9月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。西日本豪雨、台風、北海道の地震による被災者のために神さまの慰めと励ましをお祈りします。
人は小さい頃からいろんな失敗をします。同じ失敗でも人によって受け取り方が違います。「もうだめだ」と落ち込む人がいる半面、失敗を「次へのステップ」と理解して頑張る人もいます。同じ体験に対してなぜこんなに違った反応をするのか。それはその人が過去にどういう「枠組み」の中で失敗したかで違ってきます。つまり過去に失敗した時の周りの反応はどうだったか、です。例えば悪い点数のテスト用紙を持って帰って母親に見せた。そのとき深い失望のため息をつく母親がいます。あるいは「なんでこんな悪い点数なの!」と責める母親がいます。しかし、「よく見せてくれたわね。次、頑張ろうね」と励ます母親もいます。こう言われると、悪い点数を取ったことを「失敗」と思わず、「次、頑張ろう」という意欲が湧いてきます。同じ事実でも周りの人の反応で、その体験の意味が全く違ってきます。すべての体験は人間関係の中で起きています。その失敗にどういう意味があるのかは、その人の人間関係が決めています。その時、周りにどういう人がいたかが重要になります。
こういう趣旨のお話を聞いたことがあります。失敗を恐れる人と全然恐れない人がいます。失敗を恐れる人は、「体は今ここにあるのに心が過去にある人」です。「失敗は怖いもの」と思い知らされた体験が過去にあります。「心は過去にある」、このことに気付かないと苦しい思いを続けます。
どんな宗教であれ、信仰を持つことは失敗を赦されない戒律の中で生きることだと思い込んでいる人もいます。実際、宗教者ほど失敗を恐れる存在はないように思います。人を失望させたり、傷つけたりすることが恐ろしいからです。しかし、キリストの救いを信じるというのは、失敗という過去から解放されることです。キリストを信じても失敗はなくなりません。しかし「お終い」ではない。失敗を次への「ステップ」にしてしまうところに信仰があります。心が強いのではありません。失敗にうずくまる私を、失敗という過去からキリストが連れ出してくださり、またキリストと一緒に愛の成功に向かって出発する。それがキリスト者の信仰生活です。

2018年09月22日