別チャンネルで放送。一見いい加減そうな敏腕弁護士と、正義に燃える新米弁護士。脇役の人物設定もふくめて、ありがちなパターンだが、トヨエツが出ているだけで引き締まった感じになっている。トヨエツひとりで7人の女に圧勝。とりあえず、続きも見るか。
「医龍」:原作の漫画を読んでいるのでパス。
---
▽吉田喜重ドキュメンタリー
時間がたつとどんどん記憶が薄れていくので、今のうちにメモしておく。
▽『狂言師・三宅籐九郎』(84)
『人間の約束』(86)で劇映画に復帰する直前に撮られた作品。人間国宝・九世三宅籐九郎の舞を納めた貴重なドキュメンタリー。驚くのは、籐九郎と同じ舞台に子供時代の和泉元彌がたっている姿が映っていること(元彌は九世三宅藤九郎の孫にあたり、現在の十世藤九郎は元彌の次姉祥子)。テレビに母親といっしょに出ているのをみていると、うさんくさい奴にしか見えないのだが、この映画を見て和泉元彌をちょっとだけ尊敬した。今の彼の姿を見たら籐九郎は涙を流すだろう。能狂言に関心がある人には非常に貴重な記録だ。
▽『愛知の民俗芸能──聖なる祭り 芸能する心』(92)『愛知の民俗芸能──都市の祭り 芸能する歓び』 (93)
『嵐が丘』(88)で接近した聖と俗のテーマが、奥三河地方に伝わる中世の神事芸能や、都市の祭りのなかにさぐられる。初のビデオ撮り。メキシコに暮らし、山口昌男らの民俗学とも近い場所にいた吉田喜重の活動の一面を知ることができる作品。
端境期は特番ばっかりで、最近はテレビも見るものがほとんどないね。まあ、いつに限らず、ろくなテレビ番組はないんだけど。この四半期のドラマもほとんどはずればかりだった。篠原涼子の「アンフェア」がそこそこおもしろかったぐらいか。といっても、3段落ちで、なんとか視聴者の興味を引っ張ったというだけの、独創性のかけらもないドラマだったけど。2段目ぐらいまではまあいいとして(濱田マリが犯人だというのはバレバレだったが。コートを着て顔も隠し、声まで変えているのを見れば女だとすぐにわかってしまう。あれはダリオ・アルジェントの常套手段)、真犯人の設定には無理がありすぎ。寺島進とか西島秀俊とか、助演ががんばってたので、なんとかもっていたけど。
最近は、こういうふうにくるくる展開が変わる「ノン・ストップ」なストーリーでないと、馬鹿な視聴者はすぐに飽きてしまうらしい。もっとも、どんでん返しばかりやってれば受けるというわけではないことは、チェ・ジウ主演の「輪舞曲」の惨憺たるできを見ればわかる(視聴率もだだ下がりだったらしい。視聴者はそうも馬鹿ではないということ、か)。その意味では、「アンフェア」はまあ健闘していたと言っていい。「24」スタイルものがこれからの主流になるんですかね。
テレビだけならいいんだけど、困ったことに、近頃は映画もこの手のものがふえている。かっこよくいえばポスト・モダンということなんだけど(「アンフェア」の原作のタイトルは『推理小説』。なるほど。「推理小説の終焉」ですか)。観客が物語の定型に気づいちゃって、先を読んじゃうから、とにかくその裏をかくことばかり考えて、それ以外のことには頭が回らなくなってるんじゃないかな。わたしはゴダールやストローブや吉田喜重と同じく、モダンな人間なので・・・。
▽『タービュランス2』
意外とおもしろかったが、これもどんでん返しの連続。
▽ジョニー・トゥ『暗戦・デッドエンド』
犯人と刑事の知的戦いをコミカルに描く。ジョニー・トゥはこれと『ザ・ミッション 非情の掟』ぐらいしか見ていない。そんなたいした監督でもないと思うのだが、気になるのでもう少し態度を保留する。
「フィルム・ノワール ベスト50」で紹介したオフュルスの傑作『魅せられて』のDVDが日本で発売されることになってしまった。
日本で出ているオフュルスのDVDといえば、『たそがれの女心』と『輪舞』ぐらいで、むかし出ていた『歴史は女で作られる』も廃盤になって久しい。なんでもDVDになる時代だから、オフュルスの映画もいずれ日本でDVD化されるだろうとは思っていたが、まずは、『歴史は女で作られる』あたりが再リリースされれ、それから『忘れじの面影』とか『快楽』が出て、そのあとでひょっとしたらこの辺のフィルム・ノワール作品がつづく、という順番が無難なところかと予想していたので、いきなり『魅せられて』とは驚いた。焦って仏版を買うことはなかったじゃないか。まあいい、海外版だと日本版の3分の1ぐらいの値段で手に入るんだから。
ついでにマルセル・オフュルスのDVDも出してほしいね。
日本ではなかなか見ることができないラウール・ルイス作品だが、フランスで DVD-BOX が発売された。収録作品は、『水夫の3クラウン』『盗まれた絵の仮説』『宙に浮いた召命』の三作。いずれもルイスの初期の代表作だが、とくに『盗まれた絵の仮説』は決定的に重要な作品と言っていいかもしれない。わたしが見ていないのは『宙に浮いた召命』だけなので、買うかどうかは迷うところだ(『盗まれた絵の仮説』はビデオを持っているし)。クリムトを描いた新作も公開される気配がないし、この DVD も日本では出そうにないね。
▽青山真治『秋聲旅日記』
以前シネ・ヌーヴォでやったとき見逃していた作品。ビデオ作品だし、なんとなく期待できなかったので、パスしたのだが、やっぱりわざわざ見に行くほどの作品ではなかった。いい意味でマイナーな映画を期待したのだけれど、単にマイナーな映画だった。ケイコ・リーがクレジットされていたので、俳優までやっているのかと思ったが、ジャズを歌うシーンに出演しているだけだった。結局、青山真治は、周りの人間の褒め殺しでだめになってゆくような気がする。
ひさしぶりの日記。猫が病気になったので、あんまり更新できていなかった。ふだんは家の外でおしっこなどはすませて家に帰ってくる猫が、なぜか部屋の隅っこにいっておしっこをしようとする。しかし、うまく出ないのか、苦しそうな声を上げている。もう夜中だったので、何とかなだめて眠らせ、次の日病院に連れて行った。どうやら、尿にばい菌が入り込んでしまい、そのせいで残尿感が残って、おかしなことをするようになってしまったらしい。尿道に石がたまる FUS という病気ではないかと疑っていたので、とりあえず安心した。FUS だと、結石を取り除けばとりあえず治るが、再発する場合が多く、病気とは長いつきあいになると、ネットなどで調べたら書いてあったので、心配していたのだ。わたしの猫の場合は、注射を二本打ってもらい、あとは抗生物質を朝晩飲ませれば、数日で治るとのこと。もうすでに4日目ぐらいになるが、今はふだんと変わらない元気な状態になっている。ただ、猫に薬を飲ませるのは大変だということがわかった。猫の頭をつかんで、無理やり上を向かせて口を開かせ、のどの奥に薬を放り込むのだが、迅速にやらないと猛烈な勢いで暴れるので、下手をするとかまれてしまう。口の中に入れても、ペッと吐き出してしまうことも多い。親の心子知らずといった感じだ。
映画とは関係のない話をしてしまった。
話は変わるが、吉田喜重の上映会が WBC の日本対キューバ戦と重なっていたので、野球中継を見てから吉田喜重の上映会に遅れて駆けつけたことがあった。たまたま知り合いが会場にきていたので、そのことを話すと怪訝な顔をされた。 瞬間視聴率46パーセントと大盛り上がりだった WBC だが、映画狂にはそんなことはまったく興味がないらしい。この世の出来事には関心を持ってはいけないというのが、正しいシネフィルのあり方なのだ・・・。なんという倒錯的存在。
△上に戻る