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ジョアン・セザール・モンテイロを追悼する

ポルトガルの異才の早すぎた死

今月3日、ポルトガルの鬼才ジョアン・セザール・モンテイロが64歳の若さで亡くなった。

昨年も多くの訃報を書いたが、今年ものっけから深作欣二とピアラが逝ってしまった。そしてモンテイロまでが・・・。この調子だとそのうちだれもいなくなってしまいそうだ。まるで『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』で、ゲルマント公爵夫人の午後のパーティに向かう話者に向かって、「・・・シャルル・スワン、死んだ。アダルベール・ド・モンモランシー、死んだ。ボゾン・ド・タレーラン、死んだ・・・」と、死者たちのリストを読み上げてゆくシャルリュス男爵になったような気分だ。他ならぬその『見出された時』をラウール・ルイスに映画化させたポルトガルのプロデューサー、パウロ・ブランコは、モンテイロの死にいちばんショックを受けたひとりだろう。オリヴェイラの作品を数多くプロデュースしていることで知られるかれはまた、モンテイロの長年にわたるよきパートナーでもあった。「今ごろはあの世でセルジュ・ダネイと語り合っていることでしょう・・・。」

まだ現役だったとはいえ深作欣二はいわば自分の役目を果たして死んでいったわけだし、ピアラもそうだったような気がする。だが、モンテイロが死んでしまったというのは本当にショックだ。たしかに現役の映画監督のなかにも好きな作家は大勢いる。けれどもそのうちの多くは、もうこの人はなにかとんでもない映画を撮ることは今後ないだろうと、どこか高をくくって見守っているというのが、正直なところである。「今回はちょっとよかった」とか、「いつもの通り悪くなかった」とか、せいぜいのところ作品の相対的な出来不出来ばかりが気がかりというそんな作家たちのなかで、このモンテイロは、わずか数本の作品しか見ていないにもかかわらず、これからもきっとなにかとんでもない映画を撮るに違いないと、わたしに確信させていたのだった。とはいえ、オリヴェイラの映画のことを話題にしているときでさえ、こんなことを書いても読み飛ばされるだけではないかと、なかばあきらめながら書いているというの
に、モンテイロなどというそれこそ無名の映画監督の話をしても、だれもついてこれないのではないか。今はまだ時期尚早だ。そのうちなにかの機会を捉えて、どさくさに紛れて名前を出してみよう。その名前が無意識の奥に引っかかって残るだけでもいい、などと考えていたのだった。それが追悼というかたちになってしまったのはいかにも残念である。   

「怪しい」作家

わたしが始めてモンテイロを知ったのは10年以上前にフランスにいたときだ。ディジョンという小さな町の名画座でもらった『Silvestre』という映画のチラシに載っていた監督のインタヴューの言葉がなんとなく気になり、漠とした期待を抱いて見に行ったのだった。それは、有名な映画批評家(「今世紀最後の批評家」とたしかゴダールは評していた)セルジュ・ダネイが亡くなった年だった。同じ年、フェリクス・ガタリが亡くなり、そして日本で中上健次が死んだことを、わたしは向こうで知った。モンテイロがダネイの友人であったことを知るのは、もっと後になってからだ。全編セットで撮り上げられた中世の世界。一見、ロメールの『聖杯伝説』を思い出させる時代背景と雰囲気だが、その実、それとはまったく似ても似つかない映画だった。みだらな台詞がこの上なく詩的に語られ、逆に高尚な台詞が淫靡に語られる。知的で怪しい世界。モンテイロをひと言で形容するならば、「怪しい」という言葉がふさわしい。実際、チラシに載っていた監督の顔写真はいかにも怪しかった。まるでノスフェラトウのような痩躯の小男。暗い夜道で出会ったら、間違いなく吸血鬼と間違えたに違いない。『Silvestre』はわたしの大いに気に入り、そのチラシは長らく部屋の壁に貼り付け
られることになる。それはまさに「発見」という言葉がふさわしかった。その後パリで新作『海の花(ヒトデ)』が公開されるとそれも迷わず見に行き、『Silvestre』とのあまりの作風の違いにびっくりし、この作家のとんでもない才能を確信したのだった。

数年前、「ポルトガル映画祭2000」と銘打って、先ほど名前を出したパウロ・ブランコがプロデュースしたポルトガル映画の傑作が10本ばかり上映された。そこで見ることができた『神の結婚』(99)がわたしにとってのモンテイロの最新作になる。ダンテ、プルースト、マラルメ等々、様々なテクストが引用され、最後はブレッソンの『スリ』のあの崇高なラストシーンがなぞられるのだが、そこでわれわれが目にするのは一本の陰毛の交換なのだ! 
わたしは見ていないが、2000年に撮られた『Blanche-neige』(白雪姫)では、タイトルとは逆に真っ黒な画面のなかで声だけが聞こえて来るという、正真正銘のフィルム・ノワールになっているという。モンテイロの作品は一作一作がスキャンダルであり、挑発である。しかし、そこには前衛やアウトローを気取る者たちのどことなく物欲しげな身振りやうさんくささはみじんも感じられない。モンテイロの「怪しさ」は、そんな小物たちが身にまとう意匠
とは全然違って、もっと根深い怪しさだ。

だれがモンテイロを畏れるのか

わたしがモンテイロを発見してからもう10年になるというのに、日本ではかれの作品は正式には一本も公開されていない。だれがモンテイロを畏れるのか?『戦場のピアニスト』も悪い映画ではないのだろうが、こう毎日テレビで大げさなCM を見せられると、だんだんむかついてくる。やっぱりカンヌで賞を取った映画は扱いがちがうや、と、皮肉のひとつもいいたくなる。しかし実は、モンテイロも『黄色い家の記憶』(89)でヴェネチアで銀獅子賞を取っているのだ。まあ、銀獅子というのが中途半端なのだが、結局、賞なんか取っても、《ナチスとユダヤ人》といったわかりやすいテーマじゃないとだめってことか・・・。どうでもいいような映画は世の中にあふれているのに、見たい映画は全然見れない。少数だが確実に買い手のいる学術書が高い値段で売られるように、モンテイロの映画のような、売れそうにはないが確実に見たいと思う人がいる作品は、3000円ぐらいの入場料をとって上映するとか、将来的にはそんなふうにするしかないのだろうか。あまりありがたくない方式だが、そうでもしないと見れそうにない映画がありすぎる。ポルトガル映画祭のときに、大阪シネ・ヌーヴォの景山氏が、モンテイロをまとめてやりたいといっていたので、それに期待したいが、なかなか難しいだろう。みんな世間で話題になる本しか読まないし、世間で話題になる映画しか見に行かないわけだし。モンテイロはとりあえず「スキャンダラスな映画監督」という線で売り出すのがいちばん手っ取り早いか、などと興行師のようなことを考えてみたりもするのだが・・・。

それにしても、だれがモンテイロを畏れているのか?――こんなことを書いていても、このメルマガの読者でモンテイロのことを知っている人はたぶん5人もいないだろうと思うと、もどかしい。せめてこの早すぎた死が、かれの作品の日本での公開のきっかけとなってくれることを願うばかりだ。

(2003年2月20日発行 「365日間映画日誌」 No. 34 より転載)

 

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