夭折した写真家、牛腸茂雄を描いた佐藤真の新作ドキュメンタリーは、亡霊を召喚することに賭けた恐ろしいホラー映画だ。
青空を俯瞰していたキャメラがゆっくりとパン・ダウンし、青草のしげる庭に立つ一本の木をフィックスで捉える。キャメラはじっとその木を捉え続ける。ひたすら捉え続ける。頑固な始まり方だ。
そして、同じ字幕が2度繰り返される。
――「牛腸茂雄という写真家がいた。」
そう、牛腸茂雄(ごちょう・しげお)という写真家がいた。かれは83年に36歳の若さで死んだ。 「実存は本質に先立つ」とサルトルは言ったが、かれにとって死んだ人間の存在とは何だったのだろうか。それはたんなる死体、モノだったのだろうか。それとも死んだ人間には「本質」(魂?)だけが残るのか。
死んでしまった人間の存在を、あたかもその亡霊を召喚するかのように立ち現れさせること。『Self and Others』はただそのことだけに賭けた映画のように思える。けれども、そのために佐藤真がとった方法は、刑事ドラマのようにこの写真家の身元を調べ、周辺の聞き込みをし、その事実を積み重ねることでかれの存在を浮き彫りにするというものではない。佐藤真はこの映画を撮るにあたって、関係者のインタビューは使わないことに決めていたという。かれは、牛腸が残した作品のみにひたすらこだわり続けることで、その存在に迫ろうとするのだ。牛腸のわずか数冊の写真集(『日々』、『見慣れた街のなかで』、『Self and Others』)、かれが撮った短編映画(「まち」)、日記、牛腸自身がテープに吹き込んだ肉声。そして、田村正毅の撮影する美しいが平凡な風景――牛腸が歩いたかもしれぬ、見たかもしれぬ風景。これだけが材料だ。写真集のなかの写真が一つひとつ映し出され、そこにかれの日記を朗読する声がかぶさる。批評的なコメントが挿入されることはほとんどない。愚直と言っていいほどの映画作り。そして感傷的な音楽。現在の風景までもが、見ているうちにノスタルジーに染まりそうになる。
確かにこれは危うい映画づくりではある。対象にのめり込みすぎているような気がしないでもないからだ。批評性の欠如? けれども、あの牛腸自身が吹き込んだ肉声が聞こえてきたとき、そうした危惧は一瞬にして忘れ去られてしまう。
――「もしもし、聞こえますか?」
あの地の底から聞こえてくるかのような声、あれはまさしく死の世界から聞こえてくる声だ。ポーの短編に「ヴァルドマール氏の症例の研究」という不思議な作品がある。催眠術の問題に関心を持つある男が、臨終の床にあって今まさに死なんとしている患者に催眠術をかけたなら、どれだけ死を持ちこたえさせることができるかという実験を行う。患者は、催眠にかけられたまま死んでゆく。脈が止まり、呼吸も停止し、どこから見ても死んでいるのだが、その死体の口から声が聞こえてくるのである。「ひどく遠いところから、あるいは地中の深い洞穴から聞こえて来る」ような声が、
うん――いや。――眠っていた――だがいまは――いまは――死んでいるんだ。
と答えるのだ。生と死の境目から聞こえてくるような、この奇妙な声。牛腸茂雄のあの肉声は、まさしくそのような声だった。
この映画を見ていて、久しく映画から感じたことのなかった感銘を受けた。こういうものを見るために、今まで映画を見てきたのだとさえ思った。この感動をうまく表現できないのがもどかしいが、まだ見ていない人のためにひとつだけ忠告しておこう。『Self and Others』は、そのへんのチャチなホラー映画とはくらべものにならないほど恐ろしい映画である。どうか覚悟して見てもらいたい。
(ロラン・バルト著、みすず書房)
この本は、フランスの批評家ロラン・バルトがその最晩年に書いた写真論だ。バルトはこの本の中でただひとつのことしか言っていない。それは、写真の本質は「それはかつてあった」であるということだ。どのようにして撮られたものであれ、写真に写っている被写体がかつて確かにキャメラの前に存在していたということだけは否定できない。「それはかつてあった」のだ。写真のなかには過去の表象ではなく、過去が直接に現前している。化石のなかに古代の生き物が現前しているように、写真のなかには被写体に当たって反射した光がそのまま定着している。
様々な写真を論じながらも、この本の中心には、決して示されることのない一枚の写真、不在の中心とも言うべき一枚の写真が、隠されている。それは「温室の写真」とバルトが呼ぶ、かれの亡き母の一枚の写真だ。この不在の写真をめぐって、この本はたんなる写真論を超え、バルトの『失われた時を求めて』とでもいうべき、ひとつのロマンとなる。
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