「キューカー、マッケリー、ホークスは、 会話 を、会話の錯乱を、アメリカのコメディの本質的なるものとした。」
ジル・ドゥルーズ
「マッケリーは、おそらくハリウッドの他のだれよりも、人間のことがわかっている。」
ジャン・ルノワール
1889年、ロサンゼルスに生まれる。
カトリックの教育を受けて育つ。法律を学び、弁護士となるが、弁護士業はうまくいかず、友人のコネでハリウッドに行って、トッド・ブラウニング監督のアシスタントとなる( 1918-1923 )。自ら脚本を書き、監督し、編集するブラウニングのやり方に強い印象を受ける。 1921 年、初の長編である風刺喜劇 “Society Secrets” を監督。
23 年から 29 年まで、ハル・ローチ製作で、チャーリー・チェイスものなど多数の短編コメディを監督・監修する。とりわけ有名なのが、『リバティ』『世紀の戦い』『極楽珍商売(ビッグ・ビジネス)』などの、ローレル=ハーディによる数々の傑作コメディだ。ローレルとハーディをコンビにするというアイデア自体、マッケリーが思いついたものだという。ローレル=ハーディの喜劇が頂点に達するのは、マッケリーが監修に当たっていたこの時期である。彼の名前が監督としてクレジットされている作品は多くないが、このころのローレル=ハーディものには、ストーリー、ギャグ、編集、すべてにおいてマッケリーの息がかかっている。( マッケリーが監督としてクレジットされているのは、"We Faw Down" "Liberty" "Wrong Again" "Putting Pants on Philip" など)。 サイレント時代、マッケリーはこのほかに、ハリー・ラングドン主演の短編 "Sky Boy" なども監督している。
残念ながら、ローレル=ハーディはサイレントからトーキーへの時代の変化にうまく適応できなかった。トーキーの到来とともに、マッケリーは彼らのもとを去るが、彼のコメディの才能はそれで終わるどころか、ますます進化を遂げてゆく。1929 から 1931 年のあいだに、マッケリーは6本の長編を監督する。その中でも、彼がエディー・カンターのためにオリジナル・ストーリーを書き、バスビー・バークレーが振り付けをした『カンターの闘牛士』(32)は、大成功を収め、マッケリーはパラマウントと契約を結ぶことになる。そうして撮られたのが、マルクス兄弟のパラマウントでの最後の作品となったアナーキーな傑作『我輩はカモである』( 33 )だ。 ナチスの台頭直前に撮られたこの作品は、架空の国を舞台に、マルクス兄弟の破壊的なギャグを通して、軍国主義をはじめとするあらゆる権威主義が風刺される。そのためムッソリーニのイタリアでは公開禁止となったほどだった
その後も、W.C.フィールズ(『ヒョットコ六人組』)、メイ・ウェスト(『罪ぢゃないわよ』)、ハロルド・ロイド(『ロイドの牛乳屋』)などを主演にしたコメディが何本か撮られるが、それらはいずれもマッケリーにとって満足いくできではなかった。
このころまでに、マッケリーの才能はすでにして発揮されていたが、その作家的資質が真に開花するのは、チャールズ・ロートン主演で撮られた『人生は四十二から』( 35 )からだと言っていい。それまではコメディ役者主体だった彼の作品に、彼独自のメッセージ性が込められはじめる。『人生は四十二から』は、ヨーロッパの執事がアメリカで民主主義を次第に体得していく姿を描く風刺コメディだ。イギリス人のロートンが、アメリカ人相手にリンカーンのゲチスバーグの演説を朗読して、民主主義のなんたるかを教えてやる場面がとりわけ名高い。
37年に撮られた『明日は来らず』は、マッケリーのもっともパーソナルな映画であると同時に、もっとも呪われた作品となった。老夫婦が離ればなれになって、親不孝な子供たちの家で暮らすことになるという物語は、小津の『東京物語』に影響を与えたとも言われる。老夫婦は、50年ぶりに訪れた新婚旅行の思い出のホテルで、ダンスを一曲踊ったあとで別れる。安易な切り返しショットを排した駅での別れのシークエンスが痛々しい。この別れの場面は、夫婦のどちらかが死ぬよりも激しく見るものを動揺させる。しかし、マッケリー作品としては異例なほど残酷な筆致で描かれるこの物語は、観客の理解を得られず、興業は惨敗に終わった。この年のオスカーの監督賞が、『明日は来らず』ではなく『新婚道中記』のほうに与えられたとき、マッケリーは、彼らは賞を与える映画を間違ったと言ったという。
『明日は来らず』の女性脚本家ヴィナ・デルマーとつづけて組んで撮った『新婚道中記』( 37 )は、ケイリー・グラントとアイリーン・ダン主演で、離婚寸前の夫婦の子供じみた意地の張り合いをエレガントなギャグで描く、スクリューボール・コメディの一つの頂点をなす傑作である。マッケリーはその日その日にセリフを用意し、ほとんど即興でこの映画を撮り上げた。この作品はアカデミー賞六部門にノミネートされ、マッケリーは監督賞を獲得する。グラントはこの作品でスターダムにのし上がった。ローレル=ハーディを創造したのがマッケリーだとすれば、ケイリー・グラントのイメージを作り上げたのもマッケリーだったといってもいいかもしれない。写真で見ると二人は驚くほどよく似ている。後のヒッチコックやホークス作品などでおなじみになる、グラントにおける都会的上品さと無軌道さの絶妙のバランスは、マッケリーに負うところが大きいようだ。
『明日は来らず』に比べれば、シャルル・ボワイエとアイリーン・ダン主演の『邂逅』( 39 )は、ずっとわかりやすいメロドラマである。抑えたギャグと叙情によって描かれる船上での出会い、一時下船して訪れる叔母の家の場面の幸福に包まれた厳粛さ、エンパイア・ステート・ビルでの果たされなかった再会と突然の雷雨、そしてクリスマスの日、ボワイエがアイリーン・ダンと交わす残酷な言葉のやりとりと、鏡に映し出された彼女の肖像画によって一挙にすべてが明らかとなるラスト。この美しい物語は、マッケリー自身の手になるものを含め、何度もリメイクされた。
40年、再びケイリー・グラント、アイリーン・ダン主演で『ママのご帰還』を撮影中に事故に遭い、ガーソン・カニンに監督を任せて、監修に回る。
42 年の『恋の情報網』 Once Upon a Honeymoon(未)は、それと知らずにヒトラーの側近と結婚してしまったアメリカ娘(ジンジャー・ロジャース)を、新聞記者(ケイリー・グラント)が救い出すという、『生きるべきか死すべきか』にも比すべき反ナチ・コメディ。 ケイリー・グラントとジンジャー・ロジャース、それにナチス幹部の男爵を演じたウォルター・スレザックの演技のすばらしさにもかかわらず、強制収容所をギャグにするというアイデアの過激さは観客に受け入れがたかったのか、興業はふるわなかった。
続く『我が道を行く』( 44 )、『聖メアリーの鐘』( 45 )は、ビング・クロスビーが同じ神父を演じる連作で、小教区の教会を舞台に、ユーモアたっぷりにキリスト教的ヒューマニズムを歌い上げる。『我が道を行く』はオスカーで4部門に輝いた。イングリッド・バーグマン共演の『聖メアリーの鐘』は前作以上にヒットし、マッケリーは44年の全米の長者番付第一位になるほどだった。『善人サム』( 48 )や、遺作となった中国での布教活動を描く『誘惑の夜』( 62 )もこの系列の作品と考えることができる。
50 年代を境にブランクの時間が次第に長くなって行く。69年に亡くなるまでの20年間にマッケリーが撮った長編映画は、わずか6本だった。赤狩りの嵐が吹き荒れるこの時期、彼は作品のなかで反コミュニズムをはっきりと表明するようになる。共産主義に立ち向かうアメリカ人一家を描く『マイ・サン・ジョン/赤い疑惑』( 52 )や、前述の『誘惑の夜』がそうであるが、いずれも興行的には奮わなかった。『マイ・サン・ジョン』では、撮影中に主演のロバート・ウォーカーが急死したため、脚本の変更を余儀なくされた。マッケリーはちょうどウォーカー主演で『見知らぬ乗客』を撮り終えたばかりのヒッチコックに助けを求め、そのフィルムの一部を借用してウォーカーの死の場面をなんとか作り上げる。皮肉なことにこの作品はオスカーの脚本賞にノミネートされた。
マッケリーの監督としての力は死ぬ直前までいささかも衰えることはなかった。『邂逅』をカラーでリメイクした『めぐり逢い』( 57 )では、オリジナルのストーリーをほぼそのまま再現しつつ、喜劇性と叙情性がさらに推し進められ、メロドラマ史上に輝く傑作となった(もっとも、マッケリー自身は一作目のほうが出来がいいと考えていた)。最後から二作目の、 ”Rally Round the Flag, Boys!”( 58 )は、ポール・ニューマンを主演に『新婚道中記』のテーマを焼き直したもので、これをマッケリーの最高傑作の一つに数える人も多い。なぜか日本では未公開である。
マッケリーは脚本をほとんど重視せず、朝セットに入って1、2時間ピアノを弾きながらその日に撮影するシーンを即興で考えて撮影を行うことが多かったという。当時は撮影前にスタジオに分厚いシナリオを提出する必要があったので、関係のないストーリーを書いて重役たちに読ませていたそうだ。この即興主義はおそらくサイレント時代に数多くの喜劇を演出したときの経験からきてもいるのだろう。しかし、『我が道を行く』のようにかなりシリアスな映画でも、彼の演出スタイルはさして変わらなかった。
1969 年、サンタモニカにて死去。
(改稿中)