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映画的題名考

フランスの新聞「リベラション」に、深作欣二の死を伝える記事が載ったのだが、そのとき初めて、『仁義なき戦い』のフランス・タイトルが『Combat sans code d'honneur』だということを知った。訳すとすれば、「作法なき戦い」ぐらいの意味になるだろうか。「code d'honneur」(ふつうは、「code de l'honneur」と書く)というのは、ギャング映画などでもよく使われる言葉で、ファミリー内の、あるいはファミリー同士のあいだの侵すべからざる礼儀作法を意味する。「仁義」の訳としてはまあそんなところなのだろう。この言葉から漠然と広がるイメージを過不足なく伝える外国語など、あるはずもない。ちなみに、『仁義の墓場』は、別の辞典で調べると、『Le cimetiere de Jiugi』と訳されているのだが、例によって「Jiugi」とスペルが間違っている。そういえば、ジャン=ピエール・メルヴィル(『勝手にしやがれ』で、ジーン・セバーグが空港でインタヴューする監督)がアラン・ドロン主演で撮ったギャング映画に『仁義』というのがあったが、調べてみると、あれの原題は『Le cercle rouge』(宿命を意味する「赤い輪」を示す言葉)で、邦題とはまるで関係のないものだった。しかし、メルヴィルの映画と「仁義」という言葉は不思議と違和感がない。

ともあれ、『Combat sans code d'honneur』にせよ『仁義』にせよ、いずれも訳題としては上等な方である。むかし日本で公開された洋画のなかには、それこそ仁義を無視して好き勝手な邦題をつけられたものが多かった。たとえば、ルイ・マルが冬季オリンピックを撮ったドキュメンタリーは、なぜか『白い恋人たち』と名づけられている(日本の配給会社が、『恋人たち』のルイ・マルだから恋愛映画だろうと早とちりして映画を見るまえに邦題を決めてしまったという説がある)。ダリオ・アルジェントの『サスペリア2』に至っては、一作目の『サスペリア』よりも先に撮られていて、しかもまったく無関係な話ときている(こちらは『サスペリア』のヒットに便乗した確信犯的なミステイクだろう)。日本未公開作品や、劇場公開されるときにはふつうのタイトルだった映画が、ビデオ化されるときにひどいタイトルをつけられることも少なくない。ジョン・ヒューストンのボクシング映画の傑作『Fat City』は『ゴングなき闘い』という恥ずかしいビデオ・タイトルになっているし、ガレルの『夜風の匂い』のビデオには「人妻エレーヌ」という信じがたい副題がついている。ここまでくればもう犯罪と言っていいだろう。

そんなわけだから、最近は、向こうの配給会社が、原作のイメージをそこねないために、邦題は原題のカタカナ読みにしてくれと言ってくることが多いらしく、むかしのようなユニークなタイトルの洋画が少なくなったのはちょっと残念だ。とはいえ、タイトルを英語のカタカナ読みにすればみんなわかってくれるほど、日本人の英語力は高くない。『プライベート・ライアン』の「プライベート」が、あるいは『モンスターズ・インク』の「インク」が、どういう意味かわかっている人がどれだけいるだろう。ひょっとしたら、『シックス・センス』の「センス」の意味さえ知らない人もいるかもしれない。(映画とは関係ないが、「ショート・ケーキ」の「ショート」とか、「フリー・マーケット」の「フリー」の意味、知ってますか?)

▼The Two Towers

『ロード・オブ・ザ・リング』の続編がまもなく公開されるが、そのタイトル「二つの塔」 The Two Towers が、ワールドトレードセンターを連想させるという理由で、当初、別のタイトルに変える予定があったらしい。だが、監督のピーター・ジャクソンが、原作のタイトルは変えるべきでないと主張し、そのままのタイトルが残ることになった。賢明な判断だったと言えるだろう。青山真治の『Eureka』ではないが、トラウマというのは臭いものにふたをするように忘れてしまうことで乗り越えられるものではないはずだ。

『指輪物語』の作者トルキーン(トルーキン or トールキンと書く人もいる)は、第一次大戦中に見出した、善と悪、強さと弱さ、対立と和解などをめぐるテーマを、第二次大戦のさなかに物語化して書き進めていったと言われている。具体的には、『指輪物語』は、1936年から49年にかけて執筆され、54年から56年に出版された。周知のように、主人公は最終的に、それをもつ人によって巨大な悪の力とも善の力ともなりうるという指輪を、善に利用するのではなく、永久に捨て去ることを決心する。アメリカで『指輪物語』がヒットするのが、ベトナム反戦運動が盛り上がる60年代末だったというのは、うなずける話だ。指輪がなにを象徴しているのかについては、むかしからいろいろな解釈があるが、60年代頃から、指輪は核兵器の象徴ではないかという解釈がしばしばなされてきた。もちろん、これはひとつの解釈にすぎず、どんな解釈も、必ずと言っていいほど物語をつまらなくしてしまうことにしか役立たないものだ。とはいえ、指輪のように恐るべきパワーを備えてしまったアメリカが、そのパワーを「善」のために使うと称して、またもや他国に「人道的介入」(要するに軍事的介入)を行おうとしている今、映画というかたちでこの物語がふたたびブームになっているのは、どうも偶然とは思えない。まあ、それやこれやで、『ハリー・ポッター』なんかガキが見に行くごみのような映画じゃねぇかと言いつつ、『ロード・オブ・ザ・リング』の一作目は見に行ってしまったのだった。惰性で『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』も見に行ってしまいそうだが、もちろんそこに現実のツインタワーが出てくるはずはないだろう。それどころか、テロ以後に公開されたアメリカ映画のなかにニューヨークのツインタワーが出てきたのをまだ見たことがない。いや、なかったのだ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』を見るまでは。

▼複数形のアナーキズム

いくらニューヨークの話だとはいえ、時代は19世紀だし、撮影されたのはイタリアだし、まるで予期していなかっただけに、最初見たときは一瞬目を疑ってしまった。むろん、スコセッシはこの映画がただの昔話ではなく、現代と地続きの歴史であることをあえてタブーを犯して示しているのだ。

さて、映画のタイトルの話をしてきたのだから、まずは、この映画の題名のことを話題にしようか。スコセッシの『ギャング・オブ・ニューヨーク』の原題が、実は、Gangs of New York であり、正しくは「ギャングズ・オブ・ニューヨーク」と複数形読みにしなければならないというのは、見逃すことのできないポイントである。この複数形のもつアナーキズムこそが、スコセッシの描きたかったものに思えるからだ。ドラマの中心は、ディカプリオが、父親の仇を討つために近づいたダニエル・デイ・ルイスに憎しみを覚える一方で、かれに惹かれてゆくという、疑似父親殺しの物語にあるのだが、実はこのドラマの部分がこの映画でもっとも弱い部分であると言ってもいい。もっとも、スコセッシの映画の場合、これはいつものことであり、この映画の場合も、ドラマ的な弱さは作品の魅力になりこそすれ、欠点とはならないだろう。とはいえ、ディカプリオとキャメロン・ディアスのラヴ・ストーリーを期待していた人には、期待はずれに終わるに違いない。

プロテスタントの「ネイティヴズ」とカトリックのアイルランド移民の「デッド・ラビット」というふたつのギャング集団の対決で映画は始まる。この対決は、世代を越えてラストでもう一度繰り返されるのだが、その二つの対決のあいだに、チャイニーズやブラックなどの人種が入り混じるニューヨークのカオス状態が描き出されてゆく(ディカプリオが「アムステルダム」と名乗っているのは、もちろんこの地に最初にやってきたオランダ人への言及だ)。しかし、「ネイティブズ」と「デッド・ラビット」の最後の2度目の対決に重なるように、63年の有名な徴兵反対暴動が起こり、かれらギャングたちをいいように動かしていたブルジョアたち、政治家たち、腐敗した連邦政府こそが、実は最悪の「ギャング」たちであることが、ここではっきりとし、ダニエル・デイ・ルイスとディカプリオの決闘は、なし崩し的に意味を失ってゆく。(ラストに流れる U2 の"The Hands That Built America"はアイロニーとして聞いておこう。「人々の手がアメリカを作り上げた」という歌詞はあまりにも空々しすぎる)。

ストーリー性をあえて犠牲にしてまで、スコセッシはこれら様々な層の重なり合いを描くことに力を注いでいる。歴史の年表に出てくるような出来事をむしろ背景において、ときには細部の史実をゆがめてまで、スコセッシはいわば神話的な世界、暴力と混沌のなかから生まれたアメリカという国の起源の神話を、語ろうとしたようだ。[スコセッシ流『国民の創生』? そういえば、この『ギャング・オブ・ニューヨーク』には、舞台でリンカーンの真似をしていた役者が、ブーイングを受けて客席からものを投げつけられる場面がある。『国民の創生』のなかで、そのリンカーンを暗殺する男、ジョン・ウィルクス・ブースを演じていたのが、のちの映画監督ラオール・ウォルシュだった。そして、『ギャング・オブ・ニューヨーク』には、ウォルシュのボクシング映画『鉄腕ジム』を意識したに違いない場面が存在する・・・。]

さて、スコセッシは成功したのか。結論から言うと、2時間50分というのは、中途半端すぎる。いっそベルトルッチの『1900年』みたいに5時間ぐらいの長さがあれば、それなりに感動的なものになっていたかもしれない。しかし、これはたんに長さの問題ではないだろう。ロメールの『グレースと公爵』は、これよりもはるかに短い上映時間、はるかにミニマルな構成で、歴史の真髄に迫っている。流麗ともだらしないとも言えるスコセッシのキャメラワーク(それは多かれ少なかれ今のハリウッド映画に共通するものだ)からは、けっして細部が粒立って現れることがない。これだけ多くの人間たちが描かれていながら、見終わったあとに覚えているのは、ディカプリオとダニエル・デイ・ルイスとキャメロン・ディアスの顔だけだ。タイトルのもつ複数形を、画面が裏切っている。かといって、同じような時代とテーマを描くマイケル・チミノの『天国の門』のような偉大なる失敗作になることもできず、それなりにマーケティングに成功してしまっているところが、また中途半端なのだ。実は、ディカプリオという俳優にはあまり興味がなくて、主演作もあまり見たことがなかったのだが(もちろん『タイタニック』ぐらいは見ているが)、この映画ではじめて俳優としての存在感を感じた。それだけでも収穫と言えるだろうか。

( 2003年2月1日発行 「365日間映画日誌」 No.33 より転載。)

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