日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
ある写真の物語
若きフランソワ・トリュフォーが、ジャン・ドラノワ、クロード・オータン=ララ、ルネ・クレマンといった当時のフランスの売れっ子映画監督たちと、彼らの作品を支えていた脚本家たち、とりわけジャン・オーランシュとピエール・ボストらをまとめてこき下ろし、彼らに代表される「良質の」フランス映画が標榜していた「心理的リアリズム」の虚妄を暴き立てて、「フランス映画の墓堀人」とまで呼ばれたことはよく知られている。そして、彼らへのいわば宣戦布告のマニフェストとしてトリュフォーが書いた文章が、あの有名な「フランス映画のある種の傾向」だった。 ところで、この「爆弾論文」(ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ)が発表された「カイエ・デュ・シネマ」誌第 31 号(1954 年 1 月号)の表紙写真には、手にボールのようなものを持っている、いたずら好きそうな少年が写っている。少年の名前はリッチー・アンドルスコ。といっても、名前を聞いてピンと来る人はほとんどいないだろう。ただ一本のアメリカ映画に出演しただけで、映画の世界からはすぐに姿を消してしまった素人子役俳優である。
この無名の子役が主演し、写真家としてはそれなりに名前を知られていたとはいえ、映画監督としてはこれまた無名に近かった新人、モリス・エンゲルが監督したその映画、『小さな逃亡者』こそは、「カイエ」第 31 号の表紙を飾った作品だった。 実は、その前年、53 年のヴェネチア映画祭で、『小さな逃亡者』は銀獅子賞を受賞している。もっとも、この年のヴェネチアは、コンペ出品作品に金獅子賞該当作なしとされた不作の年だった(受賞を逃した作品のなかには、溝口の『雨月物語』も入っていたのだ!)。その代わりに合計6作品が銀獅子賞を与えられ、その中の一本が『小さな逃亡者』だったというわけである。とはいえ、このきわめて低予算で撮られたアメリカ製の完全なインデペンデント映画が国際映画祭で金星をあげたのだから、一定の注目を浴びたのは間違いない。
トリュフォーにとって、そして、「カイエ」という雑誌自体にとってもきわめて重要な意味を持っていたはずであるこの号の表紙を、ほぼ無名に近い映画が飾ったのには、ヴェネチアでこの作品を見ていたく気に入ったアンドレ・バザンの強い意向があったからだという。バザンはヴェネチアでこの映画を見たときの印象を、「今年もっとも独創的なネオリズムの出来事だ」と記している。バザンにとって、この映画はネオリアリズムの系譜に連なる作品だった。一言でいうなら、この映画は、トリュフォーが否定した「良質のフランス映画」の対極ともいえる作品であり、その意味で、まさにこの「カイエ」第 31 号の表紙にはうってつけの作品だったのだ。
(ついでにいうと、アメリカのどこの配給会社も引き受けてくれなかったこの映画の配給を引き受け、ヴェネチアに出品するまでにこぎつけた独立配給業者ジョセフ・バースティンは、『無防備都市』『自転車泥棒』などのイタリアン・ネオリアリズム映画をアメリカに紹介した人物でもある。彼はまた、『小さな逃亡者』と同じ 53 年、同じようにどこの配給業者からも断られたキューブリックの長編第一作『恐怖と欲望』の配給を引き受けたりもしている。『小さな逃亡者』でヴェネチアの銀獅子賞のトロフィーを壇上で受賞したのもバースティンだったのだが、奇しくも、彼はこの賞を受賞した年に飛行機事故でなくなっている。このあたりも掘り下げていくと面白そうだが、話がわき道にそれすぎてもいけないので、このあたりにしておこう。)
「小さな逃亡者」
『小さな逃亡者』は、母親が遠くの親戚のところへ行っているあいだ留守をまかされた二人の幼い兄弟を、なかばドキュメンタリーふうに撮った映画である。どこに行ってもついてくる弟が煩わしくなった兄は、おもちゃの拳銃で撃たれて死んだふりをして、弟をやっかい払いする。兄を殺してしまったと思い込んだ弟は、わずかばかりの金を持ってコニー・アイランドに逃亡し、人混みのなかを一人さまよう。『ミツバチのささやき』を思い出させもする展開ではあるが、この冒頭の擬死のドラマは、主人公の少年をひとりでコニー・アイランドにいかせるためのきっかけにすぎないように思える。少年は、メリーゴーランドの馬に跨り、遊技場の玉あてに熱中し、カウボーイの格好をして写真を撮ってもらう(写真屋を演じているのは、セサミストリートのミスター・フーパー役で知られるウィル・リー)。その姿は、自分が兄を殺してしまったことなどまったく忘れてしまっているかのようだ。少年の演技は大部分が即興で、キャメラはただそれを追っかけているだけのように見える。ジョセフ・バースティンによると、すべては入念なリハーサルをへて撮られたというが、バザンが指摘しているように、アマチュア映画と見なされたくなかったのでそんな主張をしただけかもしれない。 やがてお金が底をつくと、少年はコカコーラの空き瓶を集めて、それを換金することを思いつく。嵐が近づいてきて、急に人気のなくなった砂浜にひとりぽつんといる弟を、兄がようやく発見するところで映画は終わっている。
ネオリアリズムとニューヨーク派
『シネマ』のドゥルーズのいう「純粋に光学的・音響的状況」を描いた映画のモデルといってもいいような作品であり、その意味でも、バザンがこれをネオリアリズムと結びつけて考えたのもうなずける。一方で、この映画は、ちょうど同じ年に俳優として本格的にデビューしたジョン・カサヴェテスが、その数年後に撮りあげる『アメリカの影』を、多くの点で予告している。素人ばかりを使ったキャスティング、ロケーションのみの撮影、即興的演出などなど、共通点は多い。しかし、『アメリカの影』が 16 ミリで撮られたことを考えれば、わざわざ軽量の 35 ミリキャメラをこの映画のために開発したモリス・エンゲルの方が、技術的には先を行っていたとさえいえる(ゴダールは、60 年代の初め、モリス・エンゲルに、このキャメラを買いたいと手紙を送ったそうである)。
モリス・エンゲルは、ポール・ストランドとも親交があり、39 年に彼の紹介で初の写真展を行い、ストランドの有名な左翼的アジプロ映画『Native Land』(42) の助監督をつとめさえしている。KINO からでている『小さな逃亡者』の DVD の特典映像では、リチャード・リーコックや『Salesman』のアルバート・メイズルス、『ドント・ルック・バック』のD・A・ペネベイカーらが、『小さな逃亡者』から受けた影響について語っている。ストランド、リーコック、メイズルス、ペネベイカーといった名前を並べてみれば、モリス・エンゲルがどのような系譜に属する人物かは、自ずと想像がつくだろう。
イタリアのネオリアリズム映画と、ニューヨーク派のインデペンデント映画、フランスのヌーヴェル・ヴァーグをつなぐ映画史的に非常に重要な存在、と、いまならいうことはできる。しかし、バザンらの熱狂的支持にもかかわらず、この作品は、長いあいだ忘却の彼方に置かれることになる。
トリュフォーと『小さな逃亡者』
"Our New Wave would never have come into being if it hadn't been for the young Morris Engel, with his fine Little Fugitive" というトリュフォーの言葉は、すでによく知られている。しかし、『小さな逃亡者』がトリュフォーらに与えた影響は、ごく最近になって注目されはじめたにすぎない。たとえば、山田宏一の『トリュフォー 映画的人生』には、『小さな逃亡者』のことは一言も言及されていない(この本のなかには、『小さな逃亡者』が表紙になっているあの「カイエ」第 31 号の写真さえ掲載されているというのにだ)。映画というのは、こんなにも簡単に視界から消え失せてしまうものなのである。
(『大人は判ってくれない』は、ストーリー的にも、『小さな逃亡者』と重なる部分が少なくない。その意味でも、トリュフォーとこの映画との関係は興味深く思える。ところで、『大人は判ってくれない』は、ジョセフ・バースティン賞最優秀外国映画賞なる賞を取っているのだが、これも何かの巡り合わせか。むろん、このときには、バースティンはすでに死んでいたのだが。)
『小さな逃亡者』は、昨年、フランスでにわかに公開され、ようやく一般の観客の目に触れるところとなった。バザンの発見から、実に 50 年以上がたっている。当時としては斬新だったこの映画の手法も、いまではごくごく当たり前のものとなってしまった。ここに来てようやく、この映画を、映画史的重要さとは無関係に、映画そのものとして評価できるときが来たということもできるだろう。さあ、問題はそこだ。この映画が、映画史的に重要な作品であることはたしかである。しかし、映画として、いまのわれわれをどれだけ刺激するかという点については、わたしには若干疑問が残るのだ。 見ていて心地よい映画ではある。しかし、この映画の画面は、映画監督というよりは、写真家の感性で捉えられているといっていい。木橋を支える柱の影が砂浜につくる縞模様のなかに少年がたたずむショットなどがその典型だ。たしかに美しいショットではある。この感性は、たぶんいまの日本の観客にも受けるだろう。しかし、ひょっとしたら今の観客に一番受けるかもしれないそういう部分が、わたしには、この作品の映画としての弱さにどうしても見えてしまうのだ。こういう画面をすばらしいと思うか、逆に、この映画の弱さと感じるかによって、この作品の評価は変わってくるだろう。
先日、刑事コロンボを見ていたら、アン・バクスターが映画女優の役ででていた。メル・ファラーが共演というのも豪華だが、このテレビシリーズに往年の映画スターが登場するのは珍しくない。今回は彼女が犯人役か、ぐらいに思って見ていると、ある場面で彼女が「イーディス・ヘッドのオフィスで」というセリフを言う。ハリウッド映画のクレジットではおなじみの名前だ。この名前わざとつけたのかなと思ってたら、本物のイーデス・ヘッドが本人役で出てきたので驚いたね。
──そんな話はどうでもよかった。本題に入ろう。
前回、「ルイス・ガルシア・ベルランガと50年代のスペイン映画(1)」を書いたとき最後に、続きは次回と言ってしまった。面倒くさいので、そのままうやむやにしようかとも思ったが、それもまずいと思い、とりあえず続きを書いては見たものの、自分で読んでも面白くなかったのでどんどん削っているうちに、箇条書きのようなものになってしまった。
「サラマンカ国民映画会議」
50 年代になってスペインは、経済的にも文化的にも開放政策をとりはじめる。映画においても、内戦で悪くなったイメージを回復すべく、国際社会にアピールする作品が海外向けにつくられはじめる。その一方で、前回書いたように、国内では検閲による締めつけが行われていた。その結果、国内で上映される作品と、海外向けに作られる作品が、全然違うといったこともおきてくる。あるいは、同じ映画作品が、国内で上映されるときだけ極端にカットされて、まったく別の作品のようになってしまうなどということも少なくなかったようだ。フアン・アントニオ・バルデムやルイス・ガルシア・ベルランガが映画を撮りはじめるのは、スペイン映画がこういう矛盾を抱えていた時代だった。
1953 年、バルデムらの呼びかけのもと、名高い「サラマンカ国民映画会議」が行われる。イタリアのネオリアリズム映画の強い影響のもと、嘘だらけの旧態依然とした映画にかわって、スペインの現実を反映した映画が撮られるべきであるという主張が、参加した多くの知識人や映画人から支持され、会議は大成功に終わる。スペイン映画界に大きな影響を与えた重要な会議であるが、この会議がスペイン映画のかたちを直ちに変えたわけではない。この会議の重要さは、ずっとあとになって振り返ってみたときやっと見えてくるものでしかなく、実際には、その後も旧態依然とした映画があいかわらず作られ続けた。しかし、この会議で確認された、新しいスペイン映画を求める声は、各地に作られたシネクラブなど、様々なかたちでじわじわとスペイン映画を変える力となってゆくだろう。
『Bienvenido, Mr Marshall』(「ようこそ、マーシャルさん」、53)
サラマンカ国民映画会議で主張された新しいスペイン映画の最初の実例とでもいうべき作品のひとつが、バルデムとの共同脚本をルイス・ガルシア・ベルランガが監督した『ようこそ、マーシャルさん』である。 最初、この映画のタイトルを見たとき、"Marshall" というのは、スペイン語で「元帥」とかそんな意味なのかなと思っていたら、そうではなく、実は、マーシャル・プランの「マーシャル」のことだった。この映画は、突然、マーシャル・プランの一行を出迎えることになったカスティーリャ地方の一村の空騒ぎを描いたコメディである。
アメリカ人一行がやって来るという降ってわいたような話に、アメリカのことなど何も知らない村人たちは、たまたま村に来ていた女歌手カルメンのマネージャーの入れ知恵で、アメリカ人好みだというアンダルシアふうに村を急遽改装し、全員アンダルシアの民族衣装を身にまとう。アメリカについての勉強会を開いてにわか仕込みの知識をつめこみ、アメリカ歓迎の歌を作曲し、村をあげてのリハーサルを行うという村人たちの過熱ぶりが、見ていて実におかしい。あからさまな体制批判をした映画では全然ないが、スペイン人気質をちくりちくりと風刺した作品である。しかし、その視線はあくまで暖かい。タッチは全然違うが、この映画にはどこか、ジャック・タチの『のんき大将脱線の巻』を思い出させるところがある。
面白かったのは、アメリカ人たちの到着する前夜に、村人たちが夢を見る場面だ。まず、司祭が、KKKに捕まって尋問されたあげく、反米活動委員会によって死刑の宣告を受ける夢を見る。おなじみの頭巾をかぶったKKKの裁判官が、恐ろしく高い裁判員席からこっちを見下ろしているという、非現実的な空間が、それまでとは全然違う、コミカルでかつ恐ろしい雰囲気を作り上げていた。村長は村長で、西部劇のガンマンとなって酒場で決闘する夢を見る。この場面も先ほどの夢同様、バランスが悪くなるぐらい長い。夢の場面はさらにつづくのだが、長くなるので省略する。
この映画はカンヌ映画祭に出品され、ユーモア賞と脚本賞を受賞し、スペイン映画の再生を世界に鮮やかに示した。スペイン映画史に残る傑作である。実をいうと、わたしはこの映画を、字幕なしのスペイン語で見ただけだ。ストーリーはすぐ調べがついたが、細かいセリフまではまったくわからなかった。しかし、セリフがわからなくても十分楽しめる映画だった(下の DVD には英語字幕がついているようだ)。
『El verdugo』(63)
『ようこそ、マーシャルさん』のちょうど 10 年後にベルランガが撮った作品。
"verdugo" とは「死刑執行人」を意味するスペイン語であり、この映画の主役は、まさにその死刑執行人である。老齢で引退がまぢかに迫っている死刑執行人が、後継者のことで頭を悩ませているところから映画ははじまる。美人の一人娘がつれてくる恋人は、父親の職業を知ると、すぐに去ってゆく。そんなとき彼女は、自分と同じような境遇にある葬儀屋の息子と出会う。死刑執行人の娘と、葬儀屋の息子は恋仲になる。娘の父親は、葬儀屋の息子が死刑執行人の仕事を継ぐことを条件に、ふたりの結婚を認める。娘婿はなかばむりやり死刑執行人の仕事を継ぐことになったが、彼の「初仕事」はなにやかやと先延ばしにされる。しかし、とうとう、死刑を実行しなければならない日がやってくる……。
『El verdugo』は、死刑という重いテーマを黒いユーモアで描いたベルランガの頂点のひとつとされる作品だ。死刑反対のメッセージを込めてつくられた映画は多いが、被害者でも加害者でもなく、死刑執行人を主役に描いたものは意外と珍しい。63 年といえば、もちろんまだフランコの独裁時代であり、この映画の制作中にも政治犯の死刑がおこなわれていたという。脚本を提出しなければ制作に入れない状況で、よくこんな映画が撮れたなと思うが、家族ドラマにカモフラージュされているおかげかもしれない。それでも、公開前には検閲で大幅にカットされ、フランコにもにらまれたようだ。
ちなみに、2008 年にパリのポンビドゥー・センターでおこなわれた『ビクトル・エリセ=アッバス・キアロスタミ往復書簡展』で、参考上映する映画を白紙委任されたビクトル・エリセは、ニコラス・レイの『We Can't Go Home Again』、スタンバーグの『アナタハン』、ストローブ=ユイレの『雲から抵抗へ』、メカスの『ロスト・ロスト・ロスト』などとならんで、ルイス・ガルシア・ベルランガのこの作品を選んでいる。 『ようこそ、マーシャルさん』とこの『死刑執行人』は、スペイン映画のオールタイム・ベスト 10 というのがあれば、ともに選ばれても不思議ではないぐらいの、スペイン映画史に残る傑作であるといっていい。残念ながら、日本ではどちらも未公開であり、おそらくテレビ放送されたこともないのではないかと思われる(まあ、そんなものだ)。
60 年代のスペイン映画
『糧なき土地』(36) 以来はじめてスペインに戻ってきたブニュエルが故国で撮った映画『ビリディアナ』(61) が、スペイン映画としてカンヌに出品され、受賞した直後に、スペインでの上映を禁止されるという、いわゆる「ビリディアナ事件」は、この頃になってもスペイン映画界が深い矛盾を抱えていたことを端的に示している。ちなみに、ブニュエルが長いブランクをへてスペインで『ビリディアナ』を撮るにあたって、製作を助けたのがフアン・アントニオ・バルデムであった。
60年代のスペイン映画を語る上で重要なのは、63 年から 67 年まで映画・演劇総局長を務めたガルシア・エスクデロという人物の存在だ。エスクデロはこの時期、さまざまな点においてスペイン映画の改革に努めた。彼の改革の内容は、彼もかつて参加したサラマンカ国民映画会議で主張されたことと重なる部分が多かったようだ。エスクデロの改革にはいろんな意味で限界もあったが、それでも、彼の改革のもと、60年代に入ってスペイン映画の製作本数は飛躍的に増加し、また、イタリアのネオレアリスモやフランスのヌーヴェル・ヴァーグのようなひとつの運動とは決してならなかったが、カルロス・サウラなど多くの若い世代の映画作家たちが次々と誕生し、「ヌエボ・シネ・エスパニョール」などという名称も生まれた。
ホセ・イスベルト
ところで、『ようこそ、マーシャルさん』の村長役と、『死刑執行人』の引退間近の死刑執行人役は、ホセ・イスベルトという同じ役者によって演じられている。サイレントの頃から 66 年に亡くなるまで、大変な数の作品に出演しているベテランで、スペインではだれもが知っている顔だといっていい(少なくとも、当時はそうだったはずだ)。Allcinema Online で調べると、Jos Isbert という誤った綴りで(正しくは、"José)『ばくだん家族』という映画が一本見つかるだけである(あいかわらず、役に立たないデータベースだ)。これで判断するのもなんだが、日本では、ほとんど無名に近い存在といってもいいだろう。 『ようこそ、マーシャルさん』では、この小太りの俳優が、西部劇のガンマンを無理してクールに演じようとしているのがおかしい。『死刑執行人』でも、イスベルトは、場所もわきまえずに死刑執行の話を喜々としてひんしゅくを買うKYな男をコミカルに演じている。
マルコ・フェレーリとスペイン
『死刑執行人』とほぼ同時代に撮られたマルコ・フェレーリの『El cochecito』(60) という作品でも、イスベルトはエキセントリックな演技でわれわれを笑わせてくれる。この映画でイスベルトが演じるのは、仲間がみんなもっている電動車いすを、足が動かなくなったふりまでして息子夫婦になんとか買ってもらおうが、すげなく反対され、あげくのはてには邪魔な息子を毒殺しようとさえする老人の役である。
フェレーリはイタリアの映画作家だと思われているが(そうなんだけど)、実は、デビューしたのはスペインで、スペインで撮った数本の映画、とくに、この『El cochecito』がベネチアに出品され、世界的に評判となったのをきっかけに、イタリアに凱旋帰国することになったという経緯があるのだ。その後のフェレーリ作品とくらべればまだまだまともだが、この映画を見れば、このころからフェレーリがかなり変な奴だったことがわかる。
ラファエル・アスコナ
『死刑執行人』と『El cochecito』をつなぐ名前がもう一つある。脚本家のラファエル・アスコナだ。彼もまた日本では無名に近い存在だが、だからといって重要でないと考えると恥をかくので、これを機会に名前を覚えておいてほしい。フェレーリとはスペイン時代の『小さなアパート』でも組んでおり、日本でも公開された『最後の晩餐』も彼の脚本である。非常にあくの強い脚本家なので、フェレーリのような個性の強い監督と組んだときのほうが、逆にいい結果を生んだのかもしれない。ベルランガの最高傑作の一つといわれる『Placido』(未見)もアスコナの脚本であり、カルロス・サウラとも何度も組んでいる。
『国民銃』(76)
フランコ政権崩壊後にベルランガが撮ったヒット作。フランコ時代の大臣や、成金のブルジョアなどが集まる狩りを描いて、特権階級の偽善や出世欲を風刺した映画で、『国有財産』(80)、『ナシオナル・第三部』(82) と「ナシオナル」三部作をなす。これもスペイン語、字幕なしで見た。これといったストーリーもない作品で、セリフがわからないとなかなかきつかった。スペイン人にしか分からないほのめかしも多々あるようなので、字幕があっても、日本人にはなかなかわかりづらい作品だったかもしれない。日本でソフト化されることはこの先当分ないだろうし、せめて英語字幕付きで見たいものだ。Criterion から DVD がでることを期待しよう。そのときは、ぜひ『Placido』を入れてほしい。
ルイス・ガルシア・ベルランガは、フアン・アントニオ・バルデムらとともに、50 年代におけるスペイン映画の再生に中心的な役割を果たしたとされている監督である。49 年に共同監督した『Paseo sobre una guerra antigua』がともに処女作というベルランガとバルデムは、文字通り同時期にデビューを飾ったふたりだ。しかし、『恐怖の逢びき』で知られるバルデムや、彼らに約 10 年ほど遅れてデビューしたカルロス・サウラなどとくらべると、ルイス・ガルシア・ベルランガの日本での知名度は驚くほど低い。
ミシェル・ピコリが等身大の人形に恋する男を演じて物議をかもした『等身大の恋人』(74) が、唯一日本で公式公開されたベルランガ作品になるようだが、Allcinema のこの作品のページには解説もコメントもまったくなく、おまけに日本公開年さえ記されていない(ひょっとすると、一般公開ではなかったのかもしれない)。ベルランガの名前は、日本ではすでにまったく忘れられてしまっているというよりも、ほとんどまだ知られていないといった方がいいようだ。
ジョルジュ・ド・ボールガールが製作した『大通り』(56) あたりで頂点を極めた直後に、フランコ政権に投獄され、出していた雑誌も廃刊に追いやられ、作家的には凋落の一途をたどっていったように思えるバルデムにくらべ、ベルランガはその批判精神を衰えさせることなく、ずっと長いスパンで活動を続けたように見える。バルデムの作品は『恐怖の逢びき』しか見ていないので、断言はできないのだが、おそらくは彼よりもずっと才能に恵まれていたといっていいベルランガの作品が、日本ではまともに見られなかったし、いまだに見られないというのは、非常に残念だ。
かくいうわたしも、ベルランガの作品は3本しか見ていない。今日はその3本の作品について紹介したいと思うのだが、その前に、彼やバルデムが登場したころのスペイン映画について復習しておこう。
彼らが登場したころのスペイン映画界はいったいどのような状況だったのか。『スペイン映画史』(乾英一郎著、芳賀書店)という本に、36 年から 74 年までにスペインで上映禁止になった外国映画のリストが載っている。その中のいくつかだけピックアップしてみよう。50 年代には、『見知らぬ乗客』、『オール・ザ・キングス・メン』、『第十七捕虜収容所』、『嘆きのテレーズ』、『スタア誕生』(ジョージ・キューカー)、『夏の嵐』、『非情の時』などが、60 年代には、『アパートの鍵貸します』、『甘い生活』、『ブーベの恋人』、70 年代になっても、『真夜中のカーボーイ』、『誰が為に鐘は鳴る』(サム・ウッド)、『暗殺者のメロディ』、『戦艦ポチョムキン』などといった作品が上映禁止になっている。いま挙げたのはほんの一部であり、実際には、もっと膨大な数の映画が上映禁止になっている。ブニュエルのほぼ全作品がそうであり、ロッセリーニ、ベルイマン、アントニオーニ、あるいは『女は女である』『女と男のいる舗道』のゴダールなど、時代の寵児であった監督たちの作品の多くも公開を禁止された。また、上映されることはされたが、検閲によってひどい改ざんをされた作品も数多い。たとえば、フォードの『モガンボ』で、グレース・ケリー扮する人妻が不倫するのが不道徳であるとして、ケリーと夫との関係をむりやり兄弟という設定に変えたなどという例もあるそうだ。
上映禁止になった外国映画のタイトルをざっと見るだけで、この時代にスペイン国内で映画を撮っていたものたちがどれほどの不自由のなかにいたか、想像がつく。フランコの独裁政権に加えて、スペインはもともと強力なカトリック国だったこともあって、この時期、現体制を批判することが禁止されていたのはもちろん、共産主義や社会主義に関わる表現や、軍隊、教会、聖職者に少しでも敵対するような言辞もすべてカットされたという。その結果、スペイン社会の現実からはほど遠い、たとえば『汚れなき悪戯』のようなごくごく凡庸な作品が、国策にそった「公式の」スペイン映画として国際舞台でスペインを代表することになってゆくのである(ちなみに、『汚れなき悪戯』の監督ラディスラオ・ヴァホダは、スペインに長らく住んでいたが、実はハンガリー人)。
アルモドバル以後のスペイン映画しか見ていないという人のなかには、スペイン映画は検閲とはずっと無縁だったと無邪気に思っている人もいるかもしれない。ここで、上の事実を再確認しておくのも無駄ではないだろう。実際には、76 年に検閲が基本的に廃止され、表現の自由が認められるまでは、スペインはヨーロッパ屈指の検閲国だったのである。
余談だが、検閲の問題と無縁ではないので書いておくと、スペインでは、41 年以後、公開されるすべての外国映画にスペイン語の吹き替えをつけることが義務づけられたという。フランコ独裁政権は、言語においても独裁制を敷き、標準スペイン語(カスティーリャ語)のみを公用語として、カタルーニャ語をはじめとするマイノリティー言語を弾圧したのだが、この吹き替えの義務化もその一環だと思われる。この制度はすでに廃止されているはずだが、その時期がいつなのかは、ちょっと調べたかぎりではわからなかった。ともかく、かなり長い間、スペインでは外国映画をオリジナル音声では見られなかったのはたしかである。独裁制が終わったあとでも、その慣習は残っており、スペインの映画館では、いまでもロードショーされる外国映画の多くが吹き替えで上映されているようだ。DVD でも事情は同じである。スペインで出ている外国映画の DVD を買うと、必ずといっていいほどスペイン語の吹き替えが入っているのだ。
外国映画は字幕で見るのがふつうという日本とは違って(最近はそうでもなくなっているが)、ヨーロッパでは外国映画が吹き替えで上映されるのはふつうであり、とくにイタリアなどでは、映画館で上映される映画の大多数は吹き替えだったと思う。しかし、スペインの場合は、そこにフランコの独裁時代が影を落としているというのは興味深い。
フランコの時代が過去のものとなったいまは、カスティーリャ語(われわれがふつうスペイン語と呼んでいるもの)のほかに、ガリシア語、カタルーニャ語、バスク語がスペインの公用語となっている。スペイン版の外国映画の DVD には、カタルーニャ語の吹き替えや字幕がついているものも少なくない(ガリシア語、バスク語までフォローしている DVD はわたしの記憶する限りない)。しかし、皮肉なことに、いま、このカタルーニャ語がスペイン映画界を揺るがせる問題となっているのである。
カタルーニャでは、カタルーニャ語の使用を拡大するための政策がいろいろ取られてきたようなのだが、最近、カタルーニャの映画館で上映される外国映画(すべてではなく、一定数以上のスクリーンで上映される映画のみ)にはカタルーニャ語の吹き替えをつけなければならないという、カタルーニャ映画法なるものが施行されれ、これが物議を醸しているのだ。カタルーニャ語を顕揚する目的でつくられた法律だとは思うのだが、ただでさえ収益が落ち込んでいるカタルーニャの映画館の半数以上が、この法律はさらに状況を悪くするだけだとして、ストに入ってしまったのだ。これは今年の2月のことで、いま現在どうなっているのかは、ちょっとわからない。
この問題はいま始まったわけではなく、以前、『ハリー・ポッターと賢者の石』の映画版が公開されたときも、スペイン語吹き替え版しか用意していなかったアメリカのワーナー本社に、カタルーニャ語も用意しろという大量の抗議Eメールが送りつけられるという騒ぎがあった(確認していないが、この抗議が功を奏してか、続編以後からは、カタルーニャ語吹き替え版も用意されることになったはずである)。
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ルイス・ガルシア・ベルランガの話をするつもりだったのだが、ずいぶん話がそれてしまった。しかし、これ以上長くなると、みんな読む気がなくなりそうなので、このへんでやめておく。 続きは今度。
ハルーン・ファロッキの『How to Live in the German Federal Republic』 の DVD が出るようだ。DVD になるのは初めてではないだろうか。ドイツではファロッキ作品の5枚組 BOX が出ているが、英語字幕がついている気配はないし、もれている作品も結構多い。どこかから完全版全集 DVD-VOX を出してくれないものか。
さて、この機会にファロッキの作品を一本紹介しておく。2007 年に撮られた『猶予』(Aufschub) という作品だ。
いままさにプラットフォームから発車しようとしている列車から、少女が顔をのぞかせている。どことなく素人くさいこの白黒映像において、列車の乗客の顔を、キャメラがアップで捉えるのはこの瞬間だけだ。これから自分が死ぬ運命にあることを予感しているのだろうか、少女の顔はどこか不安げである。 この映像が撮られたのは、ナチス・ドイツがオランダ北東部のホーフハーレンに置いていたヴェステルボルク通過収容所。少女を乗せた列車は、「最終解決」がおこなわれる別の強制収容所へと向かって、発車してゆくところなのだ。
ヴェステルボルク(ウェステルボルクやウェスターボルクなどとも読む)は、1938 年末に、ナチスを逃れたユダヤ人などの難民を収容する難民キャンプとしてつくられた。1942 年、オランダが占領されると、ウェステルボルクはナチによって、 "transit camp" へと機能転換される。民族虐殺がおこなわれたいわゆる絶滅収容所ではなく、そこへと移送されるものたちが一時的に収容されるキャンプである。収容者たちは、ここから定期的に、ベルゲンベルゼンやアウシュヴィッツへと送られて、そこで殺されたのだ。あのアンネ・フランクが、ベルゲンベルゼンの収容所で 15 歳の生涯を終える直前に収容されていたのも、この収容所だった。
少女を乗せた列車の映像は、非常に有名なものであり、スチール写真をふくめれば、どこかで眼にした人も多いだろう。ゴダールの『映画史』でもこのフィルムは使われている。撮影したのはヴェステルボルクに収容されていたユダヤ人の一人だった。名前はルドルフ・ブレスラウアー (Rudolf Breslauer) 。彼ものちにガス室に送られて、殺されたことがわかっている。少女のイメージは、長いあいだホロコーストの犠牲となったユダヤ人の象徴的イメージとして使われてもきた。しかし、今では、彼女はシンティと呼ばれる(あるいは、自称しているといったほうがいいのか)ドイツ語圏にすむロマ=ジプシーであったことがわかっている。
実は、この映像は、一本の長編映画のなかにまとめ入れられるはずだった。ブレスラウアーは、ヴェステルボルク通過収容所を管理していたナチの司令官の命をうけて、収容所の様子を撮影していたのである。しかし、その映画は完成しなかった。撮影された 90 分ほどの映像は、ほとんど編集されることもなく、撮影場所ごとにかろうじて分類されただけだった。以後、それらの映像は、それが一つの作品にまとめ上げられる予定であったことを忘れられ、断片としてのみ見られていくことになる。
ハルーン・ファロッキの映画『猶予』は、ブレスラウアーが撮影したフィルムに、なんの映像も付け足すことなく再構成したフィルムである。「サイレント映画」という字幕ではじまるこの映画には、ナレーションも一切加えられていない。ファロッキがブレスラウアーの映像に付け加えたものは、映像にコメントを加える字幕(intertitle)のみである。しかし、この字幕がときにものすごい起爆力をもっているのだ。
わずか 40 分ほどのこの作品のなかで、ファロッキは一つひとつの映像を驚くほど詳細に分析していく。移送列車の発車を待つプラットフォームを、荷台に載せられて横切っていく女のカバンに書かれたわずかの文字から、女の名前だけでなく、何月何日にアウシュヴィッツで殺されたことまでが割り出される。さらには、この映像が撮影された日付さえ、そこから特定できるのだ。この日の移送列車の窓ガラス越しにひとりの少年が手を振る。そして、同じ列車の別の窓から、ひとりの男性がこちらに向かって微笑む……。
この収容所に何人がつれてこられ、ここから他の収容所に何人が移送されるかを示していると思われるチャートの真ん中に、工場の煙突から煙が上がっている様子を単純化した絵が描かれている。ヴェステルボルクを表したロゴであろう。ヴェステルボルクは一種の工場として考えられていたことがわかる。実際、ブレスラウアーが撮影した映像の多くは、収容者たちが働く様子をとらえている。当時、ヴェステルボルク収容所は閉鎖の危機にあった。この映画が撮られた目的は、収容所内の労働の様子を通して、この収容所がいかに有益であるかを示し、収容所の存続に役立てることにあったのだ。まずこの事実に驚かされる。これらの映像断片のなかには何度か目にしていたものもあったが、そのような文脈で見たことは一度もなかったからだ。
ヴェステルボルクには農場も存在した。「Our Farm」(われわれの農場)という字幕につづいて、農地を耕す牛の映像が映し出される。その直後に、収容者たちが鋤で農地を耕す映像がつづく。ファロッキはそこに次のような字幕を加えている。「この映像が意味するものはただひとつだ。すなわち、〈われわれはあなた方のために働く動物です〉」一方で、ここには一人の SS の姿も映っておらず、喜々として働く収容者たちは、まるで自分たち自身の農地を耕しているかのようである(ここだけでなく、多くの場面で、SS たちの姿は排除されている)。この場面を見ていると、革命初期のロシアのサイレント映画を思い出しさえする。しかし、ファロッキは、地面に横になって休憩する収容者たちの姿に、ブーヘンハルト強制収容所で地面に横たわるユダヤ人たちの死体のイメージを、字幕を通して、重ね合わせてみせる。
ヴェステルボルクには働く場所だけでなく、病院や、学校や、レクリエーション施設さえ存在した。病院の医者も患者も、収容所の収容者たちだ。どちらも、のちにガス室送りになったと字幕がコメントする。ヴェステルボルクの研究所で白衣を着て研究をする収容者たちの姿に、アウシュヴィッツの人体実験のイメージが、歯医者の姿に、アウシュヴィッツの死体の歯から金を取り出すイメージが、ケーブルをリサイクルする姿に、アウシュヴィッツでユダヤ人の髪や骨が再利用されるイメージが二重写しになる。アウシュヴィッツの映像が、実際にモンタージュされるわけではない。字幕によって喚起されるだけである。
ここの収容者たちは、ときにオーケストラの演奏をおこなったり、舞台で陽気な出し物を演じたりもしていた。こうした映像は、悲惨な場所であるべきはずの収容所について、不適切なイメージを与えかねないとして、あまり使われることがなかったものだ。ファロッキは、ユダヤ人たちが楽しげに笑っているこうした映像も排除することなくあえて見せ、字幕でその笑顔に注意を喚起しさえする。
知識がイメージを見ることを邪魔する(たとえば、移送列車の少女はユダヤ人だという思い込み)。あるいは、イメージ自体が遮蔽幕となって、知ることを邪魔する。よくあることである。しかし、人々は安易にイメージを理解してしまうのだ。この映画にファロッキが付け加えた字幕は、イメージを絵解きするのではなく、イメージを別のイメージへとつなぎ、あるいは、別の知へと開く。どこかで見たことのある〈ショアー〉の映像が、この映画のなかでは、まるで初めて眼にする映像であるかのように現れる。この映画を見るまでわたしが知らなかった情報も多い。教育的な映画である。しかし、それはこの映画が知識を授けてくれるからではなく、イメージを「見ること」と、イメージを「理解する」こととのあいだの距離を理解させてくれるからだ。
「猶予」とは、ヴェステルボルクというこの通過収容所の収容者たちの置かれていた状況を、まずは指し示している言葉だろう。微笑んではいても、収容者たちは死を猶予されている者たちにすぎない。しかし、同時に、「猶予」とは、イメージの置かれた状態を指しているように思える。映像もまた、猶予された状態にあるのだ。1944 年に、アメリカの偵察機がアウシュヴィッツの上空から撮影した写真の意味を、CIA が理解するまで 33 年を要した。『ヒア&ゼア』のゴダールは、パレスチナで撮影したフェダインたちの映像に、数年後、その声を返してやった。この「サイレント映画」のなかの猶予された死者たちの声なき映像も、意味を与えられるのを待っている。しかし、ただ「見る」だけでは、その意味はすり抜けていくことをこの映画は教えてくれる。
『The William Castle Film Collection』
ウィリアム・キャッスルの名前は日本でもそれなりに知られている。しかし、有名なわりには、ビデオにはほとんどなっていないし、DVD も今のところ数枚が出ているだけだ。 別に見るほどの監督ではないではないかといわれれば、たしかにそうかもしれない。本国アメリカの批評家からは、"poor taste" の作品ばかり撮る監督と揶揄され、フランスでは、"petit maître" という褒めているのかバカにしているのかわからない肩書きで呼ばれたりもする監督である。
今だに忘れられずにいるのも、彼の作品が評価されているからというよりは、彼が考え出したさまざまなギミック(仕掛け)のおかげだといってもいいかもしれない。ホラー映画『ティングラー』で、叫びをあげさせたいシーンで客席に微電流をながしたのが、そのギミックの最たる例である。他にも、『Macabre』では、もしもショック死した場合に保険が下りるように、入場客にロイド保険をかけたり、『Mr. Sardonicus』では、登場人物の運命を観客に挙手で決めさせたりするなど、キャッスルは作品を発表するごとに珍アイデアで話題を集めた。 それらのギミックの多くは、当時の映画館で映画を見た観客が、スクリーンの外で体験したことにすぎず、こうやって DVD でいまあらためて彼の作品を見るものにとっては、ほとんどなんの意味ももたない。しかし、逆にいうなら、こういうかたちでキャッスルの作品を見るしかない我々には、彼の作品そのものを正当に評価する機会が与えられているということもできる。ウィリアム・キャッスルを語るときは、いつもギミックの部分ばかりが話題になって、肝心の作品のほうが忘れられてきた感があるからだ。そして、素直に見てみるなら、この DVD-BOX に収められたキャッスルの映画はいずれも、B級映画としてよくできているのである。
ホラーの監督として知られるキャッスルだが、その作品の多くは、実際には、純然たるホラーというよりも、ホラー風味のミステリー映画とでも呼ぶべきものだ。この BOX にはいっている作品でホラーといえるのは、ひょっとしたら『ティングラー』だけかもしれない。ネタバレするといけないのであまりストーリーは語れないのだが、いずれの作品においても、不可思議で、ときには超常的ともいえる出来事がおこり、最後に意外な結末が待っている。その意外な結末は、あっと驚かせる一方で、なんだかがっかりさせるものだったりすることが少なくない。結局、最後にすべて説明がついてしまうのだ。黒沢清いうところの「克服不可能」な恐怖が死の臭いをプンプンさせて迫ってくるといった瞬間は、少なくともこの BOX に入っているキャッスルの映画にはほとんど皆無である。実をいうと、彼の最高傑作という人も多い『地獄へつづく部屋』をわたしはまだ見ていないのだが、『恐怖の映画史』の黒沢清によると、これもやはりホラーではないらしい。
たとえば、『13ゴースト』は、日本のレンタル・ビデオ店ではホラーのコーナーに置かれている。しかし、これもやはりホラーではない。この BOX に入っている他の多くの作品も、たぶん、ビデオ・ショップのホラー・コーナーに置かれることになるだろう。それでも、やはりホラーではないのだ。しかし、それは面白くないという意味では決してない。『13 Frightened Girls!』は少女が主人公のスパイ映画としてなかなか楽しめるし、「歌い骸骨」を若干思い出させる『Zotz!』は、ブラックなテイストのコメディとして魅力的だ。ゴシック・ホラーふうのミステリー『戦慄の殺人屋敷』は、人里離れた館で住人が次々と死んでゆくという、お定まりの物語を描いた映画だが、終末の日に備えて庭に巨大なノアの箱船をつくって動物を集めている男など、ユニークなキャラクターが登場して楽しませてくれる。 キャッスルのホラー映画としてはもっとも有名な『ティングラー』も、ホラーとして見るとがっかりするかもしれない(とにかく、全然怖くないことだけはたしかだ)。恐怖映画というよりも、恐怖をモチーフにしたマッド・サイエンティストもののSFと思って見たほうが楽しめるだろう(科学者を演じているのは、ヴィンセント・プライス!)。それにしても、人が恐怖するとき、体内に謎の生物(ティングラー)が生まれるというとんでもないアイデアは、だれが思いついたのだろうか。50年代には、イドの怪物を描いた『禁じられた惑星』や、核エネルギーの影響で思考が物質化して生まれた見えない怪物があばれまわる『顔のない悪魔』といったSF映画がつくられた。これもそうした一連の作品に連なる映画といえるかもしれない。恐怖によって体内に生み出される怪物ティングラーは、声を出して叫ぶことで殺すことができる。「だから、さあ叫びなさい。叫ぶのです」、と連呼するナレータの声とともに映画は終わっている。
この BOX に収められた6作のなかでわたしがいちばん気に入っているのは、珍しくふざけたところのほとんどないシリアスなミステリー『第三の犯罪』(Homicidal) だ。ジョーン・クロフォードが精神病院から退院してなお自分の狂気におののく女を演じた『血だらけの惨劇』(Strait-Jacket) も、勘のいい人なら先が読めてしまう物語ではあるが、決して悪くない。
『第三の犯罪』は、ブロンドの女がホテルに部屋を取るやいなや、荷物を運んできた若いボーイに、金をやるから自分と結婚してくれと持ちかけるところからはじまる。大丈夫、すぐに離婚してあげるからといわれたボーイは、彼女と結婚することを承諾。二人はそのまますぐに車で地方判事の家に向かい、すでにベッドに入っていた判事をたたき起こして、結婚式を行うのだが、その直後に女は、なんの前触れもなく、判事を刺し殺すのだ……。
出だしのつかみはOKである。そして、この作品にもあっと驚く結末がもうけられている。それが実は、パクリではないかといいたくなるほどある有名な作品に似ているのだが、これ以上は話せない。ふつうに見せても十分に面白い映画であったと思う。しかし、この映画でも、キャッスルはあるギミックを用いている。クライマックスの舞台となる館にキャメラが入っていく直前に、突然物語の進行が止まり、キャッスル自身が次のように語るナレーションの声が聞こえてくるのだ。「いまから一分間の猶予を与えます。これからはじまるクライマックスの恐怖に耐えられそうにない方は、いまのうちに退場してください。お金を払い戻します。」そんなことをしたら、本当に払い戻しを求める客が出てくるのではないかと思う人もいるだろう。キャッスルはそのへんもぬかりなくて、劇場に「臆病者のコーナー」というパネルを掲げた一角をもうけ、客が払い戻しをしてもらうためにはそこに行かなければならないようにしたという。
くだらないことをいろいろ考えつく奴だなあと感心する。しかし、『13ゴースト』ではおまけのように使われていた3Dは、いまや新たなテクノロージーをえて、「3D新時代」といわれる何度目かの流行を迎えつつあるし(流行のままで終わってほしいと、わたしは願っているのだが)、客席に電流を流すというお馬鹿な発想も、映画にあわせて客席が揺れるという D-Box なるものが、すでに日本にも導入され、ちがった形ではあるがパワーアップして帰って来た。まったくいやな流れだ。しかし、時代はウィリアム・キャッスル的なものになりつつあるということか(?)
言い忘れたが、ウィリアム・キャッスルは、監督以外にプロデューサーとしても、『ローズマリーの赤ちゃん』をヒットさせるという功績を残している。実は、オーソン・ウェルズの『上海から来た女』の製作にも関わっているのだが、ウェルズ関係の本の多くで、この事実は無視されているようだ。たとえば、バーバラ・リーミングの『オーソン・ウェルズ偽自伝』では、巻末のフィルモグラフィーに、「ウィリアム・カースル」という名前で登場するだけで、それ以外になんの言及もない("Castle" は「カースル」と読む場合もあるが、「ウィリアム・キャッスル」と表記するのがふつう)。この「ウィリアム・カースル」なる人物が、有名なホラー映画の監督であることに、訳者はたぶん気づいていない。
『上海から来た女』のはるか以前にも、キャッスルはウェルズと関わっている。『市民ケーン』でデビューする前のウェルズが、1938年に、舞台作品の導入用に撮ったサイレント短編映画『Too Much Johnson』を使う予定だった劇場のオーナーが、ウィリアム・キャッスルだったのである(ジョナサン・ローゼンバウムの『Discovering Orson Welles』の註にそのことが言及されている)。もっとも、その短編映画は使われることなく終わった。
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