日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
■12月25日
アフガンでは、一個落ちれば確実に何十人、何百人が死ぬ爆弾が投下され続けていたというのに、やれ化粧品にも牛のエキスが使われているから危ないなどと大騒ぎしている日本はやはり平和なんだな。もちろん、狂牛病の問題は政府にきちんと責任を取ってもらって、今後の対策も万全を期してほしいものだが、じゃあ国民には何の責任もなかったかというと、そうでもないのではないか。数年前、イギリスで狂牛病騒ぎが起こったとき、大部分の日本人はそれを対岸の火事と見ていたのではなかったか。あのときもっと国民のひとりひとりが深刻に事態を受け止めていたらば、今の状況はあるいは避けられていたかもしれないのではなかろうか。
同時多発テロに続くアフガン空爆というこの歴史的な事件についても、最初のショックが去った今では、多くの日本人がやはり対岸の火事を眺めるようにそれを見ているように思える。火の粉がこちらに降りかかってくるまでは、とりあえず関係ないというわけだ。これが「島国根性」というやつなのだろうか。
ニカラグアの泥沼の内線を描いたケン・ローチ作品、『カルラの歌』をテレビで見る。ケン・ローチはあいかわらずポリティカリー・コレクトな映画を撮ってるな。頭が下がる思いだが、どうもいまひとつ乗りきれない作品が多いのはなぜか。
■12月20日
マルセル・カルネ『愛人ジュリエット』をみる。 ジェラール・フィリップ演じるミシェルが、牢獄で見る夢のなかで恋人ジュリエットと再会する。けれども、そこは記憶を失った人たちが住む忘却の街で、ジュリエットもミシェルのことを忘れてしまっている。ミシェルは必死でジュリエットの記憶を呼びさまそうとするが・・・というお話。ちょっとプラトンの本に出てくる寓話を思わせる物語だが、そこに青ひげ伝説がミックスされている。ミシェルが夢から覚めると、ジュリエットはかれを捨てて別の男と結婚しようとしていた。その男というのが、夢のなかの青ひげだったというオチ。最後、ミシェルは絶望してふたたび夢の世界へ入ってゆく(つまりは自殺する)。たいした映画でもないが、その忘却の街では、占い師は未来ではなく過去を占うことになっているというアイデアは悪くなかった。トとボニ』、『現金に体を張れ』など。感想を書く暇がないのでまたあとで。
■12月19日
盗撮で捕まったことのあるタレントが、今度はのぞきでふたたび逮捕された事件が、巷をにぎわしている。情けない事件だが、ワイドショーがとやかく言えることでもないだろう。のぞき見趣味で成り立っているのがワイドショーなのだから。あのサッチー騒動も国民ののぞき見趣味によるものに他ならない。それを、野村沙知代の繰り上げ当選がどうのこうのと正当化しようとするマスコミは不愉快そのものだった。今度の脱税容疑による野村沙知代逮捕で、かれらは自分たちの報道は正しかったのだと胸を張っているのかもしれないが、それであの過剰な個人攻撃が正当化されるものではないだろう。あれは野村沙知代だから良かっただけで、普通の人ならあれだけ言われたならば自殺してますよ。もしそうなったら、マスコミの連中はどう言い訳するつもりだったのか。
■12月18日
『黒衣の花嫁』のジャンヌ・モローは、むしろ純白のドレスを着て現れる。彼女がはじめて喪服を着るのは、警察に捕まることを覚悟しつつシャルル・デネールの葬儀にのぞむときだ。そして最後の殺しをやり遂げたところで、高らかに結婚行進曲が流れる。ところで、彼女はなぜいつも片方しか手袋をしていないのか?
■9月18日
このホームページは作って間もなく、まだほとんど見に来る人もいないと思われるので、ほとんど更新していなかったのだけれど(もう少しまともなものにしてから、大々的に宣伝するつもり)、最近たまに、アクセスカウンターが 増えていることがあるので、不気味だ。もっとも、多い日でも、せいぜい5人ぐらいなんだけれど。5人と書いたけれども、本当に人間が見に来ているのだろうか。それとも、検索ロボットが巡回しているだけなのか。よくわからないけれども、とりあえず、何か書いて更新しておいた方がいいかもしれない。
さて、今日は、ティム・バートンの『猿の惑星』の感想でも書いておこう。ティム・バートンは、最近のアメリカの監督の中では、数少ない好きな監督のひとりではあるのだが、どうも今回の作品だけは足が鈍ってしまって、ずっと見に行くのをのばしのばしにしていたのを、「いや、やっぱり劇場で見ておくべきだろう」、と、自分をなかば説得するようにして見に行ってきたのだった。残念ながら、小さいとき、テレビで「猿の惑星」シリーズを見たものとしては、やはり、あのドラマの強烈な思い出にはティム・バートンをもってしても勝てなかった、という気がした。それを抜きにしても、『スリーピー・ホロウ』の完成度にくらべれば、今作はずいぶん弛緩しているという印象は否めない。オープニングで宇宙船が不時着する森のシーンはなかなかよかったので、あの森を中心にドラマが進めばもっとよかったと思うのだが、映画はどんどん荒野のほうへ向かっていってしまったのが残念だ。まあ、いずれにせよ、あまり語ることのの見つからない映画だな。
聞くところによると、バートンはこの映画を嫌々撮ったらしい。しかも撮っているあいだ20世紀フォックスがうるさく注文をつけてきて、もうあそこでは二度と撮らないと言っているそうだ。ティム・バートンはメジャー映画の中で異色な映画を撮り続けてきた貴重な存在だと思うが、かれもまたメジャーの大きな流れの中に取り込まれてしまうのだろうかという危惧を今度の『猿の惑星』では抱いてしまった。ティム・バートンよ、ハリウッドに負けるな!
■8月17日
ピーター・イエーツの映画で面白いと思ったものは今までなかったが、先日、BSで『ドレッサー』を見て、初めて、なかなかやるじゃんと思った。もっとも、イエーツの演出力というよりも、主演のアルバート・フィニーの怪演に負うところが多いのではないかという気がする。この映画は、あるシェイクスピア劇団の座長の付き人(ドレッサー)の視点から、「聖なる怪物」の姿をありのままに描いた映画だ。ナチスによる空襲が続くロンドン、フィニー演じる座長は、相次ぐ公演で疲労困憊し、神経衰弱ぎりぎりの状態にある。あと数時間で『リア王』の開演だというのに、フィニーはこれからやる芝居がなんであるかもわからない様子で、気がつけば『マクベス』用のメイクをしている有様。しまいには、直前になって芝居に出るのをやめると言い出し、始末に負えないこの男を、なだめすかして芝居に出させるのが、「ドレッサー」の役目なのである。トム・コートネイ演じる「おかま」っぽい「ドレッサー」と、傲慢で傍若無人な座長との、掛け合いの演技が素晴らしく、全体の大部分を『リア王』の一夜の公演が占めているのだが、見ていて全然飽きさせない。そして、その中にも、『イヴの総て』のモンローのように、セックスを使ってのし上がろうとする、駆け出しの女優と、そのなれの果てのような女舞台監督の姿が、さりげなく描かれていたりして、深みを出しているのも、悪くない。ちょっと、ほめすぎたかもしれない。この辺でやめておこう。
■8月10日
テレビでアンドレ・テシネの『夜の子供たち』を見る。原題は「泥棒たち」。邦題の意味は不明である。ひとりの男が交通事故で死ぬ。その通夜のために、山深い村へ、彼の弟が帰ってくるところから映画は始まる。死んだ男の息子のナレーションによって映画は回想形式で進行してゆく。そして徐々に真相が明らかになってゆく。兄弟の軋轢。どうやらやばい仕事をしているらしい兄と、彼を捕まえるのが夢だという刑事の弟。そこにひとりの謎めいた不良娘が現れる。彼女は、死んだ男のもとで何かの犯罪に関わっていたらしい・・・。息子のナレーションで始まった物語は、弟の刑事のナレーション、謎の女のナレーション、彼女が崇拝する女哲学教授のナレーション、というふうに、複数の声によって語り継がれ、語り直される。回想形式というのはこの映画の場合正しくない。男の死を起点に映画の語りは過去と同時に、未来へも自由に行き来するからだ。そして、この両方向へのフラッシュバックとでも言うべき手法は、明らかになってゆく事件の真相よりも、むしろ捉えがたいものになってゆく人物相互の関係を際だたせることに役立っているようだ。アンドレ・テシネというのは、どうも好きになれない監督ではあるのだが、この作品を見れば、彼が、特にその語りの手法において、すぐれた演出力を持っていることがわかる。
■8月9日
昨日テレビで、ドラノワの『ノートルダムのせむし男』を見る。たいした映画でもないのでいい加減に見ていたのだが、後でクレジットを見るとボリス・ヴィアンが枢機卿の役で出ていたらしい。全然気づかなかった。録画しておけばよかった、残念。
■8月3日
昨日テレビで、『タクシー・ブルース』を見る。1990年作品だから、ベルリンの壁崩壊直後の作品になる。さすがにこの時代のレン・フィルの映画には力がある。タクシーの運転手が主人公の映画だが、『タクシー・ドライバー』のようにドライバーと様々な乗客との関わりを描く映画ではない。主人公が客を乗せるのは、ファーストシーンだけ。この最初の客、自称天才サックス奏者、が無賃乗車したことがきっかけで、二人の間に奇妙な関係ができあがる。無学で、頑固で、屈強な労働者、いわば旧時代の象徴でもあるようなタクシー運転手と、卑屈で、軟弱な、自由人であるサックス奏者との間に、友情のような、師弟関係のような、親子のような、あるいは主人と奴隷のような、不思議な関係が生まれる。映画は、この対照的な二人のどちらも完全に肯定することなく、最終的には二人の間の深い断絶を描いて終わる。悪くない映画だ。
■8月1日
山田風太郎が死んだ。 山田風太郎の名前は知らずとも、 『くノ一忍法帳』や 『魔界転生』の原作者だと聞けば、わかる人も多いだろう。正直言って、私はそれほど山田風太郎を信奉しているわけではないのだが、『警察庁草子』などの一連の作品は、たんに一級のエンターテインメントというだけでなく、明治を描いた本としてそんじょそこらの歴史本よりも遙かに生々しく時代の空気を伝えてくれる、貴重な小説だと思う。
ところで、映画とフランス語というコーナーも作ってみたいと思っているのだが、パソコンでフランス語と日本語を同じページで表示させるのは結構厄介なのだ。自宅のパソコンではちゃんと表示できていたのに、別のパソコンだと文字化けしてたりする。非常に厄介だ。
■7月28日
たぶんオールスター明けからだと思うのだが、野球放送のイメージが変わった。『マトリックス』で有名になり、いまやCMでもお馴染みになったあの撮影技法を――アナウンサーの説明によれば――世界で始めて野球放送に使い始めたの だ。おそらく、このシステムを使える球場は、今のところ神宮球場だけだと思 う。私は、昨日のヤクルト-巨人戦で初めてこの撮影方法による放送を眼にし た。今までの通常の放送に使われていた8台のカメラの他に、この特殊撮影用に30代のカメラが神宮球場を真上から取り囲むように設置されているらしい。こうして撮影された映像は、もちろんリアルタイムで放送されるのではなく、VTRでプレーをスロー再生するときに利用されるのだが、それはまさに『マトリックス』の映画の一場面を見るようだ。正直言ってこんなことをしてなにが面白いのだろう、という気がする。野球放送からどんどんリアルさが、速度が、失われていく。……それにしてもヤクルトは強い。強すぎるぞ。
■7月25日
ドゥルーズのカント論。ドゥルーズのカント論は、彼の書いた本の中でもっとも読まれてないものの一つではないだろうか。ドゥルーズといえば、スピノザ、ニーチェ、ベルクソンの3位一体を中心に、そのまわりにプルースト、カフカ、ベケットを配するというように、読んでいきたくなるのだが、最近になって、カントとの関係を押さえておかなければ、ドゥルーズはよくわからないのかもしれないという気がしてきた。カントはいわばドゥルーズの負の中心なのではないか。「敵についてかいた唯一の書物」と自ら言うこの本の中で、彼はカントの哲学そのものの中にカントを批判するポイントをえぐり出す。逆に言うなら、それはカントを新たな方向へと、新しい可能性へと開いてゆくことである。その結果、カントの哲学はヘルダーリンの狂気や、「我は他者なり」と言ったランボーに接近させられることになる。おそらくカントの専門家にはうさんくさい読み方なのかもしれないが、私のような哲学の素人にはとても面白い読み方で、わくわくさせられる。
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