9/30 オープンチャーチ礼拝説教

ルカによる福音書11章9~10節

皆さんはお祈りをされたことはあるでしょうか。キリスト教徒(クリスチャン)はお祈りをします。頻繁に祈るのがキリスト教徒(クリスチャン)です。そして、キリスト教徒(クリスチャン)のお祈りの特徴は、神さまへの感謝とお願いです。

以前、曹洞宗のお坊さんとお話しをした時に、仏教では祈願は下品なものと考えられていると教えてくれました。祈念と祈願というのは別のもので、祈願というのは自分の求めているものを与えてほしいということだから、今のあるがままを受け止め、欲を断つ悟りの姿とは真逆のものだと考えられているそうです。

実は、聖書の中に登場するユダヤ教徒の間でも、祈願は不信仰の姿だと考えられてきました。神さまは私たちと世界の全てを全知全能のお力と御心をもって支配しておられる。だから何でも感謝していただかなければいけない。嫌でも、苦しくても感謝しなさい。お願いをするのは神さまの約束や力を疑うことになるから、神さまに対して失礼で、罪につながる。そんな風に当時の聖書の先生から教えられていたのです。

イエス様も「あなたがたの父(神さま)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6章8節)と言われています。神さまは私たちの天の父として、子である私たちのことを愛して何でもご存じでおられる。そう教えられました。ところがイエス様はそれだけでなく、しかし「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章24節)と教えておられます。これはどういうことでしょうか。

神さまは何でもご存じだから、願う前から必要なものを与えてくださる。だから、願う必要はない。これは正しい理屈です。しかしお祈りというのは、それだけではない。それが「神さま」を「父」と呼ぶことに示されています。理屈だけでなく、愛によって結ばれているのが私たちと父である神さまなのだよ、と教えてくださいました。だから「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」、願い続けてよいのだよ。「願い続けなさい」、と教えておられるのです。

「ある時、私の幼い息子がやってきて、書斎の入り口に首を突っ込んできました。『パパ、一緒にいさせてくれたら、ずっと静かに座ってるよ』と言うのです。息子はそうやって父の心に訴え、承認を得ました。これは天の父に対して私たちがよく抱く気持ちではないのでしょうか。私たちがいつ御前に行っても、何度行っても、神の邪魔には決してならないのです。」(オーレ・ハレスビー)

子どもが近づいてきてお願いをしたとき、例えば上記のように「一緒にいたい」と願う時に、「お前には部屋を用意してある。お前には食事もおやつもおもちゃも絵本も既に与えてやった。それ以上を望むとは、なんて失礼な子だ。私と一緒にいたいと願うとは、なんて無礼な子だ」という親はおかしいでしょう。逆に自分の親はそういうとんでもないおかしな人に決まっている、と子どもに決めつけられたら親はどう思うでしょうか。

親が子どもために前もって必要なものを与えてくれているから、子どもは生きられるというのは理屈でしょう。しかし、それだけで子どもは喜んで生きていけるでしょうか。前もって必要なものを与えたからもう子どもと会う必要はない、と思う親はいないでしょう。必要なものは既に与えてあるから、別に喜ぼうが悲しもうが関係ない、あきらめろと言う親もいないでしょう。

まして、もっとも深く私たちを愛してくださる天の父である神さまは、どれほど大きく天の扉を開いて私たちを待っておられることでしょうか。お祈りは、「父」である神さまと一緒に過ごす時なのです。

2018年09月30日