カール・レムリ
Carl Laemmle
(1867-1939)
米プロデューサー
1867年1月17日、ドイツのユダヤ系ドイツ人のもとに生まれ、1884年、家族とともにアメリカに移住。職業を転々としたあと、1906年、シカゴのある「ニッケルオデオン」(5セント映画館)を買い取り、他とは一線を画すサービスを施した映画館「ホワイト・フロント・シアター」としてオープンし、人気を呼ぶ。やがて、ニッケルオデオンのチェーンを経営しはじめると同時に、独自の配給組織レムリ・フィルム・サーヴィスを設立するにいたる(1919年まで、中西部とカナダの主要映画館に映画を配給)。
最初は加盟していたエジソンの映画特許会社(Motion Pictures Patent Company)からやがて脱退し、1909年6月、IMP(Independent Moving Picture Company)を設立。強力なトラストによって独占体制を敷いていたエジソンと、特許をめぐる激しい戦いを開始する。同年、数人の俳優と小規模のスタッフでアメリカの有名な物語「ハイアワサの歌」を映画化。15分ほどの短編だったが、これが後のユニヴァーサル社長カール・レムリ初の製作作品となる。
レムリは映画産業における宣伝の重要さに気づいた最初のひとりだった。それまでは、映画会社は俳優たちの名前をスクリーンに出そうとしなかった。俳優が有名になれば、それだけ多くの金を支払わなければならなくなることを恐れたからである。1910年、レムリはバイオグラフから引き抜いてきた女優フローレンス・ローレンスを、「THE IMP GIRL」として宣伝に利用する。同じく、バイオグラフで無名のまま使われていたメアリー・ピックフォードを引き抜き、その名前を大いに宣伝すると同時に、自分の映画館のPRにも使った。こうしてレムリは今日のスターシステムの基礎を築いたのである(余談だが、メアリー・ピックフォードは、週給175ドルのIMPからやがて、週給10,000ドルのフェイマス・プレイヤーズに移り、最後にファースト・ナショナルに移籍する頃には、一本の映画につき350,000ドルを受け取るまでになっていた)。
映画館で上映する作品の数が不足してくると、毎週のように新作が作られはじめ、その規模もしだいに大きくなっていく。もはや小さな撮影所では不十分だった。レムリは、1911年、ハリウッドにオフィスを開設し、1912年6月8日に、IMPなど数社を合併してUniversal Film Manufacturing Companyを設立する。ユニヴァーサルの誕生である。「町が丸ごとひとつ必要だ」と感じたレムリは、1915年、ロサンゼルスのサン・フェルナンド・ヴァレーの養鶏場跡地に「ユニヴァーサル・シティ」と名付けられた240エーカーの巨大なスタジオを構えて、スタッフを引き連れてそこに移る。
その頃までにすでにインスの数作品を製作していたレムリは、ジョン・フォードの監督デビューを手助けし、シュトロハイムに『アルプス颪』(19)、『愚かなる妻』(21)を撮らせる。「ラスト・タイクーン」として有名なアーヴィング・タルバーグがデビューしたのもユニヴァーサルだった。タルバーグはレムリに気に入られ、若くして製作主任となる。商才に富むタルバーグが芸術至上主義的なシュトロハイムと度々衝突した逸話は有名である(タルバーグはほどなくしてユニヴァーサルを去り、MGMに雇われるが、そこでもシュトロハイムとの確執は続く)。
レムリはヨーロッパから多数の映画人をユニヴァーサルに招聘し、映画を撮らせた。エドワルド・A・デュポン、パウル・レニ、ロバート・フローレー、キャメラマンのカール・フロイント等々である。さらにはドイツにユニヴァーサルの子会社マタドールを設立した。1930年、映画がトーキー化されたときも、ユニヴァーサルはルイス・マイルストーンの『西部戦線異状なし』の大成功で、この時代の節目を乗り越える。レムリの息子カール・レムリ・ジュニアが製作を担当したトッド・ブラウニングの『魔人ドラキュラ』(31)、ジェームズ・ホエールの『フランケンシュタイン』(31)、『透明人間』(33)などの怪奇映画はホラー映画の一時代を画し、決して財政的に豊かとはいえなかったこの時期のユニヴァーサルを一時的に救うことになるだろう。その他にも、ジョン・マレイ・アンダーソンによるテクニカラーのミュージカル『キング・オブ・ジャズ』(30)、ウィリアム・ワイラーによる西部劇『北海の漁火』(32)など、様々なジャンルの作品が作られた。
しかし、この頃作られた大作がすべて成功したわけではない。そもそも、本来が地方の中小都市をターゲットにしていた興業政策が20年代にはすでに時代遅れのものになっていたのである。そして、20年代末の大恐慌は、他の映画会社同様に、ユニヴァーサルにも確実に打撃を与えた。こうして、いくつかのヒット作にもかかわらず、30年代の初めには、メジャーの撮影所とはいっても、いわゆるビッグ・ファイブ(フォックス、MGM、パラマウント、ワーナー、RKO)には到底かなわないリトル・スリーのひとつ(残りふたつは、コロムビアとユナイト)に数えられることになっていた。さらには、目に余る身内びいき(実際、ユニヴァーサルの従業員名簿には、レムリの親族約70名がずらり名を連ねていたという)などが原因となり、1935年、レムリはユニヴァーサルの株を手放さざるを得なくなる。
レムリは大撮影所の社長としては珍しいぐらい人柄のよい人物だったという。こうしてユニヴァーサルをひとりで作り上げ、「アンクル・カール」と呼ばれて親しまれたカール・レムリは、ユニヴァーサルを引退した数年後の1939年9月24日、カリフォルニア州ロサンゼルスにて、心臓発作により亡くなった。
その後ユニヴァーサルは、40年代はアボットとコステロの凸凹コンビによるコメディ映画やアラビアン・ナイトを主題にしたアドヴェンチャー映画をヒットさせるが、1946年、インターナショナル・フィルムと合併し、ユニヴァーサル・インターナショナルとなる。1952年、デッカ・レコードの傘下に入り、ドリス・デイとロック・ハドソン共演のセックス・コメディ『夜を楽しく』(59)などで興行的成功を収める。さらに1962年、タレント・エージェンシーのミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(MCA)に買収される。64年には映画とテレビの舞台裏を公開するテーマパーク「ユニヴァーサル・スタジオ・ハリウッド」をオープン(その後、90年にはフロリダ、2001年には大阪にも作られた)。70・80年代には、『アメリカン・グラフィティ』(73)、『ジョーズ』(75)、『E.T』(82)などのヒット作を連発し、ハリウッドの興行収入記録を塗り替える。90年に、日本の松下電器が親会社のMCAを61億ドルで買収したが、95年にカナダの大手飲料メーカーのシーグラムに70億ドルで売却。2000年には、ユニヴァーサル・スタジオとフランスの会社ヴィヴァンディが合併して、ヴィヴァンディ・ユニヴァーサルとなる・・・。
もしもレムリが長生きして、自分の会社が買収に次ぐ買収で次々と人手に渡ってゆくのを見たら、なんと思ったであろうか。 30年代のハリウッドの黄金時代に亡くなったのは、彼にとって幸福なことだったかもしれない。
代表作:
『魔人ドラキュラ』(31)
『フランケンシュタイン』(31)、
『ユニバーサルスタジオジャパン
公式ハンディブック大改訂版』
City of Dreams:
The Making and Remaking of Universal Pictures