イオセリアーニが異邦人の眼で作り上げたパリは、仮借のない冷徹さで描かれていながら、不思議な幸福感を与えてくれる。
色鮮やかな玩具を前に遊ぶ女の子のかたわらをマラブーと呼ばれる大型のコウノトリがゆっくりと動き回っている。窓には激しく雨が打ちつけ、となりの部屋からはシューベルトの歌声が聞こえている。イオセリアーニ自身が演じる父親が2日酔いのだらしない格好で現れると、いかにも口うるさそうな妻君が、邪魔だとばかりに寝室の方へと突き戻す。となりの部屋にキャメラが入っていくと、そこでは大勢の客を前にしたパーティが行われていて、いつの間にか先ほどのマラブーが妻君の肩の上に乗って芸を披露している。
グルジアの巨匠イオセリアーニがパリを舞台に撮り上げた映画『素敵な歌と船はゆく』はそんなふうに始まる。マラブーという鳥は、イスラム教では不思議な霊力を持つ賢者を意味するという。そのノンシャランとしたとぼけた雰囲気は、イオセリアーニを鳥にたとえるならばまさにこれだろうという気にさせる。と同時に、その眼はまわりの人間たちの振る舞いを冷静に観察しており、その愚かしさに対しては軽蔑を込めてその大きな羽を広げてみせる。この長い足とくちばしをユーモラスに動かしながら優雅に歩き回る鳥の姿を見たとき、わたしはこの映画が好きになると確信した。
今舞台となっているのはパリの郊外にある城館(シャトー・マンサール?)。まわりには森が広がり、父親は妻君が留守のすきにそこでワイン片手にクレー射撃を楽しむ。近くを流れる河からボートに乗れば、そこは一瞬にして対岸にオルセー美術館を望むセーヌ河岸だ。不思議な空間である。映画はこの城館とパリを往復するように進んでゆく。ここに描かれるのは見慣れていると同時に、今まで見たことのないパリの姿だ。異邦人の眼だけがとらえることのできる、あるいは創造することのできるパリ。パリのようなパリでないようなその街を、普通のようでもあり普通でないようでもある人々が歩き回り、すれ違い、歌を奏で、別れてゆく。まるで物語のないおとぎ話を見ているような、連続する幕間劇を見ているような、そんな不思議な味わいの映画である。見るものだれもが幸福感をおぼえるに違いない映画、見たあとでつい「人生とは・・・」と語り出したくなるような、そんな映画だ。
とはいえ、イオセリアーニはそのなかに若者たちの暴力や、俗物的な拝金主義、あるいは貧富の差といった負の部分を書き込むことを忘れてはいない。というよりも、冷静に見ればここには明るいものなど何一つ描かれてはいないと言った方がいいかもしれない。たとえば、動物病院でバイオリンを弾く少年が登場するのだけれど、その一見純粋無垢な少年が、窓の外で物乞いをしている青年に「今銀行から出てきたおばあさんはお金を引き出したところだよ」と、暗に強盗をそそのかす場面を見たときわたしはぎくりとした。それまでは、ほのぼのとした人間模様が描かれた映画だと思って見ていたのだが、これはそんな映画じゃないぞと気づかされた瞬間だった。けれども映画はそうした部分に深入りはせず、あくまでその表面をモザイク状に写し取ってゆくだけだ。まさに、賢者の映画といったところだろうか。
こうしたスタイルや、あるいはさまざまなノイズ音の使い方などに、わたしはジャック・タチのことを思い浮かべながらこの映画を見ていた。実際、イオセリアーニ演ずる父親はその演技だけでなく、その柔らかな無言の反抗といったものがタチを思い出させずにはいない。父親がタチだとすれば、彼が意気投合する浮浪者は、ルノワールの『素晴らしき放浪者』の、あるいはヴィゴの『アタラント号』のミシェル・シモンを思い出させる。それだけでなく、この2本の映画は「河」というテーマでこの映画と深く関わっているようにさえ思える。ところで、ルノワールやヴィゴといった裸形のパリを描いた作家たちの系譜を考えるとき忘れてはならないのは、サイレント時代のフランス映画を支えた映画監督のひとりルイ・フイヤードの存在である。
日本では今やほとんど忘れられた存在となっているが、わたしはフイヤードの大ファンだ。ロケーション撮影を多用する彼の映画のなかには、都市の記憶が生々しく息づいていて、たとえば『ファントマ』のなかに当時の本物のパリの地下鉄の姿が収められているのを眼にするだけで、わたしなどは感動してしまうのだが、この『素敵な歌と船はゆく』のなかには、フィヤードの別の映画に出てきたパリの郊外の河沿いの道がそのサイレント時代のころの面影そのままに現れる場面があり、思わずこの道は知っているぞと叫びそうになった。
ところで、この映画にはさまざまな乗り物が現れる。細君がビジネスに使っているヘリコプター、その息子のローラースケート、鉄道清掃員の青年が金持ちの振りをして乗っている借り物のハーレー・ダヴィッドソン、あるいは女中が城館と街を行き来するときに使うスクーター。そしてもちろん船である。船にもいろいろある。セーヌの河岸に横付けされたままただただ逢い引きの場所として利用されるばかりの船もあれば、同じ場所を行き来するだけの船もある。
映画の原題 Adieu, plancher des vaches は、「さらば息苦しい地上よ(正確には、さらば雌牛たちの床よ)」ぐらいの意味で、まあ、「さらば俗物たちよ」といったところだろうか。父親(イオセリアーニ)の部屋ではマッキントッシュによって制御されたTGVの鉄道模型が、退屈な日常を、あるいは彼の人生を象徴するかのように、同じコースをぐるぐると回り続けている。その回路を断ち切るかのように、彼は荷物をまとめ浮浪者とともに船に乗って出発する。今度はパリそのものを離れ、おそらくは海へと向かって・・・。
ただ、スターリンの国からコカコーラの国へとやって来たこのグルジアの映画作家は、そんなふうにこの世とおさらばするというロマンティシズムがもはや不可能であることを痛いほど知っているようにも思えるのだが。
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