映画の誘惑

TOPその他批評 >退屈さを擁護する

退屈さを擁護する

プロ野球は退屈なスポーツである

日韓共催サッカー・ワールドカップ開催を間近に控え、サッカーファンは盛り上がりを見せている。残念ながら、もともと野球少年だったせいか、サッカーにはいまいち 熱くなれない。というか、なにかとすぐ熱くなるサッカーファンを見ていると、白けてしまうのだ。サッカーとくらべて、というか他のどの球技とくらべても、野球は不思議なスポーツ だ。野球というのは、そのほとんどが「死んだ時間」で出来ている。外野を守ったことのある人ならわかるだろうが、守備についているときは、球が飛んでくるまで野手はなにもすることがない。攻撃のときも、自分の打順がまわってくるまではまったく 暇だ。こんなに弛緩したスポーツはないといってもいいくらいである。見る方もやる方も退屈きわまりないスポーツ、それが野球なのである。 そして、野球を見ることの快楽とは、この「死んだ時間」の退屈さにほかならない。「一死」、「二死」、「死球」、「封殺」。血なまぐさい言葉とは裏腹に、無為の時間がひたすら流れる。この心地よい退屈さ。球と人が絶えず位置を変えつつ動き続けるサッカーには、こうした退屈さは存在しない。だらしない興奮状態が最初から最後 まで続くだけだ。

けれども、人間はこの退屈という奴に我慢がならないらしい。なんとかして面白いものにするために、そこに様々な「物語」を持ち込まずにいられないのだ。野球を描い た映画を何本か思い浮かべてみればいい。ベーブ・ルースが病気の少年を勇気づけるためにホームランを約束するだとか(『ベーブ・ルース物語』)、弱小チームを努力 と根性で優勝させるだとか(『がんばれベアーズ』)、才能ある投手が挫折しながらもレギュラーを獲得していくだとか(『甦る熱球』)、いずれも野球本来の退屈さを 「物語」によって隠蔽しようとするものばかりだ。(北野武の『3-4X10月』にはあるいは野球の退屈さが露呈していたかもしれない・・・)。 「物語」はなにもこういうメロドラマだけとは限らない。それはたんなる「数字」であることもある。プロ野球の中継を見て思うのは、あまりにも数字が多すぎるということだ。バッターが打席に立つたびに、打率が何割、打点が何点、ホームランが何本、 出場日数が何日、はては右投げ投手に対しては打率何割、左投げ投手に対しては打率何割といったデータまでが数字化されてでる。こういう数字も、本質的に退屈なものである野球を面白くするための「物語」であることに変わりはない。 たとえば、イチローという選手はメジャーリーグで首位打者とMVPを取るほどの優れた選手である。けれども、彼の野球から安打数や、打率といった数字を抜き去って しまえばいったいなにが残るだろう。イチローはそんなに面白い選手だろうか? 

映画もまた退屈な芸術である。

ところで、映画もまた本質的に退屈な芸術である。間違わないでほしいのは、それが「本質的に」退屈だということだ。話をわかりやすくするために、二つの退屈さがあ ると言ってもいい。ひとつは、たんに面白くなり損ねた結果としての退屈さ。そしてもうひとつは、映画に本質的な退屈さである。例えば、『インデペンデンス・デイ』 は前者の退屈さに属する作品であり、面白い映画をつくろうとする製作者たちの意図を裏切って退屈きわまる作品として完成してしまったものにすぎない(もちろん、この映画を「面白い」と思う人たちはたくさんいるだろう。世の中には「退屈さ」を「面白さ」と取り違え、「面白さ」を「退屈さ」と見間違う人が多いということだ)。 一方、映画の創生者リュミエール兄弟による、駅のホームに列車が到着する様子や、赤ん坊が食事をする姿を収めたフィルムに刻み込まれているのが、映画が本質的に持っている退屈さなのである。マイホーム・パパが撮ったホーム・ヴィデオでももう少し工夫されているだろうと思うほどの単純素朴な光景。これほど退屈な光景があるだろ うか。

けれども、映画とはそもそもこういうものだったのだ。キャメラの前で今そこに起こっている出来事を愚鈍に記憶してゆく記憶装置、それが映画だったのだ。 そしてここでも、人びとは退屈さに我慢が出来ずにそこに「物語」を求め始める。それが奇術師から映画作家に転職したジョルジュ・メリエスによるトリック映画である。 シネマトグラフの機械を売ってくれと申し出てきたジョルジュ・メリエスにリュミエールが言ったとされる、「映画には未来がない」という言葉はあまりにも有名だ(ゴダー ルの『軽蔑』の試写室に大きな文字で書かれていたのがこの言葉である)。この言葉はふつう、リュミエールが映画の未来を予見できなかったことを皮肉に示す言葉とし て引用されるが、本当にそうだろうか。リュミエールは、映画が本来持っている「退屈さ」がメリエス的な「物語」(SFXによるフィクション)に敗北することを予見 していたのではなかったか? もっとも、ハリウッド映画が築きあげた物語映画の体系は、それはそれで実に見事なものだった。いまでも、その最良の作品を見ることはこの上ない快楽である。けれど も、ロブ=グリエが「今さらバルザックのようには書けない」と言ったように、今さ らホークスやラングのようには撮れない、たとえ撮ったとしても意味はないのだ。これには理由はない。それが歴史というものなのだ。

退屈さを擁護する

急いで補足するが、もちろん、映画が本質的に退屈なものであるというのは逆説である。 風に揺れる木の葉、湖の水面に起こるさざ波、窓から部屋に差してくる日の光。これ らは絶えず変化し続け、その変化は無限である。映画はその無限の変化をとらえることができるのだ。これにくらべれば「物語」はなんと貧しく、退屈なことか。そもそ も映画が始まる前から、「物語」の種などとうに尽きていたのであり、結局は同じ物語のヴァリエーションが延々語られ続けてきたのだった。映画の「物語」は、その語 りつくされた物語をまた繰り返しているにすぎない。どんなものであれ「物語」というのはすべて、リュミエールのキャメラが捉えた「退屈な」現実にくらべれば貧しい ものなのだ。一瞬にすべてを凝縮してしまうしかない絵画からも、意味から逃れることが出来ない文学からも、この「退屈さ」は滑り落ちてしまう。それは映画だけがとらえることが できるものなのだ。そして繰り返すが、この「退屈さ」はどんな「物語」よりも豊かで面白い。

けれども、いつからか人は「物語」の貧しさを豊かさと取り違えるようになった。そ してリュミエール以来映画が本来持っていた「退屈さ」の豊かさは忘れられていった。 ストローブ=ユイレの『早すぎる、遅すぎる』には、エジプトの工場の出口からでてくる人たちを撮した、あきらかにリュミエール兄弟の『工場の出口』へのオマージュ と思われる一場面がでてくる。ストローブ=ユイレはリュミエール的な映画の本質的「退屈さ」を最も過激に現代に受け継いだ映画作家であると言えよう。その証拠に彼 らの映画を見ているものはほとんどいない。『蜘蛛の瞳』、『人間合格』、『大いなる幻影』の黒沢清の映画にも、別のかたちで映画の本質的な「退屈さ」が露呈していた(『カリスマ』は「退屈さ」をいささか取 り逃がしていたゆえに、ぼくは少し低く評価する)。そしてもちろん、結婚や葬式さえも退屈な人生の一コマとして描いた小津の映画を忘 れてはならない。あるいはアントニオーニ、あるいはヴェンダース、あるいはソクーロフの映画。これらすべてを「退屈さ」の名において擁護しよう。擁護しなければならないほどに、映 画の本質的な「退屈さ」は危機に瀕している。教育の世界では学級崩壊が問題になっている。そのうち「映画館崩壊」といったことが起きるんじゃなかろうか。退屈さに我慢がならなくなった観客が、「早く殺人を」 などと叫びながら映画館のなかを走り回る姿をときどき想像してみたりする。荒唐無稽な想像だと思うが、案外近いうちにそんなことにならないとも限らない。

( 2002年1月24日発行 「365日間映画日誌」 No.7 )

Copyright(C) 2001-2018
Masaaki INOUE. All rights reserved.
           
     

masaakiinoueをフォローしましょう

 

映画史を作った30本

グレゴリー・ペック追悼

ジョアン・セザール・モンテイロを追悼する

映画的題名考

What we talk about when we talk about movie?

リアルタイム あるいは距離なき世界

退屈さを擁護する

光の記憶

 

▽DVD新作は「映画DVD新作情報」で