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リアルタイム あるいは距離なき世界

リアルタイム あるいは距離なき世界

ふだん何気なく使っている言葉の意味が急にわからなくなることがよくある。というより初めから意味がわからずに使っていたことに気づくと言った方が正しいかもしれない。「リアルタイム」という言葉がある。湾岸戦争は世界初のリアル・タイム戦争である、などといわれたりする。この手の訳のわからない和製英語は多いので、これもその一つかとも思ったが、辞書にもちゃんと載っている正式な英語らしい。だが、このリアルタイム=現実時間というのはいったい何なのか。例えばこれを書いている今、目の前には愛用しているパソコンのモニターが見えているのだが、これをわざわざ「モニターがリアルタイムで見える」と言ったりはしない。けれどもこのモニターにテレビ電話のような形で遠い世界の映像が映し出されるとき、それは「リアルタイム」で見られた映像ということになる。つまり、「リアルタイム」というのは、手が届かない場所という距離を前提としつつも、同時にその距離が無化されるという矛盾した状態を指しているということだ。携帯電話によるリアルタイムのテレビ会話もそう遠くないうちに日常の風景と化しているだろう。インターネットが急速に普及した今日、世界はリアル・タイムでひとつになりつつある。それどころか、フランスのある新聞記事によると、2004年までに惑星間のインターネット通信を可能にすべく実験が進行中だという。もしそれが実現するなら、惑星間の距離さえもが廃棄され、リアルタイムで結ばれることになる。マンションのとなりの住人の顔もわからないというのが都市的な関係のあり方であり、住民全員が顔見知りというのが村社会的な関係のあり方だとすると、インターネットでつながりあったこの電脳社会は、隣に住む人間の顔さえ知らないのに、地球の裏側の見知らぬ他人の部屋の様子までがリアルタイムで手に取るようにわかってしまうという、奇妙な村社会である。マクルーハンの言うグローバル・ヴィレッジ(地球村)とはこのような社会を正確に予言していたのだった。だが不思議なことに、世界がリアルタイムでひとつになればなるほど、リアルさは遠のいてゆくように思える。

ハワード・ヒューズ あるいは距離の喪失によって発狂した男

ところで、往年のハリウッドのプロデューサーのなかにハワード・ヒューズという男がいたのをご存じだろうか。プロデューサーというのは、今でこそ映画を売り物にするただのビジネスマンといったものに多くは成り下がっているが、かつてのハリウッドには圧倒的な権力を一手に握って君臨するとんでもない怪物プロデューサーたちがいた。ハワード・ヒューズもそのひとりだ。十代で親からヒューズ工具会社とともに莫大な遺産を受け継ぎ、やがてハリウッドに進出して、ホークスの『暗黒街の顔役』やスタンバーグの『ジェット・パイロット』を製作し、ついにはみずからが監督に乗り出し『ならず者』という忘れがたい西部劇を撮ることになるこの男は、『市民ケーン』のモデルのひとりともされ、またウォーターゲート事件と関係していたとの噂もあり、CIAに利用されていたとも言われる。要するに謎の男だ。ハワード・ヒューズはまたみずから操縦桿を握ってスピードに挑んだ飛行機狂としても知られていた(彼は飛行機熱と映画とが合体した壮大な失敗作『地獄の天使』をみずから監督してもいる)。ヒューズは晩年、数時間で世界一周を達成したあと心神喪失に陥り、ラスベガスのホテルに閉じこもって外界から遮断された生活を送り、ついには精神病患者として死ぬことになる。それはあたかも征服すべき距離を失ったことが、彼を狂気に追いやったかのごとくであった。なにもかもがリアルタイムで結ばれ、圧倒的な速度の結果、速度の意味さえもが失われかけている今われわれがいる状況を考えるとき、ぼくはときどきこのハワード・ヒューズの晩年のことを思い浮かべる。世界との距離が消失してしまったことで、精神に異常を来してしまった男のことを、一種の警告のように考える。映画というのは詰まるところリアルタイム的なものとは対局にある存在ではないだろうか。当たり前の事実だが、この当たり前の事実にこだわってみたい。ひょっとして映画というのは失われつつある世界との距離を取り戻すための道具ではないのか。漠然とそんなことを考えてみたりする。

『カンダハール』 あるいは映像なき国の映画

テロ事件に続く米国のアフガン空爆で、この数ヶ月間のうちにわれわれはテレビでいやというほどアフガンのイメージを眼にしてきた。そして短期間のうちにイスラムについて「学習」しもした。だが、本当のところわれわれはいったいなにを見たというのだろうか。『カンダハール』を見終わった観客の少なからずがある種の欲求不満を覚えるだろうことは予測できる。自分たちはテレビでこれよりも生々しい映像をリアルタイムで眼にした、それにくらべればこの映画は物足りない。そんなふうに思った観客は少なくないはずだ。けれどもそれは単純にいって間違った見方だろう。「映画は現実の反映ではなく、反映の現実だ」というゴダールのテーゼを今さら持ち出すべきだろうか。そもそもこの映画はアフガン空爆以前に撮られていたのだし、それに撮影の大部分はイランで行われたものだ(アフガンにはあんな平坦な道はない。それは見る人が見ればすぐにわかるそうだ。要するに、われわれはそんなことさえわからないほどアフガンについては無知なのだ)。だから、そこにアフガン空爆後のイメージを安直に重ねて見ることは、避けがたい誘惑であるとはいえやはり間違いである。まずは、映画をひとつの完結した作品として見ること。話はそこからである。

マフマルバフの映画はどれも堂々巡りの映画だ。同じ円周の上をぐるぐると回り続ける『サイクリスト』の自転車こぎのように、マフマルバフ映画の主人公たちはつねに同じ物語をめぐり続ける。『行商人』の3つのエピソードは冒頭へと回帰して終わり、『パンと植木鉢』のふたりはマフマルバフ自身がかつて生きた物語を繰り返す。だから、『カンダハール』のヒロインが決してカンダハールに住む妹に再会することはないだろうし、物語はおそらく冒頭に回帰して終わるだろうことも、なかば予測できたことである。この映画の撮影が困難を極めただろうことは容易に推測できるが、ヒロインが妹に会わずに終わるのはむろん最初の段階から決まっていたことに違いない。タイトルとなっているカンダハールが決して画面に現れないのも、撮影が不可能に近かったというよりも意図的な選択であろう。凡庸な監督ならば、妹をめぐる救出劇を冒険映画ふうに撮ったことであろうが、もちろんそれはマフマルバフが撮ろうとした映画ではない。カンダハールの街もヒロインの妹も不可視の中心としてこの映画では機能している。それは冒頭と最後に現れる日食のイメージとも重なってくる。見せることと隠すこと。それがこの映画の中心テーマである。ブルカがその究極のイメージであることはいうまでもない。ヒロインとアメリカ人の黒人医師(演じている男はソ連と戦うためにアフガンに入った本物のブラック・ムスリムである)との小さなのぞき穴を介してのやりとりでも、このテーマは反復されている。この映画はなかば実話に基づいたドキュメント・フィクションであり、ヒロインを演ずるニルファー・パズィラは実際にアフガンからカナダに亡命し、そこでアフガンにいる友人から自殺をほのめかす手紙を受け取ったのだった。だとしても映画のなかのヒロインの妹の存在は物語を語る上でのたんなるきっかけにすぎない。そもそもヒロインに妹がいること自体が怪しい。彼女の存在はいわば人々が必死で探し求める失われた幻の片脚のようなものだ。妹を最後まで登場させないことで、ヒロインの物語は全アフガン女性の象徴になる。たしかに、映画のエンディングは唐突に思えるかもしれない。予定では、実際に皆既日食になり、嵐が来る場面が撮影されるはずだったが、様々な理由で撮れなかったとも聞く。とはいえ、マフマルバフの映画の円環構造は必ずしも絶望を意味するわけではない。『パンと植木鉢』で若い主人公たちが反復するマフマルバフ自身の物語において拳銃とナイフがパンと植木鉢へと変わっていったように、円環のなかでなにかがずれてゆく。

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今現在、テレビにはアフガンからの様々な現地情報がリアルタイムで流れている。けれどもそれでいったいなにを見たことになるのか。あえて不可視のものを中心に置いたこの映画は、そうしたイメージのありようじたいを批判しているように思える。マフマルバフが出版した本『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』は、最初『アフガニスタン 映像のない国』というタイトルが付いていたという。アフガニスタンが必要としているのはメディアが伝えるリアルタイムの映像なのだろうか。マフマルバフ自身がどう考えているかはともかく、それは違うような気がする。あえて言うなら、マス・メディアの映像は結局は支配者による被支配者の映像にすぎない。アウシュビッツのユダヤ人の映像がナチスの撮影した映像にすぎなかったように。だが、これはまた別の話である。

 

( 2002年2月20日発行 「365日間映画日誌」No.9 より転載。)

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