きょう2月22日は「猫の日」なのだそうだ。
それでというわけでもないが、猫として気持ちがいい話をふたつ、してみたいと思う。
寝過ごしてしまい、慌てて着替えて出かけなくちゃならない、といった朝でない限りは、人間も「うーーん」などと言いながら伸びをしてから起きるようだが、それは猫も同様なのである。
もっとも、慌てて出かけるなんてことが吾輩にはないので、毎朝、そして昼寝から目がさめたときも
毎度のように、伸びをすることになる。
ただし、伸びの仕方は、人間とはずいぶん違う。
吾輩の場合、はじめは体を後方に残して、前足だけを思いきり前に伸ばすのだけれど、ふと、今度は逆に、前傾姿勢をとって後ろ足を伸ばすことになるのだ。
吾輩がそうして伸びをしている際に必ずおばさんもしくはおじさんが、横から「のびのびーー」と言ってくる。
どうも吾輩があまりに気持ちよさそうに伸びをするので、そうやって、つい声をかけたくなるらしいのだが、歌舞伎の「おとわやーー」に近い次元だ。
実際、伸びをするのは、たしかに猛烈に気持ちがいい。
それと、自分ではちっとも気付かないが、眠っている途中でも、伸びをしているそうである。
このときは、人間の伸びの仕方に近いらしく、ついでに、ちょろりとピンク色の舌が出てきて、なんとも可愛いのだそうだ。
気持ちがいい話のもうひとつ。
おじさんの使用している毛布がふわふわしていて、実に気持ちがいい。
それで、その毛布に触れると必ず、吾輩は前足で足踏みをしてしまうのである。
左右の前足を交互に出し、それに合わせて尻尾も左右に振っているのだが、後ろ足はじっとしているので、前進して行ってしまうことはない。
この動作をおじさんは奇妙がっていたが、最近、吾輩が読んだ本に、母猫の乳房を求める本能的な仕草なのかもしれない、という説明が書かれてあって、なるほどと思ったことだった。
いずれにしろ、おじさんのふとんにばかり、もぐり込んでしまった理由が、毛布にあったことがはっきりした。
真相を知ると、今度はおじさんがすねてしまうかもしれない。
今回は、吾輩ができるようになった話をふたつ、してみたいと思う。
食卓のある部屋にしろ、台所にしろ、手前や奥の部屋にしろ、吾輩が自由に出入りできるよう、吾輩の体格分だけの隙間が用意されるのだけれど、たまに、うっかり閉め切られてしまっていることがあって、そんなときには「にゃあにゃあ」呼びかけなくてはならない。
さて、おとといの日曜日。
おばさんたちが食卓で、部屋を閉め切ったまま、話に夢中になっていた際のこと。
台所に出ようとした吾輩は、なんだか話の腰を折りそうな気がして、「にゃあにゃあ」呼びかけることができず、戸のわずかな隙間を見つけて、前足をこじ入れて行き、自分で引き戸を開けて出たのであった。
引き戸というものも、動かし始めるときは重量を感じるが、動き出してしまえば、そんなに重くはない。
惰性というやつだ。
さあ、驚いたのは、おばさんたち。
結局、話の腰を折った上で、吾輩の行動を確かめ、あらためて驚き合っていた。
今後も、おばさんたちが忙しそうだったら、自分で出入りすることにしようか、と思っている。
できるようになった話のもうひとつ。
留守番は当初からできていたわけだけれど、以前は、吾輩が淋しがるといけないからというので、おばさんたちは、外出する姿を見せないように出かけていた。
けれども、吾輩が眠るのを見計らって出かけたところで、目がさめて留守と分かったときには、余計に淋しくなってしまうものだ。
約束の時間があるような外出だと、見計らっている余裕もなく、玄関までついて行った吾輩を振り切るように、慌ただしく出かけて行くのだった。
それじゃ、いっそのこと言い聞かせて出かけるとしよう、阿茶だって大きくなったことだし・・・という話に、おばさんたちの間で決まったらしく、最近、言い聞かされてから留守番するようになっている。
そして、吾輩も玄関まで行くのをやめることにした。
話せば分かると、せっかく思ってくれているのだから、ほんとは淋しくても分かったフリをしてあげよう、と考えたわけだ。
それが、できるようになったのである。
ちょっと自慢できる(?)かもしれない。
土曜日におじさんたちが出かけたので、また留守番をしたのだが、帰宅したおじさんの手には、軽そうにしているものの大きな荷物がぶら下がっていた。
四角い箱になっていて、側面のひとつにだけぽっかりと穴が開いている。
まるで、小振りで持ち運びが自由にできる「犬小屋」といった感じなのだが、うちには犬などいない。
何なのかなあ、と思っていたら、これが、ひと月ほど前に話題になっていた、吾輩用のひと回り大きな猫砂トイレであった。
底の部分だけピンク色をしているのは、要するに、ピンク色のトイレに半透明のフードが付けてあるからであり、おじさんが、まずフードを外し、そこに今までの猫砂トイレから猫砂をぶちまけて移すと、再びフードを取り付けて出来上がり。
ぽっかり開いた穴は、吾輩の出入口であった。
早速、鼻を近づけてにおいを嗅いだが、猫砂に吾輩のにおいが付いているので、すぐに馴れ、使用することができた。
一方、前の猫砂トイレは、干上がった沼地のように、底にこびりついた汚れだけが残ったのだが、これがきれいに洗われると思うと、なるほど、トイレ容器をふたつにすることには、たしかに衛生的で有意義な効果があることだ。
猫砂の飛(?)害についても、フードが勿論、物を言って、おばさんたちは大満足しているようである。
ところが、吾輩にとっては、このフードがちっともありがたくない。
日曜日から数えても3日目になるのだが、フードにはなかなか馴染めない。
前の猫砂トイレのときは、目を閉じて瞑想に耽ったり、しみだらけの天井を眺めたりしながら、のびのびと用を足していたのだが、フードがあっては、そうは行かない。瞑想はともかく、天井を眺めることができないのだ。
第一、実務的にも、出入口がひとつしかないということは、中で体の向きをUターンさせないと、出てこられないわけだ。
吾輩もいろいろと考えて、今朝などは、前進したまま用を足すのではなく、先にUターンを済ませて顔を出入口から突き出してから、用を足してみもしたのだが、この場合、そのまま外には出てこられるものの、あらためて外から前足を突っ込み、猫砂をかけることになって、とても面倒くさいのであった。
おばさんたちに都合のいいフードで、吾輩はいい迷惑をしているのである。
「錠剤カリカリ」は、はっきり言って、おいしくない。
お皿に猫缶と混ぜて出されても、猫缶が少しでも残っているうちは絶対に口にせず、夜中などもう「錠剤カリカリ」しか食べるものが出ていなくなってしまったときに、ようやく観念して口にするのだ。
もっとも、石などを詰まらせないためには必要だ、ということもよく分かっている。
満足をとるか、健康をとるか、とても悩むところである。
ただし、そんなぐあいであっても、食べて行けばいつかは無くなる。
「錠剤カリカリ」も、やっと食べ終えることができた。
ひと袋を空っぽにしたことで安心したのは、われながら間抜けな話。
おじさんがまた『加藤獣医院』まで買いに行くだけのことだったのである。
そして、そこでおじさんは、思いもかけず猛烈に驚いてきたらしかった。
先生から突然、「書いているでしょ、あれ」と言われたそうなのだ。
何のことかと思って話を聞くと、なんと、この『吾輩』の話だったらしい。
吾輩が書いているとも言えずに、おじさん自身が書いているような顔をして返事をしているうち、詳しい経緯が分かってきた。
なんでも、先生のお嬢さんが米国にいて、インターネットでリンクするうちに行きつき、「おとうさんが話に出てくるよ」といって、知らされたらしいのである。
偶然にしても、お嬢さんもよく分かったものだと思うけれど、おじさんがおそるおそる「問題がありましたか?」と聞いたのに対し、先生は寛大に「悪口とか書いていなかったら、いいよ、いいよ」などと答えられ、とにかく驚きのあまり狼狽しているおじさんと、にやにやと余裕の笑みを浮かべる先生との間で会話が続けられ、おじさんが医院を出てくる際も、先生は笑って「また、チェックしておきます」なんて言ってみえたそうである。
吾輩もほんと、うかつだったにゃあ。
まさか読まれることなんてないと思って名前を書いてしまったが、こんなことなら『飄々動物病院』とでもしておけばよかったことである。
いずれにしろ、吾輩もついに米国デビュー(?)なのであった。
新しい猫砂トイレになって10日が過ぎた。
圧迫感を受けながらも、だんだんとフードに慣れてきてはいるが、用を足すことくらい、やっぱり開放された場でのびのびとしたい。
それで、吾輩にひとつ考えが浮かんだ。
今朝のこと。
おじさんが掃除を始めたところを狙って近づき、フードを外した状態の猫砂トイレに、まんまと上がり込んだのである。
おじさんが「おいおい」と言っていても、どこ吹く風。
見事なまでのうんこをしてやった。
続けておじさんが「猫砂を飛ばすんじゃないよ、おい」と言ったのに対しては、吾輩も気をつけていたのだが、ポンと外に出ただけのことで、足の裏に付いていた猫砂が飛び散ってしまい、残念ながら協力できなかった。
いずれにしても、猫砂トイレを掃除するザッ、ザッという音を耳にしただけでトイレに行きたくなってしまう話は、前にも『吾輩』に書いたことだけれど、これを積極的に利用したような作戦、今回は大成功を収めたのであった。
「飛び散らす」で思い出したけれど、この前の土曜日もずっと留守番をしていた。
いつもと同じだけの食餌が用意されてから留守になったのだが、なぜかこの日、お腹が空いて空いて仕方がなかった。
お皿に出された猫缶、さらに、そこに混ぜてあった「錠剤カリカリ」までも食べつくしてしまうと、後は自分で探すしかない。
あちらこちらを探しまわっているうちに、袋に入ったするめを見つけた。
袋を破ってつまんでみたのだが、吾輩の口には全然あわない。
それでも、おもちゃくらいにはなって、齧ったり、引っぱったり、放り投げたりするのに申し分なかった。
夜、帰宅したおばさんたちは、するめの飛び散った台所を見て、びっくり!
吾輩も、あらためて目にして、ちと、やり過ぎたかな、と思った途端に、台所の敷居が高くなってしまった。
・・・なんて言いながらも、片付け始めたおばさんの手の動きが気になって、結局、そばえに行ってしまった。
軽く怒られたことである。
桜が今年は早くから咲いている。
金曜日の雨や、土曜日の風で、散ってしまう心配もされたが、日曜日現在は大丈夫だった、というおじさんの話。
吾輩は留守番ばかりなので、桜をたのしむことができないけれど、それでも春を感じ、春に浮かれ、春モードなのである。
まず、鳥のさえずりを耳にすることがふえた。
奥の部屋から言って西側、駐車場までの間にシュロの木が2本だけ、植わっている。
そこがどうも鳥にとって心地いいらしくて、何羽も飛んできては止まり、さえずって行くのだ。
その様子が見える位置に吾輩も移動し、のどかだにゃあ、なんて思いながら眺めているのである。
場合によっては、午前中ずっと眺めていることもあるけれど、ほんと、ちっとも退屈しない。
「飛んでくる」と言うと、虫に出くわすことも多くなった。
名前が付いているのかどうか怪しいような、ちっぽけな虫ばかり、吾輩の目の前に現れる。
おじさんたちになど全然気が付かれないような虫で、吾輩が目で追っかけ、おかしな動きをしているのを見て、はじめて存在がクローズアップされる、というぐあいだ。
今朝も、窓の外側に張りつき、こちらに腹を見せている、あめんぼの親戚のような虫を、吾輩が発見した。
結構、高さのある場所に張りついていたので、吾輩もジャンプをしないと届かなかったのだが、届いたところで、所詮、内側のできごと。
あめんぼの親戚野郎には痛くも痒くもない。
それが分かっているのか、逃げて行かずに図々しくいつまでも張りついている。
それで、吾輩が何回もジャンプをくりかえし、その物音でおじさんを心配させてしまった。
人騒がせなのが、あめんぼの親戚野郎か吾輩か、それはさておき、春なのだにゃあ、なんてつくづく思ったことだ。
それからまた、吾輩が、おばさんたちの餃子の皮を齧る、なんてこともあって、これも「春の珍事」ということにしておこう。
その日は、お昼からおばさんが、せっせと餃子を手作りしていたのだが、それが吾輩には気になって仕方なく、ずーっとおばさんの手際を眺めて過ごした。
さて、夕ご飯どき、おじさんをまじえて、焼きあがった餃子を前にすると、もう我慢ができず、そのひとつに齧りついてしまったのである。
熱かったし、おじさんたちを驚かせたし、結局、口にしたのは皮の部分だけだったけれど、これまでに経験のない「味わい」だったことは確か。
また今度、おばさんが手作りするときには、おねだりしてみようか、なんて考えている。
ちょっと早いのだけれど、サザエさまから誕生日プレゼントをいただいた。
「コロコロクリリン」というキャラクターの、吾輩の頭よりも大きなボールだ。
お腹の中に鈴が入っていて、転がると、チリチリと音を立てる。
背中にはエンゼルの羽が生えているが、飛ぶことはできない。
飛ばされることはできる。
ただし、ゴムひもが付いていて、ひもの先が食卓の椅子に結んであるので、ゴムの伸びるところまでの話。
吾輩が、「阿茶ページ」冒頭の写真よろしく、猫パンチをお見舞いすると、大きく、大きく、揺れる。
それで、びっくりして逃げてしまうのが、なんのことはない吾輩自身だ、ということが実に情けない、と思わずにはいられないけれど・・・。
コマキさんが、また吾輩に会いに来てくれた。
前日に電話があったので、おばさんがうきうきするのは分かるけれど、会うわけでもないおじさんまで
そわそわするのは、どうもよく分からない。
もっとも、かく言う吾輩も、普段と違った気持ちになってしまっていて、コマキさんが現れるやいなや、2階に逃げてしまった。
思うに最近、逃げてばかりいることである。
ところが、コマキさんも、おばさんも、自分たちの話をしているばかりで、吾輩をちっとも構ってくれない。
どういうことだ!と思いながら、階段から顔だけ出したところで、「コロコロクリリン」が結ばれている椅子に腰掛けてみえるコマキさんと目が合ってしまった。
そうなると、どうも弱い。
吾輩のほうから寄って行き、すっかり遊んでもらうことになった。
だっこもされた。
帰られるコマキさんと、おばさんが一緒に出かける際、吾輩が2階に上がり、縁側に面した部屋からガラス越しに外を覗くと、コマキさんが気がついて、手を振ってくれたのだが、おばさんはすぐに信じない。
自分の眼で吾輩をたしかめ、驚いていた。
無理もない話で、こんなぐあいに見送ったのは、生まれてはじめてのこと。
もう少しで、吾輩まで前足を振るところだった。
おじさんの顔に見事な線が、また描かれた。
勿論、吾輩の猫パンチによるものである。
お食事前もしくは食事中の読者は、食事が済み、よーく消化された後で、お読みいただきたい。
先日のこと。猫砂トイレを掃除していたおばさんが、吾輩のうんこから顔を出している「錠剤カリカリ」をひとつ見つけた。
そう思って注意しながら掃除をすると、さらにいくつも、連結したのまで見つかったらしいのである。
これまで吾輩の排便は、およそ順調。
下痢もなければ、気になるくらい強固なのもなかったので、余計におばさんが心配をしたのだが、結局、その後、「原形」ということはなく、あの日の一回こっきり。
吾輩自身も、どうしてそうなったのか分からないまま、恙なく暮らしている。
思うに、「錠剤カリカリ」をいやいや口にしているので、食道もいやいや胃に送り、胃もいやいや、腸もいやいや、先送りするうち副将軍さまにまで行ってしまったのではないだろうか。
・・・汚い話で、ごめんなさい。
昨日のこと。
おばさんに、ふと、気付かれたものがあった。
食卓の椅子の上に乗っかっていた、小さな茶色い物体。
指でつまんでみてはじめて、吾輩のうんこと分かったらしく、「ギャッ」と言って驚き、すぐに始末をしてくれた。
どうやら、トイレを済ませた後、どこかに付けたまま歩いてきて、たまたま食卓の椅子の上で落としたようなのだ。
そんなこと、吾輩はちっとも気が付かなかったのだが、そうかと言っておじさんの、ということもなく、吾輩のうんこに間違いないらしい。
別の日のこと。
その日も吾輩は留守番をしていた。
猫缶ふたつ分、お皿に出されていたので、何回かに分けて食べたのだが、おばさんたちがなかなか帰ってこない。
再び空腹をおぼえ、お皿に向かったが、さっきの吾輩の食べ残しがこびりついているだけ。
それを、まるで水洗いしたかのように、ぴかぴかに舐めつくしても、まだ帰ってこない。
とっぷり日が暮れたところで、ようやく帰ってきたおばさんに、空腹を訴える。
すぐに猫缶を出してくれたので、もう無我夢中で食べた。
そんな吾輩の様子から、もうひとつ猫缶が出されて、これもむさぼるように食べ、さらに出された猫缶もあっという間に食べてしまった。
ついに4個目の猫缶が出されると、さすがにおじさんが目をまるくしたのだが、やっと猫心地(?)がつき、落ち着いて食べることができて、結局、これも胃におさまった。
それから後のうんこが、どんなだったかは、もう書かない。
今回は、ほんと、ごめんなさい。
誕生日までには、まだ10日ほどあるけれど、今度は、てんさまからプレゼントをいただいてしまった。
生センで、おばさんが受け取ってきてくれたのだが、おじさんが帰宅するのを待ち、それから紙袋を開けたので、それまで吾輩は、プレゼントがあるなどとは思いもしなかった。
食卓の椅子の上でうつらうつらしていたところが、おじさんがごそごそと紙袋を開け始め、まず出てきた「ねずみ」により、眠気がどこか、一気にふっ飛んでしまった。
前にも、事務所の猫先輩さんからねずみをもらったことがあったけれど、今回のねずみは、サーカスの熊よろしく「玉乗り」をしているのである。
そして、この「玉」の重心に仕掛けがあるようで、起き上がりこぼしになっている。
ねずみを押したり、引いたりして倒しても、すぐ元に戻り、ねずみが玉の上にくるわけだ。
もっとも吾輩は、押したり、引いたりするよりも先に、口でねずみをくわえて玉ごと持ち上げ、のし歩くほうがよくて、早速あちらこちらに運ぶこととなった。
もうひとつプレゼントがあって、これは、パッケージのデザインから、すぐ「カリカリ」と分かった。
それも、大好物だったシュリケンカリカリ!
さすがは大恩人のてんさま、よく分かっていらっしゃる、と感謝して「にゃあにゃあ」鳴き続けたので、おばさんが開封してくれたのだけれど、中から出てきたのは、手裏剣とは似ても似つかない形状のカリカリ。
まるくて、小さくて、平たくて、赤さび色をしていて、画びょうのあたまを連想してしまった。
ところが、この「画びょうのあたまカリカリ」が、実にうまい!
『加藤獣医院』の先生に悪くて、こっそりとしか書けないことなのだが、「錠剤カリカリ」とは比べ物にならないのである。
お皿に出されるまでが待ちきれず、おばさんの手のひらの上から、バリバリと食べてしまった。
その後は、お皿に「画びょうのあたまカリカリ」と「錠剤カリカリ」とを混ぜて出され、選り分けずに、どちらもちゃんと口にしているのである。
先生、ご心配なく。
心配というと、おじさんにひとつ心配事ができたらしい。
吾輩が猫缶そっちのけで「カリカリ」を食べているのに、折も折、安売りをしていたからと言って、猫缶を、思いきり買い込んできたのである。
ふっつり食べなくなるのでは、と心配しているようだが、吾輩の知ったことではない。
猫にも、高倉健さんのような無口なタイプがいるそうである。
事務所の猫先輩さんのところの猫がそうらしい。
ごく、たまに発声しても「にゃあー」と伸ばすことはなくて、短く「にゃ」の一言。
二言でも「にゃにゃ」でおしまい。
愛想がないけれど威厳がある、とのことである。
さて、吾輩は、というと、どうなのだろうか。
自分のことでも、無口なのか、おしゃべりなのか、よく分からないのだが、だんだんと言葉数が増えている気はする。
鳴き声も、「にゃあ」とか「みゃあ」とかの定番のほかに、「おわー」とか「むがー」とか「がは」とか「ぽお」とか、猫らしくない声まで鳴けるようになっているのだ。
「おわー」は、すでに昨秋から、遊んでほしいときに鳴いていたのだが、そのグレードアップしたのが、「むがー」である。
遊び相手を決め、そちらを向いて真剣な面持ちで「むがー」と鳴くと、必ず相手をしてくれるのだから、人間なんて他愛がない。
「がは」は、そうした遊び相手がおじさんの場合、決まってだっこをしてくるのだけれど、その腕から逃れようとする吾輩と小競り合いになったとき、必死になったあまり、しゃべってしまう鳴き声だ。
必死のわりに悲壮感が伝わらないのが、なんとも歯痒いけれど・・・。
「ぽお」は、吾輩の独り言。
何日か前の晩、思うところがあって長々しく「ぽおーーー」としゃべったら、ふたりとも驚いて食事をしていた手を止め、しばし、固まってしまったことがあった。
その他にも、おじさんなどに擦り寄って行き、甘えて「みゃお、みゃお」と鳴こうものなら、すぐに顎や背中をなでてくれる。
これぞ、まさに猫なで声だ。
吾輩が2階で昼寝をしていて気がつくと、あたりはもう真っ暗。
独りぼっちにされている、ということがよくある。
よたよた階段を降りて、おばさんがいる食卓のある部屋まで行き、顔を出すと、急な眩しさによって、猫なのに目がしょぼしょぼになってしまうのだが、その際、部屋のすぐ手前から必ず鳴きながら入って行く、その鳴き声が「にゃあー、あー、あー、あー」。
ボリュームを絞り、オクターブを高くし、ビブラートを効かせて、思いっきり哀愁をそそるのである。
すぐに猫缶をくれる。
やっぱり、他愛がない。
おじさんたちを動かすも動かさないも、吾輩の鳴き声ひとつ。
ここだけの話、吾輩こそが「陰の飼主」なのである。