日々の映画日記、というか備忘録です。暇な人だけ読んでください。
今年もあと残りわずかになってきたので、そういえば書き忘れていたことをいくつかまとめ書きしておく。
アルゼンチンでラングの『メトロポリス』の全長版が発見
このブログで『メトロポリス』について書いたことがある。『メトロポリス』がどういった経緯で現在の不完全なヴァージョンでしか見られなくなってしまったのかについて、簡単に触れたのだった。実は、その2ヶ月後に、永遠に失われてしまったかに見えた完全版がアルゼンチンで発見されていたのだ(いま思うと、この時期はずれに『メトロポリス』のことを書いたのは、虫の知らせだったのかもしれない)。 わたしがこの発見を知ったのは、だいぶあとになってからのことだったので、タイミングを逃してつい書きそびれてしまった。しかし、「メトロポリス」+「アルゼンチン」でググってもたいしてヒットしないので、このニュースは案外まだ日本ではあまり知られていないのかもしれない。そう思って、念のために書いておくことにしたが、詳しく書くのは面倒くさいし、苦労して書いたのにそんなこととっくに知っているよといわれるのもしゃくなので、とりあえず、そういうことがあったということだけ伝えておく。興味がある人は、"Metropolis + discovered" で検索すれば、いくらでも英語サイトがヒットするはず。
今年も多くの訃報に接したが、書き忘れたものも多い。思い出せたものだけまとめて書いておく。
ディノ・リージ:
イタリア喜劇の巨星といっていい存在なのだけれど、日本でのこの知名度の低さは何なんだろう。そういえば、モレッティの Il Caimano でもリージの名前ができた。
シド・チャリシー
アニタ・ページ:
今年亡くなった女優はほかにもいたと思うけれど、思い出せない。
マニー・ファーバー:
説明する必要はないだろう。アメリカの偉大な映画批評家のひとり。代表的著作の Negative Space はいま品切れ状態らしく、Amazon のマーケットプレイスでは 200ドル近い高値がついている(わたしが同じ本を Amazon で買ったときは、たしか10数ドルだった)。まだ買っていなかった人には、きつい値段だが、円高なのでがんばって買ってください。
(追記:マニー・ファーバーの追悼記事を書いておられる SomeCameRunning さんからの情報で、Negative Space は amazon.co.jp からも買えることがわかりました(ここ)。ただ、わたしの経験を言うと、amazon.com で品切れになっていた本が、amazon.co.jp で見つかったので、やったと思って注文したら、さんざん待たされたあげく、入手できませんでしたと言われたことがあります。amazon.co.jp で洋書を注文したのはその一回だけなので、そういうことがよくあるのかどうかわかりませんが、念頭に置いておいた方がいいでしょう。)
マックス・オフュルスの DVD 化が加速化中
『たそがれの女心』、『快楽』、『輪舞』が Criterion から続々と DVD 化している。オフュルスは日本でも何作品か DVD になっているが、『たそがれの女心』はアイ・ヴィー・シーだし、『忘れじの面影』も廉価版 DVD で出ているだけだ。満足いく状態とはとてもいえないので、Criterion 版の発売は非常にうれしい。(アイ・ヴィー・シーの DVD は買う気がしないので見ていないが、聞くところによるとアイ・ヴィー・シー版『たそがれの女心』の DVD はかなりひどいらしい)。
『歴史は女で作られる』のデジタル修復版も進行中だそうなので、もう少し待てばこれも最高の状態で見ることができるようになるだろう。アメリカ時代のオフュルスもぜひ Criterion から出してほしい。ついでだが、マルセル・オフュルスもそろそろ日本で注目されていいのではないか。
ジョルジュ・フランジュ二本立て Judex/Nuits Rouges
UK 版。Judex はフランスで見ているのだが、Nuits Rouges はまだ見たことがない。フランスでも同じパッケージが出ているけれど、こちらは現在手に入りにくくなっている。
Larisa Shepitko: Wings/The Ascent
ECLIPSE シリーズから出ていたので前々から気になっていた作品。スーザン・ソンタグが愛した映画だということを知って、さらに見たくなった。『サタンタンゴ』や『ベルリン・アレクサンダー広場』を絶賛したソンタグだから、そっち方面の作品だと思うが・・・
ほかにも書き忘れたことはいろいろあった気がするが、いまはこれくらいしか思い出せない。 (最近、筆無精気味なので、たぶん今年はこれで最後です。でも、気が向いたらもう一回ぐらい書くかも。)
狼男ものを何本かつづけて見ていて、ふと、テレンス・フィッシャーの『妖女ゴーゴン』が狼男のテーマの変奏であることに気づいた。これに気づいた人はまだいないのではないかと、大発見に胸を躍らせたが、騒いでもあまり共感はえられそうにないので、ここにひっそりと書きつけておく。
『妖女ゴーゴン』は、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ミイラ男、狼男といったユニヴァーサル・ホラーの怪物たちを一通り映画にしてきたハマー・プロが、多少ネタ切れ気味になったときに撮った作品だ。ゴーゴンというと、レイ・ハリーハウゼンが『タイタンの戦い』で見事に造形したこの怪物の姿がまず思い浮かぶ。しかし、ゴーゴンを主役にした映画は、このテレンス・フィッシャー作品が最初ではないだろうか。その意味では、ハマー・プロのホラー映画のなかでもこれは異色の作品である。 黒沢清は、この映画をホラーベスト50の第5位に選んで、絶賛している。わたしのホラーの趣味は、黒沢清のそれと必ずしも一致しないし、テレンス・フィッシャーもそれほど高く評価している映画作家ではない。だが、『妖女ゴーゴン』はフィッシャーの最高傑作だと思うし、大好きな作品である。
ゴーゴン(ゴーゴンは英語読み。ゴルゴンと書く方がたぶん正確である)については、特に説明する必要はないだろう。諸説あるが、一般には、ギリシア神話に登場する、ステンノ、エウリアレ、メドゥサの怪物三姉妹を総称してゴーゴンと呼ぶ。ただし、ほかのふたりはあまり有名でないので、ゴーゴンといえばメドゥサを指すことが多い。三姉妹はいずれも蛇の髪の毛をもち、見たものを石に変える魔力をもつとされる。 ただ、この映画が混乱させるのは、タイトルが "Gorgon" となっており、物語も明らかにゴーゴンの神話と結びつけられる内容であるにもかかわらず、作中に登場する怪物が「メガイラ」という名前で呼ばれていることだ。
メガイラというのは、これも諸説あるのだが、一般に、ギリシア神話に登場するエリニュスと呼ばれる「復讐の女神」のひとりの名前で、彼女たちは、翼をもち、蛇の髪の毛をしていて、罪を犯した人間たちを追い詰めて、狂わせるといわれている。『旅芸人の記録』の下敷きにもなっているオレステイア三部作などにも登場する有名な存在なので、多少の文学的教養がある人なら知っているだろう。復讐の女神たちの数は最初不定だったが、のちにアレクト、メガイラ、ティシフォネの三姉妹に限定されたという。見られるとおり、ゴーゴンとエリニュスはいろいろと共通点が多いのだが、やはり別系統の神話と見た方がいいだろう。いちばんの違いは、エリニュスには、見たものを石に変える力はないということだ。 この映画の怪物がメガイラと呼ばれるのは、そのあたりを混同したのか、それとも意図的に曖昧にしようとしたのか。そもそも、ゴーゴンであれ、メガイラであれ、ギリシア神話の怪物が20世紀初頭の中央ヨーロッパに現れるという設定自体がいい加減といえばいい加減なのだから、あまり深く考えても仕方がないかもしれない。要は、この怪物がハマー・プロのオリジナルだったということだ。
(ちなみに、エリニュスは英語では "Furies" と呼ばれる。これは、アンソニー・マンの初期西部劇の傑作『復讐の荒野』のタイトルでもある。)
見ることが失うことと同義である、オルフェウスの神話とならんで、ゴーゴンは視覚にまつわる偉大な神話の一つである。それを見ると石に変えられてしまう怪物。それゆえ見ることが不可能な怪物。モンスターという言葉の語源が、ラテン語の monstrane(見せる)であるという説が正しいとするならば、ゴーゴンほど矛盾に満ちた怪物はないであろう。 (関係ないが、『シルビアの街で』は、オルフェウス神話の現代風アレンジと解釈することもできる作品だ。その意味で、この作品は、『めまい』や『ラ・ジュテ』といった作品の系譜に連なっている。だが、これは別の話だ。)
ゴーゴンは動く必要がない。人間のほうからのこのこと近づいてきて、勝手に死滅していくのだ。眼にするだけで、死んでしまう怪物。これほどやっかいな存在があるだろうか。だが、映画『妖女ゴーゴン』が、意外にも、一般にはそれほど高い評価を受けていないのには、この怪物の不動性がどうも関係しているようなのだ。この映画を見て、アクションに乏しいのが残念だと真顔でいってのける鈍感な人たちが少なくないのである。なにを的外れなことをいってるのだろうか。怪物が動かないということが、この映画の斬新さであったというのに。それにこの映画には、アクションがないというのも大間違いだ。恐ろしく圧縮されているので、一見アクションに乏しいように見えるだけなのだ。この映画のあっけないラスト・シーンほど、ヴォルテージの高い場面を、わたしはほかのテレンス・フィッシャー作品で見た記憶がない。
最後に、余談のようなかたちになってしまったが、『妖女ゴーゴン』がなぜ狼男のテーマの変奏であるかに簡単に触れておこう。この映画のゴーゴンがギリシア神話にかなりアレンジを加えたものであることはすでにふれた。なかでも最大のアレンジは、この映画のゴーゴンが人間に姿を変えることができるということだ。つまり、この映画のゴーゴンには変身能力があるのである。どうやら、この怪物はふだん人間の姿をしているらしいのだ。映画が後半になっていくにしたがって、ゴーゴンの正体はいったいだれなのかが問題になっていく。変身のテーマはむろんのこと、作品がミステリー仕立てになっているところも、多くの狼男ものと共通する点だ。だが、なによりも決定的なのは、ゴーゴンが満月の夜だけ姿を現すという点だろう。 これだけ並べてみると、狼男との共通点は明らかなのだが、狼男のテーマはゴーゴンの神話と巧みに融合されているので、いわれてみないと気づかないだろう。ひょっとすると、こんなことはすでに誰かがどこかでいっているのかもしれないが、これに自力で気づいたわたしは偉い、と、自画自賛してこの話を終わることにする。
なぜこれが、日本で発売されているハマー・フィルム・コレクションに入っていないのか、謎である。下の DVD は海外版。ちなみに、パッケージの絵は The Curse of the Mummy's Tomb で、『妖女ゴーゴン』ではないので、念のため。このなかにはいっている、セス・ホルトの Scream of Fear は、ありがちの話と思わせておいて、ひとひねりある、なかなかよくできたサスペンスの佳作なので、一見の価値あり。
ずいぶんブランクがあいたので、なかば義務感からなにか書いておこうと思う。 興味をもっている人はあまりいないかもしれないが、今回のテーマは狼男である(ここ数日、狼男がマイブームなので、少々おつきあいを)。
狼男は、戦前のユニヴァーサルが生み出した怪物のひとりとして名高い。人間が狼に変身する現象自体は、旧約聖書の「ダニエル書」で、自分を狼と思い込んで七年間苦しむネブカドネザル王を描いた部分が最古の記述とされ、古くから今日に至るまで、ヨーロッパ各地に様々な伝承がある。しかし、満月を見ると狼に変身するとか、銀の弾に撃たれると死ぬといった、狼男がもつとされる属性は、ユニヴァーサルによってつくられた『倫敦の人狼』『狼男』などの作品によってその後定着したもので、それ以前にはなかったという。だとすると、狼男というキャラクターは、やはりユニヴァーサル映画によってつくり出されたものといっていい。 (狼男については、Wikipedia の「狼男」の項目が短くまとまっていて、とりあえず参考になる。しかし、プロスペル・メリメが「プロスメル・メリメ」となっていたりするのを見ると、知ったかぶりしてでたらめなことも結構書いてあるかもしれない。各自で確認を。)
日本でも、月見うどんで狼男に変身するキャラクターが登場する漫画があったりして、狼男はだれもが知る存在だといっていいだろう。あげればきりがないが、たとえば京極夏彦の『ルー=ガルー 忌避すべき狼』といった最近のベストセラー小説も、非常に間接的にではあるが、狼男の伝承を元に書かれている(個人的には、これが最高傑作だと思っているが、京極作品のなかでは『ルー=ガルー』はどうも異色のものらしい。ほかの作品はあまり読んでいないのでその辺はよくわからないが、これ以外の作品はわたしにはぴんとこなかった)。 しかし、それほど有名であるにもかかわらず、狼男の映画は、ドラキュラやフランケンシュタイン、ミイラ男ものとくらべて、なぜか人気がないのが前々から不思議だった。黒沢清の『恐怖の映画史』でも、ユニヴァーサルとハマーによるドラキュラ、フランケンシュタイン、ミイラ男のシリーズについては熱く語られるが、狼男のことはほとんど一行も言及されていない。
『倫敦の人狼』(35)
この怪物を最初に描いたアメリカ映画である『倫敦の人狼』は、日本でも公開されているにもかかわらず、いまではほとんど忘れ去られ、正当な地位をいまだに与えられていないように思える。月の力を吸収するという不思議な花を探しにチベットにやって来たイギリスの植物学者が、そこで謎の怪物に腕を咬まれ、ロンドンに帰国後、自らも怪物へと変身して人を襲うようになるという物語は、古くからある "werewolf" の伝説に、「狼男に咬まれたものも狼男に変身する」、「狼男は満月の夜に狼に変身する」などといった独自のアレンジを加えたもので、現代における狼男の祖型的イメージはこの作品によって確立されたといっていい。 変身すると、「自分がもっとも愛する存在」を殺したいという欲望に駆られ、それ故に、自らの死をひたすら願うという、この映画で描かれる狼男の悲しい性は、その後の作品にも受け継がれてゆく。狼男によって起こされる連続殺人が、ホラーというよりはミステリーに作品を近づけているのも、それ以後の狼男ものの多くに共通する点かもしれない。特にこの作品はロンドンを舞台としているために、切り裂きジャックを否が応でも思い出させる。狼男ものには、多くの点で、『ジキルとハイド』を思い出させるところがあることにも注目したい。
ジョージ・ワグナー『狼男』(「狼男の殺人」)(41)
『倫敦の人狼』はたしかに狼男の最初のスケッチではあったが、この怪物の地位を不動にしたのはやはりこの作品である。『フランケンシュタイン』(31)や『魔人ドラキュラ』(31)に約10年遅れて、戦時中に撮られたために、日本ではいまだ正式には未公開になっている。日本で狼男が映画としては必ずしも評価されていないのには、このタイミングの悪さのせいもあったのかもしれない。 この作品では、狼男に咬まれると狼男になる、満月の夜になると変身するという設定に加えて、十字架を溶かしてつくった銀の弾に撃たれたときだけ死ぬことができるという設定が新たに加わる("wolfbane" 〈トリカブト〉が狼男を連想させる小道具として用いられるようになるのはこの映画からだろうか)。狼男を演じたロン・チェイニー・ジュニアのほかに、クロード・レインズ、ベラ・ルゴシなど、そうそうたる顔ぶれがならぶ。 狼男の造形は、『倫敦の人狼』にくらべてより毛深くなり、ある意味より滑稽になっている(狼男がほかの怪物たちとくらべていささか魅力に乏しいのには、このメイキャップの陳腐さにも理由があるのかもしれない)。
ロイ・ウィリアム・ニール『フランケンシュタインと狼男』(43)
タイトルはきわもの映画を予感させるが、意外とまともな作品である。これ以前にユニヴァーサルで撮られたフランケンシュタイン と狼男の映画の物語をちゃんと踏まえた上でストーリーがつくられ、ロン・チェイニー・ジュニアがこの作品でも狼男を演じている。とはいうものの、『狼男』のラストで父親に銀の弾で撃たれて死んだはずの狼男が墓のなかからよみがえり、呪われた運命から逃れるために、死の安らぎを求めて、生死の秘密を握るフランケンシュタイン博士に会いに行くという展開は、いささか、というかかなり、無理があるというしかない。
ロイ・ウィリアム・ニールは、トーマス・H・インスの映画に俳優出演するなどサイレント映画時代から活躍する重鎮で、ユニヴァーサルで40年代に撮られたほぼすべてのシャーロック・ホームズものを監督していることで知られる(ただし、それは外国の話で、日本でこの監督のことを知っているのはかなりの映画通だけだろう)。そのなかの一本、『緋色の爪』(1944、未)が、幼いビクトル・エリセが最初に見た映画であるというのは有名な話だ。2007年7月から8月にかけてカナダのオンタリオ・シネマテークで、エリセが白紙委任されて自ら選んで上映したそうそうたる作品(以下そのリスト)
『アタラント号』(34, ジャン・ヴィゴ) 『バルタザールどこへ行く』(66, ロベーール・ブレッソン) 『自転車泥棒』(48, ヴィットリオ・デ・シーカ) 『街の灯』(31, チャールズ・チャップリン) 『大地』(30, アレクサンドル・ドヴジェンコ) 『ヨーロッパ一九五一年』(52, ロベルト・ロッセリーニ) 『奇跡の丘』(64, ピエル・パオロ・パゾリーニ) 『キッド』(21, チャールズ・チャップリン) 『リバティ・バランスを射った男』(62, ジョン・フォード) 『極北の怪異』(22, ロバート・フラハティ) 『ナサリン』(58, ルイス・ブニュエル) 『奇跡』(55, カール・ドライヤー) 『河』(51, ジャン・ルノワール) 『山椒大夫』(54, 溝口健二) 『タブウ』(31, ロバート・フラハティ、F・W・ムルナウ) 『夜の人々』(48, ニコラス・レイ) 『新学期・操行ゼロ』(46, ジャン・ヴィゴ)
のなかにも、『緋色の爪』がいささか場違いなかたちで混じっている。
『フランケンシュタインと狼男』をエリセが見たかどうかわたしは知らない。しかし、意識を失ってベッドに横たわるロン・チェイニー・ジュニアの足下に、大きな窓から満月の月明かりがゆっくりと差し込んでくる場面を見ていると、『ミツバチのささやき』のエリセはこの映画を絶対に見ているに違いないと確信する。
死んだはずのフランケンシュタイン(怪物のほう)が氷のなかに生き埋めになった姿で発見されるというのは、テレンス・フィッシャーの『フランケンシュタインの復讐』でも踏襲されている。『フランケンシュタインの復讐』では、博士が電気ショックでよみがえらすのだが、この映画では、フランケンシュタインは狼男に肩を揺すぶられただけで目覚める(だったらもっと早く目覚めておけよ)。ほかにも、フランケンシュタインが狼男のいうことだけはなぜか素直に聞くところとか、突っ込みどころは満載だ。
ジーン・ヤーブロー『謎の狼女』(She-Wolf of London, 46, 未)
ロンドンが舞台ということで、『倫敦の人狼』に緩やかにつながるが直接的な関係はない。"werewolf" の伝説が色濃く立ちこめるなかで起きる連続殺人。犯人は後ろ姿から女らしいということだけはわかるのだが・・・。
こんなものまで見る人はあまりいないとは思うが、ネタバレを避けるためにあまり詳しく説明しないでおく。元々ミステリー色の強い狼男シリーズのなかで、この作品はその最たるものといっていい。ホラーと・ミステリーを結合させている点で、テレンス・フィッシャーの『バスカヴィル家の犬』のテイストに近い作品ということができる。
ちなみに、"werewolf" という言葉は、「男」を表す古語 "were" と "wolf" を結合したものだが、男女にかかわらず用いられる。
テレンス・フィッシャー『吸血狼男』(The Curse of Werewolf, 60)
これは、そのテレンス・フィッシャーがハマー・プロで撮った狼男もの。スペインを舞台に、狼男の誕生秘話から、その成長、そして死に至るまでの一生を描いているのが特徴だ。この作品では、狼男はキリストの降臨を祝うクリスマスと同じ12月25日に生まれる。教会で洗礼を受けようとすると、空はたちまち曇り、洗礼の水は激しく沸き立ち、その底に悪魔の姿が浮かぶ(実は、教会の彫刻が水面に映っていただけだったのだが)。狼男役のオリヴァー・リードは、ヘンリー・フル(『倫敦の人狼』)やロン・チェイニー・ジュニア以上に、苦悩を内面化させた説得力ある演技を見せている。世界から呪われた孤独な存在としての狼男は、この作品で一つの完成を見るといっていいだろう。
わたしは以前から、変身を描いた小説に興味があった。そのなかでも特に惹かれるのは、変身を外側からではなく、いわば内側から描いた作品だった。変身した化け物に出会う恐怖ではなく、自分が何物かに変身してしまう恐怖。そういう恐怖を描いた作品だった。いくらでも例はあるが、たとえば、内田百閒の「件」(『冥途・旅順入城式』 (岩波文庫) のなかに入っているはず。要確認)のような作品に、どうしようもないほど惹かれてしまうのだ。
変身を描いた映画は数限りなくあるが、わたしが心から魅了された作品は数えるほどもない。狼男のテーマにはたしかに惹かれるが、作品のほうは必ずしも成功しているとはいえない。映画ではどうしても、外側から見た変身に興味が向かいがちであり、しかも初期の作品では、特殊メイクなどの技術がまだまだつたなく、いま見ると笑いを誘うものも少なくない。同じ変身をテーマにしたものでも、約一年後に撮られた『キャット・ピープル』の繊細な描写にくらべると、『狼男』の変身描写はあまりにもずさんである。
わたしが今回狼男を取り上げたのはたんなる個人的な興味からだったのだが、調べているうちに、この41年作の『狼男』が今度ハリウッドでリメイクされることを知った。21世紀の狼男はどのような姿で現れるのだろうか。ほとんど期待はしていないが、機会があったら見てみたいものだ。
シャブロルの70年代黄金時代の DVD が紀伊国屋から発売される。
まずは『クロード・シャブロル コレクション 肉屋』から。『不貞の女』なども出るようだが、 Amazon ではまだ注文できないようだ。実をいうと、わたしはそれほど喜んでいない。どれも見ているというのもあるが、それだけではない。画質にあまり期待できないからだ。 この時代のシャブロルは、アメリカでも DVD 化されている。その一部を見たことがあるのだが、ひどいものだった。正視できないほどの代物ではないが、いわゆるビデオ並みの画質というやつで、なんでこんなのに片面2層も使ってるのか理解に苦しむものだった。フランスでもこの頃のシャブロル作品は BOX で発売されている。こちらは見ていないが、Amazon.fr のコメントを見ると、やはり評判はよくない。画面サイズにも問題があるとのコメントがある(ばら売りされている『肉屋』に関しては、特に悪い評判はないようだが)。 紀伊国屋の外国映画の DVD は基本的に海外で出ているものを移植しただけというのがほとんどだ。ネガから起こして DVD にトランスファーするまでを自分で責任もってやっているわけではない。これもそうだとすると、同じソースを使っている可能性が高い。となると、あまり期待できない(杞憂であってほしいが、紀伊国屋はしょせん本屋なので、いまいち信用できないのだ)。
■ ナンニ・モレッティ Il Caimano
2006年に行われたイタリアの総選挙直前に公開され、大ヒットとなったナンニ・モレッティの最新作(短編をいれると、この後、『それぞれのシネマ』のために撮られたものが最新作になる)。 映画創造の挫折を語る『81/2』ふうの物語のなかに登場する映画内映画というかたちではあるが、ベルルスコーニを初めて正面切って描いたイタリア映画といえるのではないだろうか。
自分の妻演じるスーパー・ウーマンが共産主義の国賊を殺しまくる低俗ヴァイオレンス映画ばかりを撮っていたプロデューサーが、前作の興行的失敗の後の長い沈黙を破ってひさびさに新作を撮ることになる。だが、コロンブスの帰還を描くその新作は、結局、監督が予算不足を理由に降りたために頓挫する。プロデューサーは、監督志望の若い見知らぬ女から手渡されたシナリオを、よく読みもせずに映画化することに決める。しかし、それはベルルスコーニをあからさまに描いた左翼映画だった。体制迎合的な映画を撮っているために右翼とか、ファシストと呼ばれているが、実際はただの気の弱い男であるプロデューサーは、最初、この大胆な題材に尻込みするが、紆余曲折あって、映画はシナリオを書いた女性を監督に起用して映画化されることになる。しかし、ベルルスコーニを演じることになっていた主演俳優が、またしても降板し、急きょ代役が立てられることに・・・
というわけで、ベルルスコーニを最終的に演じることになるのが、モレッティ本人である。この映画は、モレッティが珍しく主役を演じていないことでも注目すべき作品だが、映画内映画ではかれが主役を演じるかたちになっているわけだ。モレッティはベルルスコーニをまるでマフィアのように冷酷に演じていておもしろい。 しかし、この作品は、マイケル・ムーアの『華氏911』のような、単なるネガティヴ・キャンペーン映画とはちがう。もっとずっと複雑な映画である。モレッティ自身が映画の登場人物のひとりにいわせているように、ベルルスコーニがどういう人物であり、なにをしてきたかはすでに語り尽くされてきたし、それを今更指摘したところでなにがどう変わるというわけでもないのだ。どういう人物か知りながら、それでもベルルスコーニを支持するイタリア人が数多くいるのはなぜなのか。それはイタリア人の国民性そのものに関わっている問題ではないのか。この映画でモレッティは、そういう根深いところまで問題を突き詰めて描こうとしていたのに違いない。
この映画が、ベルルスコーニを描くと同時に、崩壊する家族の物語でもあるのは、そのためである。主人公のプロデューサーが、映画製作においても、夫婦関係においても、危機に陥っていく一方で、映画内映画のベルルスコーニは権力の座を上り詰めてゆく。この鏡像関係は、ふたりの違いを対比しているようでいて、その実、ふたりの類似を際だたせている。かれとベルルスコーニは結局同じかもしれない、あるいは、われわれすべてがベルルスコーニと同じかもしれない。そういう視点がこの映画には見え隠れしているように思える。
この映画の直後に行われた選挙でベルルスコーニはめでたく敗北し、首相の座を退くことになるのだが、その数年後、執念深く権力の座に再び返り咲き、いまに至っている。モレッティのこの新作は日本では未だに公開されていない。この映画が撮られたときの歴史的文脈はすでに過去のものとなって鮮度を失ってしまったが、時機を失してしまったいまだからこそ、この作品の真価が問われるということができるかもしれない。
蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察』
前にブログで、ミシェル・フーコーらによるマネ論を集めた『マネの絵画』という本を軽く紹介したことがある。映画とは関係ない本なので、わたしのブログの読者(というものがいるとしたらの話だが)で読んだひとはあまりいないかもしれない。今回のこれは蓮實御大による本なので、この機会にこういう本を読んでみるというのも悪くないだろう。映画ばっかり見ていると、視野が狭くなるので・・・
『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本を紹介したフリードリッヒ・キットラーのこともふれられているようだ。わたしはというと、蓮實重彦が最近出した本はほとんど読んでいないのだが(なんか10年前と同じ固有名詞しか出てこないしね)、マネ=フーコーのラインは気になるので、これは読もうと思っている。
☆ ☆ ☆
さて、今回紹介するのは、その蓮實重彦による檄文を SomeCameRunning さんのブログで読んで知った、スペインの作家ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』という映画のこと。 蓮實重彦の檄文の神通力は、わたし個人に限っていうと、あまり効かなくなってきているのだが、これはビクトル・エリセも激賞している映画とあって、やはり見ておく必要があるだろう。とはいえ、東京映画祭にまで見に行く金も時間もない(いや、時間ならいくらでもあるか)。どのみちチケットは手に入りそうになかった。というわけで、映画祭で上映されたのなら公開される可能性が高そうだったが、つい勢いで洋版の DVD を買って見てしまった。 以下、見た印象を簡単に書き連ねておく。
☆ ☆ ☆
「十三番目(の女)」が戻ってくる・・・それはまた最初の女だ いつもおなじ唯一の女──あるいは唯一の瞬間 なぜなら、君は女王なのか、おお君よ、最初のか最後の女か 君は王なのか、君、唯一のあるいは最後の恋人よ
ネルヴァル「アルテミス」
冒頭のクレジットで、"En la ciudad de Sylvia" というスペイン語のタイトルが "Sylvia" の部分だけを残して消えてゆき、かわりに "Dans la ville de Sylvia" というフランス語のタイトルが浮かび上がってくる。
ホテルの一室なのだろうか、暗い部屋に外の光がわずかに差し込む。テーブルに置かれたフランス語で書かれた地図。ノートになにかを書き込む若者。部屋に面していると思われる路地を映し出すショット。この短い数カットにつづいて、どこかのカフェの屋外に置かれたテーブルにすわってまわりの客たちを静かに観察している先ほどの若者が登場する。旅行者なのだろうか。どうやらかれがこの映画の主人公らしい。聞こえてくるのはフランス語ばかりだし、カフェにはフランス語の文字が書かれている。見たところここはフランス語圏らしい。路地のショットはそれっぽくなかったが、とりあえずここはパリだと仮定して見はじめる。
男は、カフェのウエイトレスや、女性客たちのひとりひとりを見やっては、ノートブックに彼女たちのスケッチを描いてゆく。かれの目線をとらえたミディアムショットというか、肩から上のショットだけが10分以上にわたってただつづいてゆく。その間に聞こえてくる台詞は、カフェの客たちが話している大して意味もないおしゃべりだけだ。ドゥルーズの『シネマ』の第二巻の冒頭で語られる「純粋に光学的・音響的状況」をまさに絵に描いたようなシーンとでもいったらいいか。そんなふうに時間が流れるうちに、いくつもの女たちの顔のなかから、ひとりの女の顔が浮かび上がってくる。カフェの室内にいるその女をガラス越しに見た男の顔に、明らかにいままでとは違う表情が浮かぶ。 これは一目惚れの瞬間なのだろうか。と思うまもなく、女がテーブルを立つのがガラス越しに見える。と、次の瞬間にはもう、女はロングショットのなかの遠い背中姿になっている。このあたりのカッティングの呼吸が実にいい。
男は女の後をつけ始める。ここで初めて街の全景をとらえたショットが現れる。建物の雰囲気はパリではないし、そもそもこの街には市電が走っているのだ。パリでないのはたしかである。ひょっとしたらスイスだろうか。とにかくわたしが行ったことのない街だということだけはわかる(のちに、ここはストラスブールだと判明)。 男と女の距離はしだいに縮まってゆく。そして、女の背中がすぐ目の前まで迫ったとき、男は 女に向かって「シルヴィ」("Sylvie")と2度呼びかけるのだ。一目惚れした女性だと思っていた相手に、男が名前で呼びかけたことに驚くと同時に、"Sylvia" ではなく "Sylvie" という名前が使われたことに戸惑う。そして、突然、そうか、これはネルヴァルなのだと意味もなく確信する。カフェの女たちは「火の娘たち」なのだ(このあと、彼女たちはなぜかこの街の至る所に現れる)。その後の展開を追いながら、この確信はますます強まっていった。「シルヴィ」はもちろんのこと、「アルテミス」の冒頭の一節がよみがえってくる。
そして、ネルヴァルをこえてイメージはどんどんふくらんでゆく。これはボードレールの「通りすがりの女に」でもあるかもしれない。そう思うと、この街が、ベンヤミンがボードレールを通してみたパリにも思えてくる。そして、カフェのシーンは、プルーストの『失われた時を求めて』の『花咲く乙女たち』で、いくつもの顔のなかからアルベルチーヌの顔が浮かび上がってくる場面とも重なって見える・・・ といった具合に。
映画的としかいいようがない映画なのに、なぜか文学のことばかりが思い出される不思議な映画だった。 ストーリーはほとんどないに等しい。だからこそ、ほんの些細なことが見ているときの驚きになるので、あまり説明しないでおこう。
DVD は PAL 版。英語字幕がついている。台詞はほとんどないので、英語字幕は苦手だという人でも問題なく見れると思う(中学程度の英語力は必要だが)。
バッド・ベティカーDVD-BOX につづく今年二度目の衝撃。
ジャック・ロジェの DVD-BOX が、ついについに出てしまったのだ!
ロジェの作品が DVD 化される日がいつかくるとは思っていたが、まさかこんなに早く実現するとは。
しかも、5枚組の豪華な BOX で!
ラインナップは、
Adieu philippine
Du côté d'orouët
Maine océan
Les naufragés de l'île de la tortue
長編4本ともろもろの短編。ということは、超寡作なこの作家のほぼ全作品がこの BOX に収められているといっても過言ではない。ヌーヴェル・ヴァーグのなかでもっとも呪われた作家の全貌がついに明らかになる。これが興奮しないでいられるだろうか。
フランスで発売されるフランス映画の DVD だから、字幕はついていない可能性が高い。できれば、Criterion Collection から英語字幕つきで出してくれるとありがたいのだが、それを待っているといつになるかわからない。日本では、『アデュー・フィリピーヌ』の DVD が奇跡的に発売されている。『パリところどころ』と抱き合わせというかたちでの発売だった(いまは単品でも発売)。 ジャック・ロジェだけの BOX が日本に登場する日は来るだろうか。あまり期待しない方がいいだろう。これはもう買うしかない。
アガサ・クリスティー原作の映画など見たくもないが、パスカル・ボニゼールの新作は、クリスティーの Le grand alibi を映画化したものだ。監督デビューした最初のころは、なかなか見どころがある作品を撮っていたが、早くもこういう映画を撮るようになってしまったか。いやいや、その一方で、リヴェットの『ランジェ公爵夫人』の脚本を書いていたりするんだから、なにがしか期待してもいいのでは、と思ってみたりもする。
さて、しばらく書かないあいだに、かなりの作品を見ているのだが、今日はボニゼールのついでにフランス映画の話をすることにしよう。
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■ マルセル・レルビエ L'argent(「金」'28)
レルビエ最後のサイレント映画であり、『人でなしの女』とならんで最高傑作とされる作品。 つい最近、フランスで DVD になったばかりだが、さっそく買ってしまった。ほしい DVD はほかにもいろいろあったが、日本では出そうにないもので、重要なものから順番に選んでいくとこれになった。
原作はゾラの『金』。同じゾラの『獲物の分け前』(ロジェ・ヴァディムがメロドラマティックに映画化している)に登場する銀行家サッカールが再び登場する、ルーゴン=マッカール叢書の一冊である。映画では、時代が19世紀から20世紀初頭に移しかえられ、撮影当時のパリがときにドキュメンタリーかと見まごうほどヴィヴィッドに活写されている。
映画の舞台となるのはパリの金融界。株の暴落でたちまち破産寸前に追い込まれたり、こそくな手段を使って株価を操作して大もうけを企んだり、市場を左右する情報に一喜一憂したりする人びとの姿は、現代のわれわれがテレビや新聞のニュースで見聞きするものとなんら変わりない。これは、19世紀を描いたゾラの原作を読んだ人びとの多くが抱いた感想でもあるだろう。
海外から『メトロポリス』の女優ブリギッテ・ヘルムを呼び、巨額の製作費を投じて撮られた「ゴージャス」な作品だが、一方で、余分なものをそぎ落とした抽象的ともいえる舞台装置は、この映画を『人でなしの女』のモダニズムに近づけている。『人でなしの女』でもそうだったが、この映画も室内のデコールがすごい。こういうのを見てしまうと、現代の『タイタニック』だのなんだのは、費用効果的に見て中途半端な出来損ないに思えてしまう。
「金」という直接的なタイトルにもかかわらず、ここには札束はほとんど登場しない(同じタイトルでも、手から手へと生々しく渡されてゆく現金を描いたブレッソン作品とは大違いだ)。ここに描かれるのは、実態のない、もっと抽象的なものへの欲望に突き動かされている人間たちの姿である。しかし、実際のところ、レルビエは、こうした主題には、さして興味を持っていなかったのかもしれない。金儲けの道具に利用されて、翻弄されるパイロットとその清純な妻をめぐるメロドラマティックなわき筋にも、それほど身が入っていたとは思えない。『人でなしの女』ほどではないが、この映画でもやはり、ドラマの部分はいささか弱く、盛り上がりに欠けるのはたしかである。ドラマを撮ることよりも、レルビエは、二人の女優、とりわけブリギッテ・ヘルムの肢体を様々な角度から官能的に撮ることに心血を注いでいたようだ。
そして、なによりも、それ以前にはだれもやったことがなかったテクニックを駆使して、斬新な映像を作り出すことこそが、レルビエがこの作品で本当にやりたかったことに違いない。縦に横に上下に、あるいは弧を描くように、めまぐるしく動き回るキャメラによるアクロバティックな撮影は、サイレント映画の技術的な達成の一つの頂点だろう。この映画がしばしばアベル・ガンスの『ナポレオン』と比較されるのもうなずける。ガンスは、ナポレオンの少年時代の雪合戦のシーンで、キャメラを雪玉といっしょに放り投げて見せた。この映画でレルビエは、オートマティックに撮影できる状態にしたキャメラを、パリ証券取引所の天井につり下げ、中央の丸テーブルに向かって回転しながら急降下させつつ撮るという離れ業をやってのけている。
この映画で用いられたこうした様々な撮影テクニックは、この映画の撮影と平行して撮られたジャン・ドレヴィルによるメイキング映像 Autour de l'Argent のなかで見ることができる。もちろん、この作品も DVD に特典映像として収録されている。ほかにも、キャスティングに使われたと思われるキャメラ・テストの模様や、ブリギッテ・ヘルムがパリに到着したときの様子をこれもドレヴィルが撮影したニュース映像など、様々な特典がこの DVD にはついている。サイレント映画でこれだけのメイキング映像が残っている映画も珍しいのではないだろうか。それだけでも、この DVD は買いである。
■ Général Idi Amin Dada: Autoportrait(「イディ・アミン・ダダ将軍:自画像」1974)
『ラスト・キング・オブ・スコットランド』のホレスト・ウィティカーの演技が記憶に新しい、ウガンダの悪名高き大統領イディ・アミンを描いたドキュメンタリー。バーベット・シュローダー(バルベ・シュロデール)の代表作として必ずあげられる一本だが、日本では未公開であり、したがってほとんど知られていない。
アミンがクーデターを起こしてウガンダの実権を握ったのは、1971年1月のことだった。この映画はその数年後、独裁政権のただなかで撮られた。監督のシュローダーと撮影のネストール・アルメンドロスをふくめて、わずか数名の少人数のクルーで撮影されたこの映画の、巧みにお膳立てされた親密さの空間のなかで、イディ・アミンはまるで自らも撮影クルーの一員であるかのように、気さくに振る舞い、ざっくばらんにインタビューに応じている。これはシュローダーらが撮影にさいして払った細心の注意のたまものであると同時に、「生まれながらの役者」(『キャメラを持った男』)とアルメンドロスが呼ぶアミンの性格にも大いに助けられたのだろう(金正日を見ればわかるように、独裁者というのは往々にして、本能的にキャメラを避ける一方で、生まれながらの役者でもあるのだ)。
大臣たちを集めての閣議の様子を長々ととらえた驚くべき場面で、アミンはだれと名指しするわけでもなく大臣たちに向かって激しく叱責をはじめる。うつむき加減に耳を傾ける大臣たちの姿をとらえていたキャメラが、とある人物の前で一瞬動かなくなる。そのとき、短いナレーションが、二週間後、外務大臣であるこの男が、ナイル川で水死体で見つかったことを告げるのだ。 しかし、このようにわかりやすい編集は、実は、この映画ではごく例外的な部類に属する。この映画にはナレーション自体がほとんどなく、シュローダーはこの独裁者に対するいっさいの判断を観客にまかせている。というよりも、アミン自身が語るに落ちるのにまかせているといった方がいいだろうか。ヨーロッパ映画のなかで自分が描かれることにすっかり気をよくして無邪気にしゃべりまくるアミンの話は、ときにわれわれを微笑ませ、ときに恐怖させる。恐ろしい事実が子供じみた口調で言われるのが恐ろしいのだ。アミンが、川をさかのぼるボートの上から岸辺にいるワニを指さし、ジョークを交えながらワニの生態を説明してみせるシーンがすばらしいのは、ここでは政治がいっさい語られていないにも関わらず、この独裁者の本質が見事に描写されているからだ。
ムスリムであるアミンが、アラブ人にシンパシーを抱き、いまのイスラエルはかつてのナチスと同じことをしていると主張するのは理解できる。しかし、だからヒトラーは正しかったのだとまで彼はいい切ってみせる。ユダヤ人をたくさん殺したというのは本当ですかとストレートに問うインタビュアーに、アミンは高笑いするだけで、答えようとしない(「黒いヒトラー」とも呼ばれるこの独裁者が虐殺した国民の数は、30万人とも40万人ともいわれる)。
アミンにまつわるおもしろい話はたくさんある。たとえば、岡村孝子のユニット「あみん」の名前は、実は、イディ・アミンの名前が回りまわってつけられたものだという。もちろん、本人は、この名前がこれほど血塗られた記憶につながっているとは知らなかったのだろうが・・・
■L'avocat de la terreur(「テロルの弁護士」2007)
これも未公開であり、したがってほとんど知られていない(例によって、シュローダーも片寄った紹介しかされていないので、未公開の作品は存在しないも同然である。たとえば、日本版ウィキペディアの「バーベット・シュローダー」の項目では、この作品も、Général Idi Amin Dada: Autoportrait もまったく無視されている)。
紙数に限りがあるので、この作品についてはあまり詳しく紹介できない。簡単にアウトラインだけを書いておく。
L'avocat de la terreur を見ると、 ハリウッドに渡ってからも Général Idi Amin Dada: Autoportrait のころの問題意識を、シュローダーはずっともちつづけていたことがわかる。この映画が描いているのは、ここ50年のテロリズムの歴史を一身で体現しているといってもいいフランスの異色弁護士ジャック・ヴェルジェスである。聞いたことがない名前かもしれないが、非常に興味深い人物だ。わたしは見ていないが、最近公開された『敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜』という映画にも登場しているらしく、日本でもにわかに注目を集めているようである。さっき知ったのだが、『敵こそ、我が友』の監督は、冒頭で触れた『ラスト・キング・オブ・スコットランド』と同じケヴィン・マクドナルド。ひょっとするとこの監督は、シュローダーに触発されて一連の作品を撮ることになったのかもしれない(要確認)。
ジャック・ヴェルジェスは、フランスの外交官である父親と、ベトナム人の母親のあいだに生まれた。いってみれば、植民地主義のゆがみを一身に背負って生まれてきたような人物である。この生い立ちは、彼を徹底的な反植民地主義者に育て上げるに十分だった。ヴェルジェスが世界的に有名になるのは、アルジェリアの独立運動が激しさをましていた50年代に、アルジェのカフェに爆薬を仕掛けて多くの犠牲者を出し、死刑の宣告を受けていた実行犯の女性、Djamila Bouhired を弁護したときである(ちなみに、この事件は『アルジェの戦い』にも描かれている)。普通なら有罪を認めて、減刑をはかるところを、ヴェルジェスは徹底して戦い、ついには恩赦によって彼女を釈放させるにいたっている(その後、彼はムスリムに改宗し、Djamila Bouhired と結婚するのだが、突然姿をくらまし、数年のあいだその所在がわからなくなる。カンボジアにいたともいわれているが、本人は口を閉ざしており、Djamila もインタビューには一切応じていないので、何があったのかはっきりしたことはわからない)。
この弁護がすべての始まりだった。これ以後彼は、それこそ右も左も関係ないといった一見無節操にも見えるやり方で、パレスティナのテロリストや、カンボジアのクメール・ルージュのリーダー、あるいは「ジャッカル」の名で知られるベネズエラの国際的テロリスト、イリイチ・ラミレス・サンチェスなどなどの弁護を手がけてゆく。その生い立ちから、彼が反体制の革命戦士を擁護するのはうなずけるが、弁護する相手がナチスの戦犯クラウス・バルビーのような人物だとなると、首をかしげてしまう。しかし、ヴェルジェスは、クラウス・バルビーの所行を、フランスがアルジェリアで行ったことと重ね合わせ、驚くほど理路整然とした論理で弁護してゆき、聞くものを納得させてしまうのだ。
ヴェルジェスのやり方をすべて肯定することはできないかもしれない。単純な判断を許さないこの人物を、シュローダーはここでもいっさいの判断を観客にゆだねるかたちで描いている。Général Idi Amin Dada: Autoportrait とくらべると、作品としてはいくぶん成功していないように見えるかもしれない。しかし、ジャック・ヴェルジェスという男は、アミン以上にわたしには興味深く思えた。この映画を見たものは、肯定するにしろ否定するにしろ、この人物に魅力を禁じ得ないことだろう。
どちらの DVD も海外版だが、日本の Amazon から注文できる模様。
今回はホラーでまとめてみました。
■ ロジャー・コーマン『怪談呪いの霊魂』
黒魔術を使ったため村民によって縛り首にされた男の末裔(両方ともヴィンセント・プライスが演じている)が、100年後、故郷の村に帰ってくる。その村は、縛り首にされたかれの祖先によって呪いを受け、次々と奇形児が生まれるようになり、死んだように静まりかえっていた。村に到着するなり、祖先の亡霊がかれに乗り移り、男は100年前と同じ魔術を使って悪魔を呼び出そうとする・・・
ポーではなくラヴクラフトを原作にした一作。そのせいか、コーマン作品の中ではいまいち知られていない。『わたしはいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』でも、なぜかほとんど言及されていないようだ(この本、滅法おもしろいのだが、索引がついていないので、調べ物をするには不便だ)。アメリカでは、Edgar Allan Poe's The Haunted Palace というタイトルでも公開されている。映画のラストにはポーの一節が引用されたりもするので、多くの観客はこれもポーが原作だと思ったことだろう。コーマンはこれをポー・シリーズの一作と思わせて売ろうとしていたらしい(商魂たくましいが、いくらなんでもやりすぎの気がする)。それはともかく、一連のポーものとくらべても遜色がない出来なので、コーマンのファンは見ておきましょう。 コーマンのDVDでは、いつの間にかこんなのも出ていました。
■ロバート・シオドマク『夜の悪魔』(Son of Dracula)
「吸血鬼の息子」という原題は内容とまったく関係がないわけではないのだけれど、この映画でロン・チェイニーJr 演じるドラキュラの末裔は、主役というよりは脇役に近い。しかも、どちらかというと犠牲者といった方がいいぐらいのかわいそうな役回りである。ドラキュラ映画というと、吸血鬼に咬まれそうになったり、咬まれて手下にされてしまったり、咬まれたけれど処女じゃなかったので吸血鬼に逆ギレされたりする美女、いわゆるドラキュリアン・ビューティ(すいません、そんな言葉ありませんでした)が登場するのが通例だ。この映画のヒロインもドラキュラに狙われる。しかし、実は、この女がとんでもない悪女で、物語は思わぬ方向に展開してゆく・・・
なかなかユニークな吸血鬼映画なので、見ておいたほうがいいですよ。
■ドン・シャープ『吸血鬼の接吻』
もう一本吸血鬼映画を。これはラストの処理で有名な作品だ。たしかに、ユニークな結末ではあるが、残念ながら、この時代の特撮技術が、監督のやりたかったことに追いついていない気がする。しかし、人物関係をほとんど説明せず、怪しげな雰囲気のまま進んでいくところは悪くない。吸血鬼ファンは押さえておくべき作品。
ジョゼフ・H・ルイス、アンソニー・マン、リチャード・フライシャー。三人の巨匠の経歴と作品を精緻に分析し、ハリウッド古典期から現代期への転換点としての「B級ノワール」のいまだ知られざる全貌を見はるかす、画期的書き下ろし長篇評論。蓮實重彦氏激賞!
「DVDの普及が、アメリカ映画に対する新たな視点の構築を21世紀の日本で可能にしたことを、まずは祝福したい。いまから半世紀以上も前のいわゆる「B級」映画と「フィルム・ノワール」を論じる著者の、これがはじめての著作であることにも率直な悦びを表明する。その著者が「B級ノワール」を分析するマトリックスとして、ジョゼフ・H・ルイスとアンソニー・マンとリチャード・フライシャーという三人の映画作家を選びとったことにも心からの賛辞を送りたい。人々は、ハリウッド映画についてまだまだ何も知らない。そのことを知らしめただけでも、本書の価値は計り知れないと断言する。」
蓮實重彦(映画評論家)
・・・、だそうです。 これ書くまで、著者を吉村和明と勘違いしていた。まだ中身は全然見ていません。
山根貞男『マキノ雅弘―映画という祭り』 (新潮選書)
■ サミュエル・フラー『魔犬』(White Dog)
フラーの人種差別的(?)傑作がついに CRITERION COLLECTION に登場。
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最近見た映画
・ピーター・ローレ Der Verlorene (51) ピーター・ローレ唯一の監督作品。 ・クロード・ミレール La meilleure façons de marcher(「いちばんうまい歩き方」76)
クロード・ミレールのほうはみんな見ていると思うので、説明はいいだろう(ひさしぶりに見直したが、傑作だった)。一方、ピーター・ローレの Der Verlorene は、まだまだ呪われた作品の感がある。見ていない人も多いかもしれない(というか、ひょっとすると、だれも知らないかも)。そのうち機会があったら、詳しく報告ようと思っている(いまは疲れているので、このへんで失礼)。
ジョゼフ・L・マンキーウィッツ『大脱獄』
これを見ると、結局、マンキーウィッツは西部劇が撮れなかったのだと考えた方がいいようだ。しかし、それはこれが失敗作だということを意味しない。いや、たしかに興行的には失敗したし、西部劇として見るなら、傑作というよりは変わり種といった方がいい作品だろう。しかし、マンキーウィッツとしては決してマイナーな作品ではない。くれぐれも侮って見ないようにとだけはいっておく。
映画の時代設定はたしかに西部劇のそれである。しかし、マンキーウィッツが撮った最初で最後の西部劇であるこの作品には、西部劇でなければならない必然性はどこにも見当たらない。物語の大部分は、荒野の真ん中にぽつんと置かれた要塞のような刑務所のなかで展開する。西部劇に出てくる刑務所といえば、町の保安官事務所と同じ建物のなかにいくつか並べられた鉄格子の牢屋(jail)を思い浮かべるのが普通だ。こういう刑務所が出てくるのは珍しいし、まして、そこが舞台の中心となる西部劇は、これが初めてだっただろう。刑務所ものと西部劇を融合させるというのがこの映画のアイデアだった。
刑務所の外に盗んだ大金を隠し持っているカーク・ダグラスが、囚人たちを言葉巧みに利用して、脱獄を企てる。なにやら「プリズン・ブレイク」を思わせる物語だが、マザー・グースからとられた "There was a crooked man" という原題から見当がつくように、シリアスなドラマというよりは、ブラックなコメディに仕上がっている。おそらく、マンキーウィッツがなによりも描きたかったのは、酒もたばこも女も興味がないピューリタン的な「善人」である刑務所長(ヘンリー・フォンダ)の変貌ぶりだったのだろう。男からも女からも愛される悪人カーク・ダグラスを秘かに嫉妬しているフォンダは、最後に、ダグラスを模倣して、そのアイデンティティを盗むことに成功する。この映画の物語をそう解釈することも可能なのだ。そう考えるなら、この映画は『イヴの総て』と同じ物語を描いているということもできる。しかし、エキセントリックなキャラクターが次々と描き加えられて、映画は最終的にディケンズふうの群像劇に近づいている。そのため、ダグラス=フォンダの鏡像関係が見えにくくなっているのが残念といえば残念だ。
脚本を書いたのは、『俺たちに明日はない』のデイヴィッド・ニューマンとロバート・ベントン。ロバート・ベントンは後に監督となって数々の佳作をとることになる。ハリウッド随一といってもいいストーリー・テラーだったマンキーウィッツと若いロバート・ベントンのあいだには、撮影中、いわば師弟関係のようなものができあがっていたという。
西部劇といっても、馬が登場するのは冒頭と最後だけ。拳銃が発射されるのも、ラストの数分間に限られている。しかも、致命的な一撃を与えるのは、拳銃ではなくガラガラヘビなのだ(この映画のフランス語タイトルは Le reptile、ずばり「蛇」である)。撃ち合いのアクション・シーンもよくできているとはいえない。しかし、その数少ない「殺し」のシーンが妙に生々しいのが不思議だ。
西部劇がジャンルとしての神話性を失い、外国製のまがいもの(マカロニ・ウェスタン)の輸入によって存在感を失いつつあった時代にとられたこの映画には、西部劇に対するシニカルな視線が随所に感じられる。たとえば、ラストで、カーク・ダグラスを追跡するヘンリー・フォンダは、馬の足跡ではなく、馬糞によって彼が逃げた方向を知る。西部劇のクリシェへの目配せは、探せばほかにいくらでもあるだろう。といっても、マンキーウィッツには西部劇の神話を破壊してやろうという気はさらさらなかったに違いない。要するに、これは西部劇である前に、マンキーウィッツの映画なのだ。
グラウベル・ローシャ Barravento (62)
エイゼンシュタインの『メキシコ万歳』やフラハティの『モアナ』などとも比較される作品だが、なによりもヴィスコンティの『揺れる大地』の影響が濃厚に感じられる、グラウベル・ローシャの長編デビュー作。ある意味、ローシャが撮った最も普通の映画ということもできる。都会から故郷の漁村に帰ってきた若者が、迷信に支配され、甘んじて搾取されつづける村民たちを啓蒙して、自由に目覚めさせようと努力するが、だれからも理解してもらえない。とりわけ、村民たちから神の子として崇められている若者との対立がしだいに激しくなり、悲劇的な結末を迎えるが、それでも村民たちはなにかに目覚める。嵐を意味するタイトルは、左翼革命的でもあり、神秘主義的でもあるこの映画の性格をよく表している。ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが編集を担当しているのも注目。
A Idade da Terra(「大地の時代」) (81)
ローシャの遺作であり、チネマ・ノーヴォ最後の作品ともいわれる。この映画の混沌とした内容を要約するのはほとんど不可能に近い。わたしはグラウベル・ローシャの作品を4、5本しか見ていないが、これはローシャの全作品のなかでももっともラディカルな作品かもしれない。
日の出のイメージにはじまり、アヴァンギャルド演劇風の即興芝居、カーニヴァルを撮影したドキュメンタリー映像、ブラジルにおける革命の挫折を語るカルロス・カステロ・ブランコのインタビュー、「社会主義にも貧しい人びとと富める人びとがいる、資本主義にも貧しい人びとと富める人びとがいる。要するに、貧しい人びとと富める人びとがいる」と語るナレーションなど、一つひとつのシーンが、ほとんど脈略なく並べられていく。多くのシーンは即興で演出され、俳優たちはまるでリハーサルであるかのように、同じ台詞を何度も繰り返し発しつづける。ときにはローシャ自身の演技指導する声が画面外から聞こえてきさえする。「イタリアの偉大な詩人パゾリーニが殺された日、わたしは第三世界におけるキリストの生涯を映画に撮ることを思い立った」。監督本人らしきナレーションが、終わり近くになってそう語る(パゾリーニがローマ郊外のオスティア海岸で惨殺死体となって発見されたのは、この映画に数年先立つ1975年のことだった)。実際、この映画には、インディオのキリスト、黒人のキリスト、軍人のキリスト、革命戦士キリストなどとクレジットでは名付けられている幾人ものキリストたちが登場し、観客を混乱さす。晩年、軍事独裁を擁護するような姿勢を示し物議をかもしたともいわれるローシャだが、この映画におけるキリスト教のイメージも混沌としていて、にわかには捉えがたい。
膨大な長さのフィルムが撮影され、最終的に2時間半近くの上映時間におさめられた。ローシャの当初の意図では、各シーンをどの順番に映すかは映写技師に任せるという、これもまた過激な上映方法を考えていたらしいが、結局、最初にヴェネチアで上映されたときの編集でしかその後上映されることはなかった。わたしが見た DVD では、ひとつの実験の試みとして、各チャプターをランダムに並べ替えて再生できる仕組みになっている。DVD ならではの遊びというべきか。
それで思い出したのが、フレデリック・ワイズマンの『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』の日本で発売されている DVD のことだ。ワイズマンの映画は、人物の固有名詞や役職などをほとんど出さないことで有名なのだが、この DVD では説明モードを選択すると、人物の名前が字幕で出てくるようになっているのだ。自分の映画の DVD にチャプターをつけることさえ許していないストローブ=ユイレなら激怒するところである。ワイズマンもまだまだ詰めが甘い。(ちなみに、Amazon のコメントを読むと、このシステムは一部では好評だったようです。笑える。)
ブリュノ・デュモン 『ジーザスの日々』(La vie de Jesus)
最初に見たブリュノ・デュモンの映画『ユマニテ』は、終止イライラさせる映画だったが、それでも心を引きつけるなにかがあった。それがこの処女作にはなにもない。いらだちさえ感じない。
確認はしていないが、ここに描かれているのはたぶん『ユマニテ』に出てきたのと同じフランス北部の田舎町だろう。ここがデュモンの故郷なのかどうかは知らないが、これが彼の原風景であることは間違いない。主人公は、仕事もなく、仲間たちとバイクを走らせて、時おりくだらないばか騒ぎをするだけの日々を過ごしている。この生活に決して満足しているようには見えないが、まともな生活をしろという母親にはうんざりし、恋人の言葉にも耳を貸さない。かれらの鬱屈したエネルギーは、やがて、町に住むアラブ人の青年に対する憎悪というかたちをとって、リンチ殺人という最悪の結末を迎える。 共感が持てる人物がひとりも出てこない、救いのない物語である。素人ではないので、自己同一化できる人物がいないから悪い映画だなどというつもりはない。しかし、せめて映画的には救われたいではないか。わたしは、少なくとも3本見るまではその監督についての結論は出さないという、なんの根拠もないルールを自分に設けているのだが、これを見て、この監督はもういいかという気になりかけている。それでも、カンヌでグランプリを撮った『フランドル』はやっぱり見ておいた方がいいのかと、現在思案中だ。
それにしても、これもジーザスか(まあ、あのジーザスとは直接は関係ないんだけど、もちろん無関係ではない)。骨の髄までキリスト教がしみ込んだ旧大陸!
『シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)』 ついに発売。フランスでの出版から日本での翻訳が出るまで、これほどの時間がかかったのはいったいなぜなのか。なんだかきな臭いにおいがするが、それはともかく、上巻と下巻で訳者が違い、しかも下巻のほうから先に発売されるという一事を見ただけでも、上巻と下巻の訳者のあいだで意思疎通はできていたのか、訳語の統一などはできているのか、などと心配になる。
前日、ペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』を見に行ったばかりで疲れていたが、「第六回京都映画祭」で上映されるマキノ正博(マキノ雅弘)の『幽霊暁に死す』を見に、祇園会館に向かう。二日連続で映画を見に行くのはずいぶん久しぶりだ。いつ以来だろうか。思い出そうとしても思い出せない。
少し早めについたので、八坂神社をぶらついて意味もなく写真を撮り、上映30分ぐらい前になって劇場に向かう。入り口のところまできたとき、反対方向からやってきた蓮實重彦がすぐ手前で入っていくのが見えたので、ぎくりとする。 パリのシネマテークでじろりとにらまれたこともあるし、ベルナール・エイゼンシッツが来日し、京都のドイツ文化センターでムルナウの『ファウスト』について講演したときは、トイレで隣り合わせになったこともあるが、個人的に面識は全くないので、ああ、いるいると思いながら、背中を見ながら階段を上る。隣には、シャンタル夫人とおぼしき人影も見えた。ふたりが関係者席のある方に消えていくのを見届け、ホールのなかに入る。
映画の上映前に、オープニング・セレモニーが行われることになっていた。退屈そうに思えたので、わざと遅れてきたのだったが、なかに入ってみると、チラシには今日来るとは書いていなかったはずの山根貞男が、長門裕之とマキノ佐代子らしき女性を相手に司会を進行している。ふたりからマキノ雅弘についての話をいろいろ聞き出しているようだ。正面を向いたままで後ろの敵を斬るマキノ独特の殺陣の話など面白かったので、これなら最初から聞いておけばよかったと少し後悔する。
さて、トークが終わり、映画祭のテーマソングが熱唱されたあとで、いよいよ『幽霊暁に死す』の上映が始まる。 尖塔のそびえる教会のショットにつづいて、なかで結婚式を挙げていた長谷川一夫と轟夕起子が、窓を押し開けて入ってきた一陣の風に驚いて振り返る冒頭の場面からして、なにやら日本映画ばなれしている。アパートへと向かうふたりを交互にとらえたカットバックも、軽快というよりは、『血煙高田馬場』で疾走する阪東妻三郎をとらえたシークエンスを思い出させて、大胆である。
『幽霊曉に死す』は、一言で要約するなら、この世とあの世の間をさまよう幽霊が、息子夫婦の手を借りて恨みを晴らし、成仏してゆくという物語を、コミカルに描いた作品で、ルネ・クレールの『幽霊西へ行く』あたりを思わせるしゃれた映画なのだが、若夫婦が、幽霊屋敷と噂される別荘に向かって、ジャングルのような森を抜けようとしていると、凄まじい強風が木々を揺らし、恐れをなした案内役の巡査(坂本武)がふたりを残して退散するあたりなど、ユニバーサル・ホラーやハマー・プロと比較してもやりすぎに思えるくらいだ。 せっかく息子夫婦にお膳立てしてもらいながら恨みを晴らせずにいた長谷川一夫扮する幽霊が、花菱アチャコ(いつもは浮いた役をやっているが、この映画ではなかなかいい役回りをもらって活躍する)にハッパをかけられて意を決すると、突然屋敷の明かりが消え、強風にカーテンがパタパタと音を立てて翻り、居間に集まっていた強欲な親族たちが震え上がるなか、ひとり平静を装っていた斎藤達雄が、幽霊に一喝されてついに恐怖に顔を歪める画面などは、並のホラー映画よりもずっと出来がいい。マキノが本格的なホラーをとっていたらすごかったんじゃないかと思ってみたりするが、あれだけ多くの作品をとりながら、怪談映画といえるものはほとんど撮っていないようなのが意外だ。
この映画では、長谷川一夫が息子と父親の幽霊の二人一役を演じているのだが、ふたりを同時に画面におさめた合成画面などのトリック撮影は非常によくできていて、古めかしさを全く感じさせない。鏡も効果的に使われていた(鏡に映った幽霊の長谷川一夫を轟が見る場面で、そのままキャメラがパンして角度を変えてゆくと、その先には、息子の長谷川一夫が鏡のなかに映っているはずなのだが、残念ながら、その手前でカットは終わってしまう)。 映画が終わって帰ろうとしていると、階段のところで蓮實重彦と目が合ってしまう。わからぬ程度に会釈して敬意を示し、そのあとから階段を下りる。外に出て、蓮實夫妻はどこに消えたのかなと考えながら立っていると、だれかわたしに声をかけてくるものがいる。見ると、プラネットの安井喜雄 氏と神戸映画資料館の支配人の田中範子さんだった。今回は16ミリによる特別上映がだったので、ひょっとしたら映写を担当していたのかと思ったが、ふたりとはすぐに別れてしまったので、聞きそびれた(上映が終わってすぐ出てきたので、たぶん見に来ていただけだろう)。
そういえば、安井氏の友人でもある加藤泰が書いた評伝『映画監督 山中貞雄』が最近復刻したので、読んでいない人は買いましょう。
クロード・ジュトラ
カナダ、ケベック出身の映画監督、俳優、脚本家、編集者、撮影監督、プロデューサー。
1930年3月11日、モンレアル(モントリオール)に生まれる。 医師を父親にもつが、若くして映画を志す。数編の短編を撮ったのち、1954年、Office National du Film にはいる。1957年、アニメーション作家ノーマン・マクラーレンと共同監督で Il était une chaise を発表。この作品が映画祭に出品されたのをきっかけに、各国を旅する。フランスで知り合ったフランソワ・トリュフォーのすすめで、コクトーの作品を演出。作家本人からも好評を得る。
ついで、アフリカに赴き、ジャン・ルーシュにシネマ・ヴェリテの手ほどきを受ける。帰国後、Office National du Film のフランス・スタッフの一員として、ミッシェル・ブローとともに多くのドキュメンタリー映画の製作に携わり、ケベックにおけるシネマ・ヴェリテの推進に努める。 (ミッシェル・ブローは、ピエール・ペローとの共同作業で知られる撮影監督・映画監督だが、クロード・ジュトラとの関係は特に密接なものだったようだ。70年代にコンビを解消するまで、ブローはジュトラのほぼすべての作品の撮影を担当している。)
1963年、最初の長編劇映画、À tout prendre を発表。数々のタブーを描いたこの作品は物議をかもし、ケベックでは不評を買うが、アメリカとフランスで絶賛される。ジャン・ルノワールやジョン・カサヴェテス、ポーリーン・ケールといった著名人がこの映画を激賞したと伝えられている(À tout prendre をケベックの Shadows と評する人もいる)。
1974年、生涯の代表作であり、いまではカナダ映画史上の最高傑作との定評を得ている作品 Mon Oncle Antoine を撮り上げる。ついで、国際的女優ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドを迎えて大作 Kamouraska を完成させるが、興行的に大失敗に終わる。このあとのジュトラの経歴は決して華々しいものとはいえない。カナダの英語圏で、居心地悪さを感じながら、映画およびテレビ作品を数編監督したのち、ケベックに帰り、85年に撮った Dame en couleurs が最後の作品となった。
ダイレクト・シネマとフランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けたかれの斬新な作風は、海外の批評家から高い評価を得たものの、映画後進国であったカナダにおいてはなかなか理解されず、ジュトラは最後まで時代と不幸なすれ違いをつづけたといえる。 晩年、芸術面での試行錯誤に加えて、アルツハイマー病を患い、記憶が徐々に消えていくという苦痛に耐えた。86年、ジュトラが行方不明になったというニュースにケベックが騒然とする。数日後、水死体となって発見された。自殺だったという。
当初は、クロード・ジュトラの作品は、日本ではほとんど紹介されていないと思われたが、その後の調査で、つい数ヶ月ほど前に、東京のアテネ・フランセ文化センターで行われたカナダ映画の特集上映で、ジュトラの WOW が上映されていたことが判明。しかし、このような限られたものしか見ることができない上映を、はたして「日本で紹介された」と呼ぶことができるかどうかは、はなはだ疑問である。また、驚いたことに、À tout prendreは『俺に墓標はいらない』というタイトルで日本でテレビ放映されたことがあったことが確認されている。しかし、このタイトルで検索しても情報はほとんど得られなかった。
(上は、CRITERION COLLECTION から発売されている Mon Oncle Antoine の二枚組 DVD。特典ディスクには、ミッシェル・ブローのほか、友人であったベルトルッチなどがジュトラについて語った貴重なドキュメンタリーがおさめられている。また、マクラーレンと共同で監督し、ジュトラ自身が主演しているユーモラスな短編 Il était une chaise も、この DVD で見ることができる。)
補足資料; Claude Jutra: Filmmaker
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