映画の誘惑

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What we talk about when we talk about movie?

形容詞が映画を殺す

映画館から出てきた観客の、「超面白かった!」とか、「今まで見たなかで一番すごかった!」とか、「ディカプリオ、最高!」などといったオバカなコメントが映画のテレビ・コマーシャルに使われるようになったのはいつからだろう。「落ちないと思っていた汚れが今は真っ白。○○にしてよかった」などと主婦がしゃべる洗剤のコマーシャルじゃあるまいし、手抜きせずにちゃんと映像で勝負しろよな、と思うのは自分だけか。ま、それはいいとして、「あの映画どうだった?」と人に聞くと、「面白かった」とか、「すごかった」とか、「かっこよかった」などといった言葉がたいてい返ってくる。形容詞のあとには「。」が来てそこで文は終わる。話もそこで終わる。形容詞というのは、いわば、ものに貼るラベルのようなものだ。「あいつは馬鹿だ。」「あいつは賢い。」「あいつは格好いい。」「あいつはダサい。」ラベルを貼ってそれでおしまい。良い意味のものであれ悪い意味のものであれ、わたしは人にラベルを貼られるのが嫌いだ。だから、形容詞で語られるのも嫌いだ。形容詞は、それが用いられる対象を貧しくする。しかも今は形容詞自体が極貧状態にある。なにを見ても「かわいいー」を連発する女子高生たち・・・(この「かわいいー」のなかには、ひょっとしたら無限の意味が込められているのかもしれないが、それを他人がわかってくれるはずと期待するのは、「甘え」というものだ)。もちろん、形容詞を使わずになにかについて語るのは難しい。事実、このメルマガでも何百回となく形容詞を使ってきた。それはそうとして、ためしに一度、形容詞を使わずに映画を語ってみればどうだろう。たったそれだけのことで、映画との関係が変わるはずだ(もっとも、こんなことはわかった上であえて、「フォードは美しい」などとぬけぬけと書く高名な批評家もいたりするのだが、こういうのは芸のない人間が真似するとただ恥ずかしいだけなので、注意が必要だ)。

フランソワ・オゾンとダグラス・サーク?

『8人の女』が今話題になっているフランソワ・オゾンの前作『まぼろし』と、平山秀幸の『笑う蛙』を京都みなみ館に見にゆく。シャーロット・ランプリング演じる人妻が、夫(ブリュノ・クレメール)とふたりで海辺のヴァカンスに出かけるのだが、彼女が浜辺で眠っているあいだに夫は忽然と姿を消してしまう(眠っているあいだにというところが重要なのだ、たぶん)。事故なのか、失踪なのか、自殺なのか。この文字通りの消失を受け入れることができず、彼女は静かな狂気のなかに身を任せてゆく、というお話。誰もいないはずの自宅に帰ると、シャーロットはそこにいるはずのない夫に話しかける。すると、あろうことか夫は画面に姿を現すのだ。彼女はこうしてこの「まぼろし」の夫と生き始める。だがその一方で、彼女は、知り合った中年男と関係を持ち、「浮気」をするのはこれが初めて、と平然と言い放つ。(と、この辺まで見たところで客席のなかでうとうとし始め、そのうちガーっと寝入ってしまい、目が覚めたときにはシャーロットがすっかり正気に戻っていたので軽い衝撃を受ける。まさに幻を見た思いだった。)途中寝てしまったので、一本の作品としてはコメントしづらいが、いちばん気になったのは、夫の幻影を画面に収めるやり方だ。どうも芸がないような気がした。映画全体がシャーロットの側にのめり込みすぎているように思える。ほんの一瞬でいいから第三者の視線が感じられる演出になっていれば、もっと全体が緊張感あるものになったのではないか。

それにしても、『コンセント』だの『アンテナ』だの、最愛の者が失踪したり、死んだりしたあと、残された人間がそれをどう乗り越えるか・・・、みたいな話にはいい加減もううんざりさせられる。最近読んだもののなかでは、「このごろずいぶんよく消える。いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる」という言葉で始まる川上弘美の「消える」という短編(『蛇を踏む』文春文庫所収)は、当たり前のように人が消えたり現れたりする世界を描いていて、かえって新鮮だった。ま、今そんな話はどうでもいいか・・・。聞くところによると、『8人の女』では、オゾンはダグラス・サークをやってるらしい。どうなんだろうか。ファスビンダーの原作を映画化してるぐらいだから、その流れでサークが来ても別に不思議はないが、予告編を見る限りサークとはあまり関係がなさそうだったな。

関係ないが、つい最近まで、フランソワ・オゾンって女だと思いこんでいた。フランソワという名前からして明らかに男だとわかるはずなのに、なぜだろう。ま、こういうことはよくあって、高校生のころ、マルグリット・デュラスのことをしばらく男だと思いこんでいたこともあった(そういえば、三島由紀夫は、『ハドリアヌス帝の回想』を書いたマルグリット・ユルスナールが女であることをあとになって知り、どうしても信じられなかったという話もある)。当時は、今ほど情報にあふれていず、デュラスの顔写真を見る機会もなかった。本によっては「マルグリット・デュラ」となっているのもあったほどだ。エマニュエル・レヴィナスが「エマニュエル・レヴィナ」となっているのもあった。ダグラス・サークも、この読み方で本当にいいんだろうか、と一抹の不安が残る。考えてみれば、Sirk という名前は結構変ではないか。92,500 もの名前を収録している三省堂の固有名詞英語発音辞典にも Sirk は出てこない。むかし、ダニエル・シュミットが大阪に来たときは、たしか「ダグラス・シャーク」と発音していたような・・・。いや、待てよ、タランティーノの『パルプ・フィクション』には、字幕にはなっていなかったかもしれないが、「ダグラス・サーク・ランチ」という台詞が出てきたはずだ。あのときは、たしかに「サーク」と発音していた気がするが・・・。なんだか変な話になってしまった。

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『笑う蛙』は、『学校の怪談』などの平山秀幸監督作品(最近では『OUT』が評判)。公金横領で逃走中の夫が、押入の中に隠れてのぞき穴から妻の寝室をのぞく・・・。これがポルノだったらもっと面白かったんだろうが、まっとうな演出がされていて、エロくもえぐくもならず、退屈。評価する人もいるようだが、個人的には、この監督の映画は面白くも何ともない。『学校の怪談』シリーズも、『亡霊学級』の鶴田法男にやらせたほうがずっといいのにな、と、いつも思っているのだが・・・。

「わからない」がわからない――ゴダール難解神話

この二本を見て、そのままみなみ館から朝日シネマにはしごしてゴダールの『愛の世紀』を見る。その前に古本屋で、セリーヌの『死体派』が新品同様で半額で売られているのを見つけ、つい買ってしまう。またまた予定外の出費。『愛の世紀』とセリーヌは少なからぬ関係があるのだが、今はそんな話をする気分ではない。『愛の世紀』を見るのはまだこれで二度目だ。京都はみなみ館でやるものと思っていたので、かなりがっかりである。朝日シネマはスタンダードがちゃんとかからないのはわかっていたが、今見逃すとしばらく見る機会がないので、覚悟して見に行ったのだった。思った以上に画面の上が切れていたので、ちょっと落ち込んだ(ほとんどヴィスタである)。今回は確認のために見に来たのだからと自分を慰めながら見た。二回目でやっと全体をある程度つかめたように思う。

新しい発見は色々あったが、長くなるので内容には立ち入らない。それにしても、最近のゴダールは難しいという「ゴダール難解神話」はいまだに健在のようだ。一度見ただけで、「わからない」という人がいるのだが、そんなの「わからない」のが当たり前ではないか。こういうひとは、初めて人に会ったとき、一度その人を見ただけで相手のすべてが「わかった」と思うんだろうか。そもそも、「わからない」という言葉が、わたしにはわからない。入試問題でもあるまいし、正しい答えが用意されているわけでもないのだから、「わかる」も「わからない」もないではないか。ゴダールの映画を見てわからないと言うのは、木の葉が白い葉裏を見せながら風に揺れているのや、湖の水面に複雑な波模様が描かれるのを見て、「わからない」とつぶやくのと同じぐらい、わたしにはわからない。ベートーヴェンの音楽を聴いて「わからない」人はいないだろう。かといってそれは「わかる」ものでもないはずだ。ゴダールの映画だって同じだ。ただ目を大きく開けて見、耳を澄ませて聞いていればいい。もちろん、それだけではあまりにも白痴的な見方かもしれないが、「わからない」と乱暴に言って感覚を閉ざしてしまうよりはましである。

「家族愛のすばらしさ」とか「命の尊さ」とか、そういうわかりやすいテーマが描かれていたら、みんな安心するのかもしれないが、そんなのわざわざ高い金を払って見に行かなくても最初からわかっていることなんだから、それが「わかった」ところでなにが面白いの、と思う。難解な映画はいらない、映画は大衆のためにある、などという人がどこにでもいて困るのだが、「大衆」とか「庶民」っていったい誰のことやねん。おれも「大衆」なの?、と思ったりもする。「自分は数百万人の観客に向けて映画を撮っている」、などと平気で言ったりするスピルバーグは、単純に言って信じられない。数百万人の観客など、抽象としてしか存在しない。数百万人の観客のひとりひとりの顔を思い浮かべることなど誰にもできない相談ではないか。それよりも、「自分は数人の友人のために映画を撮っている」というブニュエルの方がはるかに誠実だと思う。数百万人のために作る映画なんて、結局はさっき言ったような、家族愛とか戦争反対とか、そんなわかりよいメッセージを中心にすえた抽象的な構図に収まるしかない。ところが妙なことに、観客は、スピルバーグが撮るような映画の方が具体的でわかりやすいと思い、逆に、そんな抽象に収まりきらないところにまで踏み込んだ映画は、抽象的でわかりにくいと思ったりするものなのだ。いやはや。最後に、誤解のないように言っておくが、スピルバーグは、とくに思い入れがある監督ではないがけっして嫌いではないし、そんな単純な奴だとも思っていない。名前を出したのは、たんに話を「わかりやすく」するためだ。もちろん『マイノリティ・リポート』も見に行く。

( 2002年12月4日発行 「365日間映画日誌」 No.31 より転載。)

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