>気配として感じられる戦争。
■梅田ガーデン・シネマにイランの監督アボルファズル・ジャリリの最新作『少年と砂漠のカフェ』を見に行く。ジャリリの映画を見るのは『かさぶた』『7本のキャンドル』に続いて3本目である。実は、最初の2本はあまりぴんと来なかった。これが三度目の正直である。正直言って、キアロスタミやマフマルバフ父娘にくらべるとランクが落ちる監督という印象は今度の作品でも変わらなかった。けれども、前の2本とはだいぶ感じが違い、なかなかやるなと少し見直したのは本当だ。
大阪で映画を見るときはいつもなにか用事を済ませたあとなので疲れていることが多く、この映画のときも前半つい何度かうとうとしてしまった。ちょっと集中力を欠いていたのだが、突然聞こえてきたフランス・ギャル(だと思うのだが)の歌声に目が覚める。邦題からもわかるように、この映画の舞台となるのはアフガン国境に近いイランの砂漠(というより荒野)にぽつんとできたカフェである。そんな場所にフレンチ・ポップスが響き渡ったのに驚いて、急に頭がしゃきっとしたのだった。奇をてらった音楽の使い方をする監督とも思えないので、実際にこういう場所で流れていた音楽をたまたま使っただけのことかもしれない。だが、それだけではないような気もする。この映画では音の使い方がこれまでの作品とはずいぶん違うように思う。風の音や銃声や飛行機の音など、ジャリリはこの映画では非常に大胆な音の使い方をしており、音と映像の関係がこれまでの彼の作品にはない自由度を獲得しているのだ。
冒頭、天空にこだまする鈍い銃声とともに映画は始まる。だれがだれに向けて撃ったのか? それさえもよくわからないまま、ここが死と隣り合わせの場所であることだけが納得される。この映画が撮られたのはテロ以前、アフガン空爆以前だが、すでに国土はうち続く内戦状態に疲弊しており、この映画にもそれは気配として感じられる。気配といったのは、この映画のなかで戦争はけっして直接的には映し出されず、音としてのみ描かれているからだ。
■イランがアフガニスタンからパキスタンへと抜ける麻薬密輸のルートになっていることは常識なのだが、日本ではそういうことはほとんど知られていない。この映画の舞台となる町デルバラン(これが映画の原題である)は、まさにそういうトラフィック(この言葉はフランス語においては「交通」と同時に特に「麻薬の密売」を意味する)の中継地点として存在している。というよりもこの場所は中間地点として以外にはなんら価値のない場所なのだ。
アフガン国境に近いその町(町といっても砂漠の真ん中に数件の家屋があるだけの地上の島のような場所だが)には、アフガニスタンから麻薬密輸人や不法労働者たちが国境を越えてやってくる。そしてそれを警備しているものたちがいれば、彼らを見逃してやる代わりに金をもらうものもいる。そうしたことをジャリリはほとんど説明することなしに描いているので、最初はなにが起こっているのかわからない場面も多い。主人公のアフガンの少年についてもジャリリはなにも語らない。彼の父親がおそらくは北部同盟に加わってアフガンでタリバンと戦っているらしいということ、そして彼にはアフガンに妹がいて、カフェで働いて貯めた金を妹に送っていることが最後になってわかるぐらいだ。
ほかの登場人物についても、彼らの過去についてはなにもわからず、ただただ現在だけが描き出されてゆく。たとえば、いつも怒っている修理工は政治犯としてそこに島流しになっているという設定らしいのだが、これは監督の口からそういう説明を聞かなければ、見ていてわからないところだろう。こういう手法が必ずしも成功しているかどうかは疑問なところもある。なにもマフマルバフのようにけれん味たっぷりに通俗すれすれの描き方をしろとまではいわないが、どうも全体として平板な印象はぬぐえなかった。
■ところで、この映画のなかでは、機械は常に故障し続ける。車はいつもパンクし、エンストし、横転し、あげくの果てにはタイヤを盗まれさえする(そんな車の一台は YAMAHA[ or HONDA]製だったりするのだが、ついでに書いておくと、このあたりの麻薬密輸には日本も関わっているそうだ)。そんななか少年は隣家の人を呼びに、あるいはなにかを取りにゆくために、ひたすら走り続ける。その姿をジャリリはいつもパノラミック撮影で捉えるのだが、こういうところもこの映画に乗りきれなかった理由のひとつかも知れない。
やっぱり人が走っているときにはキャメラも移動してほしい。でなければじっと動かないでほしい。それをパノラミックで撮られるとどうして良いかわからなくなる。黒澤明の『影武者』にいまひとつ乗れないのも、やはりあのパノラミック撮影のせいではないだろうか。馬が疾走しているときにはやっぱりキャメラも移動してほしいのだ。
『少年と砂漠のカフェ』 |