映画の誘惑

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『D. I.』
Divine Intervention
──笑いのレジスタンス
2002年/フランス=パレスチナ合作/35mm/カラー/94分

監督・脚本・主演:エリア・スレイマン 撮影:マルク=アンドレ・バティーニュ 歌:ナターシャ・アトラス《I put a spell on you》ほか
出演:マナル・ハーデル、ナーエフ・ダヘル

D.I.

「確立された秩序がもっとも恐れるのは、ポエジーと愛なのです。」

レビュー

去年のカンヌの受賞作、もしくは話題を呼んだ作品の、約半分ほどはすでに公開され、残りの半分がそろそろ公開されつつある。ソクーロフの『エルミタージュ幻想』の力業は見物であったし、まだ見ていないが、ニコラ・フィリベールの『ぼくの好きな先生』や、ポール・トーマス・アンダーソンの『パンチ・ドランク・ラブ』にも、大いに期待していいだろう。だが、最大のの発見は、去年のカンヌで審査員賞と国際批評家連盟賞の二冠を達成したエリア・スレイマンの『D.I.』になるに違いない。

この映画は、フランス=パレスチナの合作によるパレスチナ映画ということになっている。だが、そもそも、「パレスチナ映画」というものが存在するのだろうか。エドワード・W・サイードは、「パレスチナは記憶として存在する」という。そんな、国家ともいえず、どこに存在するかも定かでないものが、映画の製作国たりうるのだろうか。「パレスチナ映画」は、日本映画やアメリカ映画と同じ資格で、存在しうるのだろうか(いや、というよりも、「日本映画」や「アメリカ映画」というもの自体、虚構としてしか存在しないのかもしれない・・・)。

パレスチナ暫定自治政府を代表する人間であっても、来日するときにはどこかの国籍のパスポートを持っていなければならない。最近では、パレスチナの代表がイスラエルのパスポートを持って日本に来ることも、珍しいことではないという。奇妙な世界である。だが、この奇妙な世界が日常と化したとき、いったいどうなるのだろう。アイデンティティーを持つことのできない者たちの抑圧された暴力が、鬱々と今か今かと爆発する寸前の状態にある恐ろしさ。しかし視点を変えればそれは喜劇とも映りうるものかも知れない。実は、『D.I.』は、パレスチナを描いたコメディ映画なのである。

パレスチナを描いた映画は少ないし、日本で見られるものとなればごくわずかだ。『栄光への脱出』のようにどちらかというとユダヤ人の視点から描かれたり、『リトル・ドラマー・ガール』のようなスパイ映画に背景として使われることはあっても、パレスチナを内側から真摯に描いた映画は──あるにはあるだろうが──日本人の目にふれることはほとんどない。『石の賛美歌』のミッシェル・クレフィあたりが例外的存在となるのだろうが、かれの作品も『ガリレアの婚礼』をのぞけばなかなか見る機会がない。そんな状況のなか、『D.I』は、カンヌ映画祭の正式コンペ部門に登場した初のパレスチナ映画として騒がれた。それだけでも話題性は十分だが、それがシリアスな映画ではなくコメディだとなると、驚きはひとしおだったろう。そんなカンヌでの評判は聞いていたのだが、正直いうと、わたしはそれほど期待はしていなかった。中東情勢の勉強になればいい、というぐらいの軽い気持ちで見に行ったのだった。だが、そこで見たものは紛れもない映画だった。

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赤い服を着たサンタクロース姿の男が、数人の若者たちに追われて小高い丘を駆け上ってゆく。背中に担いだ袋からプレゼントのおもちゃが次々とこぼれ落ちるのにもかまわず、サンタは息を切らせながら丘の頂にまでたどり着くのだが、そこで初めてわれわれは、かれの腹にナイフが刺さっていることに気づく。このサンタがいったいだれなのか、結局最後までわかることはない。だが、この謎めいた冒頭の場面が、宣戦布告の合図であることはたしかだ(しかもその丘のある場所がナザレというのが皮肉である)。とはいえ、ここで描かれるのは、中東戦争でも、テロの応酬でもない。もっと日常的な、それゆえもっと根深い対立の構図である。車の運転席から道行く人に手で挨拶しながら小声で罵声を浴びせつづける男。なぜか建物の屋上に無数の空瓶を集め続けている老人。いつも舗装中の道路。家から出てゴミをどこかに投げ入れる男。庭でゴミを燃やす女。バスが来ないバス停でバスを待ち続ける若者。固定ショットで撮られたこれらの情景が、ジグソー・パズルの断片のように並べられてゆく。パズルの断片が集まってくるにつれて、徐々に状況が明らかになってくる。老人が屋上に集めている空瓶は、警官に向かって投げつけるためであり、庭でゴミを燃やす女は、隣の男が毎朝投げ入れるゴミを燃やし続けているのであり、意味もなくバス停に立ちつづける男は、向かいの女にラブコールを送っていたのだった。

ここに描かれているのは、いわばささいな「領域侵犯」行為である。それは、バス停に立ちつづける男のように、たんに目障りなだけの場合もあれば、隣の男にゴミを捨てられつづける女のように、比較的深刻な場合もある。いずれにせよ笑いはこの「侵犯」から生まれるのだが、この笑いが、イスラエルによるパレスチナの侵犯という「大いなる侵犯」によって裏打ちされていることは、あえていうまでもないだろう。ここで描かれる人物たちは、ほとんどすべてイスラエル領で生活するパレスチナ人なのである。近所の少年が自分の家の敷地内に誤って蹴り入れたサッカー・ボールを、ナイフで刺してぺしゃんこにしてしまう偏屈な老人のおかしさ。あるいは、空き地にひとが集まって「なにか」を袋だたきにしている場面。人が次々と集まってきてその暴行に加わり、ついには、なかのひとりがピストルを取り出してその「なにか」に向けて撃つ。この場面のおかしさは、キャメラの位置からは見えないその「なにか」が、実は「領域侵犯」した蛇だったことが、最後にわかるという意外性から生まれる。

映画の後半に描かれる侵犯行為は、もっと大がかりなものだ。それは文字通り、イスラエル領からパレスチナ領への領域侵犯である。それぞれイスラエル領とパレスチナ領に分かれて住む恋人同士(男の方をエリア・スレイマン自身が演じている)は、二つの領土の境界線上に位置するイスラエルのチェック・ポイントの駐車場でしか会うことができない。ふたりは、アラファトの似顔絵を描いた赤い風船を飛ばして検問所の兵士を混乱させるという陽動作戦を用いて、まんまと境界を侵犯する。さらには、不意に挿入される幻覚のような場面において、エリア演じる男は、車の窓から投げ捨てた果物でイスラエルの戦車を爆破し、かれの恋人は、その前を通り過ぎるだけでイスラエルのチェック・ポイントを崩壊させ、女忍者となって空に浮かんでヘリを墜落させる。ばかばかしくも楽しい場面だが、その忍法がインティファーダのそれであることなど、細かい部分を見落としてはならないだろう。女忍者となった彼女の手にしている盾が、(今や失われてしまった)パレスチナの形にかたどられていることを見てもわかるように、彼女はパレスチナに住む恋人であるというだけでなく、パレスチナそのものを表している。そう考えるなら、「君への愛でぼくは狂っている」という歌詞は、また別の意味合いを帯びてくることだろう。

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エリア・スレイマン監督は、前作「消失の年代記」に続いて、この映画の主役を演じているのだが、二作つづけてまだただの一度も台詞をしゃべっていない(そうである)。『D.I.』では、台詞をしゃべらないだけでなく、泣きもしなければ笑いもせず、まったく無表情のままで最後まで通している。そんなかれには、「パレスチナのバスター・キートン」という、名誉ある称号が授けられた。対象への距離を置いた知的な眼差し。線的な物語よりも、切り取られた断片をモザイク状に画面に配していく語り口など、ジャック・タチを思わせる部分も多い。もっとも、スレイマンが、キートンやタチに匹敵する身体的な強度を持っているかというと、
それは疑問だが・・・。

それにしても、この時期にタチの映画がリヴァイヴァルになるというのは、単なる偶然なのだろうか。いや、D.I. = Divine Intervention とは、まさしくこのような事態のことを指しているのかもしれない。

D.I. 『D.I.』

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