モンテ・ヘルマン
Monte Hellman(1932- )
米・映画監督
1932年、ニューヨーク生まれ。生まれつき内気で臆病だった彼を、両親がロサンゼルスの演劇学校に入れたことが、その後の彼の人生を決定することになる。
52年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の演劇科を卒業。53年、カリフォルニア、グリーンヴィルの小さな劇団にはいり、最初は俳優として、ついで自ら演出を手がけるようになる。
56年、劇団員のひとりの紹介で、ユナイテッド・アーティスツにゆき、3ヶ月間、編集の仕事を経験する。
57年、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を演出。ポッツオがテキサスのカウボーイ、ラッキーがインディアンという斬新なアイデアが評判を呼んだ。この芝居を見たロジャー・コーマンに認められ、コーマンのもとで映画を学ぶ。コーマン、ハーヴェイ・ハート、フィル・カールソン、サム・ペキンパーなどの編集を手伝う。
59年、コーマンの弟ジーンのプロデュースで処女作『魔の谷』を撮る。いかにもコーマンらしい、チープで味わい深いB級モンスター映画の佳作である。 ヘルマンはこの処女作を撮り上げたあとも、『古城の亡霊』(63)のロケ班の監督を務めたり、『ワイルド・エンジェル』(66)の編集を担当するなどして、コーマン作品に協力しつづけた。
60年、二つの重要な出会い。カミュの『異邦人』を読んだ数瞬間後、ヘルマンはコーマン製作の『The Wild Ride』の撮影で、ジャック・ニコルソンと出会う。「アルベール・カミュはいわば一つの世界観であり、わたし自身の物事の見方を、突然わたしに説明してくれた」。ニコルソンとは、フィリピンを舞台にした戦争映画『バックドア・トゥ・ヘル/情報攻防戦』やアジアを舞台にしたアドヴェンチャー映画『Flight to Fury』(64)など、その後全部で5作品を一緒に作ることになる。
64年、ロサンゼルスの劇場で、「カッコーの巣の上で」に出演していたある俳優に注目する。後にペキンパーやヘルマンと組んで映画を撮ることになる、ウォーレン・オーツである。
そして67年、ニコルソンとヘルマンは西部劇を企画し、資金援助を頼んだコーマンの提案で、二本の西部劇を同時に撮ることになる。『銃撃』と『旋風の中に馬を進めろ』である。どちらもジャック・ニコルソンが主演をつとめている。この二作はともにユタの砂漠で撮られた。その茫漠とした空間描写や観念的な物語から、この二つの西部劇をベケットと比較する人もいるが、余分なものをそぎ落とした物語の簡潔さは、むしろバッド・ベティカーがランドルフ・スコット主演で撮った円熟期のウェスタンを思い出させる。同時期に撮られたジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向って撃て』と比べれば、ヘルマン作品が不幸にして時代を先取りしすぎていたことは明らかだ。この知的すぎる西部劇は、まともに公開されることはなかったが、一部で高い評価を得た。
68年、作家ルドルフ・ワーリッツァーと出会い、後に『断絶』として撮られることになる脚本を書く(ワーリッツァーはのちにペキンパーの『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』、アレックス・コックスの『ウォーカー』、ベルトルッチの『リトル・ブッダ』などの脚本を書くことになる)。「どうすれば、なにも起きないレース、もっともスローなレースをつくれるか」。ここにも「ゴドーを待ちながら」の残響を聞き取ることができよう。
71年、ヘルマンはユニヴァーサルに呼ばれ、異色のロード・ムーヴィー『断絶』を撮る。主演はウォーレン・オーツと、二人のミュージシャン、ジェイムズ・テイラー、デニス・ウィルソン(ビーチボーイズ)。俳優たちはシナリオを事前に手渡されず、ほとんど即興のかたちで撮影は行われた。『イージー・ライダー』などのロード・ムーヴィーものが華やかなりし頃であったが、名前のない登場人物たちがかみ合わない会話をつづけ、なんのクライマックスもなしに終わるこのけだるい作品は、観客に理解されず、映画は興行的惨敗におわる。このことはヘルマンの映画がいわゆる「アメリカン・ニューシネマ」なるものとは似て非なるものであることを、皮肉にも証明していたと言っていい。「これがわたしにとってのハリウッドの黄金時代の始まりであり、終わりでもあった」
続く74年、ヘルマンは再びウォーレン・オーツを使って、鶏闘を主題にした映画『コックファイター』を監督する(製作はロジャー・コーマン)。これもさしたるプロットのない一種のロード・ムーヴィーである。この時期、マイケル・カレラスの『シャッター』(『暗殺指令シャター』)をノン・クレジットで監督してもいる。75年には、ペキンパーの『キラー・エリート』の編集を担当。
78年、ウォーレン・オーツ主演(ペキンパーも出演している)で、一種の西部劇のパロディ(ヘルマンいうところの「パエリヤ・ウエスタン」)、『China 9, Liberty 37』をスペインで撮り上げたあと、88年に『イグアナ/愛と野望の果て』を撮るまで、長いブランクが続く。しかしその間も、ノン・クレジットで他人の作品を中途で任されたり、『ロボ・コップ』の第二班の監督を引き受けたりしながら、常に映画の現場と関わり続けた。そして89年、コーマン時代を思わせるB級作品『ヘルブレイン/血塗られた頭脳』を撮ったあと、いまに至るまでヘルマンは自作を発表していない。しかし、タランティーノの『レザボア・ドッグス』(91)のクレジットに製作総指揮として名を連ねるなど、ヘルマンの映画への関わりは決して断たれたわけではない(『レザボア・ドッグス』は、最初、タランティーノが敬愛するヘルマンに監督してもらうつもりでシナリオを持ち込んだものだという。ヴィンセント・ギャロも、最初は『バファロー66』をモンテ・ヘルマンに監督してもらうつもりだったが、プロデューサーがヘルマンの名前では金は出せないといったため、自らメガホンを取ることになったと聞く)。
コッポラやジェイムズ・キャメロンのように決してメジャーになることはなかったが、ヘルマンはコーマン門下生のなかでずば抜けた才能を持った人物だった。その彼がこんなにも長いあいだ映画を撮れずにいることは、あまりにも理不尽である。モンテ・ヘルマンがいつの日か再びメガホンを握る日が来ることを、期待しつづけようではないか。
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うれしい知らせがある。2005年、ヘルマンは目下、ダリオ・アルジェント、トビー・フーパーらとともに、オムニバス・ホラー映画『Trapped Ashes』を準備中だという。