日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
余裕ないです。
ちゃんと書いてる時間がないので、どうでもいい話題を1つ。
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リチャード・T・へフロン『未来世界』
カルトSF映画『ウエストワールド』のあまり知られていない続編だ。
ユル・ブリンナーという俳優はどの映画に出ていても、どこか浮いている印象を与える。リチャード・ウィルソンのそれなりに興味深い西部劇『ガンファイトへの招待』では、一人だけ真っ黒なスーツを着て西部の街を歩き回る姿がいかにも場違いだった。意図はわかるが、どうも西部劇の世界にはうまく収まっていない。その彼の独特の存在感が珍しくうまくはまったのが、ロボットのガンマンを演じた『ウエストワールド』だった。
この続編『未来世界』にもユル・ブリンナーは妙なかたちで登場するのだが、基本的には脇役に徹している。主役はピーター・フォンダとブライス・ダナー。
『ウエストワールド』で描かれた大惨事を受けて、セキュリティを強化したテーマパークが再オープンする。それが「フューチャー・ワールド」だ。そこの従業員から記者フォンダに、このテーマパークには恐ろしい秘密があるとのたれ込みがある。だが直後に、情報提供者は抹殺されてしまう。そこでフォンダは取材のふりをして「フューチャーワールド」内部に潜入する……。
別にたいした秘密でもないのでネタをばらすと、このテーマパークで秘密裏におこなわれていたのは、コピー人間の製造で、ここは政府要人たちのコピーを作って世界を乗っ取ろうという計画のアジトだったのだ。このコピー人間には、オリジナルの思考までそっくりコピーされている(『ウエストワールド』の時にもましてテクノロジーは進歩しているようだ)。 いつの間にか、潜入したピーター・フォンダと同僚の女性記者ブライス・ダナーのコピーも製造されてしまっていて、二人は自分のコピーと戦うことになる。
面白かったのは、西部劇のセットのなかで、ブライス・ダナーが自分のコピーと対決する場面だ。『ヴェラクルス』のラストシーンよろしく、二人が向かい合う。どちらが先にピストルを抜くかという緊迫した瞬間、コピーのほうが、「バカね、あなたの考えてることは何でもわかるのよ」と言う。しかし、こっちも相手の考えていることはわかってるのだ。次の瞬間、銃声が響くが、どちらが勝ったかはわからない。 フォンダとダナーは「フューチャーワールド」から脱出することに成功する。しかし、その直前まで二人とも自分のコピーと戦っており、逃げ出した二人が本物なのか、コピーのほうなのかわからない……。 と、最後まで気をもませる。
正直、そんなたいした映画でもないとは思うが、アクションの達者なヘフロンがそつなく監督していて、最後まで飽きさせない作品だ。
大阪プラネットで上映するジョン・フォード作品の字幕作りをしているので、ブログを更新している暇がなかった。 とりあえず『最後の歓呼』の字幕は完成。あと1本やらないといけないが、いったん休憩だ。そのあいだにチャチャッと一つ何か書いておく。
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ユーゴ・サンチャゴ『Invasion』(69)
アルゼンチン生まれの監督ユーゴ・サンチャゴが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの脚本をえて撮りあげたファンタスティックな映画。
この二人が協力して撮った作品としては他に『はみだした男』があり、こちらは以前日本でも公開されている。大昔のことなので、もう版権は切れてるだろう。チラシに書いてあったドゥルーズのコメントに惹かれて大阪の劇場に見に行ったことを覚えている(『シネマ』のなかでも、この作品は言及されている)。たしか寺山修司の息のかかった劇団による配給で、劇場での上映前にくさい演出があったのはそのせいだろう。上映後に司馬遼太郎の講演があったと記憶しているのだが、どう考えてもこの映画と司馬遼太郎とは結びつかないので、記憶違いかもしれない。いずれにしろ、記憶に残らない話だったことだけはたしかだ。
『Invasion』は、サンチャゴとボルヘスが初めて組んだ作品である。ボルヘスを慕っていた若き青年サンチャゴが、自分で書き上げたストーリーをボルヘスに見せ、2人で協力して、というか、サンチャゴがボルヘスにお伺いを立てるようにして仕上げていったシナリオを、彼が映画化したものだ。かなり視力は悪くなっていたが、ボルヘスはこの頃まだかろうじて目が見えていた。
クレジットには、脚本にビオイ・カサーレスの名前も出てくる。『モレルの発明』という風変わりな作品で、日本でもかなり有名なアルゼンチンの作家だ。この作品については、他で軽く紹介したこともあるので、ここではふれない。機械・分身・そして映画をテーマにした哲学的幻想小説とだけいっておく。 ボルヘスの親友だったビオイ・カサーレスは、サンチャゴとボルヘスのあいだの橋渡しを自ら買って出て、その意味ではこの映画に大きく貢献したといえるが、DVD に収められたインタヴューを見る限りでは、脚本にはほとんど関わっていないように見える。サンチャゴとボルヘスが脚本に取りかかるとほとんど同時に、カサーレスは旅に出、シナリオが完成したあとで帰って来たというのが、実際のところらしい。
『はみだした男』は難解な幻想譚だったが、『Invasion』は、少なくとも表面的には、ずっとわかりやすい映画に仕上がっている。ただ、わかりやすいとはいっても、そんなに素直な映画ではない。 映画の舞台となるのは、いかにも南米を思わせる架空の都市。冒頭からなにやら不穏な空気が立ちこめている。この街で怪しげな活動をしている組織を映画は描いてゆくのだが、ほとんど何の説明も加えられないので、最初は彼らが何者かわからない。ギャングかなにかなと思っていると、実は、彼らがレジスタンスの闘士たちであることがわかってくる。何者かわからない侵略者たちから、街を取り戻すために彼らは戦っているらしい。寡黙なタッチは、メルヴィルの『影の軍隊』に似ていなくもない。メルヴィルもレジスタンスをギャングのように描いたのだった。この2作はほぼ同時期に撮られているのだが、影響関係はどうなのだろう。互いに無関係に撮られたのだとしたら、それはそれで興味深い。
レジスタンスの実戦部隊のリーダーらしき男(日本以外では有名なレオポルド・トーレ・ニルソンの『天使の家』(未) の俳優、ラウタロ・ムルーア[という発音でいいのか]が演じている)は、自分の妻にも組織のことは隠している。一方、妻の方も、彼に隠れて何かをしているらしい。彼女は体制側のスパイなのか。それもほとんど明らかにされないまま映画は進んでいく。次第にフラストレーションがたまっていくのだが、最後の最後に、なるほどと思わせる結末が待っている。ボルヘス的というよりも、いかにもラテン・アメリカ文学的といった語りの騙りにすっかりだまされる心地よさを味あわせてくれるラストだ。
いかようにも解釈できるメタフォリックな作品ではあるが、渋いアクション映画として見ても十分楽しめる。この際ボルヘスのことは忘れていいかもしれない(レジスタンスのリーダーが敵に捕まって拷問されているところを、掃除婦に助けられるところなど、ほとんどアクション映画のパロディに見える)。
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ボルヘス作品の映画化というと、日本では、ベルトルッチの『暗殺のオペラ』とアレックス・コックスの『デス&コンパス 』が知られているぐらいだ。しかし、実は、そんなに安易に映画化していいのかというぐらい、数多くの作品が映画になっている(「エル・アレフ」まで映画化されているのだ。怖いもの見たさで見たくなる)。ざっと、フィルモグラフィーを眺めてみるだけでも面白い。タルコフスキーの『ストーカー』の俳優アレクサンドル・カイダノフスキーが撮った『Gost』、あるいはイランのサイード・エブラヒミ・ファー(発音これでいい?)の『Movajehe』など、思わぬところにまでボルヘスの影響は波及している。日本では未公開だが、2003年作のエルマンノ・オルミの『Cantando dietro i paraventi』もボルヘスの短編が原作のようだ。 オルミとサンチャゴの作品あたりを目玉に、色とりどりの作品をちりばめて、ボルヘス映画祭というかたちで上映すれば、それなりに盛り上がるのではないか。実は、アルゼンチンのマル・デル・プラータで、最近、そういう映画祭がおこなわれたばかりなのだ。ボルヘスの小説のファンが少なくない日本でも、やれないことはないだろう。 と、アイデアだけは出しておく。
『Invasion』の DVD は Amazon には出回っていなくて、なかなか手に入りにくい。とりあえずここを挙げておく。
ロジャー・コーマン『フランケンシュタイン/禁断の時空』(Frankenstein Unbound, 90, 未)
まじめな映画の話がつづいたので、この辺りでくだらない方向に振り子を戻しておかなければ。そう思って、いい話題を探していたら見つかった。 ロジャー・コーマンの『フランケンシュタイン/禁断の時空』、これだ。 コーマンが71年の『レッド・バロン』以来、20年ぶりに監督した作品であり、このまま行くと遺作になる可能性も高い。1990年に撮られたとは思えないチープな特殊撮影で、フランケンシュタインのファンのあいだでも微妙な評価を得ている映画だが、予算の低さが志の低さを意味しない decent な作品になっている。これぞB級といいたくなるSF・ホラー映画だ。 日本でもずいぶん以前にビデオが発売されているが、置いているレンタル・ショップは1つしか知らない。その店も大昔になくなってしまった。こういう作品も今は簡単に DVD で見ることができる。いい時代になった。
21世紀の科学者が実験の結果生じた時空の裂け目に飲み込まれて、19世紀のスイスへとタイムスリップする。そこで彼は、レマン湖畔の別荘にバイロンやシェリーとともに集まっていたメアリ・ゴドウィン(のちのメアリ・シェリー)と出会い、恋をしてしまう。メアリはまだフランケンシュタインの物語を発表する前だったが、この時代のスイスでは、あのフランケンシュタイン博士が人体実験をおこなって怪物を作り出そうとしていた……。
虚実とり混ぜたでたらめな物語は、てっきりロジャー・コーマンのオリジナルだと思っていたが、実は、ブライアン・オールディスが原作だとあとで知った(『解放されたフランケンシュタイン』)。『A.I.』の原作者である。わたしのようなSFファンには、『地球の長い午後』が忘れがたいSF作家だ。実は、この作品は読んでいない。どこまで忠実に映画化されているのだろう。主人公の科学者役のジョン・ハートが乗っているハイテク・カーも原作に出てくるのだろうか。どう見ても『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のパクリとしか思えないのだが……。
タイムスリップした科学者は、彼から情報を聞き出して怪物の創造に利用しようとするフランケンシュタイン博士を阻止して、怪物を時空の彼方へと送り出す。未来文明の廃墟に、アダムとイヴならぬ、怪物フランケンシュタインとその花嫁が取り残されるというのは、おそらく原作にもあるのだろう。しかし、その怪物の造形を、ジェームズ・ホエールの『フランケンシュタインの花嫁』とそっくりに似せたのは、やはりコーマンのアイデアだろう。
なんかとんでもない展開になってしまったが、これをどうやって終わらせるんだろうと思って見ていると、さすがは低予算の神様ロジャー・コーマンだ。手をポンポンとたたくだけですべてを終わらせてしまった。これを見ていたわたしの知り合いが、思わず「ずるい」とつぶやいたのを覚えている。ずるいほどのB級精神が炸裂するロジャー・コーマンの、あえて傑作といっておく。
ベーラ・タル『倫敦から来た男』
タル・ベーラことベーラ・タルが、ジョルジュ・シムノンの小説を映画化した新作。
夜の波止場。水面をとらえていたキャメラが、港に泊められていた船の船首にそってゆっくりと上昇してゆく。デッキにたどり着くまで約5分。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』や『サタンタンゴ』の流麗なキャメラ・ワークは健在である。 いつものベーラ・タルだ。しかし、『ヴェルクマイスター』や『サタンタンゴ』の大言壮語的なというか、大仕掛けな作風とくらべると、『倫敦から来た男』はずっとシンプルな作品に仕上がっている。無論、それにはシムノンの原作の存在がおおきく関係しているのだろう。
「カイエ」のインタビューを読むと、ベーラ・タルは本気でシムノンの小説を気に入り、映画化したいと思ったようだ。彼がフランスの国民的推理作家の小説を映画化したことに驚きを隠せない「カイエ」のインタビュアーに、ベーラ・タルは逆に驚いてみせるのだが、実をいうと、わたしもベーラ・タルとシムノンというのは全然ピンとこない組み合わせだと思っていた。 実際に作品を見てみて、想像した以上に見事に、暗黒小説的な雰囲気が作り上げられていたので、それには少しびっくりした。とりわけ、主人公のスイッチャーというんだろうか、深夜、線路を切り替える仕事をしている男が仕事場にしている塔のセットがすばらしい。その窓から、港に停泊している船と、その脇を走る線路がパノラマ的に見渡せ、そこで目撃した事件が彼の単調な生活を狂わせることになるのだ。ベーラ・タルは、塔はもちろん、線路までわざわざ敷いてこのセットを作り上げたという。このこだわりは『ポンヌフの恋人』のカラックス以来といえるかもしれない(しかも、途中でプロデューサーが亡くなったために、一度作り上げたこのセットを撤去するハメになっているのだ)。
しかし、それがシムノンの世界かというと、微妙ではある。周知のように、シムノンの探偵小説というのは、トリックや意外な犯人ではなく、味わい深い人間描写にその魅力の大部分があるといっていい。思うに、ベーラ・タルという監督の映画は、ロング・ショットで撮られてるときはいいのだが、キャメラが人物に近づくと、とたんにリアリティをなくしてしまうような気がする。それが、この作品では特に著しく感じられるように思うのだ。ある意味、これほどシムノンの世界から遠い映画作家もいないのではないだろうか。
別に、シムノンが原作だからといって、その世界を再現する必要はない。しかし、正直いって、見ていてこれほどむなしくなる映画は久しぶりだった。これほどのイメージが、これほど空虚なものに費やされているという空しさだ。だが、この空しさは、最終的に2つの死体を残しながら、結局ひとりの犯人も捕まることなく終わる物語、結局は何事もなかったかのようにすべてが元に戻る物語にふさわしい空しさだといえなくもない。そういう意味では、調和のとれた作品ということになるだろう。
(この文章を書いたあとで、11月に公開が決まっていることを知りました。)
お盆休みなのでどうでもいい話題を。
Allcinema Online のいい加減さは前にも書いたが、間違いはいっこうに減る気配がない。 最近見つけた間違いをいくつか挙げておく。
ジャン・ルノワール『The Land Is Mine』→『This Land Is Mine』
『来るべき世界』(THINGS'TO COME) →『Things to Come』
(この手の間違いは無数にあるので、いちいち挙げていたらきりがない。)
『三里塚 若山に鉄塔が出来た』:「若山」というのがありそうでないのが絶妙。
『とどめの一発』原作マルゲリーテ・ユルネカール:三島由紀夫とも縁の深い女性作家なんだけどねぇ。 (「若山」はたぶん漢字を読み間違えたんだと思うが、こちらはどうやったらこんなふうに間違えることができるのか、担当者に聞いてみたくなる。綴りを読み間違えたにしては凄まじすぎるぞ。)
『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』:撮影スヴェン・ニクヴィストとあるが、IMDb では撮影監督は Jost Vacano となっている。『ドイツ・ニューシネマを読む』でも、この映画の撮影は、ヨースト・ヴァカノとディートリッヒ・ローマンが担当したことになっており、ディートリッヒ・ローマンは途中で離脱したとある。ニクヴィストの名前はどこにも出てこない。ネットでざっと調べてみたが、この映画にニクヴィストが関わった様子はなさそうだった。たとえあったとしても、「ニクヴィストもいい仕事をしている」と書かれるほど中心的な役割を果たしたとは思えない。Criterion から出ているこの映画の DVD のインタビューでも、ヨースト・ヴァカノは自分ひとりで撮ったかのように語っていて、ニクヴィストの名前は一言も出てこない。
(『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』は、フォルカー・シュレンドルフとマルガレーテ・フォン・トロッタが夫婦で撮った映画で、犯罪者と一夜をともにした堅物の女が、警察権力とマスコミによって、いわれなき迫害を受けていく姿を描いている。シュレーンドルフとトロッタが組んだところでたいした映画になるはずもない。しかし、ドイツで大ヒットしただけあって、それなりに楽しめる作品にはなっている。当時の西ドイツの左翼テロ・アレルギーを背景に、マスコミによる言葉の暴力が描かれてゆくのだが、その描き方はそれこそテレビ的でわかりやすく、ストローブ=ユイレの『妥協せざる人々』と同じ原作者の作品とはとても思えない。むしろ、そのあからさまな表向きのテーマの部分よりも、ヒロインを政治とは無縁のところで突き動かしていく妄執のほうに、わたしは興味を引かれた。余談だが、Criterion の DVD にはハインリッヒ・ベルのインタビューが収録されている。これがなかなか面白い。)
「若山」や「マルゲリーテ・ユルネカール」なら、ごく普通の一般教養や映画の知識がある人ならすぐに間違いに気づくだろうが、この場合は、わたしのように用心深い人間でなければ、ニクヴィストの名前を聞いてすぐわかる映画通でも、すぐに信じてしまうだろう。
それにしても、このサイトは、どういう情報ソースを元にデータベースを構築しているのか。わたしがざっと見ただけでも、これだけの間違いがすぐ見つかるのだから、他にどれだけあるか計り知れない。内部からの自浄作用だけではどうにもならないだろう。サイトを訪れた人たちから、データベースの誤謬についての情報を広く募集するというやり方でもとらなければ、つまらない間違いはいっこうに減らないに違いない。もうちょっと何とかならないものか。しかし、前にも書いたが、このサイトはあまりそういうことは歓迎していないような気もするのだ。
ボツにしようと思った記事だが、他に書くこともないのでアップしておく。
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『脅迫者』の DVD が出た。 監督名はブリテイン・ウィンダストとなっているが、これがウォルシュ作品であることはだれもが知っている。これもむかしパリの映画館で見た。ふつうにウォルシュ作品として公開していた。さすがシネフィルの街だ。
有名監督がノンクレジットで関わっている作品は他にもたくさんある。うさん臭いものも多い。『脅迫者』の場合は、ほとんどウォルシュ作品と言い切っていいと思うが、同じくウォルシュがノンクレジットで監督したといわれている『サン・アントニオ』などはどうなのだろう。ウォルシュはどの程度関わったのか。日本でも DVD が発売されているが、まだ見ていないので、判断は保留にしておく。
そういえば思い出したが、最近、アーチー・メイヨの『Moontide』という映画を見た。フリッツ・ラングが関わったとされている作品だ。ラングが最初に撮影を始めたものの、途中でアーチー・メイヨに交代させられたといわれている。 フリッツ・ラング関係の文献はかなり読んでいるつもりだが、この映画のことは聞いたことがない。ホントかよと思いつつ、念のために見てみた。正直いって、ラングらしさはほとんど感じられない作品だった。少なくとも、『マン・ハント』と『死刑執行人もまた死す』のあいだに、ラングがこれを撮ったとは、にわかには信じがたい。 ジャン・ギャバンをハリウッドに招いて撮られたフィルム・ノワールで、主人公のギャバンがときおり発作に襲われて暴力的になるという設定が、ギャバン主演の『獣人』と、ラングによるそのリメイク『人間の欲望』と似ている点が、唯一、ラングの作品を連想させる部分だろうか。 とはいえ、興味深い点はいろいろある。夢のシーンをダリが担当したものの、結局カットされたという逸話もその一つだ。わたしはそんなに面白いとは思わなかったが、高く評価する人もいるので、見ても損はしないだろう。
■ピーター・ローレ『Der verlerone』(51)
以前、このブログで名前だけ出したことがあったが、内容にはふれなかった。この先、適当なタイミングがくるとも思えないので、この辺で紹介しておく。
ピーター・ローレ唯一の監督作品である。ローレはナチを逃れて渡米し、ハリウッドで俳優としてそれなりの地位を築いた後に、ドイツに帰ってこの作品を撮るのだが、ほとんど理解されず、失意のなか、俳優業に戻ってゆく。その約10年後に死ぬまで、この作品のことを口にすることはほとんどなかったという。
この映画でローレは、自ら主役を演じてもいる。彼が演じるのは、戦後のドイツで、避難民や元捕虜たちを治療する診療所につとめる医師ロートだ。そこに彼の助手としてノヴァクという男がやってくるところから、物語は始まる。 ノヴァクは元ナチの党員であり、今は偽名を使って、不安におびえながら生き延びている。実は、彼は、戦時中に、ロートがつとめていた生物研究所で、ロートの助手をしていた男だった。ロートも実は本名ではなく、彼もまた、戦後、身を潜めて生きていたことが判明する。 ロートとノヴァクは、その夜、だれもいなくなった酒場で、二人きりで会う。映画は、二人の会話に挿入される過去の回想シーンを中心に進んでゆく。
ロートは研究一筋の男だったが、彼の研究は、彼の知らないところで、ナチのスパイ活動に役立つものとして、党から注目されていた。さらに、そこに事件が起きて、ロートはますますナチと深い関わりを持つことになる。実は、彼の婚約者が、彼の研究のデータを連合国側に渡していたことが判明したのだ。その事実を突き止めたのはノヴァクで、彼はロートの婚約者に近づき、肉体関係を持って油断させ、秘密をそれとなく聞き出したのだった。 その日、家に帰ったロートは、婚約者を問い詰めて告白させ、そして激情に駆られて彼女を絞め殺してしまう。そこにやってきたノヴァクとナチの大佐が、てきぱきと事を運び、彼女の死は自殺として処理される。だが、この事件をきっかけに、ロートは、売春婦や尻軽な女たちに対する自分の内なる殺人衝動を抑えられなくなる……。
ピーター・ローレは『M』で自分が演じた役をまたしても繰り返しているという言い方も出来るだろう。しかし、この映画でのローレは、不格好に逃げ惑うことも、大声で泣き叫ぶこともない。終始抑えた演技で、圧倒的な存在感を見せる。 ナチス・ドイツを描くときのクリシェも極力避けられている。ナチの将校は軍服を着ていないし、鉤十字の印を眼にすることもない。だれひとり「ハイル・ヒトラー」の敬礼をすることもない。空爆で崩れ去った建物が映し出されるのも、ただ一度きりだ。 台詞は必要最小限に抑えられ、観客は、いわば台詞の行間を読むことを求められる。注意深く見ていなければ、人物同士の関係もわからないし、なにが起こっているのかさえ見逃してしまいかねない。回想シーンの最後のほうで、ノヴァクを殺してすべてを終わらせることに決めたロートが、とある建物に忍び込む場面がある。そこで彼は、何かの陰謀らしきものが企てられている場面を目撃するのだが、それがどうやらヒトラー暗殺の計画だったらしいことをわたしが知ったのは、何度か見直したあとだった。
ここに描かれているのは、一言でいうなら、戦後のドイツに立ちこめていた罪の意識であると、とりあえずいうことが出来るだろう。このようなテーマは、この映画が撮られた戦後間もないドイツでは、いまだにタブーだったはずだ。この映画がだれからも理解されなかったのも無理はない。
戦前のドイツ映画を論じた書物『悪魔のスクリーン』の最後の部分で、ロッテ・H・アイスナーは、この作品をとりあげ、戦前の偉大なるドイツ映画の輝きを感じさせる例外的な戦後作品として高く評価している。しかし、この映画は結局黙殺されてしまった。「ドイツ映画は、ピーター・ローレとともに、そして、ドイツで映画を撮ることをやめてしまったフリッツ・ラングとともに、再生するチャンスを失ってしまった」。アイスナーがこう書いたのは、1965年のことだった。ニュー・ジャーマン・シネマの作家たちが台頭するのは、この数年後だ。若い映画作家たちの登場を見たアイスナーは、ドイツの映画が再び花咲こうとしていると、ラング宛てに手紙を書く。しかし、死期が迫っていたラングから帰ってきた手紙には、「残念ながら、それは信じられない」と書かれていたという。
この映画のアメリカでのタイトルは『The Lost One』(「失われた男」ぐらいの意味)で、これはローレの伝記のタイトルにもなっている。 ドイツ語版字幕なしの DVD なら Amazon.de で簡単に手には入る。残念ながら、Amazon.com でも Amazon.fr でも扱っていない。英語字幕版の DVD を購入できるページがあったのだが、ブックマークし忘れたので、見つからなくなってしまった。そんなに需要があるとも思えないので、探すのも面倒だ。気になる人は、自分で見つけていただくとありがたい。
■ ロバート・シオドマク『Nachts, wenn der Teufel Kam』 (57)
ピーター・ローレの6年後に、アメリカからドイツに帰って来たシオドマクが、これもおそらくは『M』を強く意識しながら撮ったであろうと思われる作品。
第二次大戦中のドイツで、若い女ばかりを狙った連続殺人事件が起きる。地元の警察が捜査を進めるが、犯人はいっこうに見つからない。そこにSSが介入してくる。連続殺人犯の捜査にナチが協力するという構図が、すばらしくアイロニカルだ。捜査を担当する警部は、その言動から、どうやら反ナチらしく、党に属していないことをナチの将校に詰問されて、言葉に詰まる。そのナチの将校を演じているのは、この数年後に撮られたロッセリーニの『ロベレ将軍』でも、ロベレを利用してレジスタンスの情報を引き出そうとするナチの将校を演じることになる Hannes Messemerだ。 『M』や『Der verlorene』と同様に、この映画でも、シリアル・キラーは、いわば社会の犠牲者として描かれている。ただ、この映画の連続殺人犯は、ピーター・ローレのような強烈な個性が演じていないというせいもあるのだろうが、どこか印象が薄く、脇役にとどまったままだ。 警察はようやく犯人を突き止めるが、ナチはその事実を知りながら、別の男を犯人として処刑する。アーリア人の党員が連続殺人犯であるなどということはあってはならないのだ。この処置に逆らおうとした警部が前戦に送られるところで映画は終わっている。
シオドマク晩年の傑作の一つだと思うが、『Der verlerone』にくらべると、尋問シーンなどナチスものの映画の紋切り型も多く、従来のハリウッド映画に近い作品ではある。
Abderrahmane Sissako『Bamako』
フランス映画『De la guerre』に続いて、アフリカ映画『Bamako』を紹介する。2006年の作品なので少し古いが、いまだに未公開だ(公開される可能性は低いだろう)。アフリカ映画祭などのかたちでは上映されたことがあるようである。今後も、そういうかたちでの上映ならあるかもしれない。
タイトルの「バマコ」は、アフリカのマリ共和国の首都の名前だ。マリ共和国がどのような国なのかについては、わたしは百科辞典的な知識しか持ちあわせていない。それをここで書いても仕方がないので、興味がある人は Wikipedia でも見ていただきたい。 映画的には、マリはスレイマン・シセの出身国として知られる。ウスマン・センベーヌのセネガル、イドリッサ・ウエドラオゴのブルキナ・ファソはマリ共和国の隣接国であり、かつてフランス領スーダンと呼ばれたマリ同様、フランスの植民地だった国々だ。アフリカ映画の先進的な部分の多くが旧フランス領からの独立国から生まれているというのは、皮肉な話ではある。ちなみに、これらの国はいずれもフランス語を公用語としている。ついでだが、スレイマン・シセもウスマン・センベーヌも、奨学生としてモスクワの映画学校に留学した経験をもつ。いずれもモスクワというのは単なる偶然なのだろうか。調査の必要があるかもしれない。
映画『Bamako』には主人公と呼べるような人物は出てこない。宣伝写真には、涙を流している黒人女歌手の姿が映っているので、彼女が主人公かと思ってしまうが、映画の内容はこの写真から連想されるようなメロドラマではまったくない。
彼女が住んでいる家は、複数の家族が住むいくつかの家が隣接している、日本でいうところの長屋タイプの家屋だ。その裏が共通の中庭になっていて、そこでなにやら裁判らしきものが行われているらしい。この映画は、その裁判の場面を中心に進んでいく。 裁判といっても、鶏が盗まれただの、だれそれが村の禁忌を犯しただのといった裁判ではない。争っているのは、マリの市民たちと、彼らが自国の貧困の原因であると考える世界銀行と IMF となのだ。非常に知的な会話がやりとりされるので、英語字幕で内容を正確に追っていくのはなかなか難しい。だが、なにが問題となっているのかは、明らかだろう。西欧諸国は、この国に多額の資金援助をしているではないかと主張するのだが、この国(あるいはアフリカ)は、その貧しさではなく、西洋諸国によって生み出されたまさにその豊かさの犠牲者であるのだ。
映画はこの裁判の模様をドキュメンタリータッチで追っていく一方で、一見裁判とは無関係に法廷の外で流れていく日常の描写を時折挿入してみせる。屋外スピーカーから流れてくる裁判のやりとりを聞くともなく聞いているものもいるが、多くは、そんな裁判などどこ吹く風といった様子だ。この無関心は半分が無知が生み出したものだろう。あの女歌手も、法廷に突然現れて誰かを大声で呼び、背中のジッパーをあげてもらって去ってゆくだけで、裁判にはさして関心を持っているようには見えない。むしろ息子の病気のほうが気がかりだ。 そして静かに死んでゆく人たち。法廷をテレビ取材しているカメラマンがつぶやく。「こんな裁判を撮るよりも、死人を撮ったほうが絵になる」。
アフリカ映画はそれほど見ているわけではないので、大きなことはいえないが、初めて見るタイプの作品だった。この大陸にも新たな才能が台頭しつつあることを予感させる映画である。センベーヌやシセの映画などよりも、ジャン・ルーシュの諸作品などにより近いという印象を持った。
映画で描かれる裁判は、無論、フィクションの裁判なのだが、その裁判を演じている人物たちの多くはおそらく本物のマリの市民たちである。ここでのフィクションと現実の関係は、『気違い首長』などのルーシュの民族映画における「演技」の問題を思い出させる。
フィクションといえば、この映画には、マリの家族がテレビで見る西部劇が、映画-内-映画の形で挿入される。このミニ・ウエスタンが語る物語には様々なメタファーが込められていると思うのだが、そもそも "western" という言葉自体、「西洋」を意味する言葉であることを忘れてはならないだろう。
この西部劇には、『リーサル・ウェポン』のダニー・グローヴァーがカウボーイの役で出演していて、おやっと思わせる(彼はこの映画のプロデューサーでもあるのだ)。もう一人見覚えのあるカウボーイがいるので、だれだったかなと思ってよく見ると、なんとあのエリア・スレイマンだった。こういうことがあるから映画はおもしろい。監督とは友人だそうだ(ちなみに、この映画が出品された年のカンヌで、エリア・スレイマンは審査員だった)。
下写真はアメリカ版。
フランス版 もある(レヴューが多いのでこのページにリンクしておいたが、もう少し安い版も出ている)。
3作ほどまとめて書くつもりだったが、「短い覚書」としたわりには長くなってしまったので、いくつかに分けてアップすることにした。まずはフランス映画『De la guerre』から。
■ベルトラン・ボネロ『De la guerre』
変な映画である。
マチュー・アマルリック演じる映画監督、ベルトラン(監督と同じ名前だ)は、次回作(これもボネロが実際に撮った映画と同じ題だったりする)の準備のためにパリにある葬儀屋を訪れ、そこで一夜を過ごす。なにを思ったか、ベルトランは置かれてあった棺桶のなかに横たわる。すると、ふたが閉まり出られなくなってしまう。この擬死の体験がすべての始まりだ。この体験でなにかを悟った彼を待ち受けていたかのように、見知らぬ男シャルル(ギヨーム・ドパルデュー)が彼の前に現れ、現代では快楽をうることは戦争なのだと説き、ベルトランを森の中にある別荘へと連れて行く。
そこは「王国」と呼ばれていて、彼のようなものたちが多数集められ、社会から隔絶されて共同生活をしている。カルト集団、自己啓発セミナーといったものを思わせるこの怪しげな集団の中心にいるのが、アーシア・アルジェント演じる謎の女ウマだ。どうやらここでは、生の快楽あるいは意味をうるために、戦争の理論を適用して訓練が行われれているらしく、映画の章立てもそのようになっている。ウマがクラウゼヴィッツの『戦争論』(この映画のタイトル "De la guerre" は、この本の仏題である)を手にしているショットもあったりするのだが、クラウゼヴィッツはとりあえず直接には関係ないと言っていいだろう。実際、この奇妙な共同体のメンバーたちは、音楽を聴きながら寝そべって瞑想したり、森のなかでトランス状態で踊ったりといった、戦争とはかけ離れたヒッピーのような生活をしているだけにしか見えない(森の中のユートピア的な生活をとらえた美しい描写は、パスカル・フェランの『レディ・チャタレー』とこの作品を結びつける)。
主人公ベルトランが、ためらいながらも、次第にその共同生活のなかへと引き込まれてゆく様子を、ボネロは、特にドラマ化することなく描いてゆく。
この奇妙な集団生活者たちは、自らの原始的欲望を解き放ち、ときには獣の仮面をかぶって森を走ったりする。人間は、都会ではふだん、頭と体を分離させて生きているが、ここではこの二つが一体となる体験が得られるのだ。そして、それこそはまさに、戦争のなかで起きることではないか…
やがて彼らの生活も武器を持った実践モードへと突入していくのだが、誰とあるいは何と戦うためなのかは、相変わらずよくわからない。ベルトランは妄想のなかで自分を『地獄の黙示録』のウィラード大佐と重ね合わせてゆくようで、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐の有名な台詞、「カミソリの上をカタツムリが…」をつぶやいてみせたりもする(あるいは、『地獄の黙示録』サウンド・トラックがそのまま引用されるのだったかもしれない)。この映画のなかにもカーツ大佐を思わせる人物が登場するのだが、たぷたぷの腹を見せてベッドに横たわっていたその男がむくっと起き上がると、それが老ミシェル・ピコリだったりするのだ。
クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長である」といった。この映画がクラウゼヴィッツと関係があるとするなら、おそらくこの一点だけだろう。この映画に政治的なニュアンスが込められていることは間違いない。具体的にいうと、68年に対する現代からの返答ということだと思うのだが、字幕なしで見たこともあって、正直、よくわからない映画だった。 しかし、フランス語の "déroutant" という言葉がまさにふさわしい、人を戸惑わせるような作風はたしかに魅力的ではある。都会と自然、官能と理論、 いろんな要素が混ざり合っている。『地獄の黙示録』だけでなく、クローネンバーグの『イグジステンズ』の引用も、「内的旅」、「現実/フィクション」、そして「映画」といったテーマで本作と結びつけて解釈できる。そして冒頭でいきなり引用されるボブ・ディランも、無論、偶然使われたわけではないだろう。ただ、それらの雑多な要素が強度を増幅させるというよりは、相殺しあって、作品を小さく見せてしまっているという印象は残った。
音楽というか、音の使い方がうまく、オリジナル・ミュージックに監督の名前がクレジットされているので、調べてみると、どうやらボネロはクラシック音楽が出身のようである。なるほど。
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