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11/25 オープンチャーチ礼拝説教

来週の日曜日から教会は「アドベント」と呼ばれる期間になります。クリスマスを迎えるための準備の期間です。

ハロウィンが終わると、お店は一晩でクリスマスのデコレーションに変えられます。アメリカではデパートや小売業の年間売り上げの4分の1はクリスマスの時期にあるということです。それだけ商売にも力が入ります。けれどももちろん、アドベントはクリスマスの気分を盛り上げるためにあるのではありません。アドベントは「到来」という意味の言葉です。アドベントの一日一日を重ねるごとに、「救い主は到来された」という信仰の喜びと感謝をより深く心に刻み、神さまを礼拝しよう、と呼びかける期間です。

救い主の到来は、私たち人間が熱心に求めたからではありません。旧約聖書のイザヤ書に、救い主の誕生を告げる預言の言葉があります。そこには、「主の熱意がこれを成し遂げる」と書いてあります。「主」とは神さまのことです。神さまの私たちへの愛の熱意が救い主を送ってくださいました。この方によって私たちを罪と滅びから救うためでした。そのために愛する独り子を人として生まれさせてくださったのです。

世の中は、闇が覆っていると思えるようなことが沢山あります。戦争があり、飢えがあり、病があり、犯罪があります。罪のために死と滅びがいつも私たちを脅かしています。そのただ中にいる私たちのもとに、救い主はお生まれになりました。神さまの私たちへの愛の熱意がそれを実現してくださったのです。

この神さまの熱意が、一人の女性のもとに届けられました。天使ガブリエルが遣わされて、マリアを訪れて男の子を生むことを告げたのです。有名な「受胎告知」と呼ばれる出来事です。

この時マリアは、何が何だか分からなかったと思います。彼女にしてみれば、まだ結婚もしていないのに、どうして男の子を産むなどということが起きるのか、起きるはずがない、そう考えるのは当たり前のことです。しかし、天使ガブリエルはマリアに告げます。「神にできないことは何一つない。」これがマリアを納得させた言葉でした。

「神にできないことは何一つない。」このことを信じる。これが信仰です。これは、私たちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神さまの愛の熱意に自分を委ねるということです。どうしてそんなことができるのかと思われるかもしれません。しかし、これを信仰と呼ぶのです。

私たちが自分の経験や見通しだけに立っている限り、神さまの救いを知ることは出来ないのです。それはどこまでも自分によることであり、その結果は死と滅びという限界がいつも私たちを脅かしている罪の支配の範囲で収まってしまいます。それはやがて私たちに疲れと諦めをもたらし、希望を失わせます。しかし、このアドベントの時、私たちが心に刻まなければならないことは、「神さまにできないことは何一つない」ということと、「神さまの愛の熱意が成し遂げられる」ということです。神さまの愛の熱意が始められることは、罪と死に打ち勝って実現されるのです。

この時マリアは天使の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。神さまの奇跡が他人事であるならば、私たちは「そういうこともあるかもしれない」と言って済ませることも出来るでしょう。しかし、神さまの救いは私たちの人生の上で起きるのです。神さまの愛の熱意である救い主イエス・キリストを、私たちの人生にお迎えしましょう。

2018年12月01日

11/18 説教要旨

マタイによる福音書8章14~17節

イエス様の病の癒しの奇跡が続けて記されます。マタイによる福音書は、山上の説教を語られたのと同じ一日の間に起こった出来事として記しています。これは、イエス様の地上での宣教のお働きの一日が、こういうものだったと教えていると言えるでしょう。つまり、神の国について教えられ、求められると病を癒してくださる。それもすぐにお応えくださいます。神の民として祝福された者が病になるのは、何か罪を犯しているからだ。本人でなければ先祖に罪があるからだ、という考えがありました。そのため病は、神さまの救いの枠から外れた状態、神から見捨てられた状態とされました。イエス様はそのような悩みを担い、人々に神さまの愛を伝え、連れ戻してくださることに熱心でした。それが病の癒しの御業にあらわれています。この癒しについて「彼は…患いを負い、病を担った」というイザヤ書の言葉の成就だと記しています。病の苦しみは消滅したのではなく、イエス様が負ってくださいました。それは「神から捨てられる」という悩みです。罪のゆえに私たちの命は死にさらされることになりました。その時から病の悩みが私たちを襲いました。罪のもたらす絶望を神の独り子が引き受けてくださったのです。救い主はご自分の一日をそのために休む暇もなくすべて費やしてくださる日々を送られたのです。その極みに十字架の贖いがありました。イエス様が神から捨てられるべき罪の重荷を負い、私たちに代わって悩み苦しんでくださったのです。

2018年11月25日

11/11 説教要旨

マタイによる福音書8章5~13節

イエス様のもとに、僕の癒しを求める百人隊長が近づいてきました。彼もまた、普通ならば近づくことのない人です。彼は外国人でした。当時の敬虔なユダヤ教徒は外国人との交流を避けることが多かったですし、ましてユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊長に対してはなおさらでした。しかし、「イエス様こそ救いの神であられる」という信仰が彼をイエス様へと近づかせました。ここにマタイ福音書は第一の信仰の姿を見ています。この方こそ救い主と信じたならば、まっすぐに近づくのです。私たちは救いをいただくよりも、世の事情や気遣いに心を奪われて、救い主を見送ってしまうのです。しかしどんな事情も気遣いもイエス様は担ってくださり救いの道を開いいてくださいます。多くの人がそこまで信じぬいていないのです。第二に、彼は徹底的にイエス様を「神の子」、「救い主」として向かい合っています。自分の屋根の下にお迎えできないというのも、神さまの御心を本気で尊重しているからです。神さまがお命じになれば、万物はその御言葉に服さなければならないということを信じていました。だから、余計な儀式で慰められることを求めませんでした。自分勝手に救いの実現を決めることをしませんでした。御言葉を求めました。本当に御言葉によって救われるのは百人隊長自身であることを承知していたのです。この徹底して神を神とする信仰に、神の独り子である救い主、イエス様は喜んで応えてくださいました。

2018年11月12日

11/4 説教要旨

マタイによる福音書8章1~4節

山上でお話を終えてイエス様は山をおりられます。ここからイエス様の言行を記した箇所がはじまります。そこに重い皮膚病の人が近づいてきて、清められることを願いました。イエス様はその人を清めて病を癒してくださいました。この出来事は、山上の説教の最後の教えにあった「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の具体的な姿です。重い皮膚病の人は、当時「汚れている」と言われていました。重い皮膚病は神さまの罰を受けていると信じられていたからです。ですから、病の苦しみ以上に、ユダヤ人でありながら神さまの救いの外に置かれるという苦しみを背負っていました。汚れを人に移さないために人々から離れていることを強制されていました。おそらくこの人は人々から離れてイエス様の言葉を聴いていたのでしょう。そして、この方ならば自分を清めて神さまの元へと帰らせてくださる救い主だと信じて近づいてきたのです。これが「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の姿です。イエス様は、近づいてきた彼を「手を差し伸べてその人に触れ」て、迎え入れてくださいました。「手を差し伸べて」という言葉には「広げて」という意味もあります。つまりイエス様は片手を伸ばして触れたというよりも、両手を広げて迎え入れたと理解してよいと思います。「よろしい、清くなれ」という言葉も、癒しの宣言であるとともに、「そうだ、あなたは神の御腕の中にいる」という宣言です。救いの宣言です。山上の説教で語られた、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」「求めなさい。そうすれば与えられる」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の実現がここにあります。

2018年11月12日

10/28 オープンチャーチ説教要旨

マルコによる福音書2章17節

 キリスト教会において親しまれてきた「あしあと(フットプリント)」という詩があります。今日は、この詩と、この詩についての伝えられているエピソードを紹介します。

あしあと(Footprints) 原作者 マーガレット・F・パワーズ
ある夜、彼は夢を見た。それは主イエスとともに海岸を歩いている夢だった。空に彼の人生が次々と映し出された。彼は、人生のどの場面にも、二人分の足跡が残っていることに気づいた。ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは主イエスのものであった。
そして人生最後の光景が映された時、彼は砂浜の足跡を見た。そこには一人の足跡しかなかった。それは、彼の人生で最もつらく悲しみに打ちひしがれていた時も同じであった。彼はそのことでひどく悩み、主イエスに尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。けれども私の人生で最も苦しかった時には、一人の足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私にはわかりません。」
主イエスは答えられた。
「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」

 この「あしあと」という詩は、人生に疲れ、重荷に押しつぶされそうになっている多くのクリスチャンたちを励まし続けてきた有名な詩です。この詩はカナダのクリスチャン、マーガレット・パワーズという女性が、夫のポールさんにプロポーズされた日に、この詩は生まれました。ポールさんはキリスト教の伝道者、マーガレットさんは学校の先生でした。

 二人は共にクリスチャンで、将来の不安など何もないかのように周りからは見えました。ところが、二人の心の奥底には、ある不安があったのです。それは、二人の育ってきた環境があまりにも違う、ということでした。

 マーガレットさんは、本当に幸せな家庭で育った人でした。一方、ポールさんは、父親の激しい虐待を受けて育ちました。彼は少年院を転々としていました。しかし出所後、老齢のクリスチャン夫婦宅でお世話になったことがきっかけになり、心から悔い改めてクリスチャンになる決心をしました。イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった。そのことを知った時に、彼は母親が死んだ7歳の朝以来、初めて涙を流したと言います。

 そういう二人が、プロポーズのあと、湖のほとりを歩きながら、将来のことを真剣に語り合っていたのです。そろそろ戻ろうと思い、砂浜を折り返そうとした時に、彼らは二人の足跡が波に掻き消され、一人分しか残っていないことに気づきました。それを見てマーガレットさんは、「これは神様が二人を祝福してくれない暗示ではないか」と不安に思った、と言うのです。けれども、ポールさんは言いました。「いや、そうじゃない。二人は一つになって人生を歩んでいけるんだ」と。けれども、マーガレットさんはまだ不安でした。そして「二人で処理できないような困難がやってきたら、どうなるの」と聞きました。その時にポールさんは、すかさずこう答えたそうです。「その時こそ、主が私たち二人を背負い、抱いて下さる時だ。主に対する信仰と信頼を持ち続ける限りはね」。詩を書くのが好きだったマーガレットさんはこの出来事を詩に書きとめました。

 この話には続きがあります。25年後に彼らは大きな試練に出会いました。今度は、娘さんを含めた家族三人が大きな事故に巻き込まれて重傷を負ってしまったのです。ある時にポールさんの病室を訪ねてくれた看護師が祈ってくれました。その看護師は「作者は分からないけれど、とてもいい詩なので、この詩を読んで元気を出して!」と言って、ある詩を贈ってくれたそうです。その詩こそ、なんと25年前にマーガレットさんが作った「あしあと」という詩でした。ポールさんは、その詩を聞き、驚きと共に慰めを与えられたそうです。そして、このことをポールさんから伝えられたマーガレットさんも、25年前の信仰の原点に立ち返り、本当に慰められたと言います。

 苦しみの時だけではありません。罪という重荷はいつでも私たちの人生の歩みを捉え、動けなくします。その時に、私たちを背負って支えてくださる救い主イエス・キリストがおられます。イエス様はそのためにこそ自分は来たのだとおっしゃってくださったのです。

2018年11月03日

10/21 説教要旨

マタイによる福音書7章24~29節
山上の説教の結びです。「これらの言葉」とは、これまでイエス様がお話しされた山上の説教の御言葉全てを指しています。イエス様が教えてくださったことは、天の国に入るためにもっとも大事なことは父なる神さまの愛を信じるということでした。そこから信仰者の生活も整えられていくのです。つまり、ここで言う土台としての「岩」とは、神さまの愛のことです。神さまの愛に支えられて人生の「家」を作る者は、天の国に通じる道を知っている賢い者だと教えられるのです。一方の「砂」とはそれ以外の全てです。神さまの愛以外に命を支えられることは、結局天の国に入る希望まで奪われてしまします。それは「愚か」です。当然みんな「岩」を選ぶはずです。しかし、実際はどうだったでしょうか。これらの言葉をお話しして、「それでは分かったね」とイエス様は天にお帰りになりませんでした。これらの言葉は「福音」の序章に過ぎないのです。そこでイエス様はすでに天の国に入る秘密を隠さず教えてくださいました。しかし罪によって目をふさがれたような私たちはついに自分で「岩」を選べなかったのです。皆が「砂」を選んで唯一の救いの「岩」を拒絶したのです。イエス様を十字架にかけてしまったのです。しかしこの十字架の上で死んでくださったイエス様が救いを成し遂げてくださいました。イエス様が「砂」に命をゆだねた罪の報いを引き受けてくださり、私たちのために救いの「岩」をもっとも深いところに据えてくださったのです。

2018年10月24日

10月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。実りの秋の恵みが豊かにありますように。西日本豪雨、台風、北海道の地震による被災者のために神さまの慰めと励ましを重ねてお祈りします。
年齢に関係なく、腰骨が立ち背筋が伸びた状態で座ったり歩いたりすると、実年齢より10歳は若く見え、逆に背中が丸まって猫背になると実年齢より10歳は老けて見えるそうです。さらに言うと、姿勢が良いとそれだけで立ち居振る舞いに何となく品性が感じられるし、その逆もまたしかり、なのです。ただ自分の姿勢を客観的に見る機会のない私たちは、自分が良い姿勢をしているのか分からないし、そんなことをあまり意識していません。
子どもの頃、先生によく「正しい姿勢で!」と言われました。立っていても座っていても、正しい姿勢をずっと維持するのは疲れる気がしていたものです。しかし専門家の話によると、楽な姿勢、たとえば椅子に座って足を組むと楽に感じるのは、そもそも体が歪んでいるからだそうです。正しい姿勢が身に付いていると、姿勢を正しているほうがずっと体は楽なのだと言います。正しい姿勢は意識しないと身に付きません。そのためには日頃から「見られている」という意識を持つといい、と聞いたことがあります。
心の姿勢も同じことが言えるのではないでしょうか。心の姿勢とは、物事に取り組む時や新しいことに挑む時の心構えのことです。そして体の姿勢がそうであるように、心の姿勢も一瞬のことではなく、日常の中にそれはあります。心の姿勢が歪んで心まで猫背になっている人が増えていないでしょうか。どう生きたらいいのか。どこに向かって成長していくべきなのか。人の想いをしっかり受け継ぎ、それをちゃんと繋いでいるでしょうか。こんな思考を「面倒臭い」と思って避けていると、気が付かないうちに心が猫背になります。思考がひねくれてしまったり、うつむきがちになり何となく前を向いていけなくなるのです。
「隠れたことを見ておられるあなたの父(神さま)が報いてくださる」
(聖書 マタイによる福音書6章6節)
「見られている」という意識が美しい姿勢をつくるのは、体も心も同じなのでしょう。
2018年10月20日
西荻教会 牧師 有馬尊義

2018年10月24日

10/14 説教要旨

マタイによる福音書7章21~23節
 イエス様はここで、ご自分を救い主、神の子としてあらわしておられます。それは、イエス様に向かって「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、と言われたことからわかります。天の国に入る者を、イエス様こそが決められると言われたのです。この「イエス様によって天の国に入れるかが決まる」というところが重要なのです。この箇所を「主よ、主よ」と呼ぶだけではダメで、信仰の行いがなければならないと読んだら間違いです。なぜなら、イエス様から「不法を働く者ども」と呼ばれた人々は、イエス様の名で奇跡をいろいろと起こした人々なのです。行いに不足があるとは思えません。しかし、イエス様の名でこんなに大きな業を成し遂げたのだから天の国に入れるのは当然、と考えたところに決定的な間違いがあるのです。天の国に入るということは、一切を救い主であるイエス様にお任せするということです。イエス様を「主」と呼ぶのは、それによって奇跡を起こして功績を稼ぐためではないのです。罪深く、本来なら天の国にふさわしくない者のために、ただ愛をもって十字架にかかり、私たちを救ってくださったイエス様の愛に、一切をお任せすることなのです。このイエス様を「救い主」、「わが神」、「主」と正しく呼び、信じる信仰も神さまからいただくものです。徹底的に神さまの愛によってのみ天の国は私たちに与えられるのです。

2018年10月24日

10/7 説教要旨

マタイによる福音書7章15~20節

 山上の説教の結びに当たってイエス様は天の国に入るための注意を語られます。ここでは偽預言者に警戒するように言われます。この前の箇所の狭い門の話に関連させると、天の国に通じる狭い門である主イエスご自身へと私たちを導いてくれる人を見分けなさいと言われるのです。偽預言者は巧みに私たちを誘って、滅びに至る門へと導きます。ですから私たちには本物と偽物を見分けるのが難しいのです。そしてもう一つ私たちが警戒すべきは自分自身で道を開けると思う「自己流」の誘惑です。信仰の事柄には、何故か自己流で突き進む人が必ずいます。しかし、天の国に通じる門は「唯一」イエス様しかおられない狭い門なのです。私たちが自己流で開拓するのではなく、イエス様が切り開いてくださった十字架の道を歩むのです。だから自己流もとても危険なのです。そこでイエス様は「その実」で見分けるように言われます。その導き手に従っている者の姿を見て、本物か偽物かを見分けなさいと言われます。この点でイエス様は極めてリアリストです。ダメなものはダメなのです。神さまの救いは、あなたがたの気持ちが満足すればいい、というようなものではありません。本当に天の国に入ることが出来なければ、私たちには「滅び」しかないのです。そこで見分ける目を養い、私たち自分自身が、天の国に通じる道をイエス様と歩んでいるかを意識することが大切です。そこに狭い門を示す、世の人のための証しも顕れてくるからです。

2018年10月11日

9/30 オープンチャーチ礼拝説教

ルカによる福音書11章9~10節

皆さんはお祈りをされたことはあるでしょうか。キリスト教徒(クリスチャン)はお祈りをします。頻繁に祈るのがキリスト教徒(クリスチャン)です。そして、キリスト教徒(クリスチャン)のお祈りの特徴は、神さまへの感謝とお願いです。

以前、曹洞宗のお坊さんとお話しをした時に、仏教では祈願は下品なものと考えられていると教えてくれました。祈念と祈願というのは別のもので、祈願というのは自分の求めているものを与えてほしいということだから、今のあるがままを受け止め、欲を断つ悟りの姿とは真逆のものだと考えられているそうです。

実は、聖書の中に登場するユダヤ教徒の間でも、祈願は不信仰の姿だと考えられてきました。神さまは私たちと世界の全てを全知全能のお力と御心をもって支配しておられる。だから何でも感謝していただかなければいけない。嫌でも、苦しくても感謝しなさい。お願いをするのは神さまの約束や力を疑うことになるから、神さまに対して失礼で、罪につながる。そんな風に当時の聖書の先生から教えられていたのです。

イエス様も「あなたがたの父(神さま)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6章8節)と言われています。神さまは私たちの天の父として、子である私たちのことを愛して何でもご存じでおられる。そう教えられました。ところがイエス様はそれだけでなく、しかし「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章24節)と教えておられます。これはどういうことでしょうか。

神さまは何でもご存じだから、願う前から必要なものを与えてくださる。だから、願う必要はない。これは正しい理屈です。しかしお祈りというのは、それだけではない。それが「神さま」を「父」と呼ぶことに示されています。理屈だけでなく、愛によって結ばれているのが私たちと父である神さまなのだよ、と教えてくださいました。だから「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」、願い続けてよいのだよ。「願い続けなさい」、と教えておられるのです。

「ある時、私の幼い息子がやってきて、書斎の入り口に首を突っ込んできました。『パパ、一緒にいさせてくれたら、ずっと静かに座ってるよ』と言うのです。息子はそうやって父の心に訴え、承認を得ました。これは天の父に対して私たちがよく抱く気持ちではないのでしょうか。私たちがいつ御前に行っても、何度行っても、神の邪魔には決してならないのです。」(オーレ・ハレスビー)

子どもが近づいてきてお願いをしたとき、例えば上記のように「一緒にいたい」と願う時に、「お前には部屋を用意してある。お前には食事もおやつもおもちゃも絵本も既に与えてやった。それ以上を望むとは、なんて失礼な子だ。私と一緒にいたいと願うとは、なんて無礼な子だ」という親はおかしいでしょう。逆に自分の親はそういうとんでもないおかしな人に決まっている、と子どもに決めつけられたら親はどう思うでしょうか。

親が子どもために前もって必要なものを与えてくれているから、子どもは生きられるというのは理屈でしょう。しかし、それだけで子どもは喜んで生きていけるでしょうか。前もって必要なものを与えたからもう子どもと会う必要はない、と思う親はいないでしょう。必要なものは既に与えてあるから、別に喜ぼうが悲しもうが関係ない、あきらめろと言う親もいないでしょう。

まして、もっとも深く私たちを愛してくださる天の父である神さまは、どれほど大きく天の扉を開いて私たちを待っておられることでしょうか。お祈りは、「父」である神さまと一緒に過ごす時なのです。

2018年09月30日

9/23 説教要旨

≪召天者記念礼拝≫

ヨハネによる福音書12章44~50節

主イエスは叫んで言われました。「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た。」そして父なる神さまの御心が「永遠の命である」ことを示してくださいました。この主イエスの叫びを召天者を記念するこの時の、慰めのみ言葉として聞きましょう。教会で召天者記念をするときには必ず礼拝をします。召された方々と共にしてきた礼拝を繰り返します。主イエスのみ言葉を信じて神さまを礼拝してきた方々が、復活の時を迎え、眠りの中から起こされたときに、すぐに一緒に礼拝をするためです。召された者は誰一人として救いの道を遮られることはありません。冥福を祈る必要はないのです。なぜなら、全知全能の、創造主である神さまが「滅びへと裁かない。永遠の命の内に迎える」ということを決意してくださっているからです。だから、先に召された方々と出会うのは死の闇の中ではなく、神のみ前で永遠の命の光の中で出会います。だから、召された方を想う時も主イエスの命の約束の中で想い起します。その時、召された方々と今も地上の生涯を歩むことを許されている私たちとは一つの神の民となります。そこに例外はありません。何故なら、真の裁き主である方が「裁かない」と言われるのです。滅びに定めることはない、と叫んでくださるのです。主イエスはやがて、この実現のために私たちの罪を贖って十字架の上で死んでくださいました。十字架の上でも叫ばれました。私たちを一人も滅びへと裁くことなく、救いの道を拓いてくださったのです。

2018年09月30日

8/5 説教要旨

マタイによる福音書6章22~23節
「あなたがたの中にある光」、これは神さまからいただく光です。澄んでいる目とは、「まっすぐに見る」ということです。脇目をふらずに本当に必要なもの、欲しいものに目を向けている、そんな眼差しを「澄んでいる目」と言われています。何を見つめているのでしょうか。それは、神さまの報いです。これまでイエス様は、施し、祈り、断食という信仰の行いの大事な要点は、「誰からの報いを求めているのか」であることを教えられました。信仰の行いは神さまにご覧いただくだけでよい行いです。神さまに向かって願い求めていながら、手は人の方に差し出して称賛を受け取ろうというのはおかしな話です。本当に求めている大きな恵み、幸いや赦しは神さまからいただくものです。神さまこそが私たちの全身を明るくするまことの光を与えてくださる天の父です。そのことを信じて、まっすぐに神さまを見つめる眼差しが「澄んでいる目」です。この目で神さまの愛と恵みを見つめるとき、恵みの光が私たちのうちに「信仰」の火を灯します。この光をいただいて私たちは全身を明るくするのです。恵みの光の源である神さまから目を反らして見るのは、罪に支配された暗さです。そこに私たちを明るくする光はありません。そこで与えられる世の報いは私たちの内の光を消し去ろうとします。神さまに救いの希望があります。私たちは神さまから光をいただいて全身を明るくし、私たち自身が恵みの光を携え世を照らすのです。

2018年09月22日

8月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。西日本を中心とした豪雨による被災者のために神さまの慰めと励ましをお祈りします。
皆さんは、「子ども兵」の存在をご存じでしょうか?ウガンダで元子ども兵の社会復帰を支援している「テラ・ルネッサンス」の代表である鬼丸昌也さんのお話を紹介します。
2004年当時ウガンダは、政府軍と武装勢力による内戦が続いていました。武装勢力は、多くの子どもたちを誘拐し、男の子は兵士として、女の子は食事などの兵士の身の回りの世話や「褒美」としてあてがわれたりしました。その数は23年間でのべ2万人にもなります。その中の16歳の男の子はこう証言しました。「僕は、お母さんの腕を切らなければいけなかったんだ。」彼は12歳の時に誘拐され、訓練を受け、その後「テスト」と称して自分の生まれ育った村を襲いに行かされます。そこで受けたのが「母親の腕を切れ」という命令でした。なぜ、そんなことをさせるのか?一つは、脱走を防ぐためです。自分の住んでいた村や家を襲うことによって、「もう自分は帰れない」と思わせるのです。もう一つは、人を傷つけることに対する恐怖心を奪うためです。最初に近親者や友人に危害を加えることによって感覚を麻痺させるのです。
ウガンダでは現在に至るまで、194人の元子ども兵を社会復帰させることができています。ただお金や物をあげるのではなく、「どうすれば彼らの能力を生かし、自立に向けて一歩踏み出せるようになるか」を共に考え、必要な支援をしていくことが大切です。仕事や商売は人との関係性の中で生まれます。だからコミュニケーションは不可欠です。そうしたコミュニケーションの積み重ねの中で元子ども兵の自尊心に変化が現れてきます。自分が少しずつ村や町の人に受け入れられていると感じていくことは、自分の過去を受け入れる強さにもつながっていくのです。「私たちが相手を変える」のではなく、「相手の中にある眠っている力に光を当てることで、本人が持っている本来の力を目覚めさせていく」という支援です。
東日本大震災のあの日、「テラ・ルネッサンス」にウガンダから1本の電話がかかってきました。「大津波の映像を見ました。そして私たちは話し合いました。『今、私たちに何ができるのだろうか』と。そして決めました。わずかでもいいから日本の人たちのために募金をします」と。彼らの調達した毛布が寒さから被災者の命を守ってくれました。「自分のためだけでなく、誰かのために貢献したい」という心は失われなかったのです。

2018年09月22日

8/12 説教要旨

マタイによる福音書6章24節
わずか1節のみ言葉ですが、時代ごとに多彩な解釈をされてきた箇所です。ここで言われている「富」はそのまま「お金」のことです。神さまとお金に同時に仕えることはできない、と教えられていることは明らかです。お金というのは更に、神さまでない被造物ということですから、神さまと偶像に同時に仕える(信じる)ことはできないということでもあります。しかし、私たちは同時に仕えるような生き方をしているなあ、と自分の生き方を振り返って思うのではないでしょうか。実はその主人を選べると思っている感覚こそが「大間違い」なのです。「仕える」とは当時の理解では奴隷として仕えるということです。奴隷は主人を選べません。報いは自分の所有者である主人からのみいただきます。私たちは神か富かどちらかに所有されているということです。どちらかを選ぶ力など私たちにはないのです。そして、ここで主イエスが伝えたいのは、私たちは「富」という言葉で代表される被造物を主人として仕えているのではなく、神さまに所有されているのだということです。神さまは御心をもって私たちを「救う」と決断してくださり、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架で代価として支払って私たちを罪と悪と滅びからご自身の所有としてくださいました。しかも神さまは、私たちを奴隷ではなく自由な「子」として迎えてくださいました。父なる神に親しんで仕え、父なる神から豊かな報いをいただいて生きるのが信仰者なのです。

2018年09月22日

8/19 説教要旨

マタイによる福音書6章25~34節
大変よく知られたイエス様のみ言葉です。6章のまとめとして、神さまを父として信じて生きる私たちに、神の国と神の義を求める生き方を勧めておられます。このイエス様のみ言葉を行っていくところに神の国の恵みが与えられていきます。「行っていく」というのは、当に文字通り「行う」ということです。ここでイエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」、と言われています。神の国の恵みを真にご存知であり、神の義を教え、実現される救い主であるイエス様が「しなさい」と言われていることを、まずやってみることです。イエス様が「空の鳥をよく見なさい」と言われたみ言葉を思い出したら、見上げて鳥を探すのです。「野の花を注意して見なさい」と言われたから、足を止めて野の花を見つめるのです。イエス様が教えてくださったようにしてみることから神の国に生きる現実は始まるのです。神の国と神の義を求めるとはそういうことです。父なる神を信じ、イエス様を信じて、やってみなさいと勧められることを「やってみる」ことです。一体それが何の意味があるのか、どういう理屈で思い悩むことから私たちを解放してくれるのか、と考えはします。でも実行しないのです。たかだか数十年の人生経験から分かったつもりで永遠の神の愛を見損なって歩いているのです。まず、やってみてください。それが信じて生きるということです。そうしたら、「みな加えて与えられる」、とイエス様は断言しておられるのです。

2018年09月22日

8/26 オープンチャーチ礼拝説教

マタイによる福音書25章21節
聖書は、私たちの人生は主人である神さまからお預かりしているものだと教えています。イエス様はそのことを教えるために、神さまを主人に、私たちを使用人にたとえて、お話をされました。私たちには大変な豊かな人生の元手が預けられています。しかし、私たちは自分にそれほど豊かなものが預けられていることに納得しません。「ある」ことより「ない」ことに心が奪われるからです。自分にはなくて、他の人が持っているものを気にします。けれどもそれは本来すべて主人である神さまのものですから、誇ったり妬んだりするものではありません。最も大事なことは、預けてくださった主人の信頼に応えることです。主人である神さまの喜ばれるように預かったものを用いることです。使用人は主人に再び会う日に備えて預けられたものを用いました。必ず主人と会う日が来ます。タイムリミットがあるのです。その日、主人にとって成果の大小に関係なく、「よくやった」と手放しに誉めてくださいます。主人のことを思い、主人の言葉を大切にして預けたものを使ったからです。主人である神さまは必ず良く用いてくれると信じて人生を預けてくださっています。「石工の答え」という話があります。ある人が石工に「何をしているのか」と尋ねると、一人目は「壁を組み立てている。来る日も来る日もね」、と答えます。もう一人は「美しい大聖堂を建てている。人々が神を礼拝できるように」、と答えます。同じことをしていても、自分の成果をはかることに汲々とする人にとって人生は苦痛です。しかし、神と人とに向かって生きる人にとっては神さまと一緒に喜びの日を迎えるための、喜びの元手です。

2018年09月22日

9/2 説教要旨

マタイによる福音書7章1~6節
「人を裁くな。」これはイエス様の命令です。キリスト者は神さまに代わって人を裁いてはいけないのです。私たちは人の評価を気にして神さまの報いを失ってしまうことがあります。一方で私たち自身が人を評価し裁くこともあるのです。「裁く」というのは大変強い言葉です。白黒をつけるということですが、ここでは人を罪に定めるということでしょう。そこで、イエス様は言われます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」、つまり他人の罪にあなたがたは敏感で、神さまに代わってそれを裁こうとする。けれども、「自分の目の中の丸太に気づかない。」自分の目の中に丸太があっては物を見ることなどできません。何が見えていないのでしょうか。それはまことの裁きをなさる神さまの御心です。神さまの御心が見えていないのに人を罪に定めるようなことは決してしてはいけない、とイエス様は教えられるのです。だからまずすべきことは自分の目の丸太を取り除くことです。どうしたら取り除くことができるでしょう。それは私たち自身にはできないことです。そのために来てくださった方が救い主であるイエス様です。おが屑や丸太は「罪」を譬えています。この罪を取り除くためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そしてイエス様の十字架よって神さまの御心を私たちは見ること(知ること)ができるようになったのです。神さまの御心は「ひとりも滅びない」こと、「罪人を赦すこと」であったのです。この神さまの御心によって罪赦され、救いをいただいたのです。どうして人を「お前は救いに値しない罪人だ」と裁くことができるでしょうか。

2018年09月22日

9/9 説教要旨

マタイによる福音書7章7~12節
「求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエス様の言葉は、大変によく知られている言葉です。多くは人生を成功に導くマインドのように読まれます。またルカ福音書の文脈から、諦めずに祈ることを教えていると理解されます。しかしマタイ福音書では「人を裁くな」という教えと、「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉に挟まれた文脈、そして山上の説教全体の文脈に注目すべきです。山上の説教において語られてきたテーマは「神の国で生きる」ということでした。これは人生訓や祈りだけの教えでありません。「求める」とは何を求めるのか?丸太のように神さまの御心を見えなくしている罪を取り除いていただくことです。「探す」とは神の国に入る道、救いの道を探すということです。「門をたたく」とは、神の国の門をたたいて神の国に入れていただくということです。その時に、互いに「裁く」ことで身を守ってきた関係から、「してもらいたいことを、人にする」という仕え合う隣人関係という、神の国に生きることが始まるのです。この言葉を語ってくださっているのは救い主であるイエス様です。罪を取り除けるために、十字架にかかって罪を身代わりに担って死んでくださった救い主です。この方が十字架にかかってくださったことで、私たちの求めた罪の赦しが与えられ、探した神の国につながる道が作られ、見いだされました。この方の十字架の救いにあずかって神の国の門をたたくとき、門は開かれます。そこでは罪人を裁く「石」も、再び罪に誘う「蛇」もありません。天の父が迎えてくださるのです。

2018年09月22日

9月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。西日本豪雨、台風、北海道の地震による被災者のために神さまの慰めと励ましをお祈りします。
人は小さい頃からいろんな失敗をします。同じ失敗でも人によって受け取り方が違います。「もうだめだ」と落ち込む人がいる半面、失敗を「次へのステップ」と理解して頑張る人もいます。同じ体験に対してなぜこんなに違った反応をするのか。それはその人が過去にどういう「枠組み」の中で失敗したかで違ってきます。つまり過去に失敗した時の周りの反応はどうだったか、です。例えば悪い点数のテスト用紙を持って帰って母親に見せた。そのとき深い失望のため息をつく母親がいます。あるいは「なんでこんな悪い点数なの!」と責める母親がいます。しかし、「よく見せてくれたわね。次、頑張ろうね」と励ます母親もいます。こう言われると、悪い点数を取ったことを「失敗」と思わず、「次、頑張ろう」という意欲が湧いてきます。同じ事実でも周りの人の反応で、その体験の意味が全く違ってきます。すべての体験は人間関係の中で起きています。その失敗にどういう意味があるのかは、その人の人間関係が決めています。その時、周りにどういう人がいたかが重要になります。
こういう趣旨のお話を聞いたことがあります。失敗を恐れる人と全然恐れない人がいます。失敗を恐れる人は、「体は今ここにあるのに心が過去にある人」です。「失敗は怖いもの」と思い知らされた体験が過去にあります。「心は過去にある」、このことに気付かないと苦しい思いを続けます。
どんな宗教であれ、信仰を持つことは失敗を赦されない戒律の中で生きることだと思い込んでいる人もいます。実際、宗教者ほど失敗を恐れる存在はないように思います。人を失望させたり、傷つけたりすることが恐ろしいからです。しかし、キリストの救いを信じるというのは、失敗という過去から解放されることです。キリストを信じても失敗はなくなりません。しかし「お終い」ではない。失敗を次への「ステップ」にしてしまうところに信仰があります。心が強いのではありません。失敗にうずくまる私を、失敗という過去からキリストが連れ出してくださり、またキリストと一緒に愛の成功に向かって出発する。それがキリスト者の信仰生活です。

2018年09月22日

9/16 説教要旨

マタイによる福音書7章13~14節
マタイによる福音書の山上の説教の結びに入ります。山上の説教にはそれぞれの箇所ごとの小テーマがありますが、全体の大テーマは「天国に入るには?」ということです。そこでイエス様が言われたのが「狭い門から入りなさい」です。「狭き門」というと受験のことを思い浮かべますが、この狭き門は閉じてはいませんし、試験に合格する必要もありません。喜んで迎えてくれる天国に通じている門です。この門は、救い主であるイエス様ご自身のことを指しています。ただこの門だけが唯一天国に通じているという意味で「狭い」のです。十字架にかけられた救い主によって救われるという唯一の天国に入る真理に、多くの人が我慢できないのです。立派な、厳格な、善良な人間でなければ天国にふさわしくないと多くの人が思うからです。だから信仰者ほど失敗を恐れる者はいないと思います。神さまの求める正しさを満たせないと天国に入れないと思ってしまうのです。そこで他人の評価によって自分の正しさを確かめようとします。より厳しい修行で自分を天国にふさわしくしようとします。その方が実は歩きやすく、安心な道に思えるのです。しかし、その道は救い主が開かれた門ではありません。救い主が開いてくださった門は、罪ある者を迎えてくれる門です。主イエスご自身が罪人を担い、迎え入れてくれる門です。ただ神さまの愛によってのみ成立する門です。多くの者がこの神さまの愛に任せきれないのです。だから自分を納得させる評価を与えてくれる大きな道を選んでしまいます。しかし神の愛に背を向けて選んだ大きな道は滅びに通じているのです。

2016年10月01日