ここで紹介した本の中で、点訳のご希望があれば、できるだけお応えしたいと思います。
リクエストは掲示板またはメールでご連絡ください。
松原始(まつばら はじめ)著
雷鳥社
2013年1月第1刷
著者は動物行動学者。専門はカラス。
人間は「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」に分別して路上に出す。
カラスはそれを「食べられるゴミ」と「食べられないゴミ」に分別する。
せっかく分けたものがまた混じらないように、「食べられないゴミ」はなるべく遠くに放り投げる。
…と著者は言う。
カラスとしては、至極普通の、理にかなった行動なのだろう。
それを人間は、悪意のある「悪戯」だと言う。
繁殖年齢のカラスには縄張りがある。
別のカラスが自分の縄張りに入ってくると、警告して追い出す。
特に雛がいるときには、雛を守らなければならない。
相手がカラスでなくとも、危険な捕食者かもしれないので、追い出したい。
警告の声を発し、枝を嘴でたたいたりして、それでも遠ざからないと、侵入者のそばを飛ぶなどして、追い出そうとする。
ところが人間は、その警告の鳴き声を理解しない。初級カラス語を理解しないだけでなく、カラスの声に注意など払っていない。そして、「突然」攻撃された、と言う。
(あんなにさんざん、来るな、と言ったのにぃ)
カラスは基本的に人間を怖がっているので、後ろからしか近づかない。
そして、最大限に怒っていても、飛びながら足で侵入者の頭を蹴る程度だという。頭が一番高い(手近な)ところにあるからだ。
嘴で攻撃することはない。飛びながら嘴で突いたら、カラス自身のダメージが甚だしい。
通報される「被害」の大部分は、驚いて転んだりした怪我だという。
かと思えば、カラスは賢い、超能力の持ち主だ、神の使いだと言われる。
実際のカラスは、確かに賢いのだが、ときに自分の子どもを間違えたり、攻撃相手を間違えたり、拾ったアイスキャンディーを落ち葉の中に隠しておいたりしちゃうのに…。
…と著者は言う。
人間は、等身大の実像をなかなか見ない。
誤解…。
相手の行動のわけを知らずに、知ろうとせずに、勝手に解釈する。
そこに、怖れとか被害者意識とかが入り込んで、悪感情が生まれたりする。
それは、相手がカラスでなくても、たとえば蛇でも、ゴキブリでも、あるいは外国人でも、同じだろう。
知らないもの、理解できないものに対して、人は往々にして心を開かない。
そして、結果的に要らぬ摩擦を生ずる。
知ることによって、付き合い方も見えてくるはずなんだけれど。
近年の(いや、昔からか)社会・国際情勢を見ていると、無知がもたらす不幸のなんと多いことか…。
西村義樹(にしむら よしき)・野矢茂樹(のや しげき)著
NHK出版
2013年6月25日発行
言語学者と哲学者の対談である。
タイトルの硬さも結構ハードルが高いし、内容も、私には難しくてわからない部分はたくさんあるのだが、それでも面白かった。
各章のタイトルページに同じペンギンのイラストがあるのだが、ちょっとうつむいたこのペンギンが真面目な顔で(?)短く呟いている。
「彼女に泣かれた」――、「太郎が花子に話しかけてきた」――、典型的な鳥と変な鳥がいる――、「死なれた」のか「死なせた」のか――、「村上春樹を読んでいる」――、「
夜の底が白くなった」――。
これだけで、なんだか非常に面白い。この思索的なペンギンが、本書の面白さ、おかしさを象徴しているかに見える。これは読まなければ、という気になった。
多分、この文言だけでは、何の変哲もないサブタイトルになってしまう。このペンギンが考え深そうに、あるいはちょっと悲しそうに呟いているからこそ、おかしい。
因みに、本文中「変な鳥」の代表としてこのペンギンがそのまま出てくる。ああ、その悲哀の表情だったか、と思ったりもする。
この本を点訳するとしたら、ここはどうするのだろう? 伝えるのはとても難しいと思う。
日々、深く考えずに使っている日本語だが、同じ言葉でも意味が多様であったりする。
引っかかって、立ち止まって、そういう目で想像してみると、吹き出してしまうような光景が立ち上がる。
「部屋が散らかっている」――「本が散らかっている」と同じ意味で「部屋が散らかっている」という絵を思い描いたら、大変だった。
「歯がしみる」「洗濯機をまわす」「トイレを流す」…。
「川が流れている」「桃が流れている」のおかしさ(断じて間違いという意味ではない)は、最初気付かなかったのだが。
こんなことでこんなに楽しめるなんて…。
こんな硬そうな本でこんなに笑えるなんて…。
キム・エドワーズ著 宮崎真紀訳
NHK出版
2008年2月25日初版
デイヴィッドとノラ夫婦に、男女の双子の赤ん坊が生まれる。医者のデイヴィッドは、看護師のキャロラインとともに双子をとりあげるが、女児はダウン症だった。
デイヴィッドは、妻には障害のある子は育てられまいと判断し、とっさに女の子のほうは死産だったとノラに告げる。
そして、秘密裏にキャロラインに女の子を施設に預けてくれるように頼む。しかし、キャロラインは、その子を自分の子として育てることにする・・・。
妻のためを思ってついた嘘によって、自身が苛まれ続けるデイヴィッド。赤ん坊に会わせることもしなかった夫に不審を抱くノラ。その狭間で、両親の不仲に悩む双子の片割れのポール。
物語の大半は、すれ違っていていく家族心理を描くことに費やされる。
ただそれだけの、謎もしかけもない物語だが、たったひとつの嘘で、幸せだった若い夫婦が破綻していく過程に目が離せない。
一方、キャロラインは、懸命にフィービを育てながら、あるとき知り合った男性アルとともに、幸せな家庭を築く。こちらの三人は、互いに血の繋がりもなく、フィービに障害があるにもかかわらず(いや、抱えているからこそ?)、強固な絆を手に入れていく。
家族のありかたや、障害というものについて、じっくりと書きこまれた読み応えのある一冊だった。
それにしても、訳者のあとがきにあるように、40年ほど前のアメリカには、障害を持った子供が生まれると、即時に施設に送られることが珍しくなかったという事実には驚いた。
日本よりもずっと早くから障害のある子を育てる家庭への支援制度が整っていたのだろうと、なんとなく思っていたのだ。
どこの国でも、障害者への理解を得るための、親たちの血のにじむような努力や苦労があった、と教えてくれる本でもある。
斉藤倫(さいとう りん)著
福音館書店
2016年6月20日初版
海に浮かぶ巨大なマンタの背中の上にある、せなか町。
マンタが、ほんの少しでも身体を震わせれば、あるいはちょっとだけ海に潜ったりしたら、あっという間に全てが失われてしまうだろう、その町で起こる、ちょっぴり不思議な出来事の数々。
はるか昔に、空を行く鳥を捕まえたくて、大ジャンプしたあげくに、海面にたたきつけられた過去を持つマンタは、今では、自分では見えない、会えないひとびとや動物たちの声を耳にしながら、海を漂っている。
この物語をどう受け取るかは、読む人次第。
自分たちがどんなに危険な場所に住んでいるかも知らずに、能天気に生きている人々の話、と思ってもいいし、自分の背中で起こっていることにも関わらず、ひとびとの生活も、街のようすも、決して見ることのできないマンタの孤独を感じてもいいし・・・。
でも、素直に、ここに書かれたちょっと不思議なお話を楽しんでみるのかいちばんいいかな、とも思う。
風のある日にはそよがず、風のない日にばかり揺れ動くひねくれ者のカーテンを描いた「ひねくれカーテン」と、箱に入っている(と思われている)仔猫を引っ張り出そうとやっきになる町のひとびとを描いた「はこねこちゃん」がお気に入り。
マーギー・プロイス著 金原瑞人訳
集英社
2012年6月30日第1刷
外国人作家による、ジョン万次郎を主人公にしたヤング・アダルト向けの小説。
乗っていた魚釣りの舟が難破し、仲間とともに無人島に泳ぎ着いた万次郎は、偶然通りかかったアメリカの捕鯨船によって救出される。
その捕鯨船の船長の養子となった万次郎は、以後10年に渡ってアメリカ本土や捕鯨船で生活し、苦難の末帰郷を果たす。
波乱の人生を歩んだジョン万次郎の青春時代に焦点をあてた作品である。
幕末の頃。
世界のことは何も知らない、もちろん外国人を見たこともない14歳の日本人少年が、初めて見るアメリカ人や初めて見る異文化にどういう反応を示すか、日本人でも少年でもない作家が、想像力を駆使して描いている。
日本人作家であれば、むしろここまでは書かないだろうと思うほど、万次郎の感じた驚きや興味を盛りだくさんに書きこんでいて、「西洋人である自分たちを初めて見た東洋人が、どのように驚き、どのように感じるか」という視点からの描き方が、日本人である私が読むと奇妙に面白かった。
しかし、なによりも、この作家が、万次郎という少年の勇気や好奇心に深い敬意を持って描いていることが伝わってくるので、読んでいて気持ちのよい物語になっている。
外国人は鬼だ、捕まったら殺される、と教えられてきた万次郎だが、逆にアメリカでも、日本人は残忍でずるがしこいと信じている者が多いことを知る。
彼は、アメリカでの厳しい偏見や暴力、あるいは親切や教育、労働を経て、日本人もアメリカ人も結局お互いのことを知らないだけなのだ、という結論に辿りつく。
そこまでの心の動きが生き生きと描かれていて、こんなも弾むような精神や豊かな好奇心・想像力といったものは、彼本来のものであると同時に、14歳という若さによってもたらされるものだということも強く感じる。
万次郎が舟で難破した年齢が14歳であったことが、神の配剤のようにも感じられる。
ヴァネッサ・ディフェンバー作 金原瑞人・西田佳子訳
ポプラ社
2011年初版
孤児のヴィクトリアは、施設をたらい回しにされながら、里親になってくれるひとを待ち続けている。
18歳までに里親が見つかれなければ、施設から出て、それからは誰からの保護も受けられずに一人で生きていかなければならない。
家族がどんなものかわからない、誰かを好きになることもわからない、差し延べられた手を拒否する以外に、人との関わり方を知らない少女。
彼女は、心から自分に寄り添ってくれようとする人たちにも、拒否と不信を露わにする。
自分を愛してくれている、と思えば、それがまた怖くなる。
いつまで愛してくれるのか、いつか疎まれる日が来るのではないか、ヴィクトリアの心は、不安と不信でいっぱいだ。
彼女は、もう少しで里親になっていたかもしれないエリザベスという女性との生活の中で、花と花言葉の知識を身につけ、そのおかげで花屋での仕事を見つける。
フラワーアレンジメントに稀有な才能を持つヴィクトリアは、しだいに結婚式や祝い事のための花束のセンスが認められ、やがて周囲の人々を思いやることを覚えていく。
さんざんに傷つけられた人間が、花を通して少しずつその傷を癒すことを覚え、他者への共感力を芽生えさせていく物語。
「花言葉をさがして」という一見優しげなタイトルからは想像できない、厳しく辛い要素をたぶんに含んだ小説である。
人間は放っておけば勝手に「人間」になるのではなく、そこにたくさんの愛情や信頼が無ければ当り前の人間に育つことは難しく、愛情のない育ち方をした子どもが、あとになって愛情や信頼を獲得するためには、こんなにも多くの苦しみと長い時間が必要なのだ。
親に、あるいは保護すべき人間に見捨てられた子どもたちが、みな最後にはヴィクトリアのような人生を手に入れられるわけではない、という事実に胸が痛む。
大野更紗(おおの さらさ)著
ポプラ社
2011年6月20日第1刷
筋膜炎脂肪織炎症候群という世にも稀な病気を発症した女子大学院生の闘病記(著者は闘病記とは言いたくないようだが、一応病気についての本なので)。
いやはや凄まじい病気があったもの。
激痛、潰瘍、炎症、高熱、皮膚の石化、etc.
免疫不全によるありとあらゆる症状が襲いかかってくる病気である。
当初、どこの病院に行っても、その病気がいったいなんなのか診断すらつかず、彼女は病院を渡り歩くことになる。
著者は、ミャンマーの難民支援などの活動を行っていたことから、自らを難病による医療難民と位置付ける。
最後に辿りついた難病の専門病院で治療が受けられることになったものの、本物の戦いはこれから。
著者は、病気そのものの苦しさ・厳しさとともに、現在の日本の医療・福祉の大きな問題点に随所でぶつかることになる。
印象的なのは、「医者」というものの彼女の捉え方だ。
彼女を治療する医者たちは、みな等しく仕事熱心で、昼夜を分かたず働き続け、患者に対しても親身で献身的である。
しかし、そういう彼らも「医者」というポジションからしかものを見ない、と著者は言う。
これほどの難病を患い、当然のことながら医療費の心配も、先行きの不安もある彼女が、福祉や行政の支援を求めようとすると、医者たちはとたんに熱心さを失う。
そこは自分たちの関知する分野ではない、とでも言うように。
そんなものに頼るな、自力で頑張って直せ、などと、精神論を振りかざす医者もいる。
医者として優秀であれ熱心であれ、彼らには、患者の抱える生活・経済の問題が見えていない、あるいは、そういったことへの想像力が極端に欠如していると、著者は書く。
医者が生活に困ることはあまりないので、リアルに金の心配をしなくてはならないひとへの理解が薄くても、それはもう、どうしようもない、と著者は自分を納得させている。
自分は患者なのであり、彼らは医者なのだから、まったく同じ視点には立てないのだ。
東京にいれば受けられる最新の医療も、田舎へ帰れば受けられない。
しかし、東京にいるかぎり、生活費の心配、介助の心配、住む場所の心配はついて回る。
著者は、動くこともままならない状態の中で、病院の近くで住める場所を探し、自分が受けられる福祉サービスを調べ、周囲に助けを求め、一人で暮らしながら、治療を続ける決意をする。
壮絶というか、なんというか・・・。
私は、難病指定を受けたら、タダで治療を受けられるのかと思っていた。
しかし、難病だからと言って、かかるものはかかるし、現在の医療制度において悪評紛々の「3か月ごとの転院」も余儀なくされる。
激痛に苦しむ患者を3か月ごとに病院から追い出すというシステムを、いったい誰が考えたのか知らないけれど、自分が病気になって一度シミュレーションしてから、こういうことは決めてほしいものだ。
うちの知り合いにも、難病でほぼ死にかけている状態で、転院させられているひとがいる。
日本はこういう国だ。
著者の病気は現在もまったく治っていない。
免疫不全による病気に完治はないそうである。
気の毒を通り越して、笑ってしまいそうになるほど、凄まじい病気との闘いの記録。
山田太一(やまだ たいち)著
朝日新聞出版
2011年4月30日第1刷
登場人物は、わけあって特養老人ホームの仕事を辞めた20代の青年、80代の独居男性、40代の女性ケアマネージャーのほぼ3人のみ。
青年に自分の介護を頼んだ老人は、彼にブランド物の衣服や持ち物を買い与え、贅沢な食事をさせる。
挙句に、老人は、自分が好意を持っているケアマネージャーの女性と青年が結婚すれば、自分の財産をすべて二人に残そうとまで言いだす。
それはまるで、若いひとになんでも与えることで、自分自身も満足を得ようとしているかのようである。
金を持っていてももう自分ではろくに使えない、誰かに好意を寄せていてもどうなるものでもない、何をやるにも時間がない、だったらせめて若い者たちに自分の代わりをしてもらいたい、そういう老人の意思のようにも見えるし、また、何等かの形で他人の人生や生活に関わった、という証を残したいという、老人のあがきのようにも思われる。
死を前にして、自分には何ができるか、何をしたらいいのか、それを探し求めるように、青年とケアマネの女性に過剰なほどの関わり方をしようとする老人。
彼には、いくら後悔してもしきれない過去があり、その思いが、特養ホームで老女の死に関して辛い経験をした青年の気持ちに重なっていく。
作者は二人への救いとして、空也上人を登場させる。
青年は、老人に、自分の代わりに京都へ行き、空也上人の像を見てくるように言われるのである。
そこで、青年はその像のまなざしに強く心を打たれる。
貧しい者、病んだ者とともに歩く、という空也上人の存在は、死にゆこうとしている老人にとっても、特養ホームでたくさんの老いや死を見つめてきた青年にとっても確かに救いだが、その救いがあったとしても、ラストの数ページは重く、また怖い。
青年の見る夢のイメージは、これから老いを迎える者にとっては、ほんとうに恐ろしい。
こんなふうになっても、ひとは歩いていかなくてはいけないのか? 空也上人が自分の横を歩いてくれていると信じて?
老人は、女性ケアマネへの想いを青年に引き継いでもらいたいと願いながら、生々しい性の対象としても女性を見ており、自分に代わって彼女とセックスしてくれとまで言い出す(しかも自分の目の前で)。
特養ホームで、青年は、老人とはいえ日々異性の露わな性器を見、下の世話をしてきた。
老いの現実とは、きれいごとではなく、ときには眼を背けたくなるようなものでもあるのだ、ということも遠慮なく描かれていながら、いやな後味が残らないのは、作者の人間への温かい視線ゆえかもしれない。
奥泉光(おくいずみ ひかる)著
講談社
2010年7月23日第1刷
シューマンを偏愛する天才ピアニスト永嶺修人(まさと)、彼にあこがれる音大受験生の「わたし」。彼らの通う高校で、あるとき殺人事件が起こる。しかし犯人は不明のまま30年が過ぎる。音楽から離れた人生を歩む「わたし」のもとに、指に致命的な傷を負った修人が、再びピアノを弾き始めたという噂が届く・・・。
私は音楽については何も知らない。
とくにクラシックはまるでわからない。
そういう人間にとって、この小説の、ことに前半部分を埋め尽くすシューマンの楽曲の解説・解釈・論評、そして専門用語の多い音楽理論を読むのは、退屈を通り越してほとんど拷問に近い。
しかし、じっと我慢の子で読み続けると、後半から俄然面白く、またスピーディーな展開となる。
そして、冗長すぎると感じていたシューマンの楽曲とその人生に関する記述も、二転三転する物語後半のために必要であった、と理解できる。
クラシック音楽が苦手な方も、ぜひとも前半をがまんして読みましょう。
後半からラストにかけては、本の帯に書かれているような「未体験の衝撃と恍惚」とまではいかないけれど、かなりびっくりの結末が用意されている。
ミステリとしてはいささか無理のある設定・仕掛けとも思うが、この小説はミステリという体裁をとりつつ、著者のシューマンへの想いが込められた、一種のオマージュであると理解すればよいのだろう。
とはいえ、クラシック音楽がまるでわからない者にとっては、音楽をここまで複雑かつ深淵に「解釈」しなければならないのか、と思うと、いささか疲れる。
ただただ、ああいい曲だな、上手な演奏だなと聞きたいだけなのだけれど、演奏するひとはそれでは駄目なのだろうな。
専門家になればなるほど気軽に聞いたり気ままに演奏したりできなくなるというのは、ジレンマでもあり苦痛でもあるのだろうが、一度そこに足を踏み入れてしまうと、もう単純に楽しむだけの音楽には立ち戻れなくなるのだろう。
素人には素人の、無知な者には無知な者なりの良さ・楽しさ、というのは確かにある。
昨年がシューマンの生誕200年だったそうである。
ふだんあまり聞く機会のないシューマン、これを機にちょっと聞いてみようかな、という気分になった。
冲方 丁(うぶかた とう)著
角川書店
2009年11月初版
日本人の手による初の暦を作ることへ情熱を燃やし続けた、江戸前期の天文暦学者・囲碁棋士である渋川春海の生涯を描いた物語。
渋川春海は、天才肌の人物ではなく、ことこつと努力するタイプ。
江戸期に盛んになった和算に熱中し、天文学にも傾倒するが、決して飛びぬけて優秀というわけではない。
実際、彼は改暦において、一度は大失敗を犯し、深く落ち込んだりもする。
当時和算では関孝和という巨人が君臨していて、春海はついに関には追いつけなかった。
しかし、春海には関に対する尊敬の念はあっても、嫉妬や鬱屈は感じられない。
暦の作成を幕府から命じられ、自分の部下となった役人たちと観測を続けているときも、二人の年上の役人の真摯な姿に敬意を払い続ける。
栄光も挫折も、駆け引きも政治的思惑も描かれながら、この春海の温和な人柄、周囲の人々に対する素直な姿勢が、物語全体をどこかほのぼのとしたものにしている。
一方で、和算や天文学において、春海がついに日本史上頭抜けた人物になりえなかったのも、この温和で恬淡とした性格もいくらか影響しているように思われる。
本業の囲碁でも、ライバルの本因坊道策が、春海に対して激しい対抗心を燃やすのに対し、春海の態度はずいぶんとあっさりしていて、勝つことへの執着があまり感じられない。
そういう春海も、否応なく改暦をめぐる政治的な争いに巻き込まれざるを得なくなるのだが、そういったことを経験してなお、彼は好きなおもちゃで夢中になって遊び続ける子どもであり続けたようなところがある。
この小説の最大の魅力は、主人公・渋川春海をこのような人物として描いていることにあるように思う。
和算も天文学もさっぱりわからない私だが、渋川春海のいくらかとぼけた人柄に魅かれて最後まで読み続けることができた。
ジョン・ボイン著 千葉茂樹訳
岩波書店
2008年9月初版
ベルリンの大邸宅に暮らす9歳の少年・ブルーノ。
ナチス将校である父親の「栄転」で、家族でベルリンを離れ、人里離れたどことも知れない場所に住むことになる。
ブルーノの部屋の窓からは、有刺鉄線に囲まれた粗末な小屋のまわりで、縞模様のパジャマのようなものを着た人々が大勢働いているのが見える。
ブルーノはある日、両親には内緒で、有刺鉄線のそばまで行き、そこで、自分と同じ年の少年に出会う。
彼の名前はシュムエル。
二人は有刺鉄線のこちらと向こうにいながら、しだいに仲良くなっていく。
はっきりとは示されていないが、この物語の舞台は第二次世界大戦下のアウシュビッツ収容所である。
ブルーノの父親は、そこの所長として赴任してきたのである。
ブルーノには、なぜシュムエルたちが縞模様のパジャマを着ているのか、なぜ鉄線のこちらには来られないのか、そして、父親や部下の将校たちが、毎日いったいどんな仕事をしているのか、わからない。
母親や使用人の態度もどこかおかしい。
しかし、9歳のブルーノには、周りで何が起こっているのか、わからないままだ。
何も知らないブルーノの心に湧き上がる数々の疑問――シュムエルと自分はどこが違うのか、なぜ彼はあちら側にいて自分がこちら側なのか、縞模様のパジャマを着せられているひとびとと、こちら側にいるひとびととは何が違うのか。
いくら考えてもわからない。
すっかりナチの将校にのぼせ上った姉は、ユダヤ人は自分たちとは違うのだというし、家庭教師はドイツ人が一番優秀で偉いのだ、という。
しかし、ブルーノには、シュムエルがユダヤ人だということは関係がない。
知らない土地に来て、せっかく見つけた大切な友達である。
ブルーノの母親は、夫のしていることに恐怖を感じて、子供たちとベルリンに帰ろうとする。
使用人のマリアも、何か知っているようなのに、何も教えてくれない。
彼女たちのように、当時のドイツには、自分の国がユダヤ人に対して何をやっているか知っていて、しかし、口をつぐんでいるしかなかったひとが大勢いることだろう。
何か恐ろしいことが起きていると薄々気づいていてながら、知らないふりをしていた人々も。
物語はブルーノについに真実を教えなかった大人たちが招いた悲劇で終わる。
昨年公開された映画の原作だが、小説では想像するしかないところが、映画ではリアルに描かれ、見ているのが辛かった。
このラストには賛否両論あると思うが、ナチスの行為を告発するには充分すぎる重さをもった物語だとは思う。
宮部みゆき(みやべ みゆき)著
中央公論新社
2010年7月20日初版
叔父夫婦のもとで働きながら、不思議な話を聞き集めているおちか。
彼女のもとには、なんだかおかしな、他人に話せば笑い飛ばされたり、胡散臭く思われるような話が、あれこれと持ち込まれる。
おちかはただ聞くだけ。
今でいう、カウンセリングだろうか、問題を解決したり、疑問を解いたりするわけではないが、耳を傾けているだけで、話し手の心にわだかまっていたものがほどけていく。
長い間打ち捨てられていた空き家に棲む「くろすけ」は、その屋敷自体の、見捨てられた寂しさが形になった妖怪である。
その屋敷に住み始めた老夫婦は「くろすけ」を大切にして可愛がるが、そのために「くろすけ」は・・・・。
ここには書けないけれど、大変切ない話である。
しかし、このくろすけのおかげで、人間嫌いで世間との付き合いに疎ましさを感じていた老人がひとり、ひととの繋がりの大切さを見出す結末になっている。
怪異な話の中に、人間の心の闇や、悲しさ・寂しさなどを巧みに織り交ぜる、この作家の真骨頂とも言うべき連作小説。
登場人物がみんないい人すぎる気もするけれど、それはそれでいい雰囲気。
子供の描き方のうまい作家でもある。
エリザベス・ムーン著 小尾芙佐訳
早川書房
2004年10月20日初版
自閉症が治療できるようになった近未来。
主人公のルウは、子供のときに治療を受けなかった自閉症最後の世代である。
彼にはパターン解析などにすぐれた能力があり、ある製薬会社で仲間とともに仕事をしている。
趣味のフェンシングにも才能を発揮し、まずまず幸せに過ごしている。
しかし、会社の上司が、障害者を雇うのは無駄だと判断し、彼らに新しい自閉症治療を受けて、「ノーマル(正常)」な人間になるように強要してくる・・・。
物語のほとんどはルウの一人称で、彼の内面が描かれる。
ときどき挟まれる「ノーマル」な人々の視点から書かれた部分と対比して読むと、ルウを理解しようとしない人との大きなずれはもちろん、理解しようとしている人もしくは理解していると思っているひとたちでさえ、その「理解」の多くが的外れなものであることがわかる。
誰もが、ルウは自閉症であるのだから「○○に違いない」とか「△△なことは理解できないだろう」と勝手に決めていて、自分が思っているのと違うことをルウが言ったりやったりすると、意外に思ったり、戸惑ったり、ときにはルウに対して腹を立て、危害さえ加えようとするのだ。
物語の大半は、ルウが、「ノーマル」になるとはどんなことなのだろう、「ノーマル」になった自分は本当の自分だろうかと、悩み、考え、学習しながら、自分なりの結論を導き出していく過程が描かれる。
障害が重度の場合、もし治療の余地があるのならそうするべきだろうし、「障害は個性だ」と言ってしまうにはあまりに辛い障害もあるだろう。
しかし、一方で「障害を持った自分が自分である」と感じているひとも多いはずである。
自閉症であることによって今の自分があるのではないか、自閉症である自分が持っているものを失ってまで、「ノーマル」になる必要があるのか・・・。
ここで感じるのは、「正常(ノーマル)」とは一体何か、ということである。
ルウは、人の表情を読むことが苦手である。比喩や隠喩といったこともよく理解できない。
行動や口調も「ノーマル」なひととは少し違う。
しかし、彼の中には思いやりややさしさがあふれている。
自分に危害を加えようとする人間さえ、「友達がそんなことをするわけがない」と最後まで信じている。
そして、「ノーマル」と言われているひとたちが、なぜ互いに争ったり、ときには暴力をふるうことさえあるのか、不思議に思う。
「ノーマル」って一体なんだろう??
ルウの目には「ノーマル」なひとたちの方が、いつも感情に振り回され、自分たちよりもずっと不合理な行動をとっているように見える。
彼が最後の決断を下すラストにはいささか複雑な感慨をおぼえるが、大事なことは、彼がそれを自分で決めた、ということのように思う。
誰かに強制されたのでもなく、何かの利害のためでもなく、あくまでも自分で選択した結果である、ということ。
「ノーマル」なひとたちが、たとえ善意からであるにせよ、障害のあるひとたちに「ノーマルにならなくてはいけない」「ノーマルになるのが最善だ」などと言うのは間違いだ。
それを決めるのは、その人本人以外であってはならないことを示唆するラストである。
小松正之(こまつ まさゆき)著
PHP研究所
2010年2月12日初版
私が小学生のころ、給食に頻繁にクジラの肉が出た。
クジラの竜田揚げなどが定番だったように思う。
父の酒の肴もクジラのベーコンが多かった。
年がばれるが、私の年代は、クジラが安価な庶民の食べ物であったことを明確に記憶している最後の世代かもしれない。
その後、反捕鯨の風潮が世界に広がり、いつの間にかクジラはめったに口に入らなくなった。
この本の著者は、農林省で13年に渡って数々の国際的漁業交渉に携わってきた人物。
著者紹介によると、「反捕鯨国からタフ・ネゴシエーターとして恐れられた」ひとであるらしい。
私は、何が何でもクジラ肉が食べたいとか、クジラを食べるのは日本の食文化なのだからよその国が口出しするな、とは思わない。
クジラの数が減っているから保護しよう、乱獲を防ごう、というのは正しいことだと思う。
だが、この本を読む限り、反捕鯨国の反対は、まさに反対のための反対であって、理屈にもなにもなっていないように思われる。
捕鯨の仕方が残酷だ、という非難に対し、それじゃあ豚や牛はどうなるんだ、と反論すれば、「ここはクジラに限っての議論の場だから、牛や豚は関係ない」とあっさりかわされる。
反捕鯨国側から議長が選出され、捕鯨国側の発言は事実上封じられる。
獲得枠の算出方法も、反捕鯨国側に有利にできていて、実態にはまったく合っていないのに、それを一方的に押しつけられる。
捕鯨に賛成の発展途上国に対して「どうせ日本からODA援助を受けて買収されているんだろう」と言い放つ。
(それに対し、途上国が「たまたま捕鯨に対する方針が一致しているから日本と協同しているだけだ。それを日本のペットか何かのように言われるとは、独立国を愚弄する気か!」と言い返すところなどは、ちょっと胸がすっとする)。
著者は、クジラの個体数の増加や、捕鯨が自然環境に与える影響の有無などを科学的に示すことで、それらの国々と対決する。
しかし、ほとんどの会議は反捕鯨国のほぼ思惑通りに進んでしまう。
反捕鯨国の強引なやりかたがその要因だが、実は日本政府の及び腰、主にアメリカに対する「ものの言えなさ」が交渉を著しく不利なものにしている、と著者は書いている。
正しい主張であれば、相手がアメリカであろうとどこであろうと、堂々と渡り合うべきだという著者に対し、外務省などが、アメリカの機嫌を損じないように適当に合意しろ、などと言ってくる。
著者は、日本の交渉力の無さ、事なかれ主義を嘆く。
欧米では、水産関係の役所にも経済の専門家を配置するのが当然であるのに、日本では水産の専門家ばかりは多いが、経済や国際情勢に疎く、国際会議での交渉などのできる人材がまったく育たない。
著者がいたころの農林水産省は、まだそれでも捕鯨に関して日本の立場や考えを主張できていた。
著者が退官してからは、主張らしい主張もなく、反捕鯨国(ことにアメリカ)に迎合することしかしない。
政府にも各省庁にも、交渉のできる人間を育てようという意識すらない、むしろそういった人材を切り捨てる方向に行っている、と著者は言う。
クジラが給食に出なくてもいいけれど、日本が国際社会でどんどん存在感を失っていくのは、やはり問題ではなかろうか。
捕鯨を通して、日本という国と日本人のありかたに憂慮と疑問を投げかける一冊。
三浦しをん(みうら しをん)著
新潮文庫
平成21年7月1日
寛政大学に通う10人の学生が住むオンボロアパート・竹青荘。
その中のひとり、清瀬灰二は、この10人で箱根駅伝に出場しようと思い立つ。
陸上経験者はごくわずか、中にはマンガオタクで、スポーツになどまるで縁のない学生や、煙草の吸いすぎですぐに息切れする学生もいる、まったくの寄せ集めメンバー。
まともに走れるのは、天才ランナー蔵原走と清瀬だけである。
このメンバーでは、どう鍛えても、予選通過さえ無理だと思うが、彼らはどうにかこうにか予選を勝ち抜き、箱根駅伝本戦へ挑むことになる。
なんだか話がとんとん拍子過ぎ、こんなにうまくいくはずはないだろうと、たぶん誰もが思う。
実際、前半はかなりご都合主義っぽい。
しかし、この小説の良さは、この軽さと、箱根駅伝の各区間を走るメンバーひとりひとりの心情を描く後半にあると思う。
スポーツって、もっと楽しいものじゃないのか? もっと仲間と繋がれるものじゃないのか? と、著者は軽い調子の文体の中から問いかけてくる。
徹底的な管理主義の中で、優勝すること、勝つことのみを求められる駅伝上位校の実態、スポーツ特待生として入学したはいいが、怪我で走れなくなったり、伸び悩んだりする選手への周囲の冷淡さなど、スポーツの世界で起こりがちなことへの批判もそこここに描かれている。
一方、清瀬に押し切られるように走り始めた10人のメンバーは、箱根の苦しい走りの中で、自分自身を振り返る。
彼らにもそれぞれの悩みや屈託があるが、懸命に走る中で、何かが浄化されていったり、吹っ切れたりするようすが、無理なく描かれ、心地よい。
彼らの気持ちを描くことに多くのページを割いている後半は、前半「ご都合主義じゃないか」と思ったことも忘れて、じんわりと泣きそうになる。
高田郁(たかだ かおる)著
角川時代小説文庫
2009年5月18日
事情があって、上方から江戸へ出てきた澪。
彼女は神田の小さなそば屋「つる家」の調理場で働いている。
しかし、上方風の彼女の料理は、江戸の人間たちにはなかなか受け入れられない。
苦労して工夫を重ね、ようやく評判をとってみれば、大店の料理屋にそっくり真似され、客を奪われてしまう。
天性の味覚と努力で、料理に生きがいと幸せを見出す澪と、彼女を見守る周囲の人々の人情物語。
この時代には、どんな料理も、天然の出汁や、添加物も保存料も入っていない食材を使っていたわけで、なんだかわけのわからない化学薬品のような食べ物に囲まれている現代では、この小説に登場する江戸庶民の普通の料理が、なんだかとても贅沢なもののように思われる。
これらの料理のレシピは、どれもとても素朴なものだが、きっと今私たちが食べているものより、何倍もほんものの味がしたにちがいない。
また、江戸と上方とでは、料理についてもこんなに違うのか、という点も興味深い。
初鰹を何よりも珍重する江戸者たちは、秋に出回る戻り鰹には見向きもしない。
しかし、上方では脂の乗った秋の戻り鰹のほうが好まれる。
澪は「猫跨ぎ」とバカにされて、ぐっと値段が下がる戻り鰹を使って、安価な料理を考案する。
こんなところにも、見栄っ張りな江戸人と、実を尊ぶ上方人の違いが表れていて面白い。
金原瑞人(かねはら みずひと)著
ポプラ文庫
2009年2月5日
人気翻訳家・金原瑞人さんのエッセイ。
外国語どころか最近は日本語すらおぼつかなくなってきた身には、「翻訳」を生業としているひとというのは、それだけで尊敬してしまう。
日頃海外のミステリが読めるのも、外国映画を楽しめるのも、みな翻訳家さんたちのおかげ。
末席ながら、点訳という「言葉」を扱う作業にもかかわっているので、翻訳家の裏話は興味深い。
「I」と書いてあったって、日本語では、「ぼく、おれ、わたし、わたくし、あたし、あたい、自分、己れ、われ、わし、拙者、朕・・・」。 一人称ひとつでも多種多様である。
でも、英語じゃどうやっても「I」しかない。
翻訳作業の中で、ずーっと男の子だと思っていたら、物語の後半になって女の子だということがわかって焦ったとか、年齢がわからないので、「わたし」がいいのか「わし」がいいのか「ぼく」がいいのか、じたばた悩む、なとということは日常茶飯事であるらしい。
ある物語で、主人公「I」にはボーイフレンドがいるので、当然「I」は女の子だろうと思って訳していたら、実は「I」はゲイで、男の子だった、という話など、まことに翻訳家の裏話らしい。
あるいは、終助詞をめぐる話なども面白い。
ある絵本で、おじいさんとおばあさんの会話になっている部分が、英語で読むとどっちがおばあさんのセリフで、どっちがおじいさんのセリフか区別がつかない。
一人称は「I」だし、日本語のように性別によって使い分けのある終助詞がないので、性別を判断する手がかりがないのだ。
日本語だったら、おばあさんは「いつかはこの世ともおさらばね」、おじいさんなら「いつかはこの世ともおさらばだな」と言うくらいの違いはあるので、言葉のさいごの「ね」と「だな」で、どっちのセリフかわかる。
しかし英語ではさっぱりわからないので、まずはセリフのひとつをおばあさんに言わせることにして、あとは交互に、おじいさんおばあさんおじいさんおばあさん・・・・と訳していったのだそうだ。
興味深いのは、英語で読んでいるひとたちは、こういった場合、どっちがどっちのセリフか、気にならないのだろうか、ということである。
ある映画を劇場で観たとき、主人公の姉妹が「妹」と訳されていたのに、DVDで見たら「姉」になっていたことがある。
英語ではむろんどちらも「Sister」であるので、翻訳家にも姉か妹かわからなかったのだろう。
映画の中では、彼女が姉でも妹でも物語の進行に何も関係がないのだけれど、それにしても、性別とか兄弟姉妹の上下、目上・目下の関係を日本人ほど気にしないのだなあ、と翻訳を通して感心(?)したりする。
言葉は面白い。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
新潮社
2007年11月30日発行
宅配会社の社員・青柳雅春は、新しく選出された総理大臣暗殺の犯人として警察に追われることになる。
まったく身に覚えはない。
・・・と書くと、その真相を究明し、真犯人を見つける話かと思うが、これは犯人捜しの話でも、政治の裏側を暴く話でもない。
なぜかわからないが、犯人にされてしまった青柳雅春がひたすら逃げ回る物語だ。
彼の元恋人や、学生時代の友人、行きずりに出会った人々が、彼が犯人に仕立て上げられた無実のひとであることを信じて、身の危険も厭わずに彼を助けるために奔走する。
人々を監視するために設置された装置や、青柳を追い詰めることに異様な執着を見せる警察とその後ろに感じられるさらに大きな公権力の存在、醜悪としか思えないマスコミの騒ぎぶりなども、過不足なく描かれているけれど、やはり伊坂幸太郎の真骨頂は、縦横に張り巡らされた伏線とその見事な回収といったところにあるだろう。
ネタばれになるので詳しく書けないけれど、連続殺傷犯のエピソードや、元恋人とのちょっとした会話、最初の病院の場面、「痴漢撲滅」を叫ぶ青柳君の父親なども、後半になって、ああ、なるほど、という形で事件に絡んでくる。
ついでに言えば、「青柳」という名前にも、ちょっと面白い仕掛けがある。
首相暗殺の犯人にされた、なんて、現実だったらおおごとだが、伊坂幸太郎らしい気の利いたセリフとテンポの良い展開で、ほどよい緊張感を保ちながら、ウェットな感じがなく、さくさくと読める。
彼を救うのが、超人的な力でも、名探偵の推理でもなく、追い詰められながらも無償の善意を信じる青柳君の心と、それに応えた一人ひとりの善意の集合であるという展開が心地よい。
アレックス・シアラー著 金原瑞人訳
求竜堂
2003年5月発行
12歳の少女カーリーは、魔女の罠にかかって、80歳のおばあさんの身体の中に閉じ込められてしまう。
自分の身体は魔女に乗っ取られ、でも家族も友達も中身が違うなんて気がつかない。
このままでは、家族の中に偽者のカーリーが居座り、自分はおばあさんのままになってしまう。
もう一人の身体を乗っ取られた女の子とともに、ふたりで力を合わせて魔女をやっつけ、身体を取り戻そうとする物語。
スリリングでファンタスティック、わくわくするお話だが、根底にあるのは、「老い」とは何か、「老いる」ということを、まだ老いていない者たちはほんとうにわかっているだろうか、という作者の問いかけである。
腰は曲がる、足は前に進まない、手はリウマチで目はかすむ、何をするにも誰かの助けが必要で、毎日大量の薬を飲まなくてはならない。
お年寄りの生活の実態は、自分が老いた身体の中に閉じ込められて初めて気づくことばかり。
楽しくてちょっぴり怖いファンタジーとして読めばよいけれど、ほんの少し「老いる」ということについても考えてみては?と、作者は若い読者に語りかけている。
鳥越碧(とりごえ みどり)著
講談社
2007年7月10日第1刷
明治の俳人・正岡子規とその妹・律の物語。
脊椎カリエスを病み、晩年の6年間はほとんど寝たきりの中で、旺盛な執筆活動を続け、偉大な足跡を残した子規と彼を支え続けた妹。
こう書けば美談のようだが、作者は、律の二度の離婚が、彼女が兄を一人の男性として想い続けていたことによるものではないかと捉え、人知れず懊悩する律の姿を克明に綴っている。
子規・律兄妹のことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも描かれているが、あちらが男性の視点で描かれた子規の生活であるとすれば、こちらは歴史の上にはあまり登場しない女性の立場から見た子規という人物の物語でもある。
父を亡くしてから経済的には逼迫したものの、周囲の友人・知人に恵まれ、夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子らを筆頭に、子規を慕う人々が引きも切らなかったという正岡家。
自分を献身的に介護する妹に、ときに罵倒を浴びせ、わがまま放題を言い、母と妹が漬物と茶漬けで食事をしていても、自分は刺身が食べたいと要求する子規・・・。
律がどんな思いで子規を介護していたかは律にしかわからない。
兄を一人の男性としてみていた、というのも、筆者の想像の域を出ないと思うが、そこに確かに律というひとりの女性がいて、日本文学史上に大きな名を残す正岡子規を死ぬまで支えていた、という事実はもう少し知られるべきだと思った。
一方、二度の離婚後行き場のない律が、兄の介護に自分の存在意義を見出して、それを生きる支えにしていた、とも言える。
人間関係は、自分が支えているつもりが実は支えられている、あるいは互いに支えあっている、ということが多いのかもしれない。
アレックス・シアラー著 野津智子訳
PHP研究所
2003年2月19日初版
パパに逃げられ、住んでいたところからも夜逃げをしなければならなくなったママが、とりあえず住もう、と言い出した場所は、何でも揃った巨大デパート。
しっかりものの長女リビー、能天気なママ、おおはしゃぎの妹アンジェリーンは、週末、無人となったデパートに忍び込んで、暮らしはじめる・・・。
賞味期限切れの商品なら食べてもいいとか、洗って返せば売り物の食器も使える、ベッドも汚さなければOK、おもちゃもあとで返せば好きに遊んでいい、という勝手な理屈をつけるママは、リビーの心配にもどこ吹く風。
逞しくめげない母親といえば聞こえはいいが、物事を深く考えない、なんでも自分の都合のいいように解釈する、という意味では、最近日本でも増えている「モンスター・ペアレント」風なところも感じられる。
その、いささか無責任でいきあたりばったりの母親を庇うリビーの姿が泣かせる。
心配性で、機転のきいて、しょうもない母親と何もわかっていない妹を抱えて孤軍奮闘するリビーには、「しっかりせざるを得ない」子供の悲哀もちらほら。
無人のデパートという限られた空間を縦横に生かした愉快な物語だが、母娘の関係が妙にリアルで、現代の親子関係についてもちょっと考えてしまった。
アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳
早川書房
1995年12月15日43刷
戦時中、小さな田舎町に疎開してきた双子の「ぼくら」。
町のひとびとから「魔女」と呼ばれているおばあちゃんと暮らすことになった「ぼくら」は、不潔なおばあちゃんの家で過酷な生活を送ることになる。
「ぼくら」が自分たちの知恵と力で生き延びる話、というには、あまりにも異様な物語だ。
おばあちゃんも充分に気持ち悪いが、双子はさらに悪魔的で、時を経るにつれ、残忍でずるがしこく成長していく。
しかし、これはアゴタ・クリストフの考える「生きる」ということが、たぶんここまで過酷で、暴力的なものである、という表れなのだろう。
感情描写のほとんどない文章で書かれているのは、「ぼくら」が子供から、何か別の異様なものに変貌してゆく過程である。
「ぼくら」の目を通して描かれる大人の社会もけっして美しいものではないが、子供も純粋でも素朴でもない。
読んでいて気分のいい話ではまったくないのに、どうしても目が離せない、見てはいけないものを見てしまったような気分にさせられる物語。
アレックス・シアラー著 金原瑞人訳
竹書房
2005年12月29日初版
老化防止薬のおかげで老いることなく40歳くらいの姿のまま200歳までもの長寿を保証されるようになった世界。
しかし、そのかわりひとびとは不妊になり、希少な子どもは誘拐の危険にある。
誘拐された子どもは高額で売買されたり、子どもを望んでいる家庭に1時間いくらでレンタルされる。
一方、子どもの成長を止め、永遠に大人にならないPPインプラントという手術を受け、「子どもらしさ」をひとびとに提供することを商売とするものもいるが、彼らは身体は子どもだが、こころは大人であるため、本物の子どもとはやはり似て非なるものである。
ある男に連れられ、レンタルされて金を稼いでいる少年・タリンは、男が自分にPPインプラントを受けさせようとしていると知り、彼から逃れようとする。
タリンは成長して大人になることを望んでいた。
なんともグロテスクな近未来。
老いることを極端に忌避した結果引き起こされた、子どもの生まれない世界。
40歳前後の容姿を保ちながら、こころは100歳を越えたひとびとに“生”の輝きは感じられない。
彼らにとって、レンタルした子どもは、ペットのブランド猫と同じ、「珍しくて、ひとにみせびらかしたいもの」に過ぎない。
長く生き過ぎた彼らにはもう、子どもがほんとうはどういうものだったかも思い出せない。
生きることと死ぬことを軽んじた世界の行く末を意地悪く描いていて、美容や老化防止にばかりうつつをぬかす現代人への警鐘も読み取れる。
レンタルされる子ども、というのもおぞましいが、少子化の進む中、親たちが数少ない子どもに金をかけて飾り立て、なんでも望みを聞いてやりながら、実は子どもとの精神的な繋がりは非常に希薄であることを思うと、表面だけの親子ごっこを1時間いくらでやっているこの小説の中のレンタル子どもと、状況は大差ないのではないか、とさえ思えてくる。
また、大人が考える「子ども」と、子ども自身がこうありたいと望む姿とのギャップや、「男の子はこういうものだ」とか「女の子はこうでなくては」などとつい型にはめてしまいがちな大人への皮肉もたっぷりで、いつのまにか子どもの心を失ってしまった大人たちこそ、読んでみるべき1冊かもしれない。
アレックス・シアラー著 金原瑞人訳
竹書房
2007年5月2日初版
くせっ毛で眼鏡の少年ファーガル・バムフィールドの趣味はラベルのはがれた缶詰を収集すること。
ある日手に入れた缶詰から金のピアスが出てきて・・・。
奇妙で愉快で、ちょっと薄気味の悪い物語。
何も趣味がないので、ラベルの貼っていない缶詰を収集することにしたファーガルは、なんの根拠もなく「頭のいい子」と周囲には思われていて、それが重圧となり、なんとなく鬱屈した日々を送っている。
大人ってどうして、意味もなく「この子はこういう子だ」と定義したがるんだろう?
その定義はたいてい的外れなのに。
缶詰から妙なものばかり出てきて、謎は深まり、ファーガルは勇躍謎を解くために行動に出る。
自分にはいったい何ができるんだろう?
その答えを求めて冒険に踏み出す少年と、自分を愛してくれてはいるが、ちっとも理解していない親・大人たちへの苛立ちがユーモアを交えて描かれている。
まったく大人ってどうしてこんなに鈍いんだろう、と読んでいると思うのだけど、現実の世界の中では、私もその鈍い大人たちのひとりなんだろうな。
児童文学とカテゴライズされているようだが、むしろ大人が読むといろいろ考えてみるべきものがたくさんある物語。
後半の謎が解き明かされていくくだりは、なかなかスリリングだ。
三浦しをん(みうら しをん)著
文藝春秋
2006年3月25日第1刷
便利屋稼業の多田啓介と、ふとしたことで多田のところに転がり込んできた高校時代のクラスメイト・行天春彦。
一見タイプの異なるふたりだが、多田が出来るだけ周囲と深い関わりを持たないよう距離を保とうとしているのに対し、行天は常にマイペースで、よけいな口出しをしてコトを面倒にしているわりには、ひどく突き放した態度も見せる。
どちらも、どっぷりとウェットな人間関係から逃げている点で、似たもの同士である。
読み進むうち、それは、彼らがそれぞれに負っている過去の痛みのせいであるらしいことがわかってくる。
彼らは、人間と関わることに臆病なのであり、関わりたいという欲求が自分の中に存在することを認めるのも怖い。
多田便利軒に仕事を依頼してくるひとびとには、それぞれ単純ではない事情があって、多田は仕事の中でそれが見えてきても見ないふりをしてやり過ごそうとするが、行天は彼独特のいささか乱暴な方法で彼らの抱えている問題を結果的には解決することになる。
多田は行天に巻き込まれる形で、「おせっかい」をしてしまう。
その顛末の中に、人間関係の切なさ、複雑さ、痛み、醜さなども透けてみえる。
そういったものから距離をおいていたい、というポーズを装いながら、結局知らん顔ができない多田。
一方行天には、そういった人間模様をどこかでせせらわらっているような、軽蔑しているような、何も信じていないようなところがあるのに、やはり心の底では彼もまたそういったものと関わって生きていくことを願っているのだろうか。
主人公二人の描き方の上手い小説である。
とくに行天は、はっきりとは語られないが、とんでもなく暗い、凄惨な過去がありそうで、多田とのコンビは一見漫才のボケとツッコミのようにも見えるが、同時に心の深い闇も感じさせる。
多田が行天の存在に救われているように、行天も、多田と、そして便利屋に仕事を頼みにくるどこにでもいそうな、どこにでもある悩みを抱えたひとびとに、どこかで救われているのかもしれない。
でも、彼、心のいちばん奥はまだかなり暗そうだなあ・・・・。
アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳
白水社
2006年3月5日初版
最近は早期教育とかなんとか言われておむつも取れていないような子どもに英語を習わせるのが流行っているらしいが、母語の日本語も満足に話せないうちに他国の言語の習得を強制されるなんて、赤ん坊も災難なことである。
アゴタ・クリストフはハンガリー人だが、1956年のハンガリー動乱のときスイスに亡命し、自分の意志とは関係なくスイスのフランス語圏に住むことになる。
当初、彼女はフランス語はまったくわからない。
もちろんその後現在に至るまでフランス語で生活することになるので、結果として彼女はフランス語で戯曲や小説を書くまでになるのだが、しかし、彼女は「自分が永久にフランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書くようにはならない」と感じているし、「この言語を、わたしは自分で選んだのではない。運命のなりゆきにより、この言語がわたしに課せられたのだ」と書いている。
そして、自分の母語――自分の意志で捨てたわけでもなく、また忘れようとしているわけでもないハンガリー語が、自分の中でフランス語によって殺されていくのを感じている。
これは、ちょっと怖い感覚である。
たとえば、中国残留日本人孤児のひとが、幼いころ片言にせよ話せていた日本語を、彼らが自らの意志でえらんだわけではない中国語によって、その身体の中から抹殺されていったように、なんらかの理由で母語を捨てざるを得なかったひとびとも、世界のあちこちにいるのだ。
そうやって失ってしまった母語に対し、自分のせいではないにもかかわらず、いつもどこかで痛みを感じ続ける。
そして、アゴタ・クリストフのように、次に自分の母語となった言語となかなかしっくりいかない、自分の言葉としてしっかり取り込めない感覚につきまとわれている人々も、たぶんたくさんいるのではないだろうか?
母語をきちんと習得する時間も自由もある現代の日本に住んでいるのだから、子どもにはまずはじっくりと母語である日本語と向き合い、自分のものにする過程を経験させたらどうだろう? 流行物に飛びつくように英語に飛びつく前に。
しかし、実際には、アゴタ・クリストフのように語ること・書くことに妄執めいた意識を持っているひとと同じように感じるのは無理だろうし、幼い我が子に「目指せ!バイリンガル」と発破をかけて喜んでいる親に、母語がどうのこうの、といった話をしても、きょとんとされるだけかもしれない。
表面的にもせよ複数の言語を覚えた人間のほうが、今の社会では有利にはちがいないし。
でも、言語を甘く見ると、たぶん何かとても大切なものを失うことになりそうな気がする。
池永陽(いけなが よう)著
集英社文庫
集英社
2005年6月25日初版
毎日の暮らしに必要な、ありとあらゆる生活必需品を揃えて並べ、誰もが自由に出入りできて、便利さも商品としているようなコンビニエンスストア。
本作はそのタイトルのとおり、とあるコンビニを舞台とした、7話からなる連作短編です。
各話はそれぞれ違った人物の視点から語られますが、交通事故により一人息子を亡くしたことがきっかけで、妻の固執したコンビニ経営を始めることになり、その妻までも間を置かずして亡くしてしまった堀幹郎と、そうした経緯によって、まるで商売っ気のない気持ちから営まれている「ミユキマート」という彼の店が、いずれの話にも重要な役割を持って関わってきます。
それぞれの語り手は、この店に接するにつけ、それまで背負ってきた自分の人生を見つめ直すことになって・・・。
このコンビニの、いちばんの商品は、「こころの必需品」なのかもしれませんね。
池永陽(いけなが よう)著
集英社文庫
集英社
2003年1月25日初版
一作一作を紡ぎ出すように上梓している池永陽氏のデビュー作であり、思いっきり、奇をてらった小説になっています。
69歳になる勝目作次は、最近になってひとつ、大いなる悩みを抱えてしまいました。
ある朝、目をさましてみると、自分の頭の上に違和感をおぼえ、そこにちょこんと猿がのっているのを見つけてしまうのです。
灰色がかった茶の毛並をした日本猿。顔は赤く、足は短い。
作次のはげかけた頭にお尻をのせて座っているだけで、それ以上のことは何もしてこないし、そう見えるのも自分にだけであって、他人からは絶対に見えません。
無害というので、やがて作次は、事実を事実として受け入れるようになります。
あるときなど、何の抵抗もなく猿に対して「おめえ、幸せか」と話しかけるのですが、それは登場する人物のすべて、さらには読者のすべてに対する問いかけでもあるようです。
三崎亜記(みさき あき)著
集英社
2005年11月30日第1刷
日本のどこかのありふれた街のようでいて、どこか違う世界の、どこか違うひとびとの物語集。
「今、バスジャックがブームである」街、どこへも通じない二階扉をつけることが常識になっているらしい町内会、存在しない動物をあたかも存在するかのように見せる仕事を請け負う人々が働く動物園・・・。
なんだか変で、なんだかズレていて、この話はどこへ行ってしまうのだろうと思いつつ読んでいくと、別にどこかに行き着くわけでもなく、ズレたままに終わる。
SFっぽい奇妙な味わいの短編集で、ちょっと奇抜なアイデアを楽しめるともいえるが、これらの異世界を支えているのは、作者の現実に対する皮肉な視線であり、非日常はあんがい日常と隣り合わせになっているのではないかと思わせる淡々とした語り口である。
表題作『バスジャック』の、ブームに乗ってバスジャックをやろうとする若者たちとそれを面白がる乗客たちがいて、バスジャック規制法が出来たりバスジャック理論の本まで出る世界は、なんでもかんでも茶化して無責任に娯楽にしてしまう“こちら側”の世界への皮肉にほかならない。
『二階扉をつけてください』の、妻の留守にまわってきた回覧板をきちんと読まなかったために、近所の主婦になじられ右往左往する男の姿は、仕事一辺倒で自宅周辺のことすらろくに知らない日本のサラリーマンをからかっているようだ。
また別の物語には、そこに登場する人々へのあたかかいまなざしも感じられる。
亡くなった家族に似せた人形と暮らしながら、長い時間をかけて、その死を納得し、故人を思い出に変えていこうとする人々を描いた中篇『送りの夏』と、愛し合う恋人同士でありながら、共有するべき記憶をどんどん失っていく二人を描いた『二人の記憶』が、心に残った。
鴻巣友季子(こうのす ゆきこ)著
新潮新書
新潮社
2005年10月20日発行
この本は、明治中期、欧米の小説を翻訳・出版することを通して、文学の新しい傾向・文体・読み方を提示しようとした作家・文学者の苦心や情熱や心意気を紹介している。
今の私たちの目からみると、それはやりすぎだろう、と思うような翻訳も多々あったようだ。
『岩窟王』の翻訳で名高い黒岩涙香は、短編の翻訳の際など原書をひととおり読んだあとはまったく原書に目を通さず、記憶だけで訳し、しばしばストーリーまで変えてしまった。
トルストイの『復活』を翻訳した内田魯庵は、その前書きで「この小説はまったく面白くないので辛抱して読んでくれ、15,6回目くらいからは少しは面白くなるから」という言い訳を書いていた。
ベルギーの作家ウィーダの有名な児童文学『フランダースの犬』では、主人公のネロは「清」、パトラッシュは「斑(ぶち)」となって登場する。
日本の名前のほうが読者になじみやすいという配慮とはいえ、なぜ清と斑がベルギーのフランダース地方に住んでいるのか、たいへん不思議である。
筆者も書いているように、現代の出版事情や翻訳者の倫理観からすると、絶対にありえないようなことをやってしまっている。
欧米からさまざまなものが怒涛の如く押し寄せてきた時代とはいえ、受けて立つ日本人もこの時代にはなかなか豪傑だったのだなあ、と感心する。
私が子供のころ愛読していた『小公子』は、女流翻訳家・若松賤子(しずこ)の翻訳が最初のものだそうで、このタイトルも彼女がつけた。
原題は『Little Lord Fauntleroy(小フォントルロイ公)』というのだが、この小説は絶対に『小公子』以外のタイトルでは読みたくない、と思うほどに、私の頭の中に定着してしまっている。
しかし、若松賤子は当初『小公達(しょうきんだち)』にしようと思っていたそうで、夫に薦められて『小公子』としたとのこと。
よかった、『小公達』にならなくて。『小公達』だったら、いまごろこの小説、読まれていなかったかもしれない。
明治時代の一組のご夫婦のやりとりで決まったこのタイトルのおかげで、この小説が今でも読み継がれている、というのは大げさだろうが、何が作品の命を永らえさせるか、わからない。
筆者自身が翻訳家なので、現代の翻訳事情と重ね合わせて、大きく違っているところ、驚くほど変わっていないところなども書かれていて、巻末のあとがきにもあるように、まさに「翻訳温故知新」といった一冊である。
小川洋子(おがわ ようこ)著
新潮社
2003年8月30日発行
この物語を読んで思い出すのは、ある本で読んだ実在の双子の話である。
彼らは知能に障害があり、誰かの手を借りなければごく日常的なこともできないほどなのに、数学に関しては天才的で、何桁もの素数を即座に並べてみせたりできる。
また、いつだったかテレビで、手術の影響で記憶が数時間しかもたない男性を見たことがある。
彼の記憶は、息子たちがごく幼かったころで止まっていて、新しい記憶は数時間しか頭に留まっていないため、数時間おきに、自分の子がなぜ一瞬のうちにこんなにも大きくなってしまったのか、理解できずに驚愕する。
それは痛ましい光景だった。
この本の主人公の「博士」は、その双子と男性を合わせたような状況にいて、天才的な数学者だったが、自動車事故が原因で、記憶が80分間しかもたない。
彼にとって世界でもっとも価値ある美しいものは数学である。
誕生日や電話番号や靴のサイズから、博士は独自のやり方でひととの繋がりや世界の美しさを見出している。
「君の靴のサイズはいくつかね?」
「24です」
「ほう、実に潔い数字だ。4の階乗だ」
記憶が蓄積されないので、博士にとって、あらゆる人物は初対面であり、すべての体験は次の瞬間には意味をなさない。
物語の語り手である「わたし」とその10歳の息子「ルート」が、どんなに博士を愛し、大切に思っていても、数時間の空白をおけば博士にとって彼らは知らないひとになる。
しかし、だからこそ「ルート」に対する博士の愛情は本物と思える。
博士の「ルート」への思いやりは、記憶の障害などものともせず、揺るぎない。
どんな人間関係も、時間を経るにつれ、往々にして不純なものがついてまわることを思うと、博士の記憶が1時間あまりしかもたないことは、彼らの関係を純粋なものにするための大きな要素だと言える。
いつまでたっても、打算や利害の発生しようのない関係。
憎しみも軋轢も消えさってゆく関係。
逆に言えば、記憶を重ねて生きてゆかねばならないたいていの人間にとって、記憶は苦痛の元凶でもあるわけだ。
そこから解放されて、数学の世界にのみ生きてゆける博士は、幸福な存在なのかもしれない。
しかし、「わたし」と「ルート」は、博士と記憶を共有することはできない。
それでも二人は博士との時間をなによりも大切にする。
成長した「ルート」の、もはや80分間の記憶も失ってしまった博士への深い愛情を描くラストには泣けました。
記憶と数学をめぐる、とても切ない物語。
奥泉光(おくいずみ ひかる)著
文藝春秋
2005年7月30日発行
東大阪市の三流女子大で近代日本文学を教える桑潟幸一助教授のもとに、ある無名の童話作家の遺稿が持ち込まれ、その紹介文を書くことになる。
思いがけずその無名作家・溝口俊平の作品が世に知れ渡るところとなり、桑潟助教授も時のひととなるが、彼を担当した編集者の首なし死体が発見され・・・。
叢書名が「本格ミステリ・マスターズ」なので、体裁は推理小説。
ちゃんと整合性のある謎解きも用意されている。
しかし、ほんとうのところこの小説を分類するのは難しい。
奥泉光の小説の真に意味するところは、いつも私にはよくわからないのだが(巻末の千野帽子による解説だってなんだかよくわからない)、それでも、この作家の饒舌な文体と、本筋とあまり関係のない記述はけっこう楽しい。
探偵役の元夫婦(現在は離婚している)のボケとツッコミ、桑潟助教授の救いようのない俗物ぶりには笑える。
桑潟助教授は、悪夢の中を右往左往して、どこまでが現実なのか本人にも読者にもわからないというあたりはホラー風味のSFか。
怪しげな新興宗教団体にアトランティスのコイン、このへんはオカルトかな。
「無名のうちに肺病で逝った作家の心温まる童話」に簡単に感動し勝手に盛り上がって、そしてすぐに飽きる一般大衆や、それに便乗する出版社など、そこここに皮肉も効いている。
この小説の位置づけがどうであれ、読むこと自体を楽しむという意味ではたいへん面白い。
早く犯人を知りたいがためにストーリイばかりを追いかけるのではなく、事件にも推理にも無関係な部分をこそ楽しむ小説なのかもしれない。
ミステリとしてももちろん面白い。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
講談社
2004年5月20日発行
伊坂幸太郎はいまどきの若手の作家にしてはあまり大長編を書かない。
パソコンで原稿を書くことがあたりまえになっていることと関係があると言われているが、最近の推理小説の類はやたらと長い。
長くても面白ければべつにかまわないが、ものによっては少し書き込みすぎているのではないか、という気がする。
伊坂幸太郎は、たくさんの言葉を費やして語る、という作家ではない。
どちらかというと淡々としていて、ときにはもう少し突っ込んで書いてよ、という気がしないこともない。
しかし、その一見淡白な文章の中に、やまほど言葉を書き連ねるよりももっとたくさんのことが語られていることがあって、あ、上手いなあ、と思う。
この本の中にこんな場面がある。
盲目の青年・永井君が、バス停に立っていると、中年の婦人が話しかけてきて、それから彼に5千円札を握らせる。
生まれたときから目の見えない永井君は、こういうことには慣れているので、「彼らは善意のひとだ」と割り切っているが、彼の変わり者の友人・陣内君の反応はこんな風である。
「おい、自分だけ金を手に入れたからって、いい気になるなよ。なんでお前がもらえて、俺がもらえないんだよ」
「たぶん、僕が盲導犬を連れているからじゃないかな。目も見えないし」
「そんなの、関係ないだろ、どうしてお前だけ特別扱いなんだよ」
あとで、永井君は、そのときの陣内君の反応こそ「普通」だったと思うのである。
差別がどうの障害者に対する認識がどうの、という言葉はまったく出てこない。
わずか2ページほどの描写だが、障害に対する伊坂幸太郎の姿勢を垣間見るようで、印象的だ。
柴田よしき(しばた よしき)著
講談社
1998年4月30日発行
『シーセッド・ヒーセッド(She said,he said)』
柴田よしき(しばた よしき)著
実業之日本社
2005年4月25日発行
ハナちゃんこと花咲慎一郎は保育園の園長兼私立探偵。
ハナちゃんは、万年赤字の保育園を維持するために、ヤクザと渡り合うようなハードな探偵仕事をこなしつつ、その合間に壊れたおもちゃを修理し、子供を寝かしつけ、赤ん坊のオムツを替える。
ハナちゃんのところに持ち込まれる「警察には頼めない困りごと」を物語の中心に置きながら、ハナちゃんの周囲のひとびと――保育園の保育士、母親たち、子供たち、ヤクザ、警察、等々の姿をたくみに織り交ぜて、多様な登場人物でありながらそれぞれがくっきりと描き分けられ、またテンポもよく、上手い作家である。
彼の保育園には、新宿二丁目という土地柄を反映して、さまざまな事情を抱えた夜の女たちが子供を預けにやってくる。
不法滞在の外国人だったり、身体を売っていたり、ヤクザ絡みだったり・・・。
ハードボイルド調の物語だが、ハナちゃんがこれらの母親と子供たちに向ける視線が優しく、同時に辛い過去を背負ったハナちゃんにとって子供の存在が救いになっている、というあたりにはやはりほろりとくる。
一方で、福祉の網からこぼれてしまう、不法滞在の親から生まれた国籍を持たない子供の問題なども盛り込まれていて、「面白い探偵小説」という以上にいろいろな側面を持ったシリーズである。
村田喜代子(むらた きよこ)著
文春文庫
文藝春秋
2004年10月10日初版
時代小説だとは、あえて言うべきでないだろうと思います。
しかしながら、時は今、徳川も四代家綱の世となったばかり。
秀吉の朝鮮出兵に際して、捕らえられ、強制連行された朝鮮人陶工たちが、九州各地に散らばって窯場を築き、生活を営みつつある時代の話。
龍窯の辛島十兵衛こと張成徹は、北九州は黒川藩内における陶工たちの頭領だったのですが、彼の死んだところから物語が始まります。
日本で生きて行く者として日本式に葬儀を済ませようとする喪主で長男の十蔵に対し、パイオニアにならざるを得なかったうちのひとり、十兵衛の妻の百婆は、同じ世代の年寄りたちを仲間にして、果敢に朝鮮式の葬儀をしようと企みます。
その攻防がエネルギッシュに描かれ、読者をその場に立ち会わせてしまうだけの力を持った小説になっているのです。
時代なんて、かーるく飛び越えます。
特に百婆は、とびきり魅力的な人物。
村田喜代子氏の作り上げるヒロインは、すべてそう。
密かにですが、氏の分身に間違いないと睨んでおります。
村田喜代子(むらた きよこ)著
文春文庫
文藝春秋
1998年11月10日初版
「お姑(ばば)よい」「ヌイよい」という呼びかけから絶えず始められる、全編にわたるやり取り。
それは、押伏村の中庄の庄屋の嫁ヌイと、その姑レンとが、お互いに相手を思いやり、労るあまりに呼びかけあうものでした。
そうして物語は、独特のリズムを強烈に持たせた個性的な文語体によって、何事が起きようともちっとも不思議ではない、究極の小説世界へと導くように語られて行きます。
押伏村には60歳を越えると蕨野に捨てられなければならない、という姨捨の風習があり、その年も、家族を残して蕨野入りをした、レンをはじめとする9名の者がおりました。
蕨野入りをしても、日々の糧を求め、命を保って行かなければなりません。
そのあたりが克明で具体的に、しかし、滑稽で幻想的に描写されています。
「お姑よい。おめは鳥のよに、どこかへ飛んでいく所存は有りつらんか」
物語は春に始まり、厳しい冬で終わりますが、季節にまた春がめぐってくるように、この小説の読後感にも、なにか、春を感じ取ることができました。
盛田隆二(もりた りゅうじ)著
角川文庫
角川書店
平成16年2月25日初版
書店に並べられた中、帯の「佐藤正午氏絶賛!」に釣られて手に取りました。
盛田隆二って誰だ?
表紙をめくって略歴を覗けば、そんなに若くなさそうで、作品が多くなさそう。
それじゃあ、佐藤氏を信じてみようか、というのでレジを通り、こうして読み終えた今、信じたのが正解、自分も絶賛するほかなくなっています。
北大生の安達俊介がアルバイトをしているコンビニに、いつも土曜日の夜11時すぎにやってきては、支払いを終えた後で店内を一周し、100円にも満たない同じ菓子を一袋だけ万引きしていく涌井裕里子。
彼女は、俊介より一回り年上の人妻であり、先妻との関係を断ち切れないでいる男のところに後妻として入った女性でした。
そういう事情が分かるにつれても、お互いに恋してしまった気持ちを止められるものではありません。
豊平川の花火大会、小樽でのデート、水曜日ごとの密会・・・やがて、それは人に知られることとなります。
本編に先立って「失踪宣告」云々の語られる構成が、ふたりの行く末の切なさをよく表現していますし、文庫では差し替わっていますが、単行本の際の表紙がまた、痛切に表現できている、とてもいい1枚の写真になっています。
盛田隆二(もりた りゅうじ)著
光文社文庫
光文社
2005年1月20日初版
『夜の果てまで』と同様、ちょうど1年間における物語になっています。
ただし、「9・11テロ」「しし座流星群」など時事こそ書き込まれてはいますが、季節感がさほどありません。
それと言うのは、『夜』の1990年に対して、本書が2001年であるからなのか、『夜』が札幌を中心としているのに対して、本書が東京でしかないからなのか。
実際には、昨今の東京においてだって季節感はあるのでしょうが、どこか壊れてきているようであり、そうだとすると、タイトルが警鐘のようにも思えてしまいます。
上原弥生は、区内のマンションで暮らす専業主婦。
ひとり娘が幼稚園に入ったのを機に、社会との接点を持とうとして、タウン紙のライターを始めます。
一方、マンションには、週末ごとに気軽にお酒を誘いあったり、子どもを預けたり預かったり、家族ぐるみの付き合いがあるのですが、新しく越してきた大光寺千鶴は、まったくの異種。
彼女の出現により、少なからず波風が立って・・・。
私見ですが、盛田氏に作品の量産を求めるのは、無理というものでしょうか。
リチャード・モーガン著 田口俊樹訳
アスペクト
2005年4月5日発行
27世紀。
人間の精神はデジタル化され、保存されている。バックアップをとっておけば、肉体は死んでも新しい肉体にそれをダウンロードすることでほぼ永遠の命が得られる。
しかし、高価な肉体やクローンを手に入れられるのは大金持ちに限られている。また犯罪者は精神のみを保管され、財力がない場合、肉体は売買の対象となってしまう。
数世紀にわたって生き続けているある富豪が死んでいるのが発見され、かれは数日後に生き返ったものの、死の直前の記憶がないため、自分が自殺したのか殺されたのか、わからない。
日系の私立探偵タケシ・コヴァッチのもとに調査の依頼がくる・・・。
いやはやまったく悪夢のような未来のお話。
殺された人間が違う肉体をまとって復活する、時には男性の精神を女性の身体にダウンロードする、犯罪者には数百年にも及ぶ精神の保管刑や、ヴァーチャルでの拷問が待ち受ける・・・。
インターネットにのめりこんで、現実の世界にリアリティを感じないひとも増えているという昨今のことを考えれば、今から700年後にはこんな狂った世界が現出するかもしれない。
肉体と精神をこんなにも別々のものとして捉えることに少々疑問は感じるが・・・。
主人公の生まれ育った場所が、日系と東欧系の人々が開拓した惑星という設定なので、主人公の名前をはじめ、あちこちに日本語や日本的なものが描かれていて、日本人が読むとより奇妙な印象である。
カタカナ言葉が多く、デジタル用語に疎い者としては、読むだけで疲れてしまうような物語だが、人間の生と死について、肉体と精神の関係について、個人を個人たらしめているものについて、考えこんでしまうところもある。
本の帯にあるキャッチコピー・・・「設定はサイバー・パンク、ストーリーはオーセンティックなハードボイルドミステリ、フューチャー・ノワールの最高峰!」
まずはこのコピーの意味がわからないことには、こんな未来の物語にはついていけないのかもしれないけれど、もう少し日本語使ってくれませんか?
ジョン・マクレガー著 真野泰訳
新潮社
2004年11月25日発行
英国北部のある街に住む人々の物語。
物語の半分は、たまたま同じ一角に住んでいる30人ほどの人々の、8月最後の一日の描写に費やされる。
大学を卒業して借りていた部屋を出るために荷造りをしている22番地の眼鏡の女の子、彼女にあこがれながら声をかけられずにいる18番地の男の子。不治の病であることを妻に告げられないでいる20番地の老人、手に大やけどを負って、娘をしっかりと抱きしめられない16番地の男、等々・・・。
冒頭、その日の終わりに何か重大なことが起こったらしいことが書いてある以外、著者は、彼らの生活、言葉、しぐさ、思いなどを淡々と丁寧に語っていくだけで、それは平凡なひとびとの平凡な一日のようすに過ぎないと言ってしまえばそうなのだけれど、読み進むうちそれらのすべてが何か特別なことに思われ、穏やかに生活することや、ほんの少しでも周囲と繋がっていることが、とても大切に感じられてくる。
物語のもう半分は、22番地の眼鏡の女の子が、3年後思いがけず妊娠してしまい、両親や友人に告げられずに思い悩むうち、18番地の男の子の弟である青年と恋に落ちる物語である。
二つの物語は最後には撚り合わさってゆき、3年前に起きた「奇跡」の正体も明かされるが、そういった物語上のちょっとした仕掛けよりも、なんでもないひとびとのなんでもない日常への作者のまなざしが心地よく、じんわりと心に沁みてくるような作品である。
火事で妻を亡くし、手に大やけどを負った男の、幼い娘への言葉はことに忘れがたい。
『娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活は、そのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。 奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う』
著者ジョン・マクレガーは1976年生まれ。この作品を発表したのは2002年。
こんな言葉を26歳の青年が語れるなんて、それもまた奇跡かな。
永井するみ(ながい するみ)著
光文社
2002年8月25日発行
外国人労働者を対象に日本語を教えるボランティア教室を舞台にした連作短編集。
教えるボランティアと、習いに来る外国人との間で起こる、事件ともいえないほどのちょっとした出来事を通して、心の奥底に潜む差別意識や偏見を描き出す、なかなか怖い物語である。
夫との間がうまくいかず、息子とも意思の疎通のない主婦・道子は、ひとりで家にいるつまらなさから、日本語教室のボランティアに参加するが、彼女はひそかに外国人を嫌っており、ある事件がきっかけで、その気持ちが露わにされてしまう。
息子に、「外国人の悪口を言いながら、日本語を教えている」偽善を指摘されるラストは痛烈である。
よかれと思ってやっていることが、実は自己満足にすぎなかったり、相手の気持ちをまったく考えていない行為だったり、そういうことは日本人同士の間でも起こるが、“お金を稼ぎに貧しい国からやってきて、無料の日本語教室に通っている外国人”と相対するとき、そこに無意識の優越感が加わるのではないだろうか?
また、外国人に対する固定観念や、一般的なイメージだけで、彼らをわかったような気になっているところもありそうだ。
ブラジルから来た、というだけでサッカーが上手いはずと周囲に決め付けられて思い悩む運動下手の少年の話など、現実にもありそうである。
私は北海道生まれだがスキーもスケートもできない。そして、できない、と言うとたいてい不思議そうな顔をされる。
リズム感の悪い黒人も、餃子の苦手な中国人も、絶対いると思うのだが・・・。
人間というのは、こういった紋切り型のイメージに意外に疑問を抱かないものらしい。
一方、日本語を習いに来る外国人たちは、そういう日本人の思い込みや自己満足や偽善を見透かし、冷笑したり、利用しようとしたり、戸惑ったり、振り回されたり、さまざまである。
点訳などは相手が目の前にいなくてもできる作業だが、直接人間を相手にするボランティアはなかなか難しい。
中島義道(なかじま よしみち)著
新潮社
新潮文庫
平成17年2月1日発行
うなぎや細長い魚は蛇を連想させる、タンは舌だと思うとどうしても食べられない、「卵」という漢字は卵の内部構造をそのまま示していてグロテスク、サラミは手足の切断面のようだ・・・・、ゆえに絶対に食べない、という偏食哲学者の本である。
食べてみたけれどまずかった、アレルギーで食べられない、といった、一般的な意味での偏食ではなく、きわめて観念的な食わず嫌いを押し通し、周囲とのズレと非偏食者の無理解に怒りつつも、そのズレと怒りを生きる糧としているような、悲愴でどこか滑稽なエッセイ。
中島先生の怒りの矛先は、非偏食者のみならず、騒音公害・白昼の無駄な照明・不誠実な編集者、そして「単純かつ平凡な感受性に留まっていて、微妙かつ理不尽な差異がわからなくて、つまり面白みのない人生を歩んでいる」ひとびと、要するに世の中の大半の人に対して向けられる。
私は、世の中を支えているのは、その「単純かつ平凡な感受性に留まって」いる人々だと思っているので、そういう世の中で哲学を語りながら生きていけるのも幸せじゃないの、と思ってしまうのだが、中島先生はそういう多数派(マジョリティ)の鈍感さに怒り、罵倒し、罵倒することを楽しんでいる。
非偏食者の「こんなにおいしいもの、何で食べられないの?」という言葉に憤り、そういう彼らだって「食べてごらんよ、あなたが飼っていたこの子猫、とても美味いから」と言っても食べないであろう、と中島先生は言うのだけれど、それは「平凡な感受性に留まっている」者から見ると、ずいぶん無茶な理屈だと思う。
しかし、この無茶をこそ中島先生は押し通したいのであろう。
自分の傲慢さや理不尽さは十分に承知のうえで、それでも自分を見失わないための、少数派(マイノリティ)として戦い抜いていくための処世術のような本である。
他人事なので面白いけれど、ずいぶん生きにくい性格だと思う。
もっとも、その生きにくさもまた生きる力にしているようではあるけれど。
ところで私もかなりの偏食だが、たいていは食べてみてまずいと思ったものが嫌いであるという、ごく一般的な偏食。形状が嫌いで食べないのはいまのところ牡蠣くらいなものだ。
でもきっと、マジョリティからは「何で?牡蠣なんてすっごくおいしいのに」と言われるんだろうなあ。・・・・余計なお世話だ。
そういう思いを極端に拡大してゆくと、そうか、中島先生に辿り着くらしい。
宮本輝(みやもと てる)著
文春文庫
文藝春秋
1985年11月25日初版
大阪郊外の丘陵地に新設されたばかりの私立大学を、別段これと言った理由もなく受験して合格し、あまり気の進まないままに入学手続きの最終日、それも夕暮を迎えて、まだどうしようかと迷っていた椎名燎平。
そんな彼に急いで手続きをさせたのは、同じような気持ちでやってきたらしい、華やかな面立ちをした、佐野夏子という名前の女の子でした。
言葉を交わしたとは言いがたいような最初の出会いから、卒業試験で必須科目を落とし、燎平、夏子のふたりだけで受けることとなった追試験までの、まるっと4年間の歳月。
大学生活の過ごし方は人さまざまでしょうが、テニスに明け暮れる燎平と親友たち、個性ある登場人物たちは、ひとしく青々として直向きです。
自堕落に過ごしてしまった自らを省みると、眩しいばかり。
それでも同じ空気を感じることができて、物語の歳月をともにしたような気がしました。
宮本輝(みやもと てる)著
光文社文庫
光文社
2004年9月20日初版
阪神大震災から、ちょうど10年。
諺にいうところの「ひと昔」ですが、なるほど、新聞やテレビを通じて知る神戸の街の立ち直りには、目を瞠るものがありますね。
一方で、無理に変更させられてしまった運命は、何年経とうとも元に戻るものではありません。
本書は、大震災の日の朝、まるで「何百頭もの馬が自分に向かって走って来るよう」な地鳴りを耳にするところから始まります。
地鳴りの音をそう感じた主人公の仙田希美子は、小学生の男児ふたりを持つ、36歳の専業主婦。
夫の赴任に伴い、つい1ヶ月ほど前から西宮市に住むようになって震災に遭遇するのですが、前夜のちょっとした諍いから普段と違う場所に寝ていたことで、奇跡的に助かりました。
多くの人命を奪い、財産を無にし、街を破壊した震災は、仙田の家庭の崩壊をも招きますが・・・。
奇縁がもとで、希美子や被災した少女たちは、森の不思議な巨木に癒され、再生して行くことになります。
現実のほうが、もっと癒されるものであって欲しいと切に願います。
ロバート・ニュートン・ペック著 金原瑞人訳
白水社
1996年2月5日第1刷
貧しい農夫で、自分の畑を耕す傍ら、生活のために豚の屠殺を仕事にしている父と、その姿を見つめながら大人へと成長していく息子ロバートの物語。
その生活のようすは、どこか『大草原の小さな家』を思い出させる。
ロバートの生活は、田舎の伸びやかさと、生きていく厳しさがないまぜになっている。
冬眠前のリスを狩って、腹を裂き、胃袋の中から木の実を取り出す。リンゴ畑で虫除けの煙を焚く。家畜に餌をやり、鶏小屋の掃除をし、牛の乳を搾る。それらはみな12歳のロバートの仕事である。
宝物のように大切にしていた豚が不妊とわかり、豚は屠殺されることになる。仔を産まない豚を飼う余裕はない。
ロバートは自分の大切な豚を殺す父を見、父のほうが自分より何倍も辛いことを理解する。
ロバートの両親は、現在ではほとんど信者のいなくなったシェーカーという宗派で、勤労と禁欲を旨としたそうである。
ロバートの父は、住んでいる小さな村から出たこともなく、字も読めず、一生涯誠実に働き続けて、静かに死んで行く。
狭い世界しか知らなかった、といえばそれまでだが、こういう人生も幸福であるように思われる。
ロバートは、母さんの縫ったコートではなく、店に飾ってあるようなしゃれたコートが着たい、と思うこともあるが、しかし、やはり多くを望まずに、周囲の人々から信頼されていた父のように生きたいと思うようになる。
今時の日本の12歳の子供と比べても無意味かもしれない。
でも、こんな小説を読むと、溢れるモノに溺れそうになっている日本の子供たちの姿が、どこか不幸なものに見えてくる。
持たない幸福というものもある。
古処誠二(こどころ せいじ)著
集英社
2004年9月30日第1刷
第二次世界大戦末期のサイパン島。
圧倒的な軍備・戦力のアメリカ軍を前に、絶望的な抵抗を続ける日本軍。
日系二世のアメリカ兵ショーティは、日本人捕虜に尋問したり、立てこもる日本兵に投降を促すための語学兵(通訳)である。
両親ともに日本人である彼は、軍の中ではジャップと罵られ、アメリカに忠誠を誓っているにも関わらず、常に「護衛兵」と称する監視がつく。かと思えば、捕虜になった日本人からは裏切り者と呼ばれもする。
ショーティは、自分が何者なのか、アメリカ人なのか日本人なのか、常に自問しないではいられない。
敵の捕虜になることが最大の恥と叩きこまれているうえ、アメリカ人は鬼畜と教えられている日本兵は、武器も食料も援軍も期待できない状況下にあって、容易に投降しない。
最後の一兵になっても闘って玉砕する、従って捕虜はありえないことになっている以上、捕虜になった者は国家の恥とみなされ、家族は蔑視の対象となる。捕虜になった後、日本へ帰れても、待っているのは村八分である。
ショーティが投降を呼びかけた兵士も民間人も、多くは自決の途を選ぶ。
恥に対する異常な恐怖心が、徒に戦争を長引かせ、犠牲者を増やしている、とショーティは考える。
恥という概念にがんじがらめになっていた戦時中の日本人と、自殺同然の戦闘をやめようとしない日本人に恐怖さえ覚えるアメリカ軍。
二つの合い入れない精神文化のはざまにあって、双方に複雑な感情を抱いているショーティの目を通して、戦争の愚かさを描く。
著者には、ほかにも戦争をテーマとした作品があるが、いずれも戦争の醜悪さ・無意味さを告発するものである。
この作家の作品にはいつも悲しげで静かな視線が感じられ、悲惨な戦争の物語で、激しい戦闘シーンもあるが、全体の印象は静謐である。
東野圭吾(ひがしの けいご)著
実業之日本社
2004年12月15日第1刷
中学受験のため、子供に特訓させるべく湖畔の別荘に集まった四組の親子と一人の教師。
妻の連れ子に付き添うため、気が進まないながら、別荘にやってきた並木俊介だが、妻との間はうまくいっておらず、別荘に集ったほかの家族ともなんとなくしっくりいかない。
そんな折、彼の部下で愛人でもある女性が殺され、彼の妻は「私が殺したのよ」と・・・・。
テンポよく進むストーリーと、曰くありげな登場人物、意外な結末。
ぐいぐい読ませるよくできたミステリである。
中学受験のためにここまでやるだろうか?とか、ラストの決着のつけ方はどう考えても倫理に悖るのではないか?とか、現実に即して考えてしまうと無理なところもあるが、巧妙な展開とどんでん返しを楽しむ本格ミステリとしては充分に読み応えがある。
最近映画化されて、なかなかの出来らしい。
ラストは小説と異なるということなので、そちらも見てみたい。
後藤明生(ごとう めいせい)著
集英社
1976年3月25日発行
3年ほど前から、猫の登場する小説というのを、特別な感情を抜きにして素通りすることができなくなっております。
本書も、かれこれ四半世紀以上も前の新聞小説だったのですが、ふと思い出してしまったならば気になって気になって、市の中央図書館の閉架書庫より借り出すこととなりました。
勿論、連載されていた当時は、猫に対する特別な感情などまるでなくて、滝田ゆう氏の描かれる、ぽよぽよっとした挿絵を目当てに読んでいたものでした。
さて、話のほうは、笑わないからという理由で猫が嫌い、あるいは理由は何にしろ猫嫌いであることに間違いない、という作家が、犬猫禁制の団地にもかかわらず、猫を飼うことになってしまって・・・というものです。
後藤氏にしては、実験的な要素が抑えられていて、読みやすい作品になっています。
猫との距離感も申し分ないです。
ところで、この生後3ヶ月でやってきた子猫。
顎から首、胸にかけてと四肢の先だけが白いトラ猫・・・
これはもう、特別な感情どっぷりで読むしかありませんでしたね。
後藤明生(ごとう めいせい)著
文藝春秋
昭和48年8月25日第1刷
本書も、東京近郊のマンモス団地において、妻、長男、長女との4人家族で暮らす、後藤氏と等身大と思われる作家の目を通して、日常のつれづれが描かれた新聞小説です。
『めぐり逢い』よりも3年前に書かれている分だけ、子どもの学年が低くて、長男は小学4年生、長女は幼稚園児で登場し、その長女のあどけなさが強く感じられました。
氏自身が後記で語っているとおり、連載開始に当たって何の計画もなく、むしろ即興的な自由さを優先されたところがあったそうで、そのためか後半、話のまとまりの悪さが目立ってしまった気がします。
登場する作家の失敗や困惑以上に、毎日の決められた字数の制約からくる難しさを痛感している後藤氏の、眉間にしわを寄せている姿が、すぐ目の前に見えるようでした。
尚、オブローモフとは、ロシアの作家ゴンチャロフの小説『オブローモフ』の主人公。
19世紀の貴族であり、広大な領地とたくさんの農奴を相続した大地主で、怠け者とされた人物のことだそうです。
コニー・ウィリス著 大森望訳
早川書房
2004年4月15日発行
一言でこの小説の内容を語るのは難しい。
訳者あとがきによると、「SFであり、冒険小説でもあり、ミステリでもあり、コミック・ノヴェルであり、恋愛小説でもあり、歴史小説でもあり、そしてまた主流文学とジャンル文学のいいとこどりしたスリップストリーム小説の逸品」とのこと。
つまり、どんなジャンルに入れてもいい、あるいは、どんなジャンルにも入らないハチャメチャ小説、といえるだろうか。
今から約50年後の未来、タイムトラベルは実現しているものの、過去から未来へ何か形のあるものを持ってくることは不可能であるとされているため、考古学者や歴史学者は、もっぱら過去へ出かけては、文献を模写したり、資料を調べることに精を出している。
オックスフォード大学の大学院生ネッドも、スポンサーからの命令で、ある聖堂の遺物「主教の鳥株」なる花瓶の調査に第二次世界大戦下のロンドンへ。しかし、どうしても「主教の鳥株」は見つからない。疲労困憊のネッドは、心身を休めるため、スポンサーの目を逃れて、ヴィクトリア朝時代に静養に出かける・・・
一方、ヴィクトリア朝期の調査に行ったヴェリティは、ひょんなことから連れて来ることができないはずの猫を21世紀に連れてきてしまう・・・
物語の軸となるのは、自分たちのせいで歴史の流れが変わってしまうことをなんとか阻止しようとする二人の悪戦苦闘である。
貴族のわがまま娘トシーは頭文字Cの男性と結婚しなければならないのに、彼らの失敗で脳天気なお坊ちゃんテレンスと婚約してしまうし、テレンスと出逢っって結婚するはずのモードとは、やはり彼らのせいですれ違ってしまう。溺れて死ぬはずだった猫を助けてしまい、見つけ出せるはずの「主教の鳥株」も見当たらない。やることなすことすべて歴史を変えてしまうことにつながってしまい、このままでは、第二次世界大戦にドイツが勝ってしまうかも・・・?
なにがどうなったら、ヴィクトリア朝の男女の婚約がドイツの勝利に関わるのか、しっちゃかめっちゃかの話であるにもかかわらず、細かいところまで実にうまく、よくできていて、最後にはみな落ち着くべきところに落ち着く。ドタバタ喜劇とタイムトラベルSFの面白さが満載である。
著者が女性であるせいか、女性の描き方がなかなか辛辣で、そこがまた面白さの一因でもある。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
角川書店
平成16年7月30日初版
軽妙なタッチの小説だが、全体的には「死」と「暴力」の影が濃い。
ある男に遊び半分で妻を轢き殺された「鈴木」、背後から車道に突き飛ばして目的の人間を殺す「押し屋」、政治家に依頼されて邪魔になった秘書や部下を自殺に追い込む「自殺屋」、女も子供も平等に殺すことを身上にしている殺し屋、などなど。
現実にこういう稼業の人間が存在するのかどうか私にはわからないが、今の世の中の殺伐さを思うと、こういうことがあっても不思議でもないような気になってくるからちょっと怖い。
昨今の「純愛ブーム」が、私の目から見るとどう考えても「そんなものはありえないからこそのブーム」としか思えないのに対し、この小説の暴力的な世界にはリアリティを感じるというのも、なんだか暗澹としてくる。
伊坂幸太郎らしい構成の妙と語り口の上手さは相変わらず。
妻を殺され、その復讐にも失敗した主人公の「鈴木」が、ラストでは生きる気力を取り戻すので、一応ハッピーエンドだが、しかし、後味が良いとは言えない。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
新潮文庫
新潮社
平成15年12月1日発行
外界から閉ざされた島で、未来を予知できるカカシが何者かに殺される。なぜカカシは自分の未来を見通せなかったのか?
ひとつ間違えば出来の悪いファンタジーもどきに陥ってしまいそうな設定である。
嘘しか言わない画家や、殺人を許されている「島の法律」と呼ばれる男、地に耳をつけて心臓の音を聞こうとする少女・・・・。
舞台となる孤島もその住人も非現実的で、冒頭から「なんなんだ、これは?」という場面の連続である。
しかし、伊坂幸太郎の小説がみなそうであるように、それらはすべて周到に配された謎解きのカギである。
舞台はファンタジックだが、謎の解決には超現実的なこじつけは使われていない。
巧緻で洒脱、相変わらず(といっても、本作が著者のデビュー作)上手い作家である。
19世紀の動物学者オーデュボンと絶滅した鳥リョコウバト、そして未来を知るカカシの哀しみが胸に迫る。
アンドレイ・クルコフ著 沼野恭子訳
新潮社
2004年9月30日発行
財政難の動物園から貰い受けたペンギンのミーシャと暮らす売れない作家ヴィクトル。
ある新聞社からの依頼で、まだ存命中の著名人の追悼記事をあらかじめ書いておく仕事を引き受けることになる。
そのうち、得体の知れない男から預けられた4歳の女の子ソーニャ、彼女の世話をさせるために雇った若い女性ニーナとの共同生活がはじまり、仕事も順調かと思えたが、やがて追悼記事を書いた著名人が次々と死んで、ヴィクトル自身にも危険が迫る...。
ヴィクトルは、ニーナのこともソーニャのことも嫌いではないし、もしかしたら幸せな家族として暮らせるかもしれない、と考えてみたりはするものの、結局自分たちは無関係な者同士がたまたま一緒に暮らしているに過ぎないと、その関係の脆さを感じてもいる。
彼にとって、最も身近に感じられるのは、毎日憂鬱そうに冷凍の魚を食べているペンギンのミーシャだけであり、心のどこかでミーシャと二人(一人と一匹?)きりだった時を懐かしんでもいるようである。
旧ソ連が崩壊し、社会が激変した当時のウクライナの首都キエフを舞台に、信じられるものが何もない不安、何が正しくて何が間違っているのかわからない苛立ちが、あちこちから漂ってくるような小説である。
原稿を依頼してくる編集長もなにやら裏のありそうなようすだし、ただひとりの心を許せる友人セルゲイも異国で死んでしまう。
ヴィクトルと周囲の人々との関係には、何一つ確かなものがないのである。
ウクライナの小説など読む機会がほとんどないので、「旧ソ連だった国」の現在の様子を垣間見るようで面白かった。
ミステリ仕立てだが、最後に明確な「謎解き」があるわけではなく、病気になって心臓移植手術を受けたはずのペンギン・ミーシャのその後も語られないまま物語は終わる。
ペンギンのその後を案ずる読者の要望で、続編が書かれているということなので、続編が出たらぜひ読みたいと思う。
無愛想で何もしない憂鬱症のミーシャが、なにしろこの小説の最大の魅力なのだ。
柴田翔(しばた しょう)著
新潮文庫
新潮社
昭和55年9月25日初版
本書は、生まじめな柴田翔氏の作品中にあって、異色作とも言えるでしょうか。
まず、登場人物からして、ノンちゃん、年金さん、仙人さん、マクさん、哲学君、毛唐君・・・実名の人物が、一人として出てきません。
冒頭も、ノンちゃんと哲学君のエッチから始まります。
アルバイト先の地下食堂でお客の注文等を聞きながら、ノンちゃんが心のうちで、メンスが「ない」ことを連呼する場面も、いろいろな方言がまじって、ププッと吹き出してしまいました。
そうした愉快なオブラートにこそ包まれていますが、中身の飴玉は決して甘くないようです。
人物がそれぞれ根本的な悩みを抱え、その悩みに真摯に向き合っています。
マクさんの、決して劣化しない物質を開発したことによる「ある」という悩み。
それが年金さんに打ち明けられる場面のすぐ後に、地下食堂の場面という構成も、妙味がありました。
小説を書くこと自体、されてみえないような柴田氏ですが、是非ともまた、こうした作風のお仕事を、と強く望みます。
特に『その後のノンちゃんの冒険』なんて・・・。
柴田翔(しばた しょう)著
新潮文庫
新潮社
昭和50年5月26日初版
非常に生まじめな小説です。
一流信託銀行の調査室員として地道に勤務し、定年後には経済問題の専門家として生きて行くことになるであろう、とまで自分の人生を決めきっている佐室孝策。
人間関係のわずらわしさを嫌い、特には出世を望まない彼が、自分にふさわしいと希望して得た位置であり、それはまた、家庭においても、自分に最適の生活の形をつくりたいと願って結婚に踏み切ったり、子どもを持つのに際して、妻・聡子の母親の死によってあいた空間を埋めるような気持ちが働いたりします。
ところが、やがて、聡子の従妹・由希子が同居することとなり、保たれていたバランスが微妙に崩れ始めることになってしまいました。
孝策にしろ、聡子にしろ、由希子にしろ、登場する人物は一様に生まじめ。
面白味に欠けるようにも思いますが、それでもって読ませるだけの作家の筆力があります。
さて、その作家、ただでさえ寡作なのに、作品たるもの絶版ばかり。
どこかの出版社でまとめて再刊行されないものか、と「待ち盡す明日」です。
梶原しげる(かじわら しげる)著
新潮新書
新潮社
2003年9月20日発行
レストランで、「ご注文のほう繰り返させていただきます」「こちらがハンバーグ定食になります」なんて言われると、ご注文のほう、ってどの方角かなあとか、すでにハンバーグ定食なのにどうして「なります」なの? なんてつい言いたくなってしまうひと、私も含めて年配の方にはけっこう多いのではないかと思う。
言葉は時代とともに変わる、とはいうものの、最近の若者言葉に顕著な「はっきり言い切らない言葉遣い」は私も嫌いである。
「ご注文繰り返します」で何故いけないのか(「させていただきます」も長いだけで空疎だ)? 「こちらがハンバーグ定食でございます」という言い方が何故ダメなのか?
著者はこの「ぼかす言い方」を、「ふれあい恐怖的心性」からくるものであり、ふれあい恐怖とは、「人との出会いそのものや表面的なつきあいは大丈夫なのですが、さらに一歩進んで踏み込んだ関係になることを恐れる傾向」だという。
「海に行きたい」のに「海とか行きたい」と言ったり、「○○した、みたいな?」「○○の、部分で」などの断言しない言い方で、相手との摩擦を避けようとする心理が、若者のあいだで蔓延している「ぼかし言葉」を次々と生み出しているようである。
著者はまた、「不払い残業」を「サービス残業」、「売春」を「援助交際」、「性的暴行」を「イタズラ」などというマスコミによる言い換えは、「欺瞞的な婉曲化」であり、物事の本質を見えなくしてしまっているという。
確かに「オヤジ狩り」ではなく「窃盗および暴行傷害」と言えば、誰も冗談のネタにはできなくなる。
日本語が乱れているという単純な現象ではなく、日本人全体が他者との深い関わりを避け、断定的な言葉によって起こる(かもしれない)軋轢を先んじて回避しようとする傾向が、言葉にも現れてきているらしい。
しかし、それでは本当の人間関係は構築できないのだけれどね。
私はやっぱり「わたし的な部分ではぁ、やっぱり嫌いってゆーかぁ、ちょっとブルー入ってる?みたいな?」なあんて言い方、はっきり嫌いです。でも確信犯的に使っているな、ときどき。
シチュエーションによって使い分けができるということは、その言葉の適切・不適切をある程度認識しているからであって、「ぼかし言葉」が常態であり、使い分けの出来ない、あるいは使い分ける必要に気づいてもいない人たちはやはり問題がありそうである。
ベテランアナウンサーらしい豊富な実例をあげ、今時の日本語について考察した一冊。
フランク・マコート著 土屋政雄訳
新潮社
1998年7月30日発行
アイルランドの極貧の家に生まれた少年が、苦労の末アメリカに渡るまでの物語。
著者フランク・マコートの自伝である。
ここに描かれる貧困のありさまは壮絶である。
全編貧困の描写と言ってもいいくらいで、ここまで凄まじいと、悲惨さを通り越して滑稽ですらある。
その滑稽さは、著者の語り口に負うところも大きい。
「幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通のひとの惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりもっと悪い。」と著者は言う。
父親はアイルランド共和国の人々から忌み嫌われる北アイルランド出身者であり、わずかな失業手当も、ごく稀に手に入る賃金も、すべて酒代に消える飲んだくれ。
母親は年中妊娠していて(カトリックなので中絶できない)、貧困の中、次々と生まれる著者の弟妹は片端から死んでゆく。
慈善団体の施しと周囲の人々の好意、物乞いと盗みによって著者はなんとか成長する。
たんなる貧しい少年の成長譚ではなく、アイルランドとイギリスの確執、カトリックとプロテスタントの対立という、歴史的な問題が背景にあるので、日本人にはややわかりづらいところもあるが、へたな小説などより遥かに面白い。
これほどまでに生き生きとした逞しい子供時代は、貧困とは無縁の日本の子供たちからはとうに失われてしまっている。
北原亞以子(きたはら あいこ)著
新潮文庫
新潮社
平成9年9月1日初版
「その夜の雪」を含む7編からなる短編集。
表題作「その夜の雪」は、定町廻り同心森口慶次郎の愛娘三千代が婚礼を間近に控えながら何者かに暴行され、自ら命を絶つ。
慶次郎は復讐のために犯人の探索を始める。
そして執念の末、犯人を追い詰めるが…。
慶次郎の無念さ、切なさ、やりきれなさが胸に迫る作品。
今後の「慶次郎縁側日記」シリーズの第1作になっている。
ほかに、女房に逃げられ、男手ひとつで娘を育てた峯吉の話「うさぎ」。
1年間質に入れておいた紬の羽織と着物、帯、雪駄を請け出した日傭取りの男の話「吹きだまり」。
夫の浮気に悩んでいた深川の干鰯問屋の嫁おりきの話「橋を渡って」。
粋と野暮が口癖の初代志ん生の弟子かん生の話「夜鷹蕎麦十六文」。
棟割長屋に住み、無銭飲食で生活をしている杢助の話「侘助」。
9年前、嫁との折り合いが悪く、家を出てひとり暮しをしているおしまの話「束の間の話」。
どれも市井の人の生活がしみじみと描かれており、生きることの厳しさ、悲しさ、やるせなさの中にほんのりと温みがある作品だと思う。
北原亞以子(きたはら あいこ)著
新潮文庫
新潮社
平成13年4月1日初版
「その夜の雪」に続く森口慶次郎が主人公の連作短編集。
慶次郎シリーズの第1作となった「その夜の雪」が冒頭に掲載されている。
定町廻りを養子の晃之助(亡くなった三千代の許婚)に譲り、酒問屋山口屋の寮番になった慶次郎は寮番というより居候。
飯炊きの佐七の足手まといになるばかり。
その一方、同心時代に培われた勘と洞察力は衰えず、暇も手伝ってか自然と面倒な話に関わることになる。
慶次郎の知り合いの番頭が町内の嫌われ者と弓町の角でぶつかって怪我をする「傷」をはじめ、寮番をする山口屋の寮の隣家で財布がなくなった話、「半人前」と呼ばれている娘が煙管を盗んだ話、
「貧乏人に迷惑をかけぬこと、身内に迷惑をかけぬこと」を座右の銘にしている空き巣の話など、日々のささやかな幸せだったり、悲しみだったり、やるせなさだったりがさりげない文章で綴られている。
「春の出来事」で慶次郎は普通のちょっと助平でダメなおっさんとして描かれている。
亡くなった三千代に遠慮するように少し距離をおく、慶次郎、晃之助、晃之助の妻皐月。
慶次郎の複雑な気持ちも理解できるだけにちょっと胸が痛い。
それでも、相手への優しさ、思いやりが感じられて興味深い。
慶次郎縁側日記シリーズ、『再会』は、岡っ引の辰吉が好物の茗荷を買っているときに、昔の女、おもんに出会った。「亭主と別れたい、でなきゃ死んでしまいたい」という女に手を貸したため、女の亭主と
岡っ引に追われることに・・・「秘密」。慶次郎は腹の虫おさえに蕎麦屋に入って、したたかに酔っているおしんに出会った・・・「卯の花の雨」。女嫌いで通していた岡っ引の吉次は、取り締まりに行った遊女屋の女を吉原に預けたことから・・・「恋する人達」の再会3部作ほか。
『おひで』は、男に捨てられ、やけっぱちになっているおひでを寮に引き取ることになった慶次郎。おひでは、やさしく、時には厳しく接してくれる佐七に心を開いていくが…。17のおひでと50過ぎの佐七の淡い恋(?)、ほか。
『峠』は、富山の薬売り四方吉が江戸からの帰り、碓氷峠で追いはぎに襲われ、抵抗した挙句、相手を谷底に突き落としてしまう。思いもかけず犯してしまった罪が恐ろしくなった四方吉は、江戸に戻り、
名を宗吉とかえて、塩売りとなり、おいとと所帯を持つ。貧しくても宗吉との生活を大切に思うおいと。二人の前に、碓氷峠で死んだ富山の薬売り宗吉の女房という女が現れ、四方吉とおいとの人生が
狂い出してくる、ほか。
『蜩』『隅田川』『やさしい男』と、このシリーズは続いている。
また、縁側日記に登場する脇役たちを描く『脇役 慶次郎覚書』も。
川上健一(かわかみ けんいち)著
集英社文庫
集英社
2003年8月25日初版
ニューヨーク、サウス・ブロンクスにあるバン・コートランド・ゴルフコース。
全米でいちばん古いパブリックコースでありながら、拳銃が発砲されるわ、フェアウェイをパトカーが走り回るわ、バンカーでバーベキューをやっているわ、ゴルフバッグを盗まれるわ・・・全米どころか世界でいちばん物騒なコースであるかもしれません。
ここを根城として、ゴルフを楽しむことに純粋な、「ぼく」とゴルフ仲間によって繰り広げられる、6つの話。
どの話も、はっきりした人物描写とテンポのいい会話で進められ、中でも特に、言葉の端々に「糞」をくっつけ、機関銃のようにしゃべりまくるピート刑事には驚かされましたし、ストーリーとしても、ははーん、と先が読めたりしましたが、それでもなお、話の終わりまで興味を惹かれ、読後感がとても爽やかでした。
考え込むのをちょっと脇にどけておこう、という方にお薦めの軽妙洒脱な小説です。
川上健一(かわかみ けんいち)著
集英社文庫
集英社
1994年9月25日初版
長編でありながら、登場する人物はそれほど多くありません。
絵を描くことと川で魚を捕ることにしか興味のない少年、加藤心平。
幼児期の高熱が原因で聴覚を失った少女、高倉小百合。
ふたりの周囲に、心平の母親、小百合の父親と祖母、幼なじみの英蔵、川の老人・秀二郎・・・。
物語がほとんど、この数人によって展開される、というのは、かなりの枚数分を「自然」に対する描写に費やしているからです。
小説のタイトルになっている雨鱒と、ウグイやヤマメなどの魚たち。
大雨が降った後、雨鱒がのぼってくる川の堰堤、中州、勢い止め、水中。
その川に行き着くまでの杉林、野原、リンゴ畑、湿った平原。
風、雨、日差しと日陰。
また、そうした自然に相反しない素朴な東北の方言。
特に「ドデン」「ドッキドッキ」「グンニョリ」「ダオダオ」「ジャッポジャッポ」といった
擬音語の素朴さは、印象的でした。
心平の描く絵と同様、明るい色が溢れた伸び伸びした作品になっています。
キンバリー・ウエスト著 河野真理子訳
白水社
2003年9月15日発行
ベトナム戦争時代のアメリカ・テキサス州の片田舎。
13歳のトビーは、何も刺激的なことの起こらない退屈な夏休みにうんざりしていた。
そんなとき、ある男がやってきて、一回2ドルでトレーラーに乗った「世界一太った少年」ザッカリー・ビーヴァーを見物させる商売を始める・・・。
大人への入り口に立っていて、自分を取り囲む人々のありように目を向け始めた少年の物語。
トビーの親友・キャルの兄は兵士としてベトナムにおり、退屈だと思っていた故郷がどんなにすばらしいところだったかを手紙に書いてくる。
母親はプロの歌手を目指してコンクールに行ったまま帰らない。
実は、真面目だが面白みのない父親とトビーを捨てて出て行ってしまったのだ。
世界一太った少年ザッカリー・ビーヴァーの秘めた願いを叶えてやろうと奔走する中から、トビーは人間や人生について考えるようになる。
人間にとって何が幸福なのか、答えはひとつではない。
田舎暮らしの平穏に幸福を見出す父親と、自分の夢をかなえるべく外へ飛び出していった母親。
両親の生き方の違いに反発していたトビーは、やがて両親それぞれの気持ちを受け入れていく。
これといって目立つところのない誠実さだけが取り柄の父親とトビーとの関係が、この物語の軸になっている。
高名な弁護士の息子だった父親は、今では田舎暮らしにすっかり埋没している。
母親の歌手になりたいという夢を認めつつも、都会では決して手に入れることができなかったものをこの田舎町がもたらしてくれた、と父親はトビーに語る。
しかし、母さんは自分の夢に情熱的だった、それなのに、自分と同じように素朴な暮らしで幸せになるだろうと思った父さんのせいなのだから、出て行った母さんを責めてはいけない、と。
自分とは違っていても、他者の生き方や選択を受け入れ、否定しない父親の姿勢にほろりとくる。
見世物になっているザッカリー少年にも、痴呆の老人にも、権高な老嬢にも、意地悪な恋敵の少年にも、その心の内には様々な想いがあることをトビーは理解する。
ドラマチックな物語ではなく、一人の少年のひと夏のスケッチという感じだが、何回もうるうると目もとがにじんでしまった。
梨木香歩(なしき かほ)著
新潮社
2004年1月30日発行
綿貫征四郎は、湖で死んだ親友・高堂の父親から頼まれて、空き家となった高堂の実家に住むことになる。
売れない物書きの綿貫のもとには、死んだ高堂をはじめ、異界の生き物の生態に詳しい隣家のおかみさんや、もののけたちと意思の疎通ができるらしい犬のゴロー、カワウソの血を引いているという「長虫屋」などがやってくる。
一口で言えば怪異譚・幽霊譚の類だが、なにやら心地のよい物語である。
庭のサルスベリは綿貫に惚れており、ときどき嫉妬したり拗ねたりする。
死んだ高堂は気まぐれに掛け軸の中から現れては、生きていたころのように軽口をたたいて帰ってゆく。
子鬼や狐狸の類もしょっちゅう現れる。
綿貫の態度が終始飄々として、現れたものにそれほど驚きもせず、あまり疑問も持たないふうで、いつの間にか読んでいる我々も次々に現れるお化けたちを怪異とも感じなくなる。
科学がいろいろなことに答えを見つけてしまう以前には、自然の中にはきっともっとたくさんのお化けやもののけなどが棲んでいて、人々はそういったものたちとうまく折り合って共存していたのだろう。
不思議な現象に強引に答えを見つけ出そうとするのではなく、不思議は不思議として、そういうものだと思えばいい、という無理のなさが非常に気持ちのいい物語である(お化けの話が気持ちいいというのも変だけど)。
同時に、大げさには描かれていないが、亡くなった高堂と綿貫の深い友情の物語でもある。
デニス・ルヘイン著 加賀山卓朗訳
早川書房
2001年9月15日初版
11歳のある日、少年三人のうちデイヴが正体不明の男たちに連れ去られ、四日後に戻ってくる。
いっしょに遊んでいて、デイヴが誘拐されるのをただ見ているしかなかったショーンとジミー。
デイヴに何が起こったか、誰も何も言わないが、誰もがわかっていた。
25年後、ショーンは刑事になり、ジミーは犯罪社会に身を落とした後、更生しているが、デイヴは過去のトラウマを抱えて生きている。
ジミーの娘が殺される事件が起こり、ショーンが捜査を担当することになるが、犯人として浮かび上がってきたのはデイヴだった・・・・。
デイヴの誘拐事件は、ショーンにもジミーにも傷を残している。
彼らは、もしかしたらデイヴを救えたのではないか? あるいは、あのとき連れ去られていたのが自分だったら? という思いから逃れられない。
この物語はミステリとしてもたいへん面白いが、同時に人間が一度受けた心の傷から逃れることがどんなに難しいかを重く語りかけてくる。
この小説の中では誰一人として幸福ではない。
ことに過去の記憶に苛まれ続けるデイヴの姿は痛々しい。
デイヴが、幼いころ決して仲が良かったわけではないジミーに、手下のようにへばりついていなければ他に行き場のない少年であったこと、ジミーとデイヴが最下層の労働者階級であったのに対し、ショーンがそれよりは多少ましな持ち家のある家庭の子どもであったことなどが、彼らが大人になってからの物語にさまざまに陰影を与えている。
貧困と暴力と犯罪の中で育ったジミー、虐待の被害者であるデイヴ。
彼らに比べればショーンはまだしもまともな人生を歩んできている(といっても、彼もいろいろな事情を抱えてはいる)ように描かれているのは、社会の中で虐げられて育った者は、そうでない者のような人生はけっして歩めない、幸福にはなれない、ということなのだろうか?
最後にショーンだけがわずかに幸福を手に入れたように見えるが、デイヴのような少年に救いはないのだろうか?
犯罪社会から足を洗って堅実な生活を築いているジミーも、実はその内側に常に怒りを抱え込んでおり、世間を敵視している。
育った環境と過去の記憶の中から抜け出ようとして、誰もが抜け出せない、そんな物語。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
新潮社
2002年7月30日発行
リストラされ再就職先を探すも40社の採用試験に不合格となり自暴自棄になりかけている中年男、豊田。
夫佐々岡と離婚して、不倫相手青山の妻を殺そうと画策する精神科医、京子。
空き巣を生業とするクールな泥棒、黒澤。
新興宗教の教祖に入れ込む学生、河原崎。
金がすべての俗物画商、戸田。
豊田は京子の落とした拳銃を拾い、京子の夫佐々岡は戸田の姦計にはまってすべてを失い、黒澤はその佐々岡の学生時代の友人で、黒澤の隣の部屋には河原崎がいて・・・・。
などと書くと、いくつかの出来事が何かの事件を通じてひとつの結末へと収斂していくような物語、と思われるかも知れないが、ほとんど彼らは相互に関わりあわないままだ。
いや、関わりあってはいくのだけれど、それぞれに「関わりあった」という自覚がないまま物語は時間を前後しながら進んでゆく。
それはちょうどドミノ倒しのように、ひとつをはじいたら次のひとつがさらにその前を押して、というような感じだが、当人たちは誰かを押しているとは思ってもみない。みな、自分のことで精一杯で、自分の行為や行動がどこでどういう影響をもたらしているか、相互に知らぬ間に物語は終わる。
若い作家だが、職人的に上手い。
あっと驚く、というわけではないのだけれど、え?それでこのエピソードはどこへ繋がっていくわけ?なんて思いながら、どんどん引っ張られるようにして読んだ。
彼らはみな、駅で「好きな日本語書いてください」と呼びかけている白人女性と、老柴犬、エッシャー展のポスターを見て、それぞれ勝手な感慨を持つ。
白人女性も犬もエッシャーも、彼らに対して何かする、というわけでもないのだけれど、人間というものはどこかで自分を投影する対象を探したいものらしい。
豊田が最後まで捨てることができないままの犬にしても、犬自身は別に何も考えてはいないと思うのだが、豊田が勝手に犬の気持ちを汲み取ったつもりでいて、結果的に彼は多少の幸福感を手に入れるのだから、それはそれでいいのかもしれない。
レイナルド・アレナス著 安藤哲行訳
国書刊行会
1997年4月25日初版
革命後のキューバでカストロの革命政府によって弾圧され、アメリカへの亡命後自殺した作家レイナルド・アレナスの自伝。
私にとって(そしてたぶん多くの日本人にとって)、キューバ革命など、なんの関係もない、それについて知らなくてもちっとも困らない出来事であるのだけれど、それだけにこういったものを読むと、自分の知らなさ加減に愕然とする。
アレナスは、反革命的作家と見なされ、また同性愛者であったために迫害を受け、すぐれた作品を書きながらキューバで出版できたのはわずか1冊。
そのほかの作品は彼の友人や海外の支援者によって非合法的に国外へ持ち出され、そこで出版されている。
キューバ革命と言われて思い浮かべることができるのは、せいぜいカストロのヒゲ面くらいの私にとって、『夜になるまえに』に描かれたキューバ社会は、まるで次元の異なる別世界のようにさえ感じられる。
バティスタ政権を倒した革命政府がしだいにカストロの独裁となり、共産主義化してゆくなかで、反革命的な作家、詩人、思想家たちが、あるものは投獄や処刑となり、あるものは自殺を余儀なくされ、またあるものは心ならずも思想や信条を翻して政府側の人間となる。
密告や裏切りは日常茶飯事、アレナスもまた友人たちの裏切りによって刑務所に送られる。
彼が入れられたモーロ刑務所は、不潔な監房に大勢が押し込められ、盗み・殺人・強姦(もちろん男同士の)、日常的な飢えと暴力に加え、残忍な看守と、いつなんどき自分が殺されてしまうかも知れない恐怖が支配している。
この刑務所の描写はまったく仰天するほど凄まじいが、わずか2、30年前の話なのだから、もしかしたら今現在も少しも変わっていないのかもしれない。
あの威風堂々としたフィデル・カストロという、他国では傑出した革命家と認知されている人物が、ほんとうはどのようなものをキューバにもたらしたのか、自分があまりにも何も知らないことを思い知らされる。
弾圧の過酷さゆえに、アレナスはとうとう革命政府に迎合する作品を書くことを誓って釈放される。
しかし、その後も政府寄りの小説や詩を書かなかったため、終始当局の監視を受け続け、1980年にアメリカへ亡命する。
モーロ刑務所を出たあとのアレナスの行動や生活は、政府の目をかいくぐりながら、一方で多数の愛人たち(もちろん、男です)と奔放な関係を続け、犯罪まがいのことを繰り返すという、巻末の解説にも書かれているように、まるでピカレスクロマン(悪漢小説)のような趣がある。
とりあえず平和な日本の片隅で普通の主婦をやっている身には、ちょっとついていけない、と感じるところも無いではないけれど、世界中のどこかで、今もアレナスが受けたような弾圧や迫害を受けている人たちが大勢いるわけで、それらのことにあまりに無関心であり無知であることに罪悪感めいたものを感じてしまった1冊である。
たまにはこんな本も読まないとね。
伊坂幸太郎(いさか こうたろう)著
新潮社
2003年4月20日初版
物語の語り手である泉水(いずみ)の弟春(はる)は、見知らぬ人間に強姦された母親が生んだ子どもであり、彼の両親はそれを承知の上で春を自分たちの子として育てる。
親子関係にも兄弟関係にもいっさい問題も破綻もない。
もちろん、春が強姦という忌まわしい行為の結果生まれた子である、ということは常になんらかの形で家族間に緊張感や戸惑いをもたらしはする。
しかし、少なくとも表面的にはこの家族はごく普通の家族として描かれる。
血の繋がりのない父親の、春に対する情愛の描き方は秀逸だ。
兄泉水からも、すでに亡くなって回想の中に描かれる母親からも、ごく普通の家族間にさえありえるだろうかというほどに深い春への想いが伝わってくる。
もしかしたらそれは、そういう子どもがいるからこそ生まれた家族の繋がりなのかもしれない。
常に強姦犯人の「血」を意識せざるをえない親子・兄弟間ゆえに、むしろ必死になって「普通」であろうとするのかもしれない。
物語は推理小説の体裁をとっているので、事件が起こる。
街のあちこちに書きなぐられる落書きと、その周辺で頻々と起こる放火事件がどうやら繋がりがあるらしいことが見えてくる。
そこから先は読んでのお楽しみ、というところだが、そういったことよりもこの小説は、血や遺伝による親子の繋がりというものについて、複雑な感慨を抱かせる。
強姦によって生まれた春は、実の父親である強姦犯人を深く憎むわけだが、その父親がいなければ春は存在していないのである。
自分の存在に関するこの矛盾には凄まじいものがある。
考えてみれば理不尽な話である。
自分はいっさいあずかり知らぬ性行為の結果を、一生背負って生きていくことになるというのは・・・。
小池真理子(こいけ まりこ)著
幻冬舎文庫
幻冬舎
平成14年2月25日初版
木版画は、その昔、美術の授業でも習いました。
木の幹を縦切りにした板を版木とする、いわゆる板目木版というもので、ほとんどの木版画はこの手法によって彫られています。
ところが、この小説に、木口木版という手法が出てきます。
幹を縦切りではなく輪切りにするので、原木も黄楊や椿といった、特に堅い木が選ばれ、それによってできる版木の面積は、原木の太さに制限されて大きくできません。
そこに、ビュランと呼ばれる彫刻刀でもって、板目木版には不可能なほどの繊細な描写を生み出して行く、というものです。
この手法はまた、やり直しがきかず、一彫りたりとも失敗が許されないものでもあります。
そんな木口木版画の第一人者である柚木宗一郎と、その妻の紗江、そして宗一郎に弟子入りしようとする寺島東吾。
この三人を中心とした小説の世界も、70年代初頭の騒がしい時代の本流とは懸け離れた、小さく限られた場において、静かに細やかに何より張り詰めた感じに、けれども激しく狂おしく流れて行きます。
まさに、この特殊な木版のように。
過酷な結末まで読み終えればおそらく、読者は最初の数ページを読み返さざるを得ないことだろうと思います。
この第一章より前に置かれた数ページが、あえて「プロローグ」と名付けられていないのは、それが「エピローグ」にもなっているからでしょうか。
小池真理子(こいけ まりこ)著
双葉文庫
双葉社
2002年12月25日初版
『平家物語』の冒頭は、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり・・・でしたですね。
突拍子もないようですが、この小説を読み終えたときにまず心に浮かんだものは、この有名な冒頭の一節でありました。
平野繭子は、路地の奥の古びた小さな家に、独りでひっそりと住んでいる46歳の女性です。
かつて22歳から31歳までの9年間に、亡き父親の親友だった仙波雅之という妻子ある小説家と恋に堕ち、それが人生のすべてであったと考えているような女性でもあります。
彼女の許に、ある日、雅之の息子である「仙波俊之」から手紙が届き、物語が始まります。
急死した父親の跡を、今更ながら突然、たどろうとする息子。
そのために協力し、封印してきたはずの過去の記憶、滅びてしまった者への情念と向き合うことになる繭子。
はかなさを感じさせる登場人物の中にあって、繭子の姉・千春の現実的な言動は、この小説全体のコントラストを際立たせる働きを担っているように思いました。
尚、文庫のカバーには黒猫の写真が使用されています。
小説に登場する猫のようでもあります。
「胸のあたりに小さく白い、三日月型の差し毛がある」ところが、黒猫、茶トラの違いはあるものの、うちの猫によく似ていて、特別な思い入れを抱きながら、本書を手にしたものでした。
ルドルフ・グレイ著 稲葉紀子訳
早川書房
1995.7.15発行
エド・ウッドは、1950年代にハリウッドで超駄作ばかりを撮り続けた実在の映画監督。
この本は生前のウッドを知っている人々へのインタビューを集めたものです。
この本をベースにしたエド・ウッドの伝記映画があるのですが(ティム・バートン監督『エド・ウッド』1994年)、これは私の大好きな映画で、「史上最低の映画監督」といわれたウッドを、愛情をこめて描いています。
実際のウッドは、自分にはオーソン・ウエルズに匹敵する才能があると信じていて、映画に対する情熱だけは人一倍、しかしどれひとつとしてまともに評価されず、後年ポルノ映画に転向し、最後には酒びたりになって54歳の若さで亡くなっています。
ウッドの映画は確かにひどい。
怖いもの見たさで2本ほどビデオを借りて見てみたのですが、良い悪いという以前に、いったい何を言わんとしているのか、さっぱりわかりません。
当時すでに忘れられた存在だったかつての怪奇映画の名優べラ・ルゴシを主演に据えたのはいいものの、途中でルゴシが死んでしまったため、生前撮ったまったく無関係なフィルムやほかの映画のアウトテイクを使いまわし、どうしても間に合わない部分は代役で顔を見せないように撮っているので、その不自然さたるや筆舌に尽くせません。
ウッドは、女装していることが多かったらしく、アンゴラのセーターに異常な執着があって、年中ピンクのアンゴラセーターを着て演出をしていたとか、奥さんのネグリジェを着ていたとか、とにかく逸話には事欠かない人物だったようです。
作った映画より、本人のほうが何倍も面白い、とさえ言われていて、この本を読んでもそのハチャメチャさはたいしたものです。
彼には映画に対する情熱も思いいれもアイディアも、あふれるほどありました。
なかったのは、その情熱を現実的なものにする技能、自分が良いと思うものを、他人が見ても良いと思わせるだけものに作り上げる能力だったのだろうと思います。
こういうひとって、そのへんにけっこういそうに思いますけどね。
ウッドの場合は、そういう実務的な能力の欠如に、自分ではまったく気づいていなかったのでしょう。
彼はあきらかに破綻した人物だったし、映画もひどい。
いくら人物が面白いからといって、作品まで過大評価してしまうのは贔屓の引き倒しというものですが、でもこういうひとって、ある意味幸福なのかもしれません。
たとえ勘違いや思い込みであろうとも、そして誰にも認められなくても、自分には才能がある、と信じていられるのは幸せなことですよね。
ウッドの映画を見ようと思われるなら、その前にバートンの『エド・ウッド』をご覧になることをオススメします。
でないとたぶん、まったく退屈で意味のわからないものを見ることになりますから。
中嶋義道(なかじま よしみち)著
角川書店
平成12年6月30日発行
タイトル通り、これはひとを「嫌う」ということについて書かれた本です。
人間に「好き」という感情がある以上、その反対の「嫌い」という感情もあって当然なのに、「嫌い」のほうはたいてい表面から隠され、陰で取りざたされる負の感情です。
そして、おおかたのひとは「嫌う」のはいけないことだ、ひとを嫌ってはいけない、と(たてまえにせよ)信じています。
だから、「好き」という感情についてはおおっぴらによく語られても、「嫌い」についてはなかなか論じられる機会が少なく、「嫌い」という感情を抱いてしまうことに自己嫌悪を感じたり、それを隠そうとしたり、あるいは、同じひとを嫌っているもの同士でこそこそと悪口を言い合う、というのが普通になってしまっています。
しかし、誰でも自覚しているように、「嫌い」という感情は人間の中に必ず存在しています。
自分が誰かを嫌う、ということは、自分を嫌っている誰かがいるかもしれない、ということでもあるのに、たいていのひとは「自分が嫌われている可能性」について嫌悪感は抱いても、当然のことだとはなかなか受け取ることはできません。
著者の中嶋義道さんは、「ひとを好きになることと同様にひとを嫌いになることの自然性に目を向けよ」と言っています。
「嫌い」を目の敵にせずに、あって当然のものとして、「嫌い」とうまく折り合っていく生き方を考えよ、ということかもしれません。
もちろん、誰かを嫌いになる、あるいは、誰かが自分のことを嫌っている、ということをちっとも苦にしないひとはそれでいいし、ほとんどのひとはそういった感情とうまく付き合っているから、世の中を渡っていけるのだろうと思います。
中嶋さんがここで対象としているのは、嫌いという感情は悪いものだと思い込んでいて、にもかかわらずいつも誰かを嫌いになってしまって、そういう自分をも嫌いになってしまうとか、誰かが自分を嫌っていると思うと死にたくなるほど思い悩むとかいった、いちいち「嫌い」に躓いてしまうひとたちです。
さて、私自身はどうか、と考えると、そうだなあ・・・、嫌いなひとはもちろんそれなりにいますが(そして、私を嫌っているひとももちろん相当数いるだろうという自覚も一応あります)、私は生来飽きっぽいので、「嫌い」になりかけると、あまりそのひとに関心を持たなくなってしまいます。だからたいてい「大嫌い」や「嫌いで嫌いでしょうがない」というまでに至らず、「嫌い」は「無関心」へと変化してそれ以上には発展しません。
「嫌う」ということもひとつの関心の持ち方でしょうから、そこには負のコミュニケーションであろうと、何がしかの感情のやりとりが芽生える可能性もありますが(殴り合いとか、罵りあいだってコミュニケーションには違いない)、どうもそこまでの感情は持てなくなってしまうタイプのように思います。
中嶋さんは、無関心も「嫌い」の一形態だと書いていますが、こういった、途中で一方的にコミュニケーションを遮断してしまうような「嫌い方」はあまりよいこととも思えません。
結局、誰しも傷つきたくはないし、できることなら傷つけたくもない、そういったところから、傷つけあいそうな相手との関係は最初から希薄にしておいたほうが楽、という心理が働くのかもしれません。
いずれにせよ、「嫌い」から目をそむけない、もう少し「嫌い」の入り込んだ生活を受け入れる、というのが大人というものなのでしょうね。
衿野未矢(えりの みや)著
講談社文庫
講談社
2003年2月15日発行
いまのところ幸いにして、何かにものすごく依存している、という気分は私にはありません。
もしかしたら、自分でも気づかないうちになんらかの依存症になっているのかも知れませんが、ケータイにも、買い物にも、お酒にも、ギャンブルにも、ほとんど関心がないし、不倫はめんどうだし、拒食症でも過食症でもない・・・はずです。
だから、依存症のひとの気分とか気持ちといったものは、私にはよくわかりません。
依存症という病気もまた、現代社会ならではの病気である、と著者は言います。
過食症になりたくても、コンビニも深夜までやっている店もない時代には、食べ物を衝動的に買うことはできませんし、ケータイのない時代にケータイ依存症になどなりようもありません。
一昔前には、依存症になりやすいタイプの人間であっても、その傾向を助長する要素が社会の中にあまりないから、どこかで歯止めがかかっていたのです。
つまりいやでも我慢せざるを得ないことで、依存症に陥ることからある程度救われていたのです。
しかし、24時間店を開けているコンビニがそこいらじゅうにあれば、夜中に「アンパンでも買ってこよう」ということが簡単にできてしまいます。
いくらでも、どんなときでも、好きなだけ食べ続けることができるのだから、摂食障害を重症化させるにはもってこいといえます。
現金が手元になくてもとりあえずカードがあれば買い物ができるから、買わずにあきらめよう、という気持ちが働きません。
依存症は、物の豊かな時代の、我慢というものをしなくなったひとびとの病気なのかもしれません。
手を伸ばせばなんでもすぐに手にはいる社会は、我慢する気を失わせ、便利さは努力や工夫から人間を遠ざけます。
冒頭のケータイ依存症の話は、まわりにいくらでもいそうで、しかも当人たちはまったく「病気」もしくは「病的」であると感じていないところが非常に怖い。
いかに現代の日本人が壊れているかを、まざまざと見る思いがします。
ケータイにアドレスを入れている数百人のメール相手が「友達」であり、自分は交友関係が広いと自負し、しかし、そのほとんどとは会ったこともない。
初対面の相手との打ち合わせの席で、ひっきりなしにケータイを覗き、メールをやりとりし、それが目の前の相手に対して失礼なことだとは露ほども思わない。
いつもいきあたりばったりにケータイのやりとりで物事を決めてしまうので、事前に計画することも、最初にじっくり考えることもしない。
ケータイで繋がっているだけのコミュニケーションは生身同士のそれよりはるかに楽だし、自分には友達がたくさんいる、という幻想も与えてくれるし、ケータイのおかげで便利になった、と思うから、自分がケータイ依存症などと感じるわけもない。
いるなあ、そういう連中が、私のまわりにも、やまほど。
片方の手がケータイ専用になっている人は街中にあふれているし、年がら年中首にケータイをぶら下げている人を見るのも珍しいことではなくなってしまいました(私はすぐ肩が凝るのでどっちもできない)。
現代のひとびとは何をそんなに恐れているのでしょうか?
一度電話に出ないと友人が友人でなくなってしまうのか、自分だけが取り残されると思うのか・・・?。
ケータイ依存のほかにも、この本の中では、買い物依存、DV(ドメスティック・バイオレンス)依存、パチンコ依存、アルコール依存などについて書かれていますが、その根っこにあるのはいずれもなんらかの「不安」であり、依頼心の強さであり、我慢する気持ちや自制心のなさです。
依存症は「病気」なのだから治療して改善しなければなりませんが、「病気」であるという自覚のない、上記のケータイ依存症のようなひとがあたりまえになってしまって、むしろケータイを持っていないなどと言おうものなら変人扱いされかねない社会がじきにやってきそうで(すでにもうやってきている?)、そのほうがずっと怖い気がします。
ジョージ・R・R・マーティン著 岡部宏之訳
早川書房
2002年11月10日発行
『ハリー・ポッター』や『指輪物語』などが巻き起こしたファンタジーブーム以来、書店の棚にはファンタジー系の物語が平積みされるようになりました。
うちの高校生の息子なども、少ないお小遣いをやりくりしてハードカバーの翻訳ファンタジーをあれこれ買いこんでいます(図書館に入るのを待てばいいものを)。
ブームに便乗して粗製濫造気味に書かれたものもあるでしょうし、子どもはともかく大人が読むにはいささか荒唐無稽すぎるというものも多いことでしょうが、まあこういったことがきっかけで子どもの活字離れが少しでも解消されればけっこうなことではあります。
『氷と炎の歌』は、架空の時代、架空の王国を舞台にしたファンタジーですが、いまのところあまり魔法色は濃くありません。
多数の登場人物の視点で、王座をめぐる争いが語られていきます。
著者はアメリカの作家ですが、アメリカ人には、自分たちが独自の長い歴史や古い伝説を持たない、ということに、どこか物足りなさを感じているようなところがあるのでしょうか?
登場人物の地位や官職、親子.親戚関係、上下関係などを細かく書き込み、果ては何代も前に遡っての王位継承図なども載せて、いかにも「大河歴史小説」であることにこだわっているように思います。
そのせいで、人間関係を覚えるまでに多少苦労しますが、それでも一度覚えてしまえば、物語の中に引きずり込まれるような圧倒的な面白さでどんどん読めてしまいます。
多数の、善悪だけでははかれない複雑な性格、立場の人物たちの利害や思惑によって、物語は重層的に絡み合って進んでいきます。
シリーズの第1巻である「七王国の玉座」では、物語がいったいどこへ向かおうとしているのか、まったくわかりません。
重要人物のひとり、スターク公はほんとうに死んでしまったのでしょうか?
放浪のアリアとおろかなサンサの運命は・・・?
これでは、第2巻が出たら、すぐにも読まないと欲求不満になってしまいます。
こうして読者は、シリーズ化されたファンタジー小説に引き込まれて、えんえんと読み続けることになるのです。
残念なことに、早川書房のこの日本語版は、いささか表紙が安っぽい。
これでは少女漫画の扉絵です(少女漫画に悪意はありません。ただこの小説には合わないと言っているだけで。為念)。
できたらもう少し重厚な表紙デザインにしていただきたかった。
ポール・ギャリコ著 灰島かり訳
ちくま文庫
筑摩書房
1999年12月3日発行
ある編集者の家の前に置かれた意味不明の文章が綴られた原稿。
編集者に頼まれて作家が解読してみると、どうやらある頭のいい猫が、人間の家を「乗っ取って」、人間を「召使」として生活する方法を書いた、いわば猫ライフを充実して送るための猫用指南書のようです。
私たち人間は「猫を飼う」「猫を保護する」「猫をかわいがる」「猫をしつける」などと言いますが、それは人間側の勝手な思い込み、勘違いというもので、実は猫たちは、周到に計画を立てて自分のお気に入りの家を「乗っ取り」、その家族を「しつけ」て、自分に「かしずかせて」いるらしい。
猫にしてみれば、人間に遊んでもらっているのではなく「遊んであげている」、餌を与えられているのではなく「食べ物の用意をさせている」、そして、ときどきほどほどの愛想をふりまいたり、可愛らしげな演技を見せて、人間たちの「猫をかわいがっている」気分を満足させてやっている、とこの本の著者であるらしいツィツァというメス猫は当然のことのように書き綴っています。
わが「みずほ点訳」のアイドル猫阿茶も、おじさんのパソコンを占領しては『吾輩は阿茶である』の連載を、もう100回以上にわたって続けていますが、そには「人間っていうのは、どうにもこっけいで困った連中だにゃあ」という阿茶の呆れ顔がちらちらと覗いて見えます。
ル・グウィンという作家が書いた、翼の生えた猫のたいへん楽しい物語があるのですが、この中にもこんな猫同士のやりとりがあります。
「じゃあ、その人たちは、君たちのお手伝いさんみたいなものなんだね」「まあそうね」
猫にしてみれば、毎日餌を用意してくれて、寝る場所を整えてくれて、トイレの後始末をしてくれる人間が、「召使」以外の何者でもないのは、当然のことかもしれません。
人間のほうが、それを嬉々としてやっているのですから、もちろんなんの問題もないわけですが・・・・。
考えてみれば、どんな人間も、猫に「飼ってちょうだい」とも「保護してちょうだい」とも頼まれたわけではないんですよね。
「飼ってあげなければ」「保護してやらなければ」というのは、あんがい人間の側が自己満足を感じるための理由付けにすぎないのかもしれません。
猫に対してばかりではなく、人間の「自然を大切にしよう」とか「環境を守ろう」とかいった意識の中には、どこか「大切にしてやっている」「守ってやっている」という、一段高いところからものを言っているような雰囲気がつきまとっています。
この本は、人間たちが、自らも自然の中の一部であるにもかかわらず、大上段にかまえて「自然を守ろう」などと言っていることへの、筆者なりの皮肉をこめたものであるのかもしれません。
篠田節子(しのだ せつこ)著
講談社文庫
講談社
2001年10月15日第1刷
作品の舞台は、架空の国、パスキム王国。
インドや中国と国境を接する小国で、洗練された文化と仏教美術を誇る国。
新聞社の事業部員として展覧会などの企画を担当している永岡は、パーティーの席上、妻の髪飾りが、パスキムからの持ち出しが厳しく制限されているはずの仏教美術品の一部であることに気づき、不審に思う。
永岡は5年前、「ヒマラヤの懐に咲く蓮」と称されるパスキムの首都カターの王宮で、国王と会い、展覧会のために美術品を貸してもらう約束をしていた。
そしてその企画が実現する方向に進み出した時、パスキムで政変がおこり、外国人を追放、国境を閉鎖し、人類の宝と言うべき仏教美術品が破壊されていることを知る。
国交がないため、確かな状況がつかめぬまま永岡はパスキムへ向かう。
やっとの思いで不法入国し、そこで永岡がみたものは革命軍による僧侶の虐殺、寺院の破壊という無残で地獄のような現実。
そしてある寺院から一体の弥勒像を持ち出し、隠す。
王国の民主化、「完全なる平等」を目指す革命軍に捕えられた永岡は、強制労働のキャンプへ連行され、想像を絶する体験をすることになるが、キャンプで強制結婚されられた女性とはしだいに心が通い合っていく。
「完全なる平等」を、とクーデターを起こしたのは、かつて国王の秘書官だった人物。
宗教、伝統のみならず、西欧文化も腐敗と堕落の根源と切り捨ててしまった彼がめざす非現実的な理想郷は、疫病の発生や自然の摂理に反した農業指導により、地獄へと化していく。
あまたの人の死に直面しながら、キャンプから、そして国外に脱出しようとする彼は、奇跡的にあの弥勒像と再会するのだけれど…。
永岡は生について、死について、宗教について、愛についてなど多くのことを自分に問いかけ、答えを見出せぬまま苦しみます。
弥勒は釈迦入滅から56億7千万年後に弥勒如来となって下生し、釈尊の救いに洩れた衆生を済度するという未来仏。
ということは、現世の私たちは決して救われないということですね。
むなしい…。
篠田節子(しのだ せつこ)著
講談社文庫
講談社
1997年8月15日第1刷
週刊誌の編集から、販売部数が減って月刊から季刊へ格下げになった文芸誌「山稜」へと、異動させられた実藤は、「山稜」の季刊化に反対し退職していった前任者・篠原が残した荷物の中に、600枚弱の原稿を見つける。
この作品は、『聖域』と題されていた。8世紀末、中央政府は蝦夷地征服のため、仏教の浸透という宗教政策を打ち出す。
主人公・慈明もそうして比叡山から東北の地に派遣された若きエリート僧。蝦夷の民族宗教と出会い、文化の違いを抱えながら、奇妙な体験をする伝奇小説。
しかし、これは未完のまま終わっていた。一読してこの作品に魅せられた実藤は、完結させるため水名川泉という作者を探し始める。
前任者の篠原からは「焼き捨てろ、俺のようになりたくなかったら」と拒絶されるが、以前、泉と関わりのあった大物作家・三木の言葉などから、東北にある新興宗教団体に行きつくが、泉は消息を絶っていた。
そして、ついに泉を見つけ出す。
篠原、三木をはじめ、泉に関わったものはみな人生を狂わせていることがわかるが、自分はそうはならないと半ば信じ、警戒しつつ、実藤自身の人生も狂い出してくる。
それは、『聖域』を完結させるためという編集者としての立場や野心から、実藤の個人的な欲求へと変わっていく、というものだった。
泉という女性は、死人の魂を現実の世界に引き寄せ、会わせる「口寄せ(;霊おろし)」ができたのである。
仕事上で付き合いがあり、恋心を抱いていた女性ライターをチベットで亡くしている実藤は、今も彼女への想いがあり、泉と出会った時、泉を通して彼女と会う。
篠原も三木も大事な人を失っていて、泉を通してその人たちと会っていたのだった。
実藤は言う。「・・・水名川さん、ぼくたちは死んだら、どうなるんです。どこへ行くんです。生きている内に死は存在せず、死が存在するときには、自分は存在しない・・・だから死を論じることは愚かしい。そんな理屈は、わかっていますよ。 ・・・魂なんてものは・・・死後も存在するものなんていうのは、どこにもないってことですか」
泉は「あなたが亡くなって、あなたの一番愛する方が亡くなって、それっきり何もなくなるなんて事、信じられますか? そんなことに耐えられますか?」と。
哲学的でテーマが重くて…。
答えは作中の『聖域』の最後にあるのでしょうか、気になります。
井上ひさし(いのうえ ひさし)著
文春文庫
文藝春秋
2002年4月10日初版
東京の根津という界隈に暮らす団扇屋の主人、山中信介の、詳細に書き続けられた日記、という形式がとられています。
昭和20年4月25日から翌年4月10日まで、まさに日本が連合国を相手にした戦中、そして敗れてからの戦後が描かれるわけですが、戦記と思って読むのであれば、まるで違った作品でした。
たしかに、戦時下ならではの描写がされないというわけには行きませんが、まず書かれていることは、そこに暮らす人々の「生活」そのものなのであります。
団扇屋といっても、すでに材料が不足して団扇が作れない、そうした状況においても生活して行かなければなりません。
統制され、配給になり、それだけでは食べて行けないとしても生計を立てて行かなければなりません。
そんな庶民の必死な暮らしぶりが、明るく、前向きで、笑いのある筆致によって描かれています。
戦争を引き起こすのも人間ですが、それにより振り回されるのも人間です。
前者に対する怒りをおぼえながらも、後者に対する逞しさや愛おしさを強く感じさせられました。
尚、当時の日記だけに、表記はすべて旧字体、旧仮名遣い。
読み慣れるまでには、ちょっとした戦いがありました。
井上ひさし(いのうえ ひさし)著
文春文庫
文藝春秋
1977年4月25日初版
井上ひさし氏の作品を久しぶりに読んだついで、というと何ですが、かなり以前の時代小説を引っぱり出してきてみました。
黒手組の活躍(?)が描かれた本作は、氏が得意とする、3人乃至6人の仲間を主役に置くもの。
黒手組というのも、幕末、将軍さまにお仕えする直参御家人の端くれの5人組なのであります。
彼らは、江戸から横浜、さらに京、ふたたび江戸と場所を変えて騒動を起こして行くのですが、どこか間の抜けた彼らの、大真面目で一所懸命な、それでいて滑稽で馬鹿馬鹿しいような話に、知らず知らずに引き込まれ、笑いをさそわれ、熱くさせられてしまいます。
時代小説といえども、これまた、生活に密着した描写の仕方がされていることによって、読者は、いとも簡単にタイムスリップすることができるのです。
そして、移動した先の空間には、大道具、小道具が充実して配置され、紛れもない江戸の昔が繰り広げられているものですから、ちっとも違和感がありません。
自分も頭にチョンマゲをのせているのではないか、なんて錯覚してしまうほどでした。
ケント・ウォーカー、マーク・ショーン著 青山陽子訳
早川書房
2002年10月31日初版
なにやらすごい日本語のタイトルがついていますが、原題は『SON OF A GRIFTER(いかさま師の息子)』。
著者ケント・ウォーカーの母親は、病的な嘘つきで詐欺師、間断なく犯罪を重ね、最後には殺人を犯して、120年という懲役刑で現在も服役中です。
家の中の調度品はすべて盗品、金に困ると自宅に放火して保険金を手に入れ、書類の偽造や横領・窃盗は当たり前、意のままにならない相手は徹底的に痛めつける、必要とあれば自分や子供の出生についてまで嘘八百を並べ立てるので、著者は自分がいったい誰の子供なのか、母がどういう血筋の人間なのか(なにしろ、ときによって、インド人になったり“政財界の大物”になったりするので)、わけがわからなくなるほどです。
とにかく、この母サンテはすさまじい女性で、金のためならどんなことでもやり、自分が悪いとはかけらほども感じることはありません。
これだけのエネルギーがあるのなら、まともに仕事をしたほうがよほど大金持ちになれそうな気がしますが、根っからの犯罪者というのはそういうふうには考えないもののようです。
著者の実父は、サンテにさんざんな目にあわされた末に、著者が子供のころ離婚し、著者自身は、母と彼女の再婚相手で大金持ちの継父との間で育ちます。
子供のころは、著者も犯罪の片棒を担がされたりするのですが、幸い彼は成長するとともに犯罪と縁を切ることに成功します。
反対に継父とサンテとの間に生まれた弟は、母とともに犯罪を重ねて、何人もの殺人に加担することになります。
この兄弟の対照的な生き方を見ると、環境によってどれほど子供が歪められるか、ということについても考えさせられるのですが、なにより他を圧倒して強烈な印象を与えるのが母サンテです。
ここ母からみたら、凶悪な殺人犯である著者の弟さえもかわいらしく思えるほどです。
こんなひとが近くにいたら迷惑どころの話ではないでしょうし、被害者にはたいへん気の毒に思うのですが、同時に、彼女自身はけっして退屈することもなく、ボケることもなく、たいへん刺激的な人生を歩んだ、と言えそうな気はします。
歩んだ方向はとんでもなく間違っていましたけれど。
松樹剛史(まつき たけし)著
集英社
2002年1月10日第1刷
私は競馬にほとんど興味がありません。
家人がテレビでナントカ杯レースなどを見ていても、「おかしな名前の馬だねー」なんて、茶化す程度で、あまり熱心に見ることもありません。
だから、この本も、最初の1,2ページでつまらなかったら、読むのはやめよう、と、乗り気薄で読み始めたのですが・・・。
ところが、けっこう拾いものでした。
様々な事情で、なかなか騎乗の機会に恵まれない貧乏騎手の物語です。
最初場面転換が早く、短いエピソードと多くの登場人物が次々と入れ替わるので、競馬の世界についての知識がまったくない私としてはいささか戸惑ったのですが、そういったことが、しだいに最後の勝利へ向かってテンポよく収斂していきます。
不運な騎手の劇的な勝利なんていうと、お定まりの展開みたいですが、この勝利にも、すんなりとは喜べない、少しほろ苦いいわくがあったりして。
どういう世界であれ、華やかな表舞台の裏には、多くのひとびとの思惑や行き違いや、嫉妬や悩み、さまざまな人間模様があるものです。
たんにお馬さんが走っているだけじゃないか、と思っていた競馬ですが、それを支えている裏方さんたちの世界もちょっぴりわかって、なかなか面白い1冊でした。
恩田陸(おんだ りく)著
集英社
2002年12月10日第1刷
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、ハインラインの古典的なタイムマシンもののSF『夏への扉』も、タイム・マシンを使って過去に行ったり、未来を訪れたりすることを、ずいぶん楽しいことのように、肯定的に描いていました。
『バック・・・』はコメディですけれど、『夏への扉』にしても、主人公は時間の流れに干渉することによって、不運な未来を明るいものにかえる、という、考えてみればずいぶん脳天気な物語です。
過去に遡って、未来に悪影響をもたらすであろう要因を取り除いてしまう、というのは、想像上のことにすぎないにせよ、けっこういいアイデアだと、みんなが思っていたのでしょう。
そういえば、『ターミネーター』もそんな話です。
『ねじの回転』もつまりは、そういう、未来からの過去への干渉がテーマのSFなのですが、しかし、この干渉はとことんうまくいきません。
未来の厄災のもとを絶つべく過去の歴史を修正に来た者たちの思惑は、どんどんはずれて、歴史は歪んでいくばかりです。
悪夢のように綻びと齟齬が拡大していきます。
結局、過去のある一点を修正すれば、未来が良くなる、というほど時間の流れは単純ではない、ということのようです。
現代の日本や世界の、やりきれないほど暗い様相の中では、もうあっけらかんとした「時間旅行」の物語など、作家も書けなくなってしまっているのかもしれません。
時間の遡行などというのは、SFの世界だけのことにしても、人間が、干渉してはならない領域に足を突っ込んでしまったとき引き起こされる悪夢は、なんとなく今話題になっている「クローン人間」の騒ぎを連想させて、なにやら空恐ろしいものがあります。
佐藤賢一(さとう けんいち)著
講談社
2001年1月18日第1刷
デュマの『ダルタニャン物語』のうち、いちばんはじめの『三銃士』はつとに有名ですが、この長い物語をすべて読んでいる、ってひとはそんなに多くないのではないでしょうか?
私も『三銃士』以外で、かろうじて読んだことがあるのは、『鉄仮面』ぐらいのものです。
この『二人のガスコン』は、『三銃士』で颯爽と登場した無鉄砲で陽気な若者ダルタニャンが、三十路を過ぎ、宮仕えの悲哀を感じる年頃になってからの物語です。
ダルタニャンの相棒となるのは、これまたフランス史に名高いシラノ・ド・ベルジュラック。
大言壮語癖があって、詩人で、夢想家で、直情径行のシラノと、沈着冷静、真面目で腕は確かなダルタニャンの、新たなる冒険は・・・・、という波乱万丈の歴史活劇。
佐藤賢一さんというのは、西洋史を題材に物語を書いていますが、いかにも歴史の講釈・歴史のお勉強、というところがなくて、小説的な面白さが溢れている物語が書ける、なかなか稀有な作家です。
ときどきいますよね、○○年に誰が何をした、っていう歴史上の出来事だけ並べて、歴史小説、と称しているひとが・・・。
フランス王ルイ14世の出生の秘密をめぐっての大冒険。
よその国の歴史のことはよくわからなくて、なんて言わずに読んでみると、いつのまにかフランス史の通になっていたり・・・は、しないと思いますが、面白さは請合います。
浅田次郎(あさだ じろう)著
講談社文庫
講談社
1997年7月15日第1刷
倒産寸前の不動産屋、丹羽が、競馬場でひとりの老人、真柴と出会う。
そして、どういうわけかその老人の最期を看取ることになってしまう。
丹羽はその真柴老人から1冊の手帳を託される。
その手帳には帝国陸軍がマッカーサーから奪った時価200兆円の財宝を来るべき日のために隠した秘密任務の詳細が書かれていた。
真柴老人の遺体が安置された霊安室には、真柴老人が丹羽に託したものと同じ手帳を持っているボランティアの海老沢、そして、もうひとり、なにやらいわくありげな地元有力者の金原という足の悪い老人が現れる。
冒頭、勤労動員にかりだされた女子中学生の戦時中の話、ついで競馬場で丹羽と老人が出会った現代の話、といったように、老人の手帳の内容とそれに関わることになってしまった三人の現代の話とが交互に書かれ、三人がそれぞれ抱える問題も絡み合ってこの物語は進んでいく。
戦時中の話では、暑い暑い夏の蝉時雨のもと、命を賭けてこの秘密の任務を全うしようとする陸軍軍人、そして本土決戦のための重要な物資の集積作業と言われ、それを信じて必死に頑張る幼い少女たちの姿に、胸が痛くなる。
現代の話については、財宝さがしのお話と思っていたが、そうではなかった。
本書の中で丹羽が言っている
「欲がなくなったとき、こいつは宝さがしの物語じゃねえと気付いたんだ。つまりだな、これは国生みの神話だ」と。
藤田宜永(ふじた よしなが)著
新潮文庫
新潮社
平成14年5月1日発行
真夏の葉山。
浮気した挙句、詐欺及び業務上横領罪で指名手配されている元銀行員が、逃亡の果て、誰もいないと思い、忍び込んだ義父の別荘で妻と再会する。
離婚届に判を押すこと、すべての責任は自分にあるという手紙を一筆書くことを条件に、十日間くらいならいてもいいと言われ、蒸し風呂のように暑くて、しかも、外から鍵がかけられる納戸に匿われる。
納戸には節が抜け落ちた5ミリほどの穴が開いていて、この穴から隣室を覗き見ることができた。
彼が穴から見たものは、妻の、自分が知らなかった女としての一面、恋人との情事…。
よどんだ空気の中、苛立ちと嫉妬に苦しむ。
奇妙に縺れた女と男の姿。
匿われて1週間、妻の妊娠がわかり、ふんぎりがつかないまま、別荘を出ていくことに。
そして…。
この物語には、凧上げする少年が出てきます。
元銀行員が葉山に着いてすぐ、納戸に匿われてしばらくしてから、そして最後に。
この少年との接し方を読むにつれ、この元銀行員のやさしさと、それに輪をかけた無器用さとがみえてくるようで。
本書は2002年春、「笑う蛙」と改題され、映画化された。
ちなみに著者の奥さまは、作家の小池真理子さん。
スティーヴン・キング著 白石朗訳
新潮社
2000年4月25日発行
5編の中短編によって構成されている小説集(一番最初の作品は、長編というべき長さ)ですが、相互に関わりあっていて、最後にそのひとつひとつが結び合わされます。
キングらしい、不思議な力を持った老人なども登場しますが、そういった超自然的なことについて書かれた小説というよりは、キングの世代が生きてきた時代のアメリカをたどる、自伝的な色彩の濃いものになっています。
いまや世界でただひとつの超大国になり、お金さえあればどんなものでも手に入って、誰でも陽気に暮らしていそうに見えるアメリカも、キングが描くと、ちっとも幸福そうでも陽気でもありません。
1960年代、豊かとは言えなくとも、それなりに幸福な子供時代を過ごした少年たちは、ベトナム戦争によって、多かれ少なかれトラウマを抱えることになります。
戦争に参加した者であれ、反戦運動に身を投じた者であれ、彼らは初老という年齢に達してからも、ずっとベトナムの影を引きずって生きています。
キングは、貧困や家庭不和、暴力など、さまざまな問題を抱えながらも生き生きと輝いていた子供時代に比べ、大人になってからは、少しも幸福になれずにいる自分たちに世代(日本で言う団塊の世代)を、愛惜をこめて描いています。
残酷で悪意に満ちた描写もたくさんありますが、最後に泣かせる場面もちゃんと用意してあるところが、この作家の人気の所以でしょうか。
ところで、最初と最後の物語の主人公であるボビーは、11歳のとき、母親から誕生日のプレゼントに、図書館の「大人用」の貸し出しカードをもらいます。
それまで児童図書しか借りられなかった彼は、これによって、図書館のあらゆる本を読めるようになるのですが、アメリカの図書貸し出しシステムって、こんなふうになっているんでしょうか?
母親は、カードの裏側に、「この子が大人の本を読むことを親が許可した」旨、書き込んでやるんです。
何歳という十把一絡げの分け方ではなく、親が、自分の子がもう大人向けの本を読んでいいかどうか、それぞれ判断するということなのかもしれません。
日本ではなかなか出てこない発想だと思いました。
ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳
新潮社
2000年4月25日発行
この本は、巻末の奥付によると、わずか3ヶ月足らずのあいだに9刷という、たいへんなベストセラーになっていたようです。
実は、この本、私の姉が大絶賛しておりまして、小さい頃から姉とは本の趣味がまったくあわなかったので、ということは、きっと私にとってはさほど興味の持てる内容ではないだろう、と勝手に決めて、売れているさなかには読む気も起きなかったのです。
ようやく予約しないでも図書館で借りられる程度には、ベストセラーの余韻も冷めたらしいので、それでは、というので読んでみました。
15歳の少年ミヒャエルは、ある日母親ほども年の違う女性ハンナと出逢って恋に落ちます。
しかし、ハンナはあるとき何も告げず、ミヒャエルの前から姿を消し、数年後、彼は法科の学生として、彼女はナチスの戦犯として、法廷で再び出会うことになります。
彼女は、過去にアウシュヴィッツ強制収容所の看守だったのですが、そこで、多くの囚人達を見殺しにした罪に問われます。彼女は、自分は与えられた仕事を命令されるままに遂行していたに過ぎない、自分にはどうすることもできなかったのだ、と主張します。
ハンナは、ナチス・ドイツの親衛隊に「就職」し、「看守」という仕事を真面目に勤めていただけなのです。
そういう立場の人間を、誰がどう裁くことができるのか。
「裁く」という行為の難しさを、この本は問いかけています。
ハンナは、裁判官に向って言います。
「あなただったらどうしましたか?」
裁判官はその問いに対して、周囲の人々を納得させる言葉を発することはできません。
その場に居合わせなかった人間たちが、過去の罪を裁くことの傲慢さ・困難さ、そして、罪が軽くなることをあきらめてでも守りたいハンナの秘密が、心にずしんとくる一冊です。
全然関係がないんですけど、メアリ・S・クラークの『ロウフィールド館の惨劇』という小説を思い出しました。
現代社会において、文盲ということがらが、どれほど人を苦しめ、尊厳を傷つけるか、そしてそれを隠すために人がどのような行動に走るか、まったく異なった種類の小説ではありますが、どちらにも、深く考えさせられるものがありました。
浅田次郎(あさだ じろう)著
徳間書店
2002年5月31日第1刷
タイトルは「さこうろうきたん」と読みます。
1996年から2001年にかけ「問題小説」に掲載された五つの短編によって構成されています。
南青山の高級マンションの最上階にある秘密サロン「沙高樓」に各界の名士たちが集う。
そしてミステリアスな女装の主人の「沙高樓にようこそ。今宵もみなさまがけっして口になさることのできなかった貴重なご経験を、心ゆくまでお話下さいまし。―― お話になられる方は、誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸にしまうことが、この会合の掟なのです ――」という言葉にいざなわれ、静かに語られる秘めやかな
真実。
刀剣鑑定34代家元が語る「小鍛治」
精神科の医師が語る「糸電話」
今は「撮影監督」とか「映像監督」という肩書きを持つ映画キャメラマンが語る「立花新兵衛只今罷超候(たちばなしんべえただいままかりこしそうろう)」
南軽井沢・紫香山荘の庭番の老女が語る「百年の庭」
そして、3千人の子分を持つやくざの親分が語る「雨の夜の刺客」
人の心の奥底に秘められた闇の部分がたんたんと語られていきます。
ちょっぴりミステリアスで、ちょっぴり怖くて、ちょっぴり哀しいお話が…。
自分の毒を吐くかわりに、他人の吐いた毒を呑まねばならない。
あるいは多くの毒を呑まねばならないのだから、せめておのれの毒を吐く。
沙高樓の綺譚会とは、どうやらそういう仕組みであるらしい(本文より)
うーん、確かにそんなお話ばかりでした、はい。
ハリー・クレッシング著 一ノ瀬直二訳
ハヤカワ文庫
早川書店
1972年2月29日発行
ミステリアスで、なにやら掴みどころのない作品。
作者のハリー・クレッシングの経歴も、どんな人物なのかも一切不明。
有名なランダム・ハウスから出版されたにも関わらず、この名前が変名であるとだけしか言わず、何も説明していないそうです。
物語の舞台は恐らくイギリスの一地方だろうと思われる田舎町のコブ。
ある日、背の高い、「飢えた黒い鷲」のような男が自転車で現れました。
その男はコブの町を二分する名家のひとつ、ヒル家の料理人としてこの町にやってきました。
その名はコンラッド。
恐ろしげな風貌、冷たく高慢な態度の彼ですが、彼が作り出す料理は極上。
その料理は、やがてヒル家、そしてもうひとつの名家ヴェイル家、双方の家族に不思議なことを起こします。
太っていたものは痩せはじめ、痩せていたものは太りはじめる、そして、彼が作る料理に魅せられた雇い主ヒル一家は、だんだん彼の意のままになっていきます。
謎に包まれた料理人コンラッドの目的は?
コンラッドの意のままになっていくヒル一家の行きつくところは?
どこか靄がかかったような作品で、ああ、なんと言っていいのでしょう…、ほんに奇妙な作品でした、はい。
余談ですが、このコンラッドの作る「猫の餌」。
魚の頭でだしをとったもので小麦粉を練り、これを小さな鼠の形に。
そして、うすいクリームソースのなかにその鼠を浮かせるというもの。
これはうちのニャンコにも食べさせたいような、食べさせたくないような。
やっぱりやめときます。
種村季弘(たねむら すえひろ)著
青土社
1992年5月20日発行
歴史に名を残す芸術家の作風をそっくり真似て、偽物を作り出し、一儲けを企む・・・「贋作者」という言葉からは、そんなイメージが思い浮かびます。
確かにそれはその通りなのですが、贋作が作り出される裏には、それだけではない、まことに複雑で、人間くさい諸事情が隠されているようです。
ある古代王朝の遺物である、というふれこみの黄金の冠は、それが贋作であることが明白になってから、さらに7年もの間、「真物」として、ルーブル美術館に陳列されていました。
ルーブルほどの美術館が、莫大な金額を投じて購入した以上、それが偽物である、とあっさり認めてしまうのでは、ルーブルの権威に傷がつく、というわけです。
また、第2次世界大戦前夜のヨーロッパ諸国では、貴重な美術品が、ナチス・ドイツに流出してしまうのを危惧するあまり(なにしろ、ヒットラーは熱狂的な美術愛好家でした)、ろくな鑑定もせずに、詐欺師たちの言い値で、「もしかしたら偽物かもしれない」美術品を次々に購入してしまいます。
一方、贋作者には、たんにお金のためばかりではない、贋作者なりの「制作理由」があったりします。
ある贋作者は、自分のオリジナルを酷評する鑑定家・評論家たちが、自分の贋作に、フェルメールの真物である、とのお墨付きを与えたとき、ここぞとばかりに、「馬鹿ものどもが! とんでもない、あれは私が描いたのだ」と言い放って、溜飲を下げるのです。
場合によっては、贋作者が「贋作だ」と言っているにもかかわらず、「真物」と判定した鑑定家たちが、自分の鑑定眼と権威に固執するあまり、作った当人の証言を認めない、という喜劇のようなことが起こりさえします。
贋作は、それを作っただけでは贋作にはなりません。
それはただの模写、コピーにすぎません。
真物と称して売り込もうとする詐欺師たちと、その口車に乗せられるコレクター、お金はあるが見る目のない購入者、権威にしがみつく大美術館、一度真物と鑑定してしまったら、自分の名に疵がつくことを恐れて、本当のことが言えなくなってしまう専門家と称する人々、そして、戦争などの、人のこころを尋常でなくしてしまう社会情勢、そんなものが贋作の存在を許してしまうのです。
それにしても、名だたる専門家をまんまと欺く技量の持ち主である贋作者たちのオリジナルは、なぜ認められないのでしょう?
やはり、芸術が芸術であるためには、技術だけではない、「何か」が必要、ということでしょうか?
安野光雅・森毅・井上ひさし・池内紀編
ちくま文学の森 14
筑摩書房
1988年12月20日第1刷
言葉のもつ面白さ、不思議さをテーマに、幅広いというか、雑多というか、ジャンルにとらわれずに作品を選び、1冊にまとめてある。
がまの油売りの口上から始まって、漫才、落語、小説、随筆、論文などなど、まずその多種多様さに驚いてしまう。
こういう取り合わせの本を、誰が、どういうときに読むのだろう? と、自分のことは棚にあげて、ちょっと不思議に思う。
私は、江戸川乱歩の『二銭銅貨』を読もうと思って、たまたまそれが入っているこの本を手にした。
でもお陰で、それ以外の、放っておいたら自分からは手にとらないであろう、いろいろな作品に出会うこともできた。
『二銭銅貨』は、乱歩のデビュー作であるらしい。
大正12(1923)年に雑誌に発表された、30ページほどの短編である。
探偵小説の一分野に、トリックに「暗号」を使ったものがあるが、本編は日本におけるその種の作品の代表に挙げられている。
この作品では、「暗号」が主役であると言ってもいい。
そして、その「暗号」に点字が使われている、ということを最近知ったので、読んでみた。
話はほぼ、場末の下駄屋の2階で貧乏暮らしをしている2人の若者のやりとりだけで成り立っている。
あざやかに大金を盗んだものの、結局逮捕された泥棒。
その隠し金のありかをめぐる話の中に、暗号で書かれた紙片が登場する。
多分、ここまではバラしてもいいと思うのだが、「南無阿弥陀仏」の6文字を点字の6点に当てて金のありかが書かれているらしい。
ところが、この点字が私には読めなかった。
分かち書きがされていないからだけではない。
仮名で書いてある「正解」を見ると、拗音の表記が今と違う。
「チョ」を表すのに、「チ」を打って、「拗音符(4の点)」を打って、「ヨ」を打ってある。
(その程度のことに思い及ばないようでは、「暗号」など解けるわけがない、という説もある)
そう言われてみれば、拗音点字は、石川倉次氏がさんざん苦労の末、最後に考案された、と聞いた覚えがある。
でもそれは、明治30年代のこと。
大正12年には、まだ普及していなかったのか?
それとも、乱歩がよく知らなかったのか?
実際、拗音をこういうふうに表記していた時代があったのだろうか?
そちらの方が興味深い謎かもしれない。
・・・とにかく、そういうわけで、暗号文は解けなかった。
残念!
話の方は、さらに逆転があるので、ご心配なく。
川上健一(かわかみ けんいち)著
集英社
2001年7月30日発行
いささか気恥ずかしくなるようなタイトル同様、中身もちょっとたじろぐほどの「胸キュン思春期小説」なのですが、でも、ふた昔前くらいの中学生は、こんなものだったのかなあ、なんて思いながら、ケータイもTVゲームもパソコンも出てこない、野球少年たちの物語を楽しんで読みました。
大人と子供の中間あたりにいて、「ぼくたちはガキ扱いされたり、もう子供じゃないと言われたり、要するにそのときの大人の都合でいいように扱われる中途半端な存在なのだ」と、身勝手な大人たちに反発する14歳。
主人公の男の子は、横暴な先生に憤り、好きな女の子の前でオタオタし、性の情報に耳をダンボにし、野球にのめり込み、ビートルズに心酔しながら、少しずつ成長していきます。
いくらか、都合よく話が展開しすぎるきらいはあるものの、ときにはこんなお話を読んで、「キュン」となってみるのもけっこう心地よかったりします。
山田太一(やまだ たいち)著
新潮社
2002年3月15日発行
嘘とも本当ともつかない彌太郎さんの話に、「私」は、迷惑に思いながらも、つい聞き入ってしまいます。
戦後、ある事情があって30年も独房に入れられていた男が過去を語る物語ですが、それがほんとうにあったことなのか、まったくの嘘なのか、あるいは男の幻想に過ぎないのか、どこまでも判然としません。
30年の独房暮らしで、自分には「思い出」というものがない、という彌太郎さんの話は、無理矢理にでも、自分にも「思い出」があるんだ、と信じたい気持が作り出した、「嘘」にすぎないのでしょうか?
どうせわかってはもらえない、と言い、わかったような顔をすると怒りだし、しかし、語ることをやめられない、彌太郎さん。
「私」はとうとう、「しゃべっておいて、分かるわけないっていうんだ。そんなら話すなっていうんだ。そりゃあ、私は独房も知りません。軍隊も知りません。私のせいじゃありません」と、吐き捨ててしまったりするのです。
言うと辛くなる、理解してはもらえない、とわかっていながら、どうしても話さずにはいられないものを、胸に抱えて生きているひとも、きっとたくさんいるんだろうな、なんて、さして辛い思いもせずに、脳天気に生きてきた私などは、ぼんやりと思うのです。
飯塚訓(いいづか さとし)著
講談社プラスアルファ文庫
講談社
2001年4月20日初版
日航の旅客機が群馬県の御巣鷹山に墜落してから、もう17年が過ぎました。
乗員・乗客あわせて520名もの方が亡くなったこの大事故のことは、いまも忘れることはできません。
この本は、墜落現場から運ばれてくる遺体の身元確認作業に、責任者として携わった警察官が書いたものです。
御巣鷹山から運ばれてくる遺体は、どれもが目を覆うばかりの状態で、しかも真夏のこと、あっという間に腐敗して、蛆がわき、血液検査も指紋採取もできなくなってしまいます。
そういう中で、大勢のひとびとが、毎日運ばれてくる遺体(というか、遺体の断片)を詳細に調べ、ひとりひとり身元を確認していきます。
遺族にとっては、どんなに小さな遺体の断片であっても、なにものにも替えがたい肉親の「身体」です。
同時に、わずかな皮膚のかけらや、一本の歯、臓器の一部でさえも、身元を確認する手ががりになるかも知れないのですから、いささかでもおろそかに扱うことは許されません。
原型をとどめないほど破損した遺体、焼けて炭化した遺体、ほんの一部しか残されていない遺体から、警察・医師・看護婦など、多くの人々が、不眠不休で身元の手がかりになるものを探し出し、できる限り丁寧に清拭して、遺族に引き渡す作業を続けます。
こんな大事故でなくても、身の回りで日常的に起こっている交通事故や火事において、私たちは、TVのニュースなどで「3名が死亡」とか「死者は5名にのぼる」などと聞かされるだけですが、そこには必ず、遺体を搬送し、検屍して記録をとり、身元を確認し、遺族に連絡して引き渡す、という作業をしている人々がいるのです。
それが彼らの仕事だ、と言い捨ててしまわずに、私たちは、もう少しこういった作業に携わっている人々のことを、想像力をもって考えてみる必要があるのではないでしょうか?
人間の生き死にの現場にいて、遺体の惨状を目の当たりにし、遺族の悲しみや怒り、時には利害のからんだ争いをも否応なく目撃する、そんな状況のなかで働きつづける人々の心のケアが、日本で充分になされているのかどうか、心配な気がします。
大勢の犠牲者が出た事故の場合、日本のように、ここまで徹底して遺体を探し、身元確認する国は珍しいといいます。
ほとんどの国では、生きている可能性がない場合、遺体が見つからなくても、遺族は身内の死を納得し、その人は神に召されたと考え、死んでしまった肉体には、さほど執着しないというのです。
あの世へ行ったとき、足がなくては歩けないだろうから、足を探してください、とか、手がないと天国で食事のとき困るだろう、といった、日本人の「死」に対する独特の考え方は、私はとても美しいものだと思うのですが、しかし、生存者がいないことが確実である場合、その処理に携わる人々の負担を思いやり、もっとはやい時点で、遺体を探すことを断念する、ということがあってもよいのではないでしょうか?
加藤主税(かとう ちから)編著
中央公論社
1997年5月7日初版発行
女子大生が集めた、彼女たちにとっての「死語」3000語の中から選りすぐった300余語を収録。
世の中の変化が非常に速くなっている昨今、言葉の寿命の短さに唖然とする。
「若人」が「死語」だと言われ、それに代わった「ヤング」も既に「死語」になったらしい。
モノ同様、言葉もどんどん使い捨てられている。
20歳前後の彼女たちにとっては、自分たちが中・高生の頃に使っていた言葉は、既にかなりの割合で「死語」なのだ。
5年ももたない言葉というのは何なのだろう?
この本が出てから5年経った。
もとになるデータが集められた時点から数えれば、7〜9年になる。
その間にまた、どれだけの言葉の屍が積み上げられていることか・・・。
「死語」といわれるものには、その言葉が指す実体がなくなってしまったために耳にしなくなった言葉(勘当、たらい、苦学生など)、同じものを意味する別の言葉に置き換えられてしまった言葉(帳面、白墨、写真機など)、流行語などで短命のもの(チョベリバ、アッシー君など)、その言葉が指すものがあまりに一般的になって取り立てて言わなくなった言葉(電気冷蔵庫、水洗便所、こうもり傘など)、その他いくつかのケースがあるという。
流行語などは、始めから長く使うことを考えていないから、使い捨ては当然といえば当然。
けれども、「オーバー」(コート)や「ズボン」「スラックス」「寝巻き」「薄荷」「ビックリ仰天」までが「死語」だと言われると、果たして文化の継承とか世代間の対話などというものが可能なのかどうか、ちょっと心配になる。
「『この青二才が、一人前の口をきくんじゃない』 こう言われても、なんのことかわからないから腹も立たない」らしい。
「最初『字引き』と聞いたとき、地引き網のことかと思った」とか、「今回の試験、九分九厘赤点だわ」という言い回しに、「最初はまったく意味がわからなかった」というコメントを、笑い話で済ませていいだろうか?
言葉は生き物だから、時代とともに変わるのは当たり前。
「いま」の感覚を適切に伝えられる、ということだけに主眼をおいた言葉も必要不可欠だと思う。
けれども、そういう種類の言葉だけに囲まれて暮らしていると、多分、言葉というものになんの重みも感じられなくなりそうで、ちょっと怖い。
世代間で価値観・世界観が受け継がれなくなってきている傾向は、常々感じていた。
が、そんな生易しいものではないようだ。
言葉そのものが通じなくなってきているらしい。
子どもが大人と話をせずに育っているのだろうか?
それとも、大人が子どもの言葉で喋っているのだろうか?
佐藤正午(さとう しょうご)著
角川文庫
角川書店
平成13年11月25日初版
佐藤正午氏と言えば、その作品は構成が入り組んで、何層にも重なってできているものが多いのですが、氏本人も、忘れかけられていた時期から一転、急な脚光を浴びて現在に至っています。
デビューに関しては結構華々しかったものの、高い評価をされながらも商売にならなかったのか、刊行された作品のほとんどが絶版になってしまいました。
ところが、一昨年ベストセラーを飛ばしたことで、各出版社がころっと態度を変え、次々に再版されるようになりました。
さて、本書もそのひとつ。
氏としてはめずらしく筆がすなおに運ばれていて、それで却って、絶版になった講談社刊で一読した当時、ありがちな話だと物足りなく感じたものでした。
この角川刊であらためて読んでみますと、水商売で身を立てて行く秋子という女性の心理が、実に丹念に描写されています。
どうしてどうして傑作でありました。
佐藤正午(さとう しょうご)著
ハルキ文庫
角川春樹事務所
2001年5月18日初版
時間というものは、とにかく一方通行でしか進みません。
前方ばかりを見ていて、ふと、後方にも思いが行き、振り返ったり、立ち止まったりすることはできても、後戻りすることはできません。
こうすればよかった、こうしなければならなかった、といった後悔は誰にでもあり、後悔してみたって始まらないということも、誰についても言えると思います。
ところがここに、後悔するだけではなく、実際に後戻りして事のやり直しを図った男がいるのです。
その男、北川からメッセージを受けることになった私は、そんなはずがない、と思いながらも、説得力あるそのメッセージの世界に踏み込まざるをえなくなって行きます。
そして、行き着く先には、必死な恋心があり、とても切なくなりました。
初期から完成された作家と言われる佐藤正午氏ですが、作品を追うごとに文章に隙がなくなっているように思います。
スティーヴン・キング著 二宮磬訳
文藝春秋
1997年10月1日第1刷
ある中年の夫婦が、人里はなれた湖畔の別荘にやってきて、夫が妻を裸でベッドの枠のところに手錠で括りつける、というところから話ははじまります。
つまり、そういうプレイを楽しむために別荘にやってきた、ということなのですが、ここで喜んでは(?)いけません。
書いているのはスティーヴン・キング、倦怠期の夫婦が刺激を求めて・・・なんてだけのお話を書くわけはないのです。
妻がベッドの上で身動きが取れなくなったとたん、夫が心臓麻痺で死んでしまいます。
さあ、たいへん!
バンザイするようなかっこうで、ベッドの上方に手錠で縛りつけられていて、腕が動かせる範囲は、手錠についている鎖の長さのわずか6インチ。
場所は誰も通りかかりそうにない山の中の別荘です。
こういうシチュエーションで長編1本書いてしまって、しかも、全然飽きさせないのですから、やっぱりキングはすごい。
主人公の回想シーンを除けば、場面は彼女が括りつけられているベッドの上だけです。
彼女はそこで、生き延びるために、ありとらゆることを試みます。その細かい描写といったら・・・。
彼女が、ベッドの上の棚から水の入ったコップを苦心惨憺のすえ手にとり、ようやく水を飲むシーンでは、こちらも喉がからからになります。
最後に手錠をはずすシーンは、とても読んでいられなくて、飛ばしてしまいました。
不気味な謎の人物の影、夫の死体を食べにくる犬・・・、怖さを演出する道具立ても周到ですが、しかし、キングの関心の多くは、ベッドに縛りつけられた人間にどれだけのことができるか、にあったのではないでしょうか?
超自然的なことはいっさい起こらないし、ご都合主義的な救いの手もやってきません。
彼女は完全に自力で自分を救い出します。
主たる登場人物は彼女一人ですから、ページの多くは、彼女の独白・自問自答・過去の回想に費やされています。
そういった細かな心理描写や、逡巡を繰り返す自己との対話を、少しも冗長に感じさせないところは、やはり当代きってのストーリーテラーです。
ひろさちや著
クレスト社
平成10年5月5日初版第1刷
タイトルだけ見ると、何だか難しそうで、寝っころがって読んだりしては罰が当たりそうな本である。
出版社もそういう誤解を恐れたのか、表紙にかけた帯に、ちょっと違うんだ、というために、本書が「禅の根本原理」をどう読んでいるかを書いている。
曰く、
莫妄想(まくもうぞう)――余計なことを考えるな!
一得一失(いっとくいっしつ)――なんだっていい。
自灯明(じとうみょう)――他人のことはほっとけ!
放下著(ほうげぢゃく)――常識を捨てろ!
竿頭進歩(かんとうしんぽ)――がんばるな!
著者は多数の著作のある有名人だから、ご存じの方が多いだろうが、あまりに真面目な人が読むと腹を立ててしまいそうなことを書く。
が、本当は、そういう人にこそ読んでほしいと思って書かれた本なのだろう。
たとえば――
明日のことをあれこれ考えても仕方ない、未来は神仏の権限に属するのだから人間が思い悩むのは越権行為だ。
あれかこれかと迷うのは、どちらでもいいから迷っているのだ。
自分は自分の生を生き、自分の死を死ねばいい、それしかないんだから、他人と較べても意味がないし、こうあらねば! などと現在を否定してもしょうがない。
常識にとらわれ、ヘンな美学を持つから苦しくなる、無様だって見苦しくたっていいじゃないか。
仏の眼から見れば、頭のいい子も勉強のできない子も、美人も不美人も、勤勉な人も怠け者も、健康な人も病人も、金持ちも貧乏人も、生きている人も死人も、同じように素晴らしい。
・・・というように。
こんな具合に暮らせば、とても楽に生きられる。
日々、頑張って真面目に生きていて、ちょっと疲れてしまった人に向けたメッセージなのだろう。
私のように、もともと、人がびっくりするくらい気楽にいい加減に生きている者としては、これ以上楽になってどうする、という感じもして、笑ってしまう。
けれども、これらのことを本当の意味で実践するのは、きわめて難しい、ということも本書は言っている。
つまり、徹底的にこだわりを捨てなければ(それが悟るということなのだろうか)行き着かない境地なのだろう。
苦痛があってもなくても、生命があってもなくても、どちらでもそれはそれでいい、と、そこまでは、私にはなかなか思えない。
それを、そう思えるように精神を鍛えねば、とか、精進を重ねてその境地に少しでも近づこう、などと頑張るのは、本書の意図に反しているだろう。
私は、頼まれてもそういうふうに頑張ったりできないのだけれど、真面目な人はそこでも頑張ってしまうのかもしれない。
やっぱり、頑張らない人向きの本なのだろうか?
アルフレッド・ランシング著 山本光伸訳
新潮文庫
新潮社
平成13年7月1日
1914年、イギリスの探検隊が、南極大陸横断に挑戦するため、船で南極へ向いますが、途中で氷に阻まれ、船を放棄せざるを得なくなります。
船の名前は「エンデュアランス(忍耐)号」。
乗組員28名は、それから1年7ヶ月に渡って、まさに「忍耐」の極限を強いられることになります。
井上靖著の『おろしや国酔夢譚』の主人公・大黒屋光太夫の苦難もたいへんなものですが、彼にはロシア国内での支援者もいたし、人里からまったく離れた土地にいたわけでもなく、彼を苦しめる要因は、国の体制の違いや、日本側・ロシア側双方の思惑など、かなりの部分、人為的なものでした。
しかし、エンデュアランス号の乗組員を苦しめるのは、徹頭徹尾自然の猛威です。
船を放棄した乗組員達は、3隻の小さなボートで海路、陸を目指そうとするのですが、ボートを出すためには、氷が割れて、水路が出来なくてはならず、水路ができるほど暖かくなってくるのを待っていると、今度は、彼らがキャンプをしている足元の氷が先に割れだし、何もかも水浸しになってしまう。
海路はあきらめて、陸路(といっても、氷の上であって、その下は海なのですが)をそりで行こうとすると、氷が融けすぎて、すでにそりの重量に耐えられそうもなくなっており、しかたなく、いつ崩壊するともしれない氷の上でのキャンプを続けることになります。
とうとうぎりぎりのところで水路が開け、彼らはボートに乗り込みますが、海に出たら出たで、荒れる波に、押し寄せる氷、飢餓の恐怖、等々、次々と困難が押し寄せます。
陸路の選択肢がなくなったことによる、そりを引かせるために連れてきた犬たちの射殺、決して乾くことのない衣服と寝袋、ひどくなるいっぽうの凍傷・飢え・天候、そして、何より彼らを苦しめるのは、雪と氷の中に何日も閉じ込められ、何もすることがない、という究極の「退屈さ」なのです。
隊長のアーネスト・シャクルトンという人物は、最近、理想的なリーダー像として、本などで取り上げられているようですが、この『エンデュアランス号漂流』の中では、常に隊員たちの生死をわけるかもしれない決定を迫られる立場で、苦悩しつつ、生きのびる方策を必死で探しつづけます。
日頃、夕飯のおかずは肉にしようか魚にしようか、で悩んでいるのが関の山の私などには、シャクルトンのリーダーとしての責任は、ひとりの人間が負う責任の限度を越えているような気さえしてしまいます。
しかし、彼は不屈の闘志で、ついに乗組員全員を生還させるのです。
すさまじいサバイバルの物語にも関わらず、読んでいて重苦しい気分にはあまりなりません。
それは、乗組員達が最後の最後まで仲間とともに助かることしか考えず、ただの一人も身勝手に行動するものがいなかったからかもしれませんし、また、こんな極限状態でも、ユーモアを失わず、希望をもち続けたからかもしれません。
へたなフィクションより絶対に面白い、ハラハラドキドキの物語です。
ウィリアム・ゴールディング著 平井正穂訳
新潮文庫
新潮社
昭和50年3月30日発行
中学生の息子が、ヴェルヌの『十五少年漂流記』を、「なかなか面白いね」と言いながら読んでいます。
私も、子供のころ、何度も読み返した物語です。
13,4歳の少年たちだけが、孤島に漂着し、そこで2年間、互いに協力しながら生き延びる物語は、苦難というより、『2年間の休暇』という原題が示すとおり、自由でわくわくするような冒険に満ちています。
ときどきけんかをしたり、困ったことが起こったりしても、悲惨な印象はまったくありません。
『蝿の王』の状況設定は、『十五少年漂流記』とほとんど同じです。
事故に遭って、10歳前後の少年たちが、孤島で救助がくるのを待つことになります。
最初、彼らは年かさの少年たちを中心にまとまって、助け合っていこうとしますが、彼らが十数年の人生でわずかに身につけてきた理性は、あっという間に剥がれ落ちて、原始的な凶暴性――心の暗黒面が彼らを支配してしまいます。
わずかに3人の少年だけが、かろうじて理性を保ちつづけますが、彼らは、心の暗黒面にとらわれてしまったほかの少年たちによって「狩られる」存在になってしまいます。
『十五少年漂流記』に描かれたユートピアのような世界は、ここにはありません。
そこでは、理性も社会性も、なんの役にも立たないのです。
大人たちは、ふだん、かなり分厚い社会性や秩序・規則、あるいは世間体なんてものを身にまとって生活しているので、こういった状況になっても、それが剥がれ落ちるまでに、ある程度時間がかかるかもしれません。
しかし、少年たちは、なんの束縛もない世界に放り出されたとたん、たちまちにして原始にかえってしまうのです。
それは、そういう状況になってはじめて芽生えたものではなく、人間が心の奥底に最初から持っている「暗黒」であって、そのことに気づいているひとはあまり多くない、と、心の「暗黒」に気づいている唯一の存在であるサイモンという少年を通して、作者は語っているようです。
そして、「暗黒」に支配された少年たちの前では、サイモンは無力に死んでいく存在でしかないのです。
少年向きの冒険小説である『十五少年漂流記』と、『蝿の王』を比べることには、あまり意味がないのと思うのですが、しかし、『蝿の王』を読んでしまうと、もう『十五少年漂流記』の世界に、素直に浸ることができなくなってしまうような気がします。
真保裕一(しんぽ ゆういち)著
講談社文庫
講談社
1996年10月15日初版
読み終えるのに猛烈な時間がかかった、というのが、この本を手にしてまず思い返したことです。
装訂の手軽さが特長のはずの文庫であっても、640ページからあると重いし、かさばるし、かばんに入れて持ち歩き、ちょっと時間を見つけては読み進める、なんてわけに行かなくなります。
ちゃんと読むつもりになって場所と時間を確保しなければなりません。
そういう状況と小説自体の長さに加え、誤解をまねくのを承知で書けば、内容がまた読むスピードを鈍らせるものでした。
気象庁の地震火山研究官である江坂は、失踪した元同僚の森本を追跡するうちに、何かとんでもない国家的陰謀が進められていることに気づきます。
第一章などは、その陰謀をめぐる、つながりのない場面の羅列で構成されていて、ちっとも全貌が見えてきません。
気分がすっきりしないまま、あるいは、すっきりしないからこそ、小説にすっかりハマってしまうのです。
それも、じっくりじっくりと。
つまり、読み応えがあり過ぎるがために、すらすら読めてしまう、というわけには行かないのです。
海洋が主要な舞台となるだけに、全貌をなかなか見せない「大魚」を釣り上げているような醍醐味を感じました。
真保裕一(しんぽ ゆういち)著
講談社文庫
講談社
1999年5月15日初版
五千円札の新渡戸稲造は白いネクタイを、千円札の夏目漱石は黒いネクタイを締めている、といった蘊蓄から始まるこの小説は、まさにお札をテーマとしています。
それも、大きな声じゃ言えませんが、偽札づくりを・・・。
その気になって注意し、メモにでも控えながら読み進めて行けば、おそらくあなたも、自分で偽札を作ることができてしまうのじゃないか、という錯覚に陥り、邪ではありながらも秘めた幸福感に満たされることでしょう。
それほど詳細に、大胆に、惜し気もなくノウハウが書かれてあるのです。
とは言っても、この小説はそのような企みに対する説明書ではありません。
テンポがよく、ユーモアにあふれ、意表をつかれ、登場人物に魅了されるエンターテインメント小説の大傑作なのです。
尚、この『奪取』は、『震源』にも増して長編ですが、文庫だと、ありがたいことに「上」「下」に分かれていて、かばんに入れることができました。
加速度的に読み終えた後、それが些か勿体なくもあったかな、と思う以上に痛快だったことを記憶しております。
瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)著
中央公論新社
1999年3月10日初版
平安時代、「今ハ昔」に始まり、「トナム語り伝ヘタルトヤ」で結ぶ語り方で一貫されて書かれた説話集「今昔物語」。
宮廷の貴族の世界が舞台となっている「源氏物語」とは異なり、一般庶民の間に伝えられた話、貴族の男女の微妙な関係の話にくわえ、印度や中国の仏教説話もある、約1200話の中から、筆者が面白いと思われた45話を訳されたものです。
おどろおどろしい話、滑稽な話から艶話まで。
「鶴の恩返し」ならぬ「亀の恩返し」。
男が亀を助けた。
何年か後、その亀が男の前に現れて、洪水になるので船を用意するように言う。
信じられなかったが、亀があまりに真剣だったので、船を用意し、待っていると、暴風雨になり洪水に。
家の者を乗せて漕ぎ出し、流されてくる例の亀を助け、大きな蛇を助け、狐を助ける。
そして、人間の男が流されてくる。
亀は言う『あの男を乗せてはいけません。畜生は恩を知っていますが、人間は恩を知りません。あの男が死んでも、あなたの罪ではありません』と。
しかし船主は男を助けます。
さあて、人間は本当に恩を知らないか、畜生はどんな恩返しをしてくれるのか?
なんだか浦島太郎とノアの箱舟がごっちゃになったようなお話ですが…。
全体的に仏教色が強いが、平安時代の人の性に関する感覚も読み取れます。
ご存知、陰陽師・安倍清明や、源博雅と琵琶・玄象の話もございますです、はい。
高尾慶子(たかお けいこ)著
文藝春秋
1998年1月20日第1刷
この本が出版される前、『イギリスはおいしい』(林望著)など、いささかイギリスをヨイショするような本が何冊か出て、それはそれで、イギリスという国の、ある一面を伝えてはいるのでしょうが、どんな国にも裏はある、というわけで、この本はその裏の一面を書き綴ったものです。
21世紀の今に到るも、イギリスという国は厳然たる階級社会で、これほど持つものと持たざるものの差が激しいのはイギリスとインドくらいのものだ、と筆者は言います。
筆者は、ロンドンの上流階級の家で、ハウスキーパーをやっていた女性なのですが、ある大金持ちの家では、そこの娘が日がな1日ヒマを持て余し、
「一日中することがなく、昼の三時に眼を覚ますと執事にベッドまで食事を運ばせ、・・・衣装戸棚をかき回して、三つの大きな部屋にありったけの下着や洋服を足の踏み場もないほどばらまくのだ。次には何千本とあるビデオテープをかきまわし、テレビの前に座って夕方までぼんやりとビデオを見る」
そして、次に、化粧をはじめるのですが、
「豪華な広い化粧台のうえも、思い切り散らかし放題。口紅はキャップをあけたままのが何個も。クリームは蓋を開けたまま。ティッシュペーパーはあちこち床に投げ捨てたまま」。
こんな生活が、筆者がその家で過ごした8ヶ月間、毎日毎日繰り広げられ、この19歳の小娘の散らかしたあとを片付けて歩くのが、高額な報酬をもらっていた筆者を含め合計9人にも及ぶ使用人の仕事だった(雇い主の家族は3人)、という普通の日本人の感覚では理解しがたいアッパークラス(上流社会)の生活。
かと思えば、労働者階級では、ろくな教育も受けられず、社会が人材を育てるという意欲にとぼしいため、せっかく地下鉄の駅に設置された新しい自動発券機は、使い方がわからないという理由であっという間に取り外され、銀行や公官庁では、コンピュータの使えない職員ばかりで、仕事がちっとも進まない。
「ある日本企業の駐在員が私に、こうこぼしていた。『この国にもね、コンピュータはあるのですが、働いている者は、扱い方がわからないのですよ』」
コンピュータ操作の誤りで、しょっちゅう踏み切り事故が起こり、商店の店員はお金を勘定することができず、バス停・郵便局・銀行はもちろん、デパート・トイレ・劇場のチケット売り場にいたるまで、長い行列に並んでえんえんと待たされる。
泥棒にあえば、「盗まれた方が悪い」と言われて警察に捜査もしてもらえず、バスや電車が定刻に着くとみんな動転し、救急車を呼んでも、「夜中にはまず応答しない。相手がやっと応答してくれて、救急車の手配を頼んでも、1時間はこない。病院に到着しても、夜中の救急室でさらに1時間は待たされる。この国では、救急車の到着を待っている間や、救急車の中で死ぬ人はちっとも珍しくない」
お金持ちは、地下鉄なんか使わず運転手つきの高級車に乗るし、自分のかかりつけの高級な私営の病院があるから、地下鉄のことも公営の病院のこともちっとも気にもかけないのです。
そして、厳重な警報装置でガードされた豪壮な屋敷に住んでいるので、貧民層の居住地に犯罪が蔓延しても、自分たちとは無関係なことだと思っています。
そのくせ、妙なところで福祉が行き届いていて、ホームレスのペットのための病院なるものがあったりします。
ホームレスの病院ではありません。
ホームレスが飼っているペットが病気になった際、無料で診てくれる動物病院で、そのペットが死んだときには、埋葬などの処理までしてくれる、というのです。
「ゆりかごから墓場まで」と言われるように、病院の治療費も教育費も無料で、失業者への手厚い保護も日本とは比べ物になりません。
しかし、外側から見ればすばらしい国に見えても、内部に矛盾を抱えていない国家はありません。
逆にいえば、このところさまざまな面で自信を失いつつある日本だって、外から眺めたら、まだまだ捨てたものでもないのかもしれません(少なくとも、電車はたいてい定刻に着きます)。
上流階級の支持を受けていた保守党に替わって、ブレア首相の労働党が政権をにぎったところで、このエッセイは終わっています。
筆者は、労働党に多大な期待を寄せていますが、その後、イギリスがどう変わったのか(あるいは、ちっとも変わっていないのか)、興味のあるところです。
ところで、筆者がハウスキーパーとして3年間勤めた家は、映画監督リドリー・スコットのロンドンのお屋敷でした。
私はリドリー・スコットの映画(『ブレードランナー』とか『グラディエーター』とか『エイリアン』とか)が好きなので、リドリー・スコットの人となりがわかって面白かった。
妙に細かいところにこだわる(ハリウッドから「月曜はゴミの日だから、わすれないように」なんて電話をかけてくる)かと思えば、3人目の奥さんのいいなり、といった一面も垣間見えて、いまや巨匠と呼んでもいいくらいの大監督が、なんだかとても人間臭く感じられました。
日高敏隆(ひだか としたか)著
法研
平成13年10月14日第1刷
この書名を見てついつい手に取ってしまったネコ好きは、目次を見てがっかりするだろう。
47篇も並んでいる短い文章の中のたった1篇のタイトルが全体の書名になっているだけだと気づくからである。
けれども、それでそのまま棚に戻してしまっては、ちょっともったいないかもしれない。
この本は、2種類の雑誌に連載された記事をまとめたもので、前半は、1篇各3ページからなる四季の博物誌、後半は、「すねる」「落ち込む」「迷う」などの行動パターンを切り口にして動物たちの生態を綴っている。
登場する動物は、ボウフラやミズスマシからムササビやゴリラまで、多種多様。
けれども、どうやら著者は実は相当ネコ好きらしい。
随所にネコが顔を出す。
もちろん、動物行動学者としての観察眼があるから、たとえば、誤って棚から落ちたネコがどんなに「落ち込む」かが、過剰に人間寄りに脚色されることなく、サラッと語られる。
その他、スリランカでは魚市場のごみはカラスがきれいに処理するのでいつも清潔だとか、ムカデは人を刺そうと思っているわけではなく何かに触れると振り向いて噛み付く習性があるだけだとか、たいていのコウモリが夏でも毎晩「冬眠」しているとか、抱卵中のカモメが卵を守ることと餌をとりにいきたい欲求との間で迷う様子とか、クジャクのメスは尾羽に目玉模様の多い(155個より157個の)オスを選ぶとか、オーストラリアのカメガエルのメスは鳴き声で判断して自分の体重の70%のオスを探すとか、タガメのメスの子殺し、ドジョウの糞が見つからないわけ、などなど・・・。
それぞれの動物が自然の中で実にうまく暮らしている。人間の感覚からすれば残酷だったり迷惑だったり狡いと感ずることもあるが、みんな生きていくために理由のあることなのだ。
・・・さて、人間もうまく暮らしているのだろうか?
トリイ・L・ヘイデン著 入江真佐子訳
早川書房
1996年3月31日初版
親からの虐待によって、子供達の大切な命を奪われるという記事を新聞で目にしない日がないくらい、問題になっています。
本書は貧困のなか、父親から肉体的、精神的に虐待を受け、心を閉ざしてしまった6歳の少女が、始めて自分を受け入れ、愛してくれる教師に出会って、心を開いていく5ヶ月間を教師自身が綴った実話です。
障害児を普通学級に組み込む努力がはじまる前年。
精神遅滞、情緒障害、身体的障害、学習障害、問題行動を起こす子供たちのそれぞれのクラスからも取り残された自閉症や強迫神経症の子供たち8人がトリイの生徒達。
そこへシーラという少女がやってきます。
シーラは決してしゃべらない、泣かない、何かをさせようとすると大暴れする、そんなシーラの閉ざされた心はトリイの献身的な愛でゆっくりとゆっくりと開いていきます。
心を開いてきたシーラは、すばぬけた知能の持ち主、素直で可愛らしい女の子であることがわかってきます、そして、母親に捨てられ、父親からは虐待をうけていることも。
トリイの愛情によって、シーラの心の奥にある氷のように冷たく大きな塊は、シーラ自身の涙で溶けていきます。
また、本書には『星の王子さま』の王子さまときつねの話がでてきます。
シーラはこの本を何度も読むうち、愛するもの同士の心の絆、辛い別れを乗り越えていくことを学んでいきます。
そんな様子がたんたんと綴られています。
シーラと正面からぶつかっていくトリイの姿はもちろん、小さな子供が自分の内心と戦い、立ち直っていこうとする姿勢に感動させられ、こちらも強くならなきゃと思わされました。
家庭という密室で行われている虐待、目に見えているだけではないことは想像できます。
そういう環境下にある子供達を心身ともに解放させてあげることの大切さ、そして虐待の与える影響の恐ろしさを感じると同時に、問題の根の深さをも感じずにはいられません。
その後のシーラについては、本書の続編として『タイガーと呼ばれた子』が出版されていますが、私はまだ読んでいません、はい。
天藤真(てんどう しん)著
角川文庫
角川書店
昭和55年1月30日初版
「虹の童子」なる刑務所帰りの三人組が、紀州在住の大富豪の老婦人を誘拐して・・・という長編推理小説。
気まぐれで始まった老婦人の持ち山歩きと、関西弁のやわらかい言葉のやりとりによって、のんびりと、可笑しさを含んで物語が始まります。
すぐに三人組も登場し、物語がどんどんと展開して行きますが、この「のんびり」「可笑しさを含む」という要素は、全編にわたって変わりなく存在するように思います。
緊迫した場面ですら、どこか、この要素が感じられて、ほのぼのとしてしまうのです。
それとまた、慈善家でもある老婦人の人徳が篤くて、県警本部長を筆頭に、老婦人の元メイド、地元テレビ局の社長や報道局長、航空会社の熟達操縦士などといった人物が、重要な役回りで登場することになります。
特に元メイドのくーちゃんは、あくせくした現代から懸け離れたキャラクターの持ち主です。
途方もなくのんびりしていて、無類の可笑しさを含んでいます。
言語的にはおかしいのかもしれませんが、着実にして奇想天外な作品です。
天藤真(てんどう しん)著
角川文庫
角川書店
昭和56年6月10日初版
ヒッピーの兵介と学生運動家の久留美。
見ず知らずのカップルが、たまたま巻き込まれることになってしまった、組織ぐるみの殺人事件。
時限発火装置の作動の遅れから、生き延びることができた徒手の若いふたりに、組織の追撃が・・・。
ヒッピーといい、学生運動家といい、死語のようにも思えますが、ふたりはまた昨今ならば珍しい、異性に対する恐怖心を抱えてもいて、それが逃避行の間に変化、氷解して行くのです。
クマンブチの弥兵衛という昔気質のおやじにしても、追撃するうちのひとりにしても、性善説的なところがあって、作品の温度を高めているように思います。
天藤真氏の急逝により、新作を読めなくなったことが猛烈に残念なのですが、中でも、この『炎の背景』には続編の構想もあったらしく、つくづく残念でなりません。
また、氏の作品は昭和50年代後半、角川文庫から次々と刊行されましたが、ほとんどが絶版になってしまいました。
現在は、創元推理文庫で読むことができます。
乙一(おついち)著
幻冬舎文庫
幻冬舎
平成14年4月25日初版
近所の書店にこの作家の本がずいぶんたくさん並べられているなあ、と思っていたら、地元の作家だということでした。
ずいぶん若い。
1978年生まれだなんて、私よりずっと息子に近い。
いや、だからどうだ、というわけではないのですが・・・。
目が見えなくなって引きこもりがちになった女性の家に、事件を起こして警察に追われている青年が身を隠し、女性はその存在に気がつきながら、知らないふりをすることにしたことから、二人の奇妙な同居生活がはじまります。
言葉も交わさず、ふれあいもせず、そこにいることを感じているだけの関係。
それは、なんだか、人間関係のめんどうな部分をどんどん削ぎ落として、自分にとって心地よい部分だけ残したら、そうなるのかな?という感じの、静かで、何も嫌なことは起こらない寄り添い方なのですが、オバサンとしては、つい、「おいおい、世の中もっと厳しいんだよ」なんて余計なことをいいたくなります。
幸いなことに、二人は、互いの存在を認めながら、存在していないふりをする、という関係を最後には捨てて、二人で外に出て行こうとするところで物語が終わっているので、ちょっと安心するのですけれど・・・。
今の若い人が、こういった、外に対して閉じた生活を心地よいものと感じているとしたら、
なんだか心配な気もします。
山田太一(やまだ たいち)著
新潮文庫
新潮社
平成5年10月25日初版
少し前、この小説を原作にしたTVドラマが放送されていました。
身長182センチの女性と163センチの男性の恋愛物語です。
ドラマでは、二人の年齢を原作よりもそれぞれ7,8歳ずつ若く設定していましたが、それでも主演の森田剛君はいかにも若い(実年齢が若いのですから仕方ありませんけれど)。
なかなか不敵な面構えが、いわくありげな開かない金庫の鍵をあける商売、という役柄にあっていて、ドラマだけ見ているぶんには悪くなかったのですが、物語は、お互いに惹かれながら、身長差を埋められずにいる男女の恋愛を描いているのに、森田剛君なら、そんなもの軽々と飛び越してしまえる若さとエネルギーを持っていそうで、ちょっと違うな、という印象でした。
原作の、主人公達の32歳と30歳という年齢は、だから、それなりの意味があるのだと思います。
好きだ、というだけで、ほかのことは何も目に入らなくなってしまうほどにはもう若くはないのです。
わざわざ20センチも背丈の違う相手と結婚しなくたって、自分につりあう相手は探せばいくらでもいるじゃないか、二人で並んで歩いているだけで周囲の好奇の目にさらされることも意に介さず、自分たちの世界に埋没できるほど、もう若くはない、そんなことをついつい考えてしまうから、あと1歩がなかなか踏み出せません。
身長差の問題に加えて、結婚することによって失うであろう、孤独だが自由な生活への未練だとか、面倒な人間関係から距離をおいていたいと思いながら、家族をはじめとする、自分たちを取り囲む面倒なあれやこれやを無視することができないことなども丁寧に語られていて、山田太一さんというのは、そういうところを描くのがほんとうにうまいのです。
30を過ぎた者同士の恋愛は、周囲が見えすぎ、同時に自分の心の内も分析できすぎて、なかなか溺れることができないもどかしさがあるようです。
「つまんないなあ、どっちも分別があって」
瑛子さんの台詞が、すとんと胸に落ちてくるのは、やはり私が、もうちっとも若くない、ということなのでしょう。もっとも、私は未だに、あんまり「分別」とは親しくないのですが・・・。
分別がある、というのは、ときにはいくらか物悲しいものでもあるようです。
佐藤多佳子(さとう たかこ)著
新潮文庫
新潮社
平成12年6月1日初版
若手の落語家のところに、ひょんなことから何人かの人間が「しゃべりかた」を習いにくることになります。
うまく指導ができないテニスの指導員やら、解説の下手な野球の解説者やら、誰に対してもつい可愛げのない口をきいてしまう若い女性やら・・・。
彼らに共通しているのは、適度な距離の人間関係を築いていくことが苦手、すんなりと人の中に溶け込んでいくことが、とても下手な人たちだ、ということです。
我をはる、素直でない、といってしまえばそれまでですが、彼らはむしろ非常に真摯に物事を考えすぎてしまう、人との距離の取り方をいいかげんにできない人たちなのです。
「しゃべりかた」といっても、先生役を引き受けたのが、落語家ですから、紆余曲折を経て、彼らは、落語を一つ覚えて、それを人前で披露することになります。
同じ作者の『イグアナくんのおじゃまな毎日』(この本は点訳データがあります)もそうなのですが、この作家の作品に登場する人たちは、とても不器用な人が多くて、『イグアナ』に登場するお母さんとお父さんも、娘への愛情の示し方がひどく下手です。表面だけをみると、実に手前勝手な父と母のようにも思えますが、実は二人は、娘に対してどう接したらいいのかわからなくて、おろおろしているだけのようにも見えます。
『しゃべれども・・』の十河さんも、まったく素直でない。口をひらけば、憎まれ口ばかり。
でも、ほんとうの自分をわかってほしくて、三つ葉さんの「しゃべりかた教室」に通ってきます。
あたりさわりのないことを言って、「円滑」に人間関係を築いていける人もいますが、不器用すぎて、ハリネズミのようにならないと自分自身を守っていけないひともいます。
自分に正直であろうとすると、ひとを傷つける、ひとを傷つけまいと思うと、孤独にならざるをえない。
すいすいと世の中を渡っていける人には、理解しづらい心情かもしれません。
物語の背景は「落語」です。
落語を知らなくても面白い物語ですが、知っている人には、また別の面白さがあると思います。
飴屋法水(あめや のりみず)著
にこにこブックス 13
筑摩書房
1997年6月20日初版第1刷
なかなかスゴイ本である。
著者は、犬猫以外の動物、殊に珍獣といわれる動物を主に扱っている動物商。
カバーや帯には、「見れば見るほどおかしな珍獣の、初心者のための入門書」とか、「今までの飼育書には書いてないコツ満載」などと書いてあるが、それはまあ、部分的には間違いではないにしても、そんなことでは済まされない内容である。
個々の動物の飼育についてのアドバイスももちろんあるが、それ以上に読み応えがあるのが、もっと基本的な部分、動物に向き合う姿勢や人間の生き方に関してズバリと斬り込んでくるメッセージである。
動物を金で買うのは人身売買に近い、とか、種の保存はなぜオスとメスの交配でなされるのか、とか、動物の値段とは何か(100万払って買っても三日で死ぬかもしれない)、とか、さらに、人間が自然の一部として生きるとはどういうことか、というような、かなり根源的で重大なコトが、読んでいて何度も吹き出してしまうような口調で、きわめてわかりやすい比喩を交えて語られている。
動物商とは、「ある意味では、夢を売るような仕事である」けれど、また、「せっかく抱かせた夢をぶちこわすというか目を覚まさせるというか、現実にちゃんと向かい合わせる」仕事でもある、と言う。
動物の飼育は、カワイイとかカッコイイとかいう夢みたいな気分だけではどうにもならないからだ。
「ウサギは、ほんとアッという間に大きくなる。もし子ウサギしかカワイイと思えないとすると、最初の2〜3カ月を過ぎたら残り5〜6年カワイクないウサギの世話を毎日するハメになる(実は正直、そうなっちゃってる飼い主を、いっぱい知ってる)。だから、大きい状態でちゃんと見て、それでもウサギってカワイーと思える人だけがウサギを飼えばいいのだ。」
「サルのおそろしさを知らない人は多いが(中略)屈強な男であっても本気で怒ったチンパンジーと戦って勝てる人はいない。ヘタすりゃ殺されます。そして知能が高い、人間に近いということは、人間並みに危険でもあるんです。」
「相手が野生動物の場合には、かまれる事態はベーシックに念頭にいれておくべきだ。(中略)普段なれていてもパニックにおちいれば突然かむ。」
「乾燥地に住んでて、普段あまり水を飲まない動物が下痢をおこすと、やっかいである。下痢をすれば、体は脱水症状をおこす。そうすると、水分を飲ませるしかないのだが、普段飲みなれない水を飲むことで、よけいに下痢をおこす・・・。悪循環である。(中略)動物は、人間のミスや身勝手に対して、すぐに死亡という形で返事しちゃうのだ。」
「基本的に、動物は芸なんかしない。する必要もない。飼ってたからといってメリットなんか一つもない。基本的に、食ってクソして寝るだけだ。ただただ、生きてるだけである。ただただ生きてる、ということに愛情を持てるかどうか。その動物を飼ってて楽しいかどうかはそれで決まる。」
・・・というようなことをきちんと心得て動物を飼わないから、多くの不幸が起こるのだろう。
動物を、特に野生動物を飼う、というのは、リセットのきかない事柄であり、結婚や子育て同様、あるいはそれ以上に覚悟の要ることなのだ。
そういうシビアな覚悟を迫る一方で、うまくつきあえたときの幸福感がひしひしと伝わってくるし、動物たちの挿し絵のとぼけた味がなんとも楽しい。
角山栄(つのやま さかえ)著
中公新書
中央公論社
昭和55年12月20日初版
最初に読んだのは、20年も前ですが、今でも版を重ねているらしく、書店でときどき見かけます。
かなりのロングセラー。
内容はタイトル通り、お茶を通してみた世界史、ということになるのですが、この本は、私に教科書には書いていない歴史の面白さを教えてくれた本です。
近世まで、中国・インドなどアジアの諸国は、文化・経済その他さまざまな面において、ヨーロッパを圧倒していました。
産業革命前のヨーロッパは寒冷な気候の貧しい国の集まりで、アジアにある、ありとあらゆるものが憧れの的でした。陶器・織物・香辛料、そしてお茶。
反対にアジア諸国は、ヨーロッパの文物でとくに欲しいものはない、という豊かな地域だったので、当然のことながら、ヨーロッパ側の極端な輸入超過になり、その打開策としてイギリスは中国にアヘンを持ち込み、中国をアヘン漬けにして最後にはアヘン戦争によって、力関係を一変させてしまいます。
また、イギリスに爆発的に起こった紅茶ブームは、紅茶に入れるための砂糖の需要を急増させました。
その結果、西インド諸島での砂糖プランテーションが拡大し、そこで労働させる黒人奴隷を確保するため、イギリスでは国をあげて奴隷貿易を振興させていくのです。
アフリカの西海岸では、当時東インド会社の目玉商品として、多くの黒人奴隷が「輸出」されていました。
イギリスの上流社会の貴婦人達が、お茶会を開く際の紅茶に入れる砂糖を生産するため、というのがその主たる目的のひとつだった、というのは、たかがお茶、たかが砂糖とはいえない、歴史の暗くて重い一面です。
中世から近世にかけての、ヨーロッパがアジアを経済的・軍事力的に凌駕していく過程と、そのやりくちの強引さ。
そして、日本人が文化として育ててきた「お茶」が、世界経済の中に取り込まれていくうちに、「文化」から単なる「商品」になってしまったことへのいくらかの無念さも含めて、私たちが日常あたりまえに飲んでいるお茶が、多くのことを教えてくれます。
黒崎緑(くろさき みどり)著
創元推理文庫
東京創元社
1997年1月31日初版
シャレ混じりの大阪弁で会話を進める保住君と和戸君のくだらないおもしろさがおかしくてたまらない。そして、もう事件が解決したにもかかわらず、おかしな会話がまだ続くのだから、なおさらおかしい。
また、最初の方の、その時にはどうでもいいような会話が、ストーリーの最後になって、実は事件のカギをにぎる重要なヒントだった、という驚きも大きい。
「おまえは気がつかんかったか。おまえによう似たウェイターも、いたんやけどな。鼻が上向いてて、歯が出てて、顔がぐちゃっと崩れてて、日本語が無茶苦茶なところも、おまえとよう似てた・・・。」という保住君の言葉が、のちの分身騒動の重要なヒントにつながったのもそのひとつだろう。
推理小説だけれども、何も考えずに読んでもおもしろい。
為になる本ではないけれども、ボケが大好き、という人は、読むべし。
ライアル・ワトソン著 内田恵美訳
ちくま文庫
筑摩書房
1994年6月23日初版
細胞というのは、空気中では生きられないので、人間の身体の一番外側にある細胞、つまり皮膚であるとか髪であるとか爪であるとかは、みな死んだ細胞の集まりなのだそうです。
本文にも書かれてあるように、「・・・わたしたちの体は文字どおり死に覆われていることになる。外から見えるところには生きた細胞はひとつもない。それでも、周囲の友人たちは、死んでいる部分以外は何も見えないにもかかわらず、わたしたちは生きていると考えたがる」。
生きている人間は、つねにその身体の何パーセントかは死んでいなければ、生きていられないことになります。
通常「死」というものは、ある瞬間に医者が「ご臨終です」と告げたときなどに、唐突にやってくるものと考えがちですが、ひょっとして、「死」と「生」はいつも生物の身体の中に量的なバランスを保ちながら共存していて、「私、今30パーセントくらい死んでるのよ」とか「いまのところ、80パーセントは生きてるよ」なんて言うのが正しかったりするんじゃないか、というようなことを考えてしまう本です。
著者は、「死を診断することは不可能であり(中略)、生と死はほとんど区別がつかないほど互いに入り混じって」いる、と言います。
臓器移植に関連して日本でも脳死の問題が取り沙汰されている昨今ですが、「死」というものは、脳死だとか心臓死だとかいったものでは説明しきれない、はるかに複雑なものであるようです。
死んだ当人が、「私、充分に死にましたから、臓器を誰かに差し上げてください」と言えるといいのですが・・・。
いちばんトラブルが起きなくてすみそうです。
欧米で、臨床死を充分に確認できなかった昔、埋葬されたあと息を吹き返して、せっかく生き返ったのに、墓の外に出られず、たくさんの人が棺の中で窒息死していた、というのはとても怖い話です。
「死」が100パーセントになったら、お棺に入れてくださいね、生き返ってから焼かれるのもいやだから。
スコット・スミス著 近藤純夫訳
扶桑社ミステリー
扶桑社
1994年2月28日第1刷
思いがけず持主のわからない大金を拾った3人の男たち。
どういう事情のお金かわからないので、半年間は手をつけずに様子をみて、半年経ったら、山分けしようと決めます。
しかし、いくらもたたないうちに、互いが信用できなくなってきて・・・。
主人公は、まわりにいる人々全員が、自分たちの秘密を知っているのではないか、一緒に金を拾った仲間が、誰かに話すのではないか、と、どんどん疑心暗鬼にかられていきます。
その過程がとても怖い。
彼はその秘密を守るためにつぎつぎと殺人を犯していくことになるのですが、読んでいる私たちは、殺す必要なんてまったく無い、ということを知っているだけに、また、その金さえ手放してしまえば、彼を捉えている恐怖感から解放されることを知っているだけに、「どうして、そこまでやるんだ!?」と叫びたくなります。
数年前映画化されました。
映画もおもしろかったのですが、克明な心理描写は、小説の方がやはりまさっています。
中西亮(なかにし あきら)著
同朋舎出版
1994年4月25日初版
著者は、印刷業を営むかたわら、110カ国をこえる国々を旅し、文字資料を集めてきた。
その文字と旅とについて雑誌・新聞に掲載した短い文章を1冊にまとめたのが、本書である。
ひとつの文字について、写真を含めて4ページという分量なので、文字そのものの詳しい解説がされているわけではないが、その文字のもつ歴史的背景、それを使う人々の暮らし、あるいは政治的状況などが簡潔に語られていて、読みやすく、興味深い。
母音字を持たず子音字22字からなるヘブライ文字、侵略と迫害の逆境にありながら文字に民族の連帯をこめて筆写することにより古代ギリシャ文化を近世ヨーロッパに引き継いだアルメニア写本、「書いた人以外には絶対読めないのが唯一の欠点だ」といわれるインドのランダ文字、紙を90度まわせば縦書きにも横書きにも読める中国・雲南のイ文字、テープ状に長くはりあわせた椰子の葉に物語の終わりまで1行で書くインドネシアのブギス文字・・・。
現在多くの国で使われている横書き文字は左から書くが、アラビア文字などは右からであり、ギリシャ人は一時、1行目は右から、次の行は左から、と交互に書いていたし、縦書き文字にも右から左へ行が進むものと、左から右へのものがあり、さらには、下から上へ書くものも・・・。
興味は尽きない。
そして、それらの文字資料を求めての旅も、安全・平穏な旅ばかりとは限らない。
カメラを向ければ銃弾が飛んでくる地域もあれば、時刻表の予定より12時間も早く飛行機が出発してしまう国もある。
世界にはほんとうにさまざまな人々の歴史や暮らしがあり、生きていくための闘いがあり、それぞれの文化が生まれる事情があり、文字もまたその事情の中で発生し、あるいは制定され、場合によっては押しつけられてきた、ということを、改めて思い知らされる。
しかし一方、ジャワのカヴィ文字についての記述の中に、「ほとんどの古代文字と同じく、カヴィ文字も詩を書くために造り出された」とある。
人間の営みは一筋縄ではいかない、という思いを強くする。
三浦哲郎(みうら てつお)著
新潮文庫
新潮社
昭和57年2月25日初版
わざわざ言うまでもないのですが、僕はまだ(?)浮気をしたことがありません。
浮気とはそもそも何か。
何をきっかけにし、どういう経過をたどり、どのような結末を迎えるものなのか。
経験がないながら、入り口こそあちらこちらにあっても、結局、同じようなところを通ることになってしまい、出口はひとつしかないのじゃないかと思っています。
ちょうど、いくつも支流を集めた「川」のような感じかな。
さて、この小説でも、雑誌記者の清里は、同じ出口、それもあまりに衝撃的な出口に出てしまいました。
軽妙な筆致ですらすらと読めてしまうだけに、その衝撃には、気持ちよく川下りをしていたら、いきなり「滝」に落とされた、なんて気がするはずです。
そう言えば、物語は、急流にかかった吊橋から始まります。
浮気というのは、川に浮いている気分のものなのかもしれませんね。
三浦哲郎(みうら てつお)著
朝日文庫
朝日新聞社
1993年11月1日初版
家族構成からして、何の変哲もないのです。
小説家の馬淵に、妻に、娘が三人、飼犬が一匹。
川べりの、どこにでも建っているような家が住まい。
大事件が起きるわけでもなく、どんでん返しが待っているわけでもありません。
ただ、日常の暮らしぶりと、その積み重ねから誰もが抱えるようなできごとが丹念に描写されただけの小説です。その「だけ」というところが、いいのです。
三浦哲郎氏の文庫のカバーには、司修さんのデザインによるものが多い。
それも、左向きの顔だけを描いたものが多くて、この『素顔』も、『愛しい女』も、そのひとつですが、とりわけ、『素顔』の場合、色鉛筆によるデッサンだけで済まされています。
その素っ気なさに、かえって誰の顔でも当てはめることができますし、同じことが言えそうな小説なのです。