本の中の図・絵・イラスト・マーク・記号の類は、点訳するうえでどう扱うか、悩みのタネになることが多いものです。
「図」が主体の本であれば、今はパソコンで点図を描くこともできますし、切り貼りなどをして、手作りの図を作ることもあるし、また、立体コピーとかサーモフォームとか、作図の方法はいろいろあります。
やっかいなのは、文章中に書き込まれている記号であるとか、わざわざ点図にすることもないけれど、それについてなんらかの説明がほしい、というものや、点図にしたとしても、内容を伝えることは難しいだろうと思われるような場合です。
そういったものは、点訳者が、点訳者挿入符などを用いて、言葉で説明しなくてはなりません。
最近若い人向けの本でよく見るのは、感情や気分を記号的なものであらわす、というもの。
「愛してる」のあとにハートマーク、「やったね」のあとに星マークだったり、「ルンルン」のあとに音符が並んでいたり、かと思うと、何かうまくいかないことがあったことを「それって、×だよね」とか、楽しい話の文末にピースマークがついていることさえあります。
メール通信に使われる顔文字も、本の中でよく見かけるようになりました。
パソコンを使って文章を書くことが一般的になって、そういった記号類を簡単に文章に挿入できるようになったせいもあるのかもしれません。
また、記号ではありませんが、何か面白いことを言ったあと、(爆)なんて書いてあるものもあります。
笑えそうなことを書いたあとに(笑)と書くことあるのと同じようなつもりで、「爆笑」と言いたいのだと思いますが、点字で「バク」と書かれても、面食らう方が多いのではないでしょか?
泣ける話題のときは(泣)になっていることもあったりして、いったいどう点訳していいのやら・・・。
「爆」や「泣」は漢字ですが、それを実際にどう読むか、ということよりは、その字面で気分を伝えるという使われ方で、そういう意味では、ハートマークや顔文字の使われ方と共通しているように思います。
なんとしても読まなくてはならない仮名点訳の世界では、どちらにしてもやっかいな存在です。
顔文字など、それを言葉でいちいち説明することがどれほど必要か、疑問に思うこともありますし、「泣いている顔文字」なんて説明を入れても、かえって興をそぐだけのようにも思います。
その記号がなければ意味が通じないようなものは別ですが、文章で充分説明されている、と判断できるところは、記号の説明があると、かえって煩雑になることもあるので、省略することも考えます。
最近の本の傾向として、読む、というより、見る、ということを主眼にしたものが目立ちます。
雑誌などでも、写真やイラストを多用し、文字の大きさや字体もさまざまに変えて、まず目を引くような紙面にする。
何が書いてあるかより、どういう雰囲気か、ということが、重要視されているようです。
多数の写真とイラストの合間に、あちこちに散らばって、様々な大きさや字体の文章が載っていたりすると、どういう順序で点訳していったらいいのか、わからなくなってしまいます。
料理の本などでは、順番に写真が載っていて、説明のところには「写真のような手順で・・・」なんて書かれてあったりします。
写真が載せられない点訳書では、その「手順」をどうにか言葉で説明しなければなりません。
「左のようにして、小さじ2分の1を量って・・・」という文章の左側に「小さじ2分の1」の量り方を描いたイラストがあるのですが、イラストを見れば一目瞭然でも、いざ言葉にするとなると「小さじに盛った砂糖を、ヘラなどを使ってすりきりにし、そのまん中にヘラをいれて半分に・・・」なんてことになってしまいます。
「ハンバーグは写真のような要領で形よくまとめ・・・」なんて書いてあると、もっとちゃんと説明してよ、と筆者に恨み言を言いたくなります。
「○○とはこのようなものです」と書いてある横に、その○○のイラストが書いてあるなんていうのも、ときどきお目にかかるのですが、「このようなものです」の一言で片付けられても、こちらはどう説明したものか、途方にくれます。
点訳者がその○○について詳しい知識を持っていない場合、著者の意図通りの説明ができるか、間違ったことを言ってしまうのではないか、とても心配ですし、そもそも著者の意図など、イラストを見ただけでは、わかりようもありません。
最近のこういったビジュアル化の傾向を反映して、先ごろ改定された「点訳のてびき第3版」では、新たに、マーク類の書き表し方についての項目が追加され、必要に応じてマークの形を言葉で説明したり、あるいは、本文で理解可能なものは、省略してよいことになっています。
しかし、言葉での説明が比較的簡単な図柄や、説明を省略できる場合はいいのですが、いつもそう点訳者に都合のいい図や絵ばかりであるとは限りません。
点訳者が説明しなければならない部分が増えると、その点訳者の解釈の仕方・理解力などが、問題になってきます。
顔文字を「笑っている」とか「困っている」と表現したり、(爆)を「爆笑」と言い換えるくらいはかまわないでしょうが、写真や図の内容まで点訳者が説明しなくてはならないとなると、ときには荷が重いこともあります。
しかし、なんの説明もしなかった結果、肝心の中身がまったく伝わらないのでは、点訳する意味そのものが失われてしまいます。
原本の内容に影響を与えない範囲での、最低必要限度の点訳者による説明は、やはり必要だと思います。
視覚にうったえる出版物が多くなっている昨今、点訳能力と同時に、点訳する人間の説明の能力まで問われていると考えると、ちょっと怖いものがあります。
簡潔に、主観をまじえることなく、過不足なく説明を加える、というのは、実はとてもむずかしいことなのではないか、と思うこともあります。
とはいえ、せっかく点訳するのですから、なんとか原本の内容と雰囲気を、できるだけ読み手に伝えたい、とも思うのです。
中国・朝鮮の地名・人名などをどう読むかは、むずかしい問題ですね。
歴史的な経緯があって、単なる点字表記だけの問題ではないことは、重々承知しているつもりですが、それでは、どうするのがいいのか・・・。
長い歴史や習慣もあり、簡単に線を引けないことであるだけに、放送に携わる方々も、音訳の方々も、ご苦労のあることと思います。
今、学校の教科書では、いわゆる現地読みにする傾向が強いのですが、それがなにか中途半端なので、あるいは、どこまでという範囲の基準が読み手に伝わってこないので、点訳にあたっても戸惑うことばかりです。
朝鮮については、現在の地名・人名はもちろん、歴史的なものでも、たとえば百済、新羅、高句麗、高麗は、ペクチェ、シルラ、コグリョ、コリョとルビがふってあって、(くだら)、(しらぎ)、(こうくり)、(こうらい)と付け加えてあります。
次からはルビなしで出てくるので、日本読みで習った点訳者としては、うっかり日本読みにしてしまわないように、気を確かにもっていないといけません。
でも、高麗のあと、李氏の朝鮮王朝になると、チョソンとはふっていないので、多分、「ちょうせん」と読ませるつもりなのでしょう。
それは新羅や百済と同じように国名なので、バランスを欠くような気もします。
そうなると、大韓民国にしても、朝鮮民主主義人民共和国にしても、日本読みでいいのか? ほんとにいいのか? という感じです。
ある教科書は、巻末の事項索引には両方の読みで出していますが、人名索引には現地読みだけです。
この微妙な扱いの違いは何なんだろう? とか、余分なことを勘繰ってしまいます。
江華島事件の江華島は、主たるルビはカンファドになっています。
つまり、「島」も固有名詞に含まれるという考え方なんですね。
じゃあ、「事件」はどうなんだ? そこまで含めて固有名詞じゃないのか? 三・一独立運動はなんて読むんだ? などと、だんだん疑い深くなって・・・。
もし、漢字圏だけのことではなく、どこについても同じように現地読みを尊重し、しかも固有名詞部分を広く解釈するというのなら、ミシシッピ川とかアラビア半島とか言えなくなってしまうし、地中海だの喜望峰だなんてとんでもない! アメリカ合衆国とかイギリスなんて国名を使ってもいいのか? ましてや米国だ英国だなんて・・・とか。
中国についても、教科書は孫文、毛沢東を、スンウェン、マオツォトンと読ませています。
それはそれでいいのですが、じゃあ、どこまでそうするのか?
近・現代については現地読みにしましょう、ということなら、現在のマスコミが日本読みにしている江沢民や李登輝なども現地読みにしないとバランスはとれませんね。
もし、時代的な限定がないとするなら、孔子や李白や杜甫も? タン(唐)の都チャンアン(長安)でシァンゾン(玄宗)がヤングェフェイ(楊貴妃)と・・・ということになるのかなあ? ・・・と疑心暗鬼。
放送の世界では、相互主義(相手国で日本の固有名詞をどう読んでいるかでこちらの読み方も決める、ということのようです)によって、朝鮮関係は現地読み、中国関係は日本読みにしているとうかがったことがあります。
では、それに準じて、と思っていたのですが、学校で使っている地図帳などみると、中国の地名も現地読みです。
従来も、北京、南京、上海、香港あたりは、なぜか、何があっても日本読みにはしませんでしたよね。(もちろん、「ペキン」というのだって決して中国で通じる発音ではないでしょう。「ホッキョウ」よりは似てるかな、という程度で・・・。いずれにしても、外国語の音を、日本の字で表そうというのが所詮無理なのですが)
それらの地名については、字と同時、あるいは字より先に現地読みが伝わったからでしょうか。
頻繁に往来があって、いつも新鮮な発音が伝わっていたからでしょうか。
でも、よく考えると、そもそも漢字の音読みは中国音を写しただけなのだから、日本読みと現地読みが違うというのがおかしい、などと八つ当たりぎみの気分です。
長い長い時間の経過と、伝言ゲームのなせる技、ということなのでしょうか。
いろいろ考えていると、ますますわけがわからなくなってきます。
ケースバイケースの部分はあるにせよ、点訳グループとしての基本的な姿勢は定めておかなければならないでしょう。
今後の検討課題です。
とりあえず、現実的な緊急の問題として、「2002プロ野球選手名鑑」の韓国人選手の出身校や球団名は現地読み風にしてみましたが。
パソコン点訳が普及したおかげで、点訳物の数は飛躍的に増え、しかもデータがひとつあれば、点が摩滅して作り直さなければならなくなっても、いちいち打ち直すことなく、何度でも、何冊でも、同じ物を印刷することが出来るようになりました。
またインターネットの使用が広がったことで、どこに住んでいても、データを取り寄せることも可能になりましたし、点訳する側も、これから点訳しようと思っている本がすでに点訳されていないかどうか、検索して調べることも、ある程度可能になりました。
ほんの10年ほど前まで、ほとんどの点訳者は、点字板と点筆を使って、紙の上に、一点一点打って、点字書を作っていました。
一冊の本を作るのに、半年、一年、ときには何年もかかり、打ち損じた箇所を直すのも、もちろん、パソコンのようにキー操作ひとつで「削除・訂正」というわけにはいきませんでした。
私など、初めて手打ちで点訳した本の最初の1ページを、なんと八回もやり直しました。
なんどやっても間違えてしまって、使い物にならないので、八回同じものを打ち直したのです。
それを考えると、パソコンの画面上で、全ての点訳作業が出来てしまう現在は、ほんとうに楽ですし、手打ちをやっていたころ、私は死ぬまでに何冊の本を点訳できるだろう、と考えていた、その数をはるかに越える点訳物を、すでに出来上がらせてしまっていることに、今更ながら驚きます(手打ちで自分に出来るのは、せいぜい五、六冊だろうと思っていたのです)。
パソコン点訳では、画面で墨字を見て点訳することが可能ですので、晴眼の点訳者は、墨点字より、墨字画面を見て点訳している人が多いのではないかと思うのですが(もちろん、画面上でも、常に墨点字を見ている、という点訳者もいるかもしれません)、今は点訳ソフトも良いものができて、仮名だけでなく、点字特有の記号類も比較的きちんと画面に表示されますし、打ち方も6点打ちだけでなく、普通のワープロのように、ローマ字で入力することも可能です。
こうなると、点字の読み書きはできなくても、点訳のルールを知っていれば、少なくとも、パソコンでなら点訳は出来てしまう、ということになりそうです。
マスあけや、記号類の使い方、仮名遣いの方法等、知っていなければならないのは、ルールであって、点字そのものではない、と言ってもあながち間違いでもなくなってきているのです。
いや、それどころか、今ではかなり精度の高い自動点訳ソフトもできていて、ワープロ入力したテキストデータを、そのソフトで読み込ませると、自動的に点訳してくれる、ということも可能になっています。
もちろん、自動点訳ソフトを使ったからといって、それで即点訳が完成する、というほど、日本語の点訳は単純なものではありませんが(自動点訳のあと、かなりの修正を要求されます)、それにしても、今や点字の形をひとつひとつ覚えておかなければならない時代ではなくなってきているとは言えるかもしれません。
すでに、グループによっては、点訳の講習会などを開く時、いきなりパソコンから入る、というところもあるようです。
大事なのは、最終的に良い点訳物ができあがることであって、それを作った人間が、点字の読み書きができるかどうかは、少なくとも読み手には関係のない話と言えます。
そういう状況を考えると、今後、点字が読めない・書けない点訳者も増えていくことでしょうし、点訳という作業でありながら、「点字」という文字とは無縁のところで行なわれる、ということにもなっていくかもしれません。
多くの点訳者、ことに点訳歴の長い点訳者は、どんなにパソコン点訳が普及しようと、とにかく最初は、手で打つことからはじめるべきだと考えています。
紙の上に一点一点打つという作業を抜きにしては、点字を覚えたことにはならない、点字の形や点と点の間隔なども、手で打つことによって、そしてそれを読むことによって、体得できる、と多くの点訳者は思っているのです。
それは、点字ユーザーが触読している感覚を、多少なりとも理解することにも繋がるかもしれません。
しかし、非常にドライに考えれば、そういったことも、良い点訳物を作る、ということとは、あまり関係がない、と言えます。
誰が、どういう気持で、どんなプロセスで、どういうふうに点訳しようと、読み手に届くのは、出来上がった点訳物だけであり、それを点訳した人の点字読み書き能力など、まったく無関係です。要求されているのは「点字」の能力ではなく、「点訳」の能力なのであり、出来上がったものが読むに耐えないものであれば、どんなに点字の一文字一文字を上手に読んだり打ったりできる点訳者が点訳したものでも、意味はありません。
点訳をどのように習得していくか、さまざまなアプローチのしかたがあると思います。
手打ちを省略して、いきなりパソコンから入っていく、というのも、ひとつの方法であり、手打ちの経験を持たない点訳者・点字の読み書きの出来ない点訳者を、絶対に認めない、というのも、偏狭な考え方でしょう。
私自身は、点訳者も、点字が読めないよりは読めるほうが何かと便利で、街なかの点字案内なども読めるし、点字ユーザーと手紙や葉書などのやりとりもできて、なかなか楽しいと思っていますが、しかし、点訳物を作る、ということに関して言えば、それがどういう過程を経て出来たかは、あまり問題にしなくてもよいのではないか、と思っています。
読めなくても書けなくても、「点訳」はできる、と言いうるのなら、それはそれでひとつの姿勢です。
点訳物の校正の過程では、点字が読めないと困ることも多いのですが、自分は入力だけ、校正はしない、とわりきって点訳作業に関わる方もいるかもしれません。
点字を読んだり書いたりする気はないけれど、ワープロは打てるので、テキストデータの入力ならやってもいいですよ、という人がいるのなら、大いにやってもらいたいし、それに対して、点字が読めなくては絶対にだめだ、という人はいないでしょう。
点訳という作業が様変わりしていく中で、そのプロセスにおいて、必ずしも点字の読み書き能力を必要とされないパートも出てきているのです。
晴眼の点訳者の点字の読み書きについては、いろいろな意見があると思います。
所属しているグループの方針によっては、かならず手打ちからはじめて、点字の読み書きを身につけなくてはならないということもあるでしょう。
しかし、自分がどのように点訳に関わっていくかは、最終的には自分自身が決めるべき問題だと思います。何が何でも点字の読み書きができなくてはならない、と思い込む必要もないでしょう。
でも、せっかく「点訳」という作業に関わったのなら、自分でも読んでみよう、打ってみよう、という好奇心をもってみると、点訳作業はより楽しいものになると、私は思っています。
点訳にとって「マスあけ」と並ぶ大問題が、漢字の「読み」です。
晴眼者が読み書きするのは漢字かな混じり文ですが、一般に使用されている点字は1種類のかなだけでできているので、漢字部分はすべてかなにしなければなりません。
自分たちの母語であり、毎日使っている日本語なのだから、よほど専門的な本でないかぎり、普通に読めるでしょう・・・と思ったら大間違い。学校時代の国語の成績なんかとはまったく関係なく、読めない字はいっぱいあるのです。
いわゆる難しい字は、辞書を引けばわかることが多いのですが、小学校で習うような簡単な漢字に落とし穴があるのです。
たとえば、「側」という字。音読みはソク、訓読みはソバとかカワ、ガワですね。「入り口の側に立って」という文では何と読むのでしょう? 「入り口のソバ」も「入り口のガワ」も、どちらもありそうですね。立っている場所は同じかもしれない。でも、どちらに読むかで微妙に意味合いが違います。
「方」という字は小学生でもしっている字ですが、2人の人物について話しているくだりで、「若い方の方」という文がありました。「若いホウのカタ」なのか、「若いカタのホウ」なのか、どうでもいいと言ってしまえばそれまでですが、書き手は何と読んでほしかったのかな、と考えてしまいます。
目で読む者は、そのへんを曖昧なままにして先へ進んでしまえるので、敢えて真剣に悩んだりしませんが、何としてもかなに置き換えなければならない点訳では、読者の解釈の幅を点訳者が狭めてしまうことになるので、あまりいい加減にはできません。
多くの書き手は、当然のことながら、そこまで考慮せずに、書いていらっしゃることでしょう。表意文字である漢字の強みですから。書き手がルビをふってくださるとありがたいのですが、こういう簡単な字にルビがふってあることは、まずありません。
漢字を見れば一目瞭然なのに、口に出して読むのは難しい、というか、普段あまり耳にしない、という言葉もあります。
横浜に帰ってくるという意味で「帰浜」と書くようですが、読みはキヒンでいいですか? 横浜のカタは、よく使われるのでしょうか?
「小悪魔」はコアクマですが、「小妖精」となると何と読むのがいいのか・・・。漢字を見ていれば、とてもよくわかるのですが。
ギヒと打って失敗したこともあります。野球で犠牲フライのことを「犠飛」と書きますね。特に、新聞などでスペースが限られている場合にはよく使います。目では見慣れているので、ついそのまま打ってしまいましたが、考えてみると、あまり口に出して言う言葉ではなかったらしく、わかりにくかったようです。「捕邪飛」なども、そのままかなにしてはまずいのでしょうね。「キャッチャーへのファールフライ」と読むんでしょうか?
複数の読みがある言葉はたくさんあります。読みによってまったく意味が違ってしまう言葉もかなりあります。その言葉の読みをひとつも知らなければ、はじめから辞書を引くので却って安全ですが、なまじひとつだけ知っていると、当然のようにそう読んでしまいます。他にもあるかもしれないぞ、とは、なかなか疑えないものです。
「大番頭」は商家では番頭さんの中でいちばん上の人ですが、オオバンガシラと読めば、幕府の役職です。間違えると話がよくわからなくなります。
舞台役者が「上手に引っ込んだ」というとき、カミテなのか、ジョウズなのか、判断が難しい場合もあるでしょう。
「仏文専攻」というのをてっきりフランス文学だと思ってフツブンと読んだら、実はブツブン、仏教文化だったというようなこともあります。
いろいろなことをよく知っている人、読書経験の豊富な人は、複数の読みを知っていて、別の可能性を疑えます。ですから、そういう幅広い知識は大切なのですが、なにも、ひとりで何もかも知っている必要はないのです。人によって、興味の方向やこれまで歩いてきた道はいろいろですから、知っていることの範囲も様々です。三人寄れば・・・、と言うように、点訳者はひとりでも、校正の過程で複数の人の目を通すことで、多様な知識や経験が集められ、生かされます。
校正というのは、単に間違いを正すだけでなく、こういう解釈もある、こんな読みもありうる、別の表現もできる、と、いろいろな角度から意見を出し合い、検討する場でありたいと思っています。そうやって、みんなの知恵を結集することで、ひとりだけでする点訳で陥りがちな思い込みや独断、あるいは知識不足をいささかなりとも避けられれば、と思うのです。
グループで点訳に取り組むことの大きな意味のひとつは、このことではないでしょうか。
点訳作業をするうえで、ほとんどの点訳者の頭を悩ませるものは、「マスあけ」です。
点字には、漢字やカタカナに相当するものがありませんので、点字を読むということは、晴眼者がひらがなだけの本を読むようなものです。日本語の文章は、漢字・カタカナ・ひらがなが適度に交じり合うことによって、英語のように単語ごとに区切らなくても、かなり長い文章を、意味をつかみながら読むことができます。
なぎなた読みというのをご存知でしょうか?
「弁慶が薙刀(なぎなた)を持って刺し殺したとさ」を、「弁慶がな、ぎなたを持ってさ、し殺したとさ」と読んでしまった、という笑い話からできた言葉だそうですが、文章を正しい位置で区切らないことから起きる読み間違いのことです。私たちがこの文章を、読点や区切りがなくても、概ね意味をつかんで読むことができるのは、要所要所に漢字が入ることによって、意味の理解を助けてくれるからだと思います。
これが、ひらがなだけだったら、どうでしょう?
「べんけいがなぎなたをもってさしころしたとさ」
たいへん読みづらいですね。
点訳は、普通の文字(これを墨字といいます)で書かれたものを、点字に置き換える作業ですが、原本の通りに文章を続けてしまったら、とても読むことはできません。なぎなた読みばかりになってしまいます。
そこで、一定のルールを決めて、文章を区切っていきます。これを「マスあけ」といいます。
例えば、「みずほ点訳のホームページは、とても読みやすいですね」という文章があったとして、これをマスあけしていくと、「ミズホ□テンヤクノ□ホーム□ページワ、□トテモ□ヨミヤスイデスネ」となります(つなぎの「は」を「わ」にするのも、点訳のルールです)。
マスあけのルールは、基本的には意味のまとまりや、語の拍数や自立性などによって決められているのですが(助詞や助動詞などは自立語ではないので、前の語に続けるわけです)、全ての語に関してのマスあけの仕方、などというものはもちろんありませんし、点訳者の主観や解釈・原本の文脈・前後関係・原本の種類(実用書か文学書か)などによっても、微妙な違いが生じてきます。
最も基本となる表記、言い換えれば、どんな人が点訳してもこれだけは変らない、というもの以外の部分では、点訳者・点訳グループの数だけ表記の方法がある、といってもいいかもしれません。といって、もちろん、点訳者が、きままに、好き勝手にマスあけをしているわけではありません。どのように言葉を区切ったら、あるいは続けたら読みやすくなるのか、点訳者は常に考え、話し合っています。
冒頭に、マスあけが点訳者の頭を悩ませる、と書いたのはそういう意味です。
絶対的な決まりがない(あるいは、絶対的な決まりを示せない)のは、ある意味では、表記に許容範囲があるということですから、そういう意味では、点訳者が自分たちで、その許容の部分に関してのルールを作っても良いともいえるかもしれません。しかし、言葉の専門家ではない一般の点訳者が、言葉に関するルールを作るというのは、容易なことではありません。現在発行されている「点訳のてびき」や「点訳表記辞典」などを頼りに、そのつどマスあけについて検討していく、というところがほとんどではないでしょうか?
「みずほ点訳」でも、漠然とマスあけするのではなく、疑問点はみんなで話し合い、「なぜ切ったのか(あるいは、続けたのか)」を、自分なりに説明できるようにしたいと思っています。それが少々こじつけでも、屁理屈でも、何らかの理由付けをすることによって、少しはマスあけの方法に系統だったものが生まれてくるのを期待しているのですが、なかなかそう簡単にはいきません。
それに、多くの点訳グループは、期限のある点訳物を手がけていて、日々、期限に追われる忙しさの中では、表記についてじっくりと自分たちの方法を模索している時間など、あまりないのが実情だと思います。「みずほ点訳」は、期限のあるものも点訳しますが、いまのところ、自分の選んだ本を時間をかけて点訳する、を主にしていますので、そういった中で、一つ一つの言葉を大事にして、読みやすいマスあけ、表記方法を考えていきたいと思っています。
なぜ、切りたくないか。
「一人占いをする」という文章があったとします。これには、一人で占いをしている、という意味と、自分で自分のことを占っている、という意味との二通りの解釈ができます。
この言葉を点訳する際のマスあけは、「ヒトリ□ウラナイヲ□スル」となります。ヒトリもウラナイも自立語であり、ともに3拍以上の語ですから、切る要件は備えていると言えます。
しかし、私は、「自分で自分のことを占っている」という意味のときには、「ヒトリウラナイ」は切りたくないのです。
「一人で占いをしている」の意味で使うときは、「ヒトリ」と「ウラナイヲスル」の間には、半拍くらいの間(ま)があります。この場合、「ヒトリ」のあとに「デ」という助詞を入れることが可能で、その助詞の分の間ともいえます。でも、自分で自分のことを占っているという意味で使う場合の「ヒトリウラナイ」は、一続きで発語され、イントネーションも違います。
この「一人占いをする」という文章が、どちらの意味かは、その文章を読む人が文脈から捉えていくべきものですから、点訳者がいちいち判断して(つまり、点訳者の主観を入れてまで)、切ったり続けたりするべきものではない、というのが、点訳表記法の姿勢です。
それは、充分にわかっているのですが、しかし、晴眼者が本を読むとき、見開き全体をざっと見ることもできますし、かなり長い文章でも短い時間で目で捉えて、前後の内容を把握することができます。しかし、点字ユーザーは、一字一字指で触れて読んでいるわけであり、触読にかなり熟達した人でも、一度に把握できる文字数は、晴眼者に比べ、限られているのではないかと思います。
つまり、晴眼者が、「一人占い」を二つの意味のどちらであるかを理解するために、その文脈をつかむことは、比較的容易であろうと思うのですが、点字を読む場合、どちらの意味においても「ヒトリウラナイ」がマスあけされていると、それがどちらの意味で使われているのか、納得するのにある程度時間がかかるか、または、どちらともわからないまま、ということになるかもしれません。
「一人占い」がどちらの意味であろうと、そう大きな違いはありません。
点訳者が頭を悩ませて、切ろうか切るまいか、考えるほどの問題ではないでしょうし、なにしろ切るための要件のそろった語なのですから、理屈をこねる必要などないのです。私も、実際の点訳作業のなかでは、「一人占い」が出てきたら、もちろん切るのですけれど、こういった語に出会ったとき、少し立ち止まって、考えてみる、ということも必要なのではないでしょうか?
点訳表記には、許容範囲があります。 こういうふうに点訳しなさい、ではなく、こういうふうにしてもいいですよ、あるいは、いずれでもかまわないですよ、となっていることが非常にたくさんあります。
これは一見、自由な点訳ができて楽なようにも思えますが、実は、点訳者の言葉に対するセンスと点訳に対する姿勢を問われているともいえます。漠然と校正者や先輩のいうことを鵜呑みにしてマスあけするのではなく、それらを参考にしたり取り入れたりしながら、自分の考えをもって点訳していかないと、点字を読む人にとって読みやすいと同時に、日本語として読みやすい点訳ができなくなってしまいます。
ほとんどの点訳者は、言語の専門家ではありません(当然ですね)。言葉についての細かいニュアンスを捉えて、独自に切れ続きを考えていくのは、容易なことでありません。しかし、せっかく点訳という、言語に関わる作業に携わったのですから、言葉、とくに日本語の面白さ、難しさについて考えをめぐらせ、よりよい点訳方法を模索していきたいと思っています。
点訳には当然のことながらルールがあります。いろいろな点訳者が自分勝手なルールで点訳していたのでは読者はたまりません。
日本の点訳物の表記を均質化することは、読者にとっては無論のこと、点訳する側にとっても重要なことです。全国をカバーする組織のご尽力によって、できる限り誰にとってもわかり易い表記が追求されています。それはとてもありがたいことです。が、その作業には大変な困難が伴うものと推測されます。「わかり易さ」の内容が人によって違うからです。
より一層のわかり易さや基準の整合性を求めて、時々ルールの改訂が行われます。その必要性は片方で十分に理解しつつ、他方では慣れ親しんだ表記が変わることに対する違和感、不便さ、納得できなさが、読者にも点訳者にも残ります。難しいですね。
近年の傾向として、自動点訳を射程に入れた考え方があるようです。分かち書きなどのルールを単純化し、例外を極力排除して、機械化・自動化に適するように、また、誰が点訳しても均質なものができるように、という方向性は、それはそれで必要なことだと思います。ただ、それは点訳物の種類や内容によるのではないか、という気もします。電気器具の取扱説明書と文学書では、日本語の何に重点がおかれるかが、やはり違うのではないでしょうか? 重点がちがえば、それに合う表記もちがってくる・・・と言っていては、収集がつかなくなるのはわかるのですが・・・。
「みずほ点訳」では、日本盲人福祉施設協議会点字図書館部会発行の『点訳のてびき』第2版(1991)に概ね依拠して点訳をしてきました。日本盲人福祉研究会発行の『最新点字表記辞典』(1991)なども使わせていただいていますが、『てびき』と『表記辞典』で意見のちがう箇所については、多くの場合『てびき』を優先させています。『表記辞典』は1998年に増補改訂版(視覚障害者支援総合センター発行)が出て、かなりの変更がありましたが、読者の意向なども考慮して、新しい版の方針は今のところ採用していません。来春には『てびき』の改訂も予定されていますが、これも慎重に検討したいと思っています。
ひとくちに「点訳」といっても、点訳者・点訳グループによって、そのやり方はいろいろです。
どういう方法がBESTであるか、たぶん誰にもわからないと思うのですが、それぞれ、いかに間違いを少なくして、読みやすい点訳物を作るか、に腐心しているとは言えると思います。
1点1点、紙に手で打っていたころから考えると、パソコン点訳があたりまえとなった現在は、点訳・校正・訂正・完成の流れも、ずいぶんスムーズになりましたし、なんといっても、点訳物のできるスピードが、かくだんに早くなりました。
どのようなものが読まれるか、どのようなものが希望されているか、を、知ったうえでそれに沿った点訳物をつくることも大切ですが、それ以上に、点字ユーザーの方の取捨選択の幅を広げたいと私は思っています。
晴眼者が図書館や本屋さんに行くと、そこにある膨大な書籍の量に圧倒されます。読書離れと言われる現在、いったい、誰がこんなに読むんだろうと思うほどの膨大な量です。
私たちは、そこから自分の読みたい本、読む必要のある本を選ぶわけですが、当然の結果として、それ以外は「読まれない本」となるわけです。つまり、そこには意識的な「選択」が行なわれていて、そういうことが何故可能か、というと、「選ぶ余地」があるからだと言えます。「選ぶ余地」がないほど本が少なければ、読みたくない本でも仕方なく読むか、読むのをあきらめるかしかなくなります。「読まれない本」は「無駄な本」ではありません。膨大な情報の中から、必要な情報が選択された結果として残り、いずれは、別の、その情報を必要としている誰かに選択される可能性のある本なのです。
私は、点訳書もそうであるべきだと考えます。
パソコン点訳の普及にともなって、点訳物の量は飛躍的に増えました。大勢の点訳ボランティアが、たくさんの点訳物を作っています。
でも、まだまだ少ないと思います。もっともっと「選択の余地」が広がって欲しいのです。
役に立つ本ばかりでなく、とってもくだらない本や、ひとによっては読む価値もない、と破棄されてしまいそうな本も、たくさん点訳されればいいとおもっています。その本を「くだらない」「読む価値がない」と判断できるのは、とりもなおさずその本にどこかで出会える機会があるからこそであって、出会いもないのでは、自分にとって「くだらない」か、「読む価値がない」か、判断することもできません。
本(情報)を、主体的・意識的に選んで、その結果として、選択されない本(情報)が出てくる、というのが、私の理想です。
ですから、依頼があって点訳する場合は別ですが、「みずほ点訳」では、できるだけジャンルにとらわれないで、点訳者も楽しんで点訳できるようなものを点訳しています。
正直なところ、難しいもの、専門的な知識を要求されるものを点訳する力は、まだまだありません。そういったものは、もっとベテランの点訳者、点訳グループにお任せして、「読んでも読まなくてもいいけれど、こんな本もありますよ」という姿勢でやっていきたいと思っています。
さまざまなジャンルの、さまざまな内容の本が増えること、それが希望です。