映画の誘惑

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光の記憶

映画は光と影の芸術だと言われる。そもそも、光とはいったい何なのか。いろいろ考えてみたり調べてみたりするのだが、いまだにわからない。物理の世界では長いあいだ、光=粒子説と光=波動説が争ってきた。現代物理学ではこの両方ともが正しいとされている。つまり、光は粒子でもありまた波でもあるということになるが、いったいどういうことだろう。謎だ。

走っている電車の窓から同じ速度でとなりにならんで走っている電車を見れば、その電車はすごい速度で移動しているにもかかわらず止まって見える。だれでも知っている現象だ。けれども、光の速度で移動することができたとして、そのとき別の光を見たらどうなるだろうか。ちなみに光の速度はつねに一定である。当然、そのとき光は止まって見えるはずだと思うだろう。けれども、光の速度で移動しているとき、別の光を見たなら、その光は先へと進んでいくように見えるらしい。これもまた謎である。まあ、高い山の上にいるより地上にいるときの方が時計はゆっくりと進むなどという話が常識になっているような世界だ、なにが起こっても不思議ではない。

さて今、地球から10万光年離れたところにある星が見えたとして、その光は10万年前のものなのだから、その星はとうの昔に消滅してしまっているかもしれない。これまただれもが知っている現象だ。では、もしも超高感度の望遠鏡でその星の地上の様子がはっきりと見えたとしたらどうだろうか。そのとき見える光景は10万年前の光景にもかかわらず、われわれはそれをリアルタイムで見ていることになりはしないだろうか。タイムマシンならぬタイムスコープ。そんな望遠鏡などあるはずないとみんな思うかもしれない。ところがもうそれは存在しているのだ。映画である。

19世紀の終わりにリュミエール兄弟が撮影した映画フィルムには、キャメラの前を横切った人々や事物にあたって反射し、レンズを通り抜けて収斂した光が、化学薬品によってそこに定着している。その映像を今見ることは、いわばリアルタイムでその過去の光を目にすることになりはしないだろうか。鏡に反射した光によって物陰に隠れた物体を見ることができるように、フィルムに反射した過去の光が時を超えて目の前に現前する。幻想といわれればそれまでだが、これがぼくが映画に対して持っている唯一のフェティシズムだ。ぼくは作品としての映画以外のものには興味がない人間で、部屋には映画のポスターは一枚も貼っていないし、映画のポストカードや俳優のブロマイドを買ったこともない。映画のサントラでさえ、ニーノ・ロータのアルバムが一枚あるぐらいだ(それもほとんど聴いていない)。小津安二郎の映画のサントラ集をCDショップで見かけたとき、これを聴きながら縁側でひなたぼっこでもすれば相当気持ちがいいのではないかという誘惑に駆られそうになったこともあるが、我慢した。結局、いい映画音楽ほど映画の外で聴いたらつまらないものだ。そんなぼくが映画に対して持っている唯一のフェティシズムが、映画の光に対するフェティシズムなのである。

映画の一コマ一コマには、過去のあるとき被写体に当たった光がそのままのかたちで捕らえられている。そしてその映画が上映されるとき、その光はふたたび解き放たれて、スクリーンから放出されるのだ。映画の光に対するこの「現実信仰」といってもいいようなものを、ぼくはいまだに手放すことができない。ヴィデオという媒体を今でも信用することができない理由はそこにある。フィルムで撮られたものにくらべたときの、ヴィデオ映像の圧倒的な質の悪さは二次的な理由にすぎない。いちばんの理由は、ヴィデオというのがたんなる磁気の配列にすぎないということだ。ヴィデオテープをいくら光に透かしてみてもなにも見えはしない。本物の光は失われてしまっている。というか初めからそこにないのだ。ヴィデオというのはそもそもの初めからコピー(=まがい物)でしかない。(だから、中田秀夫の『リング』ではヴィデオをコピーすることで悪霊からまぬがれることができたが、映画のフィルムに霊が映っていた『女優霊』では、その手が効かなかったわけだ、関係ないか? まあ、どっちもつまんない映画だったが・・・ 今度の『仄暗い水の底から』は「魂を揺り動かす戦慄のグランド・ホラー」だそうだが、本当に期待していいんだろうか?)CGを使ったいわゆるSFXの技術に映画の可能性を感じることができないのも、決して嫌いではない宮崎駿のアニメを映画館で見たことがないのも、同じ理由だ。

むろん、映画の光も結局は映写機のランプの光にすぎない。けれども、ごくまれに、映画を見ているときに、ここには紛れもなく過去の光が現前していると思う瞬間がある。ストローブ=ユイレの驚くべき作品群は、まさにそのような瞬間だけでできているといっても良い。『セザンヌ』や『黒い罪』の画面のすみずみを満たし、たえず推移するあの陽光。あるいはゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』の水面に散乱していた光。あれをどうやって言葉で説明したらいいのだろう、ただ見てくれというしかない。最近では例えば、ネストール・アルメンドロスが撮影を担当したユスターシュの『僕の小さな恋人たち』に、そのような光があふれていた。こうした光を眼にしたとき、ぼくは「物質的恍惚」(ル・クレジオ)とでも呼べそうなものに襲われる。まるでフロベールの小説を読んでいるときのような恍惚感・・・。もっとも、これはだれにでもできることではない。凡庸な作家には凡庸で平板な光しか捉えられない。結局これは技術の問題ということになるのだろうか。だとしても、その技術はテクノロジーというよりも、たとえば印象派の画家が絵の具とパレットナイフに対して持っていた技術により近いものだ。光を捉える技術、というよりも光を捉えたいという欲望。それは現在ますます失われつつある。そして、凡庸な光と合成映像だけが蔓延してゆく。

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要するに、問題は、映画的なものとヴィデオ的なものとの関係ということになるだろうか。ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』で、主役の映画監督ポール・ゴダールが教室でヴィデオを見ながら話をする場面。黒板にはこう書かれてあった。

          カインとアベル
          映画とヴィデオ

神はカインが育てた農作物を受け取らず、アベルの飼っていた羊の供え物だけを受け取った。嫉妬したカインは弟アベルを殺した。人類最初の殺人事件だ。ヴィデオに嫉妬する映画? けれども映画にはヴィデオを殺すことはできなかった。むしろ映画はヴィデオに殺されかけている。それとも映画はヴィデオによってかろうじて延命させられていくのか。いずれにしても、映画の楽園はもうとうに失われてしまっている。

( 2002年1月17日発行 「365日間映画日誌」 No.6 より転載。)

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